鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.240『前もっていっておくよ』(14章29節)

2008年08月25日 | ヨハネ伝解読
しばらくご無沙汰しました。ようやく暑い日々も少なくなってきましたね。
 本日も、イエスの遺言を読みましょう。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「今わたしは、それ(自分がこの世を去って父なる創造主のもとに行くこと)が起きる前に
諸君にそれを語っているんだよ。それはことが起こった時に諸君が信じるためなんだよ」(14章29節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 
 ヨハネは自分の福音書に記述する事項を選び選びして書いています。
「イエスのなさったことを全て書いたらこの地上に収まらないほどだ」
(ヨハネ伝、21章25節)というくらいですから。

 だから、短い言葉ですがここも相応に深い意味を含んでいるはずです。
「諸君がことが起きた時に信じるために、今私は前もってそれを言っているんだ」
という短いフレーズですけど。

ここで「諸君が信じる」というときの信じるの目的語は何でしょうか。
「何を」信じるためとイエスは言っているのでしょうか。

 答えは「イエスの言葉」です。
聖書における信仰の対象は、具体的にはいつもイエスの言葉だと思って、ほぼ間違いないように思います。


                    



 この時点、この状況で弟子たちがイエスの遺言の言葉を信じるのは容易でなかったと思われます。
今の我々には、新約聖書という本がありますし、キリスト教は世界最大の宗教として、
多くの信仰者がいる状態を確立しています。
 
 けれどもこの時代にはイエスは新しい教えを始めた一人の先生にすぎません。
新約聖書もまだ編集されていませんので、その教えの全体をレビューするにはとても不便です。

 こういう状況で、イエスが前触れもなく殺されたり復活したり昇天したりしたら、
弟子たちは現実のことと思うのが難しいでしょう。
その時には現実感があっても時と共に「あれは夢か幻だった」という気持ちになるでしょう。

 イエスにはそれがわかっているのです。
そこで対処策として「十字架で殺され、復活し、天の父のもとに行く」と
まえもって遺言しているのですね。
これは聞く者にとっては奇想天外な話ですけど、実際にその通りのことが起きると、
「ああイエス先生の話は本当だったんだ」と思いやすくなるでしょう。
それがイエスの語った言葉全体への信頼感にもつながっていくでしょう。

 イエスの言葉への信頼というのは、キリスト教信仰の核心です。
この感覚が少しなりとも生じるために、
「前もっていっておくのはね、諸君が私を信じるためだよ」
と敢えていっているのでしょう。


                    




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Vol.239『父(創造主)のもとに住む方が幸福なんだよ』(14章28節)

2008年08月10日 | ヨハネ伝解読
(イラストは、聖書の空間理念を図示したもの)

  
イエスの遺言は続きます。
前回にはイエスは、弟子の心理に焦点を当てて語っていました。
今回は、イエス自身について弟子たちに語ります。

                     
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「『私は去っていきますが、また諸君のところに帰ってきますよ』~と私が言った言葉を諸君は聞いたよね。
もし諸君が私を愛してくれるなら、私が父のもとに行くのを喜んでくれるはずだよ。
父は私より偉大だから」(ヨハネによる福音書、14章28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


  ここでイエスは「もし諸君が私を愛しているのなら、私が諸君のもとを去って父の元に行くのを、喜ぶはずだよ」 
~~といっています。そしてそれに続いて

 「父は私より偉大だからだ」~~といっています。

   どうして自分より偉大な父の元にいた方が、イエスはいいのでしょうか?

 まず、父なる創造主がイエスより偉大であるという聖書の論理を理解し再確認しましょう。


                    


 「父、子、聖霊は三位一体」という言葉があります。三者は「三つにして同一の存在」、という意味です。
これからしたら、父(万物の創造主)、子(イエス)、聖霊の間には偉大さの差はない、と想像されます。

 だが、これはまあザッと言えばそうだと言うことでありまして、詳細にはそうではないのです。
例えば、イエスは全知全能と言いますが、詳細にはそうではありません。
7年間の大艱難はいつこの地上にやってくるかを彼は知りません。
「それは父だけが知る」とイエス自身が言っています。イエスにも知ることのできないことがあるのです。


                    


 そもそも三位一体という言葉を、聖書に見たことは春平太にはありません。
どうもこれは神学用語らしいです。

 神学というのは、聖書における論理的な筋道を見つけていく学問であります。
そういういわば知性的な作業には、聖句そのものの持つ多様で膨大な意味合いを
すべては汲み取らないという、根底的な性格があります。

 まず最初に聖書の総体から若干の大枠を引き出し、
次にそれらの大枠に合致しないものはすべて総体から排除する。
これが神学作業の本質です。(だから、論理的な理解がしやすいのです)

 三位一体という概念に大ざっぱなところがあるというのは、これはもう自然なことなのです。
(だからなるべく早く、聖書そのものに移り、知性・論理力だけでなく
感性・霊感も働かせて読むのが大切なのです)

が、ともあれ、そんなわけで、父なる創造主はイエスより偉大な存在です。

                    

<父のもとの方が幸福>

次に~「もし諸君が私を愛しているのなら、私が諸君のもとを去って
父の元に行くのを、喜ぶはずだよ」~を解読しましょう。
 「諸君は喜んでくれるはず」ということは、イエスは父なる創造主のもとにいた方が、
この地上にいるより幸福だ、ということでしょうね。
 どうしてでしょうか?

                    


<創造主の王国>

 まず「父のもと」、とはどこか?
これは天の創主王国、いわゆる「天国」です。
これと地球上の世界との空間的な位置関係を、これまで幾度も提示してきた図で確かめましょう。

 天国は、宇宙の何百倍、何千倍と広大な空間ですが、それは被造界であって有限な世界です。
無限の大きさを持った創造主は、そこに入れない道理になります。

 だが、そこには、父の名がおかれているという。そして、そこでは父なる創造主のルールが貫徹しています。
そういう世界ですから、父のもと、といってもいいわけです。イエスはそこに行く、といっているのです。

                    

 <世はイエスを苦しめるところ>

 他方、この世は、といえば、それは図で宇宙として示されている空間です。
そこは、基本的に悪魔のルールが貫徹するところです。
(この後の、30節で言われますが、悪魔は「世の君(君主)」なのです)

 イエスは、今、そういう世にきているのです。
そこで、天のルールが通用する空間(これすなわち本質的には「天国」です)を、
「しるし」を連発しながら次々に作っていきます。

イエスがしるしを現して「天国がここにある」というのも、
それ以前に、バプテスマのヨハネが「悔い改めよ、天国が近づいた」と、
間近に迫ったイエスの活躍を預言するのも、それにつながっています。

 イエスが「この地上」でそのように活躍するのは、我々からしたら痛快にみえるかもしれません。
が、イエスにとっては天国にいるのに比べたら、そうでもないのです。

 なによりも、そういう働きをしている間にも、世は、イエスを理解しません。
誤解ばかりで軽蔑し、罵倒し、傷つけます。
これは、創造主の子としては、快適でないどころか大変つらいことでもあるのです。

                    


<使命はあるが>

 もちろんイエスは、なすべき使命を持ってこの世にきています。
自らは罪なき存在でありながら、人間と同じ罪人の状況に置かれ、
それでもって、人類の罪の代償を行うという使命です。
アダムから始まっているその罪を人間に代わって償うのです。
そのために、世に来ている存在です。

 そして、それを成し遂げていくのですが、使命がどうあれ、
それは極限の苦しみを経験する厳しい仕事ですよ。
「自己実現に成功したら至高体験が得られる」などというのは、
被造物たる人間世界における軽い努力での話です。


                    


 天国では、イエスに屈辱を与える存在はいません。
みんながイエスの言葉の真意を理解しイエスに従い、賛美します。
全ての存在の内で「もっとも偉大なる創造主」の統治が行き届いている世界です。
天のルールが貫徹している世界です。

 イエスが、「父は自分より偉大だから」、というのはそういう意味でしょう。
「そういう偉大な存在の統治が貫徹している世界に住むということが、
父のもとにすむことだから」ということでしょう。

 そこに住んだ方が、この世に住むよりイエスには何百倍も幸せなことなのですね。
イエスへの有難うの気持が湧いてきませんか?


                    




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Vol.238『私の平安を残しておくからね』(14章26節)

2008年08月03日 | ヨハネ伝解読

 イエスの遺言は続きます。 

 先回、イエスは「(自分がいなくなっても、将来)聖霊を送る」と約束しました。
聖霊が、全てを悟らせてくれるよ、忘れたイエスの言葉も思い起こさせてくれるよ、と約束しました。

 現に、そうなれば、弟子たちは、もう何も恐れなくなるでしょう。
  しかし、実際に聖霊が送られてくるには、この最後の晩餐の時点からすると、まだ間があります。

 その間、弟子たちは(聖霊を受けていませんので)事態の急転に翻弄されるでしょう。
心は動転し、次に起きるであろうことにおびえ恐れるでしょう。この時間をどうしたらいいんだ!

 ところが、イエスは、それにも手を打っておくというのです。
それを弟子たちに約束するところが本日の聖句です。 


                    

+++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
 「平安をわたしは残しておきます。わたし特有の平安を諸君に与えます。
これは世が与えるような平安ではありません。心配も動転もしないように。
恐れないように」(26節)
++++++++++++++++++++++++++++++

                    

 イエスは自分の心の中には、平安があるといいます。
この場合の平安は、一つの意識体だと考えてもいいでしょう。平安の意識をもった意識体です。
それがイエスの中にある。だから、これから受ける苦痛、侮辱、拷問、死が見えていながら、
イエスは平安な心で弟子に遺言していられるのでしょう。


                    

<世の平安、天の平安>

 イエスはこの平安の意識体は自分特有のものだといいます。
この世で人々の心に中に形成しうる平安の意識とは違うんだよ、といいます。

 世の平安は、状況が予想を超えて進展したら崩れます。人々は動転します。
 だが、イエスが与えようとしているのはそれを超越したものなのです。
体験しなければわからないけれどもそういうものだから、安心していていいよ、という。

 それは「天の創主王国にある平安」で、創主の意識にある平安です。
イエスを信頼する人々が、将来点の創主王国に住むとき、味わうことになる平安です。
だからイエスは、「世が与えるものとは違うよ」、といっているのです。


                    

<「天国の平安」の波動>        


 この意識体は具体的にはなんでしょうね。

 考えられる一つは、聖霊の与えるものです。
聖霊は天からの慰めを与え、心に平安を形成してしまう「天の平安形成主」でもあります。
そしてイエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けたとき、聖霊を受けています。
だからその聖霊がイエスの心に形成している平安を残しておく、というような解読です。

 考えられるもう一つは、天使です。天使が弟子たちの心に「天の平安の波動」を送るという状況です。

 いずれにせよ、拷問と死を前にしても、弟子たちを思って淡々と遺言できるような平安が与えられたら、
弟子たちの心は、嘘のように鎮まってしまうでしょう。


                    

<どこまで優しいの・・・>

 ですからイエスは言うわけです~~これから事態は激変する。
しかし、心を動転さす必要ないよ、恐れる必要もないよ。
そのとき諸君の心は、不思議なほど平安なままでいるからね。

 春平太は、この聖句に触れるとき、いつも感動を受けます。
特に、"Peace I give on to you" という英訳の聖句からは、
なぜか驚嘆と共に深い感動を受けます。

・・・そこまで残される弟子たちに配慮するのか・・・と胸を打たれます。
イエスのこの姿に触れるとき、人間も志高く持って生きられそうだ、という勇気を与えられます。


                    



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