~~鹿嶋春平太チャーチへようこそ。
前回述べたことを、もう少し砕いて言ってみましょう。
聖書は創造主からのメッセージを霊感の豊かな人が受信して書き留めたものだ、といわれていますね。
記録者は霊感が豊かなだけでなく、聖霊によって導かれて書いたのだ、と。
聖書そのものがこれはそういう本だといっています。
鹿嶋は、それは受け入れるわけです。
だけど、そうかといってやはりそれは有限な人間が受信して書いたものだ。そ
の受信には、若干のずれがあるのは当然ではないか、と考えるのです。
+++
もっと基本に立ち返って考えますと、
そもそも、人間の言葉がメッセージを収録する媒体として不完全なものなんですよね。
ベートーベンに「音楽は最高の啓示」という言葉があるといいます。
つまり深い啓示を記録し、伝達するには音楽に勝るものはないというのですね。
もちろん、明晰さという点では言葉は音楽に圧倒的に勝りますけれど、
深く微妙な啓示を伝えるにはやはり音楽にはかなわないかもしれません。
また、そういうことを言い始めたら、絵描きは「絵画こそ最高の啓示」というかもしれません。
造形物でしか伝えきれない深いものもあるでしょう。
がともかく、言葉には記録媒体としても、伝達媒体としても明らかな特徴がある。
ということは相応の限界を持っていると言うことでもあります。
その言葉でもってメッセージ内容を記述したのが聖書です。
だから字面(じづら)をつきあわせたら不完全なところがでるのも当然ではないでしょうか。
けれども、だからといって、そこには完全に真理だといえるものはなにもない、
ということにはならないんですね。
不完全な人間である預言者や使徒たちに啓示されたもの、
創主からのメッセージそのものは完全な真理だと「信頼」することは、出来るのです。
字面は、それを探求するための手がかりにすぎません。
が、この手がかりがあるというのは、何ともありがたいことなのですね。
<ポジティブな精神の源>
「まあそうも絶対真理にこだわらなくても・・・」、
といって下さる方もおられるかもしれませんね。
だけど、これは大事なことですよ。
世界に絶対に信頼できる完全真理があると確信しているかと、
ないんではないか、と思っているのとはその精神状態に大きな差が出ます。
言ってみれば、精神をポジティブに保つ源は、
世界に真理がある、という信頼感なんですね。
そもそも宗教的なものを求めるというのは、ポジティブな精神を持って人生を送りたいと願うからでしょう。
そのためには絶対真理が必要だ。だからそれを求めるのですね。
世捨て人、虚無主義者以外の人は、絶対真理がどこかにあってくれることを求めるのですね。
ただし、その真理そのものを人間の手で書かれ文字の字面(じづら)に求めたら、
無理が出るのです。
佐倉さんも、久保牧師さんも、どちらもそれを求めておられます。
佐倉さんもかつて求めたから、それを確かめようとした。
そして、求めて確かめようとすればするほど、記述文につじつまの合わない矛盾が出てきてしまった。
とうとう耐えられずに、仏教に移られたという方のようです。
でも、その検証に長い時間を費やされました。
ということは、その間、絶対真理があることを期待し、求め続けたと言うことですね。
根がまじめな方なんですね。
久保さんの場合も、同じ。
人間の手で書かれた文章に、絶対無矛盾な真理を求めておられます。
だから、現存しない原本に期待を置いていくことになるのですね。
(続きます)