ヨハネ伝、第5章。前回の続きです。
イエスの教えを信じるというのは、つまり、イエスの言葉を、創造主に関する比類なく明確な説明として受け入れるということです。
それによって「私をつかわされた方」すなわち父なる「創造主を知ること」~~これが最後の審判で裁きを免除される決定的なポイントだとヨハネは記録しています。
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このことは、注意深く心に留めるべき点です。裁きを免除されて天国行きになるのを、福音界では「救い」といっています。その救いの決め手は、
「創造主がどんな方かを知ることだ」
とイエスは教えているのです。
<まず万物の創造者であることを知る>
創造主を知る第一歩にして最大の基礎は、その方が「自分以外の万物を創造した存在」であることを銘記することでしょう。
そのためには、何よりもまず、人はその存在を「神」という名でもって読んでいたらまずいでしょう。これは実体とかけ離れた漠然とした名です。それではわざわざ、ベールを間に投げかけて認識をぼかしていることになるのです。
春平太がゴッドを創主と訳す理由はそこにあります。
<イエスと一体であることを知る>
ただし、創造主を知るのがポイントと言っても、それは創造主「だけ」を知ることを意味してはおりません。
イエスの教えには、創造主とイエスとが一体である、ということも含まれています。だから、それはイエスを知ることと表裏の関係にあるというのです。
人類史の中で、これまで多種多様な教えが様々な教祖によってなされてきました。しかし、教祖を知ることがすなわち創造主なる神(ゴッド)を知ることだといったような教えは、これまでに無いものではないでしょうか。
<先にイエスを知る>
そして、裏と表とのどちらを先に知ったらいいかというと、イエスを知ることだという。これも大切なポイントでしょうね。
イエスが「人の子」となって出現したからには、イエス(の教え)を知ることが出発点となるという。これが彼の宣言でした。
ユダヤ教の高僧が怒るのは当然ですね。彼らは、自分たちが最高の(旧約)聖書理解者だと信じて疑わなかったのですから。
だがイエスは、自分の言葉を真理だと受け入れた者、その人は「裁かれない」と言っています。
裁きを経て、色々悪いことも表に出され、しかられて、その後、天国行きの判決を下されるのではない。裁きの場に立って吟味されることをも免除され、それをバイパスして天の創主王国行きになるというのです。ヨハネはイエスのその言葉をここに書き残しているのです。