鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.18   訳者あとがき

2016年10月03日 | バプテスト自由吟味者の道






 本書は、Frank.S.Mead(1954), "The Baptest", Broadman Press, Nashville, Tenesseeの邦訳に訳者解説をつけたものです。

 著者、フランク.S.ミード(1898~1982)は、アメリカに生まれたクリスチャン・ジャーナリストです。

この人は「クリスチャン・ヘラルド誌」の編集長を務めつつ、「クリスチャン・センチュリー」「クリスチャン・へラルド」「リーダーズ.ダイジェスト」等の各誌に、福音関係の論考を執筆する生涯を送っています。

 1951年には、その豊富な情報知識を用いて『合衆国キリスト教派便覧』(第十版はHandobook of Denomination in the United States, Abington Press, Nashville)を出版しています。

 この本は米国に数多くあるキリスト教派を入念かつ客観的に説明した名著で、現在も十版以上の増刷を重ねる、代表的な教派解説書となっています。





 本訳書の原著書の方は、戦前の1934年に初版が上梓された旧い小冊子です。

 こちらは、近代英国に発生しアメリカ国家の基礎構造を築いた、近代バプテストの活動史をコンパクトに描いています。

これもまた名著で、現在も復刻版が販売されているようです。






 けれどもこの小さな本には、一般読者の理解を阻むものが含まれています。

 聖句自由吟味活動は、迫害され続けた運動でした。

権力者は、活動者の群れを周期的に襲い、逮捕、処刑し、その文書を焼き捨てました。

現在残っている歴史資料は、焚書される中でかろうじて流出・残存した少量で、ミードはそれを用いて本書を書いています。

そういう資料に記されている事柄の意味を、後の時代の人間が理解するのは容易ではないのです。

なにせ、理解に必要な背景情報が、権力者によってあらかた覆い隠されてきているのですから。

資料だけでも何回なのに、それを踏まえて書かれる本はそれ以上に、一般読者には理解が困難です。

けれども、本を作る人間は基本的に、一般読者にもわかって欲しいという期待を否定しきれません。

ミードは、多くの場面を「ここは理解できるだろうか・・・」と身もだえながら書いていたのではないでしょうか。

それでもミードは冷静で客観的な叙述に努めてきています。

けれども、最終章でついに、抑制し続けてきた心情が爆発しました!

 これで彼自身がバプテスト自由吟味主義者であることが露呈してしまった。

 もどかしさに耐えきれなくなったからだろうと、訳者は思っています。




  原著書がそういう本ですから、邦訳書もまた、日本の一般読者にはその神髄がわかりにくいでしょう。

さすがの良書も、そのままでは言っていることがわからない。

 理解のためには、最低限、聖句自由吟味活動に関する知識が必要です。

訳者は、その知識を冒頭の解説でもって補充しました。

+++

 訳文も、聖書を開いたこともない一般読者にも違和感の少ないものにしたい、という夢を抱きました。

そこで、一本の連続した巻物のようになっている原文を、あえて区切って章付けしました。




 そういう邦訳書ですが、訳者はこの本に複数の期待を抱いています。

その期待は層をなしています。

第一の期待層は、キリスト教活動の正しい全体像を認識するのに役立ってくれることです。

 第二に願うのは、アメリカという国と、それに主導されている現代世界を理解する手がかりになることです。




 第三の層は、もう一つ奥義的な認識への期待です。

明治維新での開国後、我々は、西欧社会の一端を知りました。

それは従来経験したことのない快適な生活を実現するノウハウを含んでいました。

我々はまず、それは西欧人一般が造ったものと思ってきました。


+++

 ところが第二次大戦での敗戦後、その多くは西欧の中でも、欧州ではなく米国で出来たものだと、漠然と察知するようになりました。




けれども、それを創ったのはアメリカ人一般ではなく、一部の特定の人々だった。

初代教会以来、聖句の自由吟味活動を継承してきている、バプテストとかメノナイトとか呼ばれる人々だった。

彼らのリーダーシップによって、言論自由社会も出来ている。

本書はそのことを知らせてくれています。

読者の認識がここにまで進むのが、期待の第三層です。





そしてもう一つ、最後の究極的な期待層があります。

 自由な快適社会を構築する能力は、肌の色に左右されるものではないという認識に,読者を導くのがそれです。

この資質は、聖句自由吟味を続ける人間全ての内に、芽生え育っていくものなのです。

 そういう、真の意味での、人間の知的・精神的原動力の源の認識に、本訳書が役立ってくれたら最大の喜びです。


2016年10月3日未明、愛知県内の仕事場にて
鹿嶋 春平太














コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.17   終章 流血の歴史土壌から咲き出た花

2016年09月25日 | バプテスト自由吟味者の道




【とどまることなき信徒増大】


バプテスト自由吟味者は、数の力も持つようになってきています。

 その信徒数は~、

1800年には10万人、
1850年には81万5千人、
1900年には500万人余、
1954年には1千7百万人

   ~になってきています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  ( 2000年時点では、サザンバプテスト連盟だけで、4千万人と推定されている。・・・訳者註)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




  数は力をあらわします。

 成長力と実践力を示します。


+++

  会員数増大は、歴史的偶然によるものではありません。

 バプテスト自由吟味者者たちが、世界で最も人に好かれる思想をもってきたからなのです。

 また、それを実現するに最も効率的な方法をとってきたからなのです。

+++

  彼らは自由の大切さを主張し続けてきました。

 絶対的自由を叫び続けてきました。

 そしてそれを実現してきました。


  上流階級にではなく、大衆に訴えて実現してきました。

 大衆は自由を最も必要とする人であり、それを得るために最も激しく働く人々です。




   自由吟味者は、官職を望んだこともありませんでした。

 長細い小屋で育ち、小さな町の牢獄で日を過ごしました。

 病人に奉仕し、身分の低い人々を支援してきました。

 バプテストたちはその記録を名誉あるものと思っています。

+++

  いま世界中の自由吟味者を合計すれば、2千万人に昇ります。

 そのことに、何の不思議もありません。

 自由吟味教会に成長停止を命じるのは、太陽に移動停止を命じるようなものです。





【天に属す人、世に属す人】

 人の精神は、生まれながらの状態では「この世」に軸足を置いています。

 対して、自由吟味者は品種改良された人であって、その軸足は、「天国」に置かれています。


「世」の側に属する人々は、自由吟味者の成長を止めるべく、ありとあらゆる手段を講じてきました。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖書では、創造神の王国である「天(天国)」と、この地上の「世」とを絶対的に対立するものとしている。
天は創造神の統治が貫徹する空間であり、世は一次的にその支配権が悪魔に与えられている空間、とする。
そして悪魔は全てにおいて創造神に対抗するものであるから、創造神と悪魔は絶対的な対立関係にあり、従って天の論理と世の論理とは絶対的に対立関係にあるとみるのである。

例えば天は「聖holy,ないしはheavenly)」であるのに対して世は「俗(secular,ないしはworldly)」である。

そしてこの地上に生きる人間は基本的に俗なる「世」の論理で生きるという事実認識である。
その中で天の論理をもつ聖書の言葉を心に抱く人間だけは、例外的に聖なる「天」の論理で生きることになる。
だから聖句自由吟味者は、「世」と対立する「天」の論理で生きる人ということになる。
著者ミードは、ここでその視野をそのまま話に持ち込んで、自由吟味者と絶対的に対立関係にある人々を「世(world)」と称している。・・・訳者註)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・









  その結果、バプテスト自由吟味者の歴史は、殉教者が流してきた血の中に容易に見出せるようになってきています。

自由吟味活動の歴史を記述する歴史家のインクの中ではない。

彼らが流した血の中の方に、その歴史は容易に見出せるのです。


「世」に属する人々は、広場に造られたむち打ちコーナーで、バプテストたちをむち打ちました。

そうやって衆目の面前で辱めを与えようとしました。

  ところが結果はどうでしょう。

 むち打ち刑場が残ることによって、いま「世」の側の人々の方が今恥ずかしい思いをしています。


  「世」は彼らを、鎖を付けて投獄しました。

 ところが、その鎖の反対の端は、「世」の側に属する人々自身の首に巻き付いていました。

  「世」の人々は、ボストンや南部諸州で、バプテスト自由吟味者たちの身体から、血を滴らせました。

 ところが、まさにその血の染み込んだ土壌から、米国で最も美しい花が咲き出したのです。


「世」のなんと愚かなことか!


  人々はバプテスト自由吟味者に、有害人間の烙印を押しました。

そうやって彼らを抹殺しようとした。

 ところが結果はどうか?

 いまや「世」に属した人々の方が、自分らがなしたその行為の故に、有害人間だったという刻印を、押されることになっているのです!



(Vol.17   終章 流血の歴史土壌から咲き出た花    完)



@@@@@@@@@@@@@@@@










コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.16   9章 抜群の教育活動と社会改善活動

2016年09月23日 | バプテスト自由吟味者の道





【黒人教育への貢献】


 この時点での黒人は、他人に恩恵を施すようになるとは全く期待されてない存在でした。

  自由は与えられたが、それをどう使っていいかわからない状態でした。

 いってみれば、高価なベネチアングラスの花瓶をおもちゃとして与えられ、ただ途方に暮れて立ち尽くしている子供みたいなものでした。


  バプテスト自由吟味者たちは、彼らを入念かつ慎重に導き育てました。

それは国内宣教師がした仕事としては、教会史上最も素晴らしいものといっていいでしょう。




  バプテストたちは学校を建て、教会を建て、あらゆる種類の施設を建設しました。

 自分たちの利害を度外視し、黒人だけのためにそれを行いました。

  何時か誰かが、このバプテストたちの偉大な働きについて書くでしょう。

 黒人教育物語のなかでも、バプテストは偉大なヒーローとして描かれるでしょう。

 
+++

  奴隷時代にも解放後の時代にも、自由吟味者は多くの黒人をイエス・キリストへの信頼に導きました。

 1954年時点で、黒人バプテスト教の会員数は700万人余を数え、教会数は3万7千を超えています。




  宗教要素を含んだ教育こそが、自由を守る防御装置になるというのが、バプテストの確信でした。




 黒人たちの自由が危機に瀕する時には、その教育が彼らを救い出すことになると彼らは信じていました。

  バプテスト自由吟味者が建てた黒人学校の数は、他の教派のそれを圧倒しています。




【群を抜く教育活動】


  近代バプテストといえば、政教分離国家実現への輝かしき貢献が、まず思い浮かびます。

  だがこれを賞賛するあまり、彼らが教育によって我々に与えたものを忘れてはなりません。


+++

  バプテストが行った宗教要素込みの教育貢献は全国に及んでいて、ただ南部空間に限られるものではありません。

 時間的にも、奴隷解放時に限られていません。

  バプテストはいつでも何処でも教育者なのです。




  日曜学校を創始したのもバプテストです。

 ロバート・ライクスがその創始者です。

  その学校は教師を有給で雇い、日曜毎に、親の貧しい子供たちのために、門戸を開きました。

  そこでは宗教的な事柄だけでなく、この世を生きるのに必要な知識も教育しました。




  聖書に関する大衆向きの学校を史上初めて設立したのは、ウィリアム・フォックスでした。

 1783年のことです。

  彼はバプテスト教会の裕福な執事でした。


  1875年までにすでに、フォックスとバプティストの支援者の教育活動は、広範囲に展開していました。

 彼らはその運動組織を「日曜学校支援と奨励のための協会」と称していました。


+++

  アメリカで最初に日曜学校が設立されたのは、1815年です。

 場所は第一フィラデルフィア・バプテスト教会内でした。

  最初の日曜学校新聞も一人のバプテスト自由吟味者が発刊したものです。

 『ヤング・リーパー(若き刈取り人)』というの がその紙名でした。

+++

  『国際正規日曜学校授業』というのもそうです。

 シカゴのバプテスト信徒、B.F.ジェイコブズが創始者です。





【社会改善活動でも先端を切る】


  バプテスト自由吟味者の活動は、さらに新しい方向に進展しました。

 かの著名な欧州人ビッサー・フーフトはこういっています。

「米国キリスト教の明白な特徴の一つは、教会の社会活動が盛んなことだ」~と。

 けれども、この言葉には「とりわけ盛んなのは、バプテストによる活動だ」と付け加えるべきでしょう。


    

  この国のクリスチャン社会運動には、旧約聖書に出てくる大予言者エレミアのような人がいます。

 燃えるがごとき聖なる魂をもったバプティスト自由吟味者、ロチェスターのラウシェンブッシュ牧師がその人です。

 彼は人間に通じていて、それ故に人間愛に満ちていました。

  彼は年少者労働に関する本を夜通し読んで、朝になると自ら教える教室に入り、子供たちの悲惨な姿を学生に伝えました。

 その泣き声を、学生の心深くに、白熱した釘を打ち込むように、打ち込みました。


+++

  ベダー博士という人もいました。

 彼は年少者労働の恐ろしさを、誰も反駁出来ない論法でもって語りました。
 
それを歴史家の姿勢で、語りました。

  また、創造神の御旨が、この地上の人間の間でも成し遂げられるべきことを、明確に論証しました。

 天国で天使たちの間で成し遂げられているように、というのでした。




  ラウシェンブッシュとベダーの掲げた旗に、何千というバプテスト自由吟味者が続きました。

 彼らは社会正義、経済正義のために戦いました。

 この種の戦いは20世紀という世紀の特徴になりました。



  1914年、二人はアメリカ醸造業協会の年報に、「醸造監督と醸造の敵」としてその名を記されました。
 
 (この業界では年少労働者を多数使用していたのであろう・・・訳者、註)。

 だがそれは彼らには名誉なことでした。


  

  1924年には、バプテスト教会の壁は、第一次世界大戦死者の名を記した記念銅板で一杯になりました。

  この事態に対し彼らは次のごとき宣言をしました~。

  「・・・教会は戦争を呪い、聞く人を当惑させているだけでは足りない。もっと実践的な役割をはたすべきだ。平和に役立つ事柄について議論し、それを促進しよう」~と。

  これは古代ローマ神話の軍神マールスへの、公的なアッパーカットでした。

 (マールスは勇敢な戦士として慕われたローマ神話の神。青年の理想像とされた・・・訳者註)

 戦争に対する姿勢を、180度方向転換したのです。


+++


  「バプテストたちはまだバプテスト特有の精神を認識していない」と評する人もいるかも知れません。

 だがそれは、早まった判断というものです。

バプテストたちは、自分たち固有の精神をよく識っているのです。




 彼らは、語るべき時が来たときに、ものごとを明白・率直に語る、という習性を持っています。

 それまでは、本音を語りません。





聞く人が当惑しようと・・・。

  彼らは変化に富んだ人間なのです。

  
  でも、個人の自由、思想の自由を説くために、他に方法があるでしょうか?






  彼らは品種改良された人間です。

 時として既成社会の法律を超えてしまいます。

 無鉄砲で、休む事なき型破り人間です。

 社会に自ら溶け込んでいくようなことは、出来ない人間なのです。


  矛盾してる? 

 そうです、矛盾に満ちた人間なのです。




  彼らは社会において、精神的骨組みを支える道徳的筋肉の役目を、担っています。




 彼らは昔から一貫して愛国者でした。

 母国のため建設的に働き、自由が否定される時には常に、いのちを投げ出して戦いました。


 旧約時代にフルがモーセの腕を支えたように、彼らはクロムウェルの腕を支え、ワシントンの腕を支えてきました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
( 旧約聖書の「出エジプト記」17章にモーセがイスラエル軍を率いてアマレク人の軍隊と戦った話がある。 戦はモーセが手を挙げているとイスラエルが有利になり、手を降ろすとアマレクが有利になった。 だがモーセの腕は疲れてくる。 そこでフルがアロンと共に左右でモーセの手を支えて、勝利したと記されている。 著者ミードはこの話を踏まえようとフルを持ち出している。・・・訳者註)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



バプテストは数多くの戦で戦闘部隊に参加しました。

 彼らはまた、ラクノウを救済するためにヘンリー・ハブロック卿を送りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
( インドのラクノウを中心に英国支配に反対するインド人の反乱が起きた。セポイの反乱と呼ばれ、インド人初の独立戦争ともいわれる。バプティスト教会から、インド人救済のためにハブロック卿が派遣されたのだろう。バプティストが抑圧されている側を支援するのは当然だから、著者ミードはインド人支援を敢えて明記していないのであろう。・・・訳者註)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  テキサスにはサムエル・ヒューストンを送りました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(ヒューストン(1793-1863)は米国の軍人、政治家。後にテキサス共和国大統領、テキサス州知事になった。・・・訳者註)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  けれども、もしもクロムウェル、ワシントン、ヘンリー卿、サムエル・ヒューストンらが、国家によかれと思って創造神を否定するようなことをしたらどうか。

バプテストはこの人たちを否定したでしょう。


 そういう低級な愛国心が、一瞬でも目に留まったら、彼らは即座にその人物を否定するのです。


  実際、彼らはそれまで幾度も幾度も国家を否定してきました。

 創造神の王国(天国)への忠誠のために、国家を否定してきました。


  彼らにはそうする心が、高級な愛国心なのです。




 そうでありながら彼らは、実際に現実世界で国家のために戦ってきました。

  矛盾? 

 そう、これは矛盾です。

 だが、そういう矛盾は必要なのです。





+++

たとえば、かなりな数のバプテスト教会には、宣教活動に反対する感情が強固にありました。

 そうである一方で、自由吟味教会は世界にカレー、ジャドソン、ライスといった宣教者を送り出しました。。

+++

  またバプテスト自由吟味者は、幼児洗礼を否定していました。

ところがその一方で、我々に子供の為の日曜学校を提供してくれました。

+++

 一般教会員には教育活動の効果を疑問視している人が沢山いました。

そうである一方で、彼らは多数の学校を世に贈りました。


 単科大学では、ベイツ、バックネル、コルビー、デニソン、フランクリン、バッサー、ウエイクフォレストなどがそれです。

 総合大学には、バイラー。ブラウン、コルゲート、リッチモンドなどがあります。

 その他、神学校を18校設立したし、多数の中等学校をも造りました。

 この時点でバプテスト派は、米国の他のどの教派よりも多くの資金を、教育に投下しています。


+++

  自由吟味者はまた、簡素な礼拝を愛していました。

だが、その一方で彼らはイスラエルで、美声の歌手の集団を作りました。
その数は数えられていないのですが・・・。

 またバプテストからは、多くのゴスペルソングが出ました。


(それらの多くは南部バプテスト地帯で造られたので、今日ではサザン・ゴスペルの名で呼ばれ、福音音楽の一ジャンルを形成している。これらはサザンバプテスト教会の礼拝でもうたわれ、それを歌うプロのゴスペル歌手がたくさんいる。・・・訳者註)



その題名のいくつかをここに挙げておきましょう~。


「我等が絆に祝福あれ」
「朝の光」
「アメリカ」
「イエス王座に座したまえり」
「嵐のヨルダン川土手に我は立てり」
「祝福の泉に来たれ」
「比類なき価値」
「目覚めよ」
「わが魂よ」
「堅き土台」
「我が希望は主にあり」
「砦を固めよ」
「イエスの名の力」
「救い主よ」
「死にゆく愛に」
「聖なる聖なる聖なるかな」
「ヨルダン川に集おう」
「イエス我を導きたもう」
「我常にイエスを求む」


これに匹敵する活動を産み出している教派は、他にあるでしょうか?

矛盾ですか?


~これを矛盾というならば、そういう矛盾は最大限に活用すればいいのです。



(Vol.16   9章 抜群の教育活動と社会改善活動   完)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.15   8章 連合会、南北に分裂する

2016年09月22日 | バプテスト自由吟味者の道





【奴隷問題をめぐって分裂】


この1845年という年は、バプテストにとって忘れがたい年でもあります。

 このときバプテスト連盟は奴隷問題をめぐって二つに分裂したのです。

+++

  その前年、バプテストの総会で次のような主旨の発言が出ていました~。

 「奴隷所有者が宣教師になりたいという希望を出して、なおかつ奴隷を自己の財産として保有し続けるという場合、我々は宣教師認可を出すわけにはいかない」~と。

+++

  南部のバプテストは、もはや抗弁しませんでした。

 彼らは1845年5月に全国連盟を脱退し、南部バプテスト連盟(サザンバプテスト・コンベンション)を創設しました。



  ああ、こんな大分裂を、創造神はどうして回避させてくださらなかったのでしょうか!

 南北戦争というあの恐ろしい過ちを、どうして避けてくださらなかったのでしょうか! 

  こんな内戦は絶対に、絶対に、おきてはならなかったのです。


  だがおきてしまいました。

 そして以後30年間にわたって、南部は敗北感の塵の中に埋没してしまいました。




  けれどもそうした中でも、聖句自由吟味主義の灯は消えませんでした。

  南部では1880年までに、バプテスト自由吟味者が1,672,631人存在するようになりました。

  全米では250万人になりました。

 国民同士が殺しあったにもかかわらずです。

  新しくバプテストになった人は、北部南部を合わせて1,337,399人になっていました。





【和解努力の副産物】


バプテスト自由吟味者は現在も南北分裂したままです。

 和解の努力はなされましたが、実りませんでした。

+++

  だが、その間に「アメリカンバプティスト連盟とサザンバプティスト連盟のための公共問題合同委員会」がワシントンDCで開かれました。

(「アメリカンバプテスト連盟」は北部連盟の名称。北部ではナーザンバプティストといわず、アメリカンバプティストと~大風呂敷的に~自称した。・・・訳者註)




  この委員会は主に、公共道徳に関するバプテストの信念を社会に広めるのに役立ちました。

 また教会と国家の分離原則を保護することにも貢献しました。


+++

  さらに北米バプティスト同盟という全国組織もできました。

 これは立法権をもたない同盟でしたが、全国の全てのバプテスト団体が連合で信仰表明する機会を造りました。




  南北戦争は、北軍本部と南軍本部が一般合意を交わして終結しました。

  捕虜の交換条件は常時友好的でした。

 この友好関係は、南部のリー将軍が北部のグラント将軍に降伏し、両者が握手を交わして各々故郷に帰ると、すぐに始まりました。



  降伏調印はバージニア州のアポマトックスでなされました。

  それとほとんど同時に、バプテストたちは戦争の真の犠牲者の救済に向かいました。


 黒人がそれでした。


(Vol.15   8章 連合会、南北に分裂する   完)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.14   7章 連合会創設と西部への宣教

2016年09月21日 | バプテスト自由吟味者の道






【連合会の必要性増す】


1800年1月1日時点でに、バプテスト教会の数は1100個に、教会員の数は10万人になっていました。

  だが今日のような州の連盟は、当時はありませんでした。

  バプティスト自由吟味者は~

レギュラー・バプティスト、
フリーウイル・バプティスト、
セブンスデー・バプティスト、
シックスス・プリンシプル・バプティスト

  ~の四つの派に別れていました。

  それらをまとめる超教派全国組織は、存在していませんでした。

小さな地域の、断片的な「連盟」は、いくつか存在していたのですが。


+++

そうした小規模連盟の多くは、対外宣教活動に対して、明白な反対姿勢を持っていました。

  教会員が加速度的に増大し、それどころではなかったのです。

  教会堂のスモールグループ活動用小部屋が足りなくなりました。

無理に詰め込んだら、壁が内側から押されて壊れそうになるくらいでした。

かくのごとくにバプティスト教会が膨張する直前には、合衆国は西部方面に突進するかの如き進展を開始していました。




  この頃のバプティスト信徒の姿は、訳がわからないままで突然大人扱いされ始めた不器用な若者に喩えられます。

  自分がどういう力をもっているかがわからないのです。

新規採用された屈強な軍人たちが、個々バラバラで野営テントにいるような状態に喩えることも出来るでしょう。

  とにかく彼らには全員を結束させる何かが必要でした。

  そして・・・彼らはそれを得ることになるのです。




【宣教連盟を結成する】

  1812年、偉大なる老軍艦コンスティテューションが、海上で英国の戦艦ゲリエールを捜索していました。

  そのとき、他方では、軍艦に比べたらみすぼらくみえる二艘の客船がインドに向けて航海していました。

  デッキには初のアメリカ人宣教師が近代軍人の如き姿で乗船していました。

アドニラム・ジャドソンとルーサー・ライスがその人でした。


  彼らは積み藁を世話するボランティアとしてカルカッタに向かっていました。

 そしてカルカッタで彼らは、バプテスト自由吟味者の話を聞いて、バプテストに転向しました。


+++

ライスは帰国後、自らの転向体験をバプテスト教会を回って語りました。

自由吟味方式を伝える宣教活動の大切さを説き、支援を要請しました。

  彼は全国を遊説し、消えかかっていた昔の宣教の情熱をあおりました。

彼は素晴らしい活動報告をしました。

話し方をよく知っていたのです。




  バプテスト教会は反宣教主義の穴倉から出てきて、ライスを支援するようになりました。

  勢いづいたライスはバプテスト教会に宣教の大義を与え、人々を奮い立たせました。

こうして国中に宣教団体を造っていきました。

  若き巨人、バプテスト集団は、こうして自らの力を自覚し始めていったのです。

むかし、利口なフランス国王がこう言ったことがあります。

「国内に革命運動が育ってきたら、外国との戦争をあおれ」~と。

そうすると人民の意識は外に向かって高揚し、国内での革命熱は下がっていく、というわけです。

  この対外戦争に向かう人民に似たような心理が、バプテスト教団内で働きました。

その仕掛け人がルーサー・ライスだったわけです。


+++

こうした努力によって、1814年までには、バプテストの海外宣教連盟が活動状態に入っていました。

バプテスト教派海外宣教米国総会、というのがその名でした。

  名前も長かったのですが組織も大規模でした。

  連盟は、3年ごとに総会を開催しました。

人々はそれを「トリエニアル(3年毎の)会議」と呼びました。




この総会から良き果実が生まれました。

海外宣教協会だけでなく、国内宣教協会もできたのです。

  加えて~

バプテスト出版協会、
アメリカアプテスト歴史学会、
教育協会、
若者連盟

   ~も出来ました。


 活動を多様化するために、神学校もいくつか設立されました。


 トリエニアル会議は緩やかな連合体でしたが、バプテスト自由吟味者の活動にリズムとアイデンティティをもたらしました。

  言ってみればそれはドラムでした。

人々はその上でそろって足踏みし、それをたたき、リズミカルな行進をしました。

  総会はまた「自分たちは一つの教派を形成している」という意識を、バプテスト自由吟味者の心に作りました。

 この意識は、以前より強く求められていたものでした。




【西部フロンティア宣教に乗り出す】


  その頃アメリカ合衆国の西方のフロンティアは、躍動するかの如くに西漸運動を続けていました。

 バプテスト自由吟味者は、そのフロンティアを追うようにして西に進み、開拓住民を真理の言葉に導きました。

  西部の無人地帯に 「”硫黄の”ダニエル・ブーン」と呼ばれた荒れくれ男がいました

   (米国の開拓者。特にケンタッキー地方を開拓した。・・・訳者註)

この地にはブーンの名を持つ「素封家」が複数いましたが、彼はその一人でした。

  またその弟もそうでして、彼は同時にバプテストの説教者でもありました。


若きアブラハム・リンカーン(後の米国大6第大統領)の両親もバプテストでした。

 母は、信仰堅き自由吟味言者であり、父はビジョン・クリークでのバプテスト教会建設を援助しました。




  バプテストは無人の荒野にも馬で踏み込んでいきました。

  荒野にはぽつんと孤立して存在する町もありました。

通常そこは乱暴者の多い無法地域です。

  だが、彼らはそこにも入っていきました。

  ケンタッキー、オハイオ、インディアナ、イリノイ、アイオワなどの新しい州では、例外なくバプテストの宣教者が説教し、集会所を建設していました。

+++

  彼らはどんな地域にも向かいました。

 そこに酒を飲んでのどんちゃん騒ぎ、喧嘩、賭博、殺人、馬泥棒、競馬(馬泥棒より悪いとされていた)があれば、彼らはそれと戦い、組み伏せました。

  厳格な規律で抑え込みました。

孤立しても法と秩序を押し立て続けました。

怒声、いやみ、毒気の根も抜きました。

  バプテストが荒野の小道に立ち寄れば、そこに教会が残りました。

 それ以後、教会は活動し続けました。




【教会員への姿勢】

  ケンタッキー州にあったサウス・エルクホーンという旧い教会の日記帳には~
  「ロバート・ヒックリンは競馬をしたかどで教会を除名された」
               ~と記されています。

  またこういうのもあります~。

 「ポリー・エドリントン姉妹に告発がなされた。 件名は、数人の隣人たちが互いに口げんかするように、告げ口し回ったことである。彼女はその件で除名された」~と。


  (キリスト教会では、女性会員の名に姉妹をつけて呼び、男性会員をの名には兄弟を付けて呼ぶ。・・・訳者註)


  さらに~

 「以前ウィリアム・フィッツジェラルドの奴隷だった黒人教会員のモリーもまた除名された。理由は嘘をついたことである」~という記録もあります。

  けれども、当人が正直に悔悟した時には、フロンティア地域のバプテスト教会員たちは哀れみ深く応じました。

  ケンタッキー州のマウント・タボル教会のアーネット姉妹は、飲酒のかどで召喚されましたが、教会日記には~

「彼女は謙虚な姿勢で自分のしたことを謝罪したので教会は彼女との交わりを復活させた」

      ~と記されています。






【巡回伝道者】


  西部開拓地とは、 アルゲニー山脈から太平洋岸にいたるまでの全域をさします。

  福音がそこにあまねく行き渡るには100年の歳月がかりました。

 そしてそれは、巡回伝道者の働きなしには実現し得ないことでした。

+++

  巡回伝道者の中には、時によっては凶暴になるものもいました。

 文字の読めないものいました。

 よごれた身なりの者、唇にタバコのやにをつけた者、舌がアルコールで腫れ上がった者もいました。

  そうした人物も含めながら、巡回伝道者の総集団は、多くの魂を救いました。


+++

  彼らはフロンティアに住む”ガラガラヘビたち”に対峙し、その罪の毒牙を抜きました。

 彼らはこうした野人の心に平等感を植え付け、米国に民主社会の土壌を作りました。

 この働きで、西部開拓地はついに ”オールド・ヒッコリー” をホワイトハウスに送り込むまでになったのでした。

(“オールド・ヒッコリー”は米国第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンのニックネーム。・・・訳者註)



+++

  これらはバプティスト教会の輝かしき面ですが、そうでない面もありました。

  牧場の羊が囲いを破って大量に脱出するような事態も起きたのです。

(羊とは教会員のこと。キリスト教界では一般信徒を羊と呼ぶことも多い。・・・訳者註)


 1825年から1865年までの間に、おもだった教会を出て小教派をつくる動きにでた信徒の数は、膨大でした。

  だが大教会は、それをもちこたえて存続しました。

  教会を脅かしたこの分裂動向を耐えきったことは、バプテスト自由吟味者がなした、19世紀最大の功績でしょう。




  大教会にとっては災害的で、破壊的だった分裂運動には、次のようなものもありました。

  一つは、 ハードシェル運動です。

 これは自己の信仰の純粋を保つためには、外部者との交わりを避け、堅いからに閉じこもるべきと主張した運動でした。

 ディサイプル運動というのもありました。

 これはキャンベル牧師に率いられたもので~

 「信徒はイエスの使徒たちのようになるべき」

     ~として厳格な訓練を課す活動でした。


  バプテスト連盟の南北分裂もありました。

 これには南北戦争も追い打ちをかけました。




  これほど多くの面から乱打されたら、バプテスト自由吟味者はちりじりバラバラになると、誰もが予想するでしょう。

ところがなんと、彼らはこれらによってさらに力を付けたのです。

  ハードシェル運動は、カルバンの予定説神学を従来より一層厳格に解釈して賛同者を得ました。

  キャンベル主義者たちは、キリスト信仰への転向や、バプテスマ(洗礼)に関して独特の見解を展開して歓迎を受けました。

  これらの運動に賛同して母教会から20万人の教会員が脱退しました。

 これは掛け値なしの数字です。


  けれども 1845年でみるとこれら母教会は、南部で126パーセントの会員増を達成しているのです。

 また全国での増加率は、プラス175パーセントとなっていました!


(Vol.14   7章 連合会創設と西部への宣教   完)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.13   6章 信教自由憲法ついに成る

2016年09月20日 | バプテスト自由吟味者の道





【流れが変わり始める】


  自由吟味者の闘争は長期にわたりました。

それまでにない数のバプテストが、法廷に引き出されました。


  そして多くが無罪宣告されました。

彼らの一貫した行動と不屈の精神が、徐々に人々の注目を集めはじめたのでした。

彼らの姿勢は、人々の同情を集め、協力を引き出していきました。


+++


 ジェームズ・マディソン(後の米国第四代大統領・・・訳者注)が彼ら自由吟味者の味方になりました。

モンティセロの住人にジェファソンという名の男(トーマス・ジェファソン:後の米国第三代大統領・・・訳者注)がいました。

  彼も裁判所に立ち寄り、自由吟味者を目にし、その言い分を聞きました。

そして「バプテストが正しい」と言いました。


  郡の裁判官にワシントンという名の男がいました(ジョージ・ワシントン:独立戦争における大陸総司令官、初代大統領・・・訳者注)。

マウント・バーノンの住人でした。

  彼も自由吟味者に感銘を受けました。

これらの地域でバプテストへの同情が生じていき、人々のその気持ちが、流れを変えました。

+++

  1779年(米国独立宣言の三年後)、バージニア州議会が税法を変更しました。

  「以後永遠に法定教会の僧侶の給与のために税金を取ることはない」~というのがその内容でした。

  これは法定教会にとって強烈な一撃になりました。

教会はよろめき、また、倒れました。

  法定教会が倒れるごとに、バプテスト自由吟味教会が新たに頭をもたげました。


+++

  ついでジェファソンが「信仰自由を確立する法律」を起草しました。

マディソンがそれを積極的に支持しました。

1786年、それは法制化(合衆国で)されました。


+++

   バージニア州は多くの大統領を輩出した、まさに「大統領の母なる大地」でした。

 この州が先駆的に成立させたこの法律は、合衆国での教会と国家の完全分離を確定しました。

  米国はこれによって、最も偉大かつ独特の貢献を西欧文明に対してなしたといっていいでしょう。

  だがこれはバージニアがなしたことなのでしょうか? 

あるいはバージニアのバプテスト自由吟味者がなしたものなのでしょうか? 

読者の判断にゆだねます。




【バプテスト、 戦いの中で成長する】


  バージニアでの勝利によって、バプティストたちの血管のなかに、さらに新しい血が流入しました。

  次から次へと新事態が起きました。

+++

 独立革命で米国聖公会は破壊的打撃を受けました。

メソディスト教会はほとんど壊滅状態になりました。

  その一方で独立戦争はバプテスト教会を成長させました。

  これは公正な結果です。

バプテストの方も独立革命が成功するのを助けてきたからです。




  ある観察者は(多分バプテスト・ウォッチャーでしょうが)こういっています。

「バプテストたちは人間に対して忠誠を尽くしたのであって、英国王に対してではない。

王党派には一人としてバプテスト自由吟味者はいなかった」

かというと「少しはいただろうが見つけるのが難しかったのだ」という者もいます。

  どちらが正しいにせよ、ワシントンはこう言っています。

「バプティストたちは、ほとんどどこででも全員一致で働いた、市民の自由のための不動の友だった。

そして我等が栄光の独立戦争のための、一貫した助っ人であり続けた」




バプテストが見せた独立戦争支援の働きによって、彼らの抱くキリスト信仰の神髄が一般人に広く知れわたりました。

  自由吟味者たちは、マサチューセッツやバージニアでの闘争過程で、彼らを投獄し鞭打った人々を、みな許しました。

  それだけではありません。

  独立戦争中に、イギリス本国はヘッセン人の傭兵を使って戦いを挑んできました。

  その際、バプテスト自由吟味者たちは、昨日の敵(旧教会の人々)と一緒になって戦いました。

そして共に傭兵の銃剣に刺されて死んでいきました。




  旧教会の人々は、かつて彼らを投獄や鞭で苦しめた張本人でした。

  なのにそうした行為が出来たのは、バプティストが抱く「自由の大儀」が深いものだったからです。

  その深さが、かつて彼らから受けた傷や彼らへの恨みを忘れさせたのです。

  自由のために身を捧げようとする思いの深さが、旧敵に対しても尊敬と寛容の感情だけを産み、それをふくらませたのでした。




  戦いが終わった時、バプテストたちは以前とはすっかり違った別人になっていました。

  戦いの前には彼らは、迫害されっぱなしの小集団という印象でした。

だが戦の後には、自分たちのプリンシプルをこの大陸の法律の中に具現べく、先頭を切って走る人に豹変していました。

  それほどに豊かで影響力ある集団となっていたのです。

  いまや彼らの数は多くなり、その行動は積極的になっていました。

  加えて彼らは、一般の人々にとって魅力的なスローガンを持っていました。

またこの当時一般人は、より高みを目指して進もうという気風に満ちていました。





【憲法成立を主導する】


   バプテスト自由吟味者は、ひとときの勝利の輝きのなかに安住することはありませんでした。

  彼らはいまや賢明となっていて、この新国家がそのままで民主国家として安定することはないと洞察していました。

  英国勢力は去り、英国国教会は崩壊状態にありましたが、それでも新国家は依然として不安定だったのです。

  諸州は連携して合衆国連邦を形成しました。

  それをみるとバプテストは、次の課題は憲法の制定だと判断しました。

+++

  草案が数州で批准にかけられると、彼ら自由吟味者たちは、草案が「教会と国家の分離」をうたっていないことを知りました。
 
  それには満足できなかったのですが、それでも憲法がないよりはましです。

バプテスト自由吟味者は、とにかく憲法案を支持しようと、賛成票を投じました。

+++

  多くの州が、後で「宗教自由」の条項を追加する、という約束はしました。

だが実際に法案を批准するとなると困難が生じました。

  諸州は互いに他の州の有利な点をうらやんだのです。

中央に連邦政権をおくことにも否定的でした。

+++

 その結果、 とうとうマサチューセッツとバージニアを枢軸州にし、この二州に決定権を与えて論争の帰趨を決めようということになりました。

  この2州で草案が通らなかったら、全ては水の泡ということです。

  ところがマサチューセッツは、先に議会投票をした州に同意するといって、バージニア州に先をゆずってしまいました。

  かくして全てがバージニアの決定にゆだねられることになりました。


+++

  さてその州バージニアでは、オレンジ郡の州議会議員の一つの椅子を、マディソンとジョン・リーランドが争っていました。

  対抗馬のリーランドはバプテスト派の長老でした。

そしてこの草案の批准が通るには、議会にマディソンがいることが必要でした。


  ところが選挙前に、マディソンの劣勢が明らかになりました!

 オレンジ郡では圧倒的にバプテストの数が多かったのです。

  マディソンに勝ち目は全くないことは、リーランドにもわかっていました。


  たが、彼は、マディソンのあの”黄金の声”と政治的影響力がなかったら、憲法案は通らないことも知っていました。

  リーランドは勝利を手中にしながら選挙戦を降りました。

マディソンは無投票で当選しました。

  歴史の本に書かれているのは、その後の残りかすのようなところです。

そこではマディソンは「アメリカ憲法の父」ということになっていますが、彼は本当に父なのでしょうか? 

  リーランド長老については我々はどう書くべきでしょうか?




【憲法修正で信仰自由を確立さす】

   バプテスト自由吟味者は、憲法が成立するとすぐに、いたるところで憲法改正についての議論をし始めていました。

  1788年、バージニアのバプティストは総会を開き、「新憲法は信仰の自由を守るために十分な条項をもっているか」について議論しました。

  彼らは自分たちでこのテーマをたっぷり話し合い、マディソン氏とも十分話し合いました。

  そしてこのことについて、ワシントン氏とじっくり話し合うべく代表団を首都に送りました。

+++

    ワシントンはそのときには大統領になっていました。

  彼はバプテストたちを、心を込めた、同情溢れる姿勢でもって迎えました。

  大統領の要請で、上院はバプテストたちの言うことを優先的に考慮しました。

 
  その結果、第一修正条項の最初の行にはこう書かれることになりました。

「上院は、宗教団体の設立に関して法律で規制したり、宗教活動の自由を禁ずる法律を作ったりしてはならない。・・・」

  これで成った! 

信教自由はついに永久に成りました。

+++

  以後、今日の我々まで、そのための戦いをしなくてよくなったのです!

  戦いはロジャー・ウィリアムズやジョン・クラークの後を継ぐ者たちによって戦われました。

彼らは我々のために戦ったのです。

  現在、バプティスト自由吟味者総勢1700万にのぼります。

その子孫たちは今後、祖先の偉業が決して消えないことを知るでしょう。


(Vol.13   6章 信教自由憲法ついに成る   完)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.12   5章 信教自由国家の建設に向けて

2016年09月19日 | バプテスト自由吟味者の道






【近代バプテスト、攻勢に出る】


  ロジャー・ウィリアムズとジョン・クラークの身の安全を保ったのは、ボストンとの距離でした。

距離が遠いが故にマサチューセッツ州の法権力はプロビデンスにまでは及ばなかったのです。

+++

  この地のバプテストたちは、もしもこの聖句自由吟味共和国に住み続けたら、みんな自由で仕合わせで楽な暮らしを続けられたでしょう。

  だが”バプテスト”であるが故に、彼らはそれが出来ませんでした。

  彼らは自らの大胆な人生原理に従って、敵のいるところにはどこへでも出て行って対決せずにおられなかったのです。

  この時、敵はマサチューセッツ州にいました。

彼らはその地に出て行きました。

  そこはプロビンデンスだったら無償で得られるものを、血と苦しみを代償にして手に入れねばならない土地でした。




【バプテスト、 ピューリタンと戦う】

   そこで バプテスト自由吟味者は、ピューリタンと対決したのです! 

 不動の目的を抱いて圧倒的な力で戦う、彼らのインパクトは強烈でした。

  ヒンガムのトーマス・ペインターは自分の子が幼児洗礼されるのを拒否しました。

 彼は縛り上げられ、むち打ちの刑に処せられました。

+++

  ヘンリー・ダンスターはハーバードの学長で、おそらく史上最も卓越した学長でした。

 彼も我が子の幼児洗礼を拒否しました。

  そのために彼はケンブリッジを追放され、裁判にかけられました。

 有罪宣告され、州議会から訓戒を受けました。


  事態のさらなる悪化は必定でしたが、早すぎる死が彼を襲いました。

 それによって彼は、かろうじてその被害に会わずに済んだのでした。

+++

  ニューポートのジョン・クラークとオバディア・ホルムズは、主日(日曜日)をリン近郊のバプティスト自由吟味者とともに過ごし、その家で礼拝を行いました。

(これは「家の教会」と呼ばれる・・・訳注)。

  かれはそのかどで、逮捕され、重い罰金を科せられました。

 支払えない時には「重いむち打ちの刑に処する」と宣告されました。


  これを哀れんだ人がクラークの罰金を代わりに支払いました。

 だが、ホルムスはひどくむち打たれました。

  むち打ちはボストン通りで無慈悲に行われました。

 見ていた群衆に気分が悪くなる人々が出ました。
 
 けれどもホルムス自身は全くひるむことがありませんでした。

+++

  ホルムズが郵便局に行く途中の道で、ジョン・・スピアとジョン・ハゼルが彼と握手をしました。
  
 するとこの二人に、各々40シリングの罰金が科せられました。

  これはバプテストに飲ませた、強い懲罰の薬、苦い胆汁の薬でした。

+++

  このような仕打ちを、ピューリタンは戦略として入念に組み上げていました。

 それは自由吟味者の“ばかげた”(彼らからすれば)行動を鎮圧するのに、功を奏するはずでした。

  だが、結果は成功しませんでした。

 最も苦い胆汁を飲まされても、バプテスト自由吟味者はレホボスに教会を造りました。

ボストンにも作りました。


+++


  ボストンに自由吟味活動の教会を造るなんて!

 それは鷹の巣の隣に、無知な鶏が巣を作って、雛を孵えそうとするようなものでした!


  実際、ボストンの人々は仰天し、次いで怒り狂いました。

  彼らは都市警官に変装してバプティストの教会に襲来しました。

 そしてこの“異端者”たちの集会所のドアに、釘を打ち付けて開かなくしてしまいました。

  表に警告板を付け、こう書きました。

  「バプテストたちがここで集会を開くことを禁じる。如何なる集会も禁じる。このドアを開くことをも禁じる」~と。


+++

  で、バプテストは従ったか? 

 従いました。

「集会を開かない、ドアを開けない」ということには・・・。


  だが彼らは一週間後に釘を引き抜いてしまいました。

  それとともに、彼らを襲う行政の権力も又、引き抜かれてしまいました。

  州議会は最後のカードを切ったのですが、やはり成功しなかったのです。

  それでもってバプテスト自由吟味者の進撃を止めようとする努力は終焉しました。

  ピューリタンの祭政(政教)一致方式は崩壊しました。


 ボストン市民たちは、むち打ち刑と追放の場面に食傷したのです。


+++

  1691年にウィリアムとメアリーが新憲章を容認しました。

  それは~

「マサチューセッツ湾とプリモスをまとめて一つの植民地とし、そこでは全てのキリスト教徒に良心の自由をゆるす。ただしバプテストは例外とする」

      ~というものでした。

  これは自由についての条例と言うより、むしろ黙認(自由吟味活動を)することを暗示した条例でした。

 この憲章は1834年まで有効なままでした。





【自由吟味圏、拡大する】


  バプテストは慎重かつ用心深く行動しました。

その結果、雪だるまが転がって大きくなっていくかのようにして、力を増していきました。

  彼らはボストンを中心にして、そこから前線を推し広げていきました。

+++

  ニューヨークには、”かんしゃく持ち”との異名をもった、ピーター・スティーブサントという老人がいました。

  彼の指揮下でしばらくの間、迫害がありました。

  たが、まもなくバプテスト教会が出来始めました。

ニューアムステルダム、グレーブサンド、フラッシング、オイスター湾岸といった地に教会ができていきました。

+++

  ペンシルバニアではことはスムースに運びました。

 この地にはウイリアム・ペンのもとで、最初から力強い「自由志向の意識」が出来ていました。

(ウィリアム・ペン。1644-1718。英国のクエーカー教徒で、ペンシルバニアの創始者・・・訳者註)
  
   この意識は他の地域にはないものでしたが、ここにはありました。

+++

  この地域では信徒が知識を互いに教え合うために、「総会」が5月と12月にもたれていました。

 それは信仰深い集会で、新約聖書中心の福音的なものでした。

  ニューヨークとニュージャージーから説教者が呼ばれていました。

  1707年まで、各々のバプテスト教会は総会に代表者を送り続けました。

 そしてその年、初のバプティスト連盟がつくられました。


+++

  そうした動きのなかで、フィラデルフィアは自然にバプテスト活動の中心地となりました。

 「連盟」はしばらくすると植民地諸地域のなかで最も影響力の強いバプテスト団体となり、その地位は変わることがありませんでした。

+++

  連盟は、1742年に自分たちの神学理論を明示しました。

 それはアメリカ大陸におけるバプテスト自由吟味活動の全体像を描くための神学でした。

+++

  同じ年に、連盟は信仰宣言書(告白書ともいう)も作成しました。

  それはとてもカルバン的(予定救済説的)なものでした。

 この事態は一つの転換点を作ったと行っていいでしょう。

 従来、バプテストの神学には、全救済説の色彩が非常に強かったからです。


+++

  この頃、南部方面でも事件が起き始めていました。

 バージニアで、一つの法律が議会を通過しました。

 それは自分の子の幼児洗礼を拒否した親には、タバコ2000ポンド分の罰金を科すというものでした。

  この法律が含むところは重大でした。

 それは最初は、人間の手くらいの大きさの、雲のようなものでしたが、速やかに拡大して嵐になりました。

 その嵐は、バージニア州をこえて、アメリカ植民地全土に広がりました。






【大覚醒運動】

 これに対して、いわゆる「大覚醒運動(the Great Awakening)」が起きました。

それが始まる時には、メイン州からフロリダ州にわたる地域にバプテスト教会は47ありました。*1(訳注)


@@@@@@@@@@@@@@@@@

*1 <訳注>
大覚醒とは町や村のちまたで交わされる聖句解釈激論の波紋が、霊的現象も伴って広がっていく宗教復興現象。
 激論は多くの地点で始まり各々拡大した。
 ケンタッキー州でのものが最初と言われている。
 拡大には名説教者が大きな役割を果たすことが多かった。
 
  米国では歴史的にこの現象が一度ならず起きた。
第一次(1730年代~1750年代)、
第二次(1800年代~一八三〇年代)、
第三次(1880年代~1900年代)
       ~の三つが通常口伝されている。
 
本文ではその第一次大覚醒が語られている。

@@@@@@@@@@@@@@@@@



  北部には当時バプテスト教会は7つしかなく、その勢力は諸教派の中で最も弱小でした。

 教会員は全部合計しても500人しかいませんでした。


  だがそのとき、ジョナサン・エドワード(1703-1758)とジョージ・ホィットフィールド(1714-1770)
が覚醒運動を始めました。

 (エドワードは神学者にして説教者。インディアンへの伝道者でもあった。大覚醒の火付け役をした・・・訳者註)

(ホィットフィールドは英国出身の巡回説教師。大覚醒の火付け役となった・・・訳者註)


  彼らは、新約聖書重視の教会活動を主張しました。

  この活動は、未信仰者の霊感を一気に開き、全ての新約重視の教会の成長機会を切り開いていきました。


+++

  だが、奇妙なことに、バプテスト教会はこの大覚醒活動の成果に、当初は距離を置いて超然としていました。

  多くのバプテスト教会は、ホィットフィールドやテネント父子たちに対して、門戸を閉じていたのです。

   (父子はともに長老派の牧師だが、教団組織の制約にとらわれず、激しく霊的な説教をした・・・訳者注)

  その結果、大覚醒して信仰の火に燃えた群衆は、まずは教理統一教会である組合派教会や長老派教会に殺到しました。


+++

  だが、教団教理への従順を求める教理統一教会は、彼らの情熱を許容し続けることは出来なかった。

群衆は最終的にはバプテスト教会に来るべくしてやってきました!


旧来のバプテスト教会は、改心者の熱い心に対して、鈍感だった。

何千人という人が、悔い改めて信仰に目覚めて(霊的に覚醒して)やって来たにもかかわらず、これら回心者たちにあまりに冷淡だった。


  けれども人々は結局バプテスト教会になだれ込みました。

教理統一教会を出て、強引になだれ込んだ。

それは、磁石に引きつけられる鉄の如き現象でした。

 
 バプテスト教会では、意図せざる大覚醒ブームが起きてしまいました。


+++

  バプテスト教会内部では「旧き光」と「新しき光」との衝突も起きました。

 そしてそこから、新しい一派が生まれました。

 
分離派バプテスト(旧教会から新しく分離してきた新参バプテスト自由吟味者)がそれです。


   他教会の全員が脱会してバプテスト教会員になったわけではありませんが、新参者の数は膨大でした。

  バプテストたちは、それまで軽蔑されて、軽視されてきていました。

 だが、いまや注意して扱われるべき勢力となりました。


   またこの時、以前よりバプテスト自由吟味者だった人たちは、自らを正規バプティスト(Regular Baptist)と称しました。

 新参者を分離派バプテストと呼んで、自分らと区別したのでした。





【分離派バプテストの活躍】


  その一方で、分離派バプテストたちは、米国聖公会(英国国教会の米国支部)から米国の南部地域をもぎとりました。

  それは、アメリカ植民地がイギリス王国からの分離独立を実現しつつあった、まさにその時期のことでした。

 1775年から1795年にかけて、植民地独立軍は進軍を続けていたのです。

+++

  バプテスト自由吟味者たちの戦い、平等と存在認可を求めるその戦いは、この時に最高潮に達しました。

  大覚醒して信仰に燃えた分離派バプテストたちは、大挙してバージニア州に突入しました。

  米国聖公会は、彼らの要求に断固として反対しました。


   直ちに衝突がおきました。

  南部の英国国教会(聖公会)はバプテストたちを襲撃しました。

 キリスト教会がキリスト教徒を襲撃したのです!


  これはアメリカ教会史で最も汚らわしい出来事です。

  全植民地の歴史においても、弁解しようのない事件の最たるものです。





【熱血弁護士パトリック・ヘンリーが救済する】
 

  1606年に出された最初の植民地憲章は、礼拝を英国国教会の儀式と教理に従ってなすべきこととして、強制していました。

  次いでバークリーがやってきてひどい法律をいくつかつくりました。*1


@@@@@@@@@@@@@

(訳注 *1)

ジョージ・バークリー。1685-1753。

1729年アメリカ植民地に渡り、植民者と北アメリカ先住民の教化のための大学を作ろうとして失敗し、1731年に英国に帰国した。

@@@@@@@@@@@@@



  この暗黒時代は、最初の連邦議会が開かれる時まで続きました。

 その間、バプテスト自由吟味者たちは牢屋から牢屋へと追い立てられました。

 彼らは、はむち打ち刑場から地下牢へと休む間も与えられずに引き立てられました。

+++

  ウィリアム・ウェーバーとジョセフ・アンソニーは、チェスターフィールド郡の牢屋にぶち込まれました。

 彼らは沈黙を守れと命じられました。

  だが彼らは独房の小窓の鉄格子を通して、壁の外の通りに集まった群衆に向かって説教しました。

+++

  ジョン・ウォーラー、ルイス・クラング、ジェームズ・チャイルズは暴徒に襲われ、裁判所に引き立てられました。


  野獣のような目をした検察官が怒りの声をあげました。

 「裁判長閣下の御意にかないますように! この男たちはどうしょうもない平安の妨害者です。 路で会う人すべての喉に聖句を詰め込んでしまいます!」

 形勢は彼らバプテスト自由吟味者に不利でした。


+++

  だが、50マイル(80キロメートル)離れたところにいた若きスコットランド=アメリカン系の弁護士が、この裁判のことを耳にしました。

  かれは米国聖公会員でしたが、その精神は善良でした。


  名はパトリック・ヘンリー。

 彼は髪の毛の根元が真っ赤になるほどに怒り、馬で町に疾走してきました。

  彼は頭上に起訴状を振りかざして叫びましだ。

 怒りで検察官以上に野性的になっていました。


 「創造神の福音を説いてのことではないか! 偉大なる創造神のために!! 偉大なる創造神のために!!!」


 後年、彼は他の弁護活動で、別の名文句を発することになります。


 「われに自由を与えよ、さもなくば死を与えよ!」~と。


  三人の説教者は無罪になりました。



(Vol.12   5章 信教自由国家の建設に向けて 完)








コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.11   4章 新大陸での近代バプテスト

2016年09月18日 | バプテスト自由吟味者の道





@@@@@@@@@@@@@@

(訳者解説)

 ミードは次に、信教自由、思想の自由をアメリカ植民地に建設するに巨大な貢献をした二人の人物について書きます。

 その一人、ロジャー・ウイリアムズは敢然と理想を追い求める気迫に、天与の知性と体力が付加された人物です。

 彼は神学者にして牧師、そして雄弁な説教師でもありました。

 ロジャーは今のロードアイランド州の一部の地域に、信仰自由社会を創設します。

インディアンと仲良くなり、彼らから土地を購入しての設立でした。

 その信教自由社会に逃げ込んできた一人にジョン・クラークというバプテスト牧師がいました。

 本書には詳しく記されておりませんが、ロジャーとジョンは今のロードアイランド州の地をバプテスト派の植民地とすべく、英本国にわたります。

国王から法的な植民団設立勅許上を得ようしての1651年の渡英でした。

  勅許は容易には出ず、ロジャーは米植民地に帰りますが、ジョンは残ってなんと12年間申請をし続けました。

そして1663年に勅許状を得ます。

彼はロジャーが開始した仕事を完成したのでした。

では本文に入ります。

@@@@@@@@@@@@@@@







【 ロジャー・ウィリアムズ新大陸で嵐を起こす】


  さて前章にその名を紹介したウィリアムズ、彼はまさに”嵐を呼ぶ男”でした。

 幼い頃から彼の心身は環境に溶け込めませんでした。

 そして彼は溶け込もうともしなかった。

 
  ケンブリッジ大学をめざましい成績で卒業しました。

 その彼に、複数の上質な英国国教会教区から聖職への就任依頼がきた。

 彼はその一つに就職しました。


  ロジャーはリベラルな教会人で分離主義者でした。

彼はそれを自慢にしていました。

 それが彼の苦労のもとになるのですが、ものごとを自分の心に秘めておくことが出来ない人間だったのです。


+++

  その彼がアメリカ大陸に移住しました。

 1631年2月の寒々とした日にボストンに上陸した。

 大嵐が吹き荒れる航海を経ての到着でした。

彼はその航海が気に入っていました。

 強風のデッキを歩くと雨は顔を打ち、風は彼の髪を巻き上げました。

彼はボストン方向を凝視し、そこでなすべきことに思いをめぐらしていました。

ボストンは諸手を挙げて彼を歓迎しました。

 「ロジャー・ウィリアムズは若き教職者で、霊感が豊かで、情熱があって、素晴らしき才能の持ち主」という名声が伝わっていたからです。

+++

 だが同時に彼は独自の意志をもつタイプで、自らの考えを口に出す性格でもありました。

上陸するとすぐにボストンの僧職者と衝突しました。

 彼は教会の現状に関する私説を披露しました。

同情心抜きの言説でした。

 彼はボストンの教会に加わるのを拒否しました。

 ボストンの教会は母国の英国国教会に近いレベルで腐敗している、と彼は見ていたからです。

+++

後にセイラムの教会が彼を招聘しました。
 
彼はそれは受諾しました。

  だが彼が出勤しようとしたその日に、ボストンの州議会が妨害しました。

それをする権限がないにも拘わらず、妨害に出た。

 「この青二才反逆者のセイラム滞在は許可されない」というのです。

+++

  そこで彼はプリモスにいって二年間説教者をしました。

そしてその地で彼は、ナラガンセット族インディアンの酋長たちと親しくなりました。

  1634年になると、セイラムの教会が再び彼を招聘しました。

今度は妨害は出ませんでした。

  セイラムの人々は穏やかな心持ちで彼を待っていました。

ところが彼の説教が始まるとセイラムの人々は立ち上がり、彼に向かって目をむきました。

  それは爆発的な説教でした。

ダイナマイトを込めた神学理論でした。

  彼は教会と国家の問題について論じました。

なんとも無謀なことです。

+++

  さらに「マサチューセッツ警察裁判所の権力が宗教的な問題を扱うこと」への疑問を披露しました。

ボストン議会は忙しく動き、ジョン・コットンが告発書を提出しました。

  これに対してロジャーは「その通りだ、告発書に書いてあることは正しい」といいました。

だが同時に「ピューリタン(清教徒)たちは自分たちが生活している土地の使用特許状を国王でなく、インディアンたちからもらうべきだったのだ」と述べました。

+++

  ロジャーは又、邪悪な人間が宣誓したり祈ったりすることに反対の意を表明しました。

それは創造神を拝して行う行為だからだ、というのでした。


  さらに「旧き英国の教区議会から派遣された聖職者の説教を、人々が聞くのは違法だ」と主張しました。

  「市の行政官の権力は、身体、財産、人の外面的な諸事に対してのみ及ぶべき」とも言いました。

ああ! 他に考えること、言うことはなかったのか! 
  
  彼は外面的にはピューリタン(清教徒)の衣服をまとっていましたが、内面は自由吟味者でした。




 【ウィリアムズ、信仰自由村を創設】


   セイラムの教会は彼を支持しましたが、州議会はロジャーを植民地から追放すべきと決議しました。

  決議に従って行政官は、彼を船で英国に送り返す計画を立てました。

  船は彼を運ぶべく、ボストン湾に停泊していました。

  だが報告書にはこう記されています~。

「当局者が彼を連行しに邸宅につく三日前に彼はそこを出ていた。そしてロジャー・ウィリアムズが何処に行ったかを彼らは知り得なかった」~と。

+++

  その三日の間、ロジャーは森林深くわけ入っていました。

そして旧友のナラガンセット族の酋長たちに会って土地を売ってもらいました。



  それはモハサック川の河口の細長い土地でした。

ロードアイランド州の一部に当たります。

+++

 彼はそこに町を設計し、プロビデンス(「神意」という意味)という名を付けました。

それは 森で何ヶ月か過ごした後に考え出したよき名でした。


  まもなく彼の町は完成しました。

そこはピューリタンの町々から逃げ出してきた同志で充ち満ちました。

清教徒地域への反逆者、不平分子、そこから追放された者も数多くいました。


+++

  彼らはウィリアムズと一緒になって「植民地誓約」を書き上げました。

それには「住人は過半数の意志に従うべし」とありましたが、それは「市民生活上の事柄」についてのみでした。


 この街を建設した目的を彼はこう述べています~。

  「この町が良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。水面下で苦しむ同胞をみて、私はこの町ををわが愛する友に贈ったのである・・・」~と。

  それが彼の意図でした。


  彼は、住民がプロビデンスの周囲で働くのを原則としました。

そうやって~
「このような生活は実現可能なだけでなく、最も実用的である」ことを、初めて世に実証したのです。

+++
 
   同時にロジャーは、人民の権利と意志のみをベースにして運営される自由政府を創設しました。

  それは王権神授説に打ちんだ初のボディーブローでした。

  彼は、政府と教会を完全に分離させ、政治的宗教的自由の諸理念を実施に移しました。

それは、欧州の子供たちがこの理念を学校で教わる、はるか以前のことです。


   この男は英国の政治激変によって米大陸マサチューセッツの岸に打ち上げられた、最も挑発的分子といっていいでしょう。

  またこの人物は、プロビデンスとロードアイランドの創設者であるだけでなく、あまたいる社会建築家のなかで最大の独創思想家でした。


+++

  彼が創始した運動は、初期の植民地時代を通して、雪だるまが転がるようにしてその重量と力を増していきました。

雪だるまは、合衆国憲法の最初の修正(信仰自由の原則を憲法に追加した修正・・・訳者注)でもって最終的に休息したのでした。


+++

  ロジャー・ウィリアムズは、プロビデンスに来た時点では公式のバプテスト自由吟味者ではありませんでした。

だが、まもなくこの問題を処理しました。

  彼はホフマン氏によって浸礼(全身を水に沈めて行う洗礼)を受けました。

ホフマンは彼を招聘したセイラムの教会員でした。

  次いでウィリアムズはホフマン氏に浸礼をさずけました。

他にも10人以上の人を浸礼しました。


+++

  彼らの群れは米大陸での初のバプテスト教会となりました。

というとそれが以後の米国バプティスト教会の母体になったと想像したくなりますが、実際にはそうまではなりませんでした。

  プロビデンスのこの集会から新しい教会が枝分かれすることはなく、ウィリアムズ自身、生前にそこを去っています。

+++

  だが、そのことが彼の栄誉を曇らすものではいささかもありません。

その栄誉とは、合衆国における信仰自由のための戦いのパイオニアとしての栄誉です。

  彼が一貫して主張した信仰自由原理は、後の米国バプティスト五大原則を産んだからです。

そしてそれは最終的には、合衆国憲法における国家原理として実を結んだからです。




 【 クラーク、ウィリアムの偉業を完全化】


  ロードアイランドには貴重なバプテスト自由吟味者がもう一人います。

ロジャー・ウイリアムズの人物像があまりにドラマチックなので見逃しがちになりますが、ジョン・クラーク博士がその人です。

  博士はロンドンの開業医でしだが、アン女王が争いを引きおこした時に、ボストンにやってきました。

  アン女王は激情の疫病神とでもいうべき人で、ピューリタン説教者の説教を公に批判するという大胆なこともやってのけていました。

  彼女はまた、自分の鋭い批判は、神からの直接の啓示を受けてのものだと、告白したりしていました。

  こういう公言は、ロジャー・ウィリアムズがかつてやった旧教会への批判と同程度に、やっかいなものでした。

+++

  王女は英国を出て米大陸ロードアイランドにやってきました。

  クラーク博士はアクイドネック・アイランドにある住居を彼女に提供しました。

そこはかつてウィリアムズがインディアンから購入した土地の中にありました。

  クラークはまた、礼拝を捧げる教会をお望みならばニューポートにある教会を世話しましょう、~とも申し出ました。

  この教会が最初からバプテスト教会だったかどうかは、わかりません。

だが、1648年までには間違いなくそうなっていました。

  当時メンバーは15人で、クラーク博士はそこの「聖書朗読長老」でした。

彼の朗読は素晴らしいと評判でした。

+++

    その彼が大仕事をしました。

  1651年、ロードアイランドは彼を英国に派遣しました。

この地への植民地設立認可状を、国王から得るためでした。

  クラークは12年間独りで奮闘し続け、ついに1663年、チャールズ2世が国王になった時に勅許状を取得するに至りました。

 そこには~

  「如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」

       ~という宣言が記されていました。

  それは「当人が市民社会の平安を乱さない限り」という条件付きではあったのですが。

+++

  クラークはアメリカ植民地にもどり、友人たちの喝采に腰をかがめて応えました。

  帰郷後、ロードアイランド州の代理知事を2年間勤めました。

  その後引退してプライベートな生活を送りはじめましたが、1676年突然逝去しました。

旧友ロジャー・ウィリアムズがこの世を去る15年も前のことでした。


  ジョン・クラークはウィリアムズが開始した偉業を完成させた人でありました。



(Vol.11   4章 新大陸での近代バプテスト   完)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.10   3章 近代バプテストの誕生

2016年09月18日 | バプテスト自由吟味者の道






【ジョン・スミス、自由吟味者に】


  オランダのメノナイトは、この三人の分離主義者を大歓待し、自分たちの信仰を入念に説教しました。

 その説き方たるや、あたかも鉄をメノナイト刃物に鋳造するかのようでした。


+++

   スミスは英国ではゲインズボロー地区の英国国教会司祭でした。

  ちなみにその地からさほど離れてないところがスクルービーですが、そこはブラッドフォードとブリュウスターの居住地だったところです。

  二人はともに1620年にアメリカ大陸に移住したピルグリム・ファーザーズの指導者です(訳者注)。


  スミスはその活動の仕方がよくないと、1606年に英国王ジェームズ一世に国を追われ、オランダに亡命して来ていたのでした。

  1609年、彼はメノナイト思想に完全に感化されるに至り、完璧な自由吟味主義者になりました。

  彼は自ら再洗礼し、ヘルウィもモートンもそれに続きました。

 そしてその地に彼らは、初の「英国全救済派バプティスト教会」を組織しました。*1





@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

*1 (訳注)全救済派とは、イエスを信頼することによって救われる(死後最後の審判で天国入りを許される)機会が全人類に与えられているとの聖句解釈をする人々を言う。

これに対して、予定救済派とでもいうべき人々もいる。

こちらは宗教解釈者カルヴァンの「信じて救われるものは、生前に予め創造主に定められている」という聖句解釈に同調する人々である。

カルバンのこの説は、予定説という名で有名である。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@





   このように三人は歩みをともにしてきたのですが、スミスがみんなでメノナイト派に入ろうと言い出した時に、歩調は崩れました。

  ヘルウィとモートンはそこまではついて行けませんでした。

  彼らは依然として”英国人”だったのです。

  二人はスミスを”破門”しました。

  一人ぼっちになったスミスは、1612年に世を去りましたが、その年、後進者のために、信仰宣言書を書き遺しました。

  そこには彼の確信が次のように記されています。




******************

~行政者は職務上の理由で宗教ないしは精神的な事柄に干渉してはならない。

また、人に特定の形態の宗教や教義を強制してはならない。

キリスト教信仰は各人の自由精神にゆだねるべきであり、行政は政治的事項だけに関与すべきである。・・・・

******************




  かくのごとくに、スミスは自由吟味主義の軍旗を掲げたままで死の門までいきました、

 彼は最後まで節操の堅い自由吟味者であり続けたのです。


+++

    へルウィとモートンは英国に帰りました。

  彼らは、必要とあらば自らの信仰の故に被る迫害は潔く受け止める~という覚悟をしていました。

  また、創造神の御旨にかなうのであれば、死ぬまでに幾人かの同調者を作ろう、と思っていました。

  だが、彼らが迫害を受けることは、ほとんどありませんでした。


   母国の状況は変わっていたのです。


+++

   ジェームズ国王の宗教政策は、路線としては従来のままでしたが、迫害行為は和らいでいました。

  1612年以降に激烈な罰を受けたものはほんの少数しかいませんでした。

  それまでをみると、1550年にジョアン・バウチャーが異端のかどで火刑に処せられています。

  1611年にはエドワード・ライトマンが鉄棒に後ろ手に縛られて火刑に処されています。

  そして彼は英国では最後の火刑死者でした。


  この二つの年度(1550年と1611年)の間には、他の火刑は実施されていません。


  その間にも、命をかけて自らの信仰の証を立たことによって、罰金を支払わされたり、国外追放されたり、むち打ちの刑にあったりした人は多数いました。

  だが自由吟味者に対して火刑を命ずるような烈火の怒りが、国王の心にわき上がることは、1612年以降にはなくなっていました。


+++

   それ故、英国人がメノナイト自由吟味派に転向するのは容易になっていました。

  おそらくヘルウィとモートンが帰国する以前にすでに、メノナイトの人々が英国中を伝道して回っていたのではないでしょうか。

  彼らの伝道の成果は派手に表立つことはありませんが、彼らが自由吟味活動のタネを蒔いたのは間違いないでしょう。

 そしてそれがその後のアナバプテスト自由吟味主義の成長のための土壌になった・・・このことには疑いがありません。





【近代バプテスト、英国に生成】


 1638年にいたるまでに、「第一予定救済バプテスト教会」が英国の地に設立されていました。

 (予定救済説とは、生前に予定されていた者だけに信じて救われる機会が与えられている、という説。 この教会はそういう聖句解読に立っていた。 「第一」は最初の、という意味・・・訳者註)

 1641年には、全救済バプテスト教会から枝分かれした人たちが、「正しい洗礼は浸礼のみ」という宣言をだしました。*2




@@@@@@@@@@@@@

*2 (訳注)洗礼の方法には大きく分けて二種類ある。
一つは全身を水に沈める洗礼でありこれが浸礼である。
今ひとつは額に水滴を垂らす方式で、これは滴礼と呼ばれている。

@@@@@@@@@@@@@





  1644年に、バプテストたちは自らの信仰宣言書を発表しました。

  これは今日まで、何百万におよぶ自由吟味者の行動指針になっています。

  ここで彼らは自らを「アナバプテスト」と呼んでいますが、まもなく彼らはバプテストと略称されることになります。 

  以後、世界に広く普及していくバプテストという名称は、史上初めてここに出現したのです。


+++

    英国史には、嵐の時代も静寂の時代もありました。

  その間バプテストの二つの分派(全救済派と予定救済派)は、各々独自な道を進みました。

  各々が英国人の生活と人格形成に役立ちました。

その貢献は華麗にして豪華でした。


+++

   二つのバプテスト派は、各々一貫して独自の自由思想を維持しました。

  そして英国人に、自由を愛する精神を、あらゆる局面でしっかりたたき込みました。

  自由を愛する精神については、英国人はバプテスト自由吟味者に負うところ多大なのです。

  彼らはその恩のすべてを返しきることは決して出来ないでしょう。


  バプテスト自由吟味者が英国にもたらした自由の大きさは~、

アルフレッド(アルフレッド大王、849-899.:デーン人の侵略から国土を救った国王)や

ヘンリー(ヘンリー4世、1367-1463:英国ランカスター王朝の初代の王)や

アイアン・デューク(鉄の公爵:the first Duke of Wellingtonの異名)らのもたらした自由を

    ~遙か超えています。


  それはクロムウェル についても言えます。





【クロムウェルを指南する】


 バプテストは、実はクロムウェルをコーチングしているのです。
 
 1644年のバプテスト信仰宣言はクロムウェル革命の序曲でした。

それはこう述べています~。






*******************

 ・・・創造神を礼拝する方法の制定者はイエスキリストただお一人である・・・・ 
 
  ・・・だから、行政者の義務は人間に精神の自由を与えることであり、(それが良心的な人間に対しては最も親切なことだ・・・)・・・

  ・・・そして良心を持った全ての人々を、あらゆる悪、中傷、抑圧、いじめから守ることだ。・・・

********************






   聖句自由吟味者は、自由を尊び、自由のためにいのちを捧げる精神を、先祖から受け継いできています。

 その彼らが、クロムウェルの軍隊に、群れをなして加わったのは自然な成り行きです。

これはドイツでアナバプテストが農民戦争に加勢したのと同じなのです。


+++

  1775年当時クロムウェル軍のアイルランド要塞には、次のようなバプテスト自由吟味者たちがいました。

すなわち~、

  都市の知事が12人、軍の大佐が10人、大佐代理が3人、少佐が10人、中隊付将校が43人いました。

  またクロムウェルの娘はフリートウッド大佐と結婚していましたが、かれもバプテスト自由吟味者でした。


+++

   クロムウェルとともに国王に対して戦ったバプティストは千人単位でいました。

 彼らは議会派清教徒として、チャールズ一世を断頭台に送るということまでしました。

これには、欧州大陸の国王たちは震え上がりましたが・・・。


  かと思うと、クロムウェルが勝利を収め権力者の座についた時には、彼自身と長老派の人々の不寛容に対して反対に回りました。

  バプテストだった詩人ミルトンは、勝者たちの不寛容に対し、次のようにして正義の怒りを爆発させています~。




******************

  ・・・長老という新しい名は、かつての僧侶という名を大げさに書き替えたものにすぎないではないか。

  諸君は、異議を申し立てるとその人を非難する。

  図々しくも国内戦争を命じる。

  そして、キリストが自由に解き放ってくれたわれわれの良心を奪い取る。

  諸君はどうして旧き階層制度でもって人を虐げようとするのか?・・・・

******************




   英国バプテストは、クロムウェルが王座に就こうとすると反対に回り、王座を拒否すると拍手喝采しました。

 彼らは人のためでなく、プリンシプル(原理)のために戦う人間だったのです。

 英国への愛国者である以上に、創造神の王国(天国)への愛国者だったのです。





【英国への膨大な影響】

 自由吟味者の思想と文化は、英国に多大な影響を与えました。

偉大なる人物、偉大なる行為が英国にシャワーの如くに振り注がれました。


  英国バプテストの予定救済派と全救済派は、1891年に一つに合流するのですが、別れたままの状態であっても、両派から恩恵が降り注がれました。


  国内で革命運動が起きると、バプテストから加勢する兵士が出ました。

この兵士は、平和のために働く戦士でした。


バプテストの中からバニヤンが出ました。

彼はブラッドフォードの牢獄のなかで『天路歴程』を書きました。


  『失楽園』の著者ミルトンが出ました。

彼は盲目でした。


  ダニエル・デュフォーが出ました。

彼は 『ロビンソン・クルーソー』 を著作しました。


  名説教者も出ました。


アレクサンダー・マクラーレン、A.J.ゴードン、ロバート.ホール、スパージョンたちです。


スパージョンは “無比の人”と呼ばれました。


  アンドリュー・フラーが出ました。

彼は1792年に故郷に英国バプテスト宣教協会を設立しました。


  ウィリアム・カレーが出ました。

彼は近代宣教活動の創始者です。


+++

    予定救済派と全救済派との各々から、貢献者を平等に出してみましょう。

 まず、前者の予定救済派から。


  その最大の功労者はカレーでしょう。

 彼がインドを今日の姿にあらしめるに貢献したところは、クリーブやハスティングスの貢献を遙か超えています。

  彼はまた、英国の今日あるにも多大に貢献しています。

 それはジョンウエスレー(メソディスト派教会の創始者として有名・・・訳注)に勝るとも劣らないでしょう。


+++ 

 全救済派からはどうか。

 最大の功労者はロジャー・ウィリアムズです。

 今日のアメリカ合衆国を作り上げるになした彼の貢献は巨大です。

 その貢献は、これまでの米国大統領を貢献度順に並べ、上位から12人がなした貢献を合計した貢献量に匹敵するでしょう。


(Vol.10   3章 近代バプテストの誕生   完)






コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.9   2章 いくつかの自由吟味グループ

2016年09月16日 | バプテスト自由吟味者の道




@@@@@@@@@@@@@@@

(訳者解説)

  ミードは次に、英国近代バプティストの生成に関連性の高いグループを三つあげて説明します。


  他にも聖句自由吟味グループは沢山ありました。

  カタリ派もその一つで、箒木蓬生『聖灰の暗号』は、彼らが受けた悲劇的な連続火刑を描いています。


 だが、自由吟味者の集団は、その存在が認知されにくいです。

 集団が固定的な管理階層組織をもたないし、豪華な教会堂を建てたりもしないからです。


  彼らの集団は、流動的な草の根的存在です。

 名称も、外部の人々が思いつきでつけるニックネームのようなのが、ほとんどだからです。

  そうした中でミードはここで、ワルド派、アナバプティスト派、メノナイト派の三つを説明しています。

では、本文に参りましょう。

@@@@@@@@@@@@@@@@






【ワルド派聖句主義者】


 最初の上質な反国教主義者は、ワルド派の人々(ワルデンシアン)です。

  彼らは、12世紀にローマカトリック教会と異なる歩調をとりました。

  以来いかなる拷問を受けても、国教であるローマカトリック教会と歩調を合わせることはありませんでした。


  ワルド派の名は、フランスの都市リヨンのピーター・ワルドに由来しています。

  彼は財産家でしたが、聖書の中のイエスの言葉を読んで、その全てをうち捨てました。

  その言葉とは、若い資産家の青年指導者に向かってイエスが与えたもので、「財産を捨てて私に従え」という命令でした。

  ワルドは清貧の重要さを悟りました。


  彼は、伝道はその地の住民たち自身が使っている言葉でなすべきと確信しました。

  それゆえ、各地で翻訳できる者をみつけ、聖書を住民たちが読める言葉に訳させました。

  そして自分がしてきた伝道活動を土地の人に引き継がせたのです。

+++

  彼は多くの弟子を作り、厳格な規律を課しました。

  そしてローマカトリック権力に拷問を受けても所説を変えない、頑固な異端者(カトリックからしたら)に育て上げました。

  それまでにカトリック権力から拷問された人の中で、彼らほど頑固な異端者はなかったでしょう。

  彼らはカトリック教団勢力によって、アルプス山脈の洞窟や谷間に追い込まれました。

  だがローマカトリックが迫害行動に疲れてくると、街に出てきて自らの信ずるところを説教しました。

  今日もワルド派の人々はは一万五千人ほどいます。





【ワルド派の思想】

 ワルド派のおきてや原則をひとまとめにして示すのは難しいことです。

 彼らの信条は単一ではないからです。

  教師や説教者や監督者には、カトリックのやり方をそのまま援用するグループもありました。

  かと思うと会衆主義的な運営形態をとり、高度に福音主義的に(新約聖書の聖句を中心とするやりかたで)活動する集団もありました。

  この人たちは化体説を否定しました。

化体説とは~
    教会での聖餐式でパンと葡萄酒をイエスの肉と血であるとして食すると、信徒の身体のうちでそのようになるとする説です(訳者註)。


  カトリック教会の言う秘跡も全てみとめませんでした。

  秘跡という語は、「心に与えられる恩寵の、目に見える有形なしるし」を意味しています。
  カトリックでは洗礼、堅信、聖体、婚姻、告解・悔悛、叙階、終油を七秘跡としています(訳者註)。

  幼児洗礼も否定しました。

 彼らはスイスやドイツに、まるで水が浸みだしていくかのように出て行きました。

  そしてアナバプテストと呼ばれていた人々に深い影響を与えました。




【アナバプテスト自由吟味者】


   アナバプテストは極左の宗教改革運動家でした。

 アナは「再び」バプテストは「洗礼者」で、言葉の意味は再洗礼する人々です(訳者注)。

+++

  彼らは風に乗って種として舞い散る、流浪の種子でした。

  そしてローマカトリックの農地に生える毒草(カトリックからしたら)として、いたるところで予期せざる形で突然芽を出したのです。

彼らに敵対する者は、はじめは笑いとばしてすまそうとした。

 だが、まもなくそんな甘いものでないことを悟りました。

  アナバプテストは単なる笑いものを超えた危険人物だったのです。

+++


  彼らは共産主義、平和主義、死刑廃止を唱道し、幼児洗礼を聖書に反するとして拒否し、魂と良心の自由を力説しました。

  また、教会と国家の分離を要求し、法廷での宣誓を拒否しました。

  官職に就くことさえをも拒否し、納税と金利にも反対しました。

  まさに極左中の極左だったのです。

  彼らは単にカトリック国教会にとっての異端であるだけでなく、国家への反逆者でもありました。

  法王も君主諸侯も火と剣を手にして彼らを追いかけ回りました。

  プロテスタント宗教改革の大物もみんな彼らを非難しました。




【ドイツ農民戦争とアナバプテスト】


ドイツに農民戦争が起きた1525年、アナバプテストはそれに加勢しました。

  そのときルターは彼らを呪い「たたき殺し、絞め殺し、突き殺せ」という、なんとも無慈悲な叫び声を上げました。

  まあ、彼の気持ちはよくわかります。

  ルターは自らの宗教改革運動の最中に内戦が起きることを、何よりも恐れたのです。
 
  だが、アナバプテストの行動原理に照らせば、とるべき行動は「加勢」となります。

  彼らはこのヒューマンライツ(人権)に関わる大動乱を目にしたら、抑圧された側に加勢しないではいられなかったのです。

 ルターはたしかに偉大ではありました。

  だが彼の意識の中では、教会は、国家という花馬車の車輪につながれた機関でした。

  アナバプテストはそれが我慢できなかった。
 
  だから小作人とともに戦ったし、ルター派やツイングリ派(宗教改革運動の一派)と袂を分かって、孤立の道を歩みました。

  彼らは独特の精神遺産を守り、「勝利か、さもなくば死か」の決意で自らの企てをしたのでした。





【スイスのアナバプテスト】

スイスのアナバプテストは穏健で思慮深く、学究的でした。

 指導者たちの姿勢も建設的でした。

  聖書を最初にドイツ語に翻訳したのは世上ルターということにされていますが、実はそうではありません。

  ルターが翻訳を目論む何年も前に、彼らは旧約聖書のドイツ語訳をつくっています。

  そしてスイスを迫害で追われた時には、モラビア(旧チェコスロバキア中部のモラビア地方)で著作し説教しています。




   【 イタリアのアナバプティスト】

 
   イタリアで活躍したアナバプテストは短命でした。

  おそらくカトリックのお膝元だったからでしょう。

  彼らはポーランドに逃げ、そして姿を消しました。




【オランダのアナバプテスト】


 オランダのアナバプテストは、ウルトララディカル(超急進的)でした。

  メルコワール・ホフマンをリーダーとする一派は、ミュンスターで過激な暴力行動を続けました。

  こういう狂信は醜態にみえるものです。

  この行動によってアナバプテスト活動者全体に「恥知らずな連中」というイメージが出来てしまいました。
  なんとも報いのない行為でした。

  その結果、オランダのアナバプテストは破局的な戦争をし、流血の死に至ることになりました。

  そして残った者は、メノナイト自由吟味者の群れに合流しました。





【メノナイト自由吟味者】


そのメノナイトと呼ばれる自由吟味者に話を移しましょう。

  時代は17世紀です。

  彼らは、いわゆるバプテスト(ジョン・スミスに始まる英国バプティスト)の直接の祖先です。


+++

  この自由吟味グループの指導者は、メノ・シモンズという人でした。

  彼はカトリックの僧侶でしたが、1536年にアナバプテスト自由吟味者に転向しました。

  彼は人間の信仰と実践の基盤として権威あるのは、聖句だけだと確信しました。

  バプテスマ(洗礼)は、信じる者だけが受けられる特権だともしました。

  教会の規律は、職業の場においても、家庭生活においても、個人生活の全ての局面で厳格に実施さるべきともしました。

  この極端な行動規律はこっけいですらありましたが、それはそれとして、メノナイト派の人々の性格を形づくりました。

  いまもそうですけど、彼らは紳士的で、平和志向で、遵法精神に富み、美徳溢れる人々になりました。

  彼らはロシアの凍てつく土地を耕し、スイスの山々に登り、ライプチッヒの街の通りやアムステルダムの堤防で信じるところを説きました。


(アムステルダムは海面下の土地が多く、海水をせき止める高くて広い堤防が人々の通路やたむろし場になっていた・・・訳者註)

+++

  そしておそらくこの堤防の近くのどこかで、彼らは英国を亡命してきていた分離主義者に対面したでしょう。

  ジョン・スミス、トーマス・へルウィ、ジョン・モートンがその分離主義者でした。





(Vol.9   2章 いくつかの自由吟味グループ    完)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.8   1章 聖句自由吟味者の活動原理

2016年09月15日 | バプテスト自由吟味者の道




『バプテスト自由吟味者の道』


       フランク・S・ミード著
       鹿嶋春平太訳・解説





1章 聖句自由吟味者の活動原理


バプテストと呼ばれた聖句自由吟味者たちはいつからいるのか? 


 この問いは、山々はいつからあるのか?という問いのようなものです。

どちらも日付けを言うのは難しいです。

どれが最初でどれが二番目かもはっきりしません。

 彼らはキリスト教の教派の中でも別枠の存在なのです。

+++

通常、人間や社会組織には誕生地と誕生日がはっきりしているものです。

 メソディスト派教会にはジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレー兄弟という創始者がいます。

 ルター派教会の人たちは創始者ルターと誕生地ウィッテンバーグを知っています。

 長老派教会の人々は創始者カルヴァンと、この教派の誕生地ジュネーブを知っています。


 だがバプテストはそうではないのです。

あるのものはこういいます~。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「創始者はイエス以外にいないよ。

わが教派の創始日は、イエスがヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けた日だ。

我々はいかなる人間の権威をも、如何なる人間の教理も認めないよ。

われらの信仰は、ローマに最初の教皇が登場した時以前から生きていた。

我等は宗教改革より前からいるプロテスタントだ。

ルターが生まれる前からいるのだ」


またこういうものもいます~。

「我が教派は1608年、ジョン・スミスとともに始まっている」~と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 こういう問いもあります~


バプテストに教会作法はあるのか?

  開祖無き聖徒集団なのか?

 あるいは開祖だらけの信徒集団か?

バプテストは 教会法を持たない低級者集団なのか?


     ・・・・ だがこれらの問いは的をついていません。

 筆者はこう述べておきましょう~




・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・トーマス・ジェファソン以前にも民主主義者はたくさんいた。

 だけど米国民主党はジェファソンでもって始まっているよ。

 同じようにバプテストは昔からたくさんいた。

 だが、「一つの教派」としてのバプティスト派は、1608年に英国においてジョン・スミスとともにスタートしているよ。

けれども、そのスミスだって純粋な歴史背景のなかに位置づけるのは容易でないよ。

、「ヨルダン川誕生説」に立って、その当時から今日までのバプテスト教会の流れを示すのは困難なのだ。

 スミスの教会は他の教会との正規な繋がりを持つことなくして突発的に出現しているしね。

・・・・・・・・・・・・・・・・



 ただし、スミスが「我等の活動原理(プリンシプル)は、イエスがヨルダン川で受洗した時と同時に始まっている」というのは筋が通っている。

 だけどその活動原理とはどんなものでしょうかね?




1、信仰者バプテスマの原理

  まずバプテスマ(洗礼)の原理からいきましょう。

 それは「洗礼は信仰者バプテスマのみ」という原理です。

 「聖書に幼児洗礼の有効性を保証するところなどない」とバプテストは言います。

「洗礼はイエスとバプテスト精神への忠誠を公に誓うもので、赤ん坊にそんなことできるわけがない」
       ~というのが彼らの主張なのです。




2、聖句最終権威の原理

 次は聖句を最高権威としてそれに忠誠する原則です。

多くの人にとってこちらの方が信仰者洗礼の原理より重要です。

バプテスト教会には命令権を持った法王(教皇)や枢機卿などはいません。

むろん司教も存在していません。


教理書も信仰宣言(告白)書もありません。

あるのは聖書のみです!


バプテストは聖句から離れません。

 キリスト教徒は、イエスキリストを教会と良心に対する唯一の立法者であり王とする、この原理につかまって離れません。

 だがバプテストは同時に、聖句から離れないのです。




3、各個教会独立の原理

  第三は、各個教会独立の原理です。

 バプテストは完璧な聖職者組織を目指しません。

望むのはクリスチャンとしての品性です。

各々の信徒グループが、自分たちの意志で教職者を叙任します。

 命令し、解任することも出来ます。


 信徒グループは、自らが望むように教会を運営出来ます。

 牧師と一般信徒は同等の権利をもっています。

これは民主主義の一形態です。

ここには「個」が生きる余地があります。




4、政教分離の原理

 第四は、教会と国家の完全分離の原理です。

  バプテスト教会が国教になったことは一度だってありません。

 政府や国王からの聖職位を受け入れたこともありません。

  彼らは流血の犠牲を払いながら「国家は政治問題だけを統治し、教会に関与すべきでない」と主張し続けてきました。


 彼らは天国(創造神が王として統治する天の創造神王国)を愛する愛国者です。

 彼らは、時の為政者への忠誠以上の忠誠を、常に創造神に対して尽くしてきました。

 「良心(精神)の自由」と「国家と教会の完全分離」を、彼らは訴え続けてきました。

 そのためにどれほどの苦しみを受けてきたことか! 



 嘲られ、中傷され、罰金を課され、鞭や鉄棒で打たれました。

 火あぶりの刑、脱臼刑(拷問台で引っ張って手足の関節を脱臼さす刑)も受けました。




+++++++++

  にもかからわずバプテストは頑として自説を捨てませんでした。

  拷問者たちにとって、バプテストから頭が引きちぎれるのを期待するのは、人間が頭なしで歩くのを期待するのと同じことでした。


そして見逃してならないことがあります~。

  かくの如くに過酷で流血に満ちた歴史に置かれながら、バプテストは迫害者に決して仕返しをしませんでした。

  また自分の信ずるところのために他者を迫害したことも、一度としてありませんでした。




  創造神からの霊感を受けて心に生まれる天国への愛国心は、人間のこころにそういう精神を形成するのです。

 信徒集団の形態を問わず、あるいはグループが孤立しているいないを問わず、この精神はイエス以来、幾世紀も一貫して続いて来ています。





 いま述べたバプテスト原理の一つないしは全てを主張する英雄的な集団は、昔から、そこかしこに現れてきました。

 だがそれだけでもって、彼らを厳密な意味でのバプテスト集団と呼ぶの早計でしょう。


 現存する歴史資料をもとにバプテストをさかのぼって追って行けば、組織化されたバプテスト教会が最初に現れるのは12世紀以降だろうことがわかります。

  それより前にバプテスト教会があったという学者は、優れた学者とは言えません。


 近代バプテスト(近代英国に発生した)は、16世紀のアナバプティスト自由吟味者の子です。

  そして12世紀のワルド派自由吟味者の孫です。

  (ワルドは英語ではWaldだが、日本では通常ウォルドでなくワルドと記されている・・・訳者注)

 こう認識したら、それで十分です。



( Vol.8   1章 聖句自由吟味者の活動原理    完)








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.7 <訳者解説>6 ~クリスチャンによるクリスチャンの殺戮~

2016年09月14日 | バプテスト自由吟味者の道





  話を、カトリック教理統一教会が、ローマ帝国の唯一国教になったところに、もどします。

 教団はとにかく自分の方式に自由吟味教会を吸収しようとしました。


  だが、自由吟味者は従いません。

 すると教団は、国家の軍隊を用いて、自由吟味者の居所を襲い、逮捕し、処刑しました。

 この状況が延々と続いた時期が、欧州史におけるいわゆる中世時代です。

 本書の著者、ミードは、こうした時代背景のもとでの、バプテストと称された自由吟味者たちの姿を紹介し始めます。

 そして彼らが、人間の自由意志を妨げない社会を造り国家を建設していく様を描いていきます。





【ワルド派、アナバプテスト派、メノナイト派】

 本書は、バプテスト派以外の自由吟味者の群れについても触れています。

ワルド派に少々、そしてアナバプテスト派、メノナイト派にはそれ以上のスペースを割いて論及しています。

 バプテスト派は現在、自由吟味者の最大の会派になっています。

それはいま、米国南部で圧倒的に多数を占める教会を形成しています。

 次いで大きいのが、メノナイト派で、この会派は、現在米国の北西部を本拠として活動しています。





【一般教会員は自己の方式の理念が薄い】

 ところが、彼らには奇妙な実体があります。

 自由吟味方式を、、理念として明確に認識している教会員が驚くほどに少ない。

正統教理統一方式に対立する方式としての理論的自覚がないのです。

 バプテスト地域、メノナイト地域ともにそうです。


+++

 自覚が明確にあるのは神学教授、牧師、それに執事と呼ばれる信徒の代表者たちくらいでしょうか。

 一般教会員は生まれて以来この方式の教会の中でのみ、育ってきていて、この方式が空気のようになっているようです。

 他の方式に触れる経験を持たないと、どんな方式も、自然にあるべきものとなるのでしょう。

 彼らはそういう状態で、教会生活を続けてきています。


+++++

 著者ミードはどうでしょうか?

もちろん彼は自覚しているでしょう。

 けれども彼は、自由吟味主義、教理統一主義といった神学知識を明示することなくして、本書を書いています。

彼は、それはいま述べた知識状況の人々をメイン読者に想定して書いているからでしょう。

 自由吟味活動を、バプテストと呼ばれるクリスチャンたちの歴史物語として書いている。

こうした人々に、バプテスト自由吟味者の、隠れてきた驚くべき働きの歴史を伝えるのを主眼にして書いている、と訳者はみています。

 だから彼は、主人公たちをあえて聖句自由吟味者と呼ぶこともしないのだと、推定します。


+++

 それでも、この人々の活動史は、読む者の心を躍らせるものを大量に含んでいます。

 読者も、本書の中に信教自由の源、言論自由や自由社会の原点を見出して、目から鱗を落とされることでしょう。

 感動されるでしょう。

+++++

 ではありますが、訳者がここに述べてきたような神学的背景を知れば、理解は一層深まる。

 面白さも感動も倍加する。

   ~こう訳者は考えました。

 そこで、バプテストを敢えてバプテスト自由吟味者と訳出しました。





<片肺飛行の情報知識>

 権力をもつ側が、対抗する優れた思想を封じ込める有力な方法は、その思想の普及を徹底的に妨害し、同時に、自己の思想を大々的に広告し続けることです。

 聖句自由吟味活動は、まさにその封じ込め政策に完璧に押さえ込まれてきました。

 カトリック教団によって執拗になされた、人類史上に比類無きその政策によって、実に千二百年の長きにわたって情報封殺をされ続けてきました。

+++

 その結果、人類はいまだに、歴史教科書や一般専門書にもその活動記録を見ることができません。

 それらに書かれているキリスト教の諸教派は、みな、教理統一教会であるカトリック教会から派生したものばかりです。

 ルター派教会は、宗教改革でおなじみのマルティン・ルターが、「教皇という存在のない教会」を構想して実現した教理統一教会です。

 長老派教会は、信徒の代表者(長老)が教会を運営する方式の教理統一教会です。

 これは、ルターと並んで名を残している宗教改革者、カルバンの構想したものです。

 その他、教科書に出てくる教派は、みな、教理統一方式の教会だけです。

 こういう風に二つの大潮流の一方に目をふさいだ、片肺飛行の情報だけが、いまだに大手を振って人類社会をのし歩いているのは、正直言って驚くべきことです。

 読者がこれを驚かないというのならば、そのこと自体が訳者には驚異的な光景です。

 本書はその黙殺された潮流の方の、キリスト教活動を描くものです。

 それ故訳者は異例の事前知識を書きました。

++++

 原著書は薄い小冊子です。

 そこには深淵な内容が、短くコンパクトに描かれています。

 読者には、読み辛いところも多々あるでしょう。

 反復してお読み下さることを希望いたします。





<米国南部での呼称>


 最後に、若干の情報提供を致しておきましょう。

 米国サザンバプテスト地域では、個人の聖書自由解釈を許す思想を、バイブリシズム(Biblicism)と称しています。

 一般の辞書にはない言葉ですが、バイブリック(Biblic)は「聖書の中の具体的な語句(聖句)に則って」問い言う意味をもっています。

 米国南部英語では、これをスクリプチュラル(Scriptural)ということも多いです。

そしてバイブリシズムの、その理論的な意味は、「聖書の解釈(教理)よりも聖句そのものを上位に置く」となります。

 日本語にしたら、聖句主義となるでしょう。

 けれども、その日本語が、聖句自由吟味主義と日本人に解されるには、まだまだ、時間がかかります。

 そこで訳者はあえて、聖句自由吟味主義としているわけです。

 重層的で複雑な話ですが、読者がその意図をくみ取って下されば、幸いです。

 ちなみに、教理主義(正統教理統一主義)の米国南部英語は、クリーダリズム(creedalism)ないしはドクトリニズム(doctrinism)です。


++++

 では、本文に入りましょう。


@@@@@@@@@@@@@@@@@@



( Vol.7 <訳者解説>6 ~クリスチャンによるクリスチャンの殺戮~   完)








コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.6 <訳者解説>5 ~二つの教会は水と油~

2016年09月11日 | バプテスト自由吟味者の道






 自由吟味教会と教理統一教会、

  ・・・この両者は、深いところで、水と油と言えるほどに相対立する性格を持っています。





【個々人に聖句解釈の自由を認める】


 自由吟味教会ではまず第一に、個人の聖書解釈を自由にしています。

個々の教会員が,聖句に直接対面しその意味を常時思案するのを許している。

+++
  
 第二に、数人のスモールグループをつくって互いに解釈を吟味し合います。

個々人が自由に吟味した後に、それを持ち寄ってつきあわせ、検討しあうのです。



 やってみるとわかりますが、実際上、基本的な論理の解釈には一致が見出されていきます。

のみならず、この一致は、グループ討議によって一層深まるのです。

これは、体験したものだけが悟れることです。

体験のない外部者は、逆の事態を想像します。

聖句解釈を自由にしたら、各々勝手な解釈に分かれ、教会はバラバラになってしまう、と思うのです。

この誤った常識は、現代においても大勢を占めています。


+++

 第三に、一般信徒と牧師など職業僧侶との間に権威の上下を認めません。

 これは「個人の聖書解釈自由」という第一原則から繋がって出てくる原理です。

もし権威の上下をつければ、教会員の聖句解釈は実質上、自由でなくなるのです。



 日本ではこの原則を「万人祭司」といったしゃれた言葉で邦訳しています。

祭司とは、カトリック教会での教職者の呼び名です。

それを使って「もし教職者である祭司が権威ある存在だというのなら、一般信徒みな祭司だ」といっているわけです。

+++

 第四に、教会の間にも権威の上下をおきません。

 これもまた、第一原則を実質上有効に機能させるために、論理上出てくる原理です。


教会は連盟を作って運営されていくことが多いです。

 その場合、所属教会に権威の上下を認めれば、上位の教会の会員の意見が、下位の教会の人の解釈より無条件に優位に立っていくことになります。

 そうなれば、第一原則~個人の聖句解釈自由~が機能しなくなってしまいます。

+++

 たとえば教会が外部に、新しい教会を開拓していくことがあります。

 こういうとき、もとの教会を母教会、新しい教会を支教会と呼んだりします。

 母教会は、支教会が建ち上がっていく過程で、資金や人材で援助するのが普通です。

 そのとき母教会の見解がなにかにつけ、支教会より上位に扱われやすい。

 だがそうなれば、連盟に属する教会の信徒の聖書自由原則はは成り立たなくなります。

 そこで、個々の教会の独立を基本的に認めます。
 
 これは各個教会独立の原理と称されます。

 これは、万人祭司原理と同じ発想の原理です。

+++

 このように、個人の聖句解釈自由という原則が実質上機能するためには、関連する他の様々な局面のあり方も規定されていきます。

 それらが全体として、聖句自由吟味運動を維持していくためのルールの体系をなしているわけです。





【教団教理以外の解釈を許さない】

 次は正統教理統一教会です。

 ここでは、一般信徒に自由な聖書解釈を赦しません。

それをさせないために、聖書を直接読むことをも禁じます。

 人間、読めば疑問を持ったり、色々考えるものだからです。

 だからもちろん、スモールグループも禁止です。

+++

 聖書吟味は、プロの職業僧侶だけが行います。

彼らが会議で合意した解釈を、教団の正統教理として、一般信徒に供給します。

 こうして、職業僧侶が上位の権威をもって信徒を導くのです。

ここでは万人祭司などとんでもない戯言となります。

+++

 一般信徒だけではない。
 
職業僧侶自身も、明確な管理階層を形成して、上下秩序ある行動をとります。

 教会においても、各地区教会は司教が管理し、司教が管理する地域の教会群はまた、大司教に管理されます。

 その頂点に教団本部があって、そこには、たとえば教皇などが最高権威をもって統率します。

 各個教会の独立? そんなものは異端の言うたわごとだ、となります。
 
  教理統一教会では、こうした原理の体系で教会を組織化し、統率のとれた教会運営をしていきます。





【学問知識の修得法でいえば】


 二つの活動方式は、現代の中での学問知識の習得方法に対比させると、また新たな側面が見えてきます。

 教理統一方式は、義務教育過程における学校教育(とりわけ日本の)に対応しています。

そこでは生徒に教科書を与え、それが正しい知識を示しているとして学ばせています。

+++

 だが実際には、教科書に載る知識は、その時期に学界で優勢になっている定説知識であるにすぎません。

 学会では、いろんな説を述べる学者がいて、各々が自説を吟味し研究を続けています。

 教理統一教会では、教会員はこの小・中学校の生徒に対応しています。


 +++++

この視点から見ると、自由吟味教会の教会員は、学会の学者に対応しています。

 個々人が自由に聖句探究をし、小グループで吟味し合うのですから。


 +++++


 「でも一般信徒は、学者のように知的に卓越してはいないのでは・・・」との思いを抱く人もいるでしょう。

だが、少なくとも神学的知識、聖句解読の知識に関してはその直感は正しくありません。

 訳者は、米国南部の神学大学院に訪問研究者として一年間籍を置き、その一方で、三つの自由吟味教会に出入りさせてもらいました。

 大学院ではもちろん聖句解読の講義があります。

他方、聖句吟味教会では、熟達した教会員に神学講義を毎週,夕方にさせていました。

 教会員は、それに自由に出席して議論するわけです。

+++

 その教会での講義は、神学大学院の教授の講義に少しも遜色のないものでした。

 素人だろうと、有給の職業研究者であろうと、聖書解読においては優劣のない状態になることを、訳者はこの目で確認しました。

 おそらく、他の知識分野に於いても、ことは同じでしょう。


+++++

 ともあれ以上でわかるように、自由吟味方式の教会と教理統一方式の教会とでは、その活動状態は水と油になります。

 前者が後者に吸収併合されることなど、あり得ないのです。





@@@@@@@@@@@@@

 余談です。

 近代国家の政治運営法としてとられている民主制度は、この自由吟味制度を母体にして出来ているものです。

 そこでは言論の自由、個人の思想信条の自由などの原理がセットとして守られています。

 本書はそれらが、この自由吟味主義の土壌に育ち開いた花であることをも明かしていきます。

 その意味でも、自由吟味活動を黙殺しないキリスト教史の知識を持つのは、大切なことなのです。


@@@@@@@@@@@@@





(Vol.6 <訳者解説>5 ~二つの教会は水と油~    完)








 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.5 <訳者解説>4 ~教理統一教会、ローマ国教に~

2016年09月11日 | バプテスト自由吟味者の道





【信徒の教会生活は楽になる】

  教理統一教会では、信徒の教会生活はとても楽なものになりました。

 そもそも、聖書の中の言葉(聖句)の解釈をあれこれ思案するという仕事が全くありません。

 日曜礼拝に出ていればいい。
 
 諸事はみなプロがお膳立てしてくれています。

 信徒は日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくるだけです。

 日常生活でも、教会は結婚式や葬式も厳粛に、かつ、手慣れた技でやってくれます。


+++

 こういう教会は、大衆にとってとても参加しやすいものです。

 教会側にとっても、この方式は、一度に多数の信徒をさばけるマスプロ方式でもありました。

 信徒はますます増加し、献金総額も膨大になった。

 教理統一教会は大教会になっていきました。





【後に「カトリック」の名を冠す】

 この教会は後に自らをカトリック教会と称するようになっていきます。

  カトリックはラテン語で「普遍的」という意味を持っています。

 自分たちの方式の教会こそが、世界が従うべき普遍的な教会だと自称していくわけです。


 人間集団がこうなっていくのは、世の常でもあります。

+++

 始めに大衆信徒の世話を担当した指導者たちは、そんな意識はさらさらなかったでしょう。

 彼らには、現実の必要への、当座の便法的対応を積み重ねているという自覚がありました。

+++


 けれども、この教会は大規模化するにつれて、新しい指導者(職業僧侶となるべき人々)を、育成せねばならなくなりました。


 そこで神学校を設立して、若い神学生を養成していきますが、そこでは、教会の統一教理から教え始めることになっていきます。

この教理が唯一正統なものと、教えるでしょう。

そういう理念の下で、諸教科もまた教えられることになります。


+++

 そうなると、若き神学生はもうその理念世界しか知らない教職者に育ちます。

聖句自由吟味方式など全く体験なしの僧侶に。

こうして、神学校で教わる正統教理こそが、普遍的な聖書解釈だと信じて疑わない僧侶が再生産されていきます。

 こういうのはもう、誰もが歴史の中でやらかす、避けられない動向なのですね。

人間の限界です。

その結果、彼らはまた、自由吟味活動者を「異端!」として攻撃する僧侶にもなっていきました。






【カトリック教会、ローマ帝国の唯一国教に】

 このカトリック教会が、紆余曲折を経てローマ帝国の唯一国教になります。

 その過程は省略しますが、ともあれ、国教となれば、僧侶は国家宗教の管理者、統率者にもなります。

軍隊などの国家機関を使うことが出来る権力者ともなっています。

+++

 当時、聖句自由吟味者は、依然として膨大な数がいました。

なにせ、キリスト教会は、最初の100年間はこの方式だけでやってきたのですから。

 彼らは、その活動の性格上、スモールグループの連携体として、草の根的に存続していました。

+++

 国教となった教理統一教会は、自由吟味者に自分たちの教会への合流を呼びかけました。

自分たちの方式こそが「普遍的」だと信じていますから。

 だが、自由吟味者は、服従しませんでした。

 これら二つの教会は、その活動方式も、それによって出来る体質も、水と油そのものだったからです。

+++

訳書本文に入る前に、これについて少し具体的に述べておきましょう。

訳者も、早く著書本文に入りたくてうずうずしてはいるのですけれども。



( Vol.5 <訳者解説>4 ~教理統一教会、ローマ国教に~     完)









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.4 <訳者解説>3 ~様々な霊感補填と管理階層組織~

2016年09月09日 | バプテスト自由吟味者の道





【霊的感銘を補填する】

 教理統一方式に話を戻します。

 ここでは信徒(教会員)は、教団が正統だとする聖書の解釈を与えられます。

 信徒は聖句探求を全くしません。

 すると、聖句の奥義の発見をしたときの「真理を見出した!」という霊的感動は得られません。

 この霊感の充足不全に対して、担当指導者は、様々な演出やサービスで補填をしました。




【荘厳な礼拝儀式】

 その方策の代表は、荘厳な雰囲気での儀式です。

 指導者たちは、日曜日に厳粛な礼拝儀式を開催して大衆信徒を敬虔な気分にしてあげました。
 礼拝には壮麗な式服で登場してあげました。

 献金でもって壮大な礼拝堂(聖堂)の建設もしました。

 音楽は霊感を開く効果を持つので、訓練された聖歌隊に賛美歌の合唱もさせました。

 指導者はこうした礼拝儀式を毎週準備し実施しました。




【週日にも儀式サービス】

彼らは週日にも、一般信徒の日常生活の折々に適した神秘感ある儀式サービスを提供しました。

 近親者が死んだら葬送の儀式をし、結婚には結婚式をし、子供が生まれたら祝福の儀式をしてあげました。

 信徒はその時々にあらたまった霊的な気持ちなることができました。

  +++

 指導者はまた、信徒を規律で縛ってあげました。

 聖書にある律法(人間が守るべき、と与えられた法)を援用してそれを行いました。

 規律は宗教的感触をも与えるのです。

 荘厳な演出と適度な規律、教理統一教会は、その二つで「真理に触れた!」という実感の欠如を補いました。






【指導者需要が急増し職業僧侶が出現】

 教会発足当時の指導者は、自発的奉仕のボランティアでした。

 奉仕への自発的謝礼はありましたが、制度化された報酬(給与)はうけていなかった。

 だが、教理統一方式を採ると、教会指導者の仕事は激増しました。


+++

 聖書のわかりやすい要約を合意し合って作っていくのは大仕事でした。

 荘厳な礼拝儀式を、毎日曜毎に挙行できるよう準備するのも大変でした。

 週日に、信徒に様々な儀式サービスを提供するのも、骨の折れる仕事でした。

+++

 このような業務をボランティア奉仕者だけでこなしていくのは不可能でした。

 かくして教理統一教会では、指導業務に専念する職業僧侶の育成に進まねばならなくなりました。


+++++++

 職業として専念すると、僧侶の業務能力は洗練され、多様化していきます。

 教会堂設計に優れたものも、音楽編成能力に卓越したものも現れました。

 神学(聖書解釈学)能力に秀でた者は、神学校設立に注力し、後継僧侶を養成しました。




【階層管理組織で統率することが必要になる】

 教理統一方式の教会には、もう一つ課題が生まれました。

  拡大する教会を、一体性を維持しつつ運営していくことがそれでした。

  大衆信徒には、自由吟味者たちのように世界理念を深く共有しあうことがありませんでした。

 だから自発的に一体化する力が弱く、指導者の方から統率する力を加えつつ運営する必要がありました。

 そのためには多数化していく僧侶自身が、整然と組織的に仕事をしていなければなりません。

+++

 これには管理階層を形成するのが有効なのは世の常です。

彼らは自らピラミッド型組織を形成しました。

そして、その命令系統の中に、信徒を組み込んで統率しました。




【司祭、司教、大司教】

 職業指導者は司祭、司教、大司教という職位をつくりました。

+++

  司祭の職務は、各地の教会の礼拝や聖餐の儀式を執り行うことです。

 聖餐とは、イエスの肉と血を記念するため、パンと葡萄酒を口にする行為です。

イエスは教会ではそれをするよう、命じていきました。

+++

 司祭の職位は会社でいえば、課長とか係長に相当するでしょう。

+++

 司教の職務は、各地の教会やそこの司祭たちを地区ごとにまとめて統率することでした。

 これは会社や役所ではでは部長です。

+++

 大司教の職務は、司教の管理する地区をさらに複数まとめて管理統率することでした。

 これは重役ですね。

+++

 教団全体に関わる事柄は、当初は大司教の会議で決めていました。

 だが後年、教皇(法王ともいう)という最終決定の絶対的権限を登場させます。

 これは社長です。

 これによって、大司教の会議で意見が分かれて膠着状態が続くようなことがなくなりました。



(Vol.4 <訳者解説>3 ~様々な霊感補填と管理階層組織~    完)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする