鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.213『意識は意識体という実体であり、霊』(14~17章解読の基底知識・2)

2008年02月27日 | ヨハネ伝解読


前回考えてみた、実体感覚というのをもう少し追ってみましょう。
前回と合わせてお読みください。

聖句は前回と同じです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしの言葉は霊であり・・・」(ヨハネによる福音書、6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


<実体=意識体=霊>

少し話は深くなりますが、フォローしてください。

前回示した俳句~「寒鯉や、少し離れて、父と母」~の作者は
言葉を提示していきました。
その言葉が形成するイメージ断片のセットが、読むもの、聞くものの脳内に
形成されます。
するとそれを契機にして、作者の心にある意識と近似的な実体感覚が
読者の意識に生成します。

このときの実体とは、読者の心の中に生成している一つの意識です。
この意識とは、より正確には、一つの意識体です。
実体感覚とは、その意識を一つの意識体として感じている感覚なのです。

この意識体(実体)を、聖書では「霊」といっています。
それは一つの実体ですから、人の心の内に存在することもありますが、
そこを出て一人歩きすることもあります。


日常用語で「生霊(いきりょう)」というのがあります。
意識体のイメージはそれに近いです。

意識とは「思い」でもあります。
ある「思い」を深く念じると、それは意識体となって
自律的に動き出しもいたします。
人の精神にはそういう働きも埋め込まれているのです。



                    


<熟成の「間(ま)>

次に作者の言葉を契機として、ある意識実体が意識の中に生成するに
必要な条件について考えましょう。

 それにはまず、当人が言葉をじっくり吟味することが必要です。
実体感覚は、言葉を受信して直ちに心に生成するものではありません。
ある種の熟成が必要です。

 熟成には第1に時間も必要です。
言葉が人の意識にイメージ断片を形成するのと、
その人の心に実体感覚が生成してくるのとの間には、タイムラグがある。
それを待つ「間(ま)」も必須です。

 また、そういう熟成がなるには第2に、
その人の意識が自由でなければなりません。
言葉の意味するところを、受信者当人が自由に考えられる状況がなければならない。
「そんな解釈は間違いだ!」とかいうような強制が外部から介入したら
実体感覚は、生成しかけていても、フッと消えてしまうものです。

 
                    


<神髄を味わえるのは聖句吟味方式のみ>

今回、スペースが少しありますので、言葉が俳句でなく、
イエスの言葉である場合についても考えを進めてみましょう。


                    


<熟成が必要>
 
 イエスの言葉が契機になると、人の心には聖霊に近似した意識が
実体として生成します。それも熟成です。
熟成には時間も必要です。これが「間(ま)」です。

 さらに、そういう熟成がなるには、その人の意識が、聖句の意味するところを
自由に考え、吟味できる状況になければなりません。
「これこれの解釈をするのは異端である!」とかいわれるような恐怖が
介入したら実体感覚は生成しかけていても、フッと消えてしまいます。

 言い換えると、「聖句解釈の自由」ですね。
これが原則として保証されていなければなりません。


                    


<スモールグループも必須>


 俳句については、必要な条件は「間」と「精神の自由」の二つが必要条件だと申しました。
だが、聖句の場合はもう一つ、不可欠なものがあります。
それは聖句吟味を行うスモールグループです。

その数は数人くらいが理想的ですが、10人になってもいいのです。
要するに、相互に参加者の意見が吟味しあえるような人数のグループです。

聖句吟味は理論上は個人でも行うことができます。
だが、イエスの言葉をはじめとして聖句は多面的な意味合い、様相をもっています。
これを限られた時間で十分な成果が得られる程度にまで吟味するには、
実際には効率が必要です。
スモールグループでのバイブルスタディは
それを可能にする第三の必須要素になるのです。

 (俳句でも、小グループの同好会でもって吟味をすると有効で、
よく実施されています。だが聖句におけるほどには必須ではありません)


                    


<聖句主義方式>

 聖句では「聖書解釈の自由」と「スモールグループでのバイブルスタディ」が必須です。
これが、聖句を契機として実体としての聖霊を心の内に生成さすための二本柱なのです。

 この活動方式を聖句主義方式といいます。
この方式をとっていると、聖霊に近似的な意識体(霊体)が
心中に生成し、その霊的実体の感覚を人は
体験できるようになります。

 (この聖霊近似意識が一定量心に蓄積されると、
あるとき聖霊そのものがその人の意識に入ります。
これが聖霊のバプテスマです)


                    


<充実感と快適さの体験>

 近似的であっても聖霊の実体感覚が心の内に生成すると、
人は非常に快適な充実感を心に得ます。意識も非常に明晰になります。
これは他でもって代え難いものです。

 鹿嶋がこう言うと、「ああ、著者は信者なのだ、信仰者は盲目なのだ」と
思われる方も多いでしょうから証言しておきます。
筆者は、人間の科学である社会科学を生業として生活してきています。
経験的に確認していないことを~書物では特に~述べるのは困難です。

 そのために、同じ信頼者たちから「あの人の信仰は冷静すぎる、疑問だ」と
批判されることもあるくらいです。
だが筆者にとっては、聖書の論理も体験的に究めていく対象の一つで
ありつづけています。
筆者の聖句信頼は科学的確認をベースにしているのです。

 そこで、証言するのですが、この体験は比類なき快適さ、
力による充実感、意識の明晰さを与えてくれます。
こういう機会を失いたくない、と深く思います。


                    



 昔の聖句主義者たちは、これを失いたくない気持ちが現代人の何倍も強かっただろうと思います。
新聞も雑誌も、ラジオもテレビもない時代です。
いまの我々のように、気を紛らわせるような他の手段はありません。
昔の人々にとって聖句主義活動はいかに大きな喜びであったことでしょうか。

 ですから彼らは度重なる迫害、殺戮を受けながらも
「聖書解釈の自由」と「スモールグループでのバイブルスタディ」を
止めなかったのです。
彼らは、飛び抜けて「おいしいもの」を食べていたからです。

 この美味のない人生など考えられませんでした。
そうでなければ、総計5000万人もの信頼者がカトリック教団に殺戮される
というような過酷な環境の中で、1200年以上の長きにわたって
聖句主義活動が持続することは起きなかったでしょう。


                    





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Vol.212『言葉、イメージ断片、意識実体』(14~17章解読の基底知識・1)

2008年02月17日 | ヨハネ伝解読

                    
            

 ヨハネ伝の14章から17章までのところは、ヨハネ伝のエッセンスです。
イエスが十字架刑にかかって弟子たちの眼前から一旦姿を消すにあたって、
教えの神髄を、もはや“たとえ”を使うこともなく
イエスが言い残す言葉で埋められています。

 これを記録するのは側近のヨハネだけにできたことです。
この『ヨハネ伝』を「聖書の中の聖書」という人々が、
後世に出現するのはそれによるのです。


                    


 この話は、あまりに深いです。
 これを理解するには、背景知識がいります。

 それはこのヨハネ伝6章63節に込められています。
本日はそのため、これを対象聖句として復活させ、
そこに込められた奥義を探求してみることにしましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしの言葉は霊であり・・・」(ヨハネによる福音書、6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


「言葉が霊である」とは、どういうことでしょうか。
これを人間の認識構造から考えてみましょう。
俳句を例に出してみます。


                    


我々日本人は俳句という芸術をもっています。いまその一作品~

「寒鯉や、少し離れて、父と母」

             ~について考えましょう。

俳句は5・7・5の音節からなる短い言葉によってできています。
この言葉は、読むものに信号を発信します。

その言葉を受信して、読者である我々の内には
まず一定のイメージ(意識)の断片群ができます。

(イメージというのは言葉にて表すことのできるものです。
ですからそれは断片になります)

これら断片を言葉で表しますと
「寒鯉」と「父と母」と「少し離れたところにいる」という
イメージ断片の3つです。
この一群はセットになって、読者の心に直接一定の意識を形成します。

(以下、イメージ断片のセットを「イメージセットと」、呼びます)

 だが、読者の内に出来上がる意識はそれだけではないようです。

読者の心の内には時として

~~この一群のイメージ要素を契機として、
寒鯉のゆっくりと泳いでいる池、周囲の木々、池の周囲にたたずむ両親、
少し離れてみると知らないうちに年老いていた作者の両親、
これからいつまで共にこの世におられるだろうかという愛惜感

~~などを含む、全体的実体感を感覚します。

この実体感覚は、あたかもイメージセットに囲まれた内側に
心の底の方から浮上するかのごとくに生成してきます。


                    


<視覚的に>

 この意識構造を、今少し視覚的に表現してみましょう。

 左手に握り拳をつくって下から上に突き上げるようにしてください。
次に、右手を半開きにし、上から左手の拳を握るようにしてかぶせてください。
帽子のようにかぶせるわけです。

この右手指の節々や指の先に、イメージ断片が配置されていると
視覚的に想像します。

これがイメージセットです。

次いで、左手の拳を右手の帽子から外して、下方におろしてください。
この時の右手の状態が、意識にイメージセットはあるが、
全体的な実体感覚は無い状況を示しています。


次に左手の握り拳を徐々に右手でつくった帽子の内側に向けて
あげていってください。

これが実体感覚が心に徐々に浮上する状態です。

そして、ついに、左の拳が右手の帽子の中に入ります。
これが実体感覚が心に生成した状況です。


                    


 俳句というのは、こうして生成する「握り拳」のような実体感覚を
基盤にしてなっている芸術と思われます。

認識論的にはそうですが、日本人は認識論などの理屈は意識しなくても、
昔から生活の中で実践としてそれをしてきているのですね。

 この実体感覚は意識の深奥で心に浸み入ります。
私たちはこれによって奥深いものに同化した時に感じられる快い充実感を得ます。

この感覚は深い満足感を生みます。
そのために我々は俳句というジャンルの活動を愛好し、
芸術として容認しているのです。

 哲学者ベルグソンは、この実体感は雰囲気としてしか
感得されないものであるが、それこそが実在の認識なのだ、
と述べています。

 (ついでにいいますと、いわゆる洞察力・インサイトというのは
この実体感覚を心に生成させる能力のことです)


                    


<物的実体は眼前になくとも>

さてここで、作者と読者のと意識状態の関係を考えてみましょう。

 作者の方では、まずこの実体感覚の契機になる物的実体が、
先に眼前にあります。そして実体感覚がわき上がる。
次に、それを言葉というイメージ断片に定着させています。

 俳句という芸術は、5・7・5という少ない音節の言葉しか許しません。

作者は、頭脳に浮かんだイメージ断片の中から、選び抜いて
「寒鯉」「少し離れて」「父と母」という三つを残しています。
それらの順序を決めて俳句の形式に納めて創作は完了します。

                    

 読者の方ではどうでしょうか。

読者にはこの俳句の作者が目の前にしている物的実体はありません。
まず、作者が提示する言葉が形成するイメージ断片のセットが
脳内に形成されます。

次にそれを契機にして、実体感覚が意識に生成するのです。

 生成する実体感覚は、作者のものと全く同一ということはありません。
だが、近似的なものは生成する。人間の精神はそういう風に造られています。

だから、他者の心を追体験してその「動機を意味理解する」ということが
人間にはできるのです。


                    


 言葉によるイメージ断片のセットさえあれば、
それを契機にして作者と近似的な実体感覚が生成する。

これを言い換えれば、物的実体に直面しなくても
~言葉によるイメージセットからであっても~
実体を目の前にしたのと同質のリアリティ感覚で
人の心には、実体感覚は生成する、ということです。

 そしてそれは単なる光景でもなく、妄想でもありません。

この意識は時として物的実体の光景を目の前にする時以上に
臨場感と重さをもちえます。

禅問答を連想する人もいましょうが、
人はこうした認識能力を与えられているのです。
人間の想像力というのは、そこまでの力を持っているのです。


 (なお、この想像の力を明示したのは哲学者コリン・ウィルソンです。
かれは心理学者マスローの有名な「至高体験」という心理状態を探求していて
そのことを見出しました。
マスロー自身もウイルソンの発見を認めています。
また、人間のこういう認識構造を、哲学の認識論として示したのは
哲学者・ベルグソンです。
かれは物的実体が眼前にあるかないかをあえて区別することなく、
雰囲気としての実体感覚を論じていますが、鹿嶋がいま述べた想像力を
当然の前提として論を進めています)

                    


 イエスは、自らの言葉を契機として、
そういう実体感覚が弟子たちの心の内に浮上することを期待して
本日の聖句を述べているのです。

その実体感覚をイエスは「霊」といっています。

 この言葉と実体感覚との関係、そしてこの感覚と霊との関係については、
もう少し考えることがあります。
だが、長くなりますので次回にしましょう。


                    



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