前回考えてみた、実体感覚というのをもう少し追ってみましょう。
前回と合わせてお読みください。
聖句は前回と同じです。
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=聖句=
「わたしの言葉は霊であり・・・」(ヨハネによる福音書、6章63節)
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<実体=意識体=霊>
少し話は深くなりますが、フォローしてください。
前回示した俳句~「寒鯉や、少し離れて、父と母」~の作者は
言葉を提示していきました。
その言葉が形成するイメージ断片のセットが、読むもの、聞くものの脳内に
形成されます。
するとそれを契機にして、作者の心にある意識と近似的な実体感覚が
読者の意識に生成します。
このときの実体とは、読者の心の中に生成している一つの意識です。
この意識とは、より正確には、一つの意識体です。
実体感覚とは、その意識を一つの意識体として感じている感覚なのです。
この意識体(実体)を、聖書では「霊」といっています。
それは一つの実体ですから、人の心の内に存在することもありますが、
そこを出て一人歩きすることもあります。
日常用語で「生霊(いきりょう)」というのがあります。
意識体のイメージはそれに近いです。
意識とは「思い」でもあります。
ある「思い」を深く念じると、それは意識体となって
自律的に動き出しもいたします。
人の精神にはそういう働きも埋め込まれているのです。
<熟成の「間(ま)>
次に作者の言葉を契機として、ある意識実体が意識の中に生成するに
必要な条件について考えましょう。
それにはまず、当人が言葉をじっくり吟味することが必要です。
実体感覚は、言葉を受信して直ちに心に生成するものではありません。
ある種の熟成が必要です。
熟成には第1に時間も必要です。
言葉が人の意識にイメージ断片を形成するのと、
その人の心に実体感覚が生成してくるのとの間には、タイムラグがある。
それを待つ「間(ま)」も必須です。
また、そういう熟成がなるには第2に、
その人の意識が自由でなければなりません。
言葉の意味するところを、受信者当人が自由に考えられる状況がなければならない。
「そんな解釈は間違いだ!」とかいうような強制が外部から介入したら
実体感覚は、生成しかけていても、フッと消えてしまうものです。
<神髄を味わえるのは聖句吟味方式のみ>
今回、スペースが少しありますので、言葉が俳句でなく、
イエスの言葉である場合についても考えを進めてみましょう。
<熟成が必要>
イエスの言葉が契機になると、人の心には聖霊に近似した意識が
実体として生成します。それも熟成です。
熟成には時間も必要です。これが「間(ま)」です。
さらに、そういう熟成がなるには、その人の意識が、聖句の意味するところを
自由に考え、吟味できる状況になければなりません。
「これこれの解釈をするのは異端である!」とかいわれるような恐怖が
介入したら実体感覚は生成しかけていても、フッと消えてしまいます。
言い換えると、「聖句解釈の自由」ですね。
これが原則として保証されていなければなりません。
<スモールグループも必須>
俳句については、必要な条件は「間」と「精神の自由」の二つが必要条件だと申しました。
だが、聖句の場合はもう一つ、不可欠なものがあります。
それは聖句吟味を行うスモールグループです。
その数は数人くらいが理想的ですが、10人になってもいいのです。
要するに、相互に参加者の意見が吟味しあえるような人数のグループです。
聖句吟味は理論上は個人でも行うことができます。
だが、イエスの言葉をはじめとして聖句は多面的な意味合い、様相をもっています。
これを限られた時間で十分な成果が得られる程度にまで吟味するには、
実際には効率が必要です。
スモールグループでのバイブルスタディは
それを可能にする第三の必須要素になるのです。
(俳句でも、小グループの同好会でもって吟味をすると有効で、
よく実施されています。だが聖句におけるほどには必須ではありません)
<聖句主義方式>
聖句では「聖書解釈の自由」と「スモールグループでのバイブルスタディ」が必須です。
これが、聖句を契機として実体としての聖霊を心の内に生成さすための二本柱なのです。
この活動方式を聖句主義方式といいます。
この方式をとっていると、聖霊に近似的な意識体(霊体)が
心中に生成し、その霊的実体の感覚を人は
体験できるようになります。
(この聖霊近似意識が一定量心に蓄積されると、
あるとき聖霊そのものがその人の意識に入ります。
これが聖霊のバプテスマです)
<充実感と快適さの体験>
近似的であっても聖霊の実体感覚が心の内に生成すると、
人は非常に快適な充実感を心に得ます。意識も非常に明晰になります。
これは他でもって代え難いものです。
鹿嶋がこう言うと、「ああ、著者は信者なのだ、信仰者は盲目なのだ」と
思われる方も多いでしょうから証言しておきます。
筆者は、人間の科学である社会科学を生業として生活してきています。
経験的に確認していないことを~書物では特に~述べるのは困難です。
そのために、同じ信頼者たちから「あの人の信仰は冷静すぎる、疑問だ」と
批判されることもあるくらいです。
だが筆者にとっては、聖書の論理も体験的に究めていく対象の一つで
ありつづけています。
筆者の聖句信頼は科学的確認をベースにしているのです。
そこで、証言するのですが、この体験は比類なき快適さ、
力による充実感、意識の明晰さを与えてくれます。
こういう機会を失いたくない、と深く思います。
昔の聖句主義者たちは、これを失いたくない気持ちが現代人の何倍も強かっただろうと思います。
新聞も雑誌も、ラジオもテレビもない時代です。
いまの我々のように、気を紛らわせるような他の手段はありません。
昔の人々にとって聖句主義活動はいかに大きな喜びであったことでしょうか。
ですから彼らは度重なる迫害、殺戮を受けながらも
「聖書解釈の自由」と「スモールグループでのバイブルスタディ」を
止めなかったのです。
彼らは、飛び抜けて「おいしいもの」を食べていたからです。
この美味のない人生など考えられませんでした。
そうでなければ、総計5000万人もの信頼者がカトリック教団に殺戮される
というような過酷な環境の中で、1200年以上の長きにわたって
聖句主義活動が持続することは起きなかったでしょう。