鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

30.安息・平安は正確な認識にも必要

2018年12月23日 | 鬱を打破する聖書の論理



心の平安(安息)は正確な認識にも必要である。


<ベルグソンの「時間」認識>
 
哲学者ベルグソンは「時間という実在は存在しない、概念だけのもの」ということを論証した。
 
彼は時間として認識されているものの実体・実在は「持続」のみだという。

彼は人間には直感という認識能力が与えられている、とする。
この能力を純粋に生かして実在を認識すると、そこで受信されるのは「持続」の感覚だという。
時間というのは、その認識内容に、平面幾何学の直線の理念を投影した概念にすぎないと論証した。



<ベルグソンの瞑想>

彼は図書館を主な仕事場としていた。
そこで長時間瞑想している彼の姿を人々はよく見かけたという。

心に安息を形成していたのだ。
深く繊細な感性認識は、心に平安あってのものだからだ。
安息があって初めて、実在の微妙な波動が識別できる。

彼の、この世の実在の的確な認識は『笑い』の心理分析にも見られる。
 



<霊感認識も同じ>

霊的存在に対する霊感認識も同じだ。
霊感とは、直感という認識能力の一部だ。
ここでも精神の平安・安息が、正確な対象認識に必須なのだ。



<量子論で理解すると>

量子論は、存在の根源は波動であることを明かした。
学者は光子という素粒子について実験で確かめた。
それは「認識されることによって」変化する、ということを。

(このあたりは、このブログ内の
を参照されたい)
 
認識者が発する意識波動の影響を受けるからだろう。



<「イエスの言葉が裁く」とは>

光子は波動体の一つだ。
波動体が、ただその存在を認識されるだけでも影響され変化するのならば、それが認識者による受信の状態によっても相応に変化するだろう。
受容されれば相応に、拒否されればまた相応に、変化するだろう。

この知識によって、従来その理由が謎であったイエスの次の言葉も物理学的に理解できる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。
私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」(ヨハネによる福音書、12章58節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すなわち、イエスが語った言葉は、波動量子群という実体になっている。
それが否定的に認識された場合には、「最後の審判」のときに、その人に有罪の裁きをする意識体に変質する~と解せられる。

ちなみに、肯定的にアクセプトされると、イエスのその言葉の量子群は、認識者の霊を活かす強力な活霊量子群となって働くだろう(つまりその人を「活かす霊」になる)~と解釈できるのだ。

+++

聖句にあるイエスの言葉を、正確にして詳細に認識するにも、心が平静であることが必要となるだろう。

恐れや怒りがあれば、それは強い波動を発する。
それは、対象の波動体を顕著に変質させるだろう。
安息状態が、そうした影響を最小にするのである。

ルカ伝によれば、復活して弟子たちの前に現れたイエスは、自分にそれまでに起きたことを、詳細に説明している。
モーセから初めて、旧約聖書に書かれてきたことが、いかに自分のことを預言しているか、を教えている。

もちろん、教えは、霊的な奥義である。
こうした微妙な説明を把握するにも、こころの安息(平安)は必要であった。
だからイエスは、復活の姿で現れると、まず「安息あれ」といったのである。
イエスを見ても半信半疑で動揺している弟子たちに、まず「心に平安を」といったのだ。


   
 
 
<同一化のためにも>

蛇足ながら、認識哲学的にも、心の安息は正確な実在認識に必要といえる。

ベルグソンが明かしたように、正確な実在認識は、対象に心を寄り添わせ、同一化することで可能になる。
 
人はそれを内省、感触して、実在の正確な認識を得るのである。

量子論的にいうと、同一化によって自分の内にも、対象と同一の波導体が出現することになる。
その同一化が心に実現するのも、恐れや怒りの感情を抱いていて、心が荒れていたらできないだろう。
心を寄り添わせるには精神の平静、安堵が認識者の心に不可欠なのである。




 
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29.peace、平安、安堵、安息

2018年12月17日 | 鬱を打破する聖書の論理


心の平安をイエスはとても重視している。

「自分が(殺されて)去る」と告げたときにも、弟子にまず、平安について入念に語っている。



<諸君に平安を残します>

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは、諸君に平安を遺します。
諸君に私の平安を与えます。
わたしが諸君に与えるのは、世が与えるものとは違います。
諸君は心を騒がしてはなりません」
 (ヨハネによる福音書、14章27節)
・・・・・・・・・・・・


この背景は次のようになっている。

イエスと弟子の仕事の骨子は、次の二つだった。

① 天国(御国)について伝える。
② それを「しるしと不思議」(奇跡)で証明する。

これらにつき、弟子はもっぱらイエスに頼りっきりだった。
特に、②はそうだった。

そのイエスが、突然「自分は殺されていなくなるよ」という。
 
実際、まもなくイエスは弟子の目の前でとらえられ、すさまじい拷問を受け、十字架につるされて絶命する。

弟子たちはそれを予告されて、不安や恐れをこえた、ほとんど恐怖に襲われる。

周囲には敵対する人も多い。
これからどうしていったらいいのか。皆目わからない。

これに対してイエスは、上記の聖句を語ったのだった。

 
    
 
<天の平安。地の平安>

しかし、この聖句でイエスが伝えようとしている心理状態を的確に示す日本語はない。
「平安」は役不足なのだが、これをpeaceの訳語として使っている。
これしかないので使っている、というのが実情だ。

なぜなら、イエスの言うピース(平安)には、二種類が想定されている。

「天(天国)の平安」と「地(地上)の平安」だ。
イエスはそのうち前者の「天の平安」を語っている。

それは一つの「意識波動実体」であって、「グレース(無償の愛)に満ちた静謐の空気」とでもいうべきものだ。
だが日本人にはそういう心理状態が伝統的にないので、対応する言葉がない。



<平安>

平安は「平らで安らか」というだけで、抽象的だ。
具体性が乏しく実感につながらない。

平安神宮とか平安高校というのは京都にあるが、日常には使われない。
これはおそらく中国からの輸入語(漢語)だろう。古代京都における言語文化には、漢語を直輸入して貴族階級が使っていたものが多い。これもその一つだろう。
 
だから日本語の平安は、これを感知させるには文句なく役不足なのだ。
(なのに邦訳聖書では、この語をもっぱら使っているので、「平安」巡るあたりで、漠然としてわからなくなる本と、日本人には聖書はなっている)
 
 

<安心>

なんとか手触りを感じさせようとして他の言葉を並べれば、
  安心、安堵、安息といったところか。

安心は、「心」のことだと示しているので、平安よりはいいだろう。
新約聖書には、イエスの「安心して行きなさい」という語の邦訳が一つだったか、ある。

      

<安堵>

安堵は、恐怖が去った後に、どっと来る「安心感」というニュアンスがある。
そういうリアルな感触がある。


<安息>
 
我々の感覚に比較的ぴったりくるのは「安息」だろう。
心の安らかさには、吐く息、吸う息が色濃く関連している。
安らかさがないと息が乱れる。
安らかだと息が静かで平で落ち着いてくる。

「息」にはそういう体感、身体的感覚にも繋がっているので、安息は実感しやすい言葉なのだ。
 
かといって邦訳聖書では平安がすでに常用されている。
そこでこれも無碍に捨てるわけにはいかない。
だがこれからはなるべく、peaceに近い感触を得る必要がある。

そのため「平安」「安息」「安堵」「安心」「平安(安息)」「安息(平安)」といったような語を適時使う必要がある。







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28.「主の祈り」の基盤は平安と安息か

2018年12月10日 | 鬱を打破する聖書の論理

 


本論に戻ろう。
イエスの夢の言葉(約束)にもどって、その解読を続けよう。
 
 
・・・・・・・・・・・・
「(Ⅰ)「諸君がわたしの言葉に留まり、(II)わたしの言葉が諸君の内に留まるなら、(III)求めるものはすべて与えられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
今回は(III)だ。
これは、(I)(II)が十分になれば、オートマチックに成るはずのものだ。
だが、ほとんどの場面で、これが現になっていないことを、われわれは観察してきている。
 
その結果、われわれは従来、この夢の約束は忘れることにしてきた。
 
だが、いま筆者はその境地から脱却せねばならない。
なんとしても、聖書の中にウツ病打破の論理を見出さねばならぬ。

こういう実践姿勢を強く抱いていたら、不思議に、(III)がオートマチックに実現しない理由を探す意欲が湧いてきた。

+++

やってみる。
問題は(I)と(II)以外にない。
そこでこのあたりに再びもどろう。

(I)は「イエスの言葉(ワールド)の中に住まう」だった。
(II)は「そのイエスの言葉が住まった人の意識のなかに住まう」だった。
 
おそらく、この中に、(III)に繋がっていかない原因が潜んでいるはずだ。

これを改めて吟味してみよう。
 
 
<「主の祈り」に核を予感した>

(I)については、筆者は~イエスの言葉(聖句)が極めて多いので~核とする聖句を探した。
そしていわゆる「主の祈り」にその核を予感した。
 
+++
 
イエスは「祈り方」を教える前に次のような趣旨を述べている。
 
~創造神は諸君の求めているものなどすべてわかっている。だから、それらをクドクド祈るな。ただ、これだけ祈れ~と。
そこまで言って教えたのが「主の祈り」だから、ともかくこれはイエスの言葉の中核とみるのが妥当だろう、とした。
 
+++
 
その祈りは「御国(天国)を来たらせてください(地上の私の周りに)」に始まった。
それに続いたのは、実質的に「御国が来れば次の三つが地上に実現します」という宣言だった。
 
・・・すなわち(御国の空間が来れば)~


~御心が天になっているように、地にも実現します。具体的には・・・

~①私たちに日常の糧が与えられます。
~②我らの罪は許され、我らも私たちに罪を犯すものを許せるようになります。
~③我らは試みに会わせられることはなく、すでに悪に誘い込まれているものは悪魔より救い出されます。
 
~だった。
 

+++

先回には、ここまで解読した。
だが、今あらためてみると、この三つにも共通して存在している基盤があるような予感が湧いてくる。
それは「平安」だ。英語でいうpeaceだ。
 
 
 

 
<経済成長による糧と天からの糧>

理由はたとえば①の日常の糧についてみると、こうだ~。

いまわれわれ日本人は、経済成長のおかげで上から解放されたように見える。
だが物質世界に生きているわれわれには、日常の糧が得られない可能性は常にある。

あるとき自分の所得がなくなることもあろう。飢饉も起きうる。
地上の物質世界での供給に頼って生きているわれわれには、日々の糧について不安は尽きない。不安の源はなくならない。
 
 

<「人の子」イエスが見せた「天からの糧」>

ところが、日々の糧が得られなくなったとき、波動が物質化してそれが出現するようになっていたらどうか。

イエスはそれをこの地上で実際に示した。
5,000人分の魚とパンを出現させて示した。

+++
 
量子論的にいうと、天国には創造の(周波数を持った)エネルギー波動(被造されたエネルギーではない)が満ちている。
 
御国(の性質を持った空気)が人の周囲にやってくると、このエネルギーが、波動を物質化する。
こうして、結果的に、望む物質が出現し与えられる。
 
こういう、地上を越えた天の力が、御国が来てくれたら、糧は常時与えられる。
これが「天からの糧」だ。
こういう信頼の中に住まっていたら我々の心理はどうなるか。
いまだかつて体験しなかったような深い安堵と平安に満たされているだろう。



<地上での物質意識による平安>
 
最近話題になっている日産のゴーン元会長の行動も、じつは、この平安の稀薄さで説明できる。
彼は年間何十億もの報酬を得ながら、なぜ、さらにあくなく十億単位のカネを求め続けるのか。

聞くところでは、貧しい者への寄付をしている気配もない。
 
+++

人間は豊かな貴族に生まれても、意識がこの物質世界にある限り、「食べられなくなる」という不安は、ゼロにならない。
そしてその不安は、成人するとともに「人間死んでおしまいかも」という恐れと混合する。
それはさらに他の恐れ(人間関係などでの)とも混合して、渾然一体とした「安息不全」の「恐れ」の意識体になる。



<ゴーン元会長の平安不全>

ゴーンさん生い立ちは貧しかった、という。日々の食べ物に事欠く貧しさだった。
そういうなかで育つと、食べられなくなることへの不安(恐怖心)は一層強くなると推定できる。

+++

だが、その不安は地上の物質的糧で生きる人間には基本的に内在する。
 
ゴーンさんの場合、それが比較的強かったということにすぎない。

+++

その根底的恐怖が、ルノー、日産からの所得が百億単位で蓄積されても、消滅しきらないのだ。

これが昨今のゴーン容疑者の心理を理解する鍵だ。

+++

彼は金銭感覚が飛び抜けて鋭く生まれついていたので、経営実践も天才的なものがあった。

だが同時にその感受性は、彼に、常人を遙かに超えた強さ、深さの「日ごとの糧」への不安をも形成しただろう。

 
 
<究極の平安体験者の涙>

実はそういう心理実体は、天国への信頼から来る完全平安、究極の平安という対極理念を知って、はじめて感知できるものだ。

筆者はこの平安、安堵感を体験した人の証言を一度ならず聞いている。
それは言葉では「もの凄い平安」としか表現できない。

むしろ、証言する人の姿の方が、それをよく表現している。
彼らはその静謐と愛に満ちた平安の体験を思い出して感動し、涙して語る
ついでながら、筆者も、その平安を一瞬体験したことがある。

+++

ともあれ、この平安を知った分析者には、ゴーンさんの平安の稀薄さが識別できる。

平安、安息の話はもう少し続けよう。





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27. (臨時版3)「異端!」は正統解読あって初めて言えること

2018年12月01日 | 鬱を打破する聖書の論理


<カトリックの反動革命>
 
前回、イエスの弟子たちが始めた初代教会は「人を律法の養育の下から解放した」ことを示した。
 
その状態でキリスト教会は活動を続けたが、1世紀余り後に、一つの教理を正統として活動を統一する方式の教会が現れた。これが後のカトリック教会である。



<大衆を大量に扱えるシステム>
 
この方式は、大衆を大量に収容し組織化するのに適していた。
また、指導者をプロの僧侶として養成し、これも階層的に組織化するに適していた。
 
カトリック教会は急速に大規模化した。その勢いで、大ローマ帝国の唯一国教の地位を獲得した。



<自教団の方式を強制>

すると、彼らは国家権力を利して、欧州の全人民に自分たちの活動方式を採用するよう強制した。
 
国教会となっていたカトリック教団、は初代教会以来の自由吟味方式で活動する人々をも例外としなかった。従わない彼らに苛烈な攻撃を加えた。近世になってこの母体から出現したプロテスタント教会も同じ原理で動いた。
 
両教会はこぞって、自由吟味教会の情報を封殺したキリスト教史を流布し続けた。その結果、キリスト教活動のほとんどは、再び養育係の下に引き戻されることになった。その状態は現在も続いている。

 
<結局反動革命を起こした>

若干余談になるが、筆者はカトリック教団を一面的に批判しているのではない。
新方式の指導者にも、歴史上、しかたないところもあったのだ。
 
最初に使徒たちの所に集まったのは、聖書を読む知識人たちであった。
 
1世紀後に教会にやってきた大量の人々は、そのほとんどが聖書を読まない大衆だった。カトリック指導者たちも、養育係の下でのようにして対応するしかなかったかも知れない。
 
だが、カトリック教団が手にした権力は強大すぎた。
彼らは結果的に、初代教会で芽生えた自由吟味活動の流れを、逆流させてしまった。
 

『バプテスト自由吟味者』を出した動機>
 
筆者は、以上のようなキリスト教活動の歴史、ひいては世界人類の思想的全体像を示しておきたくて、『バプテスト自由吟味者』を出版した。
もとより現状では、一般の人々にこんな小冊子が受容されることはない。売れない本なので筆者に印税は全く入らないし、出版主(桐生さん)も赤字のままだ。でも、この情報は人類に重要きわまりないと思って、出版した。

 
 
 
<黒を知って初めて白を自覚>
 
われわれは白を、対極の黒があるから、明確に認識できる。なかったらただ漠然と「明るい」のみだ。世の中に男性がいることによって、女性は自分が女であることを認知できる。おとこがいなかったら、ただ「人間」として認知するだけだ。
 
同様に自由吟味方式を知って、はじめて、教理統一方式を明確に認識できる。
 
自由吟味方式の基底にある「人間は真理に到達できない」というスタンスを知って、はじめて、教理統一方式の基底にある「人間は真理に到達できる」という思想を認知する。
 
そのために、自由吟味方式のなんたるかを人々に知ってもらうことを切望して上記の小冊子を出した。
これは「人間はだれも聖句の絶対正統解釈には至れない」という示唆も明確に与える本でもある。

 
<安易な「異端!」呼ばわり>
 
この気付きは重要だ。
それを悟れば、人はもう他者を「異端!」と攻撃することがなくなる。自然になくなっていく。
なぜなら、「異端というのは絶対の正統があって初めて言えること」だからだ。
 
+++
 
その際、攻撃するものが正統として与えられているのは、論理上、教団の教理だ。
ところがその実、彼らは教理書など読んでない。読んでもわからないし。その状態で他者を「異端!」と呼ばわっている。なんと愚かなことか。
 
そのことに目覚めれば、クリスチャンが、聖句を手がかりとする他者の世界探究を「異端!」と呼ぶこともなくなる。まるで何かに操られているかのように、他者を攻撃し、否定の力を及ぼすこともなくなる。
 
 
          

<創造神の意図>
 
聖書の世界観では、創造神は人間を存在せしめ、生き続けさせる。その意図に沿うのが人間のあるべき姿、となる。(創造神が決めたのだから)
 
その人間が、自らの置かれた世界を知ろうとする知的ないとなみの道、・・・これに言葉で手がかりをちりばめているのが聖書だ。
 
人はこの道をともに進めば、喜びがえられ、さらに知識を得るために聖句を自由吟味する小グループで助け合える。
 
その姿が、米国サザンバプテスト地域に活き活きと息づいていた。これが創造神の意図に十全に沿った姿だった。

 

<「悪しきもの」のけしかけ>
 
しかるに、大半の人間は他者の世界探究に否定の力を与える。攻撃する。繰り返すが、まるで何かに操られているかの如くに、攻撃する。
あたかも自分が絶対正統な聖書理解を得ているかのように欺されて、他者の世界探索を「異端!」と攻撃する。
 
+++
 
愚かなことだが、「何かに操られているかのように」には聖書的根拠がある。
 
イエスが教えた「祈り方(いわゆる“主の祈り”)」の中の「我らを悪しきものよりお守りください」の「悪しきもの」が、人間をこの愚かさにけしかける存在なのだ。
 
これに欺されないことがいかに必要なことか。
これに乗せられていたら、人間は他者を「異端!」と攻撃し、否定の力を及ぼす。
否定の力、これすなわち「鬱のタネ」だ。情けないことに、現状では、信仰者が互いにそれを植え付けあっているのだ。
また、他者からの「異端!」という攻撃を恐れることによって、自らの内に「ウツの種」を植つけている。
まさに、「鬱の奴隷」だ。
 
この源泉が、「人間は究極の真理にいたれる。そういう賢人がいるんだよ」という思想だ。これが人間を相互にウツを与えあうようにだまし、誘導する。
繰り返すが、これに乗せられている姿の、なんと愚かなことか。
人間は、そのことに、早く、早く気付くべきだ。
 
それを悟らせてくれるほとんど唯一の教材がバイブルだ。それを自由吟味すると実情が悟られる。これを活かせば聖書は創造神が人間に与えている宝となるのだ。
 
+++
 
これから筆者は本論に戻る。
イエスの夢の言葉の(III)の解読に入る。
その際、読者が筆者が上記のごとき事実認識にたって、思考していることを知って欲しい。
そして望むらくは、読者もまた自由に、恐れなしで、お付き合いくださることを願う。

 

 

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