しばらくご無沙汰しました。ようやく暑い日々も少なくなってきましたね。
本日も、イエスの遺言を読みましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「今わたしは、それ(自分がこの世を去って父なる創造主のもとに行くこと)が起きる前に
諸君にそれを語っているんだよ。それはことが起こった時に諸君が信じるためなんだよ」(14章29節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ヨハネは自分の福音書に記述する事項を選び選びして書いています。
「イエスのなさったことを全て書いたらこの地上に収まらないほどだ」
(ヨハネ伝、21章25節)というくらいですから。
だから、短い言葉ですがここも相応に深い意味を含んでいるはずです。
「諸君がことが起きた時に信じるために、今私は前もってそれを言っているんだ」
という短いフレーズですけど。
ここで「諸君が信じる」というときの信じるの目的語は何でしょうか。
「何を」信じるためとイエスは言っているのでしょうか。
答えは「イエスの言葉」です。
聖書における信仰の対象は、具体的にはいつもイエスの言葉だと思って、ほぼ間違いないように思います。
この時点、この状況で弟子たちがイエスの遺言の言葉を信じるのは容易でなかったと思われます。
今の我々には、新約聖書という本がありますし、キリスト教は世界最大の宗教として、
多くの信仰者がいる状態を確立しています。
けれどもこの時代にはイエスは新しい教えを始めた一人の先生にすぎません。
新約聖書もまだ編集されていませんので、その教えの全体をレビューするにはとても不便です。
こういう状況で、イエスが前触れもなく殺されたり復活したり昇天したりしたら、
弟子たちは現実のことと思うのが難しいでしょう。
その時には現実感があっても時と共に「あれは夢か幻だった」という気持ちになるでしょう。
イエスにはそれがわかっているのです。
そこで対処策として「十字架で殺され、復活し、天の父のもとに行く」と
まえもって遺言しているのですね。
これは聞く者にとっては奇想天外な話ですけど、実際にその通りのことが起きると、
「ああイエス先生の話は本当だったんだ」と思いやすくなるでしょう。
それがイエスの語った言葉全体への信頼感にもつながっていくでしょう。
イエスの言葉への信頼というのは、キリスト教信仰の核心です。
この感覚が少しなりとも生じるために、
「前もっていっておくのはね、諸君が私を信じるためだよ」
と敢えていっているのでしょう。
本日も、イエスの遺言を読みましょう。
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=聖句=
「今わたしは、それ(自分がこの世を去って父なる創造主のもとに行くこと)が起きる前に
諸君にそれを語っているんだよ。それはことが起こった時に諸君が信じるためなんだよ」(14章29節)
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ヨハネは自分の福音書に記述する事項を選び選びして書いています。
「イエスのなさったことを全て書いたらこの地上に収まらないほどだ」
(ヨハネ伝、21章25節)というくらいですから。
だから、短い言葉ですがここも相応に深い意味を含んでいるはずです。
「諸君がことが起きた時に信じるために、今私は前もってそれを言っているんだ」
という短いフレーズですけど。
ここで「諸君が信じる」というときの信じるの目的語は何でしょうか。
「何を」信じるためとイエスは言っているのでしょうか。
答えは「イエスの言葉」です。
聖書における信仰の対象は、具体的にはいつもイエスの言葉だと思って、ほぼ間違いないように思います。
この時点、この状況で弟子たちがイエスの遺言の言葉を信じるのは容易でなかったと思われます。
今の我々には、新約聖書という本がありますし、キリスト教は世界最大の宗教として、
多くの信仰者がいる状態を確立しています。
けれどもこの時代にはイエスは新しい教えを始めた一人の先生にすぎません。
新約聖書もまだ編集されていませんので、その教えの全体をレビューするにはとても不便です。
こういう状況で、イエスが前触れもなく殺されたり復活したり昇天したりしたら、
弟子たちは現実のことと思うのが難しいでしょう。
その時には現実感があっても時と共に「あれは夢か幻だった」という気持ちになるでしょう。
イエスにはそれがわかっているのです。
そこで対処策として「十字架で殺され、復活し、天の父のもとに行く」と
まえもって遺言しているのですね。
これは聞く者にとっては奇想天外な話ですけど、実際にその通りのことが起きると、
「ああイエス先生の話は本当だったんだ」と思いやすくなるでしょう。
それがイエスの語った言葉全体への信頼感にもつながっていくでしょう。
イエスの言葉への信頼というのは、キリスト教信仰の核心です。
この感覚が少しなりとも生じるために、
「前もっていっておくのはね、諸君が私を信じるためだよ」
と敢えていっているのでしょう。