<一般宗教は縛ってくれるもの>
束縛感といいましたが、宗教一般は概して、人を縛る側面を比較的強く持つものです。どうしてかといいますと、多くの宗教は人間の知恵が大きく働いて造られるものです。制作の動機は主として、人に間違いの少ない生活を送らせようというところにあります。だから、間違いを犯さないように、と、縛ってあげることになるのです。
この縛りは当初は善意から出るものです。けれどもその縛りが後に、教祖の支配欲につながっていくこともよくあります。信徒が受け入れたら、受け入れた束縛感を自己の目的のために操作し始めるのですね。その結果、社会問題を起こすことも多いのです。
この点、聖書は例外的です。これは多くの霊感者(預言者といいます)が創造主から受けた啓示を言葉にしたものからなっている、と自ら言っています。実際、そのスタンスが一貫していて、誰か特定の人が“人間の知恵”を働かせて書いた、という色彩はきわめて薄いです。
<多様な解釈余地が生み出す二つの道>
ところが、その“啓示を記述した”という点が、また新たな特質をもたらします。聖書の啓示はとりわけ、深淵、広大な内容を含んでいまして、その解釈も多様に出来るようになっているのです。
そこで、こういう教典に対するのには、二つの行き方が出てきます。
第一は、信徒個々人が教典の言葉に直接触れ、自由に解釈するのを許す、という行き方です。こうすると、集団としての統率をとるのは容易ではなくなりますが、信徒個々人が誰か他者に支配されるという危険はなくなります。
第二は、専門家が一般信徒に正統考える唯一の解釈を供給する、という行き方です。ここに第四の迷路が潜んでいます。これは、世界のあちこちに広く現れやすい迷路です。
人間というものは「色々解釈の余地があるといっても、創主の言葉ならば、真理は一つであり、正しい解釈が一つあるはず」と考えるものだからです。そして、そこから「それを見出すのが一般信徒には困難であるならば、賢人の知恵に期待しよう」という考えが出てきます。
その賢人は、具体的には、神父、牧師、神学者などの僧職者ということになります。彼等に別格の権威を与えて、その結論として出してくる解釈に権威を感じて従おう、という行き方です。
そうすると、信徒は、その解釈を、何故正統となるかの理由がよくわからないままで、受け入れることになります。これは精神的には不安定な状態です。正統と言うことに確信がもてませんから。そこで、教えられた解釈を正統とする意識が揺れないように、安定的に保つために、他の解釈に耳を開かなくなっていきます。
これは、自己の教師、教会、教派にしがみつくことにつながっています。この状態は、自由ではありません。それと正反対の、知的束縛、奴隷化の方向に向かっている状態です。
実は、日本のクリスチャンの99%がこれに陥っているというのが春平太の印象です。程度の差はあります。が、多かれ少なかれそうなっています。
その大きな原因は、牧師などの教職者になる人のほとんどが、キリスト教は精神解放の宗教であることを知らないままでなっていることにある、と鹿嶋はみています。
<数少ない自由の道>
教職者が正統な解釈を与えてくれることを期待すると、どうして束縛される道にはいるのでしょうか。それは、ここでまた、“人間の知恵”が大きく介入することになるからだと思われます。
こうした迷路に踏み込むのを避けるには、二つの原理を明確に自覚し、守ることが必要です。その一つは「個々人の聖書解釈自由の原理」です。今ひとつは「信徒はすなわち説教者(Priesthood of all believers)の原理」です。
前者は、解釈自由をそのままうたったものです。しかし、こういう原理を言っているだけでは弱いところがあります。やはりそれは、制度的に支えられる発用があります。それを具体的に支えるのが後者の「万人説教者」とでも言うべき原理です。
特定の人間に、特別な地位(知的、霊的)を認めない。これを制度化し、かつ、個々人がその意味するところをよく自覚することが大切です。
このなかで、各人が、聖書の言葉そのものに当たり、考え続け、探求し続けます。この行き方をとる人々のあいだでは、数人から10人くらいのスモールグループが活用されることが多いです。それは個々人の探求の効率を高めるために、小グループで意見を出し合うのがきわめて効果的だからです。
少し進んだ話になりますが、その際、聖霊の助けをも祈り求めるます。が、ともあれ、このような道を進むときにのみ、聖書は人間に心の自由を与え続けるのです。そして、こういう教典は決して多くはありません。
聖書を、解釈自由の立場で探求する。この道を進まなければ、人間は、所詮、人間の造った縛りに縛られることになるでしょう。
(キリスト教に潜む迷路・完)
束縛感といいましたが、宗教一般は概して、人を縛る側面を比較的強く持つものです。どうしてかといいますと、多くの宗教は人間の知恵が大きく働いて造られるものです。制作の動機は主として、人に間違いの少ない生活を送らせようというところにあります。だから、間違いを犯さないように、と、縛ってあげることになるのです。
この縛りは当初は善意から出るものです。けれどもその縛りが後に、教祖の支配欲につながっていくこともよくあります。信徒が受け入れたら、受け入れた束縛感を自己の目的のために操作し始めるのですね。その結果、社会問題を起こすことも多いのです。
この点、聖書は例外的です。これは多くの霊感者(預言者といいます)が創造主から受けた啓示を言葉にしたものからなっている、と自ら言っています。実際、そのスタンスが一貫していて、誰か特定の人が“人間の知恵”を働かせて書いた、という色彩はきわめて薄いです。
<多様な解釈余地が生み出す二つの道>
ところが、その“啓示を記述した”という点が、また新たな特質をもたらします。聖書の啓示はとりわけ、深淵、広大な内容を含んでいまして、その解釈も多様に出来るようになっているのです。
そこで、こういう教典に対するのには、二つの行き方が出てきます。
第一は、信徒個々人が教典の言葉に直接触れ、自由に解釈するのを許す、という行き方です。こうすると、集団としての統率をとるのは容易ではなくなりますが、信徒個々人が誰か他者に支配されるという危険はなくなります。
第二は、専門家が一般信徒に正統考える唯一の解釈を供給する、という行き方です。ここに第四の迷路が潜んでいます。これは、世界のあちこちに広く現れやすい迷路です。
人間というものは「色々解釈の余地があるといっても、創主の言葉ならば、真理は一つであり、正しい解釈が一つあるはず」と考えるものだからです。そして、そこから「それを見出すのが一般信徒には困難であるならば、賢人の知恵に期待しよう」という考えが出てきます。
その賢人は、具体的には、神父、牧師、神学者などの僧職者ということになります。彼等に別格の権威を与えて、その結論として出してくる解釈に権威を感じて従おう、という行き方です。
そうすると、信徒は、その解釈を、何故正統となるかの理由がよくわからないままで、受け入れることになります。これは精神的には不安定な状態です。正統と言うことに確信がもてませんから。そこで、教えられた解釈を正統とする意識が揺れないように、安定的に保つために、他の解釈に耳を開かなくなっていきます。
これは、自己の教師、教会、教派にしがみつくことにつながっています。この状態は、自由ではありません。それと正反対の、知的束縛、奴隷化の方向に向かっている状態です。
実は、日本のクリスチャンの99%がこれに陥っているというのが春平太の印象です。程度の差はあります。が、多かれ少なかれそうなっています。
その大きな原因は、牧師などの教職者になる人のほとんどが、キリスト教は精神解放の宗教であることを知らないままでなっていることにある、と鹿嶋はみています。
<数少ない自由の道>
教職者が正統な解釈を与えてくれることを期待すると、どうして束縛される道にはいるのでしょうか。それは、ここでまた、“人間の知恵”が大きく介入することになるからだと思われます。
こうした迷路に踏み込むのを避けるには、二つの原理を明確に自覚し、守ることが必要です。その一つは「個々人の聖書解釈自由の原理」です。今ひとつは「信徒はすなわち説教者(Priesthood of all believers)の原理」です。
前者は、解釈自由をそのままうたったものです。しかし、こういう原理を言っているだけでは弱いところがあります。やはりそれは、制度的に支えられる発用があります。それを具体的に支えるのが後者の「万人説教者」とでも言うべき原理です。
特定の人間に、特別な地位(知的、霊的)を認めない。これを制度化し、かつ、個々人がその意味するところをよく自覚することが大切です。
このなかで、各人が、聖書の言葉そのものに当たり、考え続け、探求し続けます。この行き方をとる人々のあいだでは、数人から10人くらいのスモールグループが活用されることが多いです。それは個々人の探求の効率を高めるために、小グループで意見を出し合うのがきわめて効果的だからです。
少し進んだ話になりますが、その際、聖霊の助けをも祈り求めるます。が、ともあれ、このような道を進むときにのみ、聖書は人間に心の自由を与え続けるのです。そして、こういう教典は決して多くはありません。
聖書を、解釈自由の立場で探求する。この道を進まなければ、人間は、所詮、人間の造った縛りに縛られることになるでしょう。
(キリスト教に潜む迷路・完)