総選挙も終わりました。
もう鹿嶋の論述が、その選挙に影響することはありませんので
田中角栄さんと小沢一郎さんに関して論じようと思います。
春平太はこれから、このお二人に降りかかった災難は、
「お二人も含めて日本人の政治見識の狭さ」からきているということを示します。
しかし、問題を指摘するだけという論考は、不完全なものです。
問題を指摘したら、それを打開する方法をも提示しておくべきだと思います。
それで、先に、その打開策を提示して、それから角栄さんと小沢さんへの災難の構造を
仮説的に明かそうと思いいます。
<数人の談話会が誰にも出来る時代に>
で、「日本人の政治見識の狭さ、低さ」への打開策です。
この問題は、世界に関する全体観の欠如から来ます。
そして、その8割以上は、歴史観の希薄さから来ます。
では、その歴史観を豊かにするにはどうしたらいいか。
その対策は、結論だけ聞いたら論理の飛躍に見えるでしょうが、これ以外にない現実的なものです。
それは、「聖書の中の語句、である聖句」の自由な吟味を続けること~これです。
それを数人くらいの小グループで自由に吟味することを続ければ、歴史観は自然に豊かになっていきます。
そして、そういう吟味会が、互いに離れてすんでいる人の間でも、ネットでできるようになりました。
グーグルにグーグルプラスという無料サービスがあります。
そのなかの「ハングアウト(Hangouts)」というサービスを使いますと、10人までの小グループで
映像付きで談話することが出来ます。
それが日本に住んでいる人の間だけでなく、米国や欧州に住んでいる人ともできます。
だれかが世話人になれば、簡単にできます。
これは驚くべき事件に鹿嶋には思えます。すごい時代が開けたと思います。
とにかく、そういう誰にでもとれる打開策があることを、まず、提示しておきます。
これをすれば、歴史観を持続的に豊かにしておくことが可能になります。
<ネットで大勢の角栄・小沢認識>
さてインターネットでは、田中角栄さんを失脚させ、小沢一郎さんを政治資金関係の容疑で
「座敷牢」に閉じ込め続けた黒幕は米国だったという認識は、大勢になっています。
ほとんど常識になっていると言っていいくらいです。
そこでは、こういう情報も披露されています。
~日本の検察庁あるいは東京地検の事務局でしたか、そこに直結した部門が米国大使館にある。
日本は昭和26年にGHQによる占領統治から解放され、独立したが、
その際、そういうホットラインが作られた。
それが日本の政治への操作力をもつために維持されている、~云々です。
ネットの情報には、もちろん、ガセネタもあります。
また、上記のようなことは、当事者以外に直接の証拠は知り得ません。
だから、鹿嶋にも、そうしたことがらが事実だとも、事実でないともいうことは
証拠主義でいけば出来ませんが、
科学には(社会科学も科学です)「仮説」という用具があります。
究極的なことはわからないが、それが事実だという「説を仮にたてる」。
このようにして設定する命題が仮設です。
そしてそこから推論を試みる、という方法が科学にはあります。
鹿嶋は、いま、それをしてみようと思います。
<日中国交回復>
その仮説に立てば、問題の発端は、1972年9月の日中国交回復調印にありました。
この間の事情を、『日中国交正常化』(服部龍二著、中公新書)はよく描いてくれています。
用いている大量の資料は、みな公式資料で、裏情報はほとんど使われていないのですが。
そして、新書版の本ですけれども、
鹿嶋のような門外漢には、日中国交回復の状況に関しては決定版に見えました。
それも大いに援用して述べますと、まず田中角さんは、
国交樹立の調印を7月に首相に就任した2ヶ月後にやってのけています。
それに先だって、1971年当時、自民党の幹事長だった角さんは、
中国問題の勉強会を立ち上げていました。
1971年7月にニクソン大統領が北京訪問することが電撃的に発表されたことが契機です。
そ時の首相は佐藤栄作さんでしたが、彼とか、福田赳夫さんとかは中国首脳との
交流はできませんでした。
当時の中国の首相・周恩来はこういう官僚あがりの人物と会談をする気は全くなかったと言います。
肌が合わないんでしょうね。
対して角さんは、自称、「小学校出のたたき上げ」です。
こういう創業者的な人格とは周恩来は気風が合ったようです。
また角さん自身も、こういっていたそうです。
「毛沢東、周恩来はいまの共産党中国を作った創業者だ。日中国交回復のような大仕事は、
こういう人物にしか出来ない。後継者が政権を継いだらもうチャンスはない」~と。
そこで首相就任二ヶ月後に電撃的に国交回復の調印をするという離れ業をやってのけたわけです。
<急転落へ>
ところが角さんは、日中国交回復という大仕事をしたわずか2年後の1974年に、
政治金脈問題を追求されます。
マスコミは、最大トピックとしてこれを報じ続け、田中は首相辞任に追い込まれました。
さらに二年後の1976年7月に、今度はロッキード事件で逮捕され、
8月には東京地検特捜部に受託収賄と外為法生違反容疑で起訴されます。
以後、1993年に逝去するまで被告として公判生活を送ることになります。
この事件はアメリカのコーチャンというロッキード社の副会長が、
免責を受けて公聴会で証言するという事態から起きたものです。
その一方で角さんは、田中派という最大派閥を運営し、1978年盟友大平を総理大臣にします。
角さんも大平も福田赳夫と血みどろの戦いをします。
ところがその大平は、二年後の1980年、心不全で70才の生涯を閉じます。
親友を失った孤独の中で裁判を続けつつ、田中は若き政治家を派閥のなかで育てる日々を過ごします。
ところが、1985年に彼らの中から創政会という派閥内派閥を立ち上げるのが出現します。
物心両面に渡って可愛がってきた弟子たちの裏切りを受け、
角さんは衝撃でまもなく脳梗塞で倒れてしまいます。
以後立ち上がることもなく、1993年に逝去するわけです。
もしこうした一連の事件がアメリカ主導で起こされたとしたら、それらが田中失脚の工作だとしたら、
米国はなぜこんなことをせねばならなかったのか。これを考えてみます。
<電撃的な動き>
日中国交回復は、米国が開いた中国との国交の道に決定的な恩恵をうけていました。
具体的には、同時のニクソン政権の大統領補佐官だったキッシンジャーの周恩来との
機密外交のおかげです。
キッシンジャーは1971年、当時ソ連との関係が悪化していた中国に、
東南アジアのどこかの国を経由して極秘に中国に入るという離れ業をしました。
そして周恩来との二回にわたる会談を成功させて、中国が資本主義側の国との交流をする道を開いたのです。
米国はそれに次いで、中国との国交条約を結ぶ予定でした。
だが、その機に乗じて角さんは1972年、米国に先んじて国交条約を結んでしまいました。
首相就任わずか二ヶ月後のことです。ちなみに米中間に正式に国交が樹立したのは、1979年1月です。
角さんは、中国に出向いて国交条約に調印するのに先だって、ハワイで田中・ニクソン会談をもっています。
米本土に行かずに、ハワイで行ったのは、日米の国家地位対等に向けての含みも、
日本側にはあったようです。
がともかく角さんはそこで中国との交渉を了解させました。
ニクソンはそういう方向を了承しただけであって、むしろ懸案の日米繊維貿易問題への対処を
要求するのを第一としました。
ところが角さんは、電撃調印をしていち早く中国との国交を樹立してしまいました。
それに伴う、蒋介石台湾との国交断絶も、いち早くしてしまいました。
<外交は大平に全面委任>
国交交渉において、角さんは自分は外交は全く出来ないことを自覚していました。
そこで彼は盟友の大平正芳外相にすべてを委任しました。
事務方、すなわち外務省官僚は、橋下恕課長を重用したといいます。
角さんは彼らを信頼して外交業務を全面的にまかせました。
そして、責任は自分が取るとした。
これが田中の政治家としての大きなところだったと言われています。
しかし、大平は国交回復がなった後、自己の政治業務に忙殺されていきました。
角さんは、中国との交りの唯一の「前さばき人」を失っていきました。
<言論自由の有り難さと一党独裁の怖さ>
ここからは、鹿嶋の推測です。
中国は、個人的なつながりを大切にします。
40年経った今でも、娘の田中真紀子さんに式典の招待を出すお国柄です。
国交正常化の恩人として、調印以後も角さんに様々に交流と求めてきたでしょう。
当時強硬な台湾派政治家も沢山いました。
それをくぐっての交流となれば、マスコミにも悟られない隠密交流となるでしょう。
そういう人物も目白の田中御殿に出入りしたでしょう。
それに応じるなかで、豪放で酒好きな角さんは、国家的な機密情報も時として
友好的にもらしたのではないかと思います。
中には軍事上の機密もあって、それは米国軍事指導層を青ざめさせたでしょう。
この状態は、続けるわけにはいきません。
かといって、角さんは有力政治家です。
これはもう、事件でもって失脚させるしかなかったのではないかと思います。
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角さんの行動の背景には、中国に対する無邪気な姿勢があったと思います。
つまり、日本は戦後、言論自由制度で国造りをしてきています。
中国は共産党独裁体制で、言論統制をしつつ国家運営をしています。
言論自由制度がいかに人間の幸福感に大きな貢献をしているか、ありがたいものか、
を角さんはわかっていなかった。
それを社会に実現するのはいかにに困難なことで、創始者はいかに多大な犠牲を払ってきたか。
鹿嶋は、それをこのブログでの「幸せ社会の編成原理」に詳しく述べたのですが、
そういうことはわからなかった。
加えて、角さんは中国との友好関係を進めて、日本のアメリカ依存を
少なくしようという姿勢をもっていました。
その結果、中国に対して、一党独裁体制の暗く恐ろしい面が見えなかった。
二つの体制は決して相容れないものであること、もわからなかった。
~かくして、豪放にして無邪気に中国要人と接触し続けた。
そういう基本姿勢からは自然に、気楽に情報を漏らす行動も現れるのです。
~問題の基盤は、
共産党一党独裁体制の怖さが「原理的に」わかっていなかったことにあります。
そしてそれは歴史観の希薄さから来ています。
それに由来する被害を受けた角さんへの同情は、個人的には禁じ得ません。
だが、共産党独裁体制に、万一日本国民が引き込まれることが起きたら、
その被害は何百万倍になります。
政治は結果が問われるゲームです。
米国も、やはり、角さんは座敷牢に入れざるを得なかった、という結論になります。
もちろんこれは、米国と日本の同調者が黒幕だったという仮説に立った時の話です。