鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「正しい学び方」10~「信じる」の意味~

2020年09月28日 | キリスト教の正しい学び方
 筆者はキリスト教に関するメチャクチャな誤解を、一つ一つ解いてきている。
 これは新約聖書のなかで”バプテスマのヨハネ”(「ヨハネ伝」の著者ヨハネと別人)が自らの仕事について言っているのと同じ性格の作業だ。
 彼は「主の道をまっすぐにせよ」といっている。
 
聖句ではこうなっている~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ヨハネの証言はこうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして『あなたはどなたですか』と尋ねさせた。
 ・・・・(中略)・・・・
 彼は言った『わたしは預言者イザヤが言ったように、”主の道をまっすぐにせよ”と荒野で叫んでいるものの声です”』
 
        (『ヨハネによる福音書』1章21-23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ここで「主」とは、これから現れようとしている、創造神の御子イエスのことである。 「主の道」とは、これからイエスが教えようとしている「天国」~この語は新約聖書で始めて出てくる~の理解に至るまでの道である。
 
 理解がそこに至る途中には、従来の複雑で誤解に満ちた観念が満ちている。これを悔い改めて道をまっすぐに正せ、と自分は言っているのだ、とヨハネは答えている。
 
+++
 
 筆者のしてるのも、これに似ている。これから本書で明かされていく「キリスト教の正しい学び方」に至る道には、メチャクチャな誤解が日本には特にたくさんある。先にそれを正し、ゴールへの道をまっすぐにする仕事をしているのだ。
 
<「信じる」の不明確さ>
 
 今回はその障害の一つになっている「信じる」という言葉の意味の不明確さをとり除いておこう。
 これは宗教活動全般におけるキーワードでもある。 そしてキリスト教の正しい理解のためには、特に重要な鍵用語である。
 
 にもかかわらず、この言葉は多くの意味内容を含んでいて、現状ののままでは漠然とした状態にある。
それが、あたかも自明であるかのようにして、現在用いられている。それがキリスト教に関する、誤解をもたらしているのだ。
 
<肯定的に受信>
 
 そもそも「信じる」とは定義するならば、その基本的な意味は「信号(サイン、情報、メッセージなど)を肯定的に受信する行為」となる。
 
 詳しくは後述するが、人間は自由意志を持つように造られている。 それ故、あるメッセージが与えられたとき、人は二つの姿勢をとりうる。 ① 心を開いて受容する。 ② 受容しないで心から閉め出す、がそれだ。
 
①はメッセージを肯定する姿勢であり、広い意味での「信じる」だ。
②はメッセージを否定する姿勢であり、広い意味での「信じない」だ。
 
<対・在物神概念では>
 
 だがその心理内容は、在物神に対する場合と、創造神に対する場合では、異なってくる。
 
 ここで在物神概念に関して、若干の追記をしておく。 
筆者は、そのイメージの中身は感慨でできていて、この神とは何かを説明する理論がない、と前述した。
 
 だがそれは、この神は何であるかの言葉が「全くない」と言う意味ではない。
 お稲荷さん(稲荷神社)で狐に内在していると思われている神にも、若干の意味説明はあるだろう。いなり寿司が好き、油揚げが好き、というのもそうだろう。
 
 白い蛇の内にいると想像される神もそうだ。この家の主として家を守っている、等々の理屈は付随している。
 インド古来のヒンズー教にはシバ神などが登場し、それらの神の性格が様々述べられている、と言う。
 
+++
 
 だが、その理屈には精緻な論理体系が内在している、ということはない。教祖などの人間が、思いついたように述べた話の域を出ない。
 
 もう少し事例を挙げておこう。
 奈良の三輪神社はご神体は三輪山という山とされてきているが、いつしか蛇も境内に祀られるようになっている。理由を聞いてみたら、「ある人が三輪山を大きな蛇が巻いている幻を見たといったことからはじまる」と。
 それで蛇も祀るようになった」とのことだった。
 その程度の理由もまた、あえて存在理論というような論理を含んでいない。
 
 これもそうだ。
 最近、日本のとある神社で、「女性の願いを聞いて下さる神社」とうたったらどうかというアイデアが関係者にうかんだらしい。実施したら参拝者が三倍になった、という。マーケティングで言う“差別化”が上手くいったのだ。
 
 だが、そこにも存在理論といえるほどのものはない。
その程度の理屈(説明)なら対・在物神感慨にもあるのだが、この理屈は、信じる、信じない、を左右するほどの機能は殆どはたしていない。
 その意味で、在物神イメージには、その神の特性を述べる理論はないのだ。
 
+++
 
 そこで、対・在物神では、その「信じる」はそれから得られる「感慨をそのまま受け容れる」、という意味になる。
それには通常、「拝そう」「仰ぎ奉ろう」という感慨が付随する。
そこで対・在物神の「信じる」は、「信拝」「信仰」といったものになる。
 
その心理をまとめて言えば「仰ぎ拝して信じる」となる。
短く言えば「仰拝信」だ。 さらに略せば「仰信」となろう。
 
<対・創造神の「信じる」>
 
 創造神に対しての「信じる」は次のような心理過程で成立する。
 
① 言葉での紹介に耳を向ける。    
  創造神イメージはまず言葉で伝えられる。
 「福音は聞くことから始まる」の言葉通り、耳を向けてみることで、プロセスは始まる。
 
② 受け容れてみる。
    「リンゴは食べてみないと味がわからない」と言う。
   試しにその言葉をうけいれてみることが必要。
   これを「そんなものいないよ、笑わせるな」といってたら、ここでおしまい。
 
③ 聖句を探究して、その概念を知っていく。
    理念がだんだんと明確になってくる。
 
④ 本当らしい、と確信する。
 
~この心理内容を対・在物神のように短く示すには②~④についていうのがいいだろう。
 すなわち「受 ⇒ 知 ⇒ 信」、まとめていえば「受知信」、さらに略せば「知信」となろう。
 
<認識機能の相違>
 
 「信じる」心理における認識能力の働き方の違いも見ておこう。
人間には、感性と理性という認識能力が与えられている。
そして理性と感性が協働して働く認識能力を知性という。英語ではインテリジェンスだ。
 
 対・在物神での「信じる」は、信号受信が感性だけでなされるタイプだ。
 前述したように、在物神イメージの心理的内容は”ジーンとくる”感慨である。感慨の受信は感性だけによってなされるのだ。
 
 他方、対・創造神での「信じる」は、理性と感性が協働することによってなされる。言い換えれば、知性によってなされる。
 
 創造神信号の心理的内容は理念である。理念は言葉と理論を含めている。その理論の筋道を理性が把握し、それに感性(霊感もその中の一つ)が実在感を感じていく。
 
<「信仰」は在物神に適した言葉>
 
 このように、「信じる」という心理は、対・在物神と対・創造神で大きく違う。なのにその区分は現在も自覚されてない。
 その状態で、信仰という語が多くの場合用いられている。現在日本ではこれが「信じる」をいうときの代表用語となっている。
 
 だが、「信仰」は、どちらか言えば在物神信号の肯定的受信のほうに適した言葉である。これは「仰ぎ見る状態での」受信だ。仰いでいたんでは「理解する」というステップは含まれない。
 
 初の邦訳聖書の作成者、ヘボン先生は英語のfaithやbeliefを信仰と訳された。
せめて「信心」にしておかれたらよかった、と思うのだが、キリスト教の神様に高貴なニュアンスを出すために、信仰にされたのかもしれない。
 
<創造神には「知信」で>
 
 だが、信仰という訳語はキリスト教の正しい理解を少なからず妨げている。
 
 創造神信号の肯定的受信では、知性が理解をした上で行うのだ。
筆者はそれを示すために、当面あえて「知信」としている。本稿ではこの語を、信仰に代えて主に使うことにする。
 
(「学び方」10・・・・完)
 
 
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「正しい学び方」9~祈りと医療は併存してよい~

2020年09月25日 | キリスト教の正しい学び方

 

 前回にみた輸血拒否事件は、単一化性向が極端に働いた事例だ。
 だが、「ひとつ病」はそこまで極端に行かない状況においても働いている。信仰と医療行為との関係一般にも、この心理は働いているのだ。
 
+++
 
 たとえば、信心を持って祈ったら、医者にかかるべきでないのか、薬を飲んでもいいのか、という問題がある。
クリスチャンの人々は、ほとんどがこの問題に直面しながら生きている。
 
 そして、多くの場合、こういう意識を持つ~。
 
 創造神の力は万能だから、薬を飲む必要は無いはずだ。
なのに飲むのは信仰が完全でない証拠ではないか。そんな信仰で祈るから癒されないのだ・・・と。
 
 この種の思いを、明白な考えとしてでなくても、多少とも抱いて日本のクリスチャンは生きている。
 
 クリスチャンでなくとも、似たようなものだ。「苦しいときの神頼み」をしたときに、同様な思いが心の底からお反射的にわいてくるのだ。
 クリスチャンか一般人かにかかららず、人間とはそういうもののようだ。
 
 
<聖書の思想はどうか>
 
 そこで、この機会に、主にクリスチャンの人々のために、この問題に関する聖書(福音)の思想をみておくことは、意味がありそうだ。
 
+++
 
 新約聖書のなかにこんな聖句がある。少し長いが掲示する~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「12年の間、長血をわずらっている女がいた。
この女は多くの医者からひどい目に会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
『お着物にさわることでもできれば、きっと治る』と考えていたからである。
 
 するとすぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、『誰がわたしの着物にさわったのですか』といわれた。
 
 そこで弟子たちはイエスに言った。『群衆があなたに押し迫っているせまっている』のをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。
 
 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
 
 そこで、イエスは彼女にこう言われた。
『娘よ、あなたの信心があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。』
 
 (マルコによる福音書、6章25-34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 ここでイエスの着物から流れ出たのは「いのちの波動」だ。
この理解について詳しくは後述する。が、とにかく「いのち」というエネルギー波動がこの女に流れ込んだのである。
 
 長血にくるしんだ彼女は、それまで医者にかかってきている。聖句は「彼女は数多くに医者にかかってきている」といっている。
 
 だがここで注目すべきは、それにかまうことなく、いのち波動は注入されている、ということだ。
「医学に頼ってきたから流してあげな~い」などと、狭量なことを創造神は言わないのだ。
 
 
<祈りによる癒しを薬は促進>
 
 このケースでは、イエスからの力で彼女は即座に癒されている。
だが、癒しには宣教者などの祈りに応答されてなされるものもある。この場合の癒しには、即座でなく、徐々に癒されていくものも多い。
 
 そうした信心と祈りによる癒しにおいても、医者や薬は直るのを促進し、回復を早める働きをする。医学と信心の併用を禁じる言葉は聖書にはない。
 
+++
 
 聖句をもうひとつあげよう~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量の葡萄酒を用いなさい」
 (『テモテへの第一の手紙』5章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 これは使徒パウロの言葉だ。
彼も「アルコールなど不謹慎なものは断って、ひたすら祈りなさい」などといっていない。
回復を祈るのはもちろんだが、少量の葡萄酒を用いてそれを促進せよ、とすすめている。
 
 「祈りと医療は並行して行ってよい」が聖書の思想である。
 
(「学び方」9・・・完)
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「正しい学び方」8~~単一化性向が産んだ事件~

2020年09月23日 | キリスト教の正しい学び方
 
「世界観は一つにせねば」という単一化性向が強烈に働いて、社会的に話題になった事件がある。
 
 キリスト教のある教派(エホバの証人)の一信徒さんが、我が子への輸血をかたくなに拒否して死なせた事件。
記憶されている人もいるだろうが、事態はこうだ~。
 
 
<動物の血を食してはならない>
 
  旧約聖書に「動物の血は飲んではいけない」いう律法が記されている。律法とは(りっぽう)と読む。創造神より人間に与えられた「守るべき戒め」という意味だ。
 
 聖句をあげておこう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・あなたはエホバが与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。
かもしかや、鹿を食べるようにそれを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。
ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。
それを水のように地面に注ぎ出さねばならない。」
               (『申命記』12章21-24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 この教派は旧約聖書の律法をとても重視する傾向を持つ。そこにも単一化心理がうかがわれるが、親御さんはそれに止まらなかった。「動物の血を食べる」を輸血を受けることを含むと解釈し、「これは神様が禁じておられることだ」と我が子への輸血を拒否したのだ。
 
 
<聖書には福音の世界観も>
 
 聖書全体を鳥瞰してみると、そもそも聖書の持つ世界観は一つだけではない。旧約聖書の律法の世界観もあれば、新約聖書の福音の世界観もある。
 
 律法は「それに違反したら(これを「罪を犯す」という)罰則と呪いを受ける」という思想をベースにした世界観だ。
 
 福音は「罪は悔い改めたら、創造神の御子イエスの十字架死を代償にして許される」という思想をベースにした世界観だ。
 
+++
 
 そして、キリスト教のキリストは、イエス・キリストのキリストだ。この名が示唆するように、この教えの中核はイエスの教えを記した新約聖書のほうにある。
 
 これからすると、そもそもこの教派にはすでに、強い単一化性向がみられる。旧約聖書の律法を優先的に持ち出すのだから。
 
 そして、この親御さんの場合、出発点からのそういう性向が加速して、「動物の血を食すること」が「人間の血を輸血する」が同じに見えてきた。そういう風景だ。
 
+++
 
<併存化の一案>
 
 では、単一化性向に影響されなかったらどうなるのか?
律法重視は認めるとして、そのなかで律法と輸血を併存させる道があるとしたらどうなるか。
 筆者の一案はつぎのようになる。
 
  ・・・律法には「動物の血を食べるな」とまでは書いてある。それを輸血までに延長したのは、まあ、私(この親)の個人的な解釈だ。そこで、それはそれとして心に留め、ここは創造神に祈りつつ、輸血もしたらどうかなぁ、~と。
 こう考えて輸血もする。
 
 
<左右両者からボコボコにされる>
 
 だけどこの案はやばいヨ。公言したらクリスチャンからも一般人からもこぞって、異議が唱えられるだろう。
 
  クリスチャンはたとえばこうだろう~。
 
「二つの世界観を併存させて輸血を受けろ、なんていい加減なことよくいうよ。この論者には信仰的誠実さがない。 私はこの著者鹿嶋をクリスチャンとは、絶対に信じないからね!」
 
 一般日本人はこうだろう~。
 
 「著者はなぜこんな呑気なこと言えるのか。そもそも宗教は狂信的なもので、キリスト教も同じだ。そんな世界観を心に存在させることがそもそも問題だ。こんなのは"君子危うきに近寄らず”と敬遠するのが正解なのだ。この著者は全然わかってない!」と。
 
 もう、右を向いても左をみても敵ばかり。鶴田浩二『傷だらけの人生』の世界・・・。
 
(「学び方」8・・・完)
 
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「正しい学び方」7 ~世界観の併存を阻害するもの~

2020年09月18日 | キリスト教の正しい学び方
 
  先回、在物神ベースの世界観と創造神ベースの世界観とを述べた。
 在物神ベースの世界観は実質的に五感(認識)ベースのものになる、とも言った。
 
 今回は、この二つをわれわれは心でどう処理したらいいかを考えよう。
 
+++
 
<結婚式は牧師さん、葬式はお坊さん>
 
「日本では結婚式は教会で牧師さんにしてもらい、葬式はお坊さんを呼んで行う例が多い」~この言葉がよく聞かれるようになって久しい。
 我々は聞き流してきているが、この事態が示唆するところは、結構意味深い。
 
+++
 
 牧師さんもお坊さんも、明確ではないにせよ、独自の世界観を持っている。
 教会やホテルの式場での司式を引き受ける牧師さんは、結婚する二人にキリスト教の世界観を事前に概説する。
二人がクリスチャンでなくてもこれをするのが通常だ。
 
 二人は素直に受け入れて式日を待つ。
 
 そして、この二人は親が死んだら、仏教のお坊さんに葬式をしてもらう。かれらの心の内には、長く習い覚えた仏教の世界観が、たとえ漠然であってもある。このときにはそれを適用するのだ。
 
+++
 
 つまりこの事態は次のことを示唆する。
すなわち第一に、人は心のうちに複数の世界観を併存させることが出来ること、そして第二に、必要なときには適切と思う一つを持ち出して適用できること。これを示唆している。
 
+++
 
<五感ベース、創造神ベースでも同じ>
 
 五感ベースの世界観と、創造神ベースの世界観も同じだ。人は両者を心の中に併存させことが出来、かつ、必要なときには適切と思える一つを持ち出して適用できる。
 
 またこれはもうひとつ、仏教の世界観を加えて三つにしても同じだろう。つまり、人は複数の世界観を心に併存させて、必要なときにはその一つを取り出して適用することができるのだ。
 
+++
 
 簡明さのために、五感ベース、創造神ベースの二つの例で考えるとこうだろう。
 
 人は生まれて成長する過程で、まず五感ベースの世界観を身につける。
 前述の~世界の大枠は空と海と陸でできており、その中に植物、動物、人間が生まれ、生き、死ぬという過程を繰り返している・・・といったようなものだ。
 
 そこに創造神ベースの世界観、聖書の世界観を新しく知識として学んだ場合、それを心の中に併存させていくことができ、かつ、必要なときには、適切なものを一つ取り出して適用できるのだ。
 
<適時適切なものが応用される>
 
 クリスチャンであっても、日常のビジネス生活では五感ベース世界観が浮上し役立ってくれる。家族など近親者が死んだときなどには、創造神ベース世界観が浮上してくれる。
 
+++
 
 ~不思議なことに適切なものが直感的に浮上してくるのだ。
 たとえば、スーパーのレジ(勘定場)で創造神ベース世界観が主役に浮上することはないだろう。そんなことになったら当人は「あなたのために一言お祈りさせてください」とレジ係の頭に手を置いて祈り始めたりしてしまう。そうなったら後ろにお客さんの長い列ができてしまう。
 だが、こういうことは起きない。
 
+++
 また、親族が逝去したときに、五感ベース世界観が主役に浮上して「霊を弔う? 笑わせるな」となることも起きないだろう。そこでは創造神ベース世界観が浮上して、相応の霊理論が提供されることになるだろう。
 人間にはそういう直感力というかセンスのようなものが、不思議に備わっているようにみえる。
 
<併存への障害>
 
 ところが、である。現実の人間世界では上記のような原理が素直に作動することは少ないのだ。
 殆どの人が、どちらか一方にしがみつきたがる。とりわけその世界観に神様が加わっていると、まずそうなってしまう。なぜか?
 
+++
 
 直接的な原因は推定できる。
 「世界観には絶対的に正しい一つ(真理)があるので一つにせねばならない」という通念が心の片隅から登場してくる。これが強烈に働いて、自然体の原理をゆがめてしまうのだ。脅迫観念として働き、自然体をゆがめる。
 
 日本人にはこれが特に多い。だが基本的には、人類全体がそういう心理性向をもっている。
 
<ひとつ病>
 
 筆者はこれを暫定的に「ひとつ病」と呼んでいる。そして先走って言えば、この心理性向は「キリスト教の正しい学び」にも大きな障害をもたらしている。
 
 だがその原因(病)をもたらす心理構造が何か、は現時点では明らかでない。実はそれを明かすのが本書のメインテーマなのだが、今この時点ではそれに突入しない。
 
 まずは、この「ひとつ病」の事例をひとつあげておこう。
 
<日本人はホトケ様よ!> 
 
 最近、とある元女優さんに、聖書の世界観を学んでおくことを勧めた。「人生終盤には特に、これは役に立ちますよ」と言ってみた。
 
 しばらくの沈黙後、反応は次のようだった~。
 
「キリスト教は西洋の宗教でしょ。わたくし日本人だから仏教にいたしますわ。
 それにカミ(神)というのは西洋の神様の名前でしょ。
 日本人にはやっぱりホトケだわ、仏様よ。わたくし学ぶなら仏教にいたしますわ」
 
 ~こう言ってフリーズ(心身が凍ったように固まること)した。
 
 日本では珍しくない反応であって、当然に見える。だがよくみると、これもまた「ひとつ病」の結果の姿だ。
 「宗教持つなら一つにせねば」という前提というか節操心というか、そういうものが心になかったら起きえない反応だ。
 
 論理的な理由などない。とにかく「一つにせねば」という暗黙の脅迫観念がもたらす姿だ。
 
 次回には、この病が社会的に話題になった事件を引き起こした事例を概観しよう。
 
 
(「正しい学び方」7・・・完)
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「正しい学び方」6 ~在物神ベース、創造神ベースの世界観~

2020年09月13日 | キリスト教の正しい学び方
 世界観を、これまで見てきた在物神と創造神の各々をベースにするとどうなるかをみよう。
二つの神概念は、当然、各々独自な世界観を形成する。
 
 創造神ベース世界観の代表は具体的には聖書のそれだから、それも参照させつつみていこう。
 
 
 <在物神ベース世界観は五感ベース>
 
  在物神という神イメージをベースにした世界観は、実質上は五感で認知される物質世界をベースにしたものとなる。
 なぜなら、在物神意識は物質の認知に始まる。そしてその物質の中に「存在する」とイメージする神の感慨が在物神意識の実体だ。
 
 感慨には言葉がない。だからそこから世界観という理論世界が展開することはない。
 
 また、感慨は短期で消えていく。それもあって、在物神イメージベースでは、結局は認知された物質のみをベースにした世界観がつくられることになるのだ。
 
 たとえば~、
 世界の大枠は空と海と陸でできており、その中に植物、動物、人間が生まれ、生き、死ぬという過程を繰り返している。・・・そういったようなものだ。
 
 日本の様な、神イメージがほとんど在物神のみ、という文化の国では、こうした世界観が圧倒的に優勢になる。
 
 
<創造神ベースの世界観>
 
 他方、創造神ベースの世界観はかなり異なったものになる。その特徴を在物神ベースの世界観と比べながら示すと、次のようになる。
 
 第一に、創造神ベースの世界観では、物質界の範囲は無限大となる。
 在物神ベースは実質上五感ベースであって、五感は物質世界の限られた範囲のものしか認識できない。空間、時間共にそうである。在物神ベースの世界観では、時間空間はいうなれば常識的な範囲のものとなる。
 
 創造神ベースの世界観にも、物質界のイメージは含まれているが、こちらでは空間と時間が無限大に拡大される。創造神が時間空間的無限者だから、その懐に展開される世界も無限大になるのだ。
 実際、聖書をみるとその時間関連の言葉(聖句)は、基本的に永遠の広がりを含意するものが多く、空間関連の聖句も無限大の広がりを含意しているものが多い。
 
 第二に、その無限大の物質界に霊界が加わってくる。創造神は霊界も創造した神、という概念だからだ。霊界は物質界に重なって存在するものと考えられている。
 
 第三に、その霊界には自分以外のすべて(万物)を創造し、統治運営する創造神も存在している。この神は被造物より絶対的に上位の存在として、被造界を統治している。
 
 またこの神(創造神)は、他の全ての被造物が存在するより前の、無限の過去から無限の未来にわたって存在するものとなっている。
 創造神ベースの世界観には「永遠」という理念が存在していることは留意しておくべきである。
 
(「学び方」-6/・・完)
 
 
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「正しい学び方」5 ~世界観の生成過程~

2020年09月11日 | キリスト教の正しい学び方
 
<人生観と世界観>
 
 先回、世界観は人生に大きな役割を果たしている、と述べた。
 世界観は人生観につながり、それを方向付けている。世界はこうなっているというビジョンの一部に、自分の人生イメージは位置しているからだ。
 「世界観は人生観の上位概念」ということもできる。その意味でも世界観は重要なのだ。
 それほど重要なものを、我々はどうして額面通り自覚できないのだろう。ひとつにはそれが人生に遅く出現するからではないかと思われる。
 
 <世界観を持つとき>
 
 世界観とか人生観とか言った、広く言えば「~観」というものを人間はいつ、どうやって持つのだろう。
我々は幼児期にそんなものをもつことはない。
 
 我々の存在は「まず母親の胎内で胎児として」始まる。この時には「~観」などという思想はその意識にはなく、
あるのは、「生きよう」という欲求のみだ。
 
 この欲求は、存在を始めた時から無条件に埋め込まれている。これを短く「生きよう欲」と呼ぼう。
 
 胎内にいる間は、その欲求を満たすためのいかなる行動をもとる必要がない。母とへその緒でつながれていて、生きるための養分はそれを通して供給されている。酸素もそれを通して供給されているので、呼吸活動をする必要もない。
 
 身体は羊水の中に浮かんでいるから、自らの身体姿勢を整える必要もない。「生きよう欲」は胎内では100パーセント他動的に満たされていて、胎児は何もする必要がない。
 
<誕生すると充足行為が必要となる>
 
 赤ん坊としてこの世に誕生すると状況は一変する。羊水から出され、へその緒を切られる。その時から人間は、「生きよう欲」を満たす行為をせねばならなくなる。呼吸をして酸素を取り込む行為、乳を飲み込んで栄養を得る行為が必要となる。
 
 「生きよう欲」が存在の当初から無条件に埋め込まれていることは、たとえば赤ん坊の口と鼻を塞いでみたらわかる。激しく頭を左右に振って息をしようとするだろう。授乳の途中で哺乳瓶を取り上げると、泣いて求めるだろう。これらの行為は、人間が「生きよう欲」という欲求意識を基底に持って生まれていることを示している。
 
<幼児・幼年期>
 
 幼児期・幼年期にも、その意識は「生きよう欲」をめぐって形成される。
「~観」といった思想はまだ心に現れていない。
 
 幼児・幼年者の抱く「快」と「不快」の感情も、この欲求を基点に発生している。快感は「生きよう欲」を促進するような作用が与えられるときに生じる。不快感はその充足を妨げ抑圧しようとする力を受けるときに生じる。不快意識は憂鬱(うつ)意識に通じている。
 
  幼児期に授乳され、食物を与えられることは、「生きよう欲」に沿ったものだ。だから幼児の意識には快感、快の心理が形成される。
 親は通常、愛情を持ってそれらを与え続ける。その行為から幼児は「よく食べ、よく飲んで生きなさい、大きくなりなさい」との波動メッセージをも受信している。
 
 こうして 幼児は親に頼り切り、これによって子供の意識は母親のそれと一体化していく。
一体化・同一化は肉体的・物理的にはできなくても、精神的にはできていくものだ。
 
+++
 
 幼年期になると、人間は自分の肉体を破壊することで「生きよう欲」に障害を与える存在を認識するようになる。具体的には物的暴力と病を意識する。
 彼らはたとえば見知らぬ人には、自分の肉体を物理的に傷つける可能性を感知し、恐怖を感じる。幼いときの「人見知り」はそれだ。
 恐怖は不快で憂鬱な心理だ。彼らは物的暴力から守ってくれる存在としても親を感知するようにもなる。それも親への依存心を心に形成する。
 
 病気に対しても恐怖感を抱くようになる。「生きよう欲」を阻害する要素だからだ。
医者がこれから守ってくれる存在だ、と感知すると、幼年者の心には医師への依存心も形成される。
 
<少年・少女期~無常観の生成~>
 
 少年・少女期に入ると大事件が生じる。彼らの頭脳には理性という能力が活動し始める。理性とは「ものごとを外から距離を置いて一般的に見る」能力だ。
  彼らは、親をも距離を置いて眺められるようになる。母親が自分と違った「もうひとつの個」であることに目覚める。同時に自分も「一つの個」であることを知る。こうしていわゆる「自我の目覚め」が起きる。
 
 このとき衝撃的な事件が彼らの心理に生じる。祖父母や親類の老年者が死ぬと、彼らはそれを「愛する人が明くる日から突然いなくなった」という事態として受け止め、従来無かった衝撃を受ける。
 
 この頃には彼らは、ほとんどもっぱら五感覚(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)をベースにして物事を認識している。愛する人もその存在を肉体として認識している。だから、祖父や祖母の死は、その肉体が消滅することで、それは祖父母のすべてが消滅することと認識される。
 この種の認識を繰り返すことによって、彼らの心には「人間はいつか必ず死ぬものだ」という一般知識ができていく。これは人生観という、「観」の意識の始まりでもある。
 
 この認識は広がっていく。人間だけでなく、この世のもの(物質)はみな消滅する・・・との世界観に拡大していく。諸行無常、無常観というのは世界観なのだ。
 
+++
 
<どうせ死んでおしまいだ・・・>
 
 無常世界観は固定的なイメージ(観)となって「生きよう欲」を上から抑圧し、いじめ始める。
 英語のディプレッション(depression)という語が鬱心理を指すのも、「生きよう欲」という基底欲求が「上から抑圧されている不快な状態」を指してのことだ。この邦訳語が抑鬱である。
 
 人が自分に関して抱くイメージは、固定化して「観」になると、それ自体メッセージとなって当人の心理に持続的な影響を与える。無常世界観は以後、生涯にわたって「生きよう欲」に破壊の力を与え続ける。
 
 心の中のメッセージが与える効果は、繰り返し想起されることによって、強くなっていく。無常観というやっかいな思いは、年齢と共にその影響力を強化し、現代人の心底で抑うつ感を形成し続けている。日本ではそれが特に強く、膨大な数の鬱病、引きこもり、自殺を生んでいる。
 
 世界観とはそれほどに影響力の大な重大な要素なのだ。なのに我々はそのことに気付かない。時々大人が「若い内に人生観、世界観を確立しておきなさいよ」とのたまうくらいだ。人生における生成が遅いからだ。
 
<打開策は世界観で>
 
 鬱病の事例は、無常世界観が打倒さるべきものであることを示している。そしてその打倒は結局、対抗する世界観によるしかない。
 
 無常世界観、人生観を、それと反対の存在感・世界観でもってオーバーシャドウする(自分の影で消してしまう)のだ。
反対の世界観とは「人間は永続する」、「世界には永続する存在がある」という存在感をもった世界観だ。
この世界イメージが強く強固になれば、それはオーバーシャドウ効果を発揮するのだ。
 
<五感ベース世界観ではダメ>
 
 「人間永続」の世界観は五感認識をベースにしたものではない。人の五感は物質しか認識できず、物質はみな時がたてば崩壊して消滅する。物質世界はすべてが「死」に向かって変化する「諸行無常」の世界だ。
 
 これをオーバーシャドウする世界観は、少なくとも「五感を超えた」認識をベースにするものでなければならない。通常その感覚は「第六感」とか「霊感」とか言われている。これによる認識領域は「形而上の領域」または「形而学的領域」といもいわれる。
 
 この形而上学的世界観のなかに、他を圧倒する論理構成をもったものがある。これから説明していく「正しいキリスト教」の世界観がそれだ。
 
(「学び方」5 ~世界観の生成過程~・・・完)
 
 
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「正しい学び方」4~世界観の実用価値~

2020年09月10日 | キリスト教の正しい学び方
 
 
 前回、聖書が述べている全体像は世界観と言ってもいい、と述べた。
その世界観の語を筆者はここでは広く考えている。自分を取り巻く社会とか世界はどうなっているかのイメージでありビジョンだと。
 
 だから環境観といってもいいのであって、天国から宇宙までも含めたものも世界観なら、自分の属する家族のイメージもその人の世界観の一つだ。
 
 
<セルフバリュー感を充填する>
 
 世界観は、人間が生きていく上で、予想外に大きな役割を果たしている。
 まず、第一に、その中に自分を位置付けることによって、自分の存在意義、存在価値の意識を作り出す。
短く言えば自価意識、日本語英語で言ったらセルフバリュー意識、これを作り出す。
 
 たとえば自分の国とか自分の家族とかのビジョンの中に、自分を位置づけると、「ヤマト男児・ヤマトなでしこ」とか「山本家の一員」とかいうイメージができる。
 それは自国や自分の家族に価値を感じている限り、自分のセルフバリュー感を高める。
 
 人は何らかの形で自分の存在は価値あるという意識を持たないと、生きられない。世界観はこの欲求充足に大いに役立っている。
 
 
<日常実生活にも貢献>
 
 日常生活でも、世界観は実用的役割を果たしている。
 われわれは日頃、様々なものごとに関して決定をしながら生きている。
この意志決定のとき、我々はまず自己の世界観の中にものごとを位置づける。
 
  次にその世界観に関連付けてものごとの意味と価値を考え、その価値に従って、自分の行為の正否を判断(価値判断)する。
そうしてとるべき行動の決定をする。こういう精神作業を我々は日々行って生きている。
 
 世界観は、日々の実生活にも大きく役立っているのだ。
 
 
<潜在的だが強い世界観欲求>
 
 我々はそのことに気付いていない。だから世界観欲求は通常は自覚することのない潜在的欲求となっている。
 食欲と比べたらいい。食欲は発露するとストレートに充足行為をうながす。腹が減るとすぐに食べたくなる。そして充足するとただちに消える。
 生理的欲求というのは発露も行為もすぐれて直裁的なものだ。こういう欲求は目につきやすく、自覚も認知もされやすい。
 
 これに比べると、世界観欲求は、自覚されにくい。だが、そのありかたは、人生のあり方に重大に関わってくる。
故に、人は心の底で、よき世界観への欲求を潜在的に強く抱きつつ生きているのだ。
 
<技術一つ、世界観一つ>
 
 若干の付言をする。
端的に言えば「人が生きていくのに柱となる知識は二本ある」と筆者は考えている。
技術知識と世界観知識がそれだ。
 
 技術知識とは、現実の世が買ってくれる知識、経済学の言葉で言えば「需要」される知識である。
人は肉体を持っているので、これを養いつつ、つまり、肉体に糧を与えつつ生きねばならない。その糧を得るには、最低限一つの「買われうる」技術が必要なのだ。
 
+++
 
 もうひとつがここで述べた世界観知識である。
 これは自分をその中に位置づけて、自分の存在意義のイメージを造ってくれる。
 意義は価値に通じ、自分の存在価値意識、セルフバリュー感(自価意識)を高める。
  
 セルフバリュー感は「生きよう欲」を強める鍵だ。
 自価意識は実は、技術を世に供給する際にも、その意欲を形成する源だ。
 これが弱いと、技術が買われないことがあると心が挫折しやすくなる。折れるやすくなる。
 
  すると、自分でも不思議なくらいに、気持ちが立ち上がらなくなり、引きこもりたくなる。
 現在、日本に40~60歳の、高齢ひきこもりは約100万人というが、真因はこの自価意識の弱さにある。
 
+++
 
  また、世界観は人生において重要な決定事項に直面したときには、助けになる。
重要事項は、その世界意識の中に慎重にものごとを位置づけ、事の正否、善悪を判断することが必要なのだ。
 
「若い内に世界観・人生観を形づくっておけ」といわれるのは、それ故なのだ。
 
 
(「正しい学び方」4 ・・・完)
 
 
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「正しい学び方」3~全体像から感知していく~

2020年09月09日 | キリスト教の正しい学び方
 
 先回、「創造神理念(概念)は理論を含む」と述べた。
神理念が理論を含めば、それをベースにする創造神宗教も当然理屈を含むことになる。
 
 理論は言葉で示される。創造神宗教にはそれを示す言葉がある。
言葉は口から語られる。だが口伝されるだけでは、変化しやすいし、消えてしまうこともある。
それは文字にして書物に記されて初めて安定し、恒久的になる。
宗教ではその書物を教典という。創造神宗教には、教典は不可欠である。
 
 ちなみに在物神宗教には神を説明する理論が無く、言葉が無く、教典は無い。
教典かと思って眺めてみると礼拝儀式の作法などの書物だ。
 
 こちらは拝んで神秘的な感慨の得られる物質があればいいのだ。
 
 
<聖書の内容は多種多様の極み>
 
  キリスト教は創造神宗教であって、その教典は聖書である。聖書は、ページ数から言っても膨大な書物だ。
 その中には60余の書物が収録され、各々に多くの話が含まれている。
 
 創造神が天地を作った話、人間を造った話、人間が悪魔に誘惑されて罪を犯す話、創造神の御子が人となって地上に来て救う道を作る話、その他、不妊の女が100歳になって子を産む話、処女が子を産む話、人間のあいだの愛、嫉妬、憎しみの話、罪と赦しの話、民族統治の方法、処世の知恵など、多種多様極まりない。
 
 これらをどう読んだらいいかのか。ベストなのは、まずこれらの話全てをカバーするような理論や全体像のようなものに関心を抱き、その視点を保ちながら聖書の全部を通読することだ。
 
 冒頭から話を出てくる順に通読していく。個々の話に解釈を考えないで、とにかく物語をダラダラ読んでいく。
 一読に結構時間がかかる。だが繰り返しているとある時、聖書全体に貫徹している法則のようなものや、それらが組み合わさって構成する「全体像のようなもの」が感知されてくる。
 聖書はそういう全体像を共有する複数の人によって編集されている。通読を繰り返していると、その全体像に近いものが浮かび上がってくる。
 
+++
 
 全体像は雰囲気ないしはオーラとして浮上してくる。それは存在観(存在の根源は何かを示す)や歴史観などを含めている。それらを総括したものを世界観と言ってもいいだろう。
 浮上した世界観のオーラを言葉にし、論理的に組み立ててみる。たとえば~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 
 世界は創造神と被造物によってなっている。創造神は霊的存在であり、被造物は物質と霊で構成されている。
 創造神はまず天国(天の創造神王国)という被造空間を創り、その中に将来御子が着座すべき王座を創る。
 さらに、創造神に仕える御使い(天使)を創り、創造神の意図に反する行動をする天使を閉じ込める牢獄空間(宇宙)を作る。天使は霊的存在である。
 
 実際、反逆天使群が出現し、彼らはその宇宙に閉じ込められる。宇宙は暗やみ(黄泉)である。
反逆天使は悪霊となり、その長は悪魔(サタン)となり、牢名主の如くに君臨する。
悪魔は「世(暗やみの世界)の君(君主)」となる。
 人間はその宇宙の中に創られる。肉体の中に霊が含まれた存在として創られる。そしてドラマが始まる・・・。
          (以下省略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 ~といったようなものだ。奇想天外なようだが、筆者の場合、聖書を通読していくとこういう世界歴史観が浮上する。
 
 
=聖書の空間理念=
出所:『聖書のことがよくわかる本』鹿嶋春平太、中経出版
 
+++
 
 そしてその世界観の中に、個々の話を位置づけいく。
それに沿って、個々の話を解釈していく。聖書はこのように読むのがベストだ。
 
<合成の誤謬~経済学の経験則~>
 
 だったら先に個々の話を解釈しておいて、そのすべてを組み合わせても同じ全体像が得られるのではないか、とも思える。
だが、実際にはそうはならない。
 
 そのことは、経済学の分野で確かめられている。
経済学ではマクロ経済とミクロ経済という言葉を使う。マクロは国民(国家)経済を意味し、ミクロはその中で活動する数多くの企業や家計である。
 ミクロ分析とはその企業・家計を認識するために行う分析だ。マクロ分析は、全体としての国民経済を直接認識しようとする分析だ。
 
 すると、ミクロの企業・家計情報を合成するとマクロの国民経済が把握できる、と思えるだろう。だが、実際にその合成情報はマクロ経済を直接分析して得た情報に一致しない。
 この経験から経済学では「合成の誤謬」という語が作られている。ミクロ情報を合成しても、マクロを直接分析して得る情報と一致しないのだ。
 
+++
 
 これは経験法則と言っていい。経済学での経験法則は、聖書理解にも当てはまる。聖書の中の個々の話を解釈して得られる情報をすべてを合成しても、聖書全体を直接認識して得られる全体像には一致しない。
 
 やはり、聖書の持つ全体像を先に掴んで、それに個々の話を位置づけ、解釈していくことによって妥当な認識は得られるのだ。
こういうやり方を英語では「ブレイクダウンしていく」という。マクロからミクロに割り降ろしていく認識の方法だ。
 
(「正しい学び方」3・・・完)
 
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「正しい学び方」2~創造神概念が含む理論の例~

2020年09月02日 | キリスト教の正しい学び方

 

 前回、在物神イメージ(心理)の中身は感慨であり、創造神イメージの中身は理念であると言った。
理念には理屈が有り理論が含まれていると言った。
 理論のいくつかを具体的に見てみよう。 
 
<創造神は「唯一者」>
 
 理念からは論理が展開する。 たとえば(万物の)創造神の理念には「ただお一方」しかおられない、という論理が連なって生まれ出る。
 試みに「万物の創造神」がA、Bと二者おられたとしたらどうなるかを考えてみよう。
 
+++
 
 もしA神様が「自分以外の万物」の創造者だとなれば、B神様はその被造物となってしまう。つまり、創造者ではなくなる。
 逆にB神様が「万物の創造神」だとなれば、こんどはA神様が被造物となってしまう。
この様に、創造神が二者であるという理屈は成り立たない。
 「万物の」創造神は実際には「ただお一方で唯一者」でしかありえない。
 
 そういう論理が創造神概念には連なり含まれているのだ。
 
 
<創造神は「時間空間的無限者」>
 
 この他にも「空間的無限者」「時間的無限者(永続者)」といった属性理念も連なり含まれている。
 
+++
 空間的無限者、はこうだ。
 もし「(万物の)創造神」が空間的に有限ならば、その外側のものは「オレが創った」とは言いがたいだろう。
だから創造神は空間的に限りがあってはならない。外枠の輪郭のない、どこまでも広がっている無限者でなければならない。
 
+++
 時間的無限者も同様だ。もし、創造神の存在に「はじめ」があったら、どうなるか。それ以前のものは「オレが創った」とは言いがたいだろう。故に創造神は無限の過去から存在していなければならない。
 
 未来についても同じだ。もし未来のある一時点で創造神の存在が終わるのなら、それ以後のものは「オレが創った」とは言いがたい。つまり「万物の」創造神でなくなる。創造神は未来にも無限に存在しなければならない。
 
 つまり、万物の創造神は「時間的にも無限者」と論理的にもなる(聖書にはそれを示す聖句が多く記されている)。言い換えれば「永続者」なのだ。
 
 唯一者であり、時間的にも空間的にも無限者である神。創造神概念にはそういう理念が連なって存在する。そういう理念体なのだ。
 
+++
 これと、中身が感慨で理論が皆無な在物神概念との違いが、いかに大きいか。
それを銘記しないと、創造神ベースの宗教(キリスト教)の話を聞いていても、知らず知らずのうちに在物神感覚が意識に混入してきてしまう。
 自然発生の在物神感覚は、心に根深く存在するからだ。
 
<在物神だらけの国>
 
 そもそも人は、自然な状態においては,そこいら中の物質に在物神をイメージしつつ成長していく生きものなのだ。
狐や蛇などの動物にも神をイメージしていく(それを祀った神社も多い)。
その結果、どの社会でも人々の意識の中は在物神だらけになる。
 
 八百万(やおよろず)の神というのは、そういう神意識が抱かれている現象を表皮的にみての言葉だ。
 こうした神を「存在すると感じて」礼拝するのが「在物神宗教」だ。
在物神宗教もまた、島倉千代子の唄~“人生色々”~のように、色とりどりに咲き乱れる。
これまた自然の理だ。
 
+++
 
 「日本は多神教の国」と誇らしげに言う知識人先生も多い。だが、この先生がたも神概念の相違に完全無知な状態でのたまっている。
 「多神教の国」の実体は「在物神だらけの国」というだけである。日本人の神意識はほとんどそれ一色、というだけのことである。
 
<クリスチャンの心にも併存>
 
 在物神意識はクリスチャンと自認する人々の心底にも根深く染みつき活動している。
創造神概念(理論を含んだ神概念)への、在物神イメージ(「存在する、しない」を感覚で判断するだけの神概念)の混入が頻発している。
 信徒のみならず日本では、牧師さんにおいてもその傾向が濃い。
 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
=コラム=
 
<在物神イメージ混入の事例>
 
 創造神なのに在物神的になってしまっている事例を一つ挙げておこう。
 これはある教会の主任牧師さんによるSNSへの投稿だ。(意味が漠然としている箇所には、筆者が括弧を入れたり、その中に言葉を挿入したりして補っている)
 
+++
 
 投稿文には、教会での説教のように、最初に聖句を掲げられている。おそらく説教の要約だろうが、とにかく下記の如しだ~。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。 
神に近づく者は、神がおられることと、 
神を求める者には報いてくださる方であることとを、 
信じなければならないのです。」
 
(ヘブル人への手紙11章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
=お話=
 
 最近、生まれついての長年クリスチャンであると言われる人が(人でありながら)、
「神の存在を全く信じていない」と言う人に出会いました。
 
その方(信じていないという人)は「神が愛されているとか恵まれたと言うのが理解できない。(自分は)キリスト教という宗教をしているだけだ」と言われました。
 
 私(牧師さん)は「神が報いて下さると言うのに
その対象が無いなら非常に虚しい事だ」と思いました。
やはり、神が実在されると強く証言ができる人や、
奨励される方が傍にいなくてはと思わされます。
 
 私(牧師さん)は、大の宗教嫌いでしたが神様が
本当に居られると思ったから
キリスト教会に通うようになりました。
そうしたら聖書の通りに神様の体験をし、
信じる決心ができるようになりました。
 神様が私を愛されている事、
その恵みを知り私は180度、変えられました。
本当に生まれてきてよかったと
言えるようになりました。
 
 神様が居ないという事なら、
キリスト教はとっくに辞めております。
 
 隣に住む83歳になるお母様も
もともとカトリックの女学校出です。
シスターに「神様は本当に居られるの?」
(と質問したら)
「さあ?どうでしょうね」と言われたので
信じるのを辞めたと言われました。
 
 しかし、私(牧師さん)が「神様は間違いなく居られるよ」とお伝えしたら、
「そうなの? では、イエス様を信じます。」
と信じる決心をされました。
 
(投稿、以上)
 
+++
 
 ここで牧師さんは、神様(創造神)が「存在する、しない」という感覚判断だけで信仰を語っておられる。だがそれは在物神向けの信仰だ。
 
 上記の掲示聖句はパウロという伝道者の言葉なのだが、パロがここで言っている「信仰」は、牧師さんのものとは別ものだ。
 
 キリスト教の神概念は、「万物を創り、統べ治め、限りなく大きく、永遠で、ひとり子をこの地上につかわし・・・等々の理念をもっている。それを知り、また証拠づける奇跡も体験して、徐々に得ていく「実在感と信頼感」がその信仰の中身だ。
 
 より詳しくは後述するが、創造神向けの信仰は「知って深めていく」信仰なのだ。
 
 それがここでは、在物神向けの「有る無し感慨」の信仰になりかわってしまっている。そういう典型例だが日本においてはこれがごく普通なので、殆どの読者はそれを奇異に感じない。
 だが、こういうものを矯正しながら前進しないと、「正しいキリスト教の学び方」には近づけない。
どうするか?
その併存心理を自覚するのである。
それが、道をまっすぐにする作業のポイントだ。
それについては後述する。
 
 
(「正しい学び方」2・・・完)
 
 
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「キリスト教の正しい学び方」1 ~久々の連載~

2020年09月01日 | キリスト教の正しい学び方
 
 
久々に連載をしてみようと思います。
タイトルは「キリスト教の正しい学び方」と仮につけました。始めましょう。
 
@@@@@@@@@@@@@
 
<目茶苦茶なキリスト教イメージ>
 
 キリスト教に関する日本人の認識は、誤解に満ちている。仰天するような、今流にいえばメチャクチャな誤解も多い。
 
~「ああ、宗教か・・・」
「宗教は、鰯の頭も信心次第でアリガタクなる、といった類いのものだ」
「なんでも信じれば有り難くなる、なんて馬鹿みたいな話しだ」
「オレは宗教はゴメンだ」
 
 日本ではこうしたイメージは当たり前で一般的だ。
その実状の中で、いきなり「これが正しいキリスト教ですよ」と話しても、はなっから会話にならない。
 
 上記の感想は、誤解に基づいている。まずこの仰天イメージ、仰天誤解に取り組むことから始めねば会話は進まない。
 つまり「正しいキリスト教」でなく、「正しくないキリスト教」をみることから始めるのだ。
 
 
<人のもつ「神イメージ」>
 
 誤解イメージが生じるには、相応の由来がある。「信心次第で鰯の頭も神様になる」は、人が抱く「神イメージ」の種類に密接に繋がっている。
 
+++
 
 人の認識は五感~視覚や聴覚などの~で物質を認識するときに最も明白になるようにできている。
だから人はまず生まれて以来、五感認識をベースにして日常を生きる。世界観も五感覚ベースで描いている。
 
 ところが、我々には第六感とか霊感と呼ばれるものも、かすかながらある。それによって五感認識を超えた世界もあることを、かすかに予感しながら人は生きている。
 
<神は「見えない影響者」のイメージ>
 
 また人は、五感認知できる物質世界だけでは説明できないことを経験もする。死んだ先祖の夢をリアルに見たり、あるいは、醒めているなかで人の幻を見たりすることもある。
 
 そうした経験を重ねる内に、我々は“神”のイメージを自然に抱くようになる。
 神とは、定義すれば「見えない影響者」だ。こういう「影響者のイメージ」を、漠然ながら心に抱いて人は生きている。
 
<「神イメージ」の出来方>
 
 われわれはこの“神”を、生まれて成長する中で、まず“物質の内部に”イメージする。
 巨大な木や岩に対面すると、そのなかに神を意識する。それを「ご神体」と言ったりする。
 
 荘厳な建物の前に立つときもそうだ。空や海や山も川も自然の物質で出来ている。その内部に「神が宿っている」とイメージする。
石や木に刻んだ彫像にも、また時には神秘的な雰囲気を持った人間にも、その中に神が存在していそうだと意識する。
 
 こういう有限な大きさの物質のなかにまず神を感じる。これは人間の自然の情だ。
 
+++
 
 筆者はこの「神(のイメージ)」を在物神(ざいぶつしん)と呼んでいる。「“物”のなかに存“在”するとイメージされる“神”」という意味での命名だ。
 
 在物神の語は憶えておきたい。
 
<「在物神」イメージの中身は感慨>
 
 在物神イメージの心理的中身は「感慨」だ。彫像や建物や巨木や巨岩を前にしてジーンとくる神秘的な感慨だ。
 感慨は感情だから、その中に理念・理屈がない。この神はどういう属性を持っているか、どういう働きをするかなどに関する理論がない。言い換えると存在理論がない。
 
 だから、在物神についての判断は、ほとんどもっぱらその存在が「ある」とか「ない」とかの感覚的判断となる。「信じる」という言葉の中身も、「存在していると思う」であり、「信じない」は「存在していないだろうな」という感情だ。
 
 
<在物神宗教>
 
 この神イメージを「存在すると思って」崇拝するのが在物神宗教だ。そして自然のままでは人は、生まれてこの方、このタイプの宗教しか知らない、身近にあるのはそれだけ、という心理状況でくらす。
 その結果人は、「神様とはその存在を信じるか信じないかの対象だ」という通念を抱いて暮らす。
 
 この通念は「なんでも神様だと信じれば神になるんだ」という思想に繋がっていく。そしてそれを批判的に外からみて「鰯の頭も信心」と皮肉交じりに言ったりもする。
 
 だが、そう語っているこの人も、自分が「在物神宗教しか知らない人」であることに気付いていない。
 
<「創造神」~自然発生しない神イメージ~>
 
 人類社会にはもうひとつ別の神イメージがある。
万物の創造神、というのがそれだ。
 この神は「物質も、その中に染み込んでいると創造される神がいるならばそれも含めた」すべて、自分以外のすべてを創造した神のイメージだ。
 
+++
 
 ところがこの神イメージは、在物神イメージとは違って、人の心に自然に生じることがない。
 
 在物神イメージは人の心に自然発生していく~。
 
 人は生きているなかで、物質を五感(目や耳)で自然に認知する。次に、認知した物質のなかに、自然に~本能的に~「見えない影響者」をイメージしていく。こうして在物神イメージは自然に心に生成していく。
 
+++
 
 ところが創造神の概念は人の心に自然発生しない。
なぜなら、人は「全存在物」なんてものを一度に五感で感知することはできない。感知できないものは、実体イメージが心にできあがらない。
 
 実体イメージがないのだから、その中に「宿っている神」というイメージも生じようがない。「すべての存在を創造した神」というような神イメージは心に“自然 に”できあがってくることはないのだ。
 
 
<創造神イメージは理念>
 
 創造神イメージというのは「外から言葉でもって」その理念が投げ込まれることによって心にできあがるイメージ体だ。
「存在の全てを創造した神がいるんだよ」という言葉が外から送り込まれて初めて意識に出現する。
 
 その事件が起きた状況が、聖書に記されている。その詳細は追々のべていく。
が、とにかく、そういう事件があり、それが記録され、かつ言い伝えられることが人類史の中でおきた。
 
 その結果、いま一定数の人類の意識には、創造神という神イメージも抱かれるようになっている。
 それが人類世界の風景だが、日本人にはそれに気付いている人は非常に少ない。
 
 だから「キリスト教 ⇒ 宗教(在物神信仰) ⇒ 盲目思想」 ・・・という誤解はごく自然に生じるのだ。
 
(「正しい学び方」1 ・・・ 完)
 
 
 
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