鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

聖書知識は精神活動のインフラ

2015年01月12日 | 聖書と政治経済学




 聖書の知識は、基本が霊的な事柄で出来ていて、現世の知識と相容れない面が多いです。
だから、チャーチでは現世の政治経済問題などを語らない、という行き方もあります。
世的な事柄を語ると、「鹿嶋春平太チャーチ」の純度が下がるではないか、と懸念するわけです。


 だが、鹿嶋はいま現在、肉体をもって現世を生きています。
そういう人間として、政治経済・戦争・人間の獣性などを無視して続けると、苦しくなってきます。
そこでやはり現世の事柄を論じてしまうわけです。

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 でもその際、現世の思考と霊界的な思考との相互関係に関しては、やはり考えます。
当面鹿嶋の見解はこうです。

~すなわち、聖書の霊的世界の知識は現世の精神世界のインフラのようなものだ、とみるのです。
人間の精神はこのインフラ基盤の上で活動しているのであって、このインフラが、ややもすれば脆弱になりがちな精神世界を支えてくれるのだ~と考えます。
そしてその限りでは、現世の世的な事柄も論じていいと思うのです。





<インフラとは>

 インフラは英語のインフラストラクチャー(infrastructure)の略語です。
それは「基盤」「下部構造」といった原義を持っています。
それが転じて、社会経済学で道路、橋、水道、電力網など、人々の生活の基盤となる施設を指して用いられるようにもなりました。

 経済学ではこれは公共財とも呼ばれています。
私有財と区別されてのことです。

 自由主義経済社会では、個々人は利己心をベースにして営利を求めて経済活動をします。
それは市場価格の働きによって、結果的に個々人が社会に貢献するようになります。

 たとえば社会に鉛筆が足りなくなると、その価格は上昇します。すると鉛筆を造る人が増大し、鉛筆の量は具得ていきます。
逆に、過剰になると、価格は低下します。すると儲けが少なくなるので、鉛筆をやめてたとえばボールペンの製造に転じる人が出ます。
こうして市場価格が個々人の利己心に基づく行動を、社会にとって適正な状況に調整するのです。

 だが、市場価格の働きでは出来ないものもあります。今述べた道路、橋、水道、電気網などがそれです。
こういった広範囲なサービスの生産は利己心主導の私企業に任せきることが難しいです。

 私企業でおこなえば、それは私有財産として運営されます。
私有財産の用い方は、基本的に所有者の自由です。
だから、道路の所有者が「この部分はオレのものだから、親しくしている者しか通さないよ」と言うことも出来ます。

 だが、道路はみんなが必要とするものです。
だからこれはみんなの所有にして、みんなでありがたく使うようにしないと具合わるい、ということになります。
そこで税や寄付などとして公共機関に資金を集め、それでもってみんなのものとして造る、ということが必要になります。

 こうした公共財は、個々人が活動するための社会基盤とみることも出来ます。
その見方からこれら公共財がインフラストラクチャーと呼ばれるようになりました。

 そしてこの用語は、さらに、個人の日々の生活の基盤という意味にも展開できます。
住宅や通信回線などをさして用いるわけです。
もともと転用された言葉ですから、いろいろに展開されうる性格をもっています。

 そこで、これを個々人の日々の精神活動にも適用することも出来るでしょう。
つまり、人は精神活動、心理活動をしながら日々生活します。
そのための精神的な基盤を精神インフラと言うことも出来る。
鹿嶋はその意味で「聖書の知識は精神活動のインフラとして用いることができる面が多々ある」ととらえるわけです。
本日のタイトルはそういう意味合いで造りました。





<創造神という神イメージの供給>


 わかりやすくするために事例に沿って話しましょう。

 たとえば聖書は人間に「万物の創造神」という概念を供給します。

 人は、巨木や巨岩や建物や彫像などの「モノの中に内在している神」のイメージは自然に抱きます。
だが、それら全てを造った創造神という神イメージは、人の心に自然生成しないのです。
それは聖書の言葉によって、外から供給されて初めて心の内に形成されます。

そしてこの神イメージは人の心のなかで貴重なインフラとなって働きます。






<「存在根拠あり」の意識がもてる>


 人の知性は「自分の存在理由を知りたい」という思いを本能的に心に作り出します。
そしてその答えがない間は、人は自分に関して「ただ存在している」という意識しか抱けません。

 その間、知性は欲求不満状態に留められ、精神は宙ぶらりんで不安定な状態に置かれます。
われわれは「みんながそうだから」、と、通常は当たり前のように考えて生きています。
だが、実体はそうなのです。

 ところがそこに「万物を創造した創造神」のイメージが加わると、事態は変わります。
人間は自分がその神に「創造されたから存在している」と、存在根拠の意識を持てるようになるのです。
すると心はどっしりとしてきます。
創造神のイメージは、こうして人の知的意識に根底での安定をもたらすインフラとなって働くのです。







<存在物への肯定感が増す>


 人間の「ただあるだけ」という思いは、自分に対してだけに限らず、存在物一般に対しても抱かれます。

この「ただあるだけ」という思いは、ものごとに意味(価値)を感じていない意識を形成します。
いわゆる虚無的・ニヒルというのはこの心理状態です。

 人は通常、その心理状態をベースにして、事物の情報を受信して心に蓄積しつつ成長していきます。
知識は多くなるほど、心配事を増やします。
すると、神経の負担が増大の一途をたどります。
心は加重負担で過労に陥っていき、意識は鬱気分にならざるを得なくなります。

 情報化時代には、このスピードが非常に速くなります。
だから鬱病が増えるのです。

 だがここでも創造神のイメージが入ると事態は変わります。
すべての存在物が相応の目的をもって創られただろうという予感が心に生まれるのです。

 するとものごとに漠然ながら存在意義を感じられるようになります。
意義を感じれば、愛着も生まれます。
愛着が生まれれば、存在物を肯定する意識(アファメーション意識)が湧きます。

 万物の創造神という神イメージは、こうした心的姿勢を形成します。
この姿勢が心的エネルギーを増大させ、鬱気分を払拭する力を創ります。
これによって精神も復元し、知的向上心も再生・持続します。






<個別事例を大局観に位置づける習慣が身につく>


 まだあります。
創造神は時空にわたって無限なる存在です。
このイメージを心に抱くと、人は事物をそういう広大な全体観の中に位置づけてみるようになります。

 この位置づけは、個々の物事に明確な「理念としての」意味を人の心に形成します。
そうでなくとも人間は物事に意味を「感じて」暮らしますが、それは感慨であって漠然としたものです。

 明確に理念としての「意味」を心に形成すると言うことは、実は「解釈」することでもあります。
そして明確な解釈は物事への明確な意志決定と確固とした実践行動をもたらします。

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 余談になりますが、「プラグマティズム哲学」の集大成者、ウイリアム・ジェイムズはこの「位置づけ」を彼の認識論の大前提においています。

 プラグマティズム哲学は、19世紀後半に米国で起きた「アメリカに適した哲学」の追求のなかで創案されました。
研究者たちは、人間はみな実線生活のなかで認識を行うものであることに着目し、そこでの妥当な認識を追求しました。

 その哲学の集大成者・ジェイムズは、そこで全体観が個別事例の明確な意味をあたえることを示唆しています。
これは一つの発見です。
彼は著書の中で、この全体観のことを宇宙観と表現しています。

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 プラグマティズムは結果的に、欧州の科学認識論と対極に位置する、米国学問の認識論となりました。
欧州では、事象の細部を詳細・精密に分析することに最大の価値を置いていたからです。

 そして、この米国流認識論の重要項目である全体観を、「万物の創造神イメージ」は最も力強く人間心理にあたえるインフラになっているのです。









<「人間は肉体と霊から成っていて霊は永続する」と教える>


 もう一つ、聖書の提供するインフラ知識を語っておきましょう。
聖書は「人間は肉体と霊とからなっていて霊は永続する」との知識を明確に供給しています。

 もちろん人間はこの種の意識を、自然なままでも「漠然とは」もっています。
死んだら葬式しますし、お墓を造って手を合わせますしね。
夜暗闇の中で長い髪の毛が前に垂れ下がった女性を見ると、ぞっとしますよね。
これは霊的なものを連想しているからです。
そういう意識はありますが、それは消極的で弱いものです。
  
 その状態で、人は肉体を明確に目にしています。
そしてその肉体は死んで腐って風化しておしまいであることが、はっきり目に見えています。
ハッキリ見えるから、その意識は積極的で強いです。
その結果、人の心の内では「人間は死んでおしまい」という意識の方が優勢になっています。

 これは人生へのスタンスを基本的に「捨て鉢」にします。
「どうせ死んでおしまいだから・・・」とやけくそな気持ちを心に形成する。
この意識は人間の、自己の「生(せい)」に対する愛着心(生きようという執着心)を薄くします。

 ところが「霊は永続する」との意識を「明確に」持てば、事態は変わる。
「死んで終わりではない」という意識は心の内で積極的で力強いものになります。
積極的になれば、人はこちらの意識を、肉体への意識より優先していきます。
同じ積極的なら、「永続する」ほうが心が安定して気持いいですからね。

 その結果、生への愛着心が増大し、よき人生を望む気持ちも強くなります。

 これが精神エネルギーを沸き立たせます。
すると、様々な面にわたる向上心も高まり、かつ持続するようになります。
「人間は肉体と霊とからなっていて、霊は永続する」という明確な知識は、このような働きをするインフラなのです。







<知識インフラにもメンテナンスは必要>

 
 聖書の霊的知識は、以上に見てきたように現世の生活においても精神のインフラを形成します。
これは意識のベースでしっかり効きます。
だが社会経済のインフラと同様に、時間と共に劣化していきますので、メンテナンスが必要です。
そしてこのメンテナンスの対象は、精神的なイメージですから、心の中で想起再生して鮮度を維持してあげることが必要となります。

 霊的なイメージ知識は物的なインフラのように常時目に入るものではありませんので、鮮度の劣化は速いです。
想起と再吟味は周期的になされるのが好ましいでしょう。

 聖書知識が供給するインフラは、まだまだあります。
だがまずは、今回述べた二つのイメージを試してみられることをおすすめします。
トライしてみればわかりますが、この二つからだけでも、精神の動きが変化することを自覚できるでしょう。







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