鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.82『民衆は“食べ物頂戴、頂戴”のみ』(6章)

2005年08月30日 | ヨハネ伝解読


=聖句=

 「イエスは『人々を座らせなさい』といわれた。その場所には草が多かった。そこに座った人の数は5千人ほどであった。そこでイエスはパンをとり、感謝してから、座っている人々に分け与えた。魚も同様にして分け与えた。それらを彼らの望むだけ与えられた」(6章10~11節)

・・・・・・・・・・

 6章に入ります。
ここも5章と並んで、ヨハネならではの深い神学が込められているところです。

 まず冒頭で、ヨハネはイエスがパンと魚を出現させて、5000人の人に食べさせた光景を描いています。続いて、弟子たちを先に船で行かせておいて、後から湖の水の上をヒタヒタとイエスが歩いてきた事件をも記しています。

 このあたりは、マルコによる福音書にも記されているところです(6章)。
 だが、マルコ自身は直接それを見たのではありません。
ペテロに聞いて書いているわけです。

 対して、ヨハネは、自らの目で見た体験をベースにして書いています。そのことは、マルコの記述がもしかしたら作り話を元にして書かれたかも知れないのでは?~~という読者の思いを一掃してくれます。

<パンもいいけど朽ちない食物を求めないと・・>

 しかし、ヨハネならではの神髄が現れるのは、その次からです。
腹一杯食べさせてもらった群衆は、翌日もイエスの居所を探して集まってきます。
また、食べさせて欲しいのです。
それを見すかしたイエスはこういう主旨のことを言っています。

 「君たちは、腹一杯食べられたからまた来たんだなあ。私が行うしるしを見るためではないんだ。だけど言っておくよ。パンなどの食物は、いずれ朽ちてしまう肉体のためのものだ。それではいけない。霊が永遠のいのちをもつための、食べ物を求めないと・・・」(6章26~7節)。

 群衆というのは物的な食べ物をもらうことしか、念頭にないんですね。
もちろん、中にはヨハネら弟子たちのように、イエスの言うことを理解しようとした人もいたでしょう。
 
 だが、民衆というのは、大半はそうではないんですね、いつの時代にも。

<私(イエス)を信頼することが、朽ちない食物>


 彼らはこう言います。

 「じゃあ、先生のおっしゃる創主の望みを行うために、私たちは何をしたらいいんでしょうか?」(28節)。

 イエスは答えます。

 「それは創主がこの世に送られた存在、すなわち私を信じることだよ」(29節)。

 すると彼らはこう言うんですね。

 「じゃあ、私たちがそのことを信じるために、どんなしるしをしてくださいますか? 私たちが信じられるようなしるしをやってくださいよ。聖書(旧約)には、先祖が天からマナという食べ物をモーセから与えられて食べた、と書いてありますけど・・・」(30~31節)

 ・・・な~んて、結局、食べ物を再び出現させてくれることを求めているんですね。

 物資欠乏時代の庶民はこんなものです。人類の歴史は、ず~とそうでした。日本だって、庶民が飢餓の恐怖から解放されたのは、戦後の高度成長の後からですよ。それまで、大衆は、いつも、自分が食えなくなる事態に陥ることを恐れていました。いまでも、低開発国の庶民は、その状態であります。

 こうなると、庶民は、食べ物のことがいつも念頭に真っ先に存在することになるのです。

 それをイエスが、只で、ふんだんにくれた。もう、それのみを求めて殺到することになります。自然なことです。この福音書の著者ヨハネは、その光景を苦い思いで見ていたのではないでしょうか。

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Vol.81『モーセ律法の真の意味は?』(5章)

2005年08月30日 | ヨハネ伝解読


=聖句=

「諸君(ユダヤ教僧侶たち)が真にモーセを信じていたならば、私(イエス)を信じたであろうに。なぜなら、モーセは私について書いているのだから」(5章46節)

・・・・・・・・・・・・・・・・

 5章の最後です。ここでヨハネは、イエスがパリサイ派のユダヤ人に向かって、モーセについて語った言葉を記録しています。

 モーセといえば律法ですよね。
「これこれをせよ、これこれをしてはならない」という創主から人間に向けて発せられた戒めが律法です。
その代表が有名な「十戒」なわけです。
それがどうしてイエスについて書いたことになるのでしょうか?

      @      @     @

 筋道は、次のようになります。

 イエスは別のところで、「十戒は、行動だけではなく、思いも含めて戒めたものなのだ。それが、真の意味なのだ」と教えています。
 
 「女を見て姦淫の上を抱けば、姦淫をしたことになる」(マタイによる福音書、5章27~8節)
  
  ~~は、それを例示したもので有名ですね。

 ならばこれは厳しい教えですよね。
 従来ユダヤ人たちは、「行動」で戒めを破らなければいいと解釈して暮らしてきました。
 そして、自分たちは罪人ではないと思ってきました。
 ところが、「思い」まで含めるとなると、もうこれは大変だ。

 殺人をしなくても、憎い人に対して「あいつ死ねばいいのに」と思ってしまうことは、いくらでもあります。これもまた罪だとすればもう、自分もまた罪人になるしかないのです。

 イエスは、そうだ、それがモーセが書いたことの真意なのだ、と教えます。
 だから、人はみな罪人となるのは避けられない。
 つまり、「罪を犯さないで救われる」という道は、実は人にはなかったのだ。

 そこで、人が救われるには、その罪を代償してくれる存在が不可欠になるのだ。私は、それをするためにこの世にきたのだーーーと。

<モーセはイエスの十字架死を書いている>

 その代償を創るのが、罪なき創主の子が十字架で殺されるという出来事だというのが、イエスの教えの確信なのです。そしてイエスは、「モーセはそういう論理を書いている。律法はその論理の一部なのだ」、と教えるのです。

 実際そういわれて読み直してみます。すると、モーセが書いたと言われる「モーセ五書」(聖書のはじめに収録されている5つの書物)には、そのように解釈することの出来る文章も見えてきます。そういうのが含まれているから不思議です。

 けれども、著者ヨハネは、そうした解説は一切この福音書では記しておりません。
 ただ、「モーセを真にわかっていたら、私を信じたはずだ」というイエスの言葉だけを、ぽつんと記している。
そして、後に5章として編集されるこの部分を終えております。

          (ヨハネ伝解読:第5章、完)
 
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