鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.71『イエスを信じる者は”裁きを免除”』(5章)

2005年03月21日 | ヨハネ伝解読


 ヨハネ伝、第5章。前回の続きです。

 イエスの教えを信じるというのは、つまり、イエスの言葉を、創造主に関する比類なく明確な説明として受け入れるということです。

 それによって「私をつかわされた方」すなわち父なる「創造主を知ること」~~これが最後の審判で裁きを免除される決定的なポイントだとヨハネは記録しています。

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 このことは、注意深く心に留めるべき点です。裁きを免除されて天国行きになるのを、福音界では「救い」といっています。その救いの決め手は、

 「創造主がどんな方かを知ることだ」

           とイエスは教えているのです。

<まず万物の創造者であることを知る>

 創造主を知る第一歩にして最大の基礎は、その方が「自分以外の万物を創造した存在」であることを銘記することでしょう。

 そのためには、何よりもまず、人はその存在を「神」という名でもって読んでいたらまずいでしょう。これは実体とかけ離れた漠然とした名です。それではわざわざ、ベールを間に投げかけて認識をぼかしていることになるのです。

 春平太がゴッドを創主と訳す理由はそこにあります。

<イエスと一体であることを知る>

 ただし、創造主を知るのがポイントと言っても、それは創造主「だけ」を知ることを意味してはおりません。

 イエスの教えには、創造主とイエスとが一体である、ということも含まれています。だから、それはイエスを知ることと表裏の関係にあるというのです。

 人類史の中で、これまで多種多様な教えが様々な教祖によってなされてきました。しかし、教祖を知ることがすなわち創造主なる神(ゴッド)を知ることだといったような教えは、これまでに無いものではないでしょうか。

<先にイエスを知る>

 そして、裏と表とのどちらを先に知ったらいいかというと、イエスを知ることだという。これも大切なポイントでしょうね。

 イエスが「人の子」となって出現したからには、イエス(の教え)を知ることが出発点となるという。これが彼の宣言でした。

 ユダヤ教の高僧が怒るのは当然ですね。彼らは、自分たちが最高の(旧約)聖書理解者だと信じて疑わなかったのですから。   

 だがイエスは、自分の言葉を真理だと受け入れた者、その人は「裁かれない」と言っています。

 裁きを経て、色々悪いことも表に出され、しかられて、その後、天国行きの判決を下されるのではない。裁きの場に立って吟味されることをも免除され、それをバイパスして天の創主王国行きになるというのです。ヨハネはイエスのその言葉をここに書き残しているのです。

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Vol.70『創造主を“イエスの言葉によって知る”がポイント』(5章)

2005年03月06日 | ヨハネ伝解読


 ヨハネ伝解読、5章です。

 「最後の」裁きは、以後の永遠の状態を決めてしまう裁きです。いってみれば「これっきり」の裁きです。

 となれば、これは人間にとって、最大の問題になるでしょう。これに比べたら、いずれ終わる問題は、理屈の上ではつまるとことは無に等しいのです。そして聖書は究極的にはこの、永遠に続くことに関する教えを述べたものなのです。

<裁きの方式は?>

 では、この裁きがなされる方式はどうか? イエスはまず

 「私の言葉を聞いて、私をつかわされた方(創造主)を信じるものには、永遠のいのちが与えられる」(24節)

 と宣言します。ここは若干、言葉を補充することが必要でしょう。

 イエスの言葉には、~~自分が創造主の子であり、この世に人の姿をとって現れた「人の子」である、~~という教えが含まれています。

 また、その自分の言葉は、「父の話されるのを聞いて、そのまま語っているものだ」とも教えています(19節)。それを、「人の子」としてこの世に来た彼は、啓示としてではなく人間の言葉でもって、明確に伝えているというわけです。

 これを信じるということはどういうことでしょうか。
それは「イエスの言葉によって、創造主とはどういう方であるかをはじめて明確に知ることが出来る」というのを信じることです。

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 これは、聖書の最重要ポイントの一つです。
 それ以外でもって知る創造主のイメージは、いってみればスクリーンの反対側から影絵で見たような、漠然としたイメージでしかない。

 だから、それまで、ユダヤ人たちは、ユダヤ教の高僧をはじめとして、みんな実体からかけ離れたイメージを抱くようになってきたのだ。

 正しいイメージは、預言者たちの口から伝えられたけれども、それが「影絵」であったが故に、時と共に実像と乖離した理解がなされていった~~これがイエスの教えの神髄です。

 だから彼は後に「私が真理である」というのです(ヨハネによる福音書、14章6節)

 あとは次回にします。
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Vol.69『「最後の」審判は何故「最後」か?』(5章)

2005年03月04日 | ヨハネ伝解読

 「ヨハネ伝」5章に戻ります。

 「自分と父なる創主とは一体」(24節)

というイエスの言葉を記した後、ヨハネは、裁きに関するイエスの言葉を記録しています。

 裁きとは、ミケランジェロの絵によっても良く知られている「最後の審判」のことです。この宇宙はある時、火で焼かれて消滅するというのが、聖書の思想なのです。

 「しかし、いまの天と地は、おなじみ言葉によって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔なものどもの裁きと滅びとの日まで、保たれているのです」(ペテロの第二の手紙、3章7節)

  ーーーはそれをいっています。そして、全ての人間の霊はある種の身体を着て復活し、最後の裁きを受けることになる、といいます。

 その裁きとは、天の創主王国に行くものと火の湖に行くものとを仕分けするという裁きです。

<聖書の空間図式の中で>

 宇宙が火で焼かれた後、我々を取り囲む世界空間はどうなるか。これをイメージするには、聖書がそもそもどういう空間理念を持っているかを知る必要があります。

 拙著「誰もが聖書を読むために」(新潮選書)や「聖書のことがよくわかる本」(中経出版)等をご覧ください。図ですから、立ち読みするだけでわかります。

 そこでは、天国という広大な空間があって、その中に小さく宇宙があります。さらにその中に地球がある。こういう図になっています。上記のペテロの手紙の、「天と地」はこの宇宙に相当しています。

 宇宙は、もともとはプラズマ状態になった火の固まりが、急膨張(ビッグバン)冷えて出来たもの~~こういう説明も天文物理学でなされているようです。この理論では、宇宙はいまも膨張し続けているということです。

 これからいきますと、上記のペテロの手紙がいっていることの実体は、こうイメージできます。宇宙が一転して収縮に転じ、もとの火の固まりにもどる、と。それを、聖書では「火の湖」といっているのだと。

ともあれ、これで、創主がつくられた被造空間は、創主の王国である天国という広大な空間と、火の湖との二つだけになります。

 そのどちらかに、人間の霊が仕分けされるというのです。そして、その結果の状態は、その後、永遠に続くという。だから「最後の」裁きということになるわけです。
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Vol.68『人に創主の癒しの力が出る論理』(5章)

2005年03月02日 | ヨハネ伝解読


 「ヨハネ伝解読」、依然5章です。

 前回、イエスがなす癒しについて、物理的イメージでお話ししました。

 創主からのいのちエネルギーが100%「人の子」イエスに流れ込む。それがイエスから放出されて癒しがなされる、と。

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 この図式は、使徒をはじめとする信仰者がなす癒しをも説明してくれます。言い換えれば、聖書信仰を持った人間に癒しの力が現れる原理をも推察することが出来るのです。

 マルコ福音書にーーー

  「信じるものには次のしるしが伴います。・・・病人に手を置けば癒されます」(16章18節)

    ーーーというイエスの約束の言葉があります。

 この場合の「信じる」も、やはり創造主との意識の同化がなっている状態をいっていると思われます。同化の度合いが、一定以上に高まった聖徒の霊には、その分の「いのちエネルギー」が流れ込む。これを患者に放出すれば、その分の癒しはなされる、という図式です。

<オーラルロバーツの「癒し手順」>

 戦後アメリカで、いち早く活躍したヒーラーにオーラルロバーツという人がいます。80才を超えたいまでも存命中です。その彼が、若い日にテントを張っての癒しのクルセードをして廻ったときの記録フィルムを、春平太は何度も見ました。

 彼は癒すときます、病人の頭に手を置き、天を仰いでいます。次に、全身を硬直させるようにしてウーンとばかりに念じていました。すると、歩けなかった患者が、すたすたと歩いたりするようになりました。

 これを見て、春平太はこう思ったものです。

 癒しのわざを示すには、ステップがあるのではないか。
 まず、天の王国の創主を仰いで、いのちエネルギーを出来るだけ吸収する。
 そうしたら次に、それを全身全霊込めて、患者に注ぎ込むのだ、と。

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 もちろん、それ以前に、日々創主を愛し信頼し、自らの意識を創主のそれに近い状態にあるように、努めることが前提でしょうけれど。日々の祈りも、そのために有効なものとなるでしょうが。

 なお、オーラルロバーツさんは、癒された人々からの献金でもって、様々な施設をもつくっています。オクラホマ州にあるオーラルロバーツ大学もその一つです。
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