=聖句=
「イエスは『人々を座らせなさい』といわれた。その場所には草が多かった。そこに座った人の数は5千人ほどであった。そこでイエスはパンをとり、感謝してから、座っている人々に分け与えた。魚も同様にして分け与えた。それらを彼らの望むだけ与えられた」(6章10~11節)
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6章に入ります。
ここも5章と並んで、ヨハネならではの深い神学が込められているところです。
まず冒頭で、ヨハネはイエスがパンと魚を出現させて、5000人の人に食べさせた光景を描いています。続いて、弟子たちを先に船で行かせておいて、後から湖の水の上をヒタヒタとイエスが歩いてきた事件をも記しています。
このあたりは、マルコによる福音書にも記されているところです(6章)。
だが、マルコ自身は直接それを見たのではありません。
ペテロに聞いて書いているわけです。
対して、ヨハネは、自らの目で見た体験をベースにして書いています。そのことは、マルコの記述がもしかしたら作り話を元にして書かれたかも知れないのでは?~~という読者の思いを一掃してくれます。
<パンもいいけど朽ちない食物を求めないと・・>
しかし、ヨハネならではの神髄が現れるのは、その次からです。
腹一杯食べさせてもらった群衆は、翌日もイエスの居所を探して集まってきます。
また、食べさせて欲しいのです。
それを見すかしたイエスはこういう主旨のことを言っています。
「君たちは、腹一杯食べられたからまた来たんだなあ。私が行うしるしを見るためではないんだ。だけど言っておくよ。パンなどの食物は、いずれ朽ちてしまう肉体のためのものだ。それではいけない。霊が永遠のいのちをもつための、食べ物を求めないと・・・」(6章26~7節)。
群衆というのは物的な食べ物をもらうことしか、念頭にないんですね。
もちろん、中にはヨハネら弟子たちのように、イエスの言うことを理解しようとした人もいたでしょう。
だが、民衆というのは、大半はそうではないんですね、いつの時代にも。
<私(イエス)を信頼することが、朽ちない食物>
彼らはこう言います。
「じゃあ、先生のおっしゃる創主の望みを行うために、私たちは何をしたらいいんでしょうか?」(28節)。
イエスは答えます。
「それは創主がこの世に送られた存在、すなわち私を信じることだよ」(29節)。
すると彼らはこう言うんですね。
「じゃあ、私たちがそのことを信じるために、どんなしるしをしてくださいますか? 私たちが信じられるようなしるしをやってくださいよ。聖書(旧約)には、先祖が天からマナという食べ物をモーセから与えられて食べた、と書いてありますけど・・・」(30~31節)
・・・な~んて、結局、食べ物を再び出現させてくれることを求めているんですね。
物資欠乏時代の庶民はこんなものです。人類の歴史は、ず~とそうでした。日本だって、庶民が飢餓の恐怖から解放されたのは、戦後の高度成長の後からですよ。それまで、大衆は、いつも、自分が食えなくなる事態に陥ることを恐れていました。いまでも、低開発国の庶民は、その状態であります。
こうなると、庶民は、食べ物のことがいつも念頭に真っ先に存在することになるのです。
それをイエスが、只で、ふんだんにくれた。もう、それのみを求めて殺到することになります。自然なことです。この福音書の著者ヨハネは、その光景を苦い思いで見ていたのではないでしょうか。