中国の国家史を統治者に焦点を当ててみると概略~
(春秋戦国時代)→秦→漢→隋→唐→宋→元(蒙古民族)→明→清(満州民族)
→中国共産党国(中華人民共和国)
~となります。
始皇帝によって「中国は一つ」の民心が確立されて以来、
統治者は民族を一つにする仕事は少なくて済むようになりました。
以後、中国統治の野望をもつものは、その一つになっている民族集団の統治権を
奪取することを主に考えればいい状態になったわけです。
上記はその奪取者の変遷をも現しています。
隣接する異民族が中国の統治権を手中にすることもありました。
元は西方の蒙古民族が統治権を手にした状態での国家です。
清は北方の満州民族が統治権を手にした状態での国家です。
<西安での衝撃>
日本はこのうち唐の国際都市長安から、最大の恩恵を受けています。
長安は、唐の衰退と共に崩壊しました。
今ではその地の一角に、当時の有様を再現した模型都市があります。
名を西安(シーアン)といいます。鹿嶋はそこを訪れました。
西安は城壁に四角く囲まれた城壁都市でした。
これは長安が置かれていた環境に由来しています。
長安は蒙古など西方の騎馬民族に接していました。
彼らがいつなだれ込んでくるか判らない。
そこで高い城壁でもって周囲を囲み大都市を運営していたのです。
西安にも四角形の東西南北各々の辺の中央地点に城門がつくってありました。
その各々から街の中心部にメイン道路が向かっていました。
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各城門を起点にしたメイン道路は中心部のロータリーのような広場に流れ込んでいます。
ロータリーの中心部には鐘楼と呼ばれる高さ38メートルの建物がありました。
中に鐘がおかれています。昔は朝が明けると70回鳴らされたそうです。
長安ではこの鐘の音を合図に、朝になると城門を開けたと言います。
日暮れになると治安のためにすべての城門を閉じていたのです。
西安の鐘楼の建物には一般人も入ることが出来ます。
鹿嶋は建物の棟に上って、東西南北の四方にある城門に目をやりました。
黄砂のせいもあるでしょうが、城門は遠くに霞んで見えていました。
模型都市といえども西安は鹿嶋には、それほどに広大な都市でした。
奈良の平城京は長安をモデルにしてつくった都市と言いますが、
西安が縮小模型だとすれば、平城京はミニチュア版の箱庭に思えました。
筆者は、この西安の大きさに感嘆し、これが唐の時代の国際都市長安の模型であることを
しばし放念していました。
その鹿嶋に、同行の研究者は「長安はこの9倍の広さを持った巨大都市であった」と告げました。
「なぬっ?!!」
筆者は人口百万だったというその城壁に囲まれた都市をイメージしようと努めましたが、
ほとんどできませんでした。
<驚愕の国際都市・長安>
この巨大都市・長安に唐の時代、日本から多くの留学生が来ていました。
空海も最澄も留学僧として学び、多くの成果を日本に持ち帰りました。
その知識をもとに空海は京都の高野山に金剛峯寺を、最澄は比叡山に延暦寺を建てました。
鹿嶋は空海が修行したという青龍寺に赴きました。
それは西安の郊外にあって、タクシーでしばらく走って到着しました。
青龍寺は宋代以降は荒廃し、建物の構成物の多くが土に埋まってしまっていたそうです。
これを、日本の真言宗の信徒さんたちが基金を募って掘り出し、寺を再現したという。
空海は讃岐の人だったので、四国は讃岐の真言信徒が中心になって再現したそうです。
この青龍寺の位置も、かつては城壁都市長安の内部の一点だったと聞いたとき、
やっとその巨大城壁都市のイメージが筆者のうちに湧いてきました。そして改めて仰天しました。
これは日本人の想像を超える巨大国際都市だったのです。
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今でも中国では、やること、起きることが日本より一桁大きいです。
日本には人口5百万を超える都市は、東京と大阪だけです。
名古屋も横浜も2百万台です。
ところが中国では、人口7,8百万の都市がざらにあります。
なにせ、総人口が日本の10倍ですから、すべてが一桁ずつ大きいのです。
中国で洪水で住民が一万人死んだ、というのは日本では千人死んだという感覚の出来事です。
太平天国の乱では、戦乱と飢餓で中国人は2千万人死んだと言われています。
当時の日本では、それだけ死んだら国がなくなってしまいそうです。
だが、日本の感覚ではそれは2百万人死んだとイメージするのが正解です。
この感覚変換がわれわれ日本人にはなかなか出来ないです。
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長安は膨大な国際都市でした。そこにすべての民族、文化が出入りしました。
異民族が出入りすると治安の危険がまします。
とりわけ日が暮れると危険は大きく増しました。
今のように、電灯やネオンサインが明々と街路を照らすことのない時代。夜は真っ暗闇です。
統治者はこれに対して、日が暮れる頃になるとすべての城門を閉じること、
かつ、内部に碁盤の筋目のように縦横に走っている道路の交差点を、すべて閉門すること
~でもって応じました。
日本の江戸でも、街の道路の結節点に番所をおいて治安を守りました。
長安はさらに門を造り、日が暮れるとそれを閉じたといいます。
すると夜の間には、人々は一つのブロック内だけで暮らすことになります。
もし犯罪や暴力沙汰が起きても容易に犯人をとらえることが出来ます。
ブロックを超えて人が渡り歩くことが出来ないという状態は、夜の治安を大きく高めました。
統治者はこの状態で、昼間には隣接民族の出入りや商売などの活動を自由にし、
人口百万という大都市を国際都市に保ちました。
この都市統治センスと能力もまた鹿嶋を驚嘆させました。
そこには諸外国の商品が持ち込まれ、商われ(その一端は西安にも見られました)、
儒教も仏教もキリスト教も互いに刺激し合い、発展しあっていました。
インドから玄奘三蔵(三蔵法師)が運び込んだ仏教の経典が、漢字訳され、導入され学ばれていました。
ネストリウス派のキリスト教僧侶も活発に伝道し、あちこちに教会を建てて大繁盛していました。
この思想を取り入れて、浄土仏教という中国独自の仏教も展開していました。
(善導という僧侶が集大成したこの仏教を、後の留学僧・法然が学んで日本に持ち帰り
浄土宗を開きます。それを学んだ親鸞は浄土真宗を開きます)
むろん、中国伝統の儒教も競って発展していました。
<毛沢東の指摘>
見逃してならないのは、こうした活動はみな漢字という成熟した文字があって可能になることです。
この文字によって多くの知識が記録保存できた。
それをもとにさらに思考を深く詳細に展開することも出来た。
この漢字が日本の留学生によって輸入され、日本に広く普及しました。
奈良時代にも漢字は一部で表音文字として使われ、
それによって「万葉集」「古事記」「日本書紀」などが書かれましたが、
意味を含めて漢字を輸入したのは平安時代の長安留学生たちでした。
これによって日本も文化国家に踏み出すことが出来ました。
のちに音記文字(ひらがな、かたかな)を考案し日本語での記録をさらに楽にしました。
ひらがなは「いろは歌」に納められ普及しました。空海がこれを考案したと言われています。
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話は飛びますが、後年1972年、当時の田中角栄首相が中国に出向いて日中国交回復を実現した際、
毛沢東主席に面会しました。
そのとき主席は、日本が漢字を輸入しそれに「かな」を加えて使いやすくしたことをとりあげて
「よくやった」と褒めたと報じられました。
これを大称賛されたかのように、日本人の凄さが認められたかのように、
日本のマスメディアは報じました。
だが、そうではなかった。毛沢東は別の意味でそれを指摘したに過ぎなかった。
30余年後に西安の現地に立つことによって、鹿嶋はそのことをしかと悟りました。
<「かな」文字などちょっとしたアイデア>
漢字は紀元前にすでに、孔子の深遠な思想を記録出来る知的道具になっていました。
唐代には、意味伝達機能もさらに発達していました。
デザインも洗練されていた。
最初は象形文字でしたが、これも紀元前に書道が造形美術の素材になるほどに改善されてきていた。
デザイン的にも素晴らしい姿になっていたのです。
中国のこの文化的先進性には日本人は驚嘆すべきです。
この頃日本は、やっと縄文式から弥生式土器の時代に移行せんとする未開地でした。
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また平安時代(中国の唐代)にもどります。
この時代に日本人がしたのは、輸入した漢字に少々工夫を加えて、
カタカナやひらがなという音記文字を付加したことだけでした。
これを漢字に混ぜ合わせると、日本語の思いを記録するのは容易になりはしましたが、それだけです。
日本国内にいると、これもまた大発明のように思えることもあります。
けれども「かな」の発明は、漢字そのものを作り出したオリジナリティに比べたら、
いただいたものを文字通り「チョット工夫しただけ」にしかすぎません。
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毛沢東はそれを言ったと鹿嶋は悟りました。
中国は長安に来た日本人留学生を寛大に受け容れ、この漢字を習得し持ち帰るのを助けた。
そういう恩を日本人は受けているのだよ、と。それを軽く言ったのです。
中国がこうした恩恵を日本に与える背景には儒教思想があります。
中国は親であり、朝鮮は兄、日本は弟なのです。
だから中国は、「親の正しい道」として我が子・日本に恩恵を施すのです。
実際日本は中国に多大なる恩恵をほとんど一方的に受け続けて来ました。
にもかかわらず、この息子はその恩義をさほど感じていない。
それどころか、ごく最近少し経済発展に先行したからといって、
中国を遅れた国のようにみている。
それはおかしいよ、と毛主席は軽く指摘したのです。
日本が西欧の科学文化を吸収できたのは、
漢字によって文化を記録、伝達する資質を養えたからではないのか。
その漢字を中国が寛大に与えたのは、親のつとめとしてなすべきことだからそれでいい。
だが、受けた方が、その恩を忘れてしまっているのは問題だよ。
のみならず、西欧科学の吸収において多少先行したからといって先輩面するのは、軽薄だよ~と。
毛沢東の日本に対するこの姿勢は、今も中国指導者の意識の根底にある基本スタンスです。
政治家だけでなく、日本人は、これをきちんと認識してないと、適格な対応は出来ないのです。