鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol. 24 稲盛思想と中国思想での人生決定要素

2007年11月19日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
 
「稲盛『哲学』と聖書の思想」第24回です。
 稲盛さんの「哲学」には仏教から学んだ知識がもっとも多く取り入れられて
います。
だが、前回の運命理論のように、中国の古典からの知恵もあります。日常的
な智慧や直感だけからでなく、多方面な先人の知恵に学んで自らの「哲学」をつく
っていくというのが稲盛さんの基本姿勢です。だから、そうなるわけです。

                    


稲盛さんの運命観はつまるところは、パソコンの初期設定のようなものと
イメージできそうなものです。なにもしなければ、設定通りに人生は運行していく。
だが、途中で、宇宙の意識に沿ったよきことを行えば「因果応報の法則」が初期
設定に働いて、運行の航路はよき方向に変更されていく。宇宙の意識に反した(悪
しき)ことをおこなえば悪しき方向に変更されていく。そういうイメージのものです。

                   

 
 中国の古典が参照されましたので、ここで若干脇道に入って、中国におい
ては「人生決定要素」はそもそもどういう思想になっているかを見ておきましょ
う。

結論的にはそれは重要なものから順に「命→運→風水→家庭」となっている
ようです。

                    

<命(めい)>

 一番決定力の大きいのは「命(めい)」です。
 命とは「生命力」といった意味です。聖書で「いのち」というのはエネル
ギーの様な意味の概念ですが、それにちかいですね。人間が成功する人生を送れる
には、何よりもまず、当人が持って生まれた生命力が大きいことが必要という思想
です。

                    


<運(うん)>

 第二の「運(うん)」は、巡り合わせです。
 運は運行の「うん」ですね。人生を送っているとき、各人がおのおの空間
を運行します。その過程で、別のある人と航跡が交わると出会いになるわけです。
これが命に次いで大事だという。
 どういう人とどういうときに出会うか、これが実際人生の正否に大きく影
響するんですよね。ある程度人生を送って振り返ってみると、経験的に感じます。
 これには、生命力の大きい人と出会って、そのエネルギーをもらうという
ことも、入っているのでしょうね。

                    

<風水(ふうすい)>

 第三は風水。これはとても中国的です。
 風水というと、我々は方角などに関する易や占いなど、迷信を連想しがち
ですが、それは風水がいつの間にか易学の理論体系に取り入れられて論じられるこ
とが多くなったがためです。

 だが風水は、本来、とても科学的な知識です。それは「この地上での、エ
ネルギーの流れ」を重視する知識です。人生の正否は、よいエネルギーが強く流れ
るところに身を置くかどうかで大きく影響するという思想です。
 この立場から経験科学的に集めた知識の体系です。住居をどこに立地し、
どういう設計でもって建てるかというのもその一つです。

 これはおそらく第一番目の「命(めい)」をさらに補強したり強化するこ
とと関連しているのでしょう。

                    


<家庭>

 そして第四が家庭です。
具体的には与えられた家庭環境ですね。知恵のある両親のもとに生まれる
か、学業をする場合に経済的に支えてくれるかどうか、なども人生の正否に影響す
るところ大きいでしょう。

 だが、それが四番目であることがおもしろいですね。
 精神的にも知的にも、また経済的にも恵まれた家庭に生まれ育つことは、
大きな助けになるのですが、やはり、当人の与えられた生命力が弱いと、それもう
まく生かせないのでしょうか。

 また、劣悪な家庭環境に生まれても、生命力の強い子供が、それをはねの
けて成長していく姿を我々は見ることができます。どういう訳かいじけたり、卑屈
になったりしない。これも生命力の強さの故でしょうか。

 そして社会でのよき出会いのチャンスを作っていってしまう。できた人間
関係を生かしてよき仕事を得ていく。よき空間、よき住居にに身を置いていく。
 家庭環境の影響力は、これら「命」「出会い」「風水」に比べれば、小さ
いと見るのでしょうか。特に生命エネルギーがとても重視されている人間観に思えます。

                    


<命運つきた>

 この思想は日本語にも影響を与えているように思えます。ある人について
もうダメだという時にいう「命運つきた」といいますよね。これって、中国の成功
の人生哲学からきているのではないでしょうか。(このあたりは、サビアさんがお
詳しいでしょうが・・)

 また、運命というのはこの「命運」をひっくり返した言葉ですよね。日本
では「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」を中国よりも濃く意識す
るようになって、それでこの言葉を作ったのではないでしょうか。


                    


 考えてみれば、命も運もその人が生まれ落ちるときに与えられるところの
大きいものともみられます。あるいは、風水にも家庭環境にもそういう側面が少な
からずあるでしょう。だが中国では、それが与えられる際に、人間の認識を超えた
大きな力が働いている、という意識は少ないように思えます。少なくともそういう
存在を、明確には意識していません。

 それだけ人間的なのでしょう。その分、「おのおのがた、がんばろう!」
という意識が強くなりやすいです。
日本では、大きな力への意識がもう少し強いです。その分、意識は宗教的に
なったり、また、状況への「あきらめ」の意識が強くなるのでしょうか。演歌歌謡
曲の歌詞にも、それが現れているように思います。

 では、聖書の運命観はどうか?
次回に考えてみましょう。

                   



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Vol.23 稲盛さんの「運命と立命」

2007年11月18日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
          

「稲盛『哲学』と聖書の思想」第23回です。
稲盛哲学の中核は、ほぼ、前回までですが、付録のようなものもあります。
それは人間の「運命」に関するものです。
「人間に運命はあるか?」というのは誰もが考えることでしょう。
稲盛さんも、それを考えるのです。


                    



 でも運命という語は漠然としたところをもった言葉です。
われわれが通常込めている意味は「当人の意志を超えて予め定まっている
人生の大枠」といったものでしょうね。宿命に近い意味です。

 稲盛さんも、そういう意味でまずは運命を捕らえておられるように見えます。
それは、このテーマに関して稲盛さんが引用される中国の古典にある話から
推察できます。

                     


~~代々医術を家業とする家の息子のところに、ある老人の易学者がやってきた。老人は、その息子は
「将来医者にならず、科挙の試験に受かり立派な役人になり、
若くして地方長官になる。結婚するが子どもはできず、
53才でなくなる運命である」
  と予言した。


                    
                    

 ・・・稲盛さんは科学に通じておられるので、
こういうのは相手にしないだろうと思われがちですが、そうではありません。
 そういうことを頭から否定はしないで、「そういう定まったコースというのは
人間にあって、かつ易学者などの他者がそれを言い当てることもあり得るのだ」
と考えておられます。
 このことからして、運命は「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」
とイメージされていることが推察できるわけでもあります。

 ところが、そう簡単ではないんです、稲盛さんの「運命」は。
引用された古典では、こう話が続いております。


                    


~~その息子が人生送っていると、途中までその通りになっていきます。
だから、彼はもう自分の人生はもう予言通りになるのであって、
それが自分の運命(宿命)だと思っていた。
 そうしたあるとき、息子は禅宗の老師に会う。老師は彼の話を聞いて
「運命は変えられないものではない。善きことを行いなさい、そうすれば、
あなたの人生は好転していきます」とすすめます。
そこで息子は善きことをすべく努めます。そうしたら、出来ないといわれた子供
にも恵まれ、53才でなく73才過ぎてもまだ生きていた~~と。

                     


 ・・・で稲盛さんは、最終的には、この話に同意するんですね。
 つまり稲盛さんは、運命はどうにもならない宿命ではない、と考えていくのです。

どうしてそんなことがいえるか?
稲盛さんは、人間には運命に影響を与える要因もある、という。
そしてそれは「因果応報の法則」だと考えるのです。

                    


では因果応報の法則とはなにか? 
それは「現世における思いや行動によって作られる業(ごう:カルマ)がなす
現象」だという。
そして、人生というのは実は「運命」とこの「業」とがDNAの二重螺旋(らせん)構造のように、
縒(よ)り合って作られていくものだとみるんですね、稲盛さんは。

                    


<因果応報の法則の方が強い>

更に稲盛さんは、この二つの影響要因についてこう言っています。
「因果応報の法則」のほうが「運命」より若干強い~~と。

だから、良きことを思い、良きことを行うことによって、運命の流れを
良き方向に変えていくことが出来る、こうして人生は好転していく~~と。

この考えを中国の古典では「立命」というそうです。
そういわれれば日本の関西にある立命館大学の名前も、そうした中国の思想を
踏まえて作られているのかも知れませんね。いやきっとそうでしょう。

                    


 では、稲盛さんは結局「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」
という意味での運命の存在を否定しているのか?
そうであるようでもあり、またないようでもあり、微妙ですね。
少なくともこういうことはいえます。
稲盛さんの「運命」は人生を決定する鉄の外枠ではなく、そういう外枠を作ろう
とする「力」のようなものだ、と。
それは見えないけれど働いている一つの力なんですね。

そして因果応報の法則も、一つの力を形成する法則です。
だから「こちらが少し強い」とか「弱い」とかいえるんですね。
要するに二つの力がより合わさって人生は決定されていくんだ、
といわれるんですね。

 な~んだ。だったら運命なんて言葉を使うなよ、といいたいところでもあります。
でもそれで稲盛さんの運命の定義「人が持って生まれた脳細胞、体力、人的環境
など、自分の意志や遺伝子の力が及ばない範疇に属するものからくるもの」
の解釈もできてきます。
「遺伝子の力が及ばない」というところが紛らわしいのですが、
とにかく稲盛さんの「運命」は、つまるところは、生まれたとき与えられている、
自己の素質も含めた環境条件程度のものでありました。


                    


<「立命」の経営哲学>

そこで、思想はこういうことになってきます。
~~われわれが善き意識を持ったとき、宇宙に充満する「すべての」
生きとし生きるものよ、よかれかし」という創造主の意識とそれが合致する。
すると、宇宙の意識と波長が合い、すべてがうまく行き、物事が成功、
発展へと導かれていく、と。



また、
~~会社倒産などの没落や衰亡が起こるのは、うまく行っていたときに
宇宙の意識に反することをした報いとして起こるのだ、と。
具体的には、うまく行っていたときに「善きことをしなかった」
「世のため人のためになることをしなかった」
「その後、真面目に働かなかった」などによる。
それは宇宙の意識に反することである~~と。


                    


<長期では法則通り>

 ~~そして、「短い期間にはそのとおりにはなっていないことが多いが、
20年、30年というスパンで見れば、必ずそうなっている」という。
つまり、持って生まれた素質を含めた環境条件が人生を決める力は大きく
無視できないが、それでも、因果応報の法則でもってそれを変えることが出来る。
だから、がんばれ、ということですね。


                    


=補足=

 稲盛さんの「創造主の意識」は思想枠としては聖書のそれと同じです。
聖書における創造主は「自ら幸福そのものな方で、その幸福を人間に与えよう与えようとされる方」です。
そしてその波長と同じ意識を持てば人間は福を受ける。ここも同じです。

 どこか違いはあるか? あります。
聖書ではその創造主とはどういう方かを問うていくと、どんどん明確になってきます。
稲盛思想にはそれはない。あとは感性で感じてください、で終わります。
理念的に問うていくと、どんどん漠然としていきます。
これは本体と、本体のアイデアを援用した思想とに共通してみられる違いです。

稲盛さんは、若い頃「成長の家」の文書を学び影響を受けたといいます。
その成長の家は、聖書の理論枠を上手く抜き出したものです。
本体ではないから、内容を問うていくとどんどん漠然としていくのです。
仏教の浄土教も同じです。

稲盛さんが聖書そのものを読まれたら、凄い開眼をなされると思います。


                    


コメント (1)
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