鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

福音の心理学

2006年06月19日 | 「考える宗教」へ


前回の日記に関連して自己紹介なしの(Unknown)人からの質問(コメント)がありました。以前の文章を読んでくれるように言ったのですが、やはり改めてエッセンスを記しておきましょう。


                



<「物理的イメージ世界」と「純イメージ世界」>

人間は各々、心の中に世界のイメージをもって生きています。それを鹿嶋は二種類に分けて捉えています。

人のイメージは通常は五感で受信したものを契機にして形成されますよね。目の網膜に写ったものを、そのまま意識に入れてはいません。それを取捨選択して自分なりのイメージを造っています。あの人はどういう人か、現実社会はどうなっているかなどのイメージです。

それらを組み合わせて造った世界のイメージを鹿嶋は「物理的イメージワールド」と名付けています。

+++

他方、そういう物理的な刺激がなくても、人は心の中でイメージを形成することもできます。これは考えてみると驚くべきなんですけれど、とにかく、そういうメンタルな力を人は与えられているのですね。

かぐや姫の「竹取物語」や桃太郎の「猿蟹合戦物語」などおとぎ話の世界はそうです。
東京ディズニーランドが形成するイメージワールドもそうでしょう。このパークはおとぎ話をたくさん組み合わせ、それを映画のセットのように装置付けし、音楽をつけ、人を配置しているものです。

これが形成する世界を鹿嶋は「純イメージワールド」と名付けています。
通常は、「空想の世界」とか「ファンタジーの世界」とか表現されていますよね。


                



<もうひとつの驚くべき精神現象>

人の精神能力、メンタルな力にはもうひとつ驚くべきものがあります。
それは、「純イメージワールド」にも強い現実感がもてるということです。
現実感、すなわち英語で言えばリアリイティですね。そのリアリティを時として物理的イメージ世界以上に濃厚に感じることが出来るのです。

まさか、そんなことあるか・・・。
それがあるんです。
東京ディズニーランドは全編おとぎ話の世界ですよね。
子供は純な存在ですから、人が入って動いているぬいぐるみのミッキーマウスにも、最初から生き物としてリアルなものを感じています。

大人は通常ディズニーランドに子供につきあって同行します。
アトラクションの乗り物も一緒に乗ります。
最初は「これは作り物のおもちゃの世界だ」と感じています。子供にとってと比べればつまらないものです。

ところが繰り返し色んなものに乗っている内に、心理が変化していきます。そしてあるときこれを子供と同じく楽しむようになっていくのです。どうなってるの? 大人もいつの間にか、この世界をリアルに感じるようになっているのです。

 自分もミッキーマウスと握手しちゃったりして・・・・



<遊園地側の徹底した仕掛け>

実はこのために遊園地側は、徹底した手だてをしています。
ゲスト(お客さん)の目に、外の(浦安市の)現実社会が入らないように、公園の周囲に外壁を張り巡らせています。その高さは、入場者がどこにいても外部の景色は絶対に入らないように計算されたものになっています。

観覧車というのは公園につきものですよね。だが、これも設置していません。外界のイメージを入れないためです。

従業員(キャスト)は、ゴミが出たら即座に拾ってしまうべく回遊しています。ゴミは現実の物理的社会を想い出させます。ゴミが全くない世界が純イメージワールドの条件なのです。

ゲスト同士にいさかいなどが起きたときは、即座に当事者を別室に連れて行ってしまいます。けんかはゲストに恐怖感を与え、現実に引き戻します。即座に目に触れないようにしてしまうのです。

「カリブの海賊」とか「スモールワールド」とか「ピーターパン」とかの乗り物施設はアトラクションと総称しています。これらはたくさんありまして、そのいくつかを順繰りに手直し工事をします。故障もありえますしね。で、そいう工事があるときには、それが目にはいる周囲の乗り物なども全部休止にしてしまいます。誰にも見せない。工事現場は人を現実社会に引き戻すのですね。

その他諸々の仕組みが、公園を夢の世界に保つように設定されています。

このように徹底した純イメージワールドにい続けると、わずか一日のうちにでも人はそれに濃厚な現実感、実在感あるいは本物感といったらいいかなぁ・・・、とにかくそういうリアリティを感じるようになります。
こういう能力が、人間の心には与えられているんですね。
驚くべきことです。


                


<聖書の提供しているイメージ世界>

聖書が提供するイメージ世界も、純イメージワールドです。物理的イメージ世界ではない。でも人間には、これに現実感、リアリティを感じられるようになる素質が与えられています。

だだし、人がそうなるための仕掛けは、ディズニーランドのように物的に大がかりなものではありません。しかけは、言葉だけです。

聖書のイメージワールドは~~

万物の創造主がいて、
その創造主が統治する天の王国があって、
その中に天使がいて、
王国の中の外れた一角に小さな小さな(闇の)空間があって、
これが宇宙で、
その中に悪魔と悪霊が閉じこめられていて、
その中にチリのように小さな太陽系と地球があって、
人間がその地表に造られて存在していて、
   そこで各々が肉体を持って
   各々、百年ぐらい生きていて
   そういうのが生まれたり死んだりを繰り返している

        ~~というようなワールドです。

これって大半が人間の五感覚で認知できないものですよね。だから、このイメージ世界はほとんど純イメージワールドだ。

 そしてこの世界のイメージが、聖句という言葉だけによって形成されるようになっています。人間には想像力という驚くべき能力が与えられていますので、言葉を契機にしてイメージワールドを形成することが出来るのですね。


                


<言葉だけでどうやって?>

 けれども聖書は言葉だけですよ。
こんなものだけで、そのイメージ世界にリアリティを感じられるようになることなどありうるでしょうか。
歴史的には「あり」でしょうけどね。
これに多くの人が現実感を持ち、そのために殉教したり教会を造ったりしてきたのですから。

だけど、今はテレビもありますから・・・。
現代感覚でそんなこと起きうるのか。
少なくともディズニーランドにおけるように容易でないことはたしかでしょう。

答えは「聖句を繰り返し、繰り返し読むこと」です。

聖句は言葉であり、言葉には外皮があります。この皮を突き通して内側にある肉を味わうことができると、人はその世界にリアリティを持つに至ります。

それには、その言葉を繰り返し繰り返し、読み、検討し、探求していくことが必要なのです。
それには数人の小グループを作って検討会をしていくと大いに助けになります。
こうして、生涯探求し続けるとある日突然聖書の世界がリアルになるのです。


                



<繰り返していて飽きない?>

 繰り返し、繰り返し、というとこういう疑問がごく自然に出るでしょうね。

「・・・飽きない?」

そうですね。
普通の書物だったら、まず、しばらくしたら飽きるでしょうね。

けれどもバイブルは別なようです。
この本はとてつもなく深遠で、広大で、多面的な意味内容を持っています。
読んでも読んでも毎回新しい局面が開けてきます。

しかも、この書物に書かれている言葉の内で、イエスの口から出たものについてはイエスはこう言っています。

 「私が諸君に語った言葉は霊でありまた“いのち”です」(ヨハネによる福音書、6章63節)

「私の語る言葉を掘り下げていくと霊にいたり、また、いのちに至る」という意味です。これは聖句の外皮だけをなでている間には体験できません。

 内部の肉を味わい、掘り下げていくと、聖霊という創造主の霊に遭遇するわけです。そして、聖霊からはいのちというエネルギーがわき出しているので、そのいのちエネルギーも味わい吸収できることになります。


                


<聖句と教理>

人はなぜ聖書を解釈しようとするのでしょうか?

聖句の皮を貫き、肉に至るためです。
その探求のガイドになるのが先人の試みた聖書解釈です。これを教理ともいいます。
教理を書いた教理書は、聖句の内部に短時間で人を導くためのガイドなのです。

だが、教理書そのものは繰り返し読んでいくとまもなく飽きます。
教理書には、聖書の内容がわかりやすいように論理的に整理されて書かれています。
だが、論理的で容易にわかるというものは内容がそんなに深遠ではない、ということでもあるのです。

飽きないのは聖書の言葉、聖句であって、これを解釈した言葉ではありません。
ルターもカルヴァンも歴史に残る立派な神学者ですが、彼らが書いた言葉も繰り返し読んでいると結局飽きます。



<地下水脈とたまり水のプール>

これはたとえていうとこんなことでしょう。

聖句が持っている内容は、ある水源から水が限りなく流れ出している地下水脈のようなものです。
これをくみ上げ、飲み、味わうために人は地下にむけて深く掘りつつ、水道管を通していきます。
いわゆる、井戸掘りをするわけですね。
そして管の先端が水脈に突き当たると、以後美味しい水をくみ上げることができます。

他方、この地下水脈からは少量の水が漏れて上方に沁み通っても来ています。
岩や砂の間を通って沁みあがるわけです。
そして水脈と地表との間に、一定の容積の空間がありますと、そこに水がたまって地下水のプールができあがります。

掘り進んだ水道管が途中でそこに達しても水はくみ上げられるわけです。
そこで汲んだ方が水道管も短くて済み、安価です。
けれどもここでは、しばらく水をくみ上げていると、砂が混じってきます。
プールされている水の量に限度があるからです。

これがすなわち、教理書の言葉です。
対して、聖句は地下の本水脈に当たります。

聖書の言葉そのものを何度も繰り返し検討していくことが、聖書のイメージワールドにリアリティを感じられるようになる唯一の方法なのです。

                


 (鹿嶋のブログを定期的に読んでくださっている皆さん:本日の記事は日本の福音動向のコンポンにかかわる内容のものです。ブログの最初のページをしばらくこのままにしておきますので、訪問の都度繰り返し読んでみて下さいね。「あ、またか」なんて思わないでね・・・)

(コメント欄は更新が続けられています)


                    
                    


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百年は楽しめる無常ワールド資産

2006年06月15日 | 「考える宗教」へ
日本(宣教)年の話には続きがあります。
しかし、本日は中断して昨日の日記を書きますね。



                


 春平太は大学のゼミをここ30年余にわたってしてきています。
1期生はもう50代後半という年齢に達しています。

 その年寄り世代である1期生から4期生までの9名が、品川の隣の大崎で食事会をする。
出てこいと言うことで行って楽しんできました。

 大体、歳月を経てもこうやって集まる仲間は、何か精神的に共有するものがあるから続きます。
鹿嶋が一貫して刷り込んできているゼミの精神に共鳴するところが比較的多い連中が集まり続けます。

 1期生から4期生まででOBは100名弱いますが、あまり共鳴するところの無かった人々は、
専門知識を学んで卒業したらそれでおさらばです。
人間ですからそういうケースも十分あるわけで、
その場合はまた各々独自な小集団で精神的な共鳴どころを持って生きていくことになるでしょう。


                


 で、昨夜の9人は比較的鹿嶋になつくというか、親近感を濃くもつOBたちでした。
だから鹿嶋もいい気持ちですっかり楽しんじゃった。

 それでも鹿嶋のこのブログを読んでいる人間は一人だけでした。
あとは、そんなことに興味はない、ただしばらくぶりで指導教師に会いたいという、人々でした。

 鹿嶋はそういうことは承知でしたので、みんなが喜ぶのは昔に戻ることだ、と
ゼミに入った若き頃の写真を貼った会員カードを掘り出して持参しました。
それを眺めてみなひとしきり昔を語り、ゼミの精神を議論したりわいわいやったわけです。


                


 で、それはそれでよかったのですが、ブログを読んでくれている一人が
そこ(このブログ)で展開されている鹿嶋の精神世界のことをたずねました。
これはゼミ精神とは別の精神世界のものです。

 なんといったらいいか、ゼミ精神とは鹿嶋の言う「物理的イメージ世界」すなわち「いずれ消滅する無常世界」の中で、
「いかによく生きるか、知を伸ばすか」のコンポンを説く精神です。

 他方、鹿嶋がこのチャーチで展開しているのは、聖書が提供する「純イメージ世界」すなわち、永続するイメージ世界です。
これを吸収し、それに高いリアリティを感じるようになったら、人生意識の根底を流れる暗さは吹き飛んでしまう。

 これを身につけたら精神も知性もさらに活性化するし、肉体も根底から若々しくなるよ、というイメージ世界です。

 で、会が終盤にさしかかったとき、リクエストにお答えしてそれを語ったのでありました。

                



 曰く・・・

~~この仲間(当日出席できなかったものもいて、もう少し多数)はすばらしい。
こうしてみんなでしばしば集まり、旨いものを食べ、飲んで語り、定例のゴルフ会をしていたら
人生の苦しみも解消するだろう。

~~しかし、これはいずれ終わっていく世界だ。
諸君の年齢からして、もうしばらくしたら愛する仲間の一人が欠け、また一人が欠けていく。
その寂しさはこれまでかつて味わったことのない、恐ろしいものになるだろう。
そしてそれは必ず来るし、諸君らももうすぐ目の前だ。

~~諸君は「それはいい、それで仕方ない、人生とはそういうものだ」と思っているだろう。
鹿嶋も諸君を指導している頃はそうだった。
しかしいま石川君(ブログを読んでいるという只一人のOB)がたずねた世界は、終わりのない永続イメージ世界だ。

~~これは物理的イメージ世界をどんどん展開していった延長上にあるというものではない。
手のひらの側に物理的イメージ世界があるとしたら、永続する世界のイメージは手の甲の側にあるものだ。
別次元のイメージ世界。
これをも身につけ、それにリアリティを感じるようになったら、諸君にはもう絶望はなくなる。

肉体がどんなに衰えても希望があるイメージ世界がある。
聖書はそれを提供してくれてる言葉の集合体だと思ったらいいんだ・・・。


                


 こう語り始めましたら、新しい現象が起きました。

 テーブルを囲んで焼き肉を食べていたのですが、鹿嶋の向かい側にいた二人が突然コクンと眠り始めました。
これ、聞きたくないから寝たふりをしたのでなく、本当にコンコンと頭をたれて眠り始めました。
話し始めた殆ど瞬間にです。

 他の2~3人は、「言ってることがよくわからん・・」といって別の空いたテーブルに行って休憩を始めました。
石川君は気をもんだ様子でしたが、鹿嶋には想定内のことで驚きはありませんでした。

 とつぜん眠り始めたのは霊的な現象です。聖書に示唆されているとおりの現象。
「わからない」と言ったのは、今まで思ってみたこともない世界の話なので、理解が出来ない。
酒も原因してたでしょうが「ああ、先生また宗教の話し始めた・・・。もう呼ばなきゃよかった・・・」といったところでしょうか。

                


 これがニッポンです。
 鹿嶋の教え子として、心を通じ合ってきた、人生経験豊かなグループでもってしてこれです。


日本には古来より、無常イメージ世界しか意識にありませんでした。
ということは、世界とはすべてそういうもの、と思って一片の疑いも持たないことです。

 そこでそれを「覚悟」し、その中で、生きている間の喜びを最大化しようと人民こぞってあれこれ工夫してきた。
そのうち多くに歓迎されたものは商品になり、常時生産可能になる。
そういう商品が豊富に蓄積されてきた世界にもまれなる国が日本なのですね。

 食べ物は旨いし、酒は旨いし、それが庶民も味わえるほどの価格で提供されているし、
ネエチャンはきれいかどうか知らないけどテレビは笑わせたり心配させたりさせてくれるし、
演歌は慰めてくれるし・・・。よき仲間作りも出来る人は出来るし・・・。
狭いながらもマンションという名のアパートに都市部で住めば、生活は便利だし・・・。

 それでなんとか一生涯百年くらいの間は、やっていかれる。
(上記の条件が欠けた人が、自殺するのでしょうが・・。この人生は死と背中合わせの人生ですから)

心の底で、「どうせ死んでおしまい」という虚無を持ちながら、なんとか生涯を送って消滅できていくのですね。

 これが日本で福音が浸透しない基礎原因でしょう。
 福音なしでも、百年くらいはやって行かれる・・・という環境状況。
 その上に、牧師さんをはじめとする伝道者の知的・霊的無力が乗っかってるといった風景でしょう。


                


 一人が言いました。
 「先生、そういう話現役のゼミ学生にするんですか?」

 鹿嶋答えて曰く。
 「するはずねえじゃねえか。俺の精神に共鳴し、長年にわたって交流してきた君たちにしてこうだ。
まだ先の長い若いのに話したってわかるはずねぇよ」

石川君は、このギャップを何とか埋めて師弟関係のレベルを上げたいと、
これまでも一人気をもんできたようなのですが、これが日本なのでしょうね。

 さあ・・・「心の癒し」さん。
 どうする? どうする?

                    



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日本宣教イエアーでした

2006年06月13日 | キリスト教活動の歴史

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日本風飾り付けをした講壇の前に座った子供たちが話を聞いています。
この教会では、海外宣教への関心を育てるために、毎年5月に2週間ほど異文化になじむ期間を設けていました。

礼拝堂の中だけでなく、スモールグループ室には天井から日本の絵日傘の小型のものがいくつもつるしてありました。
廊下にも日本文化を表すポスターが張ってありました。

こうして毎年、一つずつの異国を紹介していきます。

ことしは日本イエアーだったのでした。

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洗礼槽全景

2006年06月13日 | キリスト教活動の歴史



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正面から見た洗礼槽の全景です。


 (次ページに続きます)
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ここにも日本風飾り付け

2006年06月13日 | キリスト教活動の歴史

(写真はクリックすると拡大します)



では、答えを明かしていきましょうね。
この写真は、もうひとつの日本風飾り付けです。

というより、アンドンのようなものに漢字が書かれてありますし、回りに竹など飾ってあって日本そのものですね。

講壇の向かって右側にありました。
画面の左上方に、富士山と藤の花のある洗礼槽が小さく見えていますね。


(次ページに続きます)



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富士山と藤の間でバプテスマ

2006年06月12日 | キリスト教活動の歴史




(写真はクリックすると拡大します)


                

バプテスマが始まりました。
黒人の少年がいま水に沈められようとしています。

でも、背景を見てください。
何か見覚えある風景と違いますか?

後ろにそびえる山は日本の富士山にそっくり。

前方に飾られているのは、これまた日本の枝垂れ藤の花みたい。


                



この教会の洗礼槽もまた、舞台中央の説教壇の後方の上方に設置されています。
礼拝出席者は真っ正面の上方にてバプテスマを見るわけです。

それにしても、そこに富士山と藤の花・・・。
日本からしたら地球の裏側のサザンバプティストの教会に。
これはどういう事でしょうか?

答えを推察してください。
イメージ出来た方は、このページのコメント欄にどうぞ記してください。
正解の方には、春平太の著書を差し上げます。

(・・・といって書棚を見たら、余裕のある手持ち著書は2冊でしたので、限定2名様ね)

正解は次回にお知らせします。
お楽しみに・・・。

                

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洗礼を授けるための準備を完了した牧師

2006年06月12日 | キリスト教活動の歴史


(写真はクリックすると拡大します)

手前に座っているのは、洗礼を授けるべき準備を整えた牧師です。

ピントはぼけていますが、この教会の主管牧師です。
ここでは牧師が洗礼していました。

サザンのバプティスト教会といっても様々ですね。

 (次のページに続きます)

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洗礼を待つ子供たち

2006年06月12日 | キリスト教活動の歴史
(写真はクリックすると拡大します)


「ヨハネ伝」を考えてきまして、しばらく言葉ばかりのページでした。
今回から、写真付きをしましょう。



別のサザンバプティスト教会で行われていた洗礼風景です。

受洗を決心した子供たちが洗礼槽の前にいます。

(次のページに続きます)


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Vol.156『警戒されない人柄』(11章--最終回)

2006年06月11日 | ヨハネ伝解読




~~絵画は「使徒ヨハネ」(1866)by Peter Nicolai Arbo~~

(アンディ中嶋さんのブログ「バイブル的人生」

http://blog.goo.ne.jp/andygoo/

より引用させていただきました)



                


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

 「パリサイ人たちはこの日から、イエスを殺害する計画を練り始めた」(11章53節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                


 11章の最後に、著者ヨハネについて少し考えておきましょう。

 彼は、ユダヤ教指導者たちの会議の中身を、どうして知り得たのでしょうね。

 ヨハネ伝は、基本的に彼が直接観察し、体験したことを踏まえて書かれています。でも「これってホントに観察できたの?」と思うようなところもあります。この会議の件もまたそうなんですね。


                


 常識的に考えられるのは、これは後にヨハネの耳に入ってきただろう、というものです。あるいは、ヨハネが誰かに取材した、とか。

 彼がこの福音書を書くのは、キリスト教団の大御所になってからのことです。それなりにいろんな情報が耳に入る立場だったでしょう。会議に出ていたパリサイ人僧侶のあるものが、後に回心して、キリスト教団に入ってきていた、こともあり得るでしょう。それで、ヨハネにその時の状況を報告した、ということも。


                


 でも彼の場合は、もう一つの可能性があるんですね。前にも書きましたが、ヨハネには人畜無害なオーラを持った人だった可能性を春平太は感じます。旧体制側の人間もなぜか、安心して交われる人柄。そういう人格を彼は持っていたのではないか。中国現代史における周恩来のような人ですね。

 ヨハネはこうも記しています~~

 「多くの人はイエスの奇跡を見て信じたが、何人かのものはパリサイ派ユダヤ人たちのところに行ってイエスのしたことを告げた」(46節)

 ~~ヨハネはこれを見ていたのではないでしょうか。パリサイ人たちについていってですね。

 ヨハネのそういう人柄、旧体制側からの受け入れられ方を、イエスもよく知っているので黙認した。そして、僧侶たちの会議も、一定のオープンなところでなされた。だから、ヨハネはそれを観察することも出来た。ユダヤ教僧侶たちも、ヨハネについてはそこにいることを問題には思わなかった~~のではないでしょうか。


                


 あるいは、こうも想像できます。

 ~~会議終了後すぐにパリサイ派の一人に状況を聞いた。すでに当時から、イエスの隠れ信仰者のような僧侶もいまあいたからね。第三章に登場したニコデモはその一例ですし、他にもいたことが、次の12章に記されています。

 ヨハネは、ペテロと並んで、弟子の中でも、そういう情報が集まりやすい位置にいました。なにせ、二人は、イエスの両脇を固める助さん格さんだったのですから。それをイエスにいち早く報告するのも彼らの役割だったかも知れませんね。

 考えてみると、この可能性が一番大きいのではないかな。「イエスを殺害すべし」という結論になったことを、イエスはすぐに知るに至っています。

 「イエスはもはや公然とユダヤ人の間を歩かないようになられた。そこを出て荒野に近いエフライムという町に行き、弟子たちと共に滞在した」(54節)。

 ~~と、ヨハネは記していますから。


                



 「過越の祭り」が近づいておりました。多くの人々が、地方からエルサレム参りに上って来つつありました。彼らはイエスがこの祭りに来るだろうか、と話題にしていました(55節)。

 一方、祭司長やパリサイ人は、イエスを捕らえようと決意しています。彼らは、「イエスの居所を知るものは、それを知らせるように」という指令を出していました(57節)。緊迫のクライマックスを控えた、前夜の光景でした。11章を終わります。


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Vol.155『イエス殺害が国家の決定事項となる』(11章)

2006年06月10日 | ヨハネ伝解読
                


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「パリサイ人たちと祭司長たちは議会を開いていった『・・・・もしこのままにしておけば、みんなが彼(イエス)を信じるようになるだろう。そしてローマ軍が行動を起こし、われわれの神殿も国家も破壊してしまうだろう』」(11章47~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                


 都エルサレム近郊でラザロを生き返らせて、うわさは神殿に来る人々に瞬く間に広がりました。彼らはまたそのうわさを持って帰って郷里の人に伝えます。イエス人気は鰻登り・・・。
イベントを起こした場所もよかったみたい。。。。。

 パリサイ派のユダヤ人僧侶たちは、緊急会議を開きました。このままでは、ユダヤ教信徒だったものが、どんどんイエス教団に鞍替えしていってしまう。国家宗教であるユダヤ教を支える信徒が少なくなってしまう。どうしよう? どうしょう?

 「イエスを殺そう!」

 これが彼らの結論でした。「ここはひとつ自分たちもマーケティング努力をしよう」なんて意見は出なかったんでしょうかね。


                


 「殺す」という見解は、その年の大祭司だったカヤパという人の預言として出されました。預言というのは、創主から霊感を受けていう言葉、ということになっています。はなはだ重いものです。人間の考えで反論できるようなものではありません。

 ここでの預言の趣旨は次のようなものだった、とヨハネは記しています。

 「イスラエル国内のユダヤ人がローマ帝国によって国家を破壊されないためと、他国に散っているユダヤ人が再び一つに集まるために、イエスは死ぬことになっている」

 ~~いまからみたら変な預言ですね。


                


 カヤパ大祭司は懸念していました~~このままイエス人気が続いてみんながイエスを信じるようになると、ローマ政府はユダヤの神殿も国家も破壊してしまうであろう~~と。

 当時イスラエル国家は、ローマ帝国の属国となっていました。政府はありますが、その政策について逐一支配国であるローマにお伺いをたてる必要がありました。敗戦後の日本に似ていますね。日本国政府はありますが、その上にGHQといって、占領軍が君臨していた。マッカーサー元帥はその総帥でありました。

 ともあれ、こうして、イエスを殺すということはユダヤ国家権力の決定事項となりました。それまでにも、イエスを捕らえよという命令や、殺したいという殺意はありました。だが今回それが、宗教会議という場で正式決定され、権威をもちました。

 ラザロ生き返りの事件は、その契機になる大きな事件だったのですね。 


                  
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Vol.154『都の近郊で、死を確認させた上で生き返らせる』(11章)

2006年06月09日 | ヨハネ伝解読
                


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた」(11章45節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                


 イエスがラザロを生き返らせたことの持つ、神学的な意味はヨハネにはある程度わかりつつあったと思われます。この事件によって彼は「この世界には、死に打ち勝つ力が存在する」ということを確信しました。

 けれども、他の人々には、そんなことはわからなかったでしょう。彼らの関心は、事件として驚嘆すべきものであることと、その話題性にあったと思われます。パリサイ派ユダヤ教の僧侶たちの意識にも、神学的な認識意識はありませんでしした。彼らは、この事件がどういう社会的結果をもたらすかに思いを巡らしました。


                


 「困ったなあ・・・」これが彼らの気持ちだったでしょう。
 イエスは他でも死んだ人を生き返らせています。しかし、このラザロの一件が与えた衝撃は別格でした。なによりも、これはエルサレムの都から2~3キロしか離れていないところで起きた事件でした。うわさは都の全土に速やかに駆け上り拡散し始めました。

 この再生劇は死んで四日たった後に起こされました。イエスはラザロの病気を聞いても動かなかった。あえて、聞いた地点に滞在し続けましたよね。こうして、死後の時間を経過させています。

 これがまた効いたのではないでしょうか。死んですぐに生き返らせたのなら「その人は完全には死んでいないのではないか、仮死状態だったのでは・・・」という漠然とした意識を人間は持つものです。

 目の前で見ている弟子たちなどの人々はそうでもないかも知れませんが、うわさで聞く人がそうでしょう。そして評判というものは、そういう大多数者によって形成されるのです。


                


 死後四日という時間は、人々の「まさか・・・」という意識を大きく消し去りました。「死んで四日たったのを生き返らせたんだって!」ということになりますれば、これはもう決定的なのであります。もうとても人間業に思えない・・・。

 また、マリア、マルタ、ラザロという兄弟姉妹の家庭は、経済的には結構、裕福な家であったようにも思われます。イエスをもてなしたりしていますから。裕福な家には多くの人々が出入りいたします。ラザロの死に際しても。多くの人々が姉妹を慰めにやってきていしたよね。

 たくさんの人が集合していました。イエスは奇跡を、彼らみんなが目にすることの出来る墓場で行いました。マルタたちの家のなかや、その一室で行ったのではない。ラザロを蘇らせる様を直接目にする人々が、今回は格段に多かったのです。

 この多くの人々によって、うわさはパァーッと一気に広がりました。死者を生き返らせる今回のイエスの奇跡は、特別だったのです。





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Vol.153『死に打ち勝つ力を事実で明示』(11章)

2006年06月07日 | ヨハネ伝解読


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=聖句=
 「・・・イエスは大声でこう言われた『ラザロよ出てきなさい』 すると死人は出てきた。手足は布でまかれ顔も顔覆いで包まれたままだった。イエスは人々に言われた。『ほどいてやって帰らせなさい』」(11章43~4節)
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 イエスはラザロの墓のところにやってきました。そしてひとこと~~

 「石を取りのけなさい」(39節)

 ~~と命じました。墓は洞穴になっていて、入り口に大きな石が置かれ、入れないようになっていたのです(38節)。


                


 マルタは言います。「先生、やめて下さい! もう死んで四日たっています。悪臭が漂います」(39節)。

 ~~イエスはもう「死に打ち勝つ力を知らない」という彼女の心理状況を認識するに至っていました。だから、再び憤ることはありませんでした。イエスは言います。

 「マルタよ。信じるならば、創り主の栄光(力)を見ることが出来ると言ったではないか・・・」(40節)。

 石を取り除けと言って譲らないイエス。その場にいた人々は仕方なく取り除きます。するとイエスは天を仰いでこう言いました。

 「父よ。私に耳を向けて下さいまして、有り難うございます」(41節)。

 「あなたが私の祈りにいつも耳を傾けて下さっていることを、わたくしは存じております。しかし、敢えてここでそれを口に出して申し上げます。ここにいる人々が、あなたが私をこの世に送ってくださっていることを信じるためにそういたします」(42節)。

 こう祈った後、イエスは命令の言葉を発しました。

 「ラザロよ、出てきなさい!」(43節)。

 ~~するとなんと、ラザロは墓の入り口の方に自ら歩いて出てきたのです。。。。。


                


 「その手足は死装束でくるまれたままだった。顔の周りにも布が巻かれていた」とヨハネは記しています(44節)。

 呆気(あっけ)にとられている人々に向かって、イエスはぽつんと一言だけ命じました。

 「装束をほどいて、(家に)帰らせなさい・・・」

 ~~イエスは死に打ち勝つ力が世界には存在するのだということを、自ら技でもって示したのでした。

+++

 これは画期的なことであります。

 それまで人間は「死だけはもうどうしょうもない、必ず襲ってくるものだ、これには従うしかない」と思っていたのですから。(イエスは後に、イエスへの信頼が真実な人々にもその力を与える、という約束までします。これがイエスの福音です)。

 だがその場にいた人々の多くは、「死に打ち勝つ」などという哲学的・神学的なことにまで思いをはせることはなかったでしょう。

 ヨハネはどうだったでしょうか。この福音書を書いている時点は図~と後ですからもちろん神学的な理解をしています。その上で、この福音書を書いているのです。

 しかし、イエスに付き従っていた若き日の時点ではどうでしょうか?

 彼は少しずつながらも、理解していただろうと春平太は感じています。後の老年期時点に比べれば「少し」なのですが、他の弟子に比べたら、この時点でも群を抜いていたのではないでしょうか。だから「イエスが最も愛していた弟子」だったのだと思います。


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Vol.152『言葉で直接明示されてまた哀れむ』(11章)

2006年06月06日 | ヨハネ伝解読
      

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=聖句=
 「しかし彼らのある者たちは言った。『あの盲人の目を開いたこの人でも、ラザロを死なせないようには出来なかったのか』 イエスはまた激しく心を動かし墓に入られた」
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 イエスが心を動かされた第三回目は、こういう場面においてでしたね。ある人々が「盲人の目を開いたこの方なのに、ラザロを死なせないように出来なかったのか」と言ったときです。

 これがイエスの心を動かしたのはどうしてか。結論から先に言えば、ここでは人間は、イエスが死人を生き返らせる存在であることを、知らないことを「言葉でもって明白に表明している」からだと春平太は思います。

 「(お別れに死に顔を)来て見てやって下さい」という人々の言葉にも、そういうニュアンスは込められていました。

 それは言外の言でしたが、今度は、別の人間が死に打ち勝つ力を知らないことを「もっと直接的で明白に」表明してしまいました。イエスは改めて再び、哀れを感じざるを得なかったのではないでしょうか。


        


 またあるいはこの時には、こういう状況に人間を落とし込んだ悪魔に対して、激しい憤りをも抱いたのかも知れません。そして「今すぐ死に打ち勝つ力を示そう」と決意したのではないでしょうか。

 イエスには、まだ、彼を信頼する人々にわからせておかねばならないことが、たくさん残っていました。そして、それらを余すところなく教えるべきクライマックスは、ラザロを生き返らすことでもって、幕を開かんとしておりました。


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Vol.151『死に打ち勝つ力と術を知らない哀れ』(11章)

2006年06月05日 | ヨハネ伝解読
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 =聖句=
 「『彼をどこに置いたのか』 彼らはイエスに言った『主よ、来てご覧下さい』 イエスは涙を流された」(11章34~5節)

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 イエスが心を動かされた第二回目の状況についてはどうでしょうか? 
 イエスが「ラザロをどこにおいているのか?」とたずねます。それに対してマリアを慰めに来ていた人々が「主よ、来て見てやって下さい」と応えたときです。

 この時「イエスは涙を流された」とヨハネは記しています。彼らの言葉を聞いてイエスはなぜ涙を流さねばならないのでしょうか。春平太の今の解読はこうです。



 イエスは、マリアならば自分がいのちそのものの源であって、死んだ人間にもそれを再供給して生き返らすことが出来ることを、わかると期待したのではないでしょうか。あれだけ、教えたのですから。。。。

 ところが、その彼女もわかっていなかった。

 ましてや、マリアに付いてきた人々は「闇の力、死の力に打ち勝つ存在がいてくれる」ということを、知りようがありません。「主よ、(ラザロの死に顔を)来て見てやって下さい」という彼らの言葉、彼らの表情には、「せめて、最後のお別れを、ラザロにしてやって下さい」という思いが満ちあふれていたのではないでしょうか。

 「哀れだなあ・・・」 イエスの胸にこの思いがわき上がったのではないでしょうか? 死に打ち勝つ力があることを知らない、ということは、死には打ち勝つすべがない、と意識していることです。それは、「死」には完全に征服・支配されて、死の奴隷となっているということでもあります。

<今も大半は奴隷のまま>

 これはその時だけのことではありませんよ。今も大半の人間はそうなのです。特に日本などでは99.99パーセントがそうではないでしょうか。霊魂とかを多少は漠然と思うことはあっても、意識の重心は「死んだらオシマイ」にあります。そこで、生きている間の人生の充実だけに集中して生きようとしているのです。

 それで相応に人生を紛らわせ楽しませてくれるものを日本は造ってきました。春平太はそれを無常文化と呼ぶのですが、日本では結構それが豊富にできあがっておりまして、百年位の間はなんとか空しさに圧倒されずにやり過ごしていかれます。食べ物、着るもの、芸能、娯楽、芸術、社会や隣人の縛り、等々色々ありますから。

 特に食の文化は豊かでして、いまや、世界の中産階級以上の人々は日本食に魅了されつつある。欧米だけでなく、中国でもそうらしいです。日本のテレビのグルメ番組の多いこと。それと健康番組・・・。
 
 だけど、それらでは満たされない人も日本には少なくありません。「どうせ死んでオシマイ」の意識が喉元まで上って来てしまっている人もいます。そういう人の中からあることを契機に自殺したり(年間3万4千人)、引き籠もって出てこなくなったり(120万人)、薬物中毒になったり(2百万人)パチンコ依存症になったり(1200万人)するひとが出るのです。

 ほとんどみんな根底は死の奴隷なのです。科学者も文化人も有名な経営者も政治家も元気そうなこと言ってますけれど、実は意識の板っ子一枚下は「死」であり「無」の地獄なのです。死と無に脅えながら生きている。この人たちも百年間ぐらいはなんとかやり過ごしますけれど、2百年は無理でしょう。

 人間は、永続確信が死の意識を圧倒しない限り、脅えから自由にならないのです。根底的な奴隷状態から解放され得ない。「人間死んでオシマイでないよ」とイエスが繰り返し教えたことが、人類にとって如何に救いであるか。私たちはこの遺産を受けた方がいいのです。日本人がこれを受け始めたら、国は根底から変わりはじめ、現在の社会問題の多くが急減し始めるでしょう。



 当時のユダヤ人たちも旧訳聖書を持ちながらも意識の根底では死の奴隷でした。それがラザロの死に際しての彼らの言動に表れました。イエスは、そういう人間の姿を改めて認識して、涙を流されたのではないか。第二の場面を春平太は当面そう解しています。

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Vol.150『マリア、まだわからないのか!』(11章)

2006年06月04日 | ヨハネ伝解読


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=聖句=
 「イエスは彼女が泣き、また、彼女と一緒に来たユダヤ人たちが泣いているのをごらんになった。それは彼の心に触れるところがあり、彼の心は深く動き、そして当惑された」(11章33節)
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前回に述べましたように、マリアはエスの足下にひれ伏して、「先生さえいてくださったなら・・・」と泣き崩れました(33節)。

 ラザロを生き返らす前に、イエスが心を動かしたという状況を、ヨハネは一度ならず記録しています。そのはじめたこの聖句に記された場面です。

 この時のイエスの心理を「心は深く動き、そして当惑した(deeply moved in spirit, and troubled)」とヨハネは記録しています。

+++

 第二回目は、イエスが「ラザロをどこにおいているのか?」とたずねたのに対し、マリアについて来た人々がこう答えたときです。

 「主よ、来てみてやって下さい」 

 この時、「イエスは涙を流された(Jesus wept)」、とヨハネは記しています(35節)。そして、それを見た人々が「ああ、何とラザロを愛しておられたことか・・・」と言った、とも記録しています。

 第三回目は、すぐその次です。
 他のユダヤ人たちは続いて、「盲目の目を開けたこの方でも、ラザロを死なせないように出来なかったのか・・・」と言っています。すると~~

 「イエスはそれ故にまた深く心の内を動かされて(Jesus therefore again being deeply moved within)」

   ~~お墓に向かって歩き出した、とヨハネは記しています。

+++

 イエスはどうしてこう何度も心を動かされたのでしょうか?
イエスがラザロが死んでしまったのを悲しまれた、というのは答えになりません。だって、イエスにとっては彼を生き返らすことは、すでに決まっているのですからね。この村の近くに来る前に、「ラザロを起こしに行く」とイエスはすでに宣言してましたからね(11節)。

 イエスは、ラザロの死を悲しむ必要などないのです。なのに、心を動揺させられた。どういうことでしょうか。

 春平太は、もうほとんどお手上げです。ここの解読は、ほとんど自信が湧いてきません。そういう状態であることを断った上で、少しだけやってみましょう。

+++

 第一の場面では、「当惑された(troubled)」が、気になります。イエスはその前に、マルタに「私はよみがえりでありいのちである」と宣言していますね(25節)。それは、私は死人にもいのちを再供給して生き返らすことが出来る存在なのだ、と宣言したことでもあるのではないでしょうか?

 なのに、そのイエスに向かって、マリアは「先生がいて下さったら死ななかったのに・・・」と泣き崩れます。それは、イエスが今ラザロを生き返らせられる存在であるとは、マリアは全く信じていないことを明示しているのではないでしょうか。

 あれだけ私を愛し、私の話にうなずき、私が来るたびに心からもてなしてくれたこの兄弟姉妹たちだ。なのにまだ、私をわかっていなかったのだ。イエスは、それを目のあたりにして当惑したのではないでしょうか。

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