鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「信教自由」原則の本質

2022年12月24日 | 永続確信のための聖書解読
 
 復活のイエスをどのようにしてリアルに認識できるか、の考察中だが、臨時で一つ述べたいことがある。
いわゆる「信教自由」原則の内容に関する知識だ。
 
 この原則は、そもそもは米国憲法に記された条項で、それが第二次大戦後、韓国や台湾、日本にも導入されたものだ。だが、米国憲法にあるこの原則は、単純でない成立由来をもっていて、それを知らないとその内容が理解できず、実用することも出来ない、というしろものである。 
 
<聖句吟味活動に由来>
 
 それは実際の聖句吟味活動をベースにしてできあがっている。 
「聖句主義(バイブリシズム)」というこの活動は、聖句を最終権威としている。であれば、あらゆる解釈は最終権威を持たなくなる。そこから「あらゆる解釈を自由にする」という聖書認識のやりかたがでてくる。
 
<スモールグループが中核組織>
 
 この活動では、まず教会員個々人が自由に聖句解釈をする。その後、その結果を持って、日曜日に自己の属するスモールグループ(数人で構成する)に集まってくる。
 ここでの聖句自由吟味会が、教会活動の中核的役割を果たしている。いまも米国南部で多数存在する聖句主義教会は、このための小部屋をたくさんもっている。
 小グループでは、あらゆる聖書解釈を持った参加希望者を、基本的には受け入れる。
 
<基本解釈を異にしたら機能しない>
 
 だが聖句解読にも基本的なところと、その上に立った細部の領域とがある。そして「実際には」基本的なところで解釈が異なる人々が、ともにスモールグループ活動をすることは不可能だ。
 
 たとえば、聖書におけるイエスの十字架死の効能(贖罪効果)は、聖書と福音における論理体系の基本的な結節点をなしている。
 これを否定したら、聖書全体の論理体系が成り立たなくなってしまう。だからこれについて見解を異にする人々で構成された、小グループ活動は実際上機能しない。
  たとえば「イエスの十字架死は、人間の罪を完全には代償しない」などという見解を持った人との相互吟味活動は、実際上機能しない。
  
<否定はしないで>
 
 そこで、こういう見解の人が参加を希望してくると、グループリーダーは次のように対応する~。
 まず彼の解釈を否定することはしない。そのうえで、「同じ立場のグループを探してそこに参加してくれ」という。
  あるいは、そういうグループを結成して聖句吟味活動をするならば、そのためのルームは提供する、と言う。上記のように教会には、スモールグループ用の小部屋が沢山あるのだ。
 
<「何でも自由」ではない>
 
 米国憲法における「信教自由原則」はそういう前提でできた法律だ。イエスの十字架死の贖罪効果を容認するのも、その基本前提の一つだ。
  米国の「信教自由」は、「何でも自由」という原則ではなく、条件付きの自由なのである。
 
+++
 
 日本人はこれに無知だから、旧統一教会への法制づくりになると、だれかが「これは信教自由との関係で慎重に」というと、もう動けなくなる。委員会メンバーも、議員たちも、立ち往生する。なんとも歯がゆい状態だが、無知だからどうしてあげることもできない。
 
<複数教理の比較が大前提>
 
 聖句主義活動は、「複数の解釈を」自由に比較できる状況で行われる。
解釈は教理(教義)でもあるから、複数教理を比較吟味する状況が、信教自由の大前提だ。
 
 ところが、旧統一教会の宣教は、その前提を満たしていない。自分たちの教義だけを、ビデオを通して繰り返し見せて、その間、事実上、半監禁状態だ。
 こんな宣教は、信教自由原則とほど遠い。それを行う教団には、信教自由を要求する資格が、そもそもないのだ。
 
 
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日曜日未明から墓前に

2022年12月01日 | 永続確信のための聖書解読

 

イエスが十字架上で息を引き取ったのが金曜日。
土曜日はユダヤ人には絶対に安息していなければならない安息日だ。
 
日曜日にやっと動けるようになったマグダラのマリアは、早朝まだ暗い内に、イエスの墓前に立った。
イエスの遺体の少しでも近くにいたかったのだろう。
 
ところが、山の裾野に横穴のように彫られた墓の入り口で、中を塞いでいた石は転がされていた。
驚いたマリアは、弟子たちがいた部屋に向けて走った。
 
 
<弟子たちは閉じこもっていた>
 
この時点では一般人にとって、イエスは極刑に処せられた極悪人だった。
生前多くの奇跡をなしたようだが、やはり、罪のため捕らえられ処刑された犯罪人というのが人々の認識だ。
 
当時のイスラエルは律法をベースにした「ユダヤ教一色」の社会だ。
イエスの弟子と見れば、石を投げつけたり、殴りかかる人はいるだろう。
 
11弟子は危険を避けるために、部屋を閉め切って閉じこもっていた。
 
+++
 
マリアは弟子たちの部屋の扉をたたいて、墓石が転がされ入り口が開いていることを告げた。
ペテロとヨハネは、墓に走った。
 
マリアのいうとおりだったことを見て、また、部屋に戻った。
 
 
@@@
 
以下、正確な追体験のために「ヨハネの福音書」をそのまま引用しよう~。
 
 
<墓前に立って泣き続けていた>
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、マリアは墓前に留まり、泣いていた。
泣きながら身体をかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、二人のみ使い(天使)が、イエスの身体が置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、
一人は足のところに、白い衣をまとって座っているのが見えた。
 
み使いは彼女にいった。
「なぜ泣いているのですか」
彼女はいった。「だれか私の主をとって行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、後ろを振り向いた。
するとイエスが立っておられるのを見た。
しかし、イエスであることがわからなかった。
 
イエスは彼女に言われた。
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」
 
彼女は、それを墓の管理人だと思って言った。
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」
イエスは彼女に言われた。「マリア」
彼女は振り向いて「ラボニ(先生)!」と言った。
 
     (「ヨハネの福音書」20章11-16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
<マリアは二度振り返っている>
 
細かいことにこだわるようだが、ここでマリアは二度振り返っている。
 
最初は、
「なぜ泣いているのですか。だれを探しているのですか」と言われたとき。
 イエスを墓の管理人だと思って
「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのかいってください。
そうすれば私が引き取ります」と言ったときだ。
 
+++
 
その後、ペテロとヨハネは部屋に帰ったが、マリアは墓前を離れなかった。
そして(ヨハネは記していないが)、また、墓の方を向いて泣いていたのだ。
 
だからイエスに「マリア」と呼ばれたとき、
「彼女は振り向いて」とヨハネは記しているのである。
 
 
<群を抜く思慕の深さ>
 
マリアのイエスを慕う気持ちは群を抜いていた。
このマグダラ村から付いてきた女性は、暴徒に殴られることなど、意に介さなかった。
 
その女性の肉眼に、復活のイエスは「まず最初に」その姿を見せたのであった。
 
 
(続きます)
 
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女性の深い愛情資質

2022年11月15日 | 永続確信のための聖書解読

 

「マグダラのマリア」にもどる。
 
復活のイエスをリアルに感じるために、筆者は彼女への追体験を通そう、としている。
そして、その理由には、彼女の個人的資質以外に、もう一つあるような気がする。
 
<幼子の母>
 
一般に、女性は男性よりも深い愛情能力をもつと思うのだ。
そもそも人への愛情を注ぐ能力は、女性の方が男性より深いようにつくられていると感じる。
 
推測するにそれは、母として幼い子供を育てる役割と関連していそうだ。
その役割を果たす際、女性は、子供に心理的に深く同一化する必要がある。
その状態の中で、子供の精神性は豊かに育つ。
 
人は、肉体的には同一化できなくても、精神的にはできる。
同一化、とは愛の別名だ。
人は精神的には、愛する対象に「なってしまう」ことが出来る。
そして、女性には先天的にその力が大きいように思われる。
 
実際、病気になった幼い我が子が注射されるとき、母はその部分に痛みを感じることがあるという。
うまく言えないが、このとき、母は幼き我が子に「なってしまっている」のだ。
 
そして創造主は、この同一化(愛情)能力を女性に優れて深く与えているのではないか、と思う。
 
 
<マリアのイエスへの愛>
 
マグダラのマリアへの、イエスへの愛には、そういう女性特有の優れた同一化能力も加わっているのではないかと感じる。
 
男性である筆者は、その感覚をも借用しようとしているのではないか。
 
そのために、彼女への追体験を通してイエスのリアリティを得ようとしているのではないか。
そう自覚しながら考察を進めている。
 
(続きます)
 
 
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聖句には権威ランクがある

2022年11月14日 | 永続確信のための聖書解読
 
 
マグダラのマリア論のなかでは、かなりな余談になるが、
福音書の事実説明の正確度について、述べた機会に、聖句に関する全体像を述べておこう。
 
少し先走った論述だが、非常に重要なので、書いておく。
理由を詳論しないで概略だけを示しておく。
 
+++ 
 
聖句には、権威のランクがある。
 
取りあえず『黙示録』をのぞいて、順位を列挙して書くと~
 
① 創造神から直に出た言葉。
 
② イエスが創造神に向かった語った言葉
 
③ イエスが人間に向かって語った言葉
 
        ~となる。
 
+++
 
以上は創造神とその御子の口から出た言葉だ。
その下位に、④すなわち人間の言葉がある。
 
すなわち~
 
④ 人間が創造主とイエスの言葉につき論じた言葉。
    つまり①②③につき述べた解釈である。
   
 人間の解釈を「神学」という。
   
 
   a.  ヨハネの言葉は、すなわち「ヨハネ神学」だ。
 
   b. ペテロ、パウロ他の言葉は、「ペテロ神学」「パウロ神学」だ。
 
   
 
<「聖書=神の言葉」は粗雑の極>
 
「聖書の言葉は神の言葉」は、聖句をほとんど読んでない人の言葉である。
 話にならない。
 
  聖書には、悪魔の言葉も記されているよ。
 
+++
 
 ある程度読むと、パウロは、ユダヤ人の中でもとりわけ頭のいい人とわかる。
  だが、所詮は人間の言葉だ。
 
 「パウロの手紙集」も①、②、③の聖句について、解釈した、人間の言葉だ。
  新約聖書には、それらの多くは「手紙」の形で述べられている。
 
 
+++    
 
とりわけ牧師はまず、聖書の全体像を洞察するべき。
それが出来ないと、すべての聖句をベターッと読むことになる。
 
+++
 
その状態で、説教の殆どをパウロの手紙を提示して行う牧師さんが日本では非常に多い。
 
だが、人間の解釈を述べても、信徒の心はあまり揺さぶられない。
やはり、創造主と御子のことばの奥義を解読されて、人の心は大きく感動する。
 
端的に言えば、聖書の全体像を洞察できる前には、説教すべきではない。
 
(続きます)
 
 
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各福音書の特性

2022年11月13日 | 永続確信のための聖書解読

 

前回、マグダラのマリアは、イエスの母たちと同じレベルの思慕をイエスに抱いていた、特別な存在だったと述べた。
それを「ヨハネの福音書」の聖句を踏まえて述べた。
 
 
<マルコは「遠くから見ていた・・」といっている>
 
 
だが、同じ場面を「マルコの福音書」は次のように記している~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「イエスの十字架を遠くから見ていた女たちの中に、マグダラのマリアがいた・・・。」
     (マルコによる福音書、15章40節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
これは「ヨハネ福音諸」とは大違いだ。
マルコは「マグダラのマリアは“遠くから見ていた”女たちの中にいた」と記している。
一体どちらが正しいのだ。
 
<ヨハネ福音書は別格>
 
ここで筆者は、福音書の性格に論究せざるを得ない。
結論から言うと四福音書の中で「ヨハネの福音書」は別格なのである。
 
はじめの三冊「マルコ」「マタイ」「ルカ」は、取材によって得た情報を主なる素材にして記している。
(「マルコ」が最初につくられた福音書であるが、新約聖書では編集の都合上、「マタイ福音書」が先頭に収録されている)
 
「ヨハネの福音書」はこれらと一線を画する。ヨハネは、イエスが常に傍らにつけている愛弟子だった。彼にはイエスの言動を直接見聞して得た情報が沢山あった。だから取材は必要でなく、すべてを自分の直接情報をもとに書いている。
 
その意味でヨハネの記述は、最も事実に近いと推測できる。
 
 
<先行福音書を読んだ上で>
 
余談だが「ヨハネの福音書」は四福音書の中でも最後に書かれている。彼は「他の三者が書いてないことを自分の福音書に書こうか」といってはじめている。
たしかエウセビオス『教会史』立ったと思うが、そこではヨハネは他の福音書を読んだ上で書いた、と述べている。
 
またこれは筆者の推測だが、彼は書く前に、他の著者たちの取材に応えてイエス情報を与えてもいると思われるふしもある。
 
いずれにせよ、「イエスの十字架を遠くから見ていた女たちの中に、マグダラのマリアがいた・・・」という情報は取材して得たものなのだ。
そういうことを承知すれば、マルコ福音書の記述は、それはそれで意義がある。
 
マタイもルカもそれでいいのだ。マルコもまたベストを尽くした。
当時は、「イエスの伝記を書いている」と知られたら殺される時代だ。
よく思い立ってくれた。
彼らもまた、命をかけて取材し、それを用いて自分の福音書を記したのである。
 
(続きます)
 
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イエスを近親者に匹敵する愛で慕った女性

2022年11月09日 | 永続確信のための聖書解読
 
マグダラのマリアにつき、前回、大勢の女性と共にイエスに同行していた、と述べた。
だがそれでいて彼女は、イエスにとりわけ近しい女性でもあったのではないか。
 
次の聖句はそのことを示唆している~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、
    クロバの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていた。」
       (ヨハネの福音諸、19章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
当時イエスは驚異的なわざ(奇跡)と教えで、すでに超有名人だった。
イエスが十字架刑にかけられるという情報は、イスラエル全土に大ニュースとして駆け巡った。
 
ニュースを聞いて、大勢の人々が刑場に来た。
 
そのうちイエスの母マリアとその姉妹など、近親の女性は十字架のすぐそばにいたはずだ。
愛弟子ヨハネも、そのグループにいた。
 
なぜなら、イエスは十字架の上から、母マリアとヨハネにこう語りかけている~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「イエスは母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、
    母に『女の方、そこに、あなたの息子がいます。』と言われた。
    それからその弟子に『そこに、あなたの母がいます』といわれた。
    その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」
          (ヨハネの福音諸、19章26-7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
こういう声は、十字架のすぐそば、おそらくほとんどその下でなければ聞きとれないだろう。
 
 
<ヨハネは自分のことは控えめに書く>
 
また、このグループにいるただひとりの男性は、弟子ヨハネ(後にこの福音書の著者となる)である。
彼は自分で自分の名は書かない。自分がイエスに最も愛された弟子である、とも書かない。
 
実際には、自分は弟子の中でもイエスを最も愛し、理解した弟子だと自認している。イエスも弟子の中でも彼を最も愛した、と知っている。
 
だが、ヨハネは自分をイエスが「最も」愛した、とも書かない。
ただ「愛した弟子」とだけ書いている。それがヨハネの書き方なのだ。
 
文字通りに読むと、イエスは他の弟子は愛してなかったかのようにも解釈されうる。だがそうではない。イエスは他の弟子も無論愛していた。そのなかで、ヨハネを最も愛したのである。
 
 
<「クロバの妻マリア」は豊かな支援者か>
 
ここで、クロバの妻マリアという女性に関して記述している聖句はない。
だが、イエスの本質を霊感し、特別に手厚く支援してきた豊かな貴婦人である可能性が推察される。
 
+++
 
けれどもマグダラのマリアは豊かな貴婦人でもない。マグダラ村から、イエス宣教旅行についてきた一女性だ。
なのに、イエスの近親者や弟子ヨハネと共に、十字架のすぐ下にいる。
 
理由は、普段からとりわけ深くイエスを慕い愛したこと以外には考えがたい。
 
彼女はヨハネと同じく、段違いに深くイエスを慕い愛し、理解した存在だった。
そのため、自然に母マリアたちのグループに入って十字架の下にいたのであろう。
 
(続きます)
 
 
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イエスに同行した女性は大勢いた

2022年10月25日 | 永続確信のための聖書解読
マグダラのマリアはイエスの宣教旅行についていったただ一人の女ではないようだ。
「ルカの福音書」にはこう記されている~。
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「その後、イエスは神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次へと旅をしておられた。十二弟子もお供をした。
 
 また悪霊や病気を治していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれたマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大勢の女たちもいっしょであった。」・・・・
                    (ルカ 8:1-3)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~ここで「悪霊や病気を治してもらった女たち」とはこういう意味だ。
 
イエスは「病気は病人のうちにいる悪霊による」と認識していた。なので、「悪霊を追い出す」のと「病気を治す」とは実質上同義なのだ。だからルカも「悪霊や病気を治してもらった・・・」と記述しているのである。
 
+++
 
また「自分の財産を持って一行に奉仕していた大勢の女(金持ちの)たち」もまた「悪霊や病気を治してもらった女たち」に入るかどうかは、文脈上は明確ではない。
 
だが、「パトロン感覚でイエス一行を経済的に支えた女性もいた」ことはまちがいない。「一行に奉仕していた」というのだから。イエスには、アリマタヤのヨセフやニコデモのような男性支援者だけでなく、そういう女性もいたのである。
 
+++
 
やたら細かく吟味しているようだが、真実はディテールに宿るという。マグダラのマリアの心情を追体験するにはそれも役立つと思われるのだ。
 
ともあれ、そういう大勢の女の中に混じって、マグダラのマリアも弟子たちに同行していたようである。
野宿も他の女性と一緒にしていたただろう。
 
(続きます)
 
 
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マグダラのマリア追体験を通して

2022年10月12日 | 永続確信のための聖書解読

 

「復活のイエスを、今の我々も肉眼視できるか?」
難題なので、想像力をとばして、また、とりとめもなく語ろう。
 
<言葉は波動体を醸し出す>
 
我々は小説を読んで登場人物にリアリティを感じる。
だから、喜んだり、登場人物に同情して涙したりする。
 
これは量子論的に、こう理解できる。
 
言葉は波動である。
波動はオーラを醸し出す。
 
読者はオーラをリアルに感知して涙する。
 
そのオーラ(aura)とは、霊的な雰囲気で、「波動体」のことだ。
 
 
<歴史資料と実在した人物の波動体>
 
 
実在した人物に関わる言葉は、歴史資料にある。
この文献資料によって、歴史人物のオーラは視覚出来るようになるか。
 
+++
 
 
ここで突然飛躍した話になる。
筆者に一つの体験談を読んだ記憶がある。
 
語り手は歴史家トインビーだったように思うが、名の記憶は定かではない。
読んだのは新聞紙上だったように記憶するが、それも定かではない。
 
だが、彼の体験の中身だけは鮮明に記憶している。
 
<突然トルコ兵が現れた>
 
 
歴史文献を確かめていたとき、彼はトルコとアルメニアの国境に立った。
トルコ兵が、国教の壁を乗り越えて、攻撃してくる姿が見えた。
そのリアルさに思わず身を引いた。
     ~こういう話だ。
 
 
+++
 
いま、こう思う。
~すぐれた歴史家は、資料文献を精読して現場に立った。
熟読された資料の言葉は、波動体を形成した。
 
その結果、彼は兵の姿(波動体)を肉眼で視覚した、と。
 
 
<福音書を熟読して>
 
 
そして鹿嶋はいまこう思う~。
 
復活の(波動体)イエスも、福音書のおかげで視覚することが出来るのではないか。
 
特に、「ヨハネ伝福音書」はとびきり有力な文字情報だ。
その諸場面を入念・詳細に読んでいくと、復活のその姿(波動体)が読者の目の前に現れることがありうるのではないか。
 
 
<マグダラのマリアの追体験を通して>
 
 筆者の場合は、マグダラのマリアの行動が、その有力な手段になりそうだ。
マグダラは、ガリラヤ湖のイエスが住んだナザレ側と反対の湖岸にある村の地名だ。
 
福音書から筆者は推察する。
 
マリアは、そこに在住していた一女性であった。
 
筆者の観察では、女性は男性よりも、素質上霊感が豊かな傾向を持つ。
彼女はイエスの行った「しるし」(奇跡)と語った教えに、電気に触れたように深く打たれた。
 
彼女は、いま流にいうと「イエスの追っかけ」になった。
以後、イエスの宣教旅行に付き従った。
 
+++
 
当時は男尊女卑だったこともあって、12弟子の一人に加えてもらえなかった。
だが、イエスと弟子たちが野宿するときには、近い位置に野宿してついていったのだろう。
 
エルサレムでイエスが十字架刑死する時も近くにいたのだから。
墓場も真っ先にに訪れたのだから。
 
福音書に「七つの悪霊を追い出してもらった女性」とあるのはマリアのことかも知れない。
これも他の聖句との関連で吟味しようと思う。
 
このマリアを追体験することによって、復活(波動体)のイエスを目にみることが出来るのではないか、と鹿嶋は思っている。
 
 
(続きます)
 
 
 
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復活のイエスを現代人は視覚出来るか 

2022年10月10日 | 永続確信のための聖書解読

 

いろんな脇道に入り続けた。

本題に戻ろう。

問題は「イエスの同時代人でなくても、復活のイエスを視覚出来るか?」だった。

それに関する鹿嶋の考察を、まず、思いつくままに概論しよう。

 

<復活関連の聖句吟味放念>

 

まず、自覚すべきことがある。

「復活」にかんする聖句吟味はなぜか、放置されてきている。
神学的吟味がなされてきていない。
 
たとえば「ヤイロの娘やラザロの生き返り」と、イエスの復活との区別が
自覚的にされていない。
 
+++
 
彼らの生き返りは、肉体に霊が戻ったことによる。
 
イエスの「よみがえり」は、身体自体が変化している。
だが、それを明確に区別して示す言葉として「復活」は不十分だ。
 
そこで工夫が要る。
 
復活したイエスの身体を、まず、「復活の身体」と言おう。
その身体で現れたイエスを、「復活のイエス」とよぼう。
 
 
<「霊ではない」という>
 
弟子たちが締め切って潜んでいた部屋に「復活のイエス」は現れた。
 
弟子たちはおびえた。
 
イエスは「私は霊ではない」という。
「私は霊ではない。霊なら、手の釘あと、脇腹の刺し傷あとはないはずだ」
といって、自らの復活の身体を見せた。
 
だがそれはイエスの従来の身体ではないのだ。
 
ではそれをどう認識するか?
この認識論的考察がなされてこなかった。
 
 
<量子論思想の援用>
 
量子力学の思想・概念は、この作業を助けてくれる。
 
それは結論的に言うと、波動が肉体に凝集する(波束化・粒子化する)直前の「波動体」だと、
物理学的に比喩理解できる。
 
波動体だったから、マグダラのマリアも、イエスの墓の前で
イエスを墓守だと思っていた。
 
「マリア・・・」と呼ばれて、はじめて、「ラボーニ(先生:イエス)!」と認識できた。
 
 
<「霊ではない」という>
 
弟子たちも、締め切った部屋の中に現れたイエスを認知できなかった。
波動体だったからだ。
 
だから、イエスは、「私は霊ではない。霊なら、手の釘あと、脇腹の刺し傷あとはないはずだ」
といって、自らの復活の身体を見せた。
 
この身体「波動体」には、おそらく、「ゆらぎ」があっただろう。
 
それが故に、イエスの復活の身体は、霧がかかったような漠然さに覆われていただろう。
 
+++
 
波動体なら天に昇れる。
マリアから生まれて得た肉体として復活したのならば、重くて天に昇れないだろう。
 
復活の身体は、波動体であるが故に、天に昇って、永続できる。
また、この宇宙の中の空中に、再び現れることが出来る。
 
+++
 
ついに認知した弟子たちに、「私が(このように復活の身体でもう死ぬことなく)生きるので、諸君(弟子たち)も(復活の身体で)永続させます)」(Because I live, you shall live also)
      ~とイエスは言ったのだ。
 
弟子たちは、イエスの波動体を、肉眼で見て、自分たちの永続をも完全に確信できたのだ。
 
 
(続きます)
 

 

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「聖書」という書物の特性 7: 「新約」と「旧約」の関係

2022年09月25日 | 永続確信のための聖書解読

 

・いま『聖書』は、「旧約」と「新約」の合体本となっています。
 
・ページ数でいうと、旧約が全体の4分の3,新約が4分の1、です。
 
・だが、その思想の神髄は、すべて新約にあります。
 
・旧約は、端的に言えば、付け足しのようなものです。
 
 
<影絵とホンモノ>
 
・「新約聖書」の思想の神髄は、全て、イエスの言葉でなっています。
 
・そのイエスは、次のような言葉を発しています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。
その聖書は、私について証言しているのです」
   (ヨハネによる福音書、5章39節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
・この時点では「聖書」はいまでいう「旧約聖書」しかありません。
 
・イエスは「旧約聖書は私のことを証言しているんだ」といっているのです。
 
・だが、旧約には、イエスという名は一度も出てきていません。
 
・ならば、どうやってイエスのことを言っているのか?
 
・他のものに投影させて、つまり、喩え、比喩を使って言うしかない。
 
・つまり、旧約は、「別のものにたとえてイエスを語っている本」ということになります。
 
+++
 
・実際、その観点から旧約を見ると、「イエスの比喩表現」と解読できるところが、次々に見つかってきます。
 
・そこで上記の聖句は、「同じイエスを、旧約は影絵で示し、新約は本物をそのまま示している」と解読できます。
 
・そうであれば、本物が現れたら、もう、影絵はいらない・・・という見解も成立するでしょう。
 
・実際、そうであって、旧約はイエスを知るための、必要不可欠な本ではない。
 
・でも、イエスを影絵で示しているのだから、くっつけておこう。
 
・そういう理由で収録されているだけのモノです。
 
 
+++
 
・それでも、利点はゼロではありません。
 
・イエスが現れる何百年も前に、イエスを(比喩でもって)預言していた、となれば、なんとも懐かしく、過去を追想する気持ちにさせてくれるでしょう。
 
・また、比喩を解読するという作業は、頭を良くしてくれます。
 
+++
 
・しかし、旧訳はそれだけの本です。
 
・『聖書』は、「新約中心」の本なのです。
 
 
        (「聖書という書物の特性」 終わります)

 

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「聖書」という書物の特性 6: 「福音書」と新約聖書の成立

2022年09月23日 | 永続確信のための聖書解読
 
・前回、こう述べました~。
 
・復活したイエスを直接目撃して、弟子たちは、突然変容しました。
 
・身の危険も恐れずに「神がイエスをよみがえらせた。我々はそれを目撃した!」と証言し始めました。
 
・~今回はその続きです。
 
 
<福音書>
 
 
・イエス証言者の中から、「このことを文書に書き残そう」と志す人も出ました。
 
・「自分たちが死んでいなくなっても、後世の人々がこれを知ることが出来るように」との思いを実行する人が出たのです。
 
+++
 
・かくしてイエスの伝記(最後の三年半の生涯を中心とした伝記)である小冊子が書かれました。
 
・四人の著者が、各々自分の「イエス伝」を書きました。
 
・これらは福音書(ふくいんしょ)と呼ばれています。
 
・「福音」とは「福をもたらす知らせ」(グッドニュース)という意味です。
 
 
 
<四福音書を中心に>
 
 
・これら四本の福音書(イエス伝)は「四福音書(しふくいんしょ)」と我が国では呼ばれています。
 
・そしてこれを中心に他の文書(伝道用の手紙など)も収録されて、新しい聖書「新約聖書」が出来上がりました。
 
 
+++
 
・福音書があるから、いま、私もイエスのことを書いておられるわけです。
 
・なかったら、イエス情報は弟子たちが死ぬと、時の流れの中でうわさ話になり、風化したでしょう。
 
 
         (続きます)
 
 
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「聖書」という書物の特性  5: 奇跡で証拠づける

2022年09月21日 | 永続確信のための聖書解読

 

・イエスの教えはスケールだけみても、超大でした。
 
・彼は、自分の教えが事実であることを、奇跡(しるし、ともいいます)で証拠づけようとしました。
 
・最も多い奇跡は「癒し(いやし)」でした。
 
・ライ病の人を癒やしたり、足萎えの人を歩けるようにしたり、盲目者を見えるようにしたり、聞こえない者を聞こえるようにしたり、という奇跡を次々に起こしました。
 
 
+++
 
・それでも弟子たちをはじめとする人々は、その教えがまことであり事実であるという確信を、今ひとつ抱ききれませんでした。
 
・それらの奇跡は弟子たちを、「イエスに期待してついていく」という気持ちにはさせましたが、それ以上にはなりませんでした。
 
 
+++
 
・理由の一つは、上記のような奇跡は、~イエスほど連発でないにしても~過去の預言者もなしていた、ことにあったと思われます。
 
・それらの奇跡は、モーセやエリアなども過去になしていた、「預言者レベル」の奇跡でした。
 
 
<死んで復活して確信させる>
 
 
・だが彼は、過去の誰もしなかった奇跡をも行いました。
 
・イエスは、「人間が天国に入れるためには、その罪をなくする必要がある」、「それを自分の死で代償する」、と宣言し実際に殺されました。
 
・有名な十字架刑死です。
 
 
・そして予告通りに、死んで三日後によみがえって(復活して)、弟子たちの目の前に現れました。
 
・これはもう、「格が違う」というか、種類もレベルも段違いな奇跡でした。
 
 
+++
 
・イスラエル民族には、よみがえることの出来るのは、「罪なき」神の子だけ、という鉄則思想がありました。
 
・実際、世界が創られて以来、人間が死んでよみがえったという事件はありませんでした。
 
・弟子たちは、再び現れたイエスを肉眼で見て、「この人は神の子だ」と完全に確信しました。
 
 
<従来聞いてきたイエスの言葉が神の「真理」に一変>
 
 
・そうなると、弟子がそれまで、イエスから聞いていて、今ひとつ確信持てなかった言葉も、彼らのうちで一変しました。
 
・そのことばが、神の言葉(真理)だったと、彼らは認識するようになったのです。
 
 
+++
 
・弟子たちは別人となりました。
 
・彼らは殺される危険も恐れずに、大胆に宣言し始めました。
 
・「神がイエスを復活させた。我々はその証人だ!」と。
 
 
+++
 
・彼らは、イエスのそれまでの言葉も、創造神(神の子)の言葉として、伝え始めました。
 
・弟子たちの伝道には、癒やしなどの力も伴い現れました。
 
・それが人類世界に広がって、現在、我々日本人もイエスを知るようになっているわけです。
 
 
    (続きます)
 
 
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「聖書」という書物の特性 4: 「天国」という新空間

2022年09月19日 | 永続確信のための聖書解読

 

・さて、これから「新約聖書」の説明に入ります。
 
・「旧約聖書」は一言で言えば、自称創造神から幻や声で与えられた啓示メッセージの記録集でした。
 
・メッセージは預言者と呼ばれた、25人余の「超霊感者」たちが受けて、記録してきました。
 
 
<空白期間の後に>
 
・最初の預言者モーセはBC1500年頃の人でした。
 
・それから1100年が過ぎて紀元前400年頃になると、イスラエルの民に、創造神から啓示のメッセージが全く与えられなくなりました。
 
・その間、預言者と言える人物も現れない。
 
・そういう空白期間が400年続きました。
 
・そしてそのイスラエル民族の中に、イエスが登場しました。
 
 
<天国の存在を知らせる>
 
・彼は、自分は創造主の子だと宣言して、「旧約聖書」を踏まえながら人々に多くのことを教えました。
 
・その中には、旧約聖書には全くない言葉「天国」もあります。
 
・この語は「旧約聖書」には一度も出てきません。
 
 
<新しい空間イメージ>
 
 
・天国の概念は、従来の空間理念に新境地を加えました。
 
・人々は従来、自分の頭上には、いまでいう宇宙(人間もその中に住んでいる)のような空間だけしかイメージしていませんでした。
 
・人間がその中に住む空間とは、いわゆる「世(よ)」でもあります。
 
・だが天国は宇宙の、さらに上方の、宇宙とは性格の異なる空間です。
 
・これを取り入れると、聖書の空間理念は、図のようになります。
           (クリックすると大きくなります)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
+++
 
・そこは創造神の御国だという。
 
・そこでは「全てのものが永遠」で、死もなく、
 
「偽り」も、「裏切り」もなく、
 
見る者の心をつらくする「惨めな人」もなく、
 
病も苦痛もなく、
 
「自慢する気持ち」も「羨む気持ち」もなく、
 
心は「喜びに満ち」て、
 
「すべてが平和」です。
 
・イエスは、我々が住む空間(宇宙)のさらにその上に、そういう広大な空間(「神の御国」)がある、と教えました。
 
 
(続きます)
 
 
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「聖書」という書物の特性 3: 旧約聖書

2022年09月15日 | 永続確信のための聖書解読

 

・筆者は、神イメージを示す図を、下記のようにつくってみました。
 
・在物神と創造神という二つの二つの神イメージを直感的に理解する助けになることを願って。
 
 
 
 

 
 
・図の水色の楕円は、物質を示しています。
 
・その中の、黄色の楕円に書かれた「神」は「在物神」を示しています。
 
・点線の円の外側に書かれた「創造神」はそれら全てを創造した神を示しています。
 
・万物を創造している創造神は、自ら無限の大きさを持っていて、自らの懐のうちに、物質と在物神(という霊的存在)とを抱いている。
 
  ~そういうイメージを得るのに助けになれば幸いです。
 
 
 
<「もーセ五書」と共に収録される>
 
 
・さて話を戻します。
 
・モーセ以後の預言者たちも、自称創造神からのメッセージを、創造神から啓示されたものと信じて記録しました。
 
・イスラエル民族は、彼らの記録も創造神からのメッセージと信じて保存していきました。
 
・それらは後に、「モーセ五書」と共に『旧約聖書』(いまでいう)という大冊の書物に収納されます。
 
・その著者(預言者)の数は、著者として名前が残っている人物だけでも、20人を超えます。
 
 
 
<やはり啓示を受けたのか>
 
 
・「旧約聖書」に収納された諸巻は、全体として壮大な歴史イメージ世界を形成しています。
 
・こうなると、「そんなものは人間が考えて書いたもの」と、簡単にはいえなくなってきます。
 
・各々の著者は人間ですから、100年もすれば、死んでいなくなります。
 
・そういう人々が、1100年間にわたって互いに連携して、全体として歴史イメージ世界を形成するように、各書物を考えて書くなどということは、困難です。
 
・やはり、創造神が全体が体系的なメッセージになるように、啓示を与えたのではないか、とも考えられるようになるわけです。
 
・それもまた、神学の研究課題となりますが。
 
 
(続きます)
 
 
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「聖書」という書物の特性 2: 創造神という神イメージ

2022年09月14日 | 永続確信のための聖書解読

 

<在物神イメージ一色の中で>
 
 
・在物神のみという人類史の中で、紀元前1500年頃、驚くべき事件が起きました。
 
・モーセという、霊感に卓越した一人の人物に、「オレは万物の創造神だ」と自称する存在から、幻と言葉でメッセージが与えられはじめたのです。
 
・この自称創造神は、与えたメッセージを書きのこせ、とモーセに命じました。
 
・メッセージは、この世が始まってからモーセの時代までの歴史を中心に、様々な事柄を語っていました。
 
 
 
<超霊感者、受信内容を書き遺す>
 
 ・モーセはそれを、創造神からの幻と「信じて」、文字に書き残しました。
 
 ・彼が属したイスラエル民族の人々もまた、その記録を創造神からのものと「信じて」、保存しました。
 
 ・彼が書き残した書物は、現在の「旧約聖書」の最初の五巻に納められています。
 
 ・これらは「モーセ五書」といわれています。
 
 
<預言者>
 
・こういう話を聞くと、「そんなものはモーセが考えて書いたもの」だと思うのが常識です。
 
・ところが、モーセのような超霊感者は、彼の後にもイスラエル民族の中に、1100年間にわたって周期的に出現しました。
 
・平均すると、50年に一人くらいです。
 
・超霊感者たちはモーセも含めて、「預言者(よげんしゃ)」とも呼ばれるようになります。
 
・自称創造神からのメッセージを受信して「預」かり、「言」葉で保存する「者」という意味です。
 
 
 
<言葉による理念が先>
 
・「誰かが考えたのか」、「創造神自身の言葉か」は、はどうであれ、この創造神という神イメージは、在物神の神イメージと対照的な面を持っています。
 
・この神イメージは、在物神のように、人の心情に「自然発生しない」のです。
 
・それは、モーセに与えられたように、外から言葉で与えられて、初めて心に存在するようになります。
 
+++
 
・「万物の創造神」という神イメージは、「オレは自分以外の全てのものを創造した存在」という理念、概念を最初から持っているのです。
 
・「創造した神」という理念を聞くと、人の心には、初めてそのイメージが形成されます。
 
・「理念・言葉が先」「イメージ・感慨が後」・・・これが創造神という神概念の特徴です。
 
 
・だから、モーセが聞いて伝える前には、創造神の理念は、人類の意識の中にはありませんでした。
 
・いまでもその理念は言葉で「伝えられる分だけ」、人類世界に広がってきています。
 
 
 
<理念は展開する・・神学の形成>
 
 
・理念は理屈・理論もっています。するとそれを踏まえて人間は考えますから、また理屈・理論が展開します。
 
・たとえば、万物を創造したのなら、その神は無限に大きいのではないか、と人間は考える。
 
・もし空間的に有限ならば、その外側のモノは「オレが創った」とは言いがたいだろうから、・・・とかの理屈を人は考えるわけです。
 
+++
 
・こうして、創造神は「空間的無限者」という性格(属性)をもっている、と言う理論が新しくできます。
 
・以後、そこからまた、次のような理論も展開するでしょう。
 
・「だったら、時間的にも永遠の過去から永遠に未来にわたって存在する」・・・そういう時間的無限者でもあるはずだ、という具合に。
 
+++
 
・言葉は後の預言者にも、また新しく与えられます。
 
・創造神は、天使という霊的存在を創っている、といった具合に。
 
・また、創造神は律法(りっぽう)という命令(戒め)をモーセに与え、イスラエル民族に伝えさせた・・・といった具合に。
 
+++
 
・それらの間の関係、もまた、筋道だって考えられるでしょう。
 
・こういう理屈の探求を「神学」活動といいます。
 
・「神学」は英語の「セオロジー(theology)の邦訳です。
 
・創造神の神イメージからは、神学という知的・精神作業が展開するわけです。
 
 
+++
 
・創造神の神イメージから展開する筋道、論理を探求する作業は、学問として大学でなされたりもします。
 
・探求の方法や結果が、学生に教えたりもされます。
 
・これが「神学部」です。
 
・日本にも、新学部のある大学が沢山あります。
 
・同志社大学、関西学院、西南学院などはその例です。
 
 
(続きます)
 
 
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