鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

日本教育の閉塞感打開の秘訣~教育に二類型あり~

2015年12月25日 | 米国への無知を正す





日本の学校教育が何かおかしい。

自由、独創性などが育たず、服従、模倣の精神が優越した人間が造られている。

~そういう指摘は久しくなされてきているが、打開策が明確に見出されることなく、今日まで来ている。




<教育の二類型>

打開策を見出すには、まず、教育には二つの類型があることを自覚せねばならない。

そもそも、教育とは、人を「教え育てる」という言葉だ。

それは、人間を、現状から「目標とする人間像に変える行為」だ。

だから、その理想像、つまり、目標とする人間像を探るのが教育を考えるに必要なのだ。





<「命令=服従」の行動様式を育成>

目標像の一つは、「命令に正確に服従し秩序を守る人間」だ。

人間集団は社会を形成してその恩恵を受けて生きていく。

個々の構成員は、その社会の秩序を守り、社会を維持していかねばならない。

そこから、そのために貢献する人間を目標の人間像として教育していく、
・・・という教育観が出てくる。

+++

具体的には、学校ではどのようにするか。

まず、学界で定説とされている知識を、「正しい知識」として、教科書に整序する。

そして、それを真理として、反復習得させるという教育である。

+++

この典型は、軍人教育に見出せる。

軍人は、上層の命令に即座に服従する必要がある。

でないと、戦時に、軍隊が敏速に機能しない。

だから、軍人学校の教育では命令に反射的に反応する資質の形成が重視される。





<自由意志の中で理解納得して秩序を守る>


もう一つは、「自由意志を認められて、その中で、秩序も理解・納得して守る個々人」という人間像である。

これを目指す教育では、具体的には、教科書も自由吟味素材とし、数人の小グループで自由討論をさせる。

グループとしての結論は出さない。

個々人がそのなかで、当人の現レベルで納得できる知識、見解を抱くのを許す。

そして、それを「正しい知識」と認める・・・という方法だ。






<初代教会でまず現実像が現れる>


とはいえ、そんな方法が人間に実現できるとはなかなか思えない。

人間が自由意志を認められ、自由に行動を決めていったら、集団社会はボロボロになるのではないか。

そうとしかイメージできない。

+++

だが、この方法でも、社会は一体性を維持できる。

そのことは、理屈よりも先に、歴史事実がまず示してくれた。

+++

歴史上始めたのキリスト教会を、「初代教会」という。

ここで自由吟味方式が、事実として先に実現されてしまった。





<初代教会の小グループ方式>

その実体をかいつまんで説明しよう。


キリスト教会はイエスの直接の弟子たちのもとに、多くの人々が集まることによって始まった。

イエスがいなくなった後、その約束通り弟子たちに、病の癒やしをはじめ様々な奇跡が現れた。

驚き集ってきた人々に、弟子たちはその理由を聖書(当時は旧約聖書)を解き明かす形で示した。




キリスト教の聖書は、新約聖書と旧約聖書で構成されているが、この時代、聖書は旧約聖書しかない。

イエスは、生前、旧約聖書は「わたし(イエス)のことを述べた書物」と教えた。

弟子たちは、集まってきた人々に、旧約聖書をイエスを比喩で述べたものとし、
その比喩を解き明かすことで奇跡を説明した。

これに感銘を受けた人々は、弟子たちの群れに加えてくれと願った。
この日だけで、新参加者は2000人を数えたと、記録されている。

+++

こんな多くの人々を、限られた弟子たちが、ひとまとめにして対処することは出来ない。


弟子たちは、参集した人々を数人からなる小サークル(これをスモールグループという)にわけた。

リーダーを選ばせ、その一人の家で聖書の自由吟味会を続けさせた。
(後年これが「家の教会(House Church)」と呼ばれるようになる)

教会全体の一体性は、リーダー間の任意連携によって実現された。

こうして始まった史上最初の教会が初代教会であった。





<聖句自由吟味方式>

初代教会では、活動は聖句j自由吟味方式で行われた。

後年後継者たちは、それを英語ではBiblicism(バイブリシズム)と呼ぶようになっていく。

鹿嶋はそれを聖句主義と邦訳している。


バイブリシズムの「イズム」というのは、「~を上位に置く」という意味の接尾語である。

バイブリック(Biblic)というのは、「聖句的」「聖句に最高の権威をおいて」という意味である。

聖句に最終権威をおき、いかなる解釈よりもそれを「上位に置く」からバイブリシズムなのである。

だからそれは、結果的に、個々人の聖句吟味を自由にする、という方式になった。

個々人が、数人の小グループにそれを持ち寄って、自由に吟味会を行うのである。





<解釈自由の原則>

初代教会では「個人の聖句解釈自由」の原則で活動した。

一つの解釈に最終権威を与えることをしなければ、必然的にそういうことになる。

+++

だが、解釈自由にしても、教会員たちが各々が全く勝手放題に聖句解釈し

教会がバラバラになるようなことは実際には起きなかった。

彼らは数人の聖句吟味グループをつくって活動する。

「聖句には各々究極の真理がある」という期待を共有して吟味をおこなう。

すると、思いっきり深く広く聖句を吟味することができるし、実際には合意・共有できる基本原理も見えてくるのだ。

そしてそれを積み重ねていくことによって、聖書の世界観の大枠は合意されていく。

もちろん細部での違いは出る。

彼等はその違いを尊重してグループとしての結論を出さなかった。

そしてその吟味を次の課題として残す、という方法をとった。

+++


吟味・解読していくと「これは真理だ!」と皆で深く確信する解読にも至ることがある。

それは彼らの心に、深い感動を沸き上がらせた。

+++

神髄に触れるような解読が出来ると、ちから(しるしという)が現れることも多かった。

まあ、このあたりについては「まゆにつばする」読者もいるだろうが、その人は気楽に眉唾してたらいい。

とにかく、そういう体験を初代教会方式の活動をしている人々は、周期的にした。

この感動とよろこびが初代教会方式の活動者(つまり聖句自由吟味方式で活動する人々)の心深くに浸透した。

この方式の小グループ(家の教会)は、教会発足後わずか30年で、全ローマ帝国に散在するようになった。


    

<北欧、英国を変え、そして米国を産んだ>

そして、聖句自由吟味を許さないで、一つの解釈(教理)を正統とし、
これを信徒に守らせる方式をとる教団、カトリック教団がローマ帝国の国教になった。

彼等は、自由吟味主義者を異端(いたん)として、とらえ、処刑をした。
中世1200年の間に、推計5000万人が殺された。

だが自由吟味者の、ある群れは、北欧地域に逃れ、活動を続行した。

北欧諸国の小学校教育が、小グループの自由討論方式で行われているのは、
聖句自由吟味の歴史遺産が継承されているからである。

+++

別の群れは、英国国教会が成立したとき、英国に逃れ、英国に自由吟味活動の影響を多大に与えた。

その後、彼等は、北米新大陸に移住し、アメリカ合衆国を聖句自由吟味方式ベースの国家として建国した。

米国では自由吟味主義者の行動様式が、教育や国会での議論の仕方や、人々の人間関係のあり方、
その他の文化を根底から規定している。





<閉塞状態が打破されるとき>

福沢諭吉は米国を旅して、これらの方式を速やかに吸収し、帰国後、その学習方法を彼の福沢塾に活かした。
慶應義塾の勉学に自由討論方式の色彩が、日本の学校のなかでは比較的濃いのは、それによる。

それが何となく世間に一定の影響をして、日本の大学教育には、自由吟味の要素がほのかにあるが、

原理を明確に自覚することのない、ムードとしてのまねごとである。

だから小中高校の教育者は依然として軍隊式教育法しかしらないのが現状だ。

これしか知らないのが、日本学校教育の閉塞感の真因である。

この状態は彼等が、聖句自由吟味方式そのものを知るとき、初めて打開されるだろう。





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米国への無知を正す45~日本的問題をのぞく窓は「神イメージ」~

2015年11月29日 | 米国への無知を正す






前回、日本の新聞社は大きくなって、若い社員を海外遊学に出せる経済的余裕が出来ても、出さなかった、と述べた。

先輩(上司)たちは「俺たちはやってもらわなかったのに」といった不公平の故に、出さなかった、といった。

+++

だが、先輩たちに、「世界の中での新聞社の役割を鳥瞰」する目があれば、不公平感に優越する明日のビジョンが心中に生じただろう。

後輩を海外に出そうというビジョンが。

問題は、そういう大局的な鳥瞰の目が、日本のマスコミ人に出来なかったことにある。


<見えない影響者>

そういう萎縮した心理状態をもたらす、最大の要因は、人間の意識にある神イメージである。

神とは、人間の立場から定義すれば、「見えない影響者」だ。

人は神が、意識を持っていると想像する。

見えない意識体を霊というから、神とは「霊的な影響者」ということができる。

+++

人間は、持って生まれて、そういう影響者に関する意識をもっている。

産まれて成長する中で、それを「物質の中に存在」するもの、とイメージしてきている。

筆者はそれを在物神(物質の中に存在するとイメージされる霊的存在)と呼ぶことにしている。

(いつものような神意識イメージ図を、ここでも掲げておこう)










<在物神意識は心の基底にある>

人は、物質を認識するとき、それに先行して存在するものとのニュアンスで在物神を意識している。

まさか、と思う人も多いだろうが、たとえば、暗い夜道を歩いていると、向こうから一人の幼女が歩いてきたとする。

近づいたとき、無表情な目で自分を見たとする。

ぞっとするだろう。

顔に髪の毛がぱらりとかかっていたりしたら、もう恐怖で頭が真っ白になる!

+++

もちろん、幼女には物理的に危害を加える力はない。

ぞっとするのは、幼女の身体以外の影響者、つまり、霊を意識するからだ。
幼女の背景に存在する霊的存在を意識するからだ。

ことほど左様に、人は、物質の背景に常時在物神を意識している。
それを、幼女に先行して存在している神とのニュアンスで、漠然ながら意識している。

(それを図示したのが、神イメージ鳥瞰図の右側部分だ)

+++

そして、それは感覚的には同居と言うより、物質の「ベースにある」と意識される傾向にある。

見えないものであるが故に、見えるものの基盤に、感覚的に意識されるのだ。









<創造神イメージの供給>

人間は自然なままなら、上記のような状態でいる。

だが、そこに、別の神イメージを導入する書物がある。

説明を今ここでは述べないが、聖書がそれだ。

この教典書物は、万物を創造した神、つまり、創造神のイメージを供給する。

そして、「実はまことの神は、在物神でなくこちらなのだよ」という。





<最初は実感が伴わない神>

ここで留意していくことがある。

在物神は、モノの中に、ベースとして実感されている神だ。

つまり、最初から、人間の実感が伴っている。

+++

その点、創造神は対照的だ。

このイメージには実感は、最初は伴っていない。

それは、外から「ことば」として供給される理念だからだ。

+++

だが、永遠に実感が伴わない神とは限らない。

この概念を、肯定的に認識する(「信じる」とはそういう認識方法)と、心に定着する。

すると、時とともに(事後的に)、実感がわき上がってくる。

けれども一定の吟味・探求をする前に実感が伴うことはない。

創造神は、そういう神イメージだ。







<論理能力をつくる>

創造神イメージは、このようにイメージを論理的に構築させていく。

この精神作業は人間に「知」を育成する。







<理念力も造る>

これを別の言い方で言うと、思いに筋道が入るということになる。

思いに筋道〔論理)が入ると、理念になる。

これを吟味検討すると、人の内には理念力が育っていく。

聖書文化圏〔主に西洋)の人間は理念で自らを動かし、社会を動かしてきた、といわれることがある。

それには、この理念力が大きくあずかっている。


<長期にして広大な意識空間を造る>


時間的にも空間的にも無限者といったごとき神イメージは、広大の極でもある。
このイメージは、人の意識世界をも拡大する。

人の内に大局観の目、鳥瞰の目を育成していくのだ。

もし、新聞社の先輩たちの心にこれがあったら、「俺たちは海外にやってもらわなかったのに」といった不公平感を凌駕する明日のビジョンも開けただろう。

「不平観はあるが、やはり、日本の明日のために、後輩たちを若い内に海外に出そう」という気持ちも生まれただろう。


   



<モデルとしている西欧社会の精神構造>

実は、日本が明治維新以来、国家作り、社会造りのモデルとしてきている西欧社会は、創造神イメージによって精神の構造変化を遂げたに人間が造り上げ、維持してきている社会なのだ。

その外枠だけを模倣吸収し、人間の精神構造がそれに適応していないのが、維新以来の日本社会である。

夏目漱石も指摘したその構造は、戦後の今も、全くといっていいほど、変わっていない。

+++

それが日本に奇異なる現象を生み続けている。

その種の現象に目が開けた日本人もいる。
米国在住のkozue yamamotoさんなどはその人で、フェースブックで、厳しく批判し続けておられる。

母国日本への愛情が深意が故に、指摘を止められない、といった観がある。

歯に衣着せぬ批判の厳しさは、打開策が見出せないが故の、いらだちにもよるだろう。

+++

だが、現代日本の、不可解な社会問題、人間問題の多くは、神イメージの窓から覗くと、よく見えてくる。

すると、その打開策も、浮上してくる。

日本人は、自らの神イメージについてじっくり考えてみる必要がある。

「ワァッ、宗教だ!」なんて、いつまでも恐れ縮こまっていてはいけない。

吟味を重ねていけば、必ずや目は開けてくるのだから。








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米国への無知を正す44 ~日本マスコミ人の惨状~

2015年11月04日 | 米国への無知を正す






前回、マルクス理論の「暗」の部分を、人々(特に日本人)は未だに認知していなくて、「マルクス=真理」気分が日本では大勢を占めている、ことを述べた。

マルクス思想の不気味な部分は、本来、新聞などのマスメディアは理論的に知らせるべきである。
だが、日本では、マスコミ人にその能力が伴っていない。

信じがたいことに聞こえようが、ここで、その事実を述べておく。

+++

筆者はその事情を前にも書いている。

~【日本のマスコミと政治的無能について】
2012年07月09日 | 「幸せ社会の編成原理」~

で述べている。
だが、これは見逃してはならないことなので、要約してここに再録する。




<新聞社生い立ちの貧しさ>

マスメディアの走りは新聞だ。
日本ではそれは明治維新以降に生成した。

維新後、日本政治の最大課題は「国の西欧化」だった。
そのためには為政者はとにかく「洋行して現場を見なければ」ければならなかった。
現場を見ないことには、具体的政策は浮かばないからだ。

そこで乏しい国費から指導者とその候補を海外に出した。
岩倉具視を団長とする西欧視察団に始まって、人材をふんだんに遊学させた。 
 
「坂の上の雲」の主人公、秋山兄弟も、ともに海外遊学に出してもらっている。

国民は、そのための重税に耐えた。
             
だが、新聞社を始めた人々には洋行するお金はなかった。






 <扇情的記事を中心にするしかなかった> 

西欧を中心とした国際社会の実情を肌で感じられるようになるには、最低限、2年くらい海外でゴロゴロする必要がある。
ところが新聞社は貧しくて、記者はもちろん、社主にもそれをさせられなかった。

西洋の現場情報がない彼らは、政府の政策に関して具体的な評論などなにもできない。

だから政治家の汚職とか女性スキャンダルの暴露記事などを中心とした紙面しか作れなかった。

そして『魔風恋風』といった類の、扇情的な連載新聞小説で読者の興味を引くしか出来なかった。

このように、もう出発点から、日本のマスコミは「低級」を宿命づけられていたのだ。

<俺たちが遊学させてもらってないのに>

だったら、新聞社も大きくなったら若い者を海外遊学させたらいいではないか、と常識的には考えられるが、そうならないのが「日本人」だった。

先輩(上司)たちには「俺たちはやってもらわなかったのに」といった不公平が強く、結局、特派員以外は出さなかった。

それが風習化・制度化して、戦後登場したTVメディアの世界にも及んでいる。
新聞社に始まった旧態がなんと、今日のマスコミ界全般にまで及んでいるのだ。

+++

その状況で歳を取るのだから、マスメディアの論説委員もインテリジェンスは低い。
論説委員なんていうと、聞こえがいいけれど、会って話してみると、信じられないほど凡庸だ。
NHKも**通信といった通信社も事態は同じだ。




<限られた観察経験だが>

筆者の限られた体験だが、そうした中で「これではいけない」と気づき、定年近くになって、早期退職して、遅ればせに米国暮らしなどをする人も、少数ながらいた。

彼らは、前職のイメージを活かして、どこか日本の大学の専任教員になりたいと望んでいた。
それで日本の大学教員とつながりをつけようと、米国の大学キャンパスをごろごろしてもいた。 

それで、うまくいった人もいた。
日本の大学は、依然として、大新聞とか通信社とかNHKとかの肩書きイメージに弱かった。






<一般企業の海外駐在員の方が優れていた>
                                 
他方、当時メーカーなど一般企業は、1980年代くらいになると、湯水のように海外勤務に社員を送り出していた。
その彼らの方が、大新聞やNHKの幹部記者より国際社会への見識をはるか豊かに持っていた。
その現象は、おそらく、今も続いていだろう。





<NHK政治情報の低級さ事例>

ことほど左様に、日本のマスコミ人は低級だ。

日本の大手マスメディアの低級さを例示している記事(2010年7月30日)を紹介する。
このチャーチに時々寄稿下さっているSabiaさんのブログから、記事の主要部分をコピペさせてもらう。




+++

(以下、引用)

昨夜、NHK9時のニュース番組を見ていると、民主党の勢力争いを「わかりやすく」解説していた。
要は総理を中心に、実力者の誰と誰を取り込んで、誰と敵対している云々という話だ。

したり顔の解説者と納得顔のアナウンサーを見ていて、どうも報道のありかたを勘違いしているように思われてならなかった。
なぜ、政治家としての理念や掲げている政策の違いなどに言及しないのか?

党内の勢力分布図というと、いかにも分析しているみたいだけど、実際は民放で昼間にやっているワイドショーと同レベルだ。

国民が政治家に願っているのは、誰が権力の座についてもいいから、経済を立て直し、外交ではメンツを保ち、社会を安定させてくれることのはずだ。

その過程で誰と手を組もうが、反目しようが二の次三の次の問題だ。

政治に関心があるというのは、政党内外の人間関係に興味があるということではないはずだと思う。

まして、野党ならまだしも民主党は与党なのだから、国のために何をしてくれるかだけが問題になるのでなければ、チャンチャラおかしい。

わざわざ天下のNHKが、ゴールデンタイムに、丁寧に解説することでもないだろうと、不審に思ってた次第でした。

(引用、以上)

+++





戦後、日本統治のため厚木空港に降り立ったマッカーサー、GHQ司令長官が日本で放った第一声は~

 「日本人は政治的には13才」

~だった。

戦後、テレビも加わったマスメディアは、この状況を変えるべき強大な情報散布力を持っている。

だが、その物理的機能は、上記のごとき知的無能に故に、有効に働いていない。

マルクス理論の正しい知識も、それ故に、人々に伝えられない状態に留まっているのだ。








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米国への無知を正す43 ~「マルクス=真理」気分の残存~

2015年10月17日 | 米国への無知を正す





前回、レーガン=ゴルバチョフという奇跡のコンビが、社会主義圏を早春の雪が解けるかのように、溶解させてしまった様を述べた。

今回は、その後のマルクス理論への、人々の気分について述べる。

「マルクス思想を正確に知る必要」の議論は、今回でおしまいである。





<知られざる「雪解け変革」の故に>


前回、前々回に話したような事柄は、特定の人々にしか知り得ないものである。

ジャーナリストにも、一般の経済学者すらにも、この情報は得られない。

その状態で、ソ連に率いられていた社会主義圏は、崩れていった。

その崩壊は自然現象のごとくであった。

+++


普通、社会体制の変革は、暴力革命となる。

資本主義体制から共産主義・社会主義体制への変革も、労働者を率いた指導者によって、暴力的に成し遂げられた。

それからすると、共産主義体制から資本主義体制への変革も、暴力の伴うものだと予想される。

だが、それは、雪が解けて川の水になって流れるかのように、変化した。

人々の受ける衝撃は少なかった。

しかもその変革の実情は、前述のように、特殊の人々にしか知り得なかった。

これらが重なって、人々は、マルクス理論の「暗」の部分に目覚めることのないままで、新時代を迎えることになった。

かくして、「マルクス理論は絶対正しい」との印象を抱いたままで、多くの人々は今日まで来ることになった。




<「アメ帝!」の時代>

戦後日本ではマルクス理論全盛期は、昭和40年代前半まで続いた。

筆者は、その昭和30年代後半に、経済学徒だった。
(いわゆる近代経済学ベースのゼミに属していた)

当時、法政大の今井ゼミなどは、マルクスゼミを代表する一つだった。

+++

ゼミ生は、こう確信していた。

~資本主義は必ず帝国主義に発展して、後進諸国を植民地化しようとしていく。

先進資本主義国は、植民地奪取争いを必然的にする。

だから、人類は常に世界戦争の危機に置かれる。

この動向の戦後のチャンピオンは、資本主義国の親玉、アメリカである。

+++

こういう認識から、「アメリカ帝国主義」という用語も造られた。

略して「アメ帝」と隠語化した。




<「国独資!」もあるよ>

その種の専門用語には「国独資」というのもあった。

曰く・・・。

~独占資本家は、労働者による革命を恐れて、国家権力を抱き込む。

こうして資本制社会の寿命を延ばそうとあがく。

+++

彼等は、資本主義のこの段階を「国家独占資本主義」と命名していた。

略して国独資である。

当時、全国ゼミナール大会などで、「アメ帝!」、「国独資!」なる用語が、一般語のごとくに飛び交った。

年配の諸氏には、懐かしい思い出かもしれないが。





<米国認識の目を覆う>


こうした風潮が、昭和30~40年代の社会気分を形成した。

社会主義圏崩壊がなし崩し的であったがために、その気分が残されたままで、現在まで来ている。

だから、いまだに、多くの人々が「アメリカ=悪の根源」的な気分から抜け切れていない。

それが若年層をも「教育」してしまう。

+++

「根源」となれば、やること全てが、悪意によるものと解釈される。

これが、米国に関する正しい認識の、茫漠とした目隠しになっているのである。

+++

〔アメリカが全ていいとは言わない)

(だけど、この認知状況は、やばいヨ・・・)








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米国への無知を正す42 ~レーガン=ゴルバチョフ、世紀の大芝居~

2015年10月12日 | 米国への無知を正す





前回、ハイエクの洞察が、まず、モンペルラン協会の発足・拡大と、マッカーシー旋風を引き起こしたことを述べた。

今回は、その後の出来事を記す。





モンペルラン協会は発展を続けた。

特に、その、国際会議は大規模化した。

大会には正規会員の何倍という人数が、彼等の推薦を受けて世界中から参加するようになった。

+++

筆者は1980年の大会に参加した。

(ある有力会員の推薦による出席だった。ハイエク、フリードマンの経済学とその行動を学ぶにつけ、筆者はこの方から多くの学恩を受けている)

米国・カリフォルニアで行われたこの大会には、1000人を超える人が参加していたと思う。

一般討論の会場には、前年に英国首相となったサッチャーの片腕のような人も出席していた。

+++

そういう風だから、それまでの大会には、ロナルド・レーガンやサッチャーも招待参加していたであろう。
彼等はすでに、ハイエクの洞察に共鳴し、世界を全体主義の悲劇から守ることに使命感を抱いていた。

1980年のモンペルラン国際会議には、レーガンを大統領にして、世界の社会主義化に歯止めをかけようという熱気も満ちていた。

フリードマンは『選択の自由(Free to Choose)』を出版して、援護射撃をしていた。

そしてレーガンはその年、1980年、この大会の後に、ジミー・カーターに地滑り的圧勝をし、翌年大統領に就任した。






<ゴルバチョフ>

他方このとき、ソ連にも変化が起きていた。

革命後60年がたったソ連では、ハイエクの予測どおり、全体主義の恐怖統制による生産停滞が、末期的状態にきていた。

ソ連も、革命後しばらくは、労働英雄(カトリックの聖人のパクリ)を造ったりして、労働者を鼓舞できていた。
たが、そういう子供だましは、長続きするものではない。

1970年代末期、ソ連の労働者の労働意欲は減退し、生活の喜びもなくなり、ウオッカがやたら売れる状況になっていた。

こうしたソ連に、ゴルバチョフという合理的精神に充ちた政治幹部への期待が高まっていた。

彼は教条主義とはかけ離れた、合理的思考の持ち主だった。

当時、ソ連に起きている生産機能不全を、西欧マスメディアが彼に指摘したことがある。
そのときなど彼は、「ソ連には経済発展段階の遅れがあって、社会主義方式をとったのもやむを得なかったのだ」といった旨の、応答をしていた。

こういう人物である。
教条主義者なら、「それは資本主義的害悪からでた毒のある指摘だ」とでもいうところだ。

ゴルバチョフの応答は、まるで近代経済学者のそれだった。


+++

けれども生産機能が末期的に低下してしまったソ連では、ゴルバチョフの明晰さへの期待は高まる一方だった。

1985年、ついに彼はソ連共産党書記長に選ばれるに至った。




<レーガンの洞察と行動>

そのゴルバチョフと、レーガンは、単なる外交的交流を超えた、親交を結んでいった。
レーガンの西部開拓者的おおらかさと、包容力ある人格、愛嬌に充ちた人柄が奇跡的にそれを可能にした。


+++

二人の間に具体的に、どんな会話が交わされたかは、知りようがない。
だが、レーガンとの親交に併行して、ゴルバチョフはソ連を漸進的に変えはじめた。

彼はペレストロイカ〔改革)とグラスノスチ(情報公開)というキャッチワードをかかげ、事を進めていった。

どちらもマルクス思想の教条主義からしたら、とんでもないかけ声である。

マルクスの社会思想では、問題はその本質を一層推し進めて解消すべきもの、となる。
「改革」など本筋を離れたとんでもない思想なのだ。

「情報公開」はもっともっと、社会主義方式に反するものだ。

全員を統制経済の中で働かせるには、情報を伏せて、共産党一党独裁でいくしかない。
情報公開などしたら、自由の気風が台頭し、様々な党派活動を容認せざるを得なくなる。
秘密主義は、共産主義体制の必須政策なのだ。

だが、ゴルバチョフのこのかけ声は、まるで当たり前であるかのようにソ連議会を通過していった。

それほどまでに、人民を国家権力で統制して行う生産方式は、悲惨な状況にあり、
このなかにあって、ゴルバチョフのあの明晰な知的資質は、ソ連の人々にとって、残された唯一の希望の灯火だったのだ。

彼が政策提案すると、市場システムも導入されていった。
それはマルクス方式を崩していって、ソ連はなし崩しに社会主義国家でなくなっていった。

+++

すると、従来ソ連に統制されて社会主義方式を維持していた周辺社会主義国家でも、共産党独裁体制は崩れていった。

この変化は、あまりになし崩し的で自然現象のごとくだったが故に、我々はその変革の巨大さを自覚できないできている。

世界はまるで夢を見ているような心理状況だったのだ。




<戦後人類は世界戦争勃発の危機の中で暮らしてきた>

だが、考えてみよう。
ゴルバチョフ以前のソ連は、マルクス思想を抱いて、全世界の共産化に使命感を抱き、資本主義圏に敵対してきた。

強大な核兵器を持って、市場経済諸国とにらみ合いを続けてきた。

その間、人類は「いつ終末的核戦争が起きるかわからない」という恐怖の中で暮らしてきたのだ。

レーガンは、ゴルバチョフの天才を洞察し、彼の変革を後押しし、この恐怖を解消したのだ。





<ベルリンの壁崩壊>

1989年11月10日、東西ベルリン市民は、ベルリンの壁をツルハシで壊し始めた。

この時点での米国大統領は、大ブッシュ(任期1989年1月20日~1993年1月20日。レーガンの副大統領任期は1981年1月20日~1989年1月20日。後のジョージ・ブッシュ大統領の父)だった。

けれどもこれは、すべてレーガン=ゴルバチョフの引いた路線上での出来事であった。

+++

この二人が米ソ両国で、同じ時期に指導者となったのは、不思議にさえ思える。

とりわけ、ゴルバチョフを後押ししたレーガンの仕事が大きかったことを、我々は知るべきである。




<レーガノミックス、新自由主義は大芝居の一環だった>

~余談である。

(「アメリカンドリーム」のスローガンを掲げ、急進的な規制緩和を進め、一時的に資本主義経済を過熱させた「レーガノミックス」も、実は、市場経済の効率をソ連に認めさせ、社会主義経済をやめさせるを主目的とする手段だったのだ)

(時の総理大臣、中曽根もそれを日本から「リゾート開発ブーム」で支援した。1980年代の過剰バブル景気は、人類滅亡の危機を解消するを主目的とする大芝居の一環だったのだ。 中曽根はそのことは語ることなく、墓場まで持って行くだろうが・・・)

+++

(ついでに言うと、いわゆる新自由主義経済政策というのは、実はこういう特殊な目的のための政策であった。 それを普遍の原理と誤解して、そもまま今も推し進めようとしているのが、日本の政権者である。民主党政権時代にもそれはあったが、今、自民党政権でそれがひどくなっている)

(自由市場制度には、短所もある。 
市場経済を推奨した「経済学の父」アダムスミスですら、すでにそれを指摘している)

(たとえば取引上の立場の弱い弱者に正当な労働価格を支払わせなくする、という性格を市場制度は持っている。)

(これらの短所を補修しつつやらないと自由市場経済は機能しなくなる)

(「市場原理主義」などというのは、マルクス教条主義と同様に、思考の浅薄な経済学者が主張する、妄想なのだ)

(安倍政権は特に、一日も早くそれを知らねばならない。でないと、知らず知らずのうちに弱者を苦しめていくことになる)





話を戻す~

こうした大芝居を打てる大統領を生み、人類滅亡の危機を取り除くようなことが出来る国は、米国をおいて外になかった。

こんなこと、他のどの西欧諸国にも出来はしない。
もちろん、日本など遠く及ばない能力だ。

われわれは、もっと米国を深く認識すべきなのだ。






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米国への無知を正す41 ~ハイエク「暗」の部分を明るみに出す~

2015年10月03日 | 米国への無知を正す





前回、マルクス理論の「明」の部分の扇情力が、わずか半世紀余の間に世界を二分したことを示した。

この動向が続いたら、世界全体が全体主義の暗黒時代に突入することもあり得た。




<『隷従への道』>

だが、そのなかで一人の学者がマルクス理論の「暗」の部分を明るみに出した。

経済学者ハイエクがその人で、彼はそれを著書 『隷従への道』("the Road to Serfdom”) の中で、論理的に順を追って明かしていった。

+++

この本は1944年に米国で出版された。

1944年といえば、太平洋戦争終結のわずか1年前である。

マルクス理論はすでに19世紀に世に出ている。

あまりに遅きに失した観があるが、それほどにマルクス思想の「明」の部分の扇情力が強かったということだろう。

がともかく、遅ればせながらこのハイエクの本が出た。




<モンペルランソサエティー>

ハイエクは高度に論理的な思考の人であって、その内容を理解できたのは、世界においても一部の人であった。

だが、その一部の人たちは学者や、知識があり行動的な資産家だった。

1947年、彼らはスイスの小さな保養地、モンペルランで「ハイエクセミナー」を開いた。

39人の参集者はモンペルランソサエティーという学会を形成し、ハイエクの洞察を広める決意をした。

彼等は世界のあちこちで研究会(カンファレンス)を毎年開くことで合意した。
また、個人的には日常にも様々な啓蒙活動を試みた。




<みんなが「社会主義的」に>


ハイエクは著書の中で、「いまや全ての人の社会思想は程度の差こそあれ社会主義的になっている」と嘆いた。

戦後米国の大学でもそうであって、東海岸のアイビーリーグと称された銘柄大学の教師はみなそうなっていた。

中西部のシカゴ大学だけが例外で、ハイエクは、戦時中ナチスの迫害を逃れて、この大学に身を置いていた。

+++

ハイエクの影響の中で、国家の危機を強く感じた上院議員もでた。

マッカーシー〔1946年当選)である。

この議員の予備調査では、公的機関の要職に就いている人々の多くが、すでに密かに社会主義的な思想を持って働くに至っていた。





<マッカーシー旋風>

彼は、1950年2月に「国務省には205人のスパイがいる」と宣言し、レッド・パージ(共産主義者追放)運動を開始した。

日本では赤狩り、とも呼ばれたこの運動は強烈だった。

それは全国的に展開され、マッカーシー旋風とも呼ばれた。

赤狩りはGHQという日本の支局にも及び、そこでも徹底した調査と追放がなされた。

米国ではそれは大学教員にも及んだ。

当時ハーバード大学にいた日本人経済学者・都留重人氏が、逮捕逃れのために仲間を売った、と噂されたのもこの頃である。





<今もワルモノイメージが強いが>

マッカーシーの運動で、米国の公職から、社会主義思想に染まった人物はほぼ一掃された。

だが、その運動の徹底ぶりが米国人に衝撃を与えたこともあって、彼には今もワルモノのイメージが強い。

+++

もちろん、評価の声もある。

たとえば後年、筆者が身を置いた米国のとあるシンクタンクでの、中心的研究者たちはそうであった。
彼等が「マッカーシーの働きがなかったら、米国はどうなっていたかわからない」と語っていたのを、筆者は憶えている。

+++

その一方で、筆者の友人だった別の研究者は「マッカーシーは凶暴・残忍な人物」と吐き捨てていた。

彼は、身の回りの公務員が過酷に調べ上げられたただ中にいた。
その時の心の傷が1980年代になっても残っていたのだ。

そしてこの心情の方が米国では一般的であった。
いまもそうだろう。

それほどに、赤狩りは全国的で、かつ、熾烈を極めたのだ。

+++

ともあれ、ハイエクの鋭い洞察は、まずは二つの動きを米国に引き起こした。

モンペルラン協会の発足・拡大と、マッカーシー旋風がそれであった。









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米国への無知を正す40 ~マルクス「明」の部分の強烈な扇情力~

2015年10月02日 | 米国への無知を正す





前回、マルクス理論には「明」と「暗」との二つの面があることを示した。

今回はその続きである。

+++

人類はマルクス理論の「暗」の部分がほとんど認識できなかった。

「明」の部分が、たぐいまれなる扇情力をもっていたからである。





<不平等への怒りと富める者への憎悪>

扇情力を構成するのは、第一に、この理論が人の心に生成さす不平等への怒りである。

それに、不平等で得をしている資本家への憎悪が加わる。

さらにそれは人の心に正義感をも燃え立たせる。




<理想社会を切望させる>

マルクス理論が示す、理想社会への道筋もまたわかりやすかった。

~市場制社会では、時と共に、生産活動の桎梏(手かせ足かせ)ができていく。

これが呪いとなって、生産機械も原料もあるのに、生産が出来ず人々は貧困に陥っていく。

だがその究極の原因である私有財産制をなくすれば、、生産活動はフル回転し、この世に生産物は増大の一途となる。

マルクスはその世界を~

「能力に応じて働き、必要に応じて取る」のが当たり前の社会、~と表現した。

実はこのフレーズは聖書のなかにある聖句(新約聖書『使徒行伝』のなかの聖句)なのだが、マルクスがそれをパクッたかどうかは実証されていない。

が、とにかくその社会では、もはや人々は生産物を巡って争うことはない。
社会の全員が愛でもって結びあえる。

マルクスのこの理屈は、一般大衆にも非常にわかりやすかった。
人々は理想社会の夢に、ほとんど酔った。

人類史において、これほどの扇情力を持った思想はあまりないのではなかろうか。





<知識人が革命を起こす>

知識人も同意した。
ロシア帝国のレーニンは、マルクス理論をさらに展開させ「帝国主義論」を著した。

彼は指導者となって、ロシアに初の社会主義国を実現させた。

指導者たちは~、
「この社会は人類の理想であって、全世界に広げ人々を救わねばならぬ」

~という使命感に燃えた。

「インターナショナル」という世界革命運動組織をつくり、まず、周辺国をなし崩しに社会主義化した。

そして、ソ連〔ソビエト連邦社会主義共和国)をつくった。




<中国では毛沢東が>

第二次大戦後、中国でも毛沢東が社会主義革命を成功させ、社会主義の中華人民共和国ができた。

従来、中国の統治権を手にしていた蒋介石は、共産主義思想の不気味な「暗」の部分を直感した。
そして、毛沢東の率いる共産党員をとらえ処刑した。

だが、当時の中国民衆を一体化させる力においては、マルクス思想が圧倒的に勝っていた。

時と共に共産党勢力が優勢になり、ついに、毛沢東が勝ち、蒋介石は台湾に逃れて独立政府をつくった。

<キューバ、北朝鮮、北ベトナムも社会主義に>

キューバもこの思想で革命を起こし、功労者チェ・ゲバラと共に、カストロが国家運営を始めた。

朝鮮も、北半分が共産主義国になった。

ベトナムでも、北は社会主義国になった。

これらの国もまた、南の共産主義化を自らの使命と信じた。





<世界を二つに割った>

こうして、世界の半分弱が社会主義国になった。

結果的には、マルクス思想が世界を二つに割ったのだ。

その扇情力の強さと広範さは恐るべきものであった。











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米国への無知を正す39 ~マルクス理論の「明」と「暗」を正確に知る~

2015年10月01日 | 米国への無知を正す





米国を知るためだけでなく、日本を知るにも、世界を知るにも、現代人はマルクス理論を正確に知ることが必須である。

だが実体はその逆になっている。

ほとんど全員がマルクスの理論と思想の正確な知識なしであれこれ論じているのだ。


+++

マルクス理論は、明の面と暗の面とを持っている。





<マルクスの経済理論>

まず、明の側面だ。

それは資本主義経済の性格を明確に示したことだ。

彼はその理論を、資本主義社会の「分析」から開始した。

+++

資本主義社会は、人民を自由にしておき、市場メカニズムの調整作用でもって生産活動を維持しようというシステムの社会だ。

マルクスは、このシステムは必ず行き詰まる,と考えた。

彼の論理は次のようになっていた。

~資本家は、生産手段を私有している。
彼らは労働者にしかるべき賃金を支払わない。
つまり搾取をしている。

資本家はその搾取分を独り占めし、その一部を自分たちの贅沢な生活に使い、残った分を、生産機械に再投資する。

すると、器械が増えて生産効率が上がり、その分労働者がいらなくなる。
削減された労働者は失業者となる。
すると、それだけ国家の総所得が減少し、商品需要も減る。

そうなればその分、生産も出来なくなり、また、雇用が減少し、需要が減る。

以下、同様のプロセスが進み、資本主義方式では、国家の経済はこういう縮小循環をしていく。

生産手段〔機会や原料)をたくさん持ちながら、それを発揮できない状態になっていく。

いわゆる「豊富の中の貧困」に陥っていく。





<根本原因は私有財産制度にありとする>

マルクスは、この動きは必然的であるとし、その真因を私有財産制度だと認識した。

資本家は、工場、機械を我が物にしているから、搾取が出来る。

そこで私有財産制をなくし、生産手段を公有化すれば、経済の桎梏(しっこく)はとりのぞかれ
生産力は全開する。

そうすれば人類は、豊かな理想郷に至ることが出来るだろう。

そのために労働者・民衆が革命によって生産手段を公有化すべきである。
そうすれば理想社会はオートマチックに実現される。

~これがマルクスの社会思想であり、歴史観だった。

マルクスは、「社会主義社会」という理想世界の夢を人類に供給した。

これが「明」の側面だ。




<「暗」の側面~革命後経済運営論の欠陥~>



マルクス理論の暗の側面に話を移す。

さすがのマルクスにも盲点があった。
それは革命後の組織運営面でのものだった。

+++

彼は、私有生産手段を公有化すれば、理想社会はオートマチックに実現すると思っていた。

だが「イッツ・オートマチック」は、宇多田ヒカルの歌の中だけの出来事であって、実際には国家社会は暗黒の全体主義に入っていくのだ。

+++

別の機会にもう少し詳細に述べるが、実体はこういうことだ~。

資本家から企業をとりあげ国有化すれば、実際には、国家や地方政府の役所の企業運営部門に、何百という企業を集めることになる。

これを運営するのは、並大抵ではない。

革命前に一つの私企業を運営するだけでも、経営者〔資本家)は四苦八苦した。
なのにそれらの生産活動を、中央政府で一手に運営しようというのは至難の業である。

担当官僚は全国生産計画をつくるだろう。
だが、これは本質的に大まかでずさんなものにしかなり得ない。

これでもってやろうとすれば、各生産活動にノルマを定めて、人民を命令=服従=懲罰の方式で管理するしかない。
社会主義方式では、そうするしかないのだ。




<恐怖で動かすシステム>

けれども、これは恐怖ベースで人を従わせる方式である。

恐怖感で動かされれば、労働者は、時と共に自発性を失っていく。

企業内でも企業間でも、臨機応変な相互連携がなくなっていく。

あちこちで原料不足が起き、欠陥生産物が発生する。





<秘密警察、思想警察>

だが中央政府は、いまさら後に引くわけには行かない。
そこで人民の不満をいち早く押さえつけるために、企業内に労働者の相互密告制度をつくる。

政治活動もそうだ。
社会主義以外の思想や政党活動を赦すと、人民がそちらにいってしまう。
そこで共産党以外の政党も認めないという、一党独裁制度も実施することになる。

この体制を維持するためには、各地点に思想警察を忍ばせねばならない。
極端な場合には、家庭内にすらも相互密告制をしかねばならない。

社会主義方式での生産活動を続けようとすれば、ごく自然に、こうなっていくのだ。

市場経済社会に生きてきた人間にとっては、この社会はほとんど地獄となる。

+++

悪口を言っているのではない。
マルクス思想の持つこの不気味な「暗」の側面を、人類はきちんと知らねばならないのだ。







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(臨時版)人生観比較・再論

2015年09月26日 | 米国への無知を正す



この2~3回に、米国人と日本人の人生観についてのべた。

フェースブックにて孤軍奮闘で日本に警鐘を鳴らし続けておられるkozue yamamotoさんの問いに応えるためもあって、ここでもう一度この二つを比較しながら、~繰り返しを含めながら~、人生観についてまとめてみようと思う。





<統治者は社会の安定を志向する>

人は集まって社会を形成する。

一旦出来あがると、その統治者は、社会の安定のために自らの価値観に人民を染め上げようとする。

それは本能のようなものであって、人民の方にこれといった価値観がなければ、どこまでも染め上げを進めようとする。




<個人の喜びに最大価値を置いていた人々>

だが、聖句自由吟味活動者は、自らの喜びを持っていた。

それは、聖句の奥義を、自由吟味を通して見出したとき、味わえるものだった。

この喜びは、知性と精神の神髄に至る深いものであった。

彼等は、それを何ものにも代えられなかった。
それ故、統治者の統一志向に従順することなく、聖句自由吟味活動を守り通した。

+++

英国に大量移住した彼等の姿は、英国人に深い感銘を与えた。
その結果、英国人にもこの喜びを密かに取り入れようとするものが、増大した。





<王権神授説に取って代わる思想>

ときあたかも英国には、王権神授説が流布していた。

王の統治権は、創造神によって直接与えられたもので、絶対だとする思想であった。

そして、この思考枠が聖句吟味をするものにも、自然に取り入れられていった。

人間一人一人に、聖句の自由吟味をする権利が、創造神から与えられているのだ、との思想が自然にわき上がった。

この権利こそ絶対的なもので、それは「王権にも勝る」との思想であった。

そこから、国家社会の統治というのは実は、人民との契約によって成り立つものだという思想も萌え出た。〔「社会契約論」はその代表)





<燎原の火のごとく>

この思想は速やかに広がった。

それは、「人民には、聖句自由吟味にだけでなく、個々人の思考全般の自由も、ひいては言論の自由も権利として与えられている」と拡大した。

また、「国王も国権も、これを犯すことは出来ない」「国政も人権に支障を与えないようになすべきだ」という論理も展開した。

のみならず、「国の統治者は、この自由な人権を最大限に発揮させるようにして、国政を行うべし」という思想も生じた。

そして、これが西欧一般の人権思想となった。





<英国知識人の思想革命>

英国の知識人にも、この思想は強く訴えるものがあった。

その結果、トーマス・モアはこの思想をベースにして社会が運営されている架空の島「ユートピア島」の物語を書いた。

ジョンロックもこの思想をベースに「人間知性論」「寛容について」などを著した。

デビッド・ヒュームも『人間本性論』『英国史』などを書いた。

+++

この思想は、国王の従来の権威を崩し、利益を失わせる力を持っている。

そもそも、王権神授説は国王と一族の益になる思想だ。
だが、彼等の数は少ない。

他方、天賦人権思想は、人民個々人をいい気持ちにするものであり、彼等の数は圧倒的に多かった。

天賦人権思想は、欧州大陸のフランスにも伝わり普及した。

それは植民地米国の人民にも、当然のごとく普及していった。




<日本に人権思想は芽生えない>

いまのべた、欧米の状況から日本史を照らしてみよ。
日本には人権思想など生成しようがなかったことが、よくわかるだろう。

日本の人民の間には、なんとしても守るべき、という活動が、個人の暮らしの中になかった。
聖句吟味活動のようなものは、なかったのだ。

代わりに、江戸時代を通して、武士道という人生観が武士の間に出来上がっていた。

これは「自分が属する藩のために、自分のいのちをなげうつ覚悟を常時定めているべし、という滅私奉公の自爆人生観」であった。

+++

個々人が、自らの喜びのために、肉体の死を賭してでも守ろうとするものを持たなければ、この全体主義の極のような武士道精神は、際限なく個人の人生に浸透していこうとする。

そしてこの思想は、明治の版籍奉還・廃藩置県政策の成功によって、国家武士道に変異した。

さらに日露戦争に辛勝したのを契機に、統治者がこの人生観の浸透に入れ込んでいった~愚かなことに~のである。

大正、昭和期にはこの動向はもう止めようがなかった。
日中戦争、太平洋戦争の時期になると、人民の楽しみである音楽でさえ、多くが敵性音楽のレッテルを貼られ制限された。

言葉すらもそうであって、野球におけるストライクは「本球(ほんきゅう)」、ボールは「外球(がいきゅう)」でとなった。
こう言わないは「非国民」となった。(誰ですか! 吹き出し笑いした人は)

こうして、人民の思考の隅々にまで、滅私奉公・自爆人生観は浸透させられていった。

>何のために?・・・戦争に勝つため。



>では戦争に勝つのは何のため?・・・人民が豊かで自由な暮らしが出来るため・・・

~これはなかった。こんなこと言ったら「非国民」となった。



・・・今思えば「狂っている」と言うほかないが、指導層に参入した人間は、そう思い当たることもなかった。





<敗戦でも新しい人生観は生み出されなかった>


敗戦も、この思想の進路に煉瓦ブロックを置いたに過ぎない。

その結果「もう自分の生命以上の価値など絶対に信じないぞ!」という情熱だけが生まれた。

滅私奉公・自爆人生に取って代わる積極的な人生観を、人民は造ることが出来ないままで前進した。

生まれたとすればそれは~

「命が一番大事だよ。人間元々裸じゃないか。それ以外の価値など、捨てて進もう。♫みんな捨ててこ、ステテコシャンシャン♫」

~という人生姿勢であった。

今日まで、基本的にその状態で日本人は来ている。







<自衛隊は弱い?>

余談である。

「(肉体の)生命が一番」という人生姿勢は、戦場には全く適さない。

適さないどころか、人間を死への恐れでさいなみ続ける。

筆者は、日本の自衛隊は予想外に弱いのではないか、と思っている。

幹部はとにかく若い隊員は、戦場に四六時中置かれたら、死の恐怖で精神・人格が破壊されてしまうのではないか。
特に、囲い込むようにして入隊させられた若者には、精神疾患が続発するのではないかと懸念する。

+++

敗戦は日本人を様々な「縛り」から解放した。

その大半は、GHQがしてくれたものだが、とにかく解放された。

だが、従来の自爆人生観に代わる人生観・世界観は産み出されなかった。

集団的自衛権は、この問題に本格的に取り組ませる契機となるか。
見守っていきたい。

幸か不幸か、70年間の徴兵なき社会の中で、たまたま、徴兵年齢を通過し得た世代としては、勝手ながら、見守っていきたい、という外ない。

若者たちよ、ごめんなさい。














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米国への無知を正す38 ~日本人の人生哲学~

2015年09月23日 | 米国への無知を正す




前回、自由吟味者の人生観と、それに影響されて抱いている米国人一般の人生観をみた。
今回は、それと比較して日本人の人生観を眺めてみよう。

「自分の肉体以上に価値あるものを心に抱く、という型」の人生観は、日本人には結構昔からあった。
だがそれは武士という階級にあった一部の人々のものであった。



<武士の人生観>

昔とは、江戸時代である。
この時期、庶民は人性「観」といえそうな理念を持つには至っていなかった。
それなしで、家族の団らんや男女間の性愛を味わって日々生きていた。

他方、武士階級は、子供時代から「論語」をまなび、儒教の人生訓を学んでいた。

だがこの人生思想は、家族や国家の中での個人の行き方を述べるものであって、人間自然の情を確定する性格の強いものである。
個人を理念によって、自然の情を乗り越えさせるタイプの人生観ではなかった。


+++

けれども武士たちは、儒教由来とは別に、強力な人生理念をもっていた。
武士道がそれである。

江戸時代、武士は藩に分かれて住んでいた。

隣接する藩は、常時潜在的な敵国であった。
これは多民族が国境を接して国家を運営する、近代欧州を緩やかにしたような状況である。

武士たちは、ひとたび他藩との戦になったら、最大の戦力を発揮する心構えで暮らしていた。

各藩では、戦争技術や人員は互いに似たり寄ったりだった。
こういう場合、戦士が「死を恐れない度合い」が戦力を決める。

そこで彼らには、常時「死を覚悟」して暮らすことが求められた。
それが「肉体の生命以上の価値を持つ人生哲学」を形成した。

それが武士道であって「武士道とは、死ぬことと覚えたり」はその核心を示している。





<自分の生命より藩主を上位に置く>

武士道において、自分の肉体の生命以上に価値あるものとは、自藩であり、藩主であり、藩主の栄誉であった。

そのために恐れずに、「自らを戦のための用具とする」人生思想をもって武士たちは生きていたのだ。




<明治新国家の人生観>

明治新政府の為政者たちにとって、これは問題であった。
西欧列強に植民地にされないためには、藩ではなく国家に忠誠させねばならない。

そこで、武士道精神の「型」を利用して、藩と藩主を国家と天皇に移し替えることを考えた。

新政府がいち早く進めた、版籍奉還、廃藩置県がそれであった。

+++

これには藩主の大抵抗が予想された。
彼等は自軍〔武士)をもっている。
これがあちこちで叛乱を起こしたら、西欧列強の思うつぼだ。

西郷隆盛ら明治政府の為政者は、まず、天皇を警備するという名目で、1万の近衛兵つくった。
反抗する藩は、これでもってたたきつぶすという構えでもって、版籍奉還を実現した。

大村益次郎〔村田蔵六)は、広く国民が応募する、西欧式の国軍を創成していった。

このなかで従来の武士道は、国民道となって人民全体に普及していった。

こうやって日本は国民国家の形を整えていったのであった。




<日清戦争>

国民軍を確立した新政府は、手始めに弱体化した清国との戦を起こした。
清国は当時、日本の幕藩国家のような構造になっていて、国家としての一体性は弱かった。

これとの戦争は、ある意味で促成栽培した国民軍隊の練習でもあった。
そして、ここで、国家武士道は有効に働いた。





<日露戦争>

ついで、ロシアと開戦した。

当事この国は、日本の存続をあやうくする国際行動をとってきていた。

日本は恐怖の中で、国の存亡を賭けての戦をした。

そしてかろうじて勝ったが、ここでも国家武士道は有効な機能を果たした。




<国家武士道思想がエスカレートする>

それ故もあって、この勝利は、武士道的国民思想がエスカレートする精神土壌をつくった。

国家の戦のための自爆武器となる人生観を、さらに強化しようと為政者は動いた。

国家武士道を、神社信仰の中に収納することを試みた。

明治天皇死去の際に、乃木希典夫妻に殉死してもらうこともした。
これがまた自爆人生観を増幅させ、日本人の人生観はますます単純化した。

これは明らかに「やりすぎ」であったが、この頃日本の指導層には能力劣化がすでに始まっていた。




<自爆人生観の自爆>

自爆人生観は、小学一年生から教えられるようになっていった。
日本国民の人生観はこれ一色に染められた。

日本国家には、対外戦争を求める動因が不気味に蓄積していった。

+++

明治期の武士道国家人生観は、列強の侵略から身を守るという防衛動機に押されて働いた。

だが、第一次大戦で勝利国側に加わっていたのを契機に、明治期の恐怖を与える国はなくなった。

そいて対外戦争志向は、弱い国への侵略に向かっていった。

朝鮮を併合し、満州国を建国することでもって、中国から満蒙地域をもぎ取った。

国際連盟の国際法は、これを否定した。
すると日本は、国際連盟を脱退して「我が道を行く」と宣言までした。

日中戦争を始め、東南アジア諸国を侵略した。

戦争志向はさらにエスカレートし、ついに、自分より強い国家アメリカに宣戦を布告した。

+++

今回は詳論する余地はないが、日本指導層の劣化は留まることなくすすんだ。

太平洋戦争末期の指導層には、戦争を終わらせる能力はまったくなかった。

各地の戦線で、軍部指導層が勝手に、兵士に自爆テロを繰り返さすのみだった。

この惨劇は、米国が鉄槌を下し、ソ連が参戦し、天皇が一肌脱ぐことで、ようやっと停止した。




<戦後の世界指導国の苦慮>


戦前・戦中を通して、国民は小学校時代から「天皇のために戦って死ぬことに最高の価値を置く」人生観で染め上げられていた。
一度教え込まれた人生観は、降伏してもなかなか、変わらない。

加えて日本人には、それにとって代えられる人生観の素養が育っていなかった。

これはもう決定的なことだった。

日本民族は軍隊を持たせれば、また、同じことをし始める性質に満ちていたのである。




<憲法九条と日米安保条約>

戦後の世界指導国は、この日本をどう扱うかに苦慮した。

そして、ついに、とりあえず軍隊は持たせないことにした。
それを憲法九条にうたわせた。

そそて日本の防衛はアメリカが担うことにした。
憲法九条は日米安保とセットとしてスタートしているのである。




<英霊の犠牲を反省してつくったという妄想>

ところがこの憲法九条を、しばらくして、日本人は「生きたいのに死なされた若者への哀悼」の結果、出来たものとの妄想を抱き始めたのである。

三等国意識〔戦後、日本人は自らをそう評した)から逃れるためか、とにかく、そういう説明が急増した。

それが「反戦」思想と結びついて、妄想が固定化してしまった。


戦後、日本民族は、憲法を自分で作る立場になどなかったことなど、少し考えたらわかることなのに・・・。





<戦後の人生観>

連合国がつくった平和の中で、日本民族は従来の「戦争用具人生観」を反省し、否定し始めた。

かといって、別の人生観など持ち合わせていないので、結局、真逆の方向に進むのみだった。

~「もうとにかく、自分の生命以上の価値をもつのはごめんだ」という思想だ。

国家も、天皇もくそくらえ。
皇国の神などいない。
そんな「見えないもの」を信じさせられたから、戦争に行ってしまったのだ。

霊魂がどうこう言うヤツはあぶない。
遠ざかれ。

+++

その結果、戦後日本人は、自分の肉体の生命が最高に価値あるもの、という価値観に転換したのだ。

生命〔肉体の)尊重だ。

後に「人命は地球より重い」との台詞を発する総理大臣もでた。




<欲望充足で行こう!>

「反戦!」「生命尊重」の思想になだれ込んだ戦後日本人は、結果的に、本能、欲望を素直に発露しよう、という人生姿勢に走った。

知識人ぶる者は、サルトルの実存主義に浸ったりした。
「実存は本質に先行する」
つまり、何のために生きるか(本質)などより、今生きている実存が先だ、というのだ。

これも本能発露主義に他ならなかった。

人々は、スポーツ興奮主義にも走った。
フリーセックスにも走った。

+++

映画会社、日活が、石原裕次郎に欲望発露を躊躇なくする若者を演じさせた。
若者たちは一斉にそれに心酔して裕次郎ブームが起きた。

日本人は純朴の民なのだ。




<若者フォーク文化>

だが、こういう生活を送れているのは、憲法九条と米国の全面保護体制のおかげであった。

ベトナム戦争が起き、米国でヒッピー(意図的な若者乞食)が発生した。
それは戸籍を持たない乞食になって、戦場行きから逃れようとする、若者の必死の行動であった。

彼等からフォークソングなど、独自な文化も生まれた。

日本の若者はその文化だけを真似た。
そして、日本独特のフォーク文化が豊かに花開いた。

だが、それは、徴兵の恐れが皆無な土壌での花だ。
そしてそれは、米国が防衛軍備を全面的に肩代わりしてくれた状況で可能になっていたのだ。

+++

いまこの体制が、集団的自衛権が通過することよって、ついに崩れた。

当面自衛隊員だけでも、他国の戦争に協力して戦わねばならなくなった。

戦場では、生命の危険が常時伴う。
その状況には、自分の生命に最高価値を置く姿勢は、適合しない。

そこでは肉体の生命以上の価値を抱く、人生哲学が必要になる。
それがないと、人は恐怖で、精神疾患になってしまう。

戦場で「生命尊重!」などと叫んでいたら、弾丸が当たって死んでしまうのだ。

+++

だが日本人は、戦後70年間、反戦、平和だけの一本で来た。

そこに突然の集団的自衛権・・・。

若者は仰天した。
そして、「死にたくない」「殺したくもない」と叫び始めた。

これが現状である。






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米国への無知を正す37 ~ 聖句自由吟味者の人生哲学~

2015年09月19日 | 米国への無知を正す





第35,36回に提示した解読問題に面食らった読者も多いと思う。
日本の教会に通っている人でも、歯が立たないのではないかな。

クリスチャンはイエスの生涯を知っているので、例題1はとけるかもしれない。
(イエスの生涯は、31~新約聖書の大枠~の中でも述べている)

けれども、一般人は、こんな複雑そうな問題など、解くヤツがいるのか、と思うだろう。




<常時、神学をする人々>

実際、これらの問題を解くには、新約聖書に収録された書物の聖句にも通じていなければならない。
一見繋がりそうにないそれらの聖句をつなぎ合わせて、妥当な解読を探っていくのだ。

この聖句をつなぎ合わせて論理体系を見出していく作業が、いわゆる「神学」である。
それを職業神学者だけでなく、一般信徒も毎週行っているのが米国でバプテスト教会と呼ばれる教会の人々である。

南部のバプテストをサザンバプテストという。
この数が、推定4000万人いる。

北部のバプテストは、アメリカンバプテストという。
この数が推定、1000万人。

両者をあわせると、韓国の全人口を超えることになる。

+++

これだけの数の大人が、毎週スモールグループに集まって、聖句自由解読を続けている。

それを通じて、強靱な知力を養っている。
これが米国なのだ。

米国では一定の知力を要する本、簡単に言えば「知的な本」は日本の10倍売れるという。
人口は日本の2倍だ。
なのに、倍ではなく、十倍売れる。

これは、それだけ「知力の強い人」の比率が多いことを意味している。
その知力が、聖句自由吟味活動によって、育成されているのである。




<人生観は人生の価値理念>

さて今回は、この自由吟味者たちの人生哲学を見ておこう。

人生哲学とは人生観ともいう。
人生観は広く価値観ともいわれる。

つまり、「人生において、何にどの程度の価値を認めるか、という価値の序列」・・・これが人生観の中身だからだ。

「観」というのは、感慨ではない。
理念である。

感慨は漠然としている。
理念は明確な筋道を持っている。

人生観は、人生における価値の序列の「理念」である。

+++

米国のバプテスト自由吟味者たちは、万物の創造神からのメッセージ受信記録が聖書にあるかどうかについて、客観的な姿勢を持っている。

つまり、見えない世界のことは基本的に、否定、肯定両面の認識が成り立つことを承知している。

その自覚の上で、肯定の立場からメッセージ吟味を進める。

そして「これぞ全知の創造神からのメッセージ受信記録!」と確信させられる奥義に遭遇する。
(実際の話、これは深い精神的喜びが感じられる体験である)


奥義を悟った聖句には、癒しなどの「しるし」が伴うこともある。
それによって人は、「創造神は、いまも、生きて働いている!」と確信する。

(この体験はさらに強い喜びを与える)






<念ずるだけの神>

ちなみに、創造神の存在を肯定する立場に立っても、聖句がそこからのメッセージ受信記録である可能性を否定する人は、聖句吟味などしない。

せいぜい神一般に、何かを念ずる程度だ。
思い出した折りに、祈念を繰り返すのみである。

そこには理念がないから思考がない。





<言葉で探っていく神>

聖句が創造神からのメッセージである可能性を肯定する側から進んでみている人は、違う。

その言葉を手がかりにして創造神がいかなる方かを知ろうとする。

彼等は、言葉の吟味は自由な精神で行う方が、効率的であることを体験で知る。
その体験から彼等は聖句自由吟味に大きな価値を感じる。

彼等はまた、スモールグループで交信しながら行う方と効率が飛躍することを知る。
そこで、自由なスモールグループにも、高い価値を与える。

彼等は、自己の小グループをとても大切にし、その仲間と家族のように暖かく交わる。






<自由吟味活動者の人生観>

そうしたなかで彼等は、親しい小グループのメンバーと、日々聖句を自由に吟味することを、人生で最高に価値あるものと考えるようになる。

この価値観は深く、固く、それが彼等の人生理念、すなわち人生観となる。


+++

幸か不幸か、欧州中世史は、そうした彼等が襲撃、逮捕、処刑されるという方向に展開する。

だが、生き残った人々は、聖句自由吟味活動を続行した。
また迫害にもかかわらず、この活動に加わる人も後を絶たなかった。

彼等の多くは、欧州中央部の山脈地域に隠れ住んだ。
〔北欧地域に逃れた人も多かったと推定される)

そして小グループでの自由吟味活動に人生の最高価値を置くという人生哲学を持ち続けていった。




<英国近代バプテスト>

蛇足ながら、英国に生まれた近代聖句吟味者〔近代バプテスト)についても述べておこう。

彼等は、欧州大陸の自由吟味者が抱く最高価値に、もうひとつの価値を加えた人生観を持っていた。

自らが自由吟味を続けるだけでなく、聖句自由吟味が攻撃されずに自由に行える国家社会の建設をも本気で夢見た。
その建設にも、最高価値を与えたいたのである。

他人の精神活動に干渉しない国家、その国家社会を、彼等は驚異的な忍耐力と、鋼の知力でもって、北アメリカ大陸の地に実現した。
これがアメリカ国家であった。


   

<米国人の人生哲学>

自由国家の建設がなると、その建設に邁進するという最高価値のビジョンはもういらなくなる。

すると、小グループでの聖句自由吟味の生活が最高価値として残る。
これが米国バプテストの人生観となった。

そしてこの人生姿勢が、米国の他の人々にも模倣されていった。
自由吟味者たちが言うところの、いわゆるバプテスト化(Baptistization) が広範に起きた。

それが結果的に、アメリカ人一般に
「自由の中で創造神との交流に最高の価値をおく」人生哲学を抱かせるに至っている。





<天賦人権思想>

しばらくして彼等は、こういう人生を送ることを「人間が天から与えられた、天与の権利」と考ていった。

かくして人権(human right)思想が誕生した。




<英国知識人の人権思想>

ちなみに、天賦人権思想は、英国の「知識人たちには」先駆的に形成されていた。

従来、欧州では王権神授説が普及していた。
「王の持つ統治権は、創造神によって与えられているもの」とする思想である。

人民はこの思考に慣れていた。

この土壌の中で、知識人たちは自由吟味者の生き方に強く影響されていった。
その結果、人生最高の価値は、国王に献身することから、「個人が自由に聖句を吟味する生活を生きること」へと移動していった。

トーマス・モアを端緒として、ジョン・ロック、デビッド・ヒュームは人権神授説的な思考を展開した。
彼等は、「人間には、個々人が創造神と交流する権利が天から与えられている」、という感覚をベースに論理を展開した。




<アダムスミス「諸国民の富」も人権思想ベース>

ちなみに、アダム・スミスの『諸国民の富(Wealth of Nations)』もこの延長線上にある。
彼はヒュームに可愛がられて自らの学識を形成してきていた。

この本で彼が論じたのは、国民一人一人の経済的豊かさを実現する方法であった。
彼が焦点を当てたのは、国王や国家の富ではなく、個々人の豊かさであった。

だから、この本の題名を「国富論」と訳すのは、実は、誤りなのだ。
スミスが主眼を置いたのは、国家の富ではなく、「諸国家の中の個々の国民の富」だったからである。


+++

だが天賦人権思想は、人民の国王への献身姿勢を希薄化するものだ。
王は激怒する。
モアは、別の件でもって処刑となり、ロックは国外追放となった。




<人権がフルに満たされる社会のビジョン>

だが天賦人権思想は、人権をフルに満たす社会を理想とする社会ビジョンをも自然に生んでいく。

特に、社会的な有力者にはそれが強くなる。

これが英国近代バプテストの発生の土壌となったのだ。


   


<肉体の生命より上位に置いたもの>

蛇足が長くなった。

最後に、聖句吟味者たちの人生観を包括的にまとめておこう。

彼等は、自らの肉体の生命よりも、上位に置くモノを持っていた。

その第一は、「霊魂のいのち」である。

彼等は、聖句吟味を通して、「肉体は100年もすれば消滅するが、霊魂は永続する」というイエスの教えを肯定的に受け入れていた。
その事実認識から、霊魂が創造神との交わりを回復して「いのち」をえて永続することを、肉体の生命以上に価値あるモノとしたのである。

これは、この回には述べなかったが、暗黙の前提として認識しておくべきことである。

第二は、ここで述べたことだ。

それは、聖句自由吟味を通して創造神との交わりを実感することである。

彼等はそれを肉体の生命以上に価値あるものとしたので、カトリック国家権力に処刑される危険のなかで、聖句自由吟味の日々を守ったのだ。

第三として、その自由吟味を、お互いを完全に自由な立場に置いて行う小グループをも加えておこう。
自らの属する聖句吟味小グループも、実際上、彼等にとって、肉体の生命以上に価値あるものであった。

+++

そして、聖句自由吟味者がもっているこの価値観を、米国民一般も、漠然ながら共有している。

これが米国人人生観の風景なのである。







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米国への無知を正す36 ~聖書解読の例題(2)~

2015年09月13日 | 米国への無知を正す




もう一つ解読問題を出してみよう。

聖書解読とはどういうことかを感触するには、二題くらいは触れておいた方がわかりやすい。
また、手がかりとしては二題で十分なので、例題はこれでおしまいである。




<『創世記』冒頭部分の一事件>

旧約聖書の冒頭に収録されている書物は『創世記』である。

その2章から3章にかけて、こんな話が記されている。


+++

~創造神はアダムという人間に「いのちの霊」を吹き込んで、これをエデンの楽園に置く。

そして、この楽園の木の実を食べていいが、一つだけ、園の中央にある「善悪の知識の実」については「食べてはならない」と命じた。

聖書ではこうなっている。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。
          しかし、善悪の知識の木からは、取って食べてはならない。
          それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」
                     (創世記、2章16-7節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・





また、創造神は、アダムには「助け手が必要」と、彼のあばら骨からイブという女をつくり、彼のそばに置いた。
アダムは「善悪の知識の木の実は食べるな」という命令も、イブにも伝えた。

ところが、このイブを悪魔が蛇を使って誘惑する。
イブは抵抗する。
聖書ではこうなっている。


・・・・・・・・・・・・・
「女〔イブ)は蛇に言った。『私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
      しかし、園の中央にある木の実について、神は <あなたがたは、
      それを食べてはならな。それに触れてもいけない。
      あなたがたが死ぬといけないからだ> と仰せになりました』」
                 (創世記3章3節)
・・・・・・・・・・・・・・・





だが蛇は誘惑を続ける。
聖書ではこうなっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「そこで蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。
      あなたがたがそれを食べるとき、あなたがたの目が開け、
      あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを
      神は知っているのです。』」
                  (創世記、3章4~5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・


けれども、結局イブは誘惑に負けて食べてしまう。
そして、夫アダムにもそれを勧め、アダムもまた食べてしまう。

二人は、創造神の命令に従わなかったという罪の故に、エデンの楽園を追い出されてしまう。








そのとき、創造神から蛇〔悪魔)に向かって、次の言葉が発せられる。


・・・・・・・・・・・・・・・
 「私は、おまえと女との間に(between you and the woman)、
       また、おまえの子孫と女の子孫との間に
       (between your seed and her seed)、敵意を置く。
       彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
                          (創世記、3章15節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・






<二つ目の例題>

さて問題である。

「この最後の聖句 (創世記、3章15節)がイエスのことを述べているならば、
それはどのようにして、
いかなる比喩でもって述べられているか。
解読し、説明しなさい」

これについても読者は、解読をコメント欄に書いていい。








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米国への無知を正す35 ~聖書解読の例題~

2015年09月12日 | 米国への無知を正す





アメリカは聖句自由吟味者が、信じがたいほどの長期にわたって、奮闘努力して造った国である。

~そういわれても、読者はまだ、雲をつかむような気分の中にいるだろう。

これを脱却するには、やはり聖句自由吟味活動に、たとえ少しでも具体的に触れることが必要である。

そこで若干それを試みてておこう。




<吟味の「型」>

自由吟味といっても、思いつくまま好き放題に聖句を解釈することを意味してはいない。
スモールグループで自由い語り合う際にも、、そこには一つの型がある。

それは、「旧約聖書の記述(聖句)の中に、新約聖書に記されたイエスを浮上さす」という型である。

この枠の中で、聖句解読という知的・霊的作業を行うのだ。




<旧約聖書は私〔イエス)を述べた本?>

新約聖書に、イエスのこういう言葉が記録されている。

「諸君〔ユダヤ教の僧侶たち)は、聖書の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書を研究している。 だが、聖書はわたしについて証言するものなのだよ。」
              (ヨハネによる福音書、5章39節)


イエスの時代、新約聖書はまだ出来ていなかったので、ここで聖書とは旧約聖書のみを指す。

イエスは「旧約聖書は私のことを述べた本だ、といっているのである。

自由吟味者の聖書解読とは、このイエスの言葉を受容して行う精神作業なのだ。


<比喩の解き明かしになる>

だけど、旧約にはイエスという名は一度も出ていない。

なのにイエスのことを述べているとなれば、これはもう、別のストーリーでもって、
つまり、比喩でもってイエスを述べている、ということにしかならない。

そこで聖句吟味の基本は、旧約で述べられている比喩を解き明かすこととなる。

そして奥義として埋め込まれているイエスを浮上さすことなのだ。

いまその解読課題を一つ示そう。






<解読例題>


旧約聖書に収録されている『民数記』という書物に、次のような出来事の記述がある。

モーセという預言者が、エジプトの地に奴隷として暮らしていたイスラエル民族を、いまのイスラエルの地(カナン)に引き連れていく。

そうせよと創造神に命じられてのことである。


人民はモーセに率いられて、目的地に向かって旅をする。

結果的に40年間に及ぶ長旅だ。

旅は苦しく、途中で、民は神とモーゼに逆らって不平を言う。

すると「燃える蛇」が天から降ってきて、民たちの多くは噛まれて死んでいく。

彼等はモーセと創造神を非難した罪を認め、蛇を取り去ってくれるよう祈ってくれとモーゼに頼む。

モーセはこれを聞き入れて祈る。
すると創造神はこう応答する。

「燃える蛇を造って、旗ざおの上につけよ。それを仰ぎ見れば、噛まれたものは、生きる」~と。

モーセはそれに従う。

すると、創造神の言葉通りのことが起きる。

聖句ではここはこうなっている~。、

「モーセは一つの青銅の蛇を造り、それを旗竿の上につけた。
        すると蛇が人を噛んでも、
その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」

(民数記、21章9節)

    
ーーーさて問題である。

この出来事はイエスがこの世に出現する1450年ほど前に起きたことである。

「この話がイエスのことを述べているとすれば、それはどのようにして述べていると考えられるか。

比喩を解読して、奥義を示せ」

読者は、解読をコメント欄に書いてくださってもいい。

+++

聖書を持っていない人は、手に入れて、解読を試みてられたい。
〔大きめの本屋でも、また、アマゾンでも簡単に手に入る)

この例題を解くためだけでなく、アメリカを知るにも、聖書を開かないでは無理なのだから。








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米国への無知を正す34 ~正しいキリスト教史~

2015年09月10日 | 米国への無知を正す




前回の知識を得ると、キリスト教史の本当の姿が初めて目の前に浮上する。

ホントのキリスト教史は、国家権力の一部となったカトリック教団と、初代教会以来の聖句自由吟味活動をする教会とが織りなす重層構造からなっている。


+++

ローマ帝国という、国家の宗教局となったカトリック教団は、欧州の全宗教活動を、自分の方式に統一しようとする。


ところが、自由吟味活動を中心に据えた初代教会方式の教会は従わない。
カトリックとは根底的に相反する方式だ。
水と油なのだ。

両者は、「これが同じキリスト教活動なのか!」と驚くほどに対極的だ。

聖句自由吟味者は、「これは不変不動の知識ではないか!」との感動を、日々得て暮らしている。

彼等は、この感動の日々を捨てなかった。
捨てられなかったのだ。




<国家権力教団、怒り狂う>

カトリック教団の怒りは、権力者の怒りとなって燃え上がった。

かれらは自由吟味者の拠点を襲撃した。

国家権力者だけが用いることの出来る軍隊、これに命じて自由吟味者たちをとらえた。

見せしめのため、広場で日ごと夜ごと火刑に処した。

この状況は、たとえば『聖杯の暗号』~箒木蓬生(はばきぎほうせい)著~という小説にリアルに描かれている。





<山地に逃れた人々>

自由吟味教会の人々は、ピレネー山脈、アルプス山脈の山地、あるいは、スイスの山地に隠れ住んで活動を続けた。

これを発見したカトリック軍隊が、かれらを周期的に襲った。

これら山地に逃れ住んだ人々の悲劇については、文献資料が切れ切れになって残っている。




<北欧に逃れた人々>

筆者は、このほかに、今日言うところの北欧地域にも多くの自由吟味活動者たちが逃れ住んだとみている。

今日の国名で言えば、デンマーク、スエーデン、ノルウエー、フィンランドなどの地だ。

これらの地域は、秋、春からして底冷えの深い寒冷地だ。
今は暖房設備が発達しているが、当時は冬などは極寒の地の果てだったろう。

しかも、カトリックの本拠地、イタリー、フランス、スペインから遠い。

カトリック教団も、この遠隔地にまで探偵に探らせ、軍隊を派遣することは出来なかったのではないか。

それ故に、襲撃、捕縛、処刑という事件は起きなかっただろう。

欧州中央の山脈地域に逃れたような自由吟味活動者たちが見舞われたような悲劇がなかった。

それ故にまた、彼等に関する文献資料はないのだろう。




<現地での直感>

けれども、北欧に多くの自由吟味者たちが逃れ住んだことを、鹿嶋は直感できる。

これらの地を巡り歩き、折々に住民と交わってみると、その英知がとても高いことが観察できる。

彼等の精神波動は、まぎれもなく、自由吟味者たちのものだと筆者は感知できる。

小学校の教育現場にも、そのスモールグループ活動の知恵が観察できる。

この地の大人たちの今現代の行動にも、聖句吟味活動によって得られる精神が如実に感知できる。

これらから、北欧が聖句自由吟味者たちの地であることが、鹿嶋には十分すぎるほど直感できるのだ。




<英国国教会は自由吟味者を動かした>


時代が下って、英国の豪腕ヘンリー8世が、英国国教会を設立する。

王は突然カトリック教会を廃止し僧侶たちを追放する。

これで、カトリック固有の、自由吟味者への執拗な追求、襲撃が英国からなくなった。

欧州の自由吟味者たちは、ひそかに、かつ、トータルとしては大量に英国に流入した。

彼等は、聖句吟味が自由に行えるところなら、どこにでも移住するのだ。

+++

英国民は、突然、聖句吟味活動に触れた。

彼等の知性は、異例な活性を得て、明晰、かつ、強靱になった。

以後、英国が七つの海を支配し、産業革命の発祥地となるのも、それによる。

自由吟味者の活動に触れ、かつ、多くの人がそれに影響されたことによる。

自由吟味方式に転向した人もかなりいたようだ。




<新大陸への移住の道が開ける>

その彼等に、さらに自由になれそうな新天地が開けた。

大西洋の向こうにある北米大陸だ。

自由吟味者は英国からそこに移り、その地で植民地独立戦争を仕掛けた。

植民地は勝利し、本国からの独立を実現した。

国家を作り、信教自由の憲法を確立した。




<第二次大戦後の世界運営を任される>

米大陸での自由吟味者の活動は、人民に色濃く影響し、飛び抜けた知的活力を形成した。

この国は時とともに強くなり、第二次大戦後は世界運営を引き受けてしまう。

戦後70年の間、世界は米国によって運営されてきているのだ。

だから、米国に無知では、世界を正確に認識することは出来ないのだ。




<歴史認識の落とし穴>

繰り返すが、キリスト教史はカトリック教団と聖句自由吟味者の教会とによる重層構造で出来ている。

そのビジョンなしでは、真の姿は認識できない。

ところが、歴史の説明とは、奇妙な性格を持っている。

自由吟味活動を知らなくても、一応の説明はできてしまうのだ。

それなしのストーリーが作れてしまう。


ここに落とし穴があり、人類はそれにはまった状態で今日まで来ているのである。







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米国への無知を正す33 ~自由吟味活動を覆うキリスト教の通念~

2015年09月06日 | 米国への無知を正す






「アメリカへの無知を正す」と言っておきながら、聖書の話を細々としてきた。

何故だ? とおもう人も多いだろう。

+++

思考の流れはこうだ。

米国の卓越した政治見識は、つまるところ、聖句自由吟味活動によって造られている。

その実状を知るには、吟味する書物の類例のない特性を知る必要がある。
内容の、深さ、広大さ、多様さの極致とも言うべき性格を知らねばならない。

でないと、それを吟味する活動が、人間の知力を異例に強化することが感触できない。
そこで結局、筆者がなにを言っているかわからなくなる。

だから、聖書という書物の特性を述べてきたのだ。





これを理解した上で、小グループでの吟味活動をある程度実地体験してみる。
すると、感触できるようになる。

だが、このブログの場でそれを試みるのは無理だ。

幸いなことに、これを通信教育でもって行いたいと申し出てくださっている教育機関がある。
実現するといいと思っている。

+++

しかし、今はともあれ、前に進もう。

多くの読者は、ここで説明された聖句吟味活動など、みたことないよ、というだろう。
そんなキリスト教知らないよというだろう。

代わりに、キリスト教活動には、こんなイメージを抱いているだろう。

~大きな教会堂があって、ステンドグラスの窓から神秘的な光が差し込んできて、カンタータ(賛美歌)が流れ、神父さんや牧師さんが華麗な衣装で登場し、礼拝行事をする。

キリスト教とは、そういう儀式をする活動だと思っているだろう。

いま、我々一般人の目に入るのは、それだ。

これと繋がらないじゃないか。
一体、この辺りはどうなっているのか、~となる。




<カトリック方式>

結論から言うと、あれはカトリックという教団の活動方式である。
それは初代教会の100年以上後にできた、初代教会の変異バージョンである。
現在プロテスタントと言われている教会も、カトリック方式の亜流である。

我々はそれをみているので、キリスト教活動とはああいうものだと思ってしまっている。

+++

カトリックとは、どういう教団か。
いまその成立過程を示そう。

こういう事象の文献資料はない。
あるかもしれないが、我々が見られる形では、存在しない。

だが、経営学を研究し、実際に数多くの企業に接触してきた筆者には、その経緯が映像を見るかのごとくにわかる。

前に述べたことの繰り返しも多くなるが、要約して再記しておこう。






<教会参加者の変質>

初代教会は成長を続けた。
教会開始後30年で、聖句吟味のスモールグループはローマ帝国全土に散在するようになった。

新らしい宗教運動が急成長すると当初、近隣者は恐怖を感じる。
怒りを抱いて信徒の集会を襲撃することも起きる。

だが、キリスト教会が普及して、100年も経つと、世間の教会へのイメージは変化した。
それにつれ、迫害も和らいでいった。

+++

初代教会では発足以来、参加者は生活面でも助けあっていた。
参加すればそういう利得が受けられる。
そして加わっても、もうそんなに迫害されなくなった。

さすれば、生活の世話や癒やしを受けられること主たる目的にして教会に参加してくる人が急増する。

すると教会員の質は変化していく。

このころ、イエスの直接の弟子たちは、もう死んでいなかった。





<担当指導者が聖書の要約を教える>

キリスト教会は「来る者拒まず、去る者追わず」の人間集団だ。
新参加者は増える一方だった。

こういう人々は旧約聖書への探究心はあまりもたない。
裕福だがビジネスが忙しく、教会活動に多くの時間を割くことが出来ない人もいた。

こういう人々には、聖句自由吟味活動はほど遠い。
だが、担当指導者としては、一定の聖書の教えは知ってもらわねばならない。
結局、指導者たちは教えを簡素に要約して、「これがキリスト教の教えだよ」と示すしかなかった。




<霊的感動を補填する>
 
こういう風な要約からは、聖句自由吟味活動で得られるような醍醐味は得られない。
聖句自由吟味を活動の中核に置く教会では、スモールグループで語り合って奥義を発見できる。
そのとき「真理を見出した!」という確信と、震えるような霊的感動がある。

だが、聖書の要約からはそれはえられない。

この霊感の充足不全を、担当指導者は様々なサービスでもって補填せねばならなかった。

+++


日曜日に厳粛な礼拝儀式を開催して敬虔な気分にしてあげる。

献金でもって荘厳な礼拝堂(聖堂)の建設して、気分を盛り上げる。

音楽は霊感を開く効果を持つので賛美歌の合唱も取り入れる。

礼拝には僧侶は壮麗な式服で、おごそかに登場してあげる。

+++

担当指導者たちは週日にも、儀式サービスを提供した。

近親者が死んだら葬送の儀式をしてあげた。

信徒が結婚する時には結婚式をしてあげる。

子供が生まれたら祝福の儀式をサービスする。

神秘感ある儀式サービスの中にいると、信徒はあらたまった霊的な気分になる。

それはなかなかいいものだった。

+++



もちろんそれは聖句の奥義を見出したときの感動には及ばない。

だがそんなもの知らなければ、これがキリスト教の神髄と、人は思えるのだ。

要するに、新教会を担当する指導者は、聖句吟味活動者が得ていた感動を、様々な演出でもって再現しようとしたのだ。




<大量処理が可能な方式>

この方式のもとでは信徒の教会生活は楽である。

日曜礼拝はみな担当指導者がお膳立てしてくれている。

信徒は日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくればいい。

教会はまた、結婚式や葬式も厳粛にやってくれる。
これは大衆にとって、とても属していやすい教会なのだ。

他方、担当指導者にとってこの方式は、一度に大量の信徒に対応しやすいものである。
加速度的に増大する大衆信徒は、こちらの教会に吸収されていった。

献金総額も膨大になり、教会は多国籍マスプロ大学のような大機関となった。

これがカトリック教会と、後に言われるところの教団となる。




<指導者が職業僧侶化>

新方式教会は急成長した。

担当指導者の仕事は膨大になり、指導者需要は急増した。

教会は、指導者を専門職として雇う体制をとらざるを得なくなった。
こうして指導者は、職業僧侶となった。

教会は彼等に、一般信徒とは別格の権威を与えた。




<初代教会との違い>

これは初代教会の方式とは対照的だった。

初代教会の聖句自由吟味方式では、グループリーダーが特別な権威を持つことを極力避けた。

もてば、彼等の見解が上位の権威を持ちつことになる。
さすればメンバー間の闊達な自由吟味が機能しなくなる。

この平等鉄則を明確に戒めるために、彼等は後に強烈な言葉を作り出す。
「万人祭司」がそれだ。

祭司とは、職業僧侶を意味する言葉だ。
彼等は「もし祭司が必要だとしたら、全員が祭司になるのだ」といって、身分的な権威の差異を徹底して避けたのである。

このもとには、「個人の聖書解釈自由(personal freedom of Bible interpretation」という大原則があった。
聖句自由吟味方式の教会では、教会員個々人の精神の自由を生命線としていた。

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これがカトリック方式では、真逆になるのだ。

職業化した僧侶に一般信徒よりも上位の権威をあたえる。

その僧侶たちが相談して、聖書に関して教団の正統解釈を一つ決める。
(これがいわゆる「教団教理」である)

これを大衆信徒に与えて、受容させる。

教団教理に従わせるのは、教会の一体性を維持する重要手段でもあった。
だから、一般信徒が聖書そのものを読んで、色々解釈を為てもらっては困る。

かくして信徒の聖書吟味を禁止にする。
これらの原則は、ごく自然に出てくるものであった。

(カトリックは今でも、「カトリック教理書」をもっている)






<僧侶も階層化する>

教会という人の集いには、集団が一体性を保つことが必要である。
それを維持するには、多数の僧侶自身も管理階層を形成し整然と行動する必要があった。

その命令系統の中でまず自分たちが統一的に行動し、信徒をその管理体制の中に組み込むのだ。
こうして教会はピラミッド型の階層組織となった。

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職業僧侶の管理階層の職位は、司祭、司教、大司教であった。

司祭の職務は、各地の教会の礼拝や聖餐(せいさん:イエスの肉と血を記念するため、パンと葡萄酒を口にする行為で、イエスはそれを命じていった)の儀式を執り行うこととした。

この職位は会社でいえば課長、係長に相当する。

司教の職務は、そうした教会や司祭を地区ごとにまとめて統率することであった。
これは部長だ。

大司教のそれは、司教の管理する地区をさらに複数集めて管理統率することであった。
これは会社では重役だ。

教団全体に関わる事柄は、当初は大司教の会議で決めた。

だが後年、教皇(法王ともいう)という職位を出現させる。
会社で言えばこれは、最終決定の絶対的権限をもった社長だ。

会議で意見が分かれても、この鶴の一声で結論が決まる。
かくして大司教会議で膠着状態が続くようなこともなくなった。

すっきりしたもんだ。




<僧侶の専門化と能力の洗練>

職業として専念させると僧侶の仕事能力は洗練され、専門家、多様化していくものだ。

あるものは、会堂設計に優れた能力を発揮した。

音楽編成能力に卓越したものも出た。

神学(聖書解釈学)能力に秀でた者は、神学校設立に貢献した。
そこで、後継僧侶が養成される。
カトリックでは僧侶の内部自己生産体制ができていった。




<五大教区と教皇の出現>

新方式の教会は布教地域を五つの大教区にに分けて広域運営をした。
ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムがそれで、五大教区と呼ばれる。

そのうち、ローマ大教区の大司教は、常にローマ帝国政庁と直接交渉する地理的状況にあった。

当時は、電子メールもファックスもない。
制度上は五大教区の大司教の会議で決定すべき事項も、実際にはローマ大司教がローマ帝国政庁と話し合って決定することが多くなる。

それを事後的に大司教会議が追認するのだ。

この状況を背景として、ローマ教区から、自らの大司教を教会全体の教皇にすべき、という案が出てきた。
もちろんそれには相応の聖書的な根拠がつけられていた。

他の大司教はそれを受け入れた。




<ギリシャ正教会>

だが、コンスタンティノープル大司教だけはそれを容認しなかった。

彼はそのような聖書解釈には無理があると主張し、最後に、他者と別れて独自な教団としてやっていく道をとった。
これが後のギリシャ正教である。

英語ではグリーク・オーソドックスだ。

グリークは主要テリトリーがギリシャだということを示している。
オードドックスは「正統」という意味である。
つまり、われわれこそが正統なキリスト教会、だと言ったのだ。




<ローマカトリック教会>

ローマ側も対抗した。

彼らは従来内々で用いてきたカトリック(普遍的)の語を使って、自らをローマ・カトリック教会と公言した。
「ローマ」はその中心的拠点が都市ローマにある、という意味である。

こうしてカトリック教会という語が一般に用いられる名称になった。

要するに、カトリック、ギリシャ正教は互いに「俺たちが正統」「俺たちこそ普遍的」と主張しあったのだ。

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以後アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの大教区は事実上、ローマ大教区に吸収併合されていく。

他方、ギリシャ正教会は、後にイスラム教勢力に押されて、ロシアを本拠地にするようになる。
名前はギリシャ正教会のままで、今日までロシアをテリトリーにしてやっているのだ。

他方、ローマ・カトリック教会は後に、ローマ帝国に公認宗教とされる。

その後まもなくして、帝国の唯一国教となる。
欧州一円をテリトリーとして統率する、国家権力の一部となるのだ。




<カトリック方式は目立つ>

ローマカトリックもギリシャ正教も、教会堂や僧侶がよく目立つ。

建物は豪華だし、僧侶は階層をなして、それが一目でわかるような、豪華な僧服を着ている。

欧州では、カトリックがキリスト教の代表として見られるようになった。

これに比べると、初代教会方式の聖句自由吟味教会は、地味で目立たない。
形態としては草の根運動的なものになるからだ。

かくして、今日われわれのキリスト教への通念が形成された。
キリスト教と言えば、カトリックやギリシャ正教方式のようなものだという通念である。

これが本家本元の初代教会をオーバーシャドー(自らの影で覆い隠すこと)してしまい、今日に至っている。

そのカバーをかけられて隠された聖句自由吟味活動が、実は米国という国家、米国社会の精神基盤になっている。

それをわかってもらうために、筆者は聖書という吟味素材の性格を細々と述べてきた。

ある程度知ってもらわないことには、話にならないからだ。









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