鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.20 聖書との比較④

2007年09月26日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    



「稲盛『哲学』と聖書の思想」第20回です。
ここで聖書との比較をしておきましょう。

                    


その前に、六代煩悩を音で暗記しておきましょう。
「トン・ジン・チ・マン・ギ・ケン」
意味は、Vol.11に記しましたよね。

                    


今回は、人の食欲を貧(トン)にまで至らしめないための智慧をめぐって、仏教と聖書の教えを比較してみます。

<貧(トン)への知恵は仏教も聖書も持っている>

この知恵は、仏教も聖書ももっています。

仏教の方法は修行です。
聖書の方法は、「汝の隣人を愛せよ」という創造主の命令を守ることです。
方法は違えども、どちらも「実践すれば貧という煩悩に到らない」ように自らを治める効果を持っています。

だが、仏教では治める方法を「修行」として、手取り足取り教えてくれます。
出家すれば、更に縛って導いてくれます。

ところが聖書は命令を与えて修行は無しです。

こういう命令を守るには、精神的な力がいりますよね。
なのに修行スケジュールで縛ってくれない。

代わりに聖書では、命令を守る力は究極的には創り主によって与えられるものだ。
それを与えられなさい、と教えます。
創り主とは、現代ではイエスが昇天して送ってくれた聖霊です。
その力とは聖霊の命令で働く天使です。
これに働いてもらいなさい、という。

だけど、こういうものって一般人の目には見えないよね。
「聖霊が、天使が働いてくれた!」というのも霊感によって感触するものだよね。
だから、具体的に「布施をしなさい」と導いてくれる仏教よりも、遙か難しいのです。


                    


<聖書がねらう賞は大きい>

しかし、聖書特有の利点もあります。
それは成功した場合の賞が大きいと言うことです。

単に、「この世を煩悩少なく送れる」だけでなく、死んだ後のある時(最後の審判の時)に、天の創主王国に入れられる、という。この幸福は永遠の幸福です。聖書では賞がそういう大がかりなものなのです。

これを得るには、創主の力への信頼と、それをベースにした根強い聖句(みことばといいます)の探求および祈りが必要、となります。



                    

<聖書にも「修行」の要素あり>

祈りも、全霊を込めた、かつ、持続的なものでなければなりません。
我々は祈りというと、どこか神聖なところで、手を合わせて「ウ~ン」と念じるものだと思いがちです。
「風邪を引いたときに飲む風邪薬」みたいにしか考えない。

だが聖書を解読すると、どうもそうではないようです。
つまり、祈りには(創主の助けも必要だが)修行的意識の要素も大きいのです。
聖句探求だってそうです。
聖句はとても多義的だからです。
その一つの意味をさっとつかんで、わかったといっているんでは足りません。

だが、聖書はそういう誤解にも、とても入りやすいように出来ているんですね。


                    

<仏教は具体的でわかり易い>

仏教の方は、そういう危険が少ないです。
創造主とか聖霊とか天使とか言った、五感で認知できないものの働きを理屈に入れない。
ただ、自力の修行だけで考えるから、認識・理解しやすい。

稲盛さんは、自らのために、そして企業という現実の中で従業員と共に修行をするために、限定的でわかりやすい仏教を援用されているのですね。



                    



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Vol.19 社員の精神レベルは経営の要諦

2007年09月25日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想

                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第19回です。

六代煩悩を思い出しましょう。
仏教の深い人間洞察の成果です。

「トン・ジン・チ・マン・ギ・ケン」でしたね。
その意味は前述しましたが、リズムを付けて、音で暗記しておきましょう。

稲盛「哲学」はそのうちで、
「自然なままに放置すれば貧(トン)にまでいく」食欲を中心とする欲望を治めることを重視しています。
氏が「精神ベルを高める」といわれる際、重心はここに置かれています。

 これに関連して稲盛さんは次のようなことも言っておられます。

 
                   


<精神レベルが上がらねば会社も衰退>


~~個人も会社も、精神のレベルが上がっていかなかったら、いずれ衰退します。
精神レベルが低いがゆえに、成功しても衰退するケースは多いのです。

これは一つには次のように理解できます。

会社が成功して社員の給料が上げられても、社員の欲望はそれ以上に肥大しやすいものです
(貧に向かって膨張していく)。
すると、もっと収入が欲しいという欲望が以前に増して強くなってしまいます。

 けれども、会社はいつも高度成長していることは出来ません。
では成長が鈍るとどうなりやすいでしょうか。

社員は「自分だけでも」もっと収入が得られる方法を探す傾向をもつでしょう。


                    


<派閥も精神レベルの低さから>

そのよくあるひとつが、誰か有力者に特別扱いしてもらおうという思いです。
社員の多くがそういうことを志向すると、社内には自然に派閥ができていきます。

あるグループに入らないと、超過収入などおいしい目を見られないようになる。
入るのに遅れた人は、また別の有力者に特別扱いしてもらおうと、甘えるでしょう。

すると、もうひとつ、派閥ができます。
これが進むと、もう、何処かの派閥に入らないと、仕事もできなくなってしまいます。
鹿嶋はかつてその例を、勤務地の近くにある研究所で生々しく観察しました。


                    


さてこうなると各々の視野が派閥の中に閉じこもって狭くなってしまいます。
もう、全社的な視野や情熱を持つ人の動きや意見が会社経営に反映されなくなってしまいます。
すると、その会社は衰退に向かう要素をどんどん蓄積していくことになります。
派閥心というのは、人間組織のガンなのです。

 ところが程度の差こそあれこれは、日本の大半の会社に起きてきた状況です。
会社だけでなく、学校も、政府機関でもそうでした。


                    


<稲盛企業と佐吉企業>

だが稲盛さん創業の京セラや第二電電(今のAU)には、派閥的な動きはまったくないようです。
それが社員の闊達とした精神や行動を産み、
両企業から革新的なアイデアが次々に出ていることの背景になっています。

トヨタも派閥はまったくない会社です。
トヨタ生産方式を作り上げてきた様々な試行錯誤も、こうした土壌があってのことでしょう。
派閥があると、試行錯誤の錯誤をした時点で、他の派閥がそれを責め上げて、
継続不能にしてしまいます。

 だが、これらの企業は、本当に例外的存在です。
特に日本人には民族気質と思いたくなるほどに、党派心をもった人間が多いです。
そういうのは、隙さえあれば派閥をつくろうとする。
で、四六時中そんなことばかりねらっていますから、大体成功します。
 ゴーンさんがくる以前の日産など、派閥だらけでした。


                    


こういう差が生じるコンポン原因を、稲盛哲学は開示しているのです。

放置しておけば貪欲にまで至る欲望を治めることができるように、
社員がなるかならないかがその分かれ道だとして。
京セラではそれを治められるように、社員個々人の精神レベルが高められている。
それが答えだったのですね。

 トヨタでも同じです。
創業者豊田佐吉の驚嘆するような高い志をもった生き様が、
それを知った社員の精神レベルを高めています。
だから、全員学びます。
入社すると例外なく、静岡県湖西市にある「豊田佐吉記念館」を訪問し、佐吉を深く知ります。
以後も折ある毎に、佐吉思想は伝道され、社員は学び続けます。


                    




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Vol.18 「布施」で「欲望」を治める

2007年09月23日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想








                    



「稲盛『哲学』と聖書の思想」第18回です。

「自然なままに放置すれば貧(トン)にまでいく」食欲という欲望を治めるための修行が、布施をすることだ、というのが仏教の教えでしたね。
稲盛さんはそのまま自らの智慧とし、それをかみ砕いて実践されています。


                    

布施とは、「人を助けてあげること」をしてなす修行でしたね。
人を助けるには、「我がもの」を他者に与えることもしなければなりません。
これを「修行」として繰り返すことによって、貪(とん:貧欲)の心を治めることが出来るようになる、と稲盛さんは考えるのです。

+++

 鹿嶋はこれに関連した質問を稲盛さんにしたことがありました。答えは概略次のようなものでした。

                    


<稲盛さんへの質問>

 鹿嶋がした質問はこういうものでした。

~~稲盛さんの自伝でこういう話を読みました。
28才で京セラを始め、まもなくして、社員に一定の寄付金を出させ、会社からも同額の金を付け加えて、それを福祉施設などにもっていった。以後これが続いた、と。

~~それをした動機は「社員の精神を活性化すること」にありましたか?


                    


稲盛さんは例のソフトで、若干とぼけたような表情で答えられました。

~~給料からお金を出させたのではありません。
創業の苦しい時を経て、ようやく社員にボーナスを払えるときが来た。

そのとき、社員にこう語りました。

~~「我々はボーナスが入ってうれしい。
だけど世の中には、盆正月にもボーナス収入が得られない貧しい人もいる。
このボーナスの中からいくらでもいいから出して、そういう人と喜びを共にしないか。他の人に我々の喜びを広げないか」と。

~~そうしたら、各々思い思いのお金を出しました。
その合計と同じ額を、会社からも出して、合わせて福祉施設に持って行きました。

~~以後、それが続くようになりましたが、これは、会社の外の人々ともこの喜びを分かち合おう、と願っただけです。
これによって社員の士気をどうしようとかは、全く考えませんでした。

自分が食べられて、さらに上手いものを食べたときの喜びは、そんなに深い喜びではありません。
その分他者に食べさせて、喜んでいるのを見る方が、人間の喜びはもっと深いです。
私はそれを、仏教の勉強をしていて学びました。

その喜びをみんなで味わおうぜ、という単純な動機でした。


                    


<波羅蜜の実践だった!>

なんとこれには仏教の「布施」という智慧の実践だったのですね!
稲盛さんはこの頃既に、仏教を勉強して「貧(とん)にいたろうとする欲望」を治める方法を心に抱いておられた。
その方法は「布施」を繰り返すことだという実践思想をすでにお持ちだった。

そこで社員へのこういう呼びかけになったのですね。
ここで稲盛さんの望んでいたのは、自分も含めた社員たちの「精神のレベルを高める」ことでした。

それに比べたら、経営学教科書に書いてある、社員の「士気を高める」とか「精神を活性化する」というのはなんと薄っぺらな観念なのでしょうか。



                    


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Vol.17  「2代目はケチ」なのは

2007年09月22日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第17回です。
もう一つ「貧(トン:すべてを我がものにしたいという妄念)」の事例を考えましょう。

 経済界には「二代目はケチ」という通念というか常識があります。
経営者には自分で会社を創業したオウナー経営者というのがおります。
この跡取り息子を二代目といっています。正確には「二代目オウナー経営者」ですね。

これが概してケチだという。
いわれてみればその様にみえましたが、鹿嶋はその理由が長いことわかりませんでした。

                    


<設備投資を渋る>

 
オウナー経営者の場合、ケチといわれる代表的な行為は、会社運営にお金を出さないということです。より具体的には、「新規設備投資をしないで儲けを社内に蓄積していく」という行動に見られます。社員の出す設備投資案を承認するのを渋るんですね。

 会社の社内留保金というのは、オウナーにとっては実質的に自分のお金なのです。株主は会社の所有者で、会社の資産が自分のものなのですから。そこで設備投資に資金を投下するというのは、自分のポケットからお金を出すのと同じになるんですね。

 設備投資にはリスクが伴います。それをしない。技術革新が進んでいるのに研究開発投資をせず、古い設備のまま節約して、社員に稼いでもらおうとします。で社内留保がとても多い。こういう例は多いです。

                    


<過去の損失に過大にこだわる>

 他にも、サラリーマン重役や管理者が失敗したプロジェクトで損失した資金を、長く憶えこだわるというのもあります。のみならず、それを取り戻すという意識が後の経営思考に影響し続けます。

 あれで何十億の損をした、取り戻さないとなぁ、と次のプロジェクトを考える際にも、それが意識の中で過大に絡んできます。

 
                    


<長男の総取りにする>

 創業者は長男にほとんどすべてを継がせることが多いです。
次男、三男にも平等に株などを継がせると、権力争いになることが多いんですね。また、代々の相続がなされる過程で株が予想外な範囲に分散するという可能性もあります。で、会社に関しては一括相続をさせるケースが大半です。

それで、子供の頃から「跡取りはお兄ちゃん」と言い聞かせながら育てます。
すると、長男は幼い頃から、「あの広大な敷地も工場も本社ビルもみんなオレのもの」、という意識を持って育ちます。

稲盛哲学によれば、これが食欲を貧(トン)にストレートの成長させる条件になるのでしょうね。
これでは「分かち合う」という修行はゼロです。
だから、「すべてを我がものにしたい」となり、「少しのお金も出し惜しみする」性質が育ち、結果的にケチと見られるようになるのですね。


                    

<一人っ子の二代目となると!>

前回、一人っ子は独占欲が強くなる、ことをみました。
独占欲は「すべてを我がものにしたい」という欲望に通じています。また、これは「なるべくお金を出さないようにする」というケチに通じています。

 この一人っ子が、二代目オウナーになる場合はどうか。もう貧(トン)に到る環境がダブルで重なってきます。

 こういう例があります。
 膨大な資産家の御曹司なのに、学生時代において庶民育ちの学生よりもケチなのです。
親の跡をとってオウナー社長となっても、その性格はかわりませんでした。


                    

<鶴のように一本脚で>

 この種の経験で、鹿嶋には忘れがたい一場面があります。
もう時効でしょうから書きますと~~
一人っ子ではありませんが、長男の二代目経営者の会社で働くサラリーマン重役がいました。

鹿嶋はある夜、その重役と食事を共にして東京の繁華街を経営の話などしながら歩いておりました。で、どういう話のいきさつだったかは忘れましたが、ある時鹿嶋の口からこんな質問が出ました。

「新しい社長はどうですか?」

すると、重役は突然足を止めて、鹿嶋の後方に立ち止まりました。
鹿嶋に向かって身体を横にして静止しました。
そして半身の構えで吐き出すように一言だけいいました。

「ケチだね!・・・」

その様子が鶴が一本脚で立っているのに似ていましたので、今でも印象に残っています。
こうした経験は鹿嶋の内で蓄積してきてはいましたが、その原因の理解が漠然とした状態でした。
稲盛哲学を読んで、それが明確化したような気がしています。


                    




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Vol.16  「『一人っ子』の独占欲が強いのは

2007年09月18日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想

                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第16回です。

「肉体を守ろうとする食欲は、自然なままでは貧(トン)に向けて成長していく」
ということを推測させる事例を考えてみましょう。


                    

<一人っ子は「独り占め」気質>

身近な例の一つに一人っ子の性格があります。
 「一人っ子は独占欲が強い」といわれてきました。
鹿嶋も、そういう事例を沢山みてきました。

だが、どうしてそうなるのかがはっきりしませんでした。
「一人っ子は何でも自分だけのものになる環境で成長してくるから」というのは、
明確なようで実は漠然としたところを含んだ理由です。

なぜなら、それですと「その人の中で独占欲という欲望が新しく出現して育ってくるのか」
あるいは「人間すべてにある欲望が独占欲という姿になるのか」が明確でないからです。

                    


<稲盛哲学では>

 稲盛さんの人間心理把握は、後者であるという立場に明確に立っています。

~~まず、みんな、肉体を維持するために食欲という欲望を与えられている。
それは放置していくとストレートに成長して貧(トン:すべてを我がものにしたいという妄念)に到る。
しかし、兄弟姉妹の多い中で育つと、幼い頃から「分かち合う」という必要に立たされそれを実践する。
その結果、食欲がストレートに貧(トン)に到ることがなくなる。

 ・・・そういうことになります。
つまり、兄弟姉妹の多い人は、幼いときからそういう「修行」をすることによって、
食欲があるレベルから「人と分かち合う」という性質の精神に進化していくわけですね。

~~逆に一人っ子は、そういう「修行」をするチャンスに恵まれない幼少を送る、と理解できるのです。
鹿嶋にはこの説明でもって、「一人っ子の独占欲」が現実感(リアリティ)の高いものとして認識できました。


                    

 従来、何故そうなるのか、漠然としていました。
仏教というのは、人間心理の深奥にどんどん入っていく哲学(心理学でもある)なんですね。
聖書の世界にはない特性です。


                     



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Vol. 15 稲盛さんの「欲望の肥大本性」

2007年09月14日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
 
                    
                   

「「稲盛『哲学』と聖書の思想」第15回です。

稲盛さんが援用する仏教の、六大煩悩(ぼんのう)と六波羅蜜(ろくはらみつ)を紹介しました。

ところでこの六波羅蜜というのは、日本史に出てくる六波羅探題という言葉の源でしょうね。
仏教の言葉は、日本人の日常生活に沢山入っているのですね。
「縁があれば・・・」という場合の「縁」等はその代表でしょうが・・。

+++

さて六大煩悩のうち、始めの3つが三毒でしたね。
「トン・ジン・チ」がそれでした。

                     


<「癡(チ)」はかなり解決されている>

少し先走っていいますと、三番目の「癡(チ:無常である世の中を『変わらない』と考え、
不平不満を鳴らす妄念)」は、稲盛さんの場合、かなり解決済みなところがあります。

というのは、稲盛さんはこの点では聖書に近い考え方を取り入れていますから。
つまり「人間は肉体と意識体とで出来ていて、意識体は永続する」と考えます。
そして「意識体の方が人間の本体」だと考えます。

これ聖書の思想そのままですよね。
シャカはどうかというと、人間の死後のことについては、ノーコメントですからね。

ともあれここは稲盛さんは聖書的な考えで行きますから、目に見える肉体だけで
人間の存在を考えることはありません。
シャカで行くよりも、はるかに無常ということに苛まれなくてすむようになっています。

                    


<瞋(ジン)も対応できていそう>

二番目の「瞋(ジン:自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念)」も、稲盛さんにおいては,
あまり悩ましいものとはならないように鹿嶋には思えます。

氏の持って生まれた人柄が、思索的で穏やかなものだったように思うのです。

「怒り」への対策は持戒(戒めを心に保持する)でしたよね。
稲盛さんにおいては「怒ってはならない」という戒めを放念しないように努めれば、
なんとかなることだと思います。


                    


<貧(トン)への対処が最大課題>


稲盛さんが、経営者として最も御しがたいと認識しておられるのは、
一番目の「貧(トン:何でも我がものにしようとする貧欲な妄念)」のようです。

この貧という煩悩と波羅蜜(智慧)との対応関係を「貧」と「布施」を取りあげて
もう少し具体的に考えていきましょう。
まずは、「肉体を保存しようという欲望は肥大本性をもつ」ということから。

                    


<「欲望」は自然成長すれば「貧」に到る>

「貧(とん)」は煩悩の第一番目のもので、「何でも我がものにしようとする貧欲な心」でしたね。

 稲盛さんは、これは「肉体を守ろうとする欲望」に発するものだと把握されます。
人間が与えられている肉体というものを維持するのに、
必要だとして与えられている心理だととらえるのです。

だが、この欲望は放置しておけば、自然に肥大化する性質のものだ、
と稲盛さんは考えられています。


                    

 もう少し具体的に言いますと~~

 肉体を守るために与えられている欲望の代表は食欲ですよね。
これはまず、「今食べよう、今日食べよう」という意欲として出現します。

 だがその欲望は今日食べると、明日も、明後日も食べられるように・・・、とどんどん展開し、
放置すればついには死ぬまで安心して食べられるようにしたい、と肥大していきます。

 世の中、先のことになるほど不確実性が高くなります。
それでもなるべく確実に食べられるようにしておきたいとなりますと、
「できる限りの富を手中に収めておこう」ということになります。

 このように食べたいという欲望は、放置すれば自然に
「なにもかも我がものにしたいという心」に成長していく可能性を持っているんですね。

 この様に、肉体を守るための欲望は、本性的には肥大して貪欲(どんよく)に到るのだ、
と稲盛さんは認識するのです。
次回には、これをわれわれの経験的な認識と結びつけてみましょう。


                    



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Vol.14 稲盛さんの「修行の道」

2007年09月11日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第14回です。

 第11回に、「煩悩(ぼんのう)」という考え方が出ました。
 これは、その煩悩を治める為の「修行の道」とセットにして理解しておくのがいいようです。
もちろん修行も仏教の思想です。
稲盛さんは、それを援用するのです。

                    


修行の道は6つあって、仏教では六波羅蜜といっています。
波羅密というのは、智慧という意味だそうです。
六つの知恵ですね。

六つの波羅蜜は、前述した六つの煩悩に対応しています。
具体的には、その智慧(波羅蜜)を作り上げる修行をいっています。


                   


<六波羅蜜>

六波羅蜜とは次の如しです~~

1.布施(ふせ)=他人を助けてあげる修行。
        煩悩のなかの「貧(とん:何でも我がものにしようとする貧欲な妄念)」に対応しています。

2.持戒(じかい)=戒めを心に保持する修行。
        煩悩の「瞋(じん:自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念)」に対応しています。


3.忍辱(にんにく)=無常な世の変化を堪え忍ぶ修行。
       煩悩の「癡(ち:無常である世の中を「変わらない」と考え、不平不満を鳴らす妄念)に主に対応しています。

4.精進(しょうじん)=一生懸命働く修行。
           煩悩のうちの「慢(まん:傲岸不遜な妄念)」に主に対応しています。

5。禅定(ぜんじょう)=座禅を組んで心を鎮める修行。
       煩悩のうちの「疑(ぎ:シャカの説く真理を疑う妄念)」に主に対応しています。


6.智慧(ちえ)=宇宙の真理の悟りに到る修行。
         煩悩のうちの「見(けん:物事を悪い方に、悪い方にと見ていく妄念)」に対応しています。


                    


 6番目の「智慧」は最後のゴールでしょうね。それ以前の5つはみな、このゴールに明確に向けられたものでしょうから。
 智慧とは、そのゴールを直接目指した修行、と理解したらどうでしょうか。

                    

 稲盛さんは、智慧の悟りにまで到らなくても、死ぬまでに少しずつでも心が綺麗になっていくことに価値がある、と考えます。

例えば、「貧乏でも、病気でも心を鎮め、高めていくことは出来る」という。
貧乏だと普通心がすさむが、「貧乏でもいいではないか、三度三度の飯が何とか食べられるのだから」と思えば(知足:足を知ること)、人生観はいっぺんに変わる。生きる勇気が湧いてくる、といいます。

また、こうも言っておられます~~

恵まれた環境にありながら、(布施もしないで)自分の財産が減ることを何よりも恐れている人がいる。
そういう人生には値打ちも魅力もない。
本当の意味での人生の目的から遠のいて行くだけだ~~と断言しておられます。

                    


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Vol.13 涅槃仏教と浄土仏教

2007年09月10日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                   


 仏教については、補論しておくことがあります。

仏教という言葉は、今日では二つの系統を含んでいます。
鹿嶋はそれを「涅槃(ねはん)仏教」「浄土仏教」と呼んでいます。


                    


<涅槃仏教>


涅槃というのは「心の平安な状態」を意味しています。
仏教的ないい方をすると「煩悩を断じて絶対的な心の静寂に達した状態」となります。
するとこれは「悟り」に到った状態と同じになりますね。

これを究極のゴールとして求めるのが、涅槃仏教で、釈尊(シャカ)が探求したのはこれでした。
だが、この教えが中国に伝わりまして、唐の時代になると、ネストリウス派のキリスト教が長安を始めとする都市で多くの信仰者を集めました。


                    


<ネストリウス派キリスト教>

ネストリウス派の特徴は、「イエス両性論」にあります。
欧州大陸に残ったカトリック派は、「イエス神性論」で、イエスは創造主の子で、創造主の性質のみをもつ、という神学を報じていました。
 
 それより前に、「イエス人間論」を主張する会派もでました。アリウス派という教派がそれで、イエスは「創造主も自分の子と思うほどに優れた人間」だった、と考えます(これについては拙著『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中経出版、をご覧下さい)。

紀元後4世紀に、このアリウス派とカトリック教団との間の神学論争が激しく行われました。その結果、アリウス派はカトリック派に敗れ、追放されました。彼らは当時未開の地だった、ゲルマン地域(今のドイツ地方)に逃れてそこで宣教しました。

 その後「イエス両性論」で売り出したネストリウス派が出たわけです。これも賛同者を集めましたが、結局カトリックに追放され、これは東方に宣教の地を求めました。その動きが遠く中国にも達していて、彼らの説く教えは多くの信仰者を集めました。

                    


<浄土仏教の出現>

で、ここからは鹿嶋の推察を含めた考察です。

中国の仏教僧のなかに、これに興味を持ち、情報を集めるのが出た。
そのうちで、自分たちの仏教(涅槃仏教)にないコンセプトである天国が、人々の心に入っているのを知った。

彼らの中に、このコンセプトを涅槃仏教に接ぎ木することを志すものが出て、色んな理論を試みた。
それらを集大成し、天国を極楽浄土として教えを造った立役者が善導上人です。

かくして中国に浄土仏教が出現しました。
それが日本にも伝わり、法然がそこに真理を感知し、法然にそれを学んだ親鸞もまた、この教えに真理を察知しました。

+++

善導は、浄土仏教の教えこそが、釈尊の真意だった、という解釈をして理論を造りました。
だから、従来の煩悩も涅槃も人間論としてそのまま残っているわけです。

 ただし、教えの究極のゴールを極楽浄土(天国のパロディ)におきますと、人間の煩悩を追求し暴き出すというところへの情熱はやはり、涅槃仏教よりも少なくなります。
 日本の浄土仏教を見ている限りでは、煩悩からの脱却と涅槃への接近の為の修行は、お坊さんにおいても、稀薄なものになっています。

 稲盛さんの生家は、浄土仏教(浄土真宗だったか)だそうですが、京都に来られて学んだのは涅槃仏教(禅宗)でした。自ら出家して修行し、得度までしたというのですから、半端ではないのですが、とにかくそこにも稲盛さんの直感力を伺うことが出来るでしょう。


                    

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Vol.12 聖書との比較③

2007年09月08日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想


                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第12回です。

煩悩の思想についても、聖書の思想と比較してみましょう。


                    

<教えがめざすゴールが違う>

シャカの教えには、人の心理を深く内省して詳細に把握するという特質があります。

イエスの人間に関する教えが示唆するところも、仏教でいう煩悩を十分にカバーしています。けれども、人間の心理に焦点を当て続けてそれを執拗に明かしていく、という姿勢はありません。

それは以前に述べたとおり、イエスが人を導こうとしている究極のゴールがシャカのそれと違うからです。イエスは人の霊が「天の創主王国」において永遠に住めるようになる、というところに目標を置いています。

対して、シャカの教えのゴールは、「人間が現世を煩悩少なく生きることが出来るようにする」というところに置かれています。その為には、人間の心理の深奥を明かすことが根本課題となるのです。詳細に明かして、詳細に対処するのが教えの中核になるのですね。


                    

<経営者として>

 稲盛さんは、経営者として企業に働く人々が心の妄念少なく現世を生きる方法を、重点的に考えることになります。それには、聖書の教えよりも仏教の教えの方が直接役に立つのです。

稲盛さんが、仏教の智慧にむかわれた、ということにも、氏の実践的な直感力が現れていると鹿嶋は思います。



                    


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Vol. 11煩悩と悟り

2007年09月07日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想


                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第11回です。

稲盛さんは、聖書と共通した論理を展開しながら、人生の目的は 「精神を高める」ことだ、と結論しましたよね。
「現世という修練の場で」精神を高めていくのが人生の究極目的だ、と。

~~今回は、その次からです。
「目的はこれこれ」というのは単なるスローガンです。
稲盛哲学の神髄は「実践性」にあります。
稲盛さんは、その内容を実践的・具体的に考えていきます。


                    


<仏教の智慧を援用>

その際、稲盛さんは、一転して仏教の智慧にむかいます。
精神の内容、レベルを仏教の「煩悩」という思想でもって捉えようとします。

煩悩とは、「人間の心身を煩わせ悩ませるいっせつの妄念」を意味しています。
これから脱却した境地が「悟り」です。

完全な意味での「悟り」には人間は容易に行き着くことが出来ません。

だが稲盛さんは、煩悩に大きくとらわれている状態が低い状態であり、
それに対処できていく程度の応じて「高い」状態になっていくと把握するのです。


                     


<六大煩悩>

仏教では煩悩の種類はきわめて多い、としています。
「108煩悩」「84000煩悩」といった言葉もあります。
だが、それらの根本的なものは6つあると洞察しています。
それを「六大煩悩」といい、次の如きものです。

1.貧(とん)=何でも我がものにしようとする貧欲な妄念

2.瞋(じん)=自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念。

3.癡(ち))=無常である世の中を「変わらない」と考え、不平不満を鳴らす妄念。

4.慢(まん)=傲岸不遜な妄念。

5.疑(ぎ)=シャカの説く真理を疑う妄念。

6.見(けん)=物事を悪い方に、悪い方にと見ていく妄念。


                      

             

そのうち貧(とん)、瞋(じん)、癡(ち)は、人間の持つ根源的な煩悩で
「三毒(さんどく)」といわれています。

 鹿嶋が知る、浄土宗のお寺で生まれ育った人は、これをリズムを付けて「トン・ジン・チ」といっています。
子供の頃から、実家でそう教えられて育っているのですね。

でも、その意味はあまりわかっていないようです。
それで「人間の煩悩はトン・ジン・チ、やで・・」とやっている。
「やで・・」というのは関西弁です。



                    




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Vol.10 聖書との比較②

2007年09月06日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想



                    

稲盛哲学では、他にも聖書と共通した思想をもっています。

次に~~
「人間のこの世での幸福実現方法」を比較してみようと思います。



                    

<稲盛思想と聖書の共通点>

 その一つは次の如くです。

~~両者とも、「創主は人間を幸福にしよう、しようと願っている」という思想です。
そして、創造主の思いに人間の言動が沿っていれば、人間は自然に幸福を得られる、と。

だが、人間には自由が与えられている。創主の願いに沿わない言動もできる。
そして、沿わないと不幸になる。幸福になるのは創主の思いに沿うことだ~~と。

このあたりは、両者重なっています。

そして稲盛さんは、「この自由の中で人間が、創主の思いに沿うように心をもっていくことが、精神を高めること」である、と考えます。

また、この「精神レベルを高める」のがこの世での人間の究極の人生目的である、としておられます。



                    


<聖書特有の論理>

 だが、聖書は更に、上記に付け加える如くに、次のような思想ももっています。

~~すなわち、宇宙には人間の幸福を妨げる存在がいる。これが悪魔とその配下で働く悪霊である、と。
また悪魔たちは、人間の思いが創主の願うところと外れるように、外れるように、と働く、と。

さらに、この世(宇宙)では、悪魔にはそうやって人間を不幸にする権限が一時的に与えられている~~ともなっています。
具体的には、人間が創主の思いに沿わない言動をしたとき(これが罪です)、そこにつけこんで不幸にする権限が与えられている、と。




                    


では、そんな悪魔がどうして存在するのでしょうか。これは、前回①でのべた「天の創主王国が聖書ではあるとされている」ことに繋がっています。

悪魔は天の創主王国にいたときには、天使であった、という論理です。
そこで与えられていた職務は、創主の名を讃美することであった。
だが、その天使の長が、あるとき職務に反して、傘下の天使たちに自分を讃美させるようになった、と。

また、これをした結果、天使はサタン(悪魔)に、そして傘下の天使たちは「天の諸々の悪霊」に変質した。
すると、創造主は天の一角に暗闇(宇宙)をつくり、自らに従う天使たちに命じて、悪魔悪霊を暗闇に追い落とさせます。

そして、この宇宙の中の地球上に動植物、そして人間を創った。これが人間の置かれている環境状況であって、このなかで創造主の願いに沿うようになっていくのが幸福になる方法だ~~という論理になっています。


                    



<哲学・科学からは展開しない>


 悪魔・悪霊を含む上記の一連の論理もまた、哲学・科学からは展開する可能性の少ないものでしょう。

これらは哲学・科学の立場からすると奇想天外に映じてきます。
稲盛哲学にそれがないのは、自然なことのようにみえます。

 では聖書は、どうやってそんなことを書けたかといいますと、そこでの記述は「創造主の啓示によるもの」としているからです。

 創造主ならば、被造物が存在させられる始めから「すべてを見て知っていますから」悪魔や悪霊の話を事実として書くことが出来る道理になります。


                    




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Vol.9 聖書との比較①

2007年09月02日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想




                    


ここでちょっと稲盛思想と聖書との比較をしてみましょう。

<空間理念>

まず、空間理念から。

これは聖書の空間理念図をもう一度持ち出すのがいいでしょう。
図を参照してください。これまで何度も引用したものです。
(どうしてこうなるかは鹿嶋『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)を参照してくださいね)

稲盛哲学と聖書には、共に地球と宇宙があります。
しかし、稲盛思想には図の「天の創造主王国」(略して、天国)がありません。

                    


<天の創主王国>

聖書では、天国は創造主が真っ先に創った被造空間となっています。
そこは創造主が王として完全統治する創造主の王国です。

その住民は当面天使たちで、そこを十字架にて殺され復活し昇天したイエスが、父なる創造主(の名の)右の座にすわって統治しています。

聖書では宇宙は将来、火で焼かれて消滅します。
そして、新しい身体に復活した人間は、最後の審判を受けます。
創主の子イエスが救い主であることを受容した者は、この天国に永遠に入れられます。
受け入れなかった者は、永遠に火の湖に入れられます。

ですから、天の創主王国は人間の最終ゴールということになっています。
聖書ではですから、イエスは「まず天国に入れるようにしなさい。この世の幸福は二番目に求めなさい」との旨の教えをしています。


                    

また、そこに入るには、イエスを通してでしか行かれませんので、イエスは「私が道である」というわけです。

また、そういうイエスが「人の子」として地上に来るとき、「天の創主王国が近づいた」とバプテスマのヨハネは預言するわけです。

これは天の創主王国が物理的に近くなったという意味ではなく、そこにはいる道(人の子・イエス)が地上に来るので、霊的に近くなった、と言っていることになります。


                    


<人間の経験基盤思考の限界>

稲盛思想に天国が含まれないのは、この空間概念は人間の五感経験認識を基盤にした思考の外側にあるものだということを、示しているように思います。

 稲盛さんは、物理科学、天文科学から心霊科学に到るまで勉強して空間理念を展開されます。
科学というのは、人間の五感経験認識を基盤とする認識手法です。これをベースにして思考を展開した場合、広大な空間はやはり宇宙まで、ということになるのではないでしょうか。

                     


 そうだとしたら、天の創主王国の理念は、経験認識基盤以外の所からしか形成できないことになるでしょう。それをわれわれ人間は、聖書の言葉から得ているわけです。福音には天国の理念は不可欠です。それ故「(福音)信仰は聞くことから始まる」という聖句は当を得てることになります。

 受け入れられる、られないに関わらず、「理念を伝える」ということは伝道活動なんですね。

                    




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Vol.8  稲盛さんの「意識体の大切さと人生目的」

2007年09月01日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想


                    

「稲盛『哲学』と聖書の思想」第8回です。

稲盛さんは、人間についてさらに次のように考えます。


                    

<人は脳細胞と意識体から成っている>

~~人間は、脳細胞(脳神経系)と意識体(精神・霊)からなっている。だから肉体の死は、意識体が肉体から離れるだけのことだ、と。

(たぶんここでは心霊科学を学んで得られた知識をも援用されているのではないか、と思います)。


                    


<意識によってDNAも変わる>

そして生存中の人間の意識と肉体については、こう述べています。
~~何十兆という細胞が、われわれの意識によって、活性化されたり衰えたりする。

意識のありかたが、想像以上に大きな影響を人間に与えるのだ、というのは、松下幸之助さんと同じです。

が、稲盛さんは、更に進んでこんなことも言っています。

意識によって、DNA(遺伝子)も変わる。
動物もそうであって、キリンの首が長いのは、長くなりたいという意識がDNAに影響してきて、そうなった、と。

 稲盛さんは進化論は不完全だと考えるのです。

 進化論では適者生存の論理が柱です。たまたま長い首が生存するのに適していたから、キリンの首は現在そうなっていると考えます。しかし稲盛さんは、「それならその地域にいる動物はみんな首が長いはずだ」というのですね。だから進化論は不完全だと考えるのです。

                    


<人生の目的は意識体を高めること>

  稲盛さんの考えですと、結局、重要なのは意識体のあり方だ、ということになります。

 これは聖書と共通しているところでもあります。聖書では稲盛さんの言う「意識体」を「霊」といいますが、結局は永続する霊のあり方が肉体より大切だという基本思想をもっていますし、肉体のあり方は基本的に例のあり方でもって決まるとしていますから。

 そのことを、稲盛さんは、科学の知識をもちいて、DNAがどうなる云々と、もっと具体的に考えられているのですね。
   
                    


 ともあれ、そうした考えを背景にして、稲盛さんの思考は焦点に向かいます。すなわち「この世と、そこでの人生の目的は何か」について稲盛さんはこういうのです。

~~この世での人生の目的は、意識体が肉体の中にあるうちにその精神を「高める」ことである。

 ジャーン、出ましたよ、稲盛さんの人生の究極の目的論が。
 そして、こう言われます。

 現世はそのための「修練の場」である~~と。

                    





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