鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

26.(臨時版2)養育係の下から成人の扱いに

2018年11月28日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

聖書の世界観の中にも、教えが絶対の真理として与えられる時期がある。旧約聖書の時代がそれだ。
 
この時代、人々はモーセを通してエホバ神から「律法」を与えられた。それを代表的に示すのが「十戒」だ。
 
ちなみに、律法は言葉で書かれている。
ことばは概念で出来ている。概念は思考の枠組(外枠)を与える。
たとえば「石」という概念は「土が固まって出来た固くつぶつぶの物体」という外枠であるが如しだ。

だがこの枠組(概念)に入る実在は多種多様である。ちいさなもの、大きなもの、丸いもの、いびつなもの、白いもの、黒いもの、色々ある。
言葉が示すその内のどれかを、見定めようとする作業が解釈だ。
解釈されてできる論理体系が教理だ。
解釈は様々になされるので、教理も様々となる。
 
律法も言葉で書かれているからそういう解釈仕事はあるが、旧約時代にはそれは律法学者という「賢人」の仕事だった。
一般人は彼らの結論を絶対の真理として受け入れ、従う・・・それが旧約時代だった。
 
+++
 
人間が成長していくには、そういう時期も必要なのだろう。
個人でみても、われわれが幼い子どもに規律(ディシプリン:discipline)を教える際、それを絶対の真理として教える。
こうして幼子はまず世の中には秩序(order)があることを学ぶ。
 
 
<イエス意識革命を起こす>
 
だが、新約聖書の時代は異なってくる。イエスが「人の子」として現れて、聖句(律法)にあっと驚く解釈を示したのだ。
きわめつけはこれだろう。
 
・・・・・・・・・・・
「(旧約)聖書はわたし(イエス)のことを述べたものなのだ」
(ヨハネによる福音書、5章39節)
・・・・・・・・・・・

 
聞いていたユダヤ教の高僧もビックリ。
だがイエスはそれを口で言っただけでない。超自然事象をもそれに伴わせた。いわゆる奇跡だ。
奇跡は人々の心に「それを起こす方は預言者(超霊能者)であるに違いない」との思いももたらす。
これをみた人々の多くがイエスの言葉を信じた。
 
 
 
<弟子の解読にも超自然事象が>
 
とはいえ、イエスは特別なスーパースターだった。だからその権能が及ぶ範囲のイメージは限られていた。
ところがイエスが十字架死して復活し、天に昇っていなくなってから、弟子(使徒)たちにもその不思議が現れた。
それをみて心を開かれた人々に、使徒ペテロたちは旧約聖書の新解釈をかませた。
 
参集者は一般の人間にもそうした新解読と奇跡が可能なことに驚いた。目からうろことなった彼らはさらなる新解釈を求めて使徒たちのもとにとどまり、初代教会が一気に出来た。
この奇跡が起きた初日だけでも、参集者は3千人を数えたという。
 
 
 <スモールグループで自由吟味>
 
使徒たちは参集者を数人毎の小グループに分けて、各々に自由吟味活動をさせた。
メンバー相互が同意共有できる解釈も次々に現れた。
教会の一体性も、自発的に出来ていった。
 
こうして初代教会の活動方式が成立した。
この方式は聖書を読む人々を、成人した、自由精神を持った大人として扱うものだった。
 
 
 
<「旧約時代の律法は養育係」とパウロ>
 
これと同様な観点から、パウロは「旧約時代の律法は養育係だった」といっている。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・
「フェイス(御子イエスと考えていい)が現れる以前には、わたしたちは律法の監督下に置かれ閉じ込められていました・・・・(中略)・・・律法は私たちをキリストへと導くための養育係となりました・・・しかしフェイスが現れた以上、わたしたちはもはや養育係の下にはいません」
(ガラテヤ人への手紙、3章24-5節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
 
これはすなわち、人間が幼児期を卒業して、言葉を自由解釈する、精神的な自由人になる道が開かれたことでもあるのだ。

今回はここまでにしよう。


(完)





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25.(臨時版)人間は究極の真理に到達できない

2018年11月25日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

 

前回までに、イエスが遺した夢の言葉~
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~のうちの、(I)と(II)を解読した。
 
ここで臨時版を差し挟もう。

「うつを打破する聖書の論理」を追うと言いながら、筆者は途中の聖句解読に多くのエネルギーを割いてきている。
その解読は、読者がいままで聞いたことのないであろう解読だ。
 
ここまでくると、読者は途方に暮れた気持ちになるのではないだろうか。
こういう話に、読むものは一体どう対処したらいいのだ。そもそも、この解読は究極に正しい理屈、すなわち、真理になっているのか?~と。
 
そういう疑問はこれまでもあったろうが、前回あたりまで来るとピークに達したのではないだろうか。
 
 
 
 
<人間は究極の真理には到達できない>
 
そこで筆者は先に答えておこう。
 
「この解読は真理か」への筆者の答えを結論から述べよう。
「真理ではない」~と。
 
筆者だけではない。誰の解釈も真理ではない
 
また、聖書解読だけではない。
 
一般にすべての知識に於いて、人間がその知性・霊性を尽くしても、その短い生涯の内に究極の真理に到達することはできない。
 
(科学はすでにその悟りに達している。だからその発見をみな仮説~仮に設定した理論~というのだ)
 
 
 
 
 
<体験で悟るのみ>
 
だがそれを論理的に証明することは出来ない。
真理に到達していないものが、それに到達できないなどと、どうやって証明できようか。
 
人間が出来る唯一は、そういう体験を通して体得することだけだ。そしてその体験をさせてくれる材料は、筆者の知るところでは聖書のみである。
 
聖書は教材でもあるのだ。
 
この書物の解読を通して、そこにあるであろう究極の解読(真理)を目指して解読を続ける。すると「これだ!」思っても、時がたつとまた別の筋道が見えてくる。
この体験を続けると、人は「人間は究極の真理には到達できないのではないか、少なくともその生涯の内には」と実感する。こういう体験を通して得る悟りが、「人は真理に到達できない」ことの根拠らしきものとなる。
 
 
 
 
 
<極限の広さ、長さ、深さを持った世界観>
 
おそらく聖書はその悟りを得るための最適な教材である。そこに述べられている世界が、空間的広さ、時間的広がりにおいて、比類なきものを持っているからだろう。どちらも無限大の広がりを持っているのだ。
 
また、そこに登場する存在も、目に見えるもの(物質)に加えて「見えないもの(霊)」によってもなっている。
いわば認識対象が重層構造になっている。
 
そういう世界に登場する諸要素が、みな、繋がりを持っている。
さらに、それらの手がかりになるべき論述に、比喩表現が多い。
 
人間はそのすべてを100年足らずの生涯の内に見通すことは出来ない。実際にはその時々に、その部分部分での繋がりをみるだけである。そして、その繋がりも、より広大な視野からみると、また別の繋がり方を見せてくるのだ。
 
だから人間は、その書物の解読努力を通して、人間の解読力の限界を知ることができるのだ。生涯では究極の解読(真理)至れないことを体得できる。筆者はこういう書物を与えられていることを、幸いとすべきと思っている。
 
 
 
<初代教会は体得していた>
 
この悟りに達していた最初の人々は、初代教会のメンバーたちだった。
この教会では、指導者である使徒たち自身が、自分の解読は不十分だと悟りきっていた。「(ピリポよ)まだわかっていないのか」といったような指摘を、世を去る直前のイエスに連発されていたのだから。究極の解読に達しているなどと思ってる弟子は、ひとりもいなかった。

その状態で彼らは指導者になって教会員を指導していったのだ。だから初代教会全体が「自分たちの解読は真理以前のもの」という認識を基礎に持っていたのだ。

    
 
<だから自由解釈させた>
 
だから、弟子たちは、新参者たちに小グループを造らせ、そこで自由に聖句吟味をさせえたのだ。
もちろん、彼らが正しいとして共有している解読文もある。イエスに関する聖書(旧訳聖書)預言などはそうだった。だが、少し細部に入ったらもう、弟子たちの誰かが「これが究極の解読だ」ということはなかった。

その結果、個人の聖句解釈自由を当然の前提として、教会活動はなされていった。
そういう状態が100年間余り続いた。それでもって初代教会は、爆発的な成長をした。
 
 
 
 
<活動原理の大転換>
 
以後のキリスト教活動を鳥瞰してみる。
カトリック教団がまず、この活動原理をぶち壊している。
 
彼らは教団の指導層僧侶が至った結論を公会議で承認すると、それを究極の真理解読だとした。それを信徒に通達して教会を運営した。
この生き方を教理統一主義という。
一つの教理(解釈体系)を真理とし、それでもって教会活動を統一する主義、という意味だ。
 
+++
 
彼らは、統一教理に沿わない解読はことごとく異端として罰した。
中世には、異端審問裁判所まで造って、容疑者を裁判にかけ、多くを火刑に処した。
 
地動説を基盤にした世界観を述べたガリレオも、これにかけられ有罪とされた。
彼は火あぶりにはされなかったが、以後の生涯を、一家屋の中での軟禁状態で送っている。
 
 
 
<プロテスタントも教理主義>
 
ルター、カルバンの「宗教改革」で始まった、いわゆる「プロテスタント」教会も、教理統一方式の教会だ。
彼らはカトリック教会の教皇(法王)という存在など聖書に記されてないと、従来のカトリックを批判し、教皇抜きの新教会を開始した。
だが「究極の聖書解読(真理)を人間は出来ない」という悟りには至れなかった。
プロテスタント教会もカトリックと同じ教理統一方式のままで活動してきている。
 
+++
 
このプロテスタント教会から、色んな分派教団が出てきている。だからそれらも当然みな教理統一方式の教会となる。これとカトリック教会を加えた勢力は、現在世界では文句なしの多数派となっている。
世界のキリスト教活動の大半は教理統一方式によるものと、現代の人類世界はなっているのだから、世界でクリスチャンと称されている人々も、ほとんどが「究極の真理に人間は至れる」と~漠然と~思っている人間という現状だ。

そしてキリスト教界は世界最大の宗教勢力となっていて、その認識観は人類一般の気風をも左右している。
その結果、現在人類の大半は「誰か偉い人たちが真理を知っている」という気分で生きているのだ。
 
 
 
<初代教会直系の人々>
 
 
そのなかで、「人間は究極の真理には至れない」という悟りをベースにしている教団は、使徒行伝時代の初代教会直系の教会だけだ。
これが聖句主義、バイブリシズムベースの教会で、現在のその代表がバプテスト教団とメノナイト教団だ。
前者は米国南部のサザンバプテスト地域を本拠地としている。
 
彼らはカトリック、プロテスタントの両教会からの、迫害を受けながら存続してきた。
とくにバプテスト自由吟味者へのカトリック教会からの1,200年にわたる苛烈な迫害は、筆舌に尽くしがたいものがある。
 
後者、メノナイト教会は米国北西部のカナダと国境を接する諸州を本拠地としている。
 
+++
 
そういうわけだから、そもそもこうしたキリスト教活動鳥瞰図を心に描けている人間が非常に少ない。その歴史と鳥瞰図を筆者鹿嶋は『バプテスト自由吟味者』で、本邦で初めて具体的に明かした。
だがこれは小さな文字通りの小冊子だ。日本人一般がこの冊子で示した事実を悟るには、あと、50年くらいかかるだろうと思いつつ、鹿嶋はこれを出版した。
 
 
 
<サザンバプテスト地区に暮らして>
 
冊子が示唆している事実は、驚く程に悟りにくいのだ。
筆者自身も、日本にいてこの事柄を文字で読んでも、なかなかわからなかった。
 
+++

この方式をサザンではバイブリシズム(聖句主義と筆者は訳した)といっている。筆者はこの地域に1年間住んで、聖句自由吟味主義で活動している教会に参加させてもらった。
日曜日に夕拝もしている教会があって、三つの教会に掛け持ちで出入りさせてもらった。
スモールグループにも加わり、礼拝後の交わりもともに楽しんだ。それを通して、聖句自由吟味活動が彼らをいかに自由にし、活き活きさせているか、も観察できた。
 
こうした体験を積み重ねないと、バイブリシズム教会の全体像、全体的雰囲気はなかなかキャッチできない。
 

<バイブリシズムの真理観>
 
筆者は折を見て、メンバーに尋ねてみた~。
 
「あなた方は聖書に世界の真理はあると言っている。それでいて、全員に共通した究極の真理は人間にはえられない、としてやっている。絶対と確信する真理なしで、確信ある生活、確信ある人生をどうやって送るのだ?」と。
 
彼らは応えた~。
 
「この書物にある究極的な真理そのものには人は至れない。だが、聖句を個々人が吟味し解読したものが、当人にとっての(その時点での)真理だ」
 
筆者はさらに問うた~。
 
「そんな相対的なものは真理とはいえない、という批判にはどう応えるのか?」
 
彼らは言った~。
 
「有限な人生を日々生きる人間個々人にとって、それ以上に頼れる知識が他にあるとは思えない。実はみな~バイブリシストでなくても~漠然ながらそうやって生きている。われわれはそれを漠然とでなく、聖句を吟味しながら考え、日々の解読をベースに生きているだけのことだ」

 
   
 
<ウイリアムジェイムズの真理観>
 
余談だが、それを聞いたとき筆者の目の前に立ちはだかっていた「ウイリアムジェイムズの知識観」に対するベールがパラリと落ちた。
筆者の本業はマーケティングと言われる分野で、当時そこではCI(コーポレートアイデンティティ)が研究課題の一つとなっていた。筆者はその最高の手がかり事例として「アメリカ国家のアイデンティティ構造」に焦点を定めた。
 
それにはウイリアムジェイムズのプラグマティズム認識論がベースとして存在しているだろうことは、他の識者も指摘していたが、その内容が不明だった。
 
情報を集める内に、サザンバプテストのキリスト教活動がその有力手がかりとして浮上してきた。そこでそれを明かすことを本業上のゴールとしての、米国南部での研究滞在であった。
 
+++
 
そして教会員の上記の言葉を聞いた時、ジェイムズのプラグマティズム哲学の種はこれだったと合点できた。ジェイムズはそのタネを見せないままで認識哲学を述べていた。だからわからなかったということが、わかったのだ。
 
 
 
<自由人か恐怖の奴隷か>
 
 
はなしをもどす。
「人間はその短い生涯の内には、究極の真理には到達できない」こと、それを悟っているかどうかは、人の生涯を大きく分ける。
 
なによりもまず、人が(精神的)自由人になるか、あるいは恐怖の奴隷になるかが、これでもって分かれる。
 
「人間が究極の知識に至れるのでは・・・」という期待は、それが漠然としたものであっても、恐怖をもたらす。
「真理に至っている賢人の知識」に自分の知識とは合ってないのではないか、という恐れだ。
この思いが、一般人の心理に常時伴う。
 
聖書解釈においてもそうだ。

自分の解釈は間違いではないか・・、その不安がもたらす恐怖である。
事実は正解に至っている人などいない。なのに、「自分の聖書解釈はそれに至っていないのでは」という思いが生まれる。そしてその思いは常時、「見えない幽霊」となって人間の心に恐怖を生み続けるのだ。
 
+++
 
日本では、クリスチャンといえども、その大半が、恐怖を抱きながら活動している。
 
恐れは人の精神を萎縮させ、本来与えられている資質の発露を妨害する。
 
これは民族の行く末を左右する、重大な病なので、次回にもう少し論及しよう。





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24. 「人が言葉に住まい、言葉が人に住まう」とは?

2018年11月21日 | 鬱を打破する聖書の論理

 
「(Ⅰ)「人がイエスの言葉の中に住まう状態を続けていると、(II)イエスの言葉が人の内にも現れ住まうようになっていく」~前回、この仕組みを示した。

そういう資質が人間には備えられていることを、哲学者ベルグソンは認識論的に明かしたのであった。
このあたりは、創造神が不思議なわざ(奇跡)としてなされるのではなく、自然になるべくしてなる事象だと明かしていることになるのだ。 
 

 
<二つの状態は併存しうる>

とはいえ上記(I)の状態と(II)の状態とは併存するものだろうか?
あるいは、前者の状態が、後者の状態に移行するのだろうか?
聖句ではどうなっているのだろうか?

今回はそれを考えよう。
結論から言うと、二つの状況は同時に成立する、というのが聖書の思想である。
それを示すイエスの言葉は、聖書に繰り返し、繰り返し出てくる。



<併存を示唆する聖句たち>

まず、併存状態がイエスと父なる創造神のあいだに成立していることを示す聖句から~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それは、父(創造神)が私(御子イエス)におられ、わたしが父にいることを、あなた方が悟り、また知るためです」
(ヨハネによる福音書、11章38節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

これもそうである~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
わたしが父におり、父が私におられると私が言うのを信じなさい」
(ヨハネによる福音書、14章11節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

次の聖句は、御子イエスと弟子たちとの間にも成立していることを示している~。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「その日には、わたしが父におり、あなた方が私におり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります」
(ヨハネによる福音書、14章20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして次の聖句は、父なる創造神と御子イエスと、その言葉が内に住まうようになった人々との間にも成立することを示している~。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「それは、父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、・・・・・彼ら(弟子の伝道でイエスの言葉の内に住まうようになった人々)もまた私たちにおるようになるためです。・・・・私は彼らにおり・・・」
(ヨハネによる福音書、17章21-23節)
・・・・・・・・・・・・・・
 

 
 
<量子物理学の恩恵>

物質的な世界では、BがAのうちにあって、同時に、AがBのうちにある~というような事象は起きない。AはBより大きいままだからだ。
小さい方のBはAのうちには入れない。

これは量子力学の存在論によって初めて理解できることだ。それは存在の根源が振動(波動)であることを明かした。
すると、御子イエスも意識をもった波動体であり、その言葉もまた意識波動体となる。

われわれは、波動体は伸縮するとイメージできる。だから、BがAのうちにいて、かつ、Aを内に含むことも考えられる。両者が重なった状態にある、と言ってもいいかもしれない。

 
 
<物理学的理解は大切>

物理学的に理解できるというのは、五感経験ワールドに生きるわれわれには大切なことである。
物理学的に理解できないものを心に受け入れるのは困難が多いのだ。またこの状況は、聖書で言う「つまづく」ことの一因になる。

かといって「信仰が足りない!」とボクシ先生に叱られたりして、無理にのみこんだら、その言葉は「まじない」と同じになってしまう。

理解できるようにイメージできるというのは、大切なことなのだ。

量子物理学が、聖句解読に与えてくれる恩恵には決定的にして画期的なものであった。
これによって、「(Ⅰ)「人がイエスの言葉の中に住まう状態と、(II)イエスの言葉が人の内にも現れ住まう状態」とは同時成立、併存するとの理解もまたもたらされたのだ。

今回はここまでにしておこう。




 
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23.イエスの意識波動体が住まっている者の内にも出現

2018年11月19日 | 鬱を打破する聖書の論理


鳥瞰しよう。
筆者は、ヨハネ15:7を、「人間は永続する」という聖書の思想を証拠する夢の方法として解読し始めた。

 
とはいえ思想は「口だけなら何とでも言える」と受け取られる面を通常持っている。

だがそれに超自然的な事象が伴うと、人はそれをまことだと思う。
その「しるしと不思議」を現す方法として、イエスが教えていった言葉が下記であった。
   
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

筆者は「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」の部分を解読するため、まずイエスの言葉群の中で、イエスが教えた「祈り方」に着目した。
 
そして「御国が来たら実現する」とイエスが教えた事態の意味を解読してきた。事態は下記の三つであった。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(御国の空間が来れば)
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは悪の試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
聖句は「知的」理解がなされなかったら、まじないと変わらぬものとなる。
筆者はそのために知的解読を試みた。そして前回までにこの三つの事態についての~筆者の当座の~解読を終えたのであった。
 
 
 
<ベルグソンの認識哲学>
 
今回はイエスの夢の言葉のうちの「(II)わたしの言葉が諸君の内に留まる」の解読に入る。
 
結論から言うと、この事象はイエスの意識波動群(言葉群)の中に~信頼を持って~住まわり続けていれば、実現する。

人間にはそういう心的資質が与えられている。
それを認識論的に明かしたのは20世紀フランスの哲学者ベルグソンであった。
 
+++
 
彼は、認識対象の実在そのものを認識するには、それに心を寄り添わせた状態で待つことが必要だと述べた。
この状態を続けていると時とともに、認識者の心の内に、対象実在と共鳴する波動体ができていく。同一性を持った実在像が出来上がっていく~と。
 
認識者は出来上がったそれを内省自覚~純粋直感によって~対象実在そのものを認識できる。
ベルグソンはそれこそが、実在そのものを認識する手法だと明かしたのであった。
 
+++
 
なにやら「花を思えば花が見え、月を思えば月がくっきりと見えるようになる」という禅の達人の境地の話を連想させられる。
実際、ベルグソンの認識論には、禅の認識論に共通したところが少なからずある。

 
 
<量子論的に言うと>
 
これを量子物理学的に言うと、こうなるだろう。
 
言葉群は意識波動体でもあり、波動体はそれ特有の波動を発している。
その波形も周波数もそれ特有のものである。
 
そして、認識者の意識波動体がこの中に住まっていると、時とともにその波動に共鳴する意識波動体が、認識者の意識体の中に徐々に形成されてくる。
それは対象と同一性を持った実在だ。
認識者は、自らのうちにできたその意識体の波動を感知することでもって、認識対象の実在が認識出来るのだ~と。

 
 
<同一意識体が住まう者の意識内に>
 
われわれがこの(II)の聖句を理解するのに助けになるのは、そのうちの「認識対象と同一の意識波動体が認識者の内の出来ていく」という部分である。
 
この「対象」は(II)のイエスの言葉群が形成している意識波動体であってもいい。そう読み替えることも出来るのだ。
すると、その中に住まっている状態は、これに共感し同化するための時を維持している状態に相当する。
 
さすれば、その結果として、住まっている者の意識波動体の内にも、イエスの言葉群、イエスの意識波動体が形成されていく、となるだろう。
 
これが「(II)わたしの言葉が諸君の内に留まる」の意味だったのだ。


 
<他の聖句理解にも援用できる>
 
そしてこれはまた~
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたのからだは、あなたがたの内に住まわれる、創造神から受けた聖霊の宮であり・・・」
(コリント人への第一の手紙、6章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~の意味をも明かしてくれる。
手紙の著者パウロはここで、「イエスの言葉群が形成するイエスの意識波動が、そのなかに住まった者の内に形成された状態」を言っているのだ。
 
+++
  
さらに、次のイエスの言葉も、上記の解読を援用して意味理解が可能になる。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたの律法に、『私は言った、あなた方は神である』と書いてあるではありませんか。もし、創造神の言葉を受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから・・・」
(ヨハネによる福音書、10章34-5節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
創造神イエスの言葉群についてもそれが人の内に形成されたら、その人は神と呼ばれてもいい、とこの聖句は言っているのである。
 
今回はここまでにしておこう。






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22.悪魔の仕掛けにあうことなくなり、掛かっている者も救い出される

2018年11月16日 | 鬱を打破する聖書の論理

イエスはその「祈り方」で「御国が来ればこうなる」と教えた。
その内容は三つであったが、もう一度掲示しよう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(御国の空間が来れば)
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは悪の試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 

今回はその第③番目である。
ここでは悪魔という「見えない存在」が出てくる。
 
聖書で言う悪魔は、日本人には理解が難しい。
その常識範囲の外にある存在イメージだからである。
・・・・・
日本人の心には人間の性善説が伝統的に根付いている。
どんな悪人にも善の値がある、という思想だ。



<人間愛の作家、山本周五郎>

山本周五郎の小説が「人間愛の詩(うた)」と称されたのも、人に根付く性善を慈しみの心で描いた作品が多かったからである。
その代表作『深川安楽亭』は江戸時代の話だ。ある屋敷の裏で「荷抜け(ご禁制の商品取引)」をしている、生まれつきの極悪非道とみられていた連中が囲われている。彼らは必要に応じて、簡単に人を殺す。

そこに多額のカネを返済せねば結婚できなくなった無力な若い男女が、小鳥のように舞い込んでくる。
何故かこれを哀れんだ連中は、危険がいっぱいの荷抜けを試み、お金を造って二人に与えるが、自分たちは捕方に発見されて死んでいく。
このようにして、命を捨てていく人間の姿を周五郎は感動的に描いている。
(名作『さぶ』にも、その種の「悪人」が挿入されている)
 
 
 
<真っ黒黒な存在>

だが、悪魔にはそんな意識はいっせつない。
彼らはただ、人間を苦しめ殺すのが楽しいだけ、という真っ黒黒の存在だ。

彼も配下の悪霊も、物理的な力はもっていない。
人間に意識波動を送って、その意識と行動を方向付ける。

こういう行動には、性善説人間観では説明できないものがある。
認識の範囲に入らないものがあるのだ。


<無力な子どもを何故殺すか>

性善説では認識できない事例は現実に多い。

幼子は無力だ。それを情け容赦なく虐待し、死にも至らせる実の親が出る。
ニュースを聞くだけで胸が潰れる。このどこに性善があるのか。

幼子を誘拐し、人身売買し、あるいは、殺してその臓器を闇市場でビジネスとして販売する人間がいる。
どこに性善があるのか。



<人類を二分して殺し合わせる>

もっと広域的な事例を言えば、第一次大戦だ。

そこでは欧州を中心として、歴史上初めて人類が二手に分かれて殺し合った。
その際、機関銃や毒ガスなどが開発され、開戦後の5ヶ月で前線での死者が合計100万人に達したという。
彼らはほとんどは、敵方に遭遇する前に、機関銃で無残に殺された。
(塹壕が考案されるのはその後)

こんな事件など、性善説の人間観では妥当な認識はできない。

(性善説人間観をベースとする日本軍指導層には、極悪非道の近代兵器を使う時代の軍人を統治する能力がごく自然に不足する。戦後の憲法九条は、GHQなど戦後指導者が、日本民族に統治能力が本性的に不足しているという洞察が背景になっているのだ)


<レーガン「悪の帝国」との呼称>

その真っ黒黒の存在が、見えない影響者として配下に悪霊たちを従えて地上に存在している。
この世(宇宙)にはそういう悪の王国が併存している。

ベルリンの壁崩壊前のソ連をレーガン米大統領が「悪の帝国(Evil Empire)」呼んだのも、そのイメージを踏まえた事実認識による。

これが聖書の世界観だ。そしてその悪が人間界に惨劇・悲劇を引き起こすと聖書はみる。



<御国は地上の「世」の上位にある>

だが、「御国が来れば」その悪魔の王国(政府)はこの地上に併存できなくなる。イエスの「③」はそれを言っている。

その論理構造はこうなっている~

天国(御国)は創造神が王として統治する、創造神の王国だ。そこには創造神の政府がある。

これはこの地上(宇宙)の世界の上位にある。
この上位の性質を持った空間が来れば、悪魔とその配下の悪霊たち(の王国)は、そこに併存できない。
二つの王国が併存することはないので、存在する権威を失うのだ。

それが「我らは悪の試みに会わせられることはなく」の意味だ。

 
<すでに誘い込まれていたものは>

それに続く「すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます」は、こうだ~。

御国が来たときに、すでに悪魔の罠にかかっている人間もいる。
天国空間が来ても、存在する権威が亡くなっても、まだ、とりついた犠牲者にしがみついている悪霊もいる。

これらは壁に留まっているハエのように、とりついている。
だが、すでに留まる権利はなくなっているのだから、「出ていけ!」と命じれば、ハエが逃げ去るようにして出ていく。

~以上が③の解読だ。
だからイエスは「くだくだ言ってないで、御国を来たらせてください、とのみ祈れ」と教えたのだ。

 
 
<御国が来たというしるし>

なお、この③は「御国が来ているかどうかを」示す手がかりをも示している。
イエスの次の言葉がそれを言っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしが創造神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう創造神の国はあなたがたのところに来ているのです」
マタイによる福音書、12章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

悪霊が追い出されたら、それは御国が来ている証拠なのだ。

今回はここまでにしよう。



 


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21.負債も債権も帳消しされるようになる

2018年11月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、日々の糧が「与えられる」は「不足分が加えられる」と解読するのが正しいと言った。

 
<焦点は心の安息に>
 
「これでもか、という程に沢山」ではないのは何故だろうか。
 
イエスは人間の地上の生活においては「心の平安・安息」に焦点を置いているからである。
 
不足分が常に補填されるならば、倉に糧をため込む必要が全くない。
そもそも糧が倉にふんだんになっても、もっともっとという貪欲が人の心に常駐するのは何故か。
心底に「食べられなくなって飢えるかも知れない」という恐れがあるからだ。
だから、いくら持っても貪欲の心は続く。

(余談:稲盛経営哲学はこの貪欲の心を処理する必要と方法を説いている)
 
+++
 
だが、食えなくなる事態が全くなくなったら、もう糧は日々満たされたら十分となる。
それが御国が来れば実現するとなれば、もうため込む必要は全くなくなる。
その結果、糧については完全な安息が得られるのだ。
 
+++

イエスはかく、安息を重視していた。
 
だから、「自分は十字架で殺されてしばらくいなくなるよ」と弟子たちに告げた時にも、動転する彼らに~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は、諸君に平安(安息)を残します。・・・(中略)・・・諸君は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」
  (ヨハネによる福音書、14章27節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~といった。
 
 
 
<②は借金、貸金の話だ>
 
今回は、このことを心に留めて、「御国がくればこうなる」の第二番目に移ろう。
 
筆者は先回、その邦訳文を「②罪が許され、他者の罪をも許せるようになる」と述べた。
 
だが、この邦訳にはもっと適切な文がある~。
 
「②負債(借金)が帳消しされてなくなり、かつ、他者への債権(貸金)も帳消ししてあげられるようになる」がそれだ。
 
+++
 
この部分の英文は~、
 
・・・・・・・・
And forgive our debts, as we also have forgiven our debtors.
・・・・・・・・
 
~となっている。
 
debutという語の意味は、ほとんどもっぱら債務・負債である。
他の意味は、派生したものだ。
 
「恩義」もそのひとつだ。
これは、「金を借りたこと」から「何かしてもらったこと」を拡大連想してできた派生語だ。
 
「罪」もこれと同様に、神学で考案された派生語である。
 
つまり、「負債(借金)を赦す」という言葉の意味はよくわからなかった。
だがここで動詞がforgive(赦す)とある。
「赦す」となればまず、犯罪gilt)が想起される。
そして犯罪は聖書にある罪(sin)を連想させる。
そこで、このdebtsは「罪」だろうとした。
(英文聖書にも、sinと英訳したものがある)
 
そんなところだろうが、もしここで負債で意味が通るのなら、ここは素直に本来の意味でもって解するべきなのだ。

 
             
 
<カネの貸し借りは人の安息を壊す>
 
地上の人間の心の安息に焦点を当てれば、②の文は「負債」で明確に意味を持つ。
 
借金が人の心の安息を奪う度合いは甚だしい。
借金していると、期限までに返せなくて取り立てられるのではという恐怖が常時心につきまとう。
 
利子が付いていたらなおさらだ。
日々返済すべき金額(元利合計)は増えていくのだから。
 
現代のサラ金などはこれがバカ高くて、うなぎ登りに増えていく。
これは恐怖だ。
 
恐怖で安息を破壊されると、人は正常な思考、判断が出来なくなる。だからどんどん窮地に追い込まれていく。
 
これは人間に対する根底的な悪だ。
 
 
<御国の波動が来ると>
 
だが御国が来れば、その波動は借金・貸し金なる存在を無くしてしまう。
 
貸主が貸金を帳消しすると、その分は波動が物質化して出現した貨幣によって補填される。
だから、貸主は気楽に貸金を帳消し出来、返済義務から解放されて借主は安息を取り戻せる。
 
その意味で②の部分の邦訳文は「負債(借金)が帳消しされてなくなり」がより妥当となる。
 
 
 
<貸した側も安息を失う>
 
金を貸すことも、心の安息を失う。
そもそも、貸してくれと言うのは、金がないから言うわけで、返してくれなくなる恐れは常にあるのだ。



綾小路きみまろ>

綾小路きみまろという芸人さんがいる。
苦労時代の長かった人で、その間、交わった人も沢山いる。
彼らの内で金銭的にうまくいっていない人に「お金を貸してくれ」と言ってくる人が一人ならずいるそうである。

これに対して、きみまろさんはいつも30万円入れた現金封筒を準備している。それを渡してこういうそうだ~。

「このお金は返さなくていいからね。そして金のこと言ってくるのはこれ限りにしてね」~と。本にそう書いていた。

何度も来ないように、という思いもあるだろう。これでもって依存心を切り捨てて立ち上がるようにとの思いやりあるだろう。
が同時に、貸した金を思うことによる安息の破壊、それによる話芸への障害を避けようとする意図もあるだろう。

+++

だけど、何度も30万というのもまた、苦痛が全くないことはないよ。
ところが御国が来たら全然苦痛でなくなる。その分が毎回補填されるのならばそれを帳消しにしてあげたるのは楽なことだ。
そして心は平安・安息となるのだ
だから御国がくれば、すべての貸主は帳消しにしてあげることになる。

 
 
つまり、こうして、その地上空間では借金も貸し金もなくなるのだ。
金銭的に、すべての人が安息の中で暮らせるようになる。
御国が来て覆い重なった地上空間ではそうなる。
 
②のdebtはそのまま「債務」でいいのだ。
 
このようにしてイエスは「くだくだ祈るな。御国を来たらせてくださいとだけ祈れ」と教えたのであった。



 

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20.御国の力が地に及ぶ範囲

2018年11月12日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、人間に日々の糧を与える「地上の方法」と「御国(天国)の方法」を述べた。
今回は、御国の方法が地上に及ぶ範囲を吟味しようと思う。

(重箱の隅をつつくような理屈話と思うかも知れないが、これは大事なところだ)
 
 

<天の力が地のすべてに?>

「地に天国が来た」というと、われわれは直感的に「天国の力が地のすべてに及ぶ」と思いがちだ。

だが、「地上の糧の不足分が満たされる」という解読も成り立つ。

+++

そこで聖句を吟味すると、後者が正しそうなことが見えてくる。

~ここでイエスは「食べものや着るものを心配するな。創造神は与えてくださる」との旨をのべる。
それは邦訳聖書(新改訳など)ではこのようになっている。

・・・・・・・・・・
「創造神の国(天国)をまず第一に求めなさい。そうすればこれらのものはすべて与えられます」
   (マタイによる福音書、6章33節)
・・・・・・・・・・
 
「ルカ伝」12章22節以降にもイエスの同様な言葉が収録されている)

まあ、ざっくり言えばそれもいいだろうが、邦訳文のこの「与えられます」は英文聖書ではwill be given でなく will be added となっている。

・・・・・・・・・・・・・
“Seek first HIs kingdom and His righteousnesuu, and all these things will be added to you"
・・・・・・・・・・・・・

よく見よう。addに「与える」という意味はないよ。それはほとんどもっぱら「加える、付け加える」だ。



<いい加減な邦訳文>

では、何を付け加えるかというと、それは英文聖書でも明言していなくて、these things となっている。だが、その「これら」は直前の文脈からすると「食べものや着るもの」しか思い当たらない。

つまり、日ごとの糧は、アッドされる、つまり、「付け加えられる」のだ、御国が来ると。

では、何が付け加えられるかというと、それは今ある糧が必要に充たない分(我慢している分)しか考えられない。

+++

つまり、地上の方法ですでに得ているもののうち、欠けている部分が充填されるのだ。

たとえていえば、米びつに米はあるが、それは満ち足りる程食するには足りない。するとその不足分が補填される、というがごとしだ。
同様に、冷蔵庫の野菜室でも野菜が増え、チルドルームに肉や魚が増えているだろう。

あるいは、それを買うだけの貨幣収入が、何故か増えた、ということもあろう。
英文にも漠然としたところはあるが、邦訳文が~厳しく言えば~いい加減なのだ。


    
 
<日ごとの糧は地上だけのもの>
 
 
われわれは、「天国が来た」というとそこは「(死後に救いを受けて入る)天国のような状態になる」と考えがちだ。
(そう言わないと「信仰が足りない!」と叱る牧師さんもいるし)

だが、御国の実在と地上の現実世界とは、地上では二者択一の関係にはない。
御国がきても、地上の方法がまるごと代替されることはない。

物理学的イメージでいうと、地上の実在の上に天国の波動空間が覆い重なる、という感じだ。
そしてその力が地上の「欠けている部分」に及ぶ、というイメージだ。
 
+++
 
考えてみよう。
天国に行くときは、人間(の例)は肉体を抜け出ているんだよ。だから、人は肉体を養わなくていい。
 
肉体がなければ、「祈り方」でいう日ごとの糧(食糧)は無用だ。
つまり(御国が来れば)「日常の糧は与えられます」は地上にいる人間だけに対してなされることなのだ。
 
地上に来た御国の波動空間と、天国そのものとが同じだとするのは、純朴すぎるのだ。

 
 

<聖書を読む意味が半減>

両者を混同しないのは、非常に大事なことだから、繰り返し述べておく。
 
人間は御国が来るまでは、100%地上の方法でもって糧を得て生きてきている。
糧が必要に100%充たなくても我慢して暮らしている。
 
そこに御国が来ると、その不足分が出現して与えられる、
 
具体的には、米びつに不足分の米が出現していたり、冷蔵庫の野菜室に野菜が増えていたり、チルドルームの肉や魚が増えていたりする。こういう解読が正解だ。
 
イエスの~

「まず、創造神の国と義を求めなさい。そうすればそれらのもの(日ごとの糧の欠けた部分を埋める分)は加えられます」
 
~はそれをいっている。
 
この聖句が不足分の補填を意味していることが、いままでのところ気付かれていない。ただ漠然と「与えられる」と解されている。
 
それが邦訳文に現れている。
だが、そうすると、「まさか・・・、現にそんなことどこでも起きてないよ・・・」となって、この聖句はスキップされ、無視され、放念される

それではいかん。
こんな風に、御子イエスの言葉をスキップしたら、聖書を読む意味は半減してしまうのだ。





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19.日々の糧を得る~地上の方法と御国の方法~

2018年11月09日 | 鬱を打破する聖書の論理

「御国が来れば、御心が天になるように地にもなされます」の具体的中身の第一声は「(御国が来れば)日常の糧は与えられます」
~だった。
今回はこれを吟味しよう。

われわれ人間は地上にいる間は肉体を持っているので、それに日々糧(食べ物)を与えねばならない。
もちろん、衣食住といって、衣料も住み家も必要だ。ここで糧はそれらを総称しているとみていいだろう。

+++

そして、それをうる方法は地上の「この世」でのものと、「御国」のなす方法とで異なっている。




<「経済学の父」アダムスミス>
 
「世の方法」は、自然物に働きかけて、もの(財貨)を生産する方法だ。
 
古代、中世を通して、人々の生産効率は低く、人類は貧しかった。
近世になって「経済学の父」アダム・スミスは、生産効率を急速に高める方法を見つけ出した。
 
社会に分業を行き渡らせる、というのがそれだった。
 
 
 
 
<鍵は分業にある!>
 
分業とは、生産の作業を細かく要素(部分)に分けて、人々が割り当てられた作業に専念することだ。
 
分業が広がると、個々の生産作業は単純化する。
たとえば、釘を造るという活動には~、
 
「仕入れた針金を伸ばし」「短く切り」「一方の端をたたいて頭を造る」「他方の端をヤスリで削って先を造る」「火入れと水による冷却によってヤキを入れる」

~などの作業が含まれる。
中世までは、この一連の作業を一人の職人がすべてやっていた。
 
+++
 
だが近世になると、人々を工場に集め、各々の作業を各人に専門的に担当させるという方式が現れた。
スミスはこの方式を社会全体に普及させることをすすめた。
 
この方式を採ると、生産効率は急上昇する。
個々人の作業は単純化し、それを繰り返すと熟練して技能が上がる。




<生産が機械化される>
 
さらに、単純化した作業部分は、機械に置き換えやすくなる。
それを水車などの動力につなぐと、生産は自動化し、生産量は飛躍する。
 
スミスはこの方式が社会に広がることが、人民富裕化の鍵だとみた。
 
+++
 
こういうことが、様々な生産分野で起きたのが、産業革命だ。
 
それが進展して今の人類は、歴史上かつてなかった物的富裕を享受している。
 
 
 
 
<五千人の糧を造る>
 
御国がやってきて地上でなす方法は、スミスとは全く別である。

存在の源である波動を、物質に様態変えさせる、というものだ。

この事例は、新約聖書に記録されている。イエスが「魚とパン」を次々に出現させた状況に見ることが出来る。それはマタイ伝にも下記のように記されている。
 
・・・・・・・・・・・・・・
「イエスは言われた『あの人たちに何か食べるものをあげなさい』
しかし弟子たちはイエスに言った『ここにはパンが五つと魚が二匹よりほかありません』
 
するとイエスは言われた『それをここに持ってきなさい』
そしてイエスは、群衆に命じて草の上に座らせ、五つのパンと二匹の魚をとり、天を見上げてそれらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
 
人々はみな、食べて満腹した。
そして、パン切れの余りを取り集めると、12のかごにいっぱいになった。
食べたものは、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」
      (マタイによる福音書、14章16-21節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
量子物理学は、この事態を物理的現象として理解させてくれる。 
 
この物理学はすべての存在の元は波動であることを明かした。
その波動が凝集した部分が粒子となり、粒子は組み合わさって物質を形成する。
 
イエスが行ったのはこれだったのだ。ちなみに『創世記』冒頭に期されている「創造」のわざも同様にして理解できる。
 
 
        
 
<資源がなくならない方法>
 
アダム・スミス流の「この地上の方法」も画期的だった。だがこちらでは天然資源が細って行くにつれて、生産物も細っていく。
 
対して、御国がやってきてなす方法では、資源は無限だ。波動だからだ。波動は創造神から全被造界に際限なく放射され続けていてる。


 
<関連するイエスの言葉>

「パンと魚」の出来事の際には、イエスの事件に関連した言葉も記録されている。

上記「マタイ伝」では~

・「あの人たちに何か食べるものをあげなさい」

・「それ(五つのパンと二匹の魚)をここに持ってきなさい」

~がある。

同じ出来事を記録した「ヨハネ伝」には~

・「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」(ヨハネ、6:5)
 
・「人々を座らせなさい」(ヨハネ、6:10)
 
・「余ったパン切れを、一つも無駄に捨てないように集めなさい」(ヨハネ、6:12)

事件に関連した言葉は記憶しやすい。これも人の意識波動体が住まうべき「イエスの言葉群」のなかに入れておくのがいいだろう。




 
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18.イエスの言葉群の中核は「御国」についての教え

2018年11月07日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回、臨時で「信じる」の意識波動的な意味を考えた。
「イエスの意識波動体の中に住まう」という考えが出てきたついでに~先のために~考察した。寄り道したが大丈夫、ゴールは「鬱心理を打破する聖書の論理と力」においている。これを焦点としての遠望は保っている。
後のための先取り的な仕事だった。本論に戻って、イエスの夢の言葉の解読を続けよう。

+++

今回は~、
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~のうちの「わたしの言葉」だ。

前々回に、(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」の内の「留まる」の意味を解読した。
それは、イエスの言葉が形成する意識波動体のなかに、自分の意識波動体が「住まう」ことであった。
 
だが、その住まうお家である「イエスの言葉」が具体的に何であるかのイメージがないと、聖句の意味は明確化しない。
今回はそれを解読する。
 
 
 
<言葉は「言葉群」>
 
それにつけ、ここでまず上記の夢の聖句の邦訳文に、若干修正を加える。
筆者が踏まえる英文聖書は、New American Standard Bibleだ。
これは米国内で、最もギリシャ語の原文に即していて、かつ、英文が平明と定評あるベストセラー聖書だ。
 
この聖書を見ると、上記邦訳文の「言葉」は“words”と複数になっている。このニュアンスをも含めて日本語にするとこの語は「言葉群」とでもいうべきだろう。人間(諸君)が超自然事象を得るために住まうべく家は、より正確には「イエスの言葉群」だった。

 
  
 
<言葉群の中核は「天国についての教え」>
 
けれども、ではその「(イエスの)言葉群」とは何か?といわれると、少々困る。
イエスは沢山の言葉を述べている。そのすべてをいきなり相手にしたら収拾が付かなくなる。
やはりまず、中核になる言葉から吟味していくべきだ。
そしてそれは「天国(の性質を持った空間)に関する教え」である。世にイエスの教えの中心は福音(よき知らせ)というが、そのよき知らせは具体的には「天国(という空間)に関する知らせ」なのだ。

+++
 
そのことは、四福音書の最初の書物「マタイによる福音書」に如実に現れている。ここでイエスは「天の御国が近づいた」と宣言して教えを始めている。以後、その天国の説明を中心に、イエスの説教は延々と展開していく。
いわゆる「山上の垂訓」と呼ばれるようになっている説教も、みな「天の御国」に関する教えだ。
 
だから、マタイ伝では~特に前半に~「天国」の語が繰り返し繰り返し出てくる。もういやというほど、数えたことはないが20回は優に超えているだろう。
このようにしてイエスは天の御国の特性をまず集中的に説明する。
中核は天国に関する教えなのだ。


 
<天国空間が来たら「こうなる」ぞ>
 
そして、その説教のなかでも特にイエスが「天国が来たらこうなる」とズバリ述べた言葉がある。これが中核中の中核だろう。まず吟味すべきは、その言葉だ。
具体的にはそれは、後に人々が「主の祈り(the Lord's Prayer)」とのニックネームをつけた聖句だ。そしてこれが結構くせ者なのだ。だが避けて通れない。
なにはともあれ、この一般的訳文を口語文で示そう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
御心の天になるように、地にもなさせてください。
私たちに日常の糧を与えてください。
我々に罪を犯すものを我らが許すように、我らの罪をも許してください。
 
我らを試みに会わせず、悪より救い出してください。
天国と力と栄光はとこしえにあなた様のものだからです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 
 
 
これは文字通りに見ると、「お願い」の祈りだ。なのに筆者はいまさっき、これが「天国(の性質を持った空間)が来たらこうなる」と示す言葉、宣言する言葉といった。どうしてそんなこと筆者は言うのか。これについては、若干込み入った解読を示さねばならない。

 
<「主の祈り」の名は付けすぎ>
 
筆者は考える。まずこの聖句につけられたニックネームは放念すべきだ、と。
この「主の祈り」という呼称は、語呂がいいからそう付けたのだろうが、いわゆる「付けすぎ」だ。それはほとんど間違いと言える程に不適切で、妥当な解釈の阻害要因になっている。
これをみたら当初ほとんどの人は、主(イエス)が父なる創造神に祈った言葉と予感するだろう。だが、中身は全然違うのだ。
 
+++
 
これは「諸君の祈りはこうすべきだよ」と「人々にイエスが教えた祈り方」なのだ。これを教える時の状況はこうなっている~。
 
人々は「自分たちは創造神にどう祈ったらいいか」とイエスに尋ねている。
対してイエスは~
 「長々と祈るな。全知の創造神は、諸君が求めていることなど、すべてわかっている。ただ、短くこう祈れ」といって教えている。
そういう、人間に、いってみれば「お前ら、祈るんならこう祈れ」といって発した言葉なのだ。
ゆえにまずそれを知って、誤解を誘うネーミングを放念すべきである。
 
 
 
<お前ら祈るんならこう祈れ>

第二にこれも知らねばならない。
 
上記邦訳文の一つ一つのフレーズの各々は、文字の上では父なる創造神に祈り求めている「願いのことば」になっている。
 
だが、イエスがここで究極的に教えようとしている真意はそうではない。
「天にまします我らの父よ、御国を来たらせたまえ」につづくフレーズの真意は、祈念ではなく宣言だ。
天国の空間(空気、オーラといってもいい)がやってきたら、それは地上の現実に覆い重なって、御国の性質が実現されていく、という宣言なのだ。
 
それを明示するために、まずとにかくそのように訳文を変えてみよう。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ。
御名があがめられますように。
御国を来たらせてください。
 
(御国の空間が来れば)
~御心が天になっているように、地にも実現します。
~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
天の王国とその力と栄光(パワーも含めた天国空間の波動)は、とこしえにあなた様のものだからそうなるのです。
 
(マタイによる福音書、6章9-13節の真意)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
 ~後の議論がわかりやすくなるために、筆者が①②③と番号を打っている~ 
 
イエスが教えようとした究極的な内容はこれだ。
 
だが、これを語った時点ではまだそれをそのままいうことはできなかった。
イエスがいわゆる「山上の垂訓」でこの「祈り方」を教えたのは、イエスが宣教を開始したばかりの出発時点で、ほとんど第一講なのだ。

+++

この後、イエスは十字架死して罪の代償を作り、復活して天に昇って、聖霊を送る。その聖霊が「天国の力」を超自然的事象でもって証拠する。
 
だがこの説教の時点でイエスは、自分が十字架死して人間の罪の代償を作るという予告もしていない。そういうタイミングで、究極の真意を言っても聴衆は理解できない。
そこで「祈り方」の全フレーズを「お願い」の言葉としてまずは飲み込みやすく教えたのだ。

+++

鹿嶋の深読みとの嘲笑があっても筆者はそう解読する。
「祈り方」の奥義は「天国はこういうところ」という教えであり宣言だと解読する。
 
次回には、その宣言の内容をさらに具体的に追ってみよう。







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17.「信じる」は「意識波動体の内に住まう」こと

2018年11月05日 | 鬱を打破する聖書の論理

前回の最後に筆者は「波動体は波動体の「内に住まう」ことが出来るから、もうぴったりだ」といった。

このことはイエスの次の言葉の意味を明かしてくれる。(筆者には「ようやっと」わかった、という実感がある)


<父が私におられ・・・>


・・・・・・・・・・・・・
「たとえわたしの言うことが信じられなくても、わざ(イエスの行うしるしと不思議)を信用しなさい。それは、父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいることを諸君が悟り、また知るため(のもの)です」
(ヨハネによる福音書、10章38節)
・・・・・・・・・・・・・


括弧がいっぱい付いた聖句になったが、まあ、いいだろう。
このなかの「父が私(のなか)におられ、わたしが父(の中)にいる」がず~と筆者はわからなかった。
だが~量子力学思想のおかげで~いまはこう解読することができる~。

創造神もイエスもその本質は波動体だ。意識を持った意識波動体だ。波動体は波動体の中に住まうことが出来るので、「父なる創造神は御子イエスのなかにいる」ことができ、また、御子も「父の中にいる」ことができるのだ。

(ちなみに、創造神の波動体は、いのちエネルギーを自ら放射する波動体だ。そのエネルギーでもって被造の波動を造り、それを物質に変化させたりする。これが被造物の創造である。・・・そういうイメージだ)



<感覚がつかめない言葉>

さて、今回はこれに関連して聖書のキーワード「信じる」の意味をも明かしておこう。聖書に於いてはこの語は「キーワード中のキーワード」だ。

ところがこの語はよくわからないのだ。これは中国語から借用したらしい語だからだ。

われわれが言葉を感覚的にも理解しようとするには、その語が日本人の生活の中で出来上がってきた過程を追ってみることが必要だ。
だが、「信じる」はそういう出来方をしていないので、われわれにはその感覚がつかめない。いってみればその意味は扁平なままだ。

 

<やっとわかった難解用語>

だが、その意味は前回の考察が示してくれる。「意識波動体が意識波動体の中に浸って住まうこと」がそれだ。職人をめざす弟子が、親方の意識世界に浸り住まう事態・・・これが「信じる」の中身だ。

筆者は以後、このニュアンスで「信じる」を読んでいく。
もし読者がこの方法をフォローされるならば、聖書が一段とハッキリ見えて来るであろう。



 
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16.親方の意識世界に「住まって」弟子になる

2018年11月04日 | 鬱を打破する聖書の論理

イエスの夢の言葉の解読を続けよう。
今回は~、

・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~のうちの「ことばに留まる」だ。

イエスのことばは意識波動体だった。
では、「その中に(中に、となるわけは前回説明した)留まる」の留まるとはどういうことか?

これについてはありがたい手がかりがある。イエスはこれと重なる教えを、すでに別のところでしている。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君がわたしのことばに留まるなら、諸君は本当に私の弟子です」
(ヨハネによる福音書、8章31節)
・・・・・・・・・・・・・・・・

~がそれだ。ここでは、弟子という言葉が出ている。



<徒弟制度>

弟子とは本来徒弟制度で使う言葉だ。
徒弟制度とは、知識とわざを学ぶ方式で、これは学校の教室で学ぶ方法と違う。

徒弟制度の典型は、一人の師匠(親方)の家に住み込んで師匠の、おもに「わざ」~そこには知識も込められている~を学ぶものだ。
そこでは弟子は師匠を「模倣する」ことに徹する。


<完全模倣は同一化の手段>

模倣とは「同一化」だ。師匠に同化してしまうのだ。

人間は肉体的には他者と同じになることは出来ないが、精神的(意識波動的)には、同じになることが出来る。

その代表例は、母親が幼い我が子になす同一化だ。
その子が医者に注射されて泣くとき、母親は自分の身体のその部分にもチクリとした痛みを感じることがあるという。

+++

徒弟制度において師匠を模倣することは、そうした同一化をしていくことだ。
そしてこれを深めていくのは、師匠の家に住み込まないと難しい。「弟子入り」というのはそういう意味も持っている。

+++

これがいわゆる修行期間だ。そのあいだに弟子が学んだことに自分の個性を付け加えたりしようものなら、(大工の場合は)親方は金槌でぶん殴る。

親方のわざが、同一化によって自分に乗り移ってくるには、一定期間模倣に徹していることが必要なのだ。それまでは自分の個性を出すのは「待て」というのだ。



<そして「のれんわけ」の時が>

そして同一化がなると、師匠は弟子を独立させる。いわゆる「のれん分け」だ。そうなったら、弟子は乗り移った親方のわざに自分の個性を加えて、総合的に展開する。

人間の本性は「わがまま」だ。修行期間に発露を禁じられていても、人の個性は簡単には消滅しないものなのだ。

 
 
 
<「留まる」より「住まう」が適切)

イエスの「わたしのことばに留まる」は以上のような内容を持っている。
その意味を込めて「わたしの弟子になる」といっているのだ。

そしてその内容を的確に示すには、日本語の「~に留まる」を「~に住まう」に替えた方がいい。
修行期間には親方の意識波動世界の中に、もうすっぽりと「住まってしまう」のだ。

実際ここで「留まる」と邦訳されているもとの英語はアバイド(abide)だ。
これは本来「住まう」という意味である。
 
ここは「諸君の意識波動体がわたしの意識波動体の内に住まうなら」と解しておこう。

波動体は波動体の「内に住まう」ことが出来るから、もうぴったりだ。

これで「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり」が解読できた。

今回はここまでにしておこう。



 
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15.「私(イエス)の言葉に留まる」とは?

2018年11月03日 | 鬱を打破する聖書の論理


<人間は意識波動体>
 
 さあ、ヨハネの記録したイエスの夢の言葉の解読に入ろう。

・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~後の解説のために、各フレーズに筆者が番号を付けている~

 
まず、(I)「諸君がわたしのことばに留まり」から始めよう。
 
「諸君」とは弟子たちのことだ。
だが、量子力学ベースでは、彼らも含めて人間は意識波動体となる。
 
 
 
<言葉も意識波動体>
 
「わたし(イエス)の言葉」はどうか。
これもまた、意識波動体である。

言葉が波動体であることは、量子論以前より物理学的に多分に認識されてきている。
言葉を表現する音声は波動となって伝わっていく。

量子論ではさらに、印刷された文字もその印刷媒体から波動を発していることになる。

加えて、それを構成する意志も感情も量子論では波動であり、それは波として伝わっていく。
それらを総合して言えば、「言葉は意識波動体」ということになる。

イエスの言葉も同じだ。
だから(I)「諸君がわたしのことばに留まり」は、「弟子たちの意識波動体がイエスの言葉が構成する意識波動体に留まり」となる。



<"in" My Word>

ここで注意すべきことがある。
この「意識波動体に留まり」は正確には「「意識波動体『のなか』に留まり」だ。英語では "in" My Wordとなっている。

だが、その意味が邦訳者にはわからなかった。弟子たちを「物質的な身体を持った人間」とうけとったので、「身体が言葉のなかに留まる」などは想像できなかった。
そこでもう"in"を省いて邦訳文を造ったのだ。



<ニコデモも物的身体をイメージした>

こういう事態は福音書のなかにも現れている。「ヨハネ伝」3章だ。
ここにニコデモというユダヤ教の高僧が登場する。彼はイエスの天国に関する説教にわからないところがあって、密かに質問に来る。

(彼はイエスの教えを受け入れつつあったが、それを知られると所属教団から迫害されるので闇に紛れて教えを乞いに来たのだ)

イエスは彼に「天国(天の創造神王国)は、新しく生まれないと見られない」という。

+++

するとニコデモは「もう一度母の胎内に入らないと新しく生まれるなんてできないのですが」という。

イエスはここで霊(という意識波動体)のことをいっている。
対してニコデモは文字通りの物理的肉体しかイメージできないでいる。

このニコデモと同じ状況に、聖書邦訳者はいる。だから「(言葉)のなかに」とはどうしても訳せなかったのである。

+++

だが、ここでは言葉が意識波動体であり、弟子たちもまた量子論的にはその本質は意識波動体である。そして「波動体が波動体のなかに留まる」ことはあり得る。

「諸君(という意識波動体)がわたしのことば(という意識波動体)のなかに留まる」という事態は物理学的にもありうるのだ。

今回はここまでにしておこう。



 
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14.「言葉への信頼感」が「しるし」で飛躍

2018年11月02日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
前回、聖書の持つ「人間は永続する」」という思想を形成する聖句群が、自価意識を根底から崩す無常観を和らげると述べた。
今回から、その効果をさらに飛躍させる要素である超自然的事象~奇跡~について考えていこう。
 
 
 
<漠然とした意識を言葉で明確化>

聖書が与える人間永続感を、要約しておこう。
聖書は人類に「永遠」といいう概念を導入している。
人間は「ず-と続く」といった意識を漠然とした気分として抱くこともある。
だが、聖書は「人間は永続する」という思想をはじめて言葉として明確に示したのだ。
  
+++
 
具体的には、聖書は人間には霊があると教える。
そして霊は死後も永続する、と教える。
その思想は世界観の中で論理的に示されている。
それを示す言葉(聖句)に繰り返し触れていると無常観は和らげられていく。
 
 
<セルフバリュー感も供給する>
  
永続感に加えて聖書はまた、「人間は存在価値ある」という思想もふんだんに提示している。
それを全知である創造神からの言葉として、発信する。
これは人の自価意識に直接プラスに働きかける。
 

<「パンのみで生きるにあらず」とは?>
 
このことはイエスの有名な言葉「人はパンのみにて生くるものに非ず」の意味をもシャープに浮上させてくれる。
 
荒野(あらの)で断食中のイエスを悪魔は誘いをかける。
 
「あなたが創造神の子なら、この石がパンになるように明示なさいよ」             」
 
これに対してイエスは「人はパンのみによって生きるのでなく、創造神の言葉をも食べて生きる」と応じて誘惑を退ける。(マタイによる福音書、4章1~4節)

+++
  
この意味は従来、漠然と理解されている。
「神様の言葉に導かれて生きるのだよ」といったように。
 
だが、より詳細には「創造神の言葉は人に自価意識を与える。これを吸収して自価意識を保つことによって、人は生きられるのだよ」と筆者は解する。

 
<創造神の子が永続の言葉を証拠づける>

けれども言葉というのは人間が自由に操れるものでもある。
我々は自分の魂の経験から、それを知っている。
それが、聖書の言葉についても「口だけなら何でも言えるサ」という意識を大きく心に存在させ続ける。
だが、これに対処する方法をも聖書~新約聖書~は提供している
 
新約聖書では、創造神のひとり子イエスが出てくる。
彼は「人間は永続する」という教えを、人の姿をとって地上にきて明確に宣べる。
また「諸君(人間)は存在価値ある」という思想を、行為でふんだんに示す。
 
+++
 
イエスはまた自分の行為はすべて「父なる創造神の御旨」と一致している、という。(ヨハネ、5:19)

つまり、創造神ご自身も人間を存在価値あるものとしておられる、というのだ。
  
+++
 
これらの言葉は、相応の影響力を持ってうつ心理を和らげる。
だが、言葉にはまた相応の限界もある。
人間観を言う宗教教義は、世の中に沢山あって、みなそれぞれもっともらしい教えを展開している。我々はそれを五感経験で知っている。
だから前述の「人は口だけでなら何とでも言えるサ」という思いも抱く。
 
けれどもこれに対して、イエスは自らの教えが事実であることを奇跡〔しるしと不思議)で根拠づけるのだ。

 
<奇跡の心理効果>
 
奇跡というのは、強烈な心理効果を持っている。
「人間、死んでおしまいでない。あなたを創造神は存在価値あるものとしておられるのだ」といった言葉に、奇跡が伴ったらどうなるか。
その宣言に人間の抱く信頼感は急増する。

宣言の中身を目に見えるようにしてあげるのではない。ただ、超自然的な事象をあらわす。それで否定感情が劇的に粉砕される。人間の心理はそういうふうにつくられていようだ。
 
 
 
<奇跡を表す方法もいい遺していく>
 
また、イエスは自ら奇跡を現しただけではない。信じる者すべてがしるしを現す方法もいい遺していった。
これが実現されるところでは、この世の人々の永続確信も飛躍するだろう。
実際に実現可能性があるなら、これは人類への夢のプレゼントだ。

 +++
 
 イエスはその方法を「ヨハネ伝」の中で、ずばり結論的に宣言している。
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
~後の解説のために、各フレーズに筆者が番号を付けている~
 
この聖句は。単に「ことば」を証明するという効果を超えたものを持っている。

この方法自体が、直接うつを打破する用具ともなりうるのだ。
だって、求めるものをなんでもあたえる、というのだから。
「なんでも」は「鬱が晴れた爽快な心理状態」も、含むはずだから。
 

とはいえ、この夢のような言葉は、そのままでは使えない。
これは結論的な宣言なので抽象度が高い。
意味の解読が必要だ。それがないと、聖句はたんなる「おまじない」の言葉と人の心の内ではなってしまう。

説明は聖書に触れてきてない人には難しいと思うが、吟味するしかない。
筆者も大胆にやるしかない。
 
次回からそれに突入するよ。
 
もう、やらないことには、日本もあなたも「どうせ死んでおしまい」の意識にさいなまれ続けるのみだからね。
 
だがこの方法が理解できたら、人生変わるからね!
自分の人生だけでなく、他の人々の人生も助けることができるからね。
では、いざ~。





 
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