久しぶりに「ヨハネ伝解読」をしましょう。
迫り来る拷問と十字架刑を前にして、
弟子たちに切々と語るイエスの遺言に耳を傾けましょう。
本日のBGMはこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて春平太チャーチを開くと
BGMのある状態で読むことが出来ます。
mariさん、ありがとうございます。音楽が流れ続けるのがとてもありがたいです。)
今回の聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私はブドウの木。諸君はその枝です。
人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、諸君は何もすることが出来ないからです。」(15章5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれっ? これ前の4節によく似ているなぁ。
4節をもう一度ここに掲載しますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私につながっていなさい。そうすれば、私は諸君とつながっていましょう。
枝はブドウの木につながっていなければ、自分だけで実を結ぶことが出来ません。
そのように、諸君も私につながっていなければ実を結ぶことは出来ません。」
(15章4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうしてこうして同じようなことをイエスは繰り返すのでしょう。
ヨハネの記録が正確ならば、やはり、これには深い意味があるからと推定すべきでしょうね。
両者で違っているところを、少し詳細にみてみましょう。
4節では、「私につながっていなければ実を結べない」といっている。
5節では「私と離れては(これは「私につながってなければ」と同じですよね)、何も出来ない」といっています。
ここから「実を結ぶ」とは、「なにかをする」ことだとわかります。
この「なにか」とは何か?
結論から言うと、それは「福音伝道」です。
イエスがいなくなった後、弟子がなすべき福音伝道につき、いまイエスは遺言しているのです。
それは「イエスにブドウの枝のようにつながってなければできない」というのです。
では、「つながる」とは?
これも鹿嶋の考える結論的なところを、先取りしていってしまいましょう。
「弟子たちの意識がイエスの言葉の中に住み」かつ
「イエスの言葉がその人の意識に中に住む」という状態がそれです。
その状態で行う伝道では、聞くものの霊の内に、イエスの言葉が染み込んでいくのです。
そして、聞いた人も同じような状態になる。語らずにいられなくなっていく。
こういう連鎖が起きるのが幹につながっている伝道です。
<疑似信仰者>
では、そうでない伝道ってあるか?
ありますよ。
たとえば、国家権力を手中に収めて、国教にする。
他宗教を禁じて、国民を強制的に居住地域の教会に所属させ、礼拝、結婚、葬式などすべてを
その宗教方式でやる。
そういう風にしたら、抵抗する者も出るでしょうけど、まあ大多数は習慣的に信者になるでしょう。
教会も大きくなるでしょう。
またそこまでいかなくても、素敵な音楽や楽しい交わりに満ちた会を作る。
あるいは会社内で「クリスチャンにならないと課長以上にはなれない」という制度を作る。
こういう世的なやり方でもってしても信者は作れます。
でもそれをメインにしてなった信者は疑似信仰者だというのがここでいうイエスの言葉の意味です。
真の信仰者を造るには、イエスに言葉でつながっている状態で宣教しなければならない。
「私(の言葉)を離れて伝道したら、真の信仰者は作れないんだよ」とイエスは言っているのです。
<知的躍動は言葉の奥義に触れることによる>
「意識がイエスの言葉の中に住み」かつ「イエスの言葉がその人の意識に中に住む」には、
言葉の神髄、エッセンスが開示されてなければなりません。
エッセンスの解き明かしですね、これがなされなければなりません。
これを聞いたときに、人の心は感動を受けます。
これは福音についてだけでなく、知識一般にいえることですが、
普段そこまでいっていない深みに、意識を導かれて深みを悟ると人は感動するのです。
鹿嶋が「ネクストステップの知識」を得ると人の知性は躍動する、というのもこれです。
感性が感動して知性は躍動するのです。
また、感動すると知識は霊にしみ込むのです。
ただ、普通の書物は、あるところまで深みをたどると、
それ以上の深みがなくなることが多いです。
すると、もう、感動を与える素材でなくなってしまう。
あとは、飽きるしかなくなります。
これがどこまで行っても尽きないのが聖書の特徴です。
深み(奥義)を掘り出しても、掘り出しても、生涯それを続けても奥義が尽きないのです。
鹿嶋が、スモールグループでの知的活動には、聖書が最適な素材、という意味はそこにあります。
<周囲を回るだけの説教>
話をもっと脱線させますと、我が国で牧師さんがなさる教会説教には、
聖句の神髄を開示してないのが多いです。
開示しないで周囲をぐるぐる回る。
そして終わります。
最近こんな説教を聞きました。
題名は「恐れるな」。
湖でボートにいる弟子たちの方に、イエスが水の上を歩いてやってくる場面がありますよね。
弟子たちは「幽霊か!」と恐れる。
近づいたイエスは「私だ、恐れるな」といいます。
説教ではこの場面の聖句が引用されるのですが、結論は、
「この船の中の弟子たちのように、イエス様と一緒なら恐れることはありません、
いつもイエス様と一緒にいる信仰を持ちましょう!」ですって。
そりゃまあ、そうでしょうけど、そんなことならなにも牧師さんに説教されなくても、
信徒さん自身が聖書読んだって得られる知識ですよ。
説教では、そこにいたるまでに、
「皆さんも日々いろんな恐れを持って生きているでしょう、私もそうです」
とあれこれ日常生活での例を出して長々と時間を費やしました。
で、どうなるかと固唾を飲んだら、
「イエス様と一緒にいる信仰でやりましょう!」でおしまいだった。
広告業界に広告代理店という業種があります。
トヨタや花王などの広告主が広告をするに際して、
テレビや新聞などの媒体を準備したり、そこに流すメッセージの作成を代行する業種です。
鹿嶋の聞くところでは、この大手の会社に、社員に伝えられる不文律がある。
「広告主のところに行っても本質は決して語るな、本質の周りをぐるぐる回れ」
「前回より次回は本質に少し近づいて回れ、それを繰り返すが本質そのものには決して踏み込むな」
~がそれです。
なぜでしょうか?
本質というのは少ない言葉で語れるもので、かつ、明かしてしまえばそれでおしまいになります。
広告業務では、そうたくさんの神髄はありません。
だから、明かしてしまえば、それきり「ハイ、それまでよ・・・」となって
もう広告主は頼ってくれなくなるのです。
ありがたみが薄れるので、代理店手数料を「まけろ」とも言い出しかねません。
それで「本質を語るな」と言い伝えるのです。
だけど、聖書の言葉には、神髄が無限に埋まっていますよ。
明かしても明かしてもなくなりませんよ。
なくならないどころか、一つ悟ると、次の解き明かしがもっと感動的になる。
なのに、礼拝説教は周囲をぐるぐる回ることしかできない。
日本の福音説教では、ほとんどこればかり、という観があります。
これでは、新しく教会を訪問する人も、
「宗教って結局つまらんもんだな、葬式と結婚式にはお世話にならなきゃいかんけど・・・」となります。
「次の日曜日にも礼拝に行こう」、という気がおきません。
イエスは、こういうことが人間社会には起きやすいことが、わかっていたのです。
それで、直接の弟子たちには、
「とにかく、私の幹につながる枝になっているんだよ」と繰り返し繰り返し説いたのです。
迫り来る拷問と十字架刑を前にして、
弟子たちに切々と語るイエスの遺言に耳を傾けましょう。
本日のBGMはこれです。
http://aiai.hukinotou.com/
(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて春平太チャーチを開くと
BGMのある状態で読むことが出来ます。
mariさん、ありがとうございます。音楽が流れ続けるのがとてもありがたいです。)
今回の聖句はこれです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私はブドウの木。諸君はその枝です。
人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、諸君は何もすることが出来ないからです。」(15章5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
あれっ? これ前の4節によく似ているなぁ。
4節をもう一度ここに掲載しますね。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私につながっていなさい。そうすれば、私は諸君とつながっていましょう。
枝はブドウの木につながっていなければ、自分だけで実を結ぶことが出来ません。
そのように、諸君も私につながっていなければ実を結ぶことは出来ません。」
(15章4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どうしてこうして同じようなことをイエスは繰り返すのでしょう。
ヨハネの記録が正確ならば、やはり、これには深い意味があるからと推定すべきでしょうね。
両者で違っているところを、少し詳細にみてみましょう。
4節では、「私につながっていなければ実を結べない」といっている。
5節では「私と離れては(これは「私につながってなければ」と同じですよね)、何も出来ない」といっています。
ここから「実を結ぶ」とは、「なにかをする」ことだとわかります。
この「なにか」とは何か?
結論から言うと、それは「福音伝道」です。
イエスがいなくなった後、弟子がなすべき福音伝道につき、いまイエスは遺言しているのです。
それは「イエスにブドウの枝のようにつながってなければできない」というのです。
では、「つながる」とは?
これも鹿嶋の考える結論的なところを、先取りしていってしまいましょう。
「弟子たちの意識がイエスの言葉の中に住み」かつ
「イエスの言葉がその人の意識に中に住む」という状態がそれです。
その状態で行う伝道では、聞くものの霊の内に、イエスの言葉が染み込んでいくのです。
そして、聞いた人も同じような状態になる。語らずにいられなくなっていく。
こういう連鎖が起きるのが幹につながっている伝道です。
<疑似信仰者>
では、そうでない伝道ってあるか?
ありますよ。
たとえば、国家権力を手中に収めて、国教にする。
他宗教を禁じて、国民を強制的に居住地域の教会に所属させ、礼拝、結婚、葬式などすべてを
その宗教方式でやる。
そういう風にしたら、抵抗する者も出るでしょうけど、まあ大多数は習慣的に信者になるでしょう。
教会も大きくなるでしょう。
またそこまでいかなくても、素敵な音楽や楽しい交わりに満ちた会を作る。
あるいは会社内で「クリスチャンにならないと課長以上にはなれない」という制度を作る。
こういう世的なやり方でもってしても信者は作れます。
でもそれをメインにしてなった信者は疑似信仰者だというのがここでいうイエスの言葉の意味です。
真の信仰者を造るには、イエスに言葉でつながっている状態で宣教しなければならない。
「私(の言葉)を離れて伝道したら、真の信仰者は作れないんだよ」とイエスは言っているのです。
<知的躍動は言葉の奥義に触れることによる>
「意識がイエスの言葉の中に住み」かつ「イエスの言葉がその人の意識に中に住む」には、
言葉の神髄、エッセンスが開示されてなければなりません。
エッセンスの解き明かしですね、これがなされなければなりません。
これを聞いたときに、人の心は感動を受けます。
これは福音についてだけでなく、知識一般にいえることですが、
普段そこまでいっていない深みに、意識を導かれて深みを悟ると人は感動するのです。
鹿嶋が「ネクストステップの知識」を得ると人の知性は躍動する、というのもこれです。
感性が感動して知性は躍動するのです。
また、感動すると知識は霊にしみ込むのです。
ただ、普通の書物は、あるところまで深みをたどると、
それ以上の深みがなくなることが多いです。
すると、もう、感動を与える素材でなくなってしまう。
あとは、飽きるしかなくなります。
これがどこまで行っても尽きないのが聖書の特徴です。
深み(奥義)を掘り出しても、掘り出しても、生涯それを続けても奥義が尽きないのです。
鹿嶋が、スモールグループでの知的活動には、聖書が最適な素材、という意味はそこにあります。
<周囲を回るだけの説教>
話をもっと脱線させますと、我が国で牧師さんがなさる教会説教には、
聖句の神髄を開示してないのが多いです。
開示しないで周囲をぐるぐる回る。
そして終わります。
最近こんな説教を聞きました。
題名は「恐れるな」。
湖でボートにいる弟子たちの方に、イエスが水の上を歩いてやってくる場面がありますよね。
弟子たちは「幽霊か!」と恐れる。
近づいたイエスは「私だ、恐れるな」といいます。
説教ではこの場面の聖句が引用されるのですが、結論は、
「この船の中の弟子たちのように、イエス様と一緒なら恐れることはありません、
いつもイエス様と一緒にいる信仰を持ちましょう!」ですって。
そりゃまあ、そうでしょうけど、そんなことならなにも牧師さんに説教されなくても、
信徒さん自身が聖書読んだって得られる知識ですよ。
説教では、そこにいたるまでに、
「皆さんも日々いろんな恐れを持って生きているでしょう、私もそうです」
とあれこれ日常生活での例を出して長々と時間を費やしました。
で、どうなるかと固唾を飲んだら、
「イエス様と一緒にいる信仰でやりましょう!」でおしまいだった。
広告業界に広告代理店という業種があります。
トヨタや花王などの広告主が広告をするに際して、
テレビや新聞などの媒体を準備したり、そこに流すメッセージの作成を代行する業種です。
鹿嶋の聞くところでは、この大手の会社に、社員に伝えられる不文律がある。
「広告主のところに行っても本質は決して語るな、本質の周りをぐるぐる回れ」
「前回より次回は本質に少し近づいて回れ、それを繰り返すが本質そのものには決して踏み込むな」
~がそれです。
なぜでしょうか?
本質というのは少ない言葉で語れるもので、かつ、明かしてしまえばそれでおしまいになります。
広告業務では、そうたくさんの神髄はありません。
だから、明かしてしまえば、それきり「ハイ、それまでよ・・・」となって
もう広告主は頼ってくれなくなるのです。
ありがたみが薄れるので、代理店手数料を「まけろ」とも言い出しかねません。
それで「本質を語るな」と言い伝えるのです。
だけど、聖書の言葉には、神髄が無限に埋まっていますよ。
明かしても明かしてもなくなりませんよ。
なくならないどころか、一つ悟ると、次の解き明かしがもっと感動的になる。
なのに、礼拝説教は周囲をぐるぐる回ることしかできない。
日本の福音説教では、ほとんどこればかり、という観があります。
これでは、新しく教会を訪問する人も、
「宗教って結局つまらんもんだな、葬式と結婚式にはお世話にならなきゃいかんけど・・・」となります。
「次の日曜日にも礼拝に行こう」、という気がおきません。
イエスは、こういうことが人間社会には起きやすいことが、わかっていたのです。
それで、直接の弟子たちには、
「とにかく、私の幹につながる枝になっているんだよ」と繰り返し繰り返し説いたのです。