鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.245『「命令(禁止)」は接点維持の必須要素 』(14章31節)

2008年10月26日 | ヨハネ伝解読





こんにちわ。 

「ヨハネ伝解読」つづけますよ。



イエスの遺言はまだまだ続きますが、ここで「命令」に関してもう少し追加して考察しておきましょう。

我々は日常、命令なるものがもつ基本的な性格について改めて考えたことがありません。

だから、この言葉はいつもス~と読み過ごしてしまう傾向にあります。

+++

だが14章の終盤では「命令」ということが、大きなテーマになって出てきています。

「私が死ぬのは、父の命令に従ってのことなのだ。世はこれを知らねばならない」とイエスは強調します。

よほどのことでなければイエスがそのように強調することはありません。

そこで、今回の聖句は例外的に前の章のものにします。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
  「わたし(イエス)は、この(父なる創造主の)命令が、永遠のいのちであることを知っています」
(ヨハネによる福音書、12章50節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


いま命令を、命令する側である創造神の立場から考えてみましょう。

聖書に出てくる最初の命令は、アダムとイブに対するものです。

旧約聖書の創世記における聖句をみましょう。

創造主(エホバ)は、エデンの園に置いたアダムとイブに~

「(エデンの)園の中央の木から実を採って食べてはならない」

    ~と命令しています。  (創世記、2章17節)


                    


<精神的夢遊状態>

アダムとイブとは、エデンの楽園で何一つ不自由なく、好きなように行動していいよ、という状態に置かれています。

その中に、一つだけ「中央の木の実を取って食べてはならない」という命令を創主は与えています。

なぜでしょうか?

+++

もしこれがなかったら、二人の人間はどうなっていたか、を想像してみましょう。

彼らはただ快楽から快楽へと飛び回る生活をすることになるでしょう。

こういう状況に置かれると、人間の感覚はどうなるか、を自らの心で想像するのは、そう難しくはないでしょう。

我々の精神は、そうした中では、おそらく一種の夢遊状態になるに違いありません。

何をしても、ぶつかるものがないのです。

物事に接しても「手応え」がないのです。


その状態は、はじめはいいかもしれませんが、しばらくするとたまらないものになるでしょう。

そして、我々は精神的に手応えある何かを求めるでしょう。


                    

<命令は禁止を含む>

命令は「これこれをせよ」という形式を直接的には取りますが、それは禁止を含んでいます。

「これこれをせよ」というのは、「そのこれこれをしないことは禁止する」ということでもありますから。


もちろん、直接禁止をする命令もあります。

「何々をするな」という命令ですね。

アダムとイブに与えられたのは、それでしたが、「これをしろ」という命令もまた、禁止を含んでいるわけです。

それは権威ある方からの命令でした。


                    

<禁止に衝突すると現実に帰る>

つまり創造主は創り主としての権威をもってアダムとイブに禁止命令を一つ与えました。

これによって二人の心理には画期的な変化が生じることを創主は知っているからではないでしょうか。


「中央の木の実」をみるとき、それに接するときいつも、二人は禁止に衝突します。


そのとき、彼らは夢遊状態からさめることが出来る。

いわゆる「現実に帰る」ことが出来るのです。

彼らの気持ちは、びりっとし、シャンとします。


                    


<命令者を意識することが出来る>

そして、彼らはその都度、この禁止を与えた存在、すなわち創造主(エホバ)を意識に戻すことが出来ます。

(これがないと、最初は「自由にしていいよ」といってくれた創造主を意識するでしょうが、後は、自由にしていいのですから、創造主をも意識に保たなくなっていくのです)

つまり、命令はそれを与えた存在との接点を保つ、唯一で貴重な機会になっているのですね。



                    



<幼児教育への知恵>

このことは、私たちが幼い子供を育てる際にも、貴重な知恵を与えてくれます。

「子供は自由に育てるべし」と全く自由に放任する親がいます。

ただ、猫可愛がりしたり、腫れ物に触るようにして育てる親が居ます。

さらにある程度成長すると、今度は子供を王様のように扱い、自らサーバントのように仕える。

+++

こういう中では、子供は禁止のないアダムとイブの状態になります。

精神的夢遊状態になる。

彼らは耐えられなくなってぶつかってくれるものを求めます。

ぶつかるものがあってこそ現実に帰られ、そこで考え、知恵を得ることが出来るのです。

+++

だが、それがないのですから、いらだちます。

親に当たります。

親は恐れてますます自由放任にしようとします。

すると子供はだんだんぶつかるものを凶暴に求めるようになります。

行き着くところは、子供の家庭内暴力です。

これが親をバットで殴り殺す事件の真因であり本質です。



                    

そこまで行かない場合でも、そうやって育った子供は、知恵の幼稚な大人になります。

当たり前です。

禁止にぶつかって、現実に戻り、現実的に考える時をもてなかったのですから。

だから、とても考えの幼稚な大人が出来上がります。

こういう子供は、大人になって生きていくのにとても苦労します。

知恵がないから、現実をみないから、騙されることも多くなるのです。



                    

<親は禁止を準備すべし>

親は幼い子供には、禁止を少なくとも一つ与えねばなりません。

これが多くなりすぎると、また、別の問題を起こしますから少なくていいです。

両親は、この少ない禁止を何にするか、十分話し合わねばなりません。

その権威が、親という地位からだけでなく、それ以上のどこかから来ていると感じられる禁止、

       ~これを何にするかをよく討議する必要があるでしょう。

+++

親の間で与える禁止が別になることなど、禁止の本質上有ってはならないことです。

ところが、これがわからない愚かな母親が多いです。

自己神欲むき出しにして、父親と別の命令を与えて自分も独立した神様になろうとする。

ホントに愚かな女性を、筆者はたくさんみてきました。


                   



<父の命令は私のいのち>

イエスに戻りましょう。

イエスは~

「わたし(イエス)は、この(父なる創造主の)命令が、永遠のいのちであることを知っています」(ヨハネによる福音書、12章50節)

~といいました。

これにぶつかるとき、イエスは父なる創造神との接点を持つことが出来るのです。

もちろん、イエスの意識はいつも父なる創造主に向けられていますけれど、その状態を形成する中核がこの命令に接することにあるのです。

自分にも認識できないことを知っておられる、唯一の万物創造主、に意識がガンとぶつかる。

それが創主との交信の原点であり、中核です。


                     


イエスはそういう父を信頼しています。

創造神がイエスに命令として伝えることは、イエスに認識できないことだけだと信頼しています。

創主が与えた命令、これを理由はわからないけれど守る、というのは、創造主を「全知者として認めること」、その方を信頼することそのものだったのです。

そして、これによってイエスの意識波動は「父なる創造神」の意識波動と共鳴して「いのちエネルギー」は充電されます。

+++

アダムとイブも同じです。

信頼して守らねば、波動が合わなくて充電されてこないのです。



                    

命令を守らないことは、すなわち、それを自分の意識の中でぶちこわしてしまうことです。

守ることが、創造神との繋がりを保つ命綱なのだ、ということをイエスは知っていたのですね。

その論理は、すでに旧約聖書の冒頭、エデンの園の場面に含まれていたわけです。

聖書という書物のもつ、論理体系の一貫性を我々はここにもみることが出来ます。


では、またお会いしましょう。




                    








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Vol.244『「父を愛するから死ぬ」ことをよく伝えるんだよ』(14章31節)

2008年10月22日 | ヨハネ伝解読
イエスの遺言は続きます。

今回は「父の命令を守って死ぬのは、自分が父を愛しているから」というのがその理由だということを
「この世は知らねばならない!」という、「この世は」についてです。
聖句は前回と同じです。

                    

+++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
 「だが、この世は次のことを知らねばなりません。
すなわち、私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うのです」(31節)
+++++++++++++++++++++++++++++

                    

イエスが弟子たちだけではなく、「この世は」というのはなぜでしょうか。
このときイエスには、今後福音が広まった時の状態がすでに見えているあるからだ、
と春平太は解しています。

これは、福音「伝道」の本質にかかわるところです。

弟子たちは、これからイエスの教えを宣教します。
でもイエスの教えは色々あります。
時間は無限にありませんから、弟子たちは具体的な場面では、
イエスに教えられたことの中からいくつかを選択して伝えるでしょう。

といっても教えの中核というのはあります。
これは確実に伝えるべき、というものはあります。
そしてそれが「イエスが十字架で死んだのは父なる創主の命令に従ったからで、
それはイエスが父なる創主を愛しているが故だ」なのです。

宣教では、これをしっかり伝えればならない。
時間がなくて話しきれないときにも、これは話さねばならない。
イエスはそういっています。

                  

<福音が変質するとき>

実際、宣教がこれを外れたものになっていく可能性はとても大きいのです。
イエスが死んだのは、ひとえに人間を愛するため、という風になっていきやすい。
人間の自然な心情として、そうなりやすいのです。
人はイエスからとにかく「自分への愛」を感じやすい、感じたい。

そこで、宣教もこの欲求に応じるようにしたくなるのです。
出来るだけ多くの人に、福音を受け入れてもらいたいと願うが故に。


                    


我が国では特に、その例が多いです。
「イエスはあなた(人間)を愛するが故に死んだのですよ」という説教は日本では普通です。
それを聞いて「私のために死んだのだ。ああ、この愛、この愛!」なんて、
法悦に浸っている場面も教会でよく見られます。
福音が、人間中心の人本主義に収束していくんですね。


                    

だがイエスはそうなったらいかん、と言っているのです。
イエスも含めて全ては、無限者で父なる創造主によって統治されている。
そこではイエスにも知らされないことがあります。

そういう状況で、創造主は全てを統治しています。
イエスは、その中で、創主への信頼(愛)をもって命令通りに働いています。

こういう広大な世界イメージを提供しているのが福音です。
それを「人間を愛するがために!」と感動していると、福音の主役である、
父なる創造主が視野の外に置かれてしまいます。

福音のイメージ世界が偏狭なものになってしまうのです。


                    

実際、日本での福音伝道のほとんどすべてが、そうなってきています。
鹿嶋が今回のような解読を示すと、逆上する人も出るんですよ。

「創造主を愛するが故に」というと「人間を愛してないといっている」という風に
受けとってしまう。
最初から、一面だけを見るもんだから、他の面をいうと、従来の面を
否定されたような気持ちになってしまうのでしょう。

そこでなはだしくは「異端だ!」と攻撃してきたりするんですよ。
鹿嶋の著書のこの部分に対して、抗議の手紙も来た。
墨で大きく書いたのも来たりしてもう大変・・・。

「自分の牧師さんもこの著者はおかしいといっているよ」とも書いてありました。
鹿嶋はこれを“ニッポンキリスト教”と呼んでいます。


                    

イエスが人間を愛していないなんてことはありませんよ。
ないどころか十字架死する動機には人間への深い同情と愛があるのです。
けれども父なる創主への愛もある。
そして父なる創造主への愛のほうが、基底的なのです。
今回のイエスの言葉は、それを明示しています。


                    

イエスはこの最後の晩餐の時すでに、
「将来この世は、それを視野から外して人間愛だけの、人間中心的な人本主義でもって、
わたしの十字架死を解していく」ということが見えているのです。

人間心理、人間本性を透視しているのです。
だから敢えて「この世は(私が父を愛するが故に死ぬことを)知らねばならない」
といっているのでしょう。
「世は知らねばならない」というのは、それを伝える弟子たちに、
それを「世が知るように」宣教するんだよ、といっていることです。


                    





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Vol.243『信頼してるから命令に従うんだよ』(14章31節)

2008年10月19日 | ヨハネ伝解読
イエスの遺言の続きです。
前回、「命令を守って死ぬ」、「愛するから」というところが残りました。
ここは、少々ややこしいですが、大切なところです。
聖句は前回と同じです。

                                       

+++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
 「だが、この世は次のことを知らねばなりません。
すなわち、私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うのです」(31節)
+++++++++++++++++++++++++++++

                    

 一般的には「命令→服従」という関係は、聖書の思想ではいいことにはなっておりません。
これは知性以下の状況なのです。
命令というのは、「なぜ?」という問いを許さない伝達の形式だからです。
理由を考えさせない、つまり、知性の活動を許さないんですね。

ですから、この状況で服従する側に長くいると、人の知性は劣化していきます。
官僚組織など命令系統の組織が時の経過と共に機能しなくなっていくのも、それによります。
だんだんと、成員の知性が劣化していくのです。

命令に従うというのは、恐怖で持ってもすることがあります。
それは心から従っているのではありません。
これは「自由」という観点からもいいことではない、となります。


                    

<信頼ベースの命令>

でも、これは一般論です。
「命令→服従」にも命令者への信頼がベースのものもあります。
その場合には、心から自主的に従うことになります。
命令者を信頼して主体的に従っているのです。


自分より優れた存在の知識には、理解できないこともあります。
理由が知らされないこともあります。
イエスは「父(創主)は自分より偉大だ」といいました。
その彼は「大艱難がいつ来るかは父だけが知っていること」といっています。
これなどは、その一例です。

でも、それを知らせない父をイエスは信頼しています。
父だけにわかる理由でもって、自分に大艱難の時を知らせないのだ、
と安心しています。その信頼を、ここでは「愛」とイエスはいっているのです。

実際、愛は信頼を必須要素としています。
信頼のない愛はありません。
信頼するから、愛することが出来るのです。

                    


イエスは、「自分がこれからなすことは、父の命令に従うことによってなすのだ」といい
「それは父を愛するからだ」といっています。
この聖句は、その理由の全てがイエスには知らされていないことを示唆しています。

「そういう状態で父の命令を守るのは、父を愛し信頼するから」ということを、弟子たちに理解させようとしています。
そして、弟子たちにも、自分の宣教命令に信頼して従うことを期待しているのです。

                    


今回の聖句が含意しているものはもう一つあります。
それは「父の命令を守って死ぬのは、自分が父を愛しているから」というのがその理由だということを
「この世は知らねばならない!」というイエスの言葉に秘められています。
「この世」というのは、弟子たちを超えた広い意味を持っています。

イエスが弟子たちだけではなく、「この世は」という意味はなんでしょうか。
次回に考えましょう。


                    


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