鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

キリスト教に潜む迷路・4・最終回

2005年01月03日 | 聖書思想の基礎知識
<一般宗教は縛ってくれるもの>

 束縛感といいましたが、宗教一般は概して、人を縛る側面を比較的強く持つものです。どうしてかといいますと、多くの宗教は人間の知恵が大きく働いて造られるものです。制作の動機は主として、人に間違いの少ない生活を送らせようというところにあります。だから、間違いを犯さないように、と、縛ってあげることになるのです。

 この縛りは当初は善意から出るものです。けれどもその縛りが後に、教祖の支配欲につながっていくこともよくあります。信徒が受け入れたら、受け入れた束縛感を自己の目的のために操作し始めるのですね。その結果、社会問題を起こすことも多いのです。

 この点、聖書は例外的です。これは多くの霊感者(預言者といいます)が創造主から受けた啓示を言葉にしたものからなっている、と自ら言っています。実際、そのスタンスが一貫していて、誰か特定の人が“人間の知恵”を働かせて書いた、という色彩はきわめて薄いです。

<多様な解釈余地が生み出す二つの道>

 ところが、その“啓示を記述した”という点が、また新たな特質をもたらします。聖書の啓示はとりわけ、深淵、広大な内容を含んでいまして、その解釈も多様に出来るようになっているのです。

 そこで、こういう教典に対するのには、二つの行き方が出てきます。

 第一は、信徒個々人が教典の言葉に直接触れ、自由に解釈するのを許す、という行き方です。こうすると、集団としての統率をとるのは容易ではなくなりますが、信徒個々人が誰か他者に支配されるという危険はなくなります。

 第二は、専門家が一般信徒に正統考える唯一の解釈を供給する、という行き方です。ここに第四の迷路が潜んでいます。これは、世界のあちこちに広く現れやすい迷路です。

 人間というものは「色々解釈の余地があるといっても、創主の言葉ならば、真理は一つであり、正しい解釈が一つあるはず」と考えるものだからです。そして、そこから「それを見出すのが一般信徒には困難であるならば、賢人の知恵に期待しよう」という考えが出てきます。

 その賢人は、具体的には、神父、牧師、神学者などの僧職者ということになります。彼等に別格の権威を与えて、その結論として出してくる解釈に権威を感じて従おう、という行き方です。

 そうすると、信徒は、その解釈を、何故正統となるかの理由がよくわからないままで、受け入れることになります。これは精神的には不安定な状態です。正統と言うことに確信がもてませんから。そこで、教えられた解釈を正統とする意識が揺れないように、安定的に保つために、他の解釈に耳を開かなくなっていきます。

 これは、自己の教師、教会、教派にしがみつくことにつながっています。この状態は、自由ではありません。それと正反対の、知的束縛、奴隷化の方向に向かっている状態です。

 実は、日本のクリスチャンの99%がこれに陥っているというのが春平太の印象です。程度の差はあります。が、多かれ少なかれそうなっています。

 その大きな原因は、牧師などの教職者になる人のほとんどが、キリスト教は精神解放の宗教であることを知らないままでなっていることにある、と鹿嶋はみています。

<数少ない自由の道>

 教職者が正統な解釈を与えてくれることを期待すると、どうして束縛される道にはいるのでしょうか。それは、ここでまた、“人間の知恵”が大きく介入することになるからだと思われます。

 こうした迷路に踏み込むのを避けるには、二つの原理を明確に自覚し、守ることが必要です。その一つは「個々人の聖書解釈自由の原理」です。今ひとつは「信徒はすなわち説教者(Priesthood of all believers)の原理」です。

 前者は、解釈自由をそのままうたったものです。しかし、こういう原理を言っているだけでは弱いところがあります。やはりそれは、制度的に支えられる発用があります。それを具体的に支えるのが後者の「万人説教者」とでも言うべき原理です。

 特定の人間に、特別な地位(知的、霊的)を認めない。これを制度化し、かつ、個々人がその意味するところをよく自覚することが大切です。

 このなかで、各人が、聖書の言葉そのものに当たり、考え続け、探求し続けます。この行き方をとる人々のあいだでは、数人から10人くらいのスモールグループが活用されることが多いです。それは個々人の探求の効率を高めるために、小グループで意見を出し合うのがきわめて効果的だからです。

 少し進んだ話になりますが、その際、聖霊の助けをも祈り求めるます。が、ともあれ、このような道を進むときにのみ、聖書は人間に心の自由を与え続けるのです。そして、こういう教典は決して多くはありません。

 聖書を、解釈自由の立場で探求する。この道を進まなければ、人間は、所詮、人間の造った縛りに縛られることになるでしょう。

(キリスト教に潜む迷路・完)
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キリスト教に潜む迷路・3

2005年01月03日 | 聖書思想の基礎知識
<創主王国のルールと世のルール>

 我々の住むこの世の世界、地上の世界には様々なルールがありますよね。法律とか、道徳とか。ところが創主の王国には、王国のルールがあると、聖書は教えています。

 そして、両者の関係はどうなっているかと言いますと、この「世のルール」の上位に「王国のルール」がある、という・・・これが聖書の思想です。その背景には、宇宙も基本的には天の王国の一部だということがあります。またこの世(宇宙)はいずれ消滅する、天の王国は永遠に存続する、という認識もあります。永遠な存在の法が詰まるところは重要だというわけです。

 だったら、「王国の法」を優先的に守ればいいということになりそうですが、ここに若干ややこしいところが出てきます。

 「天の王国の法」と「世の法」とには重なったところもあるのです。それが事態の明快な理解に障害を与えています。具体的に見てみましょう。人類に創主から最初に示される「天の法」は十戒です。それは次のような十の戒めとして与えられています。

1.創主以外のものを拝んではならない。
2.偶像を造ってはならない。
3.創主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を守れ。
5.父母を敬え。
6.殺すな。
7.姦淫するな。
8.盗むな。
9.偽証をするな。
10.他人のものを欲しがるな。

 一見してわかるでしょうが、これらには、この世のルールと重なったように見えるものもあります。殺すな、盗むな、などは、反すればこの世の法律でも道徳でも罰せられるでしょう。父母を敬え、姦淫するな、などはこの世の道徳でも言われるところです。

 しかし、十戒におけるこれらは、天の王国のものであり、天からの要求であります。それには相応の「王国の理由」があるでしょう。ですから、重なったところも、そういう“天の法の一部”として理解しておくのが道理となります。

<道徳教になる構造>

 ところがここで、天の王国、kingdom of heavenを明確に意識しておりませんと、迷路にはまります。この重なったところのルールだけを、選択的に重視するようになるのです。そして、重ならないところは、実際上あまり意識の中に入れない。それでいて、キリスト教をしているようなつもりになりがちとなります。

 こうなると、重なったところは、もう、天の法としてではなく、世の道徳として優れて意識するようになっていきます。つまり、従来から意識にあったこの世の道徳を守らないと、実は天の神様も罰を与える、と意識する。こういういう風に、世の道徳をより強く意識するだけのことになるのですね。

 こうなると、キリスト教は、ほとんど道徳教になってきます。ここに入ってしまうと人は、日常生活の中で、出来るだけ忘れようとして暮らしていた倫理観、罪悪感に強く責められるだけになります。打開策も与えられないで・・・。只「罪委・罪・罪・・・」と責められて・・。

 これでは、束縛感だけを強く与えられる宗教になります。宗教はそもそも、この世をよりよく生きるためのものではなかったか。それなら、わざわざこんなことになる必要はない!・・・こうして、もうキリスト教なんてや~めた、となります。これが求道者が陥りやすい第三の迷路です。
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キリスト教に潜む迷路・2

2005年01月01日 | 聖書思想の基礎知識


<全能者が王として統治する世界>

 天国は王国です。ここは人民が政治をする民主国と違って、王が統治します。国の秩序を造る法も王が作ります。造ると言うより、王の口から出た言葉がそのまま法になる、といった方がいいでしょう。国民は、それに従って生活するのです。

こういわれれると、そこは独裁国で苦痛が多そうだとイメージする人も多いでしょう。それは人間の王様を想定して考えているからです。

 認識能力・判断能力・愛情能力に限りがある人間が、独りで全権を握ってやれば人民に多大な苦痛を与えることになります。

 しかし、創主は全知全能で、人民の幸福を願う愛情にも限りがない超自然的な存在です。そういう存在が王として統治する世界は、人間が民主主義で治める世界など比較にもならない、完全幸福の世界です。

 聖書は、そういう王国世界が、宇宙を超えた広大な空間としてあると教えています。その想像を絶する豊かさ、溢れるばかりの富、正義の貫徹・・・そしてこれらにふんだんにあずかる民になる道を、教えようとしている本です。


<信仰は信頼(faith)>

 キリスト教でも、信仰という言葉がよく出てきます。英語のfaithの邦訳ですが、あまりいい訳ではありませんね。むしろ「信頼」の方がいいです。

 なぜなら、これは、創主の王国という純イメージ世界に関するリアリティ感、実在感にかかわる言葉だからです。人間には不思議な能力が与えられています。自分の意識の中のイメージ世界に関しては、それが物理的イメージ世界、純イメージ世界であるかをとわず、一定のリアリティ感を持つことが出来ます。

 リアリティ感、すなわち、「これは本当らしい、という感覚」です。聖書では、そこに紹介されている創主の王国が「本物らしい」と感じられていく状態を、信頼(faith)のある状態といいます。言ってることに信頼を抱いているわけですからね。

 これを世上「信仰ある状態」と言っています。しかし、信頼した上に「仰ぐ」までは必要ないのです。必要条件は信頼していることのみ。「仰ぐ」のはおまけです。こういうおまけのニュアンスを入れるから、紛らわしくなり、聖書論理を理解する障害になるのです。

 世に信仰と称されているところの心理の実体は、信頼です。言われていること、教えられていることへのへの信頼感。

 そして大事なことがあります。信頼感は自然に生じてくるものだということです。「信じなさいっ!信じなさいっ!」と命令してもどうなるものでもない。「信じますっ!」と絶叫してもどうなるものでもありません。

 ところが、聖書を学ぶと、あるいはその話を聞くと、もう信じなければ悪いような気持ちになる人が多いです。信じる義務が伴うように思ってしまう。

 さらに、信じなければ罰せられる、宗教の話は怖い、とそれがエスカレートします。そうして最初から脇道に逃げ込んでしまう。これが第二の迷路です。これ、日本にとても多いです。
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キリスト教に潜む迷路・1

2005年01月01日 | 聖書思想の基礎知識
聖書の教えを探求しようとする人を、キリスト教活動では求道者といいます。通常この言葉は、洗礼を受ける前の人に対して用いられます。しかし、洗礼を受けた人でも、聖書に基づいてその教えを探求しようとしている限り、やはり求道者です。

 そして、人が聖書探求者の姿勢を維持し続けている限り、その人は精神の自由を得ることが出来ています。それをやめたときには、たとえクリスチャンであっても、自由を失い、精神的束縛の道に入ります。

 春平太は、それをキリスト教の中に潜んでいる迷路と、捉えています。人が宗教を学ぼうとするのは多くの場合、何らかの意味で自由を得たいからでしょう。病からの癒しもそうです。それは肉体的苦痛からの自由です。

 恐れから逃れたい、というのもそうでしょう。それは恐怖による精神的束縛からの自由です。キリスト教の場合、それは聖書探求者のスタンス・姿勢を維持することによってのみ得られるのです。

 鹿嶋春平太チャペルでは、この自由を重視します。そのために、あらかじめ、自由を失う迷路、束縛への迷路を明るみに出しておこうと思います。聖書の「基礎知識」というには、若干理屈っぽすぎるきらいはあるのですが、やはりそれは基礎です。

 これをしておきませんと、キリスト教をしていても、人は迷路の中に迷い込むのです。「正しい知識のないことが、不幸の源」です。やっておきましょう。

<聖書が教える中核は創主の王国の有様>

 キリスト教の教典は聖書です。この宗教に関心を持つものは、まずは聖書の言っていることを探求することになります。

 聖書には実にいろんなことが書かれています。しかし、その中核は「創造主の王国」とはどういうものか、の知識です。要するに、これを知れば、他の問題はみな解けてくるのです。

 創造主の王国とは、別名、天国とも呼ばれています。しかし、正確にはKingdom of God, すなわち、創主の王国です。これはGod's Kingdom of Heavenと言われることもあります。「天の創主王国」ですね。

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 春平太は、この「聖書思想の基礎知識」のカテゴリーの最初に、聖書は「自分以外の万物を作った創造主がいる、という大前提で書かれている本」という旨のことを言いました。このことを明確につかんで読まないと、聖書の思想は漠然としか理解できません。

 聖書の最初に収録されている書物は「創世記」です。その冒頭に、「はじめに創主が天と地とを創造した」と書かれています。創造主の存在を前提としていない人には、この聖句はナンセンス、意味をなさなくなります。

 かくのごとく、創主の存在を明確に前提する。これが第一です。

 第二は、「その創主が自ら王として統治する王国を持っている」ということです。これが今回の話に関連しています。ここでは王なる創造主の意図や正義が貫徹しています。我々の住む地上では、そうでないところが多いのですが、創主の王国ではそれが貫徹しているという思想なのです。

 我々の住む地上の世界とは別に、そういう創主の王国が存在する。これも明確に自覚しておかないと、聖書の思想理解は読み進めるにつれて漠然としてきます。

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 そこでまず大切なのは、聖書ではその天国はどこにあり、どうなっているか、我々の住む地球とはどういう位置関係にあるかーーーです。春平太はそれを図式で示しています。「KINGDOM原理からの聖書解読」の中の、「聖書の空間理念」のこうをご覧下さい。そこに図をクリックすると拡大して見ることが出来ます。

 これが示しますように、聖書の空間理念では、我々の住む宇宙は、創主の王国(天国)の中の一部にあります。そして、その宇宙の中に地球があります。

<物理的イメージ世界と純イメージ世界>

 創主の王国を我々は五感でもって経験的に認識することは出来ません。けれども、人間には想像力(imagination)という、驚くべき能力が与えられています。それでもって我々は経験的素材のないものについてもイメージを描くことが出来るのです。

 もちろんわれわれは、経験対象のあるものについてもイメージを描けます。山とか海とか木とか動物などは物質です。こういう物的なものは、五感で認識することが出来ます。

 山はたとえば五感覚のうちの視覚でもって捉えられます。その映像が眼球の網膜に映ります。それをもとに、我々は経験的な認識をいたします。

 しかし、我々の意識の中には、網膜に映ったそのままのものが留まるのではありません。我々はそれを意識の中で加工してイメージを造っています。たとえば愛する人に関しては、その人の嫌いなところは取り除き、好ましいところだけを取り出してイメージを造ったりしています。

 反対に、憎い人に関しては、その憎々しい部分だけを取り出してその人のイメージを造っているかも知れません。が、とにかく、物理的な対象に関しても、我々は結局一つのイメージ世界を“造って”認識しているのです。

 その際、イメージ世界を二つに分けておくと、後々の思考の助けになります。その一つは、今述べたような、物理的な認識対象があって、五感覚で捉えたそれを踏まえて造っているイメージ世界です。これを春平太は「物理的イメージ世界」と名付けています。

 もう一つは、物理的な認識対象を持っていないイメージの世界ですね。純粋にイメージだけでもって形成している世界。これを「純イメージ世界」と呼びましょう。

 先ほど述べた「創主の王国」のに関するイメージ世界はこれに属しています。 私たちは、聖書の言葉を頼りにこれに関するイメージを描きます。聖書が教える創主の王国は、われわれ人間にとっては純イメージ世界、ファンタジーの世界です。

<はじめはファンタジーから>

 聖書を学んでみようという人は、このことをまず明確に自覚するのがいいでしょう。聖書のお話は、はじめは基本的にファンタジーの世界、純イメージ世界なのです。

 これは物理的現実に対応した世界、物理的イメージ世界ではありません。だから、それが物理的現実に対応しているかどうか、その話が現実妥当性があるかどうか、などと検討するのはナンセンス、意味がない、的はずれということです。

 この純イメージ世界が、実は世界の現実に対応している・・・という感覚(これをリアリティ感といいます)、これが心に芽生えるかどうかは、後の問題です。そこに行くには、聖書の述べているところを沢山学んで、イメージを詳細にしていかなければなりません。

 なのに、最初の段階から、少し話を聞いて「そんなことあり得ないよ」とか「馬鹿馬鹿しい・・・」などと思うのは、ホントにばかばかしいことです。

 でも、そのケースは多いのです。こうして、もっと現実的な話を・・・、と言う方向に向かっていく。これが第一の迷路です。ファンタジーの世界の話、と悟って読み、また聞いていけばいいのです。

まだあります。
 次回は、第二の迷路をお知らせします。
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聖書メッセージは膨大な情報量をもつ

2004年11月14日 | 聖書思想の基礎知識
前回の続きです。聖書は、創主が存在すること、それがどのような存在かと言うこと、人間とどうかかわっているかと言うこと、などについての膨大な情報をもっています。その膨大さは、ひとつには、それが預言者の霊感によって受信されたものを含めていることから来ています。

 たとえば、創造主がいるという前提で、人間が体験などを元に論理的に様々に思考したとします。その成果を集大成した本を考えましょう。哲学者、倫理家、詩人、小説家、歴史家などが知恵をこらして書いたものを集めたとします。それでも、聖書に比べたら、はるかに簡素で範囲・内容ともに乏しいものとなるでしょう。見えない世界の事に関しては、人間の知的・論理的思考には限度があるのです。

 その状況のなかに聖書という書物があるわけです。そこには、論理的思考をする前に、霊感によってメッセージを受信した(と信じる)ものが言葉で記録されています。とにかく、そういうものが、人類社会には存在しているわけです。

 そしてその内容は、結果的に深さにおいても、広さにおいても膨大なものとなっています。この2000年間にわたって、世界の数多くの神(聖書)学校や神父、牧師、信徒などによって、その内容解読の努力が積み重ねてこられましたが、最終的解明に至ってはいません。今も、探求は果てしなく続いています。

 けれども、その過程で、解明されてきた知恵だけみても、その豊かさに計り知れないものがあります。それを概観して、見えない世界の真理をこの書物の中に見出そう、とする人が出るのは不思議ではありません。そして、見えない世界を探求する情報源として、聖書以上のものは少ないと思われます。
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ゴッドは神でなく創主(創造主)

2004年11月14日 | 聖書思想の基礎知識
 前回、聖書は、唯一者たる創造主がいるという有創造主論に立っている、といいました。創造主は、英語でゴッド、ヘブライ語でエロヒム、韓国語ではハナニムです。

 日本語の神は、創造主に限った意味を持っておりませんので、ゴッドの訳語としては甚だしく不適格です。理解の正確さのために、春平太はこれをゴッド、または「つくりぬし」と言うことにします。

 「つくりぬし」は漢字で書くと創造主または創主です。短い方がいいので、創主と書くことにします。そして、これは「つくりぬし」と読んだり、音節を短くしたいときには「そうしゅ」と音読みにすることもできるとしましょう。
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様々な神イメージ

2004年11月14日 | 聖書思想の基礎知識
 人間は、通常、五感覚でもって、物的な存在のみを認識することが出来ます。けれども人間はまた、宗教的存在ともいわれます。目に見えない存在である神を、いろいろイメージします。代表的なイメージの仕方は、次のようではないかと思われます。

1.無神論(物質主義)
  神なんてものはいない、存在するのは物質のみという見解です。人間の精神活動も、物的な存在である素粒子や原子、分子の作用によって起きているにすぎないと見るわけです。英語ではatheism(materialism)といいます。

2.多神論
  神はいるけれど、多種様々だよ、という見解です。ギリシャや東洋に多いです。八百万(やおよろず)の神、というのもその一種です。英語ではpolytheismです。

3.汎神論
  すべての存在が神だ、という見解で、インドに多く見られるものです。宇宙も、動物も、牛も花もみな神とみます。花とも会話できると考え、これすなわち神と会話したと意識します。英語では、pantheismといいます。

4.有創造主論
  自分以外の万物を造った神がいて、これが至高にして唯一の神である、という見解です。自分以外の「すべて」を造ったというのですから、唯一者でないと筋が通りません。二者いたら、ケンカになります。
 そしてこの神は、人間と同じように人格(神格というべきか?)をもち、知性も感情も意志も持つと考えます。
 また、この見解では、他に目に見えない霊的な存在がいるにしてもそれは被造霊(造られた霊)ということになります。英語ではtheismで、聖書はこの見解にたっている書物です。
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創造主、ゴッドの存在が前提

2004年11月13日 | 聖書思想の基礎知識
 聖書はキリスト教の教典です。キリスト教の教え(教理)は、この教典の中に納められています。ですから、その教えを知るには、聖書の思想を知ればよいことになります。

 聖書は、旧約聖書と新約聖書からなっています。
旧約聖書は、自らについて、万物の創造者(主)、ゴッドから人間に与えられたメッセージだとしています。それを霊感の豊かな人が受信して、言葉に記録したものだといいます。この人を預言者といいます。創主のメッセージを「言葉」として「預かる」「者」という意味で、先のことを予言する「予」言者とは違います。

 そういうわけですから、聖書の出発点は、この創造主が存在するという認識にあります。そして、聖書では、その神が世界で最大の権威と力を持った神だというのです。果たして、そういう神様が存在するでしょうか?
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