鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.16 「“信”なくば立たず」

2005年11月30日 | 「考える宗教」へ

チャーチにようこそご訪問下さいました。

 前回の続きです。
 聖書は「本筋を読む本」です。
    文脈と言った方がいいかな? とにかくそういう本です。

                              


 本筋の骨子がある程度把握できたら、それが聖霊と共鳴するのを待ちます。その共鳴によって感知されたもの、霊感でキャッチされたもの、それが人間が聖書に求める絶対の真理なのでしょう。

+++

本当にそんなものに出会えるか?
 それはもう、各々やってみなければわかりません。
 
 わからないにもかかわらず「やってみる」なんて出来るか? 「そこに真理がありそうだ」という信頼感があるときにはそれは可能になるでしょう。その感覚が出発点においてなければ成り立たない。

 まさに「信なくば立たず」です。


                       

 その信頼感が世に言う「信仰」の実体だと鹿嶋は思います。
 信頼は出発点では、「聖書に対する信頼の感覚」です。そういう感覚をもっていて聖句の門の内側で活動していると、それは深まり成長していくんですね。

(続きます)
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コメント2:くりまんサンからも

2005年11月29日 | 「考える宗教」へ

~~斉藤さんのコメントのページに、くりまんサンからもコメントが入りました。

 「読む人いないのでは・・・」と心配していたところに、「読んでるよ」との信号が二人もの人から入ると、単純な鹿嶋はまるで一グループの同志がいたような気になりました。

 くりまんサンには、以前に了承いただいておりましたので、これも本文に転載させていただきましょう。


                              



Unknown (くりまん) 2005-11-28 20:24:58

こんにちは。いつも更新を楽しみにしております。

 日本の多くの教会において、「証し」は信じて受洗した時のものを歌手の「一発ヒット曲」のようにその後何年も語り継いでいく傾向にあるように思います。

 一部の教派においては、救いをうけた後の「聖霊のバプテスマを受けた証し」や「癒しの証し」等がみられますが、現状ではこれらを堂々と証しするのは、牧師さんに遠慮してむずかしいのではないのでしょうか? 

+++

 そこで救われた後の証しは、教会内での活動をとおしてのものや、日常生活において「神を意識した出来事」などのあたりさわりのないものが中心になっているように思います。これらのものは「証しをするための」証しのようなものも多く、「神は付け足し」のようです。

                             


 救いを受けた後、牧師さんを含めて、何を追及したらよいのかわからず、社交サロン化してしまっている教会が多いのではないのでしょうか? 

~~う~ん、言われて気づきました。意図的ではない、「何を追求したらよいのかわからないから・・」だったのですね。これを誰かが明確に示さなければなりませんねえ。


                    


 私自身、未信者だった頃、罪責感の中で苦しそうに祈っている先輩方を見た時、「救われるのは死ぬ間際でいいや~」と思ったものでした・・・(苦笑)。

~~う~ん、これもまた痛烈。「痛烈大賞コンテスト」もうけたら、斉藤さんとトップを争いそうだなあ・・。(鹿嶋)


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コメント1:”証しゴッコ” に絶句

2005年11月28日 | 「考える宗教」へ

~~本日も「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。

斉藤さん、というかたから、Vol.2「門前活動に留まってしまう」についてのコメントをいただきました。
読みやすくするために、本文の方に表示させていただきます。
ご本人からの了承を得ています。

 理屈っぽい話が続きますので、読む人なんかいないのではないか、と懸念しておりました。読んでくださっている方がおられると知って、ほっとしました。
 

                              


春平太先生

ついて行くだけで息を切らせていますが、読んでいることを知ってもらうため、たまには感想ぐらい書くようにします。

”証しゴッコ”と言い表されていますが、これ、強烈ですね。なんとなく、教会の実情が想像できてしまう気がするのです。

+++

もともと、わたしは、”あかし”というのは、洗礼の儀式で行われる、大学で言えば卒論発表にあたるようなものだと思っていました。

研究者の道を歩む人なら、卒論は、研究の出発点でして、ゴールではありません。 それと同じく、受洗することは、どう考えても信仰のゴールではなくスタートなのですから、それ以降は、ゴールを目指して進まねばならないはずです。

ところが、自分がスタートしたあと、すぐ観客席に戻って後続の人たちがスタートするのを観戦したり、あるいは、次の人が無事にスタートできるためのお手伝いに走り回ったりしていたらどうなるでしょうか。

なんだか滑稽を通り越した図式ですが、本人は、決してふざけているわけでなく、大真面目でやっているだけに笑う気にはなれないのです。

+++

ある人から聞いた話を思い出しました。
冗談かどうかわからないのですが、死ぬ間際になってから、病床洗礼を受けて、人生の一発逆転を狙うような考えの人がいるそうです。 

もしも、受洗することを、あたかもゴールだと考えてしまうなら、それで何の問題もないことになります。

                    

 
もしかして、洗礼を受けられた周囲の方々のその後の様子を見て、これだったら後回しにしてもかまわないだろうと思われたのかもしれませんね。

~~う~ん、この最後の一文も、鹿嶋に劣らず強烈だなあ・・・(春平太)。
コメント (3)
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Vol.14 「字面は焼け火箸にもなる」

2005年11月27日 | 「考える宗教」へ



 前回、真理とは言葉の外枠をガイドにして感知される霊であると言いました。

 なのに、聖句という言葉の字面が、絶対の真理とするとどうなるかを、今回は考えましょう。


                              

 言葉は、外枠としての金網でしたね。これ自体を真理だと見なすと、その金網が真っ赤に熱せられたような状態になるのです。

 かな(金)火箸、というのをご存じですか?
 火のついた炭などをつかんで取り出したりする時に使う、金属で出来た箸です。
 これを火の中に入れておきますと、熱くなって真っ赤になります。

 これを「焼け火箸」といいます。
 もう熱くて使えません。距離を置いて見ているしかない。
 触ったらやけどして、水ぶくれになります。
 もう、怖くて触れない。

 たとえば、前述したイエスの言葉ですね。「もし右の眼が罪を犯したら、その眼をえぐり出して捨てなさい・・・・」云々の命令の言葉。これなど字面のみをとったら、焼け火箸ですよね。

 聖句の金網も、字面を絶対の真理としたら、焼け火箸のようになります。
 真っ赤に燃えた焼け金網になる。
 一度触ったらもう、怖くて触れなくなります。

 字面を絶対真理としたら、聖句はそういうものになってしまいます。
 そうなると、もう聖句の門の中に踏み込んでいこうという気にならなくなります。

+++

 ではどうしたらいいか。内容のつながりを読みます。そのつながりとは、別の言葉で言うと「本筋」です。聖句には、細部において一致しないところがありますが、ありがたいことに、本筋においては、信じがたいほどに首尾一貫しているのです。

 それを見つけ出そうとしていくのです。その際、留意すべきことがあります。それは「個々人が、各々のペースで、各々の回路で探り出していく」ということです。

 聖書の世界は飛び抜けて深いです。みんな、そういう個々人ベースでしか「納得ある理解」には至れないのです。これについては後にもう少し詳しく考えましょう。

    (続きます)

                    


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Vol. 13 「基本骨子は一貫している」

2005年11月26日 | 「考える宗教」へ


 「鹿嶋春平太チャーチ」へようこそ。

今日はこれまでの話をまとめてみまましょう。

                              
        


 鹿嶋は、聖書に人間の言葉で記されている聖句は、外枠であり金網でしかない、と考えてきました。

 もちろん、その金網は、天の創主の思いにかたどられた独特の形状を持っています。そして、その金網は永遠不滅のもので出来ています。形状も変化しないし、不滅です。

 けれども、外枠はやはり、中身の霊を霊感でもって認知させるためのガイド(案内)であり「手がかり」なのです。

 絶対の真理の本体は、その中身の霊である聖霊なのです。そしてそれは、雰囲気という「気」としてのみ感知できるものです。

+++

 それが雰囲気(より正確にはオーラ)として霊感の豊かな人に与えられた。あるいは言葉で与えられることもあった。が、ともかく旧約の預言者や新約の使徒たちはそれをキャッチしました。 そして文字に書き留めました。

 だけど、彼らの霊も、この世では肉体の中に閉じこめられている霊です。
 罪を犯す前の「はじめのアダム」は、肉体の影響を受けないほどに強い霊でした。だが、「あとのアダム」やその霊を受け継いだ人類の霊からは、力が減退しています。

 だから、霊感でもって受信すると言っても、やはり、多少のバイアス(ずれ)が生じる。これは自然な、法則通りなことなのですね。

+++

 言葉の限界もあります。

 創造主からのメッセージには、言葉として与えられていないものもあります。映像(まぼろし)もその一つで、「ヨハネの黙示録」などではそれがたくさんあります。

 そういう言葉でもって受けていないものについては、ヨハネは言葉にする必要がありました。

 人間の言葉は有限です。
 霊感を言葉に置き換える能力も、有限です。
 そういう文書が集めて納められたのが聖書です。文書の間で、細部にわたったところの描写に多少の不一致があるのは、それは自然なことなのです。

+++

 けれども、なんともありがたいことに、それらは細部においてでした。基本的な骨子においては、驚くほどに一貫して矛盾がありません。

 「旧訳聖書はわたしについて預言したもの」というイエスの言葉に立って解読していくと、終始一貫筋が通っていきます。

 そして、それえを手がかりにして、その中身のオーラ(霊)を感知できるときが来ると、聖書は「わかって」きます。この霊(聖霊)が、絶対の真理の本体なのです。
字面ではありません。字面は外枠の金網です。


                    

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Vol.12「“聖霊のバプテスマ”の構造」

2005年11月25日 | 「考える宗教」へ


 聖書では、人間は本来、聖霊の感触を心の最深部で渇望しているものだ、という人間観です。

 これを受け入れますと「人はイエスの言葉の中身が一つわかると、さらに欲しくなる」という道理になりますね。

 これが御言葉(イエスの言葉、創主からの言葉)への「飢え渇き」です。

 これが増すと、人間は、イエスの言葉がもっと欲しくなります。

 学ぶと心に抱く言葉の数が増していきます。

 それがまた、外側の聖霊と共鳴すれば、イエスの言葉で出来た共鳴箱が、その人の意識の中に増えていくことになります。


                                      


そうしていると、驚くべきことがおきると、聖書は約束しています。

 そういう人間の心には、あるとき、聖霊そのものが内にはいる、と。

 これが聖霊のバプテスマです。

<風のような聖霊>

 これがまた、画期的な事件なのですが、その前にそれ以前の状態について考えます。

 通常この地上にきている聖霊は、風のようにきて風のように去ることを繰り返しています。

 ニコデモというユダヤ教の僧侶に、「風は目に見えない。それはどこからともなくやってきて、どこかわからないところに去っていくよね。だけど、我々には風が存在するという感触は確かにあるよね・・・」という主旨のことを、イエスは教えています。

 この風は、聖霊のことをたとえていっています。

 そうすると、人間の外側から働きかける聖霊も、働きかけては去っていくことになりますね。

 もちろん、きて働いて欲しいときは、祈れば答えてくれる可能性もあります。

 けれども、人間、クルマの運転してるときもありますし、お金の計算しなければならないときもあります。

 この世で肉体を持って生きている間は、二十四時間一秒も絶え間なく聖霊を祈り求めることは、実際の話、出来ません。

 で、聖霊は、去っていくこともあるのです。

 そして去っていったら、イエスの言葉で出来た共鳴箱は共鳴しないという通りになります。

 そうなったら、イエスの言葉から得られる実感が、消滅します。

+++



 ところが、聖霊は、人の心の内に入ってしまうこともある。
そして聖書では一旦入ったら、もう出ないと約束しています。

 すると、その人の内では、イエスの言葉が常時共鳴するようになります。

 「聖霊を受けたらイエスの言葉が突然よくわかるようになった」という証言をよく聞きますが、それが理由です。

 飛躍的にわかるようになる。
 そうすると、「御言葉への飢え渇き」も飛躍します。
 従来とは比較にならないほど、イエスの言葉をその人の霊が求めるようになるのです。

       (続きます)


                  


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Vol.11「イエスの永遠の言葉が“わかる”とは?」

2005年11月24日 | 「考える宗教」へ

 イエスはまた、「この天地が消滅しても、わたしの言葉は消滅しない」といっています。


                                      


 この場合まずは、イエスの言葉の金網は、金かプラチナかダイヤモンドか、とにかく頑丈なもので出来ているとイメージしたらいいでしょう。

 鉄もダイヤモンドも物質ですから、時間がたてば風化して消滅します。
 イエスの言葉の外枠の網は、そういう物質を超えた永遠不滅の存在ですが、我々はイメージとしては物質に投影するしかないですからね。

 まあ、このへんはしかたないです。

 鹿嶋個人は、言葉は霊が凝固したもの、あるいは、凝固した外枠的部分、というイメージを持っています。すると、イエスの言葉は聖霊でしたから、聖霊が凝固した外枠的部分となる。

 聖霊が凝固するなんて変かもしれませんね。
 では、こうしたらどうでしょう。
 聖霊は、なにか永続するものでその外枠を形成することが出来る、とか・・・。

<イエスの言葉を解するとは?>

 ともあれ人間は、イエスの言葉を、まず、この外枠の金網として受信します。

 そして、それをはき出さないで、心に保っているとある時(さらに、その中身が知りたいと祈っているともっと早くに)その空洞が、外にきている聖霊と共鳴します。

 共鳴箱のように、共鳴します。

 そのとき、我々はイエスの言葉の意味が「わかった」という感触を持ちます。

 その感触を、霊感によって得るわけです。


(続きます)

                    

   
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Vol.10「“イエスの言葉は霊であり、いのち”とは?」

2005年11月23日 | 「考える宗教」へ


 鹿嶋春平太チャーチへようこそ。

 言葉は金網、中身は気(霊)と前回に申しました。
これを基礎知識として、いよいよ聖句について考えていきましょう。


                              
 

 気は霊ですから、それを感知する能力をである感性を、霊感ということも出来ます。
ここでも霊感というと、多くの日本人はギョッとしますけれども、なんのことはない、感性と実体は同じです。

 感性でつかむものは、気であって、それは霊と言われているのと同じです。
 で、その霊を感性で認知するのですから、霊感といってもなにも不思議はないのですね。

+++

 さて、懸案の聖句です。
イエスは「わたしの言葉は霊であり、また、いのちである」と言いました。
「鹿嶋春平太チャーチ」の基礎知識からしますと、これの意味するところは、次のように考えられます。

<イエスの「言葉は霊」とは?>

 イエスはいま、人間の使う言葉を使って語っています。
 そして、その言葉を構成するのは、外枠としての金網です。

 そして我々が言葉を使うときには、金網には中身が入っていることもありますし、入っていないこともあります。霊(思い)がこもっていない空虚な言葉をはくことが、我々人間にはあるのですね。

 だがイエスの場合はそうではありません。イエスは「自分が語っているとき、この言葉は中身も完全に入っている」といっているのです。

 中身とは霊(思い)でしたね。
だが、イエスの場合はそれは常に「天からの思い」です。
イエスの「自分は父なる創主から受けたことをそのまま語っている」という言葉からすると、そうなりますよね。すると、イエスの思いは「天の創造主からの思い」でありますから、これすなわち、聖霊となります。

 こうして「私の言葉は霊」とイエスが言っている霊は、「聖霊」のことだとわかってきます。

<「言葉はいのち」とは?>

 で、聖霊はいのちエネルギーを創造主から100パーセント受け、かつそれを放射していますよね。だから、実質的には、創造主と同じく、いのちエネルギーの源泉なのです。

 そこで「イエスの言葉は聖霊という中身を常に持っている」ということは「いのちエネルギーで常に満ちている」ということにもなります。

 だから、「イエスの言葉はまた、いのちでもある」ということになるのですね。

  (続きます)

                    



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Vol.9「言葉は金網製のネット」

2005年11月22日 | 「考える宗教」へ


鹿嶋春平太です。
まず、言葉一般について考えましょう。
その知識をもとに、次回に聖書の言葉を考えます。


                              


 人間が使う言葉ってなんでしょうか
 その役割は、ネットで出来た入れ物、容器のようなものと考えられます。

 サッカーボールを入れる網の袋があるでしょう。ボールを入れると網はボールの形になります。一つ入れたら一つの、二つ入れたら二つの形になる。その袋のようなものだと考えたらいいのではないかな。

 ただしそのネットが繊維で出来ていると、ボールを出したら形が崩れてしまいますよね。言葉にはちょっと違うところがある。中に入ったものの形をとどめています。これを現すには銅などの細い針金で出来ている金網だとイメージしたらいいでしょう。

 金網ですから、一定の形を持っているわけです。そうしたらボールがなくなると、クシャンと形が崩れてしまうことがなく、形が残ります。

 そういうものだと思ったらいいです。

+++

 でも、金網はサッカーボールを入れる容器であって、中身のボールそのものではありませんね。言葉も、そういう容器であって、中身ではありません。

 では、言葉の中身はどうか、というと、それは一つの雰囲気としか言えないものです。雰囲気、すなわち「気」です。

 これは、人間が、感性でもって認知することの出来るものです。
 感性を働かせれば、キャッチできる。
 そういうものです。

<気は霊>

 では、気とは何かというと、それは別の言葉で言えば「霊」です。
 霊というと、日本人はギョッとする傾向がありますが、なんのことはない、それは気功術などでいう、気です。同じものです。

 その気が、言葉という金網の中に入っている、それが人間の使う言葉の状態です。
 この気がなくなっても、金網は残りますね。

 言葉も、このように、容器である金網だけになっても残ります。

でも、その場合は、中身の気の感触がありません。気は目で見ることは出来ませんが、人間が雰囲気として感じ取ることが出来るものです。

 だが、感じ取れないこともある。その場合我々は、日常、「空虚な言葉」と言っています。

+++

 でも、外枠の容器だけになっても、それは金網ですから、本来中に入っていたものの形は残していますよね。我々は、その金網の形から、本来あった中身をイメージすること、思い描くことが出来ます。

 そして、その中身に一定の確信が抱けますと、そこに、気がよみがえってきます。

 これが、「言葉を読んで“わかる”」ということです。
 我々は、本などで他人である著者の言葉を読んで「わかった!」といいますね。
 それはその中身の気(霊)がよみがえったとき、それを感性でつかんだときの状態に他なりません。

 ~~~以上を基礎知識として、聖書の言葉とその中身について考えましょう。

  (続きます)


                
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Vol.8「ベニー・ヒン摘発研究所」

2005年11月21日 | 「考える宗教」へ

鹿嶋春平太チャーチにようこそ。

 前回、久保さんの「原本の文章は絶対真理」という見解を、ファンダメンタリズムとおなじといいました。今回、これを考えましょう。


                                      


 久保さん的見解では、まだ、人間が受信し言葉でもって記録するものに、完全な真理の可能性があると考えているのです。

 新訳聖書の原本は残っておりません。だけど、聖霊に導かれた使徒たちには、完全な真理を受信し、記録することが出来た、と考えている。これは人間に真理のメッセージを完全受信でき、かつ記録できる、という思想を含めているのです。


+++

 そういうことになりますと、たとえば、ベニーヒンのような人の霊感受信も完全なものであり得る、となります。

 彼の「癒しのクルセード」集会では、癒された人が舞台に上がって癒されたことを証言します。そして、証言をした人が舞台を降りようとするとき、呼び止めることがあります。

 その人に、「まだ***に病んでいるところがあるのでは? いま、聖霊が自分にそう告げたんだけど・・・」と尋ねます。すると、当人が「そうだ」というのです。こういうことが時としてあります。

 人間に完全な霊感受信が可能と思っていますと、こういうものに対する反応は、次のような両極端のどちらかになります。実際にはこの二つを時計の振り子のように行き来することも多いようですが、とにかく二つの極とは次のごとし。

 ① 一つは「すごい!」と彼に心酔してしまう、という極です。

 ② 今ひとつの極は、彼の霊感を、「あんなものはまやかしだ!」と、100パーセント否定するという反応です。どうしてそうなるかというと、肯定すると100%心酔することに自分がなる恐れを感じる。それが怖いから、最初から徹底して抵抗・否定するわけです。

後者のケースは米国でも多いです。カリフォルニアに、ベニーヒンの説教を全部記録して、それが聖書と合致しないところを暴き出すための研究所まである、という話を鹿嶋は聞きました。まさかと思いましたが、どうも本当らしいです。

どうしてこんな過剰反応をせねばならないか。人間の霊感受信は完全になりうる、と自覚的であれ、無自覚であれ、思っているからなんですね。で、つぎつぎにしるしを現すベニーヒンをみると、それに自分が心酔しかけていく。これが怖いから懸命に抵抗線を造ろうとするんですね。

+++

 事実は、絶対否定(拒否反応)と絶対肯定(心酔)の間にあるでしょう。

 ベニーヒンは霊感で何かを受信しているのです。でも、それは100パーセント正確なものではない。クリアではない。やはり、何パーセントかの明確さでもっての受信なんですね。それのパーセンテージも、時によって変化するでしょう。

 彼自身、霊的なコンディションが悪いときには受信が困難になると言っています。当たり前のことです。人間の受信ですから。

+++

 しかし、久保有政さん的見解を安易に受け入れていると、人間のすることへの過剰な期待が心に出来てしまうんですね。するとそれらしき人やその人の言うこと、書くことを絶対真理だと思いがちになる。ところがそうなるのは怖い気持ちもある。そこで恐怖感を持つようになります。

 つまり、「真理が人を自由にしない」可能性が出るのです。人間が自由に向けて進むためには、最低限言葉の限界を知ることが必要条件であります。次回にそれをもっと詳細に考えましょう。

(続きます)

                    
          
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Vol.7「聖句絶対主義は人を自由にしない」

2005年11月20日 | 「考える宗教」へ


 私たちは「真理は人を自由にする」というイエスの言葉を深く詳細に考える必要があります。
人間の言葉そのものに、それを記した文字の字面(じづら)に絶対真理を求めるいきかたは、
人の精神の自由を奪うのです。


                              


ヨーロッパの中世では、1000年以上にわたって、カトリックの教理主義が人々を支配しました。
教理というのは、聖書の解釈です。
その一つを教団が正統な解釈とすると、それが教団教理となります。
カトリックの教理はとくにドグマと言います。

 中世のカトリック教団は、国家の宗教省(日本で言ったら文部科学省)で、
国家権力でもって人民の宗教姿勢を統制できました。
彼らは聖句の自由な探求を禁じました。自分たちが正統とする教理以外の解釈をすると、
裁判にかけ罰則を下しました。
それが宗教裁判と火刑であったのは、よく知られています。
 
 こういう体制下では、人間は恐怖で萎縮します。精神の自由がありません。

 その反省から、教理の源にある聖句そのものを絶対視する立場が生まれました。
これはファンダメンタリズムと言われることが多いです。聖句絶対主義ですね。

ところがこれもまた危ない。
これは教理主義の欠陥を脱却したものに一見みえますが、その実そうではありません。
人間の書いた文字の字面に絶対真理を認めるのですから、
本質は教理主義と同じことをしている結果になるのです。

 で、人を自由にはいたしません。


                    
                    

<右目が罪を犯したら・・・>

 聖書には、怖いことも書かれていますよ。新約聖書には
「右の目が罪を犯したらその目をえぐり出せ、右手が罪を犯したら切って捨てよ」
という主旨の言葉が、イエスの言葉として記録されています。

 この聖句を単独で取り出して、それを絶対真理としなければならない、となったらどうなるか。
人は聖書を恐れるでしょう。
真理とするということは、従わねばならないことに通じていきますから。

 イエスの言葉は、弟子たちも聞いています。
で、これを聞いて明くる日ペテロは片目になってイエスの前に現れたか?
ヨハネは片手を切り落として、出てきたか?
そうではなかったですよね。

 と言うことは、イエスのこの言葉は「解読」が必要ということになりますね。
解読をするというのは、聖句の文字それ自体を、字面を絶対真理とするのではない、ということです。
ファンダメンタリズムだったら、人は「自由にされません」よ。


                    

 久保牧師さんは、聖句絶対主義をまもろうとして、
現存の聖書は写本をもとにしたものだから矛盾したところも含んでいるけど「原本の文章は無矛盾で絶対真理」
といっておられる。
だが、こういう考え方、スタンスは基本的にはファンダメンタリズムとおなじなんですね。
次回それを考えましょう。

        (続きます)

                    

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Vol.6「人間の言葉自体が不完全な道具」

2005年11月19日 | 「考える宗教」へ

~~鹿嶋春平太チャーチへようこそ。
 前回述べたことを、もう少し砕いて言ってみましょう。


                               


 聖書は創造主からのメッセージを霊感の豊かな人が受信して書き留めたものだ、といわれていますね。
記録者は霊感が豊かなだけでなく、聖霊によって導かれて書いたのだ、と。
聖書そのものがこれはそういう本だといっています。

 鹿嶋は、それは受け入れるわけです。
だけど、そうかといってやはりそれは有限な人間が受信して書いたものだ。そ
の受信には、若干のずれがあるのは当然ではないか、と考えるのです。


+++


 もっと基本に立ち返って考えますと、
そもそも、人間の言葉がメッセージを収録する媒体として不完全なものなんですよね。
ベートーベンに「音楽は最高の啓示」という言葉があるといいます。
つまり深い啓示を記録し、伝達するには音楽に勝るものはないというのですね。

 もちろん、明晰さという点では言葉は音楽に圧倒的に勝りますけれど、
深く微妙な啓示を伝えるにはやはり音楽にはかなわないかもしれません。
また、そういうことを言い始めたら、絵描きは「絵画こそ最高の啓示」というかもしれません。
造形物でしか伝えきれない深いものもあるでしょう。


 がともかく、言葉には記録媒体としても、伝達媒体としても明らかな特徴がある。
ということは相応の限界を持っていると言うことでもあります。

 その言葉でもってメッセージ内容を記述したのが聖書です。
だから字面(じづら)をつきあわせたら不完全なところがでるのも当然ではないでしょうか。

 けれども、だからといって、そこには完全に真理だといえるものはなにもない、
ということにはならないんですね。
不完全な人間である預言者や使徒たちに啓示されたもの、
創主からのメッセージそのものは完全な真理だと「信頼」することは、出来るのです。

 字面は、それを探求するための手がかりにすぎません。
が、この手がかりがあるというのは、何ともありがたいことなのですね。


<ポジティブな精神の源>


 「まあそうも絶対真理にこだわらなくても・・・」、
といって下さる方もおられるかもしれませんね。
だけど、これは大事なことですよ。
世界に絶対に信頼できる完全真理があると確信しているかと、
ないんではないか、と思っているのとはその精神状態に大きな差が出ます。

 言ってみれば、精神をポジティブに保つ源は、
世界に真理がある、という信頼感なんですね。

 そもそも宗教的なものを求めるというのは、ポジティブな精神を持って人生を送りたいと願うからでしょう。
そのためには絶対真理が必要だ。だからそれを求めるのですね。

 世捨て人、虚無主義者以外の人は、絶対真理がどこかにあってくれることを求めるのですね。


                    


 ただし、その真理そのものを人間の手で書かれ文字の字面(じづら)に求めたら、
無理が出るのです。
佐倉さんも、久保牧師さんも、どちらもそれを求めておられます。

 佐倉さんもかつて求めたから、それを確かめようとした。
そして、求めて確かめようとすればするほど、記述文につじつまの合わない矛盾が出てきてしまった。
とうとう耐えられずに、仏教に移られたという方のようです。

 でも、その検証に長い時間を費やされました。
ということは、その間、絶対真理があることを期待し、求め続けたと言うことですね。
根がまじめな方なんですね。

 久保さんの場合も、同じ。
人間の手で書かれた文章に、絶対無矛盾な真理を求めておられます。
だから、現存しない原本に期待を置いていくことになるのですね。


    (続きます)


                 



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Vol.5「聖句に不明瞭なところがあるから“解読”が出る」

2005年11月18日 | 「考える宗教」へ

 聖句には不明瞭なところがある。
他の箇所とつじつまの合わないようなところもある。完全でない・・・~~いいじゃないですか。
当たり前じゃないですか。不完全な人間が受信したんですから。


                              


 でも、そのことは、人間(聖書の著者)に向けて発信された創主のメッセージそのものに真理がないんだ、
ということには必ずしも直結してはいないんですね。
人間の受信の方に不十分な点があるにすぎない。

 だから聖書の読者には、その不完全な聖句を手がかりにして、創主の伝えようとした真実を探求する、
という仕事が残されるわけです。
何パーセントかの不完全な点があっても、それも織り込み済みで、
真理の全体観を得る努力をするわけです。
創主が伝えようとしたメッセージの全体観をですね。

 そこに健全な「解読」という作業が出てくるのではないでしょうか。
宗教的に健全なと言う意味での・・。
 
<信仰ってなに?>

 そこには、創造主という絶対者が知らせようとして発信したメッセージへの信頼があります。
まだ探求する前ですから、その中身は明らかではありませんが、
そこに絶対的真理があるだろうと「信頼」する。

 キリスト教ではよく「信仰」という語を使いますが、その言葉の真意はそこにあるのではないでしょうか。
信仰の英語はfaithで、それは日本語ではむしろ、「信頼」のほうが近いですよね。

 出発点で信頼を持って探求していく。
調べていくことによって知識が増え、それが信頼をさらに深めていく。
信仰というのはそういうものであるのが健全ではないでしょうか。

 なのに、ニッポンキリスト教では、単純な論理を受け入れたら、
もうそれで、ゴールに入った、信仰は完成した、と思っている。
で、みんな完成者ですからもうそれ以上探求するものないから、
「証し」ばかりやってることになるんですね。

 いわゆる「救いを受ける」というのと、
それへの信頼を深めるというのとは同じことではないんですけどね。

 信頼の上に立って解読をすすめていく。こういう解読を、宗教的に健全、と鹿嶋は考えます。
それが、「健全な神学」だと思うわけです。


         (続きます)



                    



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Vol.4「“聖書の無謬性なんて嘘だ!”と告発する人」

2005年11月17日 | 「考える宗教」へ
                              


 これまで述べましたように、日本の福音活動は大半が門前ならし活動なのですが、中には少数ながら、ちょっと門の中に入ってのぞいてみた人もいます。そして、その世界があまりに深淵かつ広大であってとても真理が見出せると思えなくて退却した人もいる。

 その中には一転して「聖書の言葉は、絶対真理ではない」と主張し始める人も出ます。それで「聖書の記述には誤謬があるのだ」と証明するのに多大なエネルギーを注ぐ結果になってしまっている。

 鹿嶋は、インターネットでそういう方のHPを偶然拝見しました。佐倉哲というかたのHPがそれでした。そこでは実際の聖句をあげて、同じテーマについてここでこう言っているのに、別のところではああいっている。これは明らかに矛盾である。だから、聖書の言葉が真理であるというのは妄想だ~~という反論を根気よく続けておられました。

+++


 それには読者からの反対見解も併記されておりました。

 反論の一つに、「それは聖書が写本を集めて編集したことによる。写本には、筆写の間違いがあるだろう。だが写す前の原本はそういう矛盾のない絶対的なものだったのだ」というのがありました。

 へ~え、そういう見解もあるのか、とみておりましたら、その論者がなんとあのレムナントの久保有政さんだったんですね。

 前にも書きましたが、鹿嶋はこの方の神学的な仕事を高く評価してきました。送って下さる「話題通信」というメールの論考にも教えられるところが少なくありませんでした。その久保さんがそういっておられるのを読んで、鹿嶋はびっくりしました。

 佐倉さんはこれに再反論をしておられました。たしか、こんなような主旨だったと記憶しています。

 ~~原本が真理だと言っても、それは現存しない。だから論者の久保さんもみていない。そういう経験的に確かめられないものをもってきて、これには誤謬がない、絶対真理だといってもそれは議論として意味は薄いのではないか~~と。
 
 それで、佐倉さんは~~やはり聖書は真理の本ではない、著者は聖霊に導かれてかいた、というけれど、自分は信用できない~~ということでした。

 いずれにしても佐倉さんは、その意図はどうであれ、結果的には聖書の門前に立って「この門の中には真理なんてないよ」と声高に叫ぶ役割をされておられるんですね。

+++

 この方はかなりな論客にみえます。それに、聖書の無謬性に対する非難は、かなり深い執念がこもっているようでもあります。鹿嶋はここでその問題点を示しておこうと思います。


(続きます)

               

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Vol.3「哲学、文化は『世』のもの」

2005年11月16日 | 「考える宗教」へ
 

 聖句の門に入っていかないと、前回述べたようなゴッコが中心になる。どうしてでしょうか?




                              


 聖句の探求に入らないと、福音の論理を簡単なところ、浅いところで繰り返しいているだけになります。そうすると、しばらくすると福音に飽きてきます。もう、することなくなってくる。

 で、何かもう少し“感動”的なはずだよなあ、福音とは・・となる。それで手っ取り早い方法として「告白ごっこ」に走るわけです。

+++

 同じ門前活動でも教職者さんたちは、もう少しおしゃれな活動形態をとります。世の教養に向かうんですね。

 たとえば「祈り」の方法をもうすこし深く知ろうとして、哲学者の言葉に向かいます。ニーチェとか、キルケゴールとかね。

 祈りの奥義も聖句の中に豊かにあります。なのに聖句の代わりに哲学を探求して、何か得たつもりになっている。だがそれでは、福音的・霊的にはほとんど何も得られません。哲学は文化ですよ。文化は「世」のものですよ。芸術もそうだ。時の流れの中で消滅していくものです。

 対して、福音は永遠な「天」のものです。それは霊的な天の論理から来るもので、別種類です。そして天の論理は聖句になっている。それを探らないで福音の奥義に触れられるわけないでしょう。天の知識が増えていくはずがないではないですか。

+++

 でも、再び言いますが、これも「全く」ムダとは言いませんよ。
 門前を華やかにするには役立ちます。キリスト教“文化”というのはそういうものです。だけど、それは門前華美化活動以上のものではない。そのことに、教職者たちもほとんど気づいていないのですね、ニッポン国では・・・。

(なお、ついでに言っておきますと、アメリカでもキリスト教“文化”は盛んです。だが、それは聖句探求の核が豊かにあって、その神髄に触れた喜びとエネルギーが、門前町にもあふれほとばしって咲き乱れている、という風景です。日本ではそういう核がなくて、外枠だけをなぞっている光景・・・)

+++

 その結果、現実社会にないような何か深いものを求めて教会にきた人は、失望して帰って行きます。門前のにぎわいに誘われて来てみはしたんですけどね、「な~んだ」と言って帰るしかない。

 これが日本に福音が広まらない本質的な理由です。

 キリスト教に深いものを求めてきた人が、留まらないんだから、集団の活動に根底からのパワーが出ないのです。残った人の福音活動は“お嬢さん芸”といったらいいか、“去勢されたような感じ”といったらいいか、とにかくパワーがない。知的・霊的共に・・。これでは広がらないのですね。

(続きます)


                   
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