こんにちわ。
「ヨハネ伝解読」つづけますよ。
イエスの遺言はまだまだ続きますが、ここで「命令」に関してもう少し追加して考察しておきましょう。
我々は日常、命令なるものがもつ基本的な性格について改めて考えたことがありません。
だから、この言葉はいつもス~と読み過ごしてしまう傾向にあります。
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だが14章の終盤では「命令」ということが、大きなテーマになって出てきています。
「私が死ぬのは、父の命令に従ってのことなのだ。世はこれを知らねばならない」とイエスは強調します。
よほどのことでなければイエスがそのように強調することはありません。
そこで、今回の聖句は例外的に前の章のものにします。
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=聖句=
「わたし(イエス)は、この(父なる創造主の)命令が、永遠のいのちであることを知っています」
(ヨハネによる福音書、12章50節)
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いま命令を、命令する側である創造神の立場から考えてみましょう。
聖書に出てくる最初の命令は、アダムとイブに対するものです。
旧約聖書の創世記における聖句をみましょう。
創造主(エホバ)は、エデンの園に置いたアダムとイブに~
「(エデンの)園の中央の木から実を採って食べてはならない」
~と命令しています。 (創世記、2章17節)
<精神的夢遊状態>
アダムとイブとは、エデンの楽園で何一つ不自由なく、好きなように行動していいよ、という状態に置かれています。
その中に、一つだけ「中央の木の実を取って食べてはならない」という命令を創主は与えています。
なぜでしょうか?
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もしこれがなかったら、二人の人間はどうなっていたか、を想像してみましょう。
彼らはただ快楽から快楽へと飛び回る生活をすることになるでしょう。
こういう状況に置かれると、人間の感覚はどうなるか、を自らの心で想像するのは、そう難しくはないでしょう。
我々の精神は、そうした中では、おそらく一種の夢遊状態になるに違いありません。
何をしても、ぶつかるものがないのです。
物事に接しても「手応え」がないのです。
その状態は、はじめはいいかもしれませんが、しばらくするとたまらないものになるでしょう。
そして、我々は精神的に手応えある何かを求めるでしょう。
<命令は禁止を含む>
命令は「これこれをせよ」という形式を直接的には取りますが、それは禁止を含んでいます。
「これこれをせよ」というのは、「そのこれこれをしないことは禁止する」ということでもありますから。
もちろん、直接禁止をする命令もあります。
「何々をするな」という命令ですね。
アダムとイブに与えられたのは、それでしたが、「これをしろ」という命令もまた、禁止を含んでいるわけです。
それは権威ある方からの命令でした。
<禁止に衝突すると現実に帰る>
つまり創造主は創り主としての権威をもってアダムとイブに禁止命令を一つ与えました。
これによって二人の心理には画期的な変化が生じることを創主は知っているからではないでしょうか。
「中央の木の実」をみるとき、それに接するときいつも、二人は禁止に衝突します。
そのとき、彼らは夢遊状態からさめることが出来る。
いわゆる「現実に帰る」ことが出来るのです。
彼らの気持ちは、びりっとし、シャンとします。
<命令者を意識することが出来る>
そして、彼らはその都度、この禁止を与えた存在、すなわち創造主(エホバ)を意識に戻すことが出来ます。
(これがないと、最初は「自由にしていいよ」といってくれた創造主を意識するでしょうが、後は、自由にしていいのですから、創造主をも意識に保たなくなっていくのです)
つまり、命令はそれを与えた存在との接点を保つ、唯一で貴重な機会になっているのですね。
<幼児教育への知恵>
このことは、私たちが幼い子供を育てる際にも、貴重な知恵を与えてくれます。
「子供は自由に育てるべし」と全く自由に放任する親がいます。
ただ、猫可愛がりしたり、腫れ物に触るようにして育てる親が居ます。
さらにある程度成長すると、今度は子供を王様のように扱い、自らサーバントのように仕える。
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こういう中では、子供は禁止のないアダムとイブの状態になります。
精神的夢遊状態になる。
彼らは耐えられなくなってぶつかってくれるものを求めます。
ぶつかるものがあってこそ現実に帰られ、そこで考え、知恵を得ることが出来るのです。
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だが、それがないのですから、いらだちます。
親に当たります。
親は恐れてますます自由放任にしようとします。
すると子供はだんだんぶつかるものを凶暴に求めるようになります。
行き着くところは、子供の家庭内暴力です。
これが親をバットで殴り殺す事件の真因であり本質です。
そこまで行かない場合でも、そうやって育った子供は、知恵の幼稚な大人になります。
当たり前です。
禁止にぶつかって、現実に戻り、現実的に考える時をもてなかったのですから。
だから、とても考えの幼稚な大人が出来上がります。
こういう子供は、大人になって生きていくのにとても苦労します。
知恵がないから、現実をみないから、騙されることも多くなるのです。
<親は禁止を準備すべし>
親は幼い子供には、禁止を少なくとも一つ与えねばなりません。
これが多くなりすぎると、また、別の問題を起こしますから少なくていいです。
両親は、この少ない禁止を何にするか、十分話し合わねばなりません。
その権威が、親という地位からだけでなく、それ以上のどこかから来ていると感じられる禁止、
~これを何にするかをよく討議する必要があるでしょう。
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親の間で与える禁止が別になることなど、禁止の本質上有ってはならないことです。
ところが、これがわからない愚かな母親が多いです。
自己神欲むき出しにして、父親と別の命令を与えて自分も独立した神様になろうとする。
ホントに愚かな女性を、筆者はたくさんみてきました。
<父の命令は私のいのち>
イエスに戻りましょう。
イエスは~
「わたし(イエス)は、この(父なる創造主の)命令が、永遠のいのちであることを知っています」(ヨハネによる福音書、12章50節)
~といいました。
これにぶつかるとき、イエスは父なる創造神との接点を持つことが出来るのです。
もちろん、イエスの意識はいつも父なる創造主に向けられていますけれど、その状態を形成する中核がこの命令に接することにあるのです。
自分にも認識できないことを知っておられる、唯一の万物創造主、に意識がガンとぶつかる。
それが創主との交信の原点であり、中核です。
イエスはそういう父を信頼しています。
創造神がイエスに命令として伝えることは、イエスに認識できないことだけだと信頼しています。
創主が与えた命令、これを理由はわからないけれど守る、というのは、創造主を「全知者として認めること」、その方を信頼することそのものだったのです。
そして、これによってイエスの意識波動は「父なる創造神」の意識波動と共鳴して「いのちエネルギー」は充電されます。
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アダムとイブも同じです。
信頼して守らねば、波動が合わなくて充電されてこないのです。
命令を守らないことは、すなわち、それを自分の意識の中でぶちこわしてしまうことです。
守ることが、創造神との繋がりを保つ命綱なのだ、ということをイエスは知っていたのですね。
その論理は、すでに旧約聖書の冒頭、エデンの園の場面に含まれていたわけです。
聖書という書物のもつ、論理体系の一貫性を我々はここにもみることが出来ます。
では、またお会いしましょう。