前回、創造神イメージは、理屈(筋道)を含めた神イメージだと申しました。
端的に言えば、宿物神は「感慨の神」であり、創造神は「理念の神」なんですね。
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<空間的無限者>
理念はそれにつながる理屈を次々に産み出していきます。
理性がその理屈を活かし~
「万物を創造している方」であれば「空間的無限者」だろう、という筋道(理屈)を産んでいくのです。
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どういうことか、といいますと~
もし空間的に有限な方だったら、その境界線の外側のものを「オレが創った」というのは、筋が通らなくなるでしょう。
境界線の外側にも、ものが創造され、現れる可能性は常にあるからです。
外に現れるその「もの」も「万物」の一つです。
そして、そういう創造がなされる空間が「自分の懐のうち」になかったらどうか。
「それはオレが創った」とは言いがたくなるでしょう。
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であればその有限者は「万物の」創造者ではなくなります。
ですから、万物の創造神は空間的に無限な広がりを持った無限者でなければなりません。
空間的無限者であって、はじめて筋が通るのです。
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<聖句照合>
(ここは、聖句に慣れていない人はパスしていいです)
では、この推論に、聖句は呼応しているかを見ましょう。
聖書にはずばり「無限大」という用語はありません。
無限大というのは「限りなく大きな存在」という意味を持った聖句に触発されてできた数学用語の性格が濃いです。
聖句では次のような言葉が、「創造神は空間的無限者」なる思想に呼応していると思われます。
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「わたしは有りて在るもの(自存者)」
(出エジプト記、3章14節)
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「有りて在るもの(I amu who I am)」とは、「存在するのにいかなる前提も条件も要しない、自分だけで存在しているもの」という意味で、自存者とも訳せます。
(被造物はすべて、創造者という存在があって~その存在を前提にして~はじめて存在できるものです)
この自存者なる存在は、他の全てを自らの懐に含む、無限に大きい存在と考えられるわけです。
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他にもこんな聖句が呼応していそうです。
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「創造神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も諸天の天も、あなたをお入れすることはできません」
(第一烈王記、8章27節)
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「あなたは諸天の天と、その軍勢、地とその上のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます」
(ネヘミア記、9章6節)
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<無限空間イメージの創成>
創造神イメージは、自然発生してくれないものです。
その属性である空間的に無限というイメージもそうですので、ここで、この無限空間イメージを、意図的に意識につくっておきましょう。
まず、自分の身体の上下左右の空間を意識します。
外側には壁が意識されるでしょう。
次に、それを上下左右に向けて広げていきます。
そういう状態をイメージします。
広がっても、当初はやはりその外側に壁があると意識されます。
だかまわずどんどん広げます。
黙想(瞑想)を加えていきます。
するといつのまにか、壁の印象が薄れて、限りなく広がり続く空間イメージになるでしょう。
上手くいかない人はそれでいいです。
時の流れの中で、無限空間のイメージは得られていくでしょう。
(続きます)
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