鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

39.聖句自由吟味活動の真髄理解は至難の業

2018年04月30日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回、聖句の自由吟味活動は、強大な自由志向を作り出し、近代世界に民主制国家を出現させた~と述べた。

今回は、その活動が人間の心に自由志向を強く形成する仕組みについての説明を始めたい。

話は少し抽象的になる。

+++

まず知るべきことがある。

聖句自由吟味活動のなんたるかを理解するのは、日本人には至難の業であることがそれだ。



 
<類似点を持つ経験素材>

そもそも人間、新しい事象の説明を理解する時には、心の内に多少とも類似の経験素材があることが必要だ。
 
それを手がかりにして、想像力を飛翔させて、一定のイメージを得ることが出来るのだ。

だが聖句吟味活動の場合、そうした経験的手がかりが、日本にはほとんど存在していない。

その種のものを見たことも聞いたこともないのだ。
 
だから、説明を読んでも聞いても、なにをいっているか、人はほとんどイメージを結べない。

 
 

<聖句自由吟味活動の基本原則>

具体的に見よう。

聖句の自由吟味活動の基本原則を箇条書きすれば、次の三つになる。

① 吟味素材は聖句(聖書の中の言葉)である。
 
② 個人に自由解釈を認める。

③ それにスモールグループでの自由吟味活動を加える。

+++

この箇条書きから、活動者の知性が強烈に活性化し、顔が輝く光景を想像できるか。

できない。

もし、多少なりとも共通した性格を持った活動を知っていれば、そういうイメージを連想することもありうるだろう。

箇条書きの言葉にどまらない事象を想像する可能性も出るだろう。

だが、類似した経験素材は心にないから、そういったイメージが伴って出てくることはない。

これが理解を著しく困難にする。


 
 

<怒り出す牧師センセイもいた>

聖句自由吟味メソッドの本場は今では、米国南部のサザンバプテスト地域だ。

鹿嶋はそこに一年間滞在し、この活動に自ら参加もしてしてやっと悟った。

そして日本でこの活動を言葉での説明を試みた。

数人以上の日本の牧師さんたちに説明してもきた。

だが誰一人として、言ってることを理解できた人はいなかった。

中には、聞いていて解らなくて、怒り出したボクシ先生もいた。

“私の牧会方法にケチを付けるつもりなのか!”~とでも言わんばかりに。

 
 

<本場の宣教師も日本ではスモールグループをさせない>

もっと端的な事例もある。

米国サザンバプテスト教会の連盟は、すでに100年にわたって日本にも宣教師を派遣してきている。

宣教の拠点としての学校も設立していて、九州の西南学院大学はその本拠機関だ。

宣教師は現在首都圏だけでも8名程働いている。

 
+++

宣教師は日本でも伝道活動して多くのバプテスト教会を開拓してきた。

教会では日曜毎に礼拝活動をしている。

彼らを派遣している母教会では、日曜礼拝においてスモールグループ自由吟味活動は必須メニューだ。

礼拝前にたっぷり1時間程かけて信徒はグループの小部屋に別れて相互吟味し合う。

+++

ところが彼らが日本で開拓した教会のほとんどは、そうした活動を信徒にさせていない。

日曜礼拝では、聖句朗読し、賛美し、説教して、献金して終わっている。

一般のプロテスタント教会と変わりない。

中には試みている教会もあるが、精神活性化はみられない。
 
自由吟味活動の真髄を、日本人にはどうしても理解させられないのだ。

 
 
 
<歴史をたどってみるか・・・>

こと聖句自由吟味メソッドの真髄については、日本では通常の説明では全く伝わらないのだ。

思案の末、わたくし(鹿嶋)は、この聖句自由吟味活動が出現した歴史の中で説明してみようと思い立った。

かなり迂回の多い説明になるだろうが、迂回する中に共通した経験素材も含まれるかも知れない。

次回から、試みてみよう。








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38.意識世界拡大は民主社会維持の必須条件

2018年04月27日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

前回、聖書の歴史視野は、人間の視界を「こじ広げて」くれる、と述べた。
 
意識世界の拡大は、人間が社会の中で精神の自由を維持するのに必須なことだ。

今回は、それを説明する。

なお、これに関する事柄の多くを、鹿嶋は著書『聖書の論理が世界を動かす』新潮選書(序章)でのべている。

だが、もう25年、四半世紀も前の本だ。

重なるところも多いが、あらためて示してみよう。

 
 
 

<民主主義制度は決定方式の一つ>

人間の精神の自由を達成し維持するには、民主主義制度が必要だ。

民主主義制度とは、社会全体に関わる事項を決定する方式の一つだ。

その際、社会の全構成員に決定権を均等に配分するというやり方だ。

「主義」というのは、「この方がベターだ」という意味を持っている。

だから民主主義というのは、他の思想と「比較をして」いう概念だ。

そして、この場合、比較されているのは独裁主義だ。


+++


独裁制も、一つの決定方式だ。

そして独裁主義とは、社会全体の決定事項を、一人の人間に集中させるのがベターだという思想だ。

 
 
 
<独裁制の利点>


独裁制には、民主制に勝る利点がある。

1.決定の速度が速い。

2.情報の機密性が守られやすい。

~などがそれだ。

だから、戦争の時などには、独裁的な体制が選択されやすい。

 
 

<民主制の自由実現力>

独裁制のその利点は平和時にも健在だ。

にもかかわらず、近代以降人々は、社会を民主制に向けて進めている。

構成員に精神の自由を最も大きく与えるという利点を持つからだ。


+++

たとえば、誰を徴兵して戦場に差し向けるかという決定の際に、その性格は端的に表れる。

この決定は、構成員一人一人の人生、幸福に大きく影響する。

その決定権が、一人の人間の手に握られていたらどうなるか。

人は恐怖感の中で暮らさねばならないだろう。

こういう事態は、精神の自由を大いに妨げるのだ。

+++


民主制はその逆で、みんなが決定にあずかる権利をもつ。

それが恐怖心を縮小し、精神の自由をもっとも大きくする。


 

<個々人に政治見識あることが大前提>


だが、この制度が機能するには前提がある。
 
構成員個々人が、政治事項の知識と見識を十分に持っていなければならない。

もたねば、その意志決定は盲目的になる。

民主政治は、衆愚政治になって社会は機能不全に向かう。

(戦後70年の今の日本に、その兆候は現れている)
 


 
 

<聖書の歴史視野は意識世界を拡大する>

だが、政治事項は、人間の日々の生活の関心事よりも、広域的な事柄だ。

人は、自然なままでは、政治事項にまで意識範囲を広げたがらない。

精神的エネルギーが多大に必要になり、苦痛が大きいからだ。

  (在物神宗教の盛んな日本ではとりわけそうだ。人の精神が物質のなかに没入する習性が顕著なので、等身大を超えた広域的な事柄に意識を向けるのが大きな苦痛となるのだ)

+++

この事態は、普段から広域的な思考空間でものを考える活動があって初めて打開される。

そしてその活動として有効なのが、聖書の歴史視野を抱くことだ。

 
 
 

<自由吟味活動のダントツな拡大力>

 
また、聖書思想の吟味活動をすると、その力はとりわけ大きくなる。

この活動を日頃から個人で行い、かつ、小グループにおいても行う。

多くの人がこの活動をすると、社会に民主制を実現する力は、ダントツに大きくなる。


+++
 
それを歴史事実で実証したのが、『バプテスト自由吟味者』ミード著、鹿嶋訳・解説、(編集工房DEP発行、株式会社かんぽう発売)だ。

この本は、聖句自由吟味活動者たちが、ほとんど独力で、北米大陸で人類史初の民主制国家を実現した事実を明かしている。

 
 
 
 
 

 

欧州社会で王制が廃止され、近代民主制が実現したのも、実は米国で実現したこの新制度が波及した結果だ。

米国でこれを実現させた自由吟味者が、この運動を欧州に広げたのだ。

第二次大戦後には、その動きは、日本、韓国、台湾にまで広げられている。

戦後我々日本人が自由を享受できているのは、その恩恵による。


+++

聖書自由吟味活動が人々の心に強い自由志向をもたらす、その心理過程については、もう少し詳細な説明がいる。


だが今回はここまでにしよう。








 
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37.人間の意識世界をこじ広げる

2018年04月25日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 




前回示したように~

 エデンの楽園と天の創造神王国を視界に入れると、(霊のある)人間世界の歴史は~

 「エデン ⇒ 荒野 ⇒ 天国」

~というパースペクティブ(視野)になる。

+++

だがそういうと、また、こんな疑問も出るだろう~。

エデンとか、天国とかそんな空想的なものを持ち込んだって、どうだというんだ。

そんな視界は、現実世界に生きている我々の人生や生活に、なんの役にも立たないのでは~と。

+++

確かにそう見えるが、役立つところもある。

こういう広大な視野は、人間が持って生まれた想像力では思い描けないものだ。

外から与えられる世界史ビジョンを受信することによって、われわれは「人間が独力では出来ない範囲に」視野を広げられる。
 
 
 

<「万物の創造神」イメージがすでに視野を拡大>

実は、「万物の創造神」という神イメージは、すでにこの役割を果たしてくれていた。

私の話を思い起こそう。

それは、「見えない影響者(神)」のイメージからはじまった。

人間は「神」のイメージを持たずには生きていけない生きものだ、~という事実認識から始めた。

だが、人は持って生まれたままでは、在物神(物質の中に存在するとイメージする神)しか思い浮かばない。

+++

その状況に、聖書は「外から」万物の創造神という神イメージを導入してきた。

それによって、人類は初めて、神イメージを広げることが出来た。

そういう神が実際に存在するかどうかは、探究していけばいいことだ。

とにかく、これを与えられることによって、我々のイメージ世界は、こじ広げられたのだ。


 
 

<エデンも視野をこじ広げる>

エデンの楽園も天国も、それと同じ役割をする。

こんな世界は、人間の経験知識からだけでは、思い描けない。

漠然と「夢のような幸福社会・・・」とは思えるかも知れないが、具体的積極的かつ詳細にはイメージは描けない。
 
+++

これらによってわれわれの世界歴史観は広大化した。

すなわち~

 創造神はまず、霊ある人間を~

① エデンの楽園に住まわせ、

② 次に荒野に住まわせ、

③ そして最後に本物の楽園に、信じる人間を住まわせる。

   ~という歴史ビジョンが、我々の意識領域を拡大するのだ。


繰り返すが~

エデンも天国も、永遠の世界で「時間」はなく、持続感覚だけがある。

そこは死もなく、飢えもなく、生殖の必要もない。

その身体は天使のようだ。

将来、信じた人間はそうなって、天の王国で永遠に暮らす。

~聖書はそういう歴史観を導入して、人間の視界をこじ広げてくれるのだ。


今回はここまでにしよう。








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36.エデンは天国と対応する模型

2018年04月23日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

前回~

エデンの園は、今の先進国世界をもってきても、比較にならない超幸福世界だった~ことを示した。

だが、こういう意見も出るだろう。

~もしホントにあったとしても、それはもう過ぎ去った世界だ。
 
今更懐かしがっても、今の我々には役立つものでないよ。

我々人間は、今の世を~基本的に荒野であろうと~改良し続ける以外に道はないのだから~と。

 
 
 

<イエス、「天の王国」を説く>


ところが聖書の世界は盛り沢山だ。

後に「人の子」としてこの世に現れるイエスは「天国」を説く。

天国とは正確には「天の創造神王国(God's Kingdom of Heaven)」だ。

そこはエデンの楽園と同じように、飢えも病も死もない世界。

そして人間には、死後そこに入る道が備えられている~とイエスは説く。

 
 

<人は死後復活する!>

より詳しく言うと、人の霊は肉体を抜け出して復活する~とイエスはいう。

そしてそのうちのイエスの言葉を心に受容した霊(人の意識の本体)は、~エデンと同じ性格の~その天国に入れるというのだ。

+++

実際、イエスの宣教の中心は、その天国(日本語では「御国」ともいう)の説明に置かれている。

そして、人の死後、復活する身体についてイエスは次のように述べている。

ここは聖書解読のポイントになる重要なところだから、少し詳しく述べる)

 
 

<復活の身体の有様を教える>

サドカイ人(人の復活はないとするユダヤ人)が、イエスに少々意地悪そうな質問をする~。

・・・・・・・・・・・・
「律法では、長男と結婚した嫁(女)は、彼に死なれると、その弟(次男)と結婚せねばならない~とありますね。

(以下、次男が死んだら三男、三男が死んだら・・・と続く)

そこで質問ですが、男たちがみな死んで、最後にその女が死んだ場合、もし、復活があるのなら、彼女はだれの妻になるか」~と。
・・・・・・・・・・・・・

 
イエスは答える~

・・・・・・・・・・・・・・
「誰の妻にもならない。復活した人間の身体は天使のようになっていて、もう娶ることも嫁ぐことはない。以前の夫婦関係はなくなっている」~と。

(するとイエスを受け入れて天国に入る霊の復活体も、天使のようということになる)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

(マタイによる福音書、22章23~33節参照)
 
 
 

 
<アダムとイブの楽園での身体>
 
イエスのこの教えは、エデンの楽園におけるアダムとイブの身体を~前回より今一歩深く進んで~イメージするに、有益な手がかり(ヒント)になっている。

聖書には、エデンの園では、二人は~
 
「裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」
 
~とある。(『創世記』2章25節)

+++

そしてあるとき創造神の言葉を心から閉め出す。
 
悪魔の惑わしにのせられて、戒めを破ってしまう。

すると二人は~

突然、裸であることを恥ずかしく感じて、そしてイチジクの葉をつなぎ合わせて腰の周りを覆った」と聖書にある。(『創世記』3章7節)


+++

この流れは、イエスの上記の教えを援用すると、次のように理解できる~。

すなわち~、前半の二人は、創造神と霊が完全協和の状態にあって、死がなかった。

死がないから、その身体は生殖への動因もない天使のような身体だ。

天使は霊だけで出来た存在だ

肉体を持たないので生殖活動をしないのだ。

二人の身体はそういう性質のものだった、~と推定できる。

 
 

<「死」が入って身体が変容>

 
ところが二人は、創造神の言葉を心から閉め出した。

かくして「死」が入った。

死が入ることによって、二人の身体は変化した。

生殖の動因が生じ、生殖の準備反応を起こしてしまった。

これが~

「突然、裸であることが恥ずかしくなり、イチジクの葉をつなぎ合わせて腰の周りを覆った」~ことの理由だと解せるのだ。

 
 

<天国の性質を認識させる模型>


こう考えると、天国とエデンはあい対応した楽園と認識することも出来る。

これをうけて、エデンの楽園は「天国の模型」と言う人もいる。

本物の至福の世界である「天国」を、前もって地上で模型として示したのがエデンの楽園、というわけだ。

そうであればエデンの園は、人間に将来の本物の楽園があることを認識させる手がかり情報として、役立ち続けていることになるだろう。



今回はここまでにしよう。








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35.エデンの楽園は超至福の空間だった

2018年04月22日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

前回の続きだ。

生産の機械化(産業革命)が起きて、人類の飢えの問題は解消に向かった~と前回言った。

医療も発達して、沢山の病が癒やされるようになった。

では、この動向が進むと、荒野の悲惨さはなくなると期待していいのか?

+++

それは「視界(パースペクティブ)」の問題だ。

我々人間が経験から得られる人間社会の歴史のなかでみると、楽観的にもなり得る。

だが、聖書のパースペクティブのなかでみると、話は違ってくる。

+++

聖書は、エデンの楽園をも含めた視界でものごとの有り様を見るのだ。

では、その楽園はどうだったかというと・・・

 
 

<楽園の状況>

まずエデンでは、すべてが豊饒で、二人は十二分に食べられた。

園の中央の一本の木の実を除いてすべての植物を食べてよかった。

アダムとイブは裸で暮らしていたにもかからず病気で死ななかった。

それからすると、そこには病原菌も存在しなくて、病も全くなかっただろう。
 
+++

だが、そんなのは序の口だ。

何よりも注目すべきは、二人には老化がなく、従って、死もなかったことだ。

これには、少し説明がいる。

+++

二人の心は、創造神の言葉を全面的に受け入れていていた。

だから、その意識波動は、創造神のそれと完全協和していた。

これは、後に導入される「律法の言葉」でいうと~後に説明する~「罪」のない状態だ。

そして、律法はこの罪に関する法則をも示している。

罪を犯すと「死」やってくる、という法則がそれだ。

これを短く「罪の報酬は死」という。

二人には、エデンでは罪を全く犯してなかったので、死はやってこなかったのだ。

ということはもちろん、その肉体に老化もなかったということである。



 

<生殖活動は要らない>

もう一つ見逃してならないことがある。

死のない二人には、生殖活動も不要だった~と言うことだ。

生殖活動というのは、死を迎えねばならない存在が、自分の種を保存しようとして発動するものだからだ。
 
だから、二人は、二人だけで十分だった。

エデンの楽園で二人は、子を産むこともなく長い間、蜜月状態で暮らし続けてきたことになる。

+++

どれくらい長く?

それを時間で示すことは出来ない。

二人は「永遠」の空気の中で暮らしたから~少し難しいが~だ。

「永遠」のなかにいると時間という感覚は生じない。

ただ、「持続」の感覚だけがある。

ふたりは幸福の持続感のなかですごしていた、ということだ。

(わからなかったら、これは放念していい)


+++

だから、二人は、創られてから楽園を追われるまでの期間はわからないのだ。

「時間」の自覚がないのだから。

聖書にも、その期間に関する記述はない。

「旧約聖書」の『創世記』には「アダムは全部で930年生きた」(5章5節)とあるが、それは、楽園を追放された後の寿命である。

エデンの楽園は、産業革命が起きた程度の荒野(あらの)とは比較にならない幸福世界なのだ。

機械生産が進み、医療が発達したなんてのは、そんなのは、五十歩百歩なのだ。


 

今回はここまでにしておくが、蛇足を一つ。

アダムとイブが楽園で暮らした期間について~。

我々は聖書の他の記述部分(聖句)から次のような推定~極々アバウトな~は出来る。

すなわち、その期間は、「霊のない人間」が増殖しつつ地に満ちていく期間に併行した長い時間であったろう~と。

それは長い長い蜜月期間であった。








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34.荒野(あらの)という生活環境の悲惨さ

2018年04月20日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

 

聖書の歴史観では、現在の人類も、荒野(あれの)で暮らしていることになる。

荒野という生活環境の悲惨さは、今の日本人には認識が難しくなっている。

物質的には、例外的に豊かな「飽食の時代」にいるからだ。


 
 
<生産の機械化>

だが、この状況は数千年にわたる人類(霊のある人間)の歴史のなかでは、ホンの短い例外的な一時期にすぎない。

今の豊かさは、産業革命と呼ばれる「生産の機械化」によって実現が開始された。

それにより~まだまだ先進国だけのことだが~物的生産力が飛躍的に向上したのだ。


 

<人類は常に飢えていた>

それ以前の人類は非常に惨めだった。

いつも飢えていた。

腹一杯食べていたのは、全体の数パーセントにも満たない支配層(王と貴族)だけだった。

+++

日本の人口統計がそれを物語っている。

日本では昔は全国規模の人口調査がなされなかったので、食糧の生産量から推計されている。

江戸時代が始まった頃、日本の人口は2500万人くらいと推計されている。

 

それが250年後の幕末には、3000万人くらいになっていたらしい。

徳川幕藩体制下250年で500万人増だ。

その人口が、明治維新から100年足らずで、7千万も増加し1億になっている。

+++

理由は、西欧から機械生産技術が導入され、食糧生産力も増大したからだ。

江戸時代には~その前にも~庶民は生まれてすぐに空腹状態のなかにあった。

食糧が少なく、それでいて一夫婦で10人以上子を産んだからだ。

(もう、出来てしまうし、できたら生まれてきてしまうのだ)

食べ物は常時不足状態。

+++

人間、ひもじい状態にいると、頭がクラクラし、ボーとする。

知識を得る意欲も、エネルギーも湧かない。

その結果、貧困と無知が常態化した。

それでいて、支配層からは重税を課される。

庶民は苦しむために生まれてきたようなものだった。

 

<病も肉体を襲う>

種々の病も肉体を襲う。

結核、肺炎、インフルエンザ、ガン、天然痘、皮膚病、その他ありとあらゆる病が身体への侵入をうかがっている。

ごく最近までウイルスという存在もわからなかった。

子どもは多く幼少時に死んだ。

「間引き」という殺人も当たり前のようになされた。

+++

生き残ったものも平均寿命は短かかった。

統計的には27,8歳くらいではなかったか。
 
科学的医療技術や医薬品が発達したのは、極々最近の例外的出来事だ。


+++

おまけに人間は、荒野では肉体しか見えなくなっている。

肉体は一定期間たつと死ぬから、死の恐怖も常時心を襲う。


荒野の人生環境は、悲惨だったのだ。

 
 
 

<悪魔も気が向いたら「いじめ」る>

それだけではない。

悪魔は~イエスが来るまでは~人間を「いじめる」権威(権限)を与えられていた。

悪魔悪霊は、物理的な力は持たなくなっているが、人間心理に意識波動を送って影響を与え、悲劇を誘導できる。

彼らは、創造神と交信できるように造られた人間をうらやみ、ねたみ、「いじめる」ことに喜びを持っていた。

 
 
 

<カインの怒りを増幅させる>

「いじめ」はアダムとイブが楽園を追放されるとすぐに始まっている。

二人の間に、初めての子が二人出来た。

男の子で、兄カインと、弟アベルであった。

+++

兄は、創造神への捧げ物が受け入れられず、弟のものが受け入れられたことをねたんだ。

ついで怒りも湧いた

悪魔はその機をとらえて、カインの怒りを増幅する波動を送る。

そしてついに、殺意までにエスカレートさせた。

カインは弟を殺してしまっていた。

 
 
 
 
<我が子に死なれる悲嘆>

はじめてもった可愛い子供に死なれるというのは、親にとっていかに悲しいことか。

しかも殺したのはもう一人の息子、兄なのだ。

親でありながら二人はこの惨劇を避けさせることが出来なかった。


聖書には記述されていないが、二人の親は、地獄の悲しみにくれたことだろう。

 
 
<悪魔のキャラクター>
 

他方、悪魔は、哀れみの感情を全く持たない存在だ。

二人の親が嘆き苦しむのを見て、「ウヒヒヒ・・」とただただ喜び、快哉を叫ぶのみだ。

悪魔のこのキャラクターは日本人には、聖書を読んでも短期間には理解しがたい。

性善説願望を心底に遺しているからだ。

だが悪魔は、そんな心情は持ち合わせていない。

創造神の側につきうるように創られた人間を、自分の傘下に留めおくために、出来うるすべてをするのみ。

単純明快、真っ黒黒のキャラクターなのだ。
 
 
 

<気が向いたら「いじめ」も楽しむ>

とにかく悪魔はカインにアベルを殺させるような誘導も気が向いたときにする。

この権限は、イエス出現以後は剥奪されるが、それでも、隠れて密かに意識波動を送る。

「偽り」も巧妙に混ぜ込む。

こうやって「いじめ」を楽しむのだ。

+++

アダム、イブが楽園から追放されて以来の人類は、貧困、無知、病、悪魔の気まぐれな「いじめ」という劣悪な環境におかれてきたのだ。

荒野は、人間にとって、罪を犯しやすい要素が満ちた空間なのだ。

そのことを知れば、ある時点で、モーセを通して与えられた規律(律法)が、細部にわたっていたこともわかるだろう。

厳格だったことも理解できるだろう。

罪を回避させるには、これくらいの規律を守らせることが必要だったのだ。

 
今回はここまでにしておこう。








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33.楽園の外の規律は超詳細・厳格だった

2018年04月18日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

エデンの楽園の外での規律はいかに詳細で厳しかったか。

モーセに与えられたそれは「モーセ五書」の中にちりばめられている。

規律は、礼拝所の作り方、裁判のあり方、から、家族のあり方、男女のあり方、離縁の仕方、さらには食べ物の取り方にまで及んでいる。

モーセが書き留めた命令を、案件毎に単文にすると、600にもなるという。

900近くになったという人もいるようだ。




<「罪」の概念も導入される>


そして、これらのどの項目に違反してもそれは「罪」とされた。

そして罪を犯した人物(違反者)は「石打の刑」(民衆が各々こぶし大の石を投げつけて殺してしまうという刑)に処すべき~となっている。

なんと厳しいことか・・・。

荒野は、罪を犯さずに暮らすには、エデンの楽園よりも超劣悪な環境なのか。

後に吟味しよう。

 
 
 

<モーセの十戒>

ともあれそれらの本質を10の規律で示したのが、有名なモーセの「十戒」だ。

この状況を描いた物語は、ハリウッド映画にもなっている。

題名は『十戒』、主演は今はなきチャールストン・ヘストン。



@@@


十の戒めは次のようになっている。 戒めは創造神の命令でもある



1.創造神以外の神を拝んではならない。
    (俺以外の存在を神として拝むな)


2.偶像を造ってはならない。
    (オレを像に刻むな)
 
3.創造神の名をみだりに唱えてはならない。
    (この段階では、創造神の名は「エホバ」となっている)
 
4.安息日を守れ。
    (週の中の一日はいかなる仕事もせずに、俺を思い拝する日とせよ)   

5.父母を敬え。

6.殺すな。

7.姦淫するな。

8.盗むな。

9.偽証をするな。

10.隣人のものを欲しがるな。

@@@



~前半の四つは、創造神にどう対すべきかの規律。

後半の6つは、人間が人間に対するとき守るべき戒め(命令)だ。


    

<イエスの示す「律法の本質」>

余談だが、後に出現するイエスは、これをさらに二つの本質に凝縮している。

1.ます第一に、心を尽くし思いを尽くし創造神を愛せよ。

2.その次に、隣人を愛せよ。

~がそれだ。



今回はここまでにしておこう。








 

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32.モーセ、規律も取り次ぐ

2018年04月17日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

モーセの後も超霊感者は20人以上でる。
 
だが、彼はダントツの大物だった。
 
彼は創世以来の歴史展開の幻のほかに、もう一つ重大なメッセージを受ける。
 
律法(りっぽう:Law)がそれで、その本質は人間に与える規律(ディシプリン:discipline)だ。
 
 
 

<規律は必要>
 
人間は自由意志を持つように造られている。
 
そう創った以上、創造神はその領域に立ち入らない。
 
けれども、そのまま放置しておいたら、人はやりたい放題をする放蕩人間になる。
 
創造神は自己を制御できる能力を付けさせるために、人に規律を与えるのだ。
 
 
 

<エデンでの規律は簡単だった>
 
規律は、エデンの楽園においても与えられていた。
 
創造神は、園の中央に生えている木を一本選んで「この木の実は食べるな」との禁忌(タブー:してはならないこと)を与えた。
 
簡単だが、エデンの園は環境がいいのでそれでいいのだ。
 
アダムとイブは、その規律を守って、幸福な暮らしをしていた。
 
後に、蛇を使った悪魔に巧妙に誘導されて、破ってしまうが、それまで二人は自己統御能力を育成しつつ幸福だった。
 
 
 

<追放されて住んだ荒野での規律をモーセは取り次いだ>
 
 
他方、追放されて住み始めた荒野(あらの)の環境は檄悪だった。
 
食べるために、額に汗してやせた荒れ地を耕さねばならなかった。
 
ちょっと手を抜けば、苦痛の飢餓がやってくる。
 
なによりもひどいのは~
 
そこでは悪魔が合法的に人間をその支配下(権威下)において、気が向いたときにいつでも「いじめ」ができる権限を持っていた。
 
+++
 
アダムの子孫である人類が増えていったあるとき、創造神に、網の目のように張り巡らせた厳格な規律を、与える。
 
それをモーセに取り次がせたのだ。
 
 
今回は、ここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
 
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31、モーセ、幻を受け聖書を開始

2018年04月16日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

人間はノアの大洪水からまた増殖を開始した。
 
彼ら「霊ある人間」たちの霊は、いのち充電が不完全化している。
 
だから彼らは、悪魔の権威の下に引き入れられて暮らしている。
 
 
 
 
 
<創造神の権威下か悪魔の権威下か>
 
 
少し難しいが余談として述べておく~
 
聖書の物語では、人間は霊が完全充電なら創造神の権威の下に属す。
 
(エデンの楽園でのアダムとイブがその状態)
 
不完全充電なら、悪魔の権威の下に置かれる。
 
(2人が楽園から追放された荒野がその状態)
 
これは創造神の設定したルールに沿った合法的なことなのだ。
 
ただし、状況は創造神の御子イエスが地上にやってくると変わる(それは後述する)。
 
だがそれ以前の旧約聖書の時代には、人類はみな悪魔(牢名主)の権威の下に置かれていることになっている。
 
+++
 
 そうした中でも、創造神は人間に自分を知らせようとする。
 
その内の霊感がとりわけ豊かな人間に信号をを送る。
 
メッセージを与えて、エデンの楽園に再び住まわれる方向に、人間を導こうとする。
 
悪魔はそれを妨げ、自分の傘下に置き続けるように活動する。
 
 
 
 
 
<アブラハムから「受け皿」民族開始>
 
そして今から3千年程前に、創造神は1人の超霊感者に目を付ける。
 
名はアブラハム。
 
創造神は、彼の子孫を星のように増やして一つの民族(後のイスラエル民族)とする。
 
この集団を自らのメッセージの受け皿にしようとする。
 
この受け皿から、全人類にメッセージを広める、という方策をとるのだ。
 
 
 
 
<「モーセ五書」が書かれる>
 
そしてアブラハムから約500年後に、この民族に超霊感者モーセが出現する。
 
創造神は彼に幻を見せてメッセージを与え、言葉で記録させる。
 
イスラエル民族もその文書を創造神からのメッセージと信じて、保存、蓄積する。
 
これが旧約聖書の始まりになる。
 
旧約の最初の5冊の文書は、モーセが書いたとされ「モーセ五書」といわれている。
 
聖書の最初の五冊の書物『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』がそれだ。
 
+++
 
その中には、地球に人間が住めるような環境が整えられる話も出てくる。
 
創造神が、暗やみの中に「光あれ!」といって光を出現させる話。
 
人間が造られる話や、エデンの楽園の話も出てくる。
 
「ノアの大洪水」の話もある。
 
 
 
 
<生まれてもいないのに・・・>
 
だが、モーセはその頃まだ生まれていない。
 
彼は紀元前1500年頃の人間だ。
 
なのにどうしてそんなことが書けたか、というと、「それらを幻で示された」から、となる。
 
イスラエル民族の祖、アブラハムだってモーセより500年も前の人だ。
 
なのにモーセは彼のことを詳しく記している。
 
これもその生涯を幻で示されたから、ということになる。
 
 
 
 
<人間には精神の自由が>
 
これを聞くと「そんなバカな・・・」という人も多いだろう。
 
「笑わせるな」と思う人はそれもいい。
 
創造神は人間に自由意志を与えている、というのは聖書の鉄則だ。
 
とにかく、聖書にはそういう物語が書いてあるのだ。
 
 
今回はここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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30.霊は「いのち」の充電式乾電池

2018年04月15日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 

 

前回~
 
ノアの洪水によって、以後、「霊ある人間」が増殖していく
 
                 ~と述べた。
 
今回は、その「霊」についての話だ。
 
 
 
 
<潜在意識をもった意識体>
 
霊は意識体だ。
 
人間は各々独自な意識を霊に持っている。
 
そしてこの意識状態を、人間は通常、自覚できない。
 
余談だが~
 
後に深層心理学の創始者フロイトは、潜在意識(自覚できない心底領域の意識)の考えを持ち出す。
 
聖書の人間心理観でいうと、これは霊の意識に当たる。
 
 
    
 
 
<霊は充電式乾電池>
 
霊という意識体は、創造神の言葉を人間が心に受け入れるかどうかで、その状態が左右される。
 
受容すると、創造神の言葉が放射する「いのち」というエネルギー~いのちエネルギー~が霊に入って留まる。
 
これは充電式乾電池をイメージするとわかりやすい。
 
この電池が「いのちエネルギー」という電気で充電されるという光景だ。
 
+++
 
他方、創造神からの言葉を受容する状態が悪いと、充電が悪くなり、その人の霊は不完全充電の霊となる。
 
 
 
 
 
<悪魔に誘導され不完全充電の霊に>
 
エデンの楽園にいたとき、アダムとイブは悪魔に誘導される。
 
創造神からのディシプリン(discipline)~「園の中央の木の実は食べてはならない」という規律~を自分の心から閉め出してしまう。
 
こうして彼らの霊は充電不全霊となる。
 
その結果、2人は楽園から追放されてしまった。
 
 
 
 
<霊の資質は男性を通して遺伝>
 
 
もう一つ、聖書では~
 
「人の霊の資質(罪に関する資質)は、父親(男性)を通して遺伝する」という思想になっている。
 
だから、後の人類もみな、罪を犯す資質を持って生まれることになる。
 
 
今回は、少し長かった。
 
ここまでにしよう。
 
 
 
 
 
 
 
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29.ノアの大洪水で、人類は「霊ある人間」だけになる

2018年04月14日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

<二種類の人間群が混在>
 
アダムとイブの子孫は繁殖する。
 
彼らは「霊のある人間」だ。
 
他方、彼ら以前から「肉体と魂だけの人間」も沢山いる。
 
アダムたちがエデンの園から追放されてから、地上にはこの二つの種類の人間群が混在することになった。
 
 
 
 
<ノアの箱舟>
 
だが、創造神はあるとき、地球全土に大洪水を起こす。
 
いわゆる「ノアの大洪水」だ。
 
ノアの家族は全員、霊ある人間だった。
 
創造神は、ノアに巨大な方舟(はこぶね)をつくらせる。
 
彼の家族と動物の全種類にわたって「ひとつがい」ずつ入らせる。
 
そして、大洪水を起こして他の生き物を全部溺死させてしまう。
 
 
 

<全人類が「例ある人間」に>
 
こうして人類は再びノアの家族から増殖を開始する。
 
かくして全員が「霊ある人間」になっているのが、現在の人類だというのが
聖書の物語だ。
 
今回はここまでにしよう。
 
 
 
 
 

 

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28,創造神、自分と交信できる霊をアダムに入れる

2018年04月12日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

 
聖書の物語にもどろう。
 
これまでの終わりの部分はこうだった~
 
~天国の一角にある宇宙の中に、反乱天使が追い落とされ閉じ込められる。
 
反乱した天使の長は、創造神に敵対心を持つ悪魔に変身する。
 
+++
 
創造神は、その宇宙の中の一つの惑星(地球)に海、陸、空を創り、そこに生きる生物を創った。
 
そうしておいて人間を創った。
 
~話はそこまでだった。
 
 
 
 
 
<アダムに創造神と交信できる霊を入れる>
 
次に進む。
 
~ただし、その人間は、まだ霊魂のうちの魂だけをもった人だった。
 
霊は創造神と更新する能力を与えられた意識体である。
 
創造神は一人の人間アダムにその霊を入れ、エデンという楽園に住まわせる。
 
そしてその身体の一部から、女であり妻となるイブを創る。
 
二人は創造神と親密に交信しつつ暮らす。
 
創造神からの一つの規律~「園の中央にある一本の木の実は食べてはならない」という~を守りつつ暮らす。
 
 
 
 
<悪魔、イブを誘惑して唯一の規律を破らせる>
 
だが、エデンも宇宙の中にある空間で、宇宙は悪魔と配下の天使(悪霊となっている)を閉じ込めた牢獄だ。
 
悪魔は牢名主で、宇宙の支配者(君主)だ。
(正確にはその権威を持つのは「人の子」イエスが十字架刑死させられるまでだが)
 
悪魔はエデンの園に忍び込み、イブをだまして禁じられていた木の実を食べさせてしまう。
 
溺愛する女に勧められて、アダムもまた食べてしまう。
 
+++
 
ただ一つの規律をないがしろにした二人は、エデンの園を追放されて、荒野に暮らすようになる。
 
その子孫が、今の人類となる~というのが、聖書の示す人類の歴史だ。
 
今回は、ここまでにしておこう。
 
 
 
 
 
 
 
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27. 話の流れをふりかえる

2018年04月12日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 

しばらく、宗教の安全性についてみてきた。
 
ここで、これまでの話の流れをふり返ってみよう。
(もう頭に入っている人は、この回はとばしていい)
 
 
 
 
<在物神と創造神>
 
 
人間は、「見えない影響者」を意識しつつ生きる生き物だ。
 
それを「神」といって、イメージしてきた。
 
まず、はじめは、自然の中にその神をイメージしてきた。
 
自然は物質でできているから、「物質の中に」といってもよく、その中にしみ込んでいるとイメージされるので、在物神と名付けた。
 
+++
 
そして、今から6千年程前に、もう一つの神イメージが「外から」与えられた。
 
それは自然も霊も含めたすべてを創造した創造神だった。
 
 
 
 
<神イメージの心理比較>
 
 
在物神に対する心理の中身は、「ジ~ン」と感じる感慨だった。
 
感慨は感情だから、それだけのものだった。
 
他方、創造神イメージは言葉で与えられていた。
 
言葉は理屈につながっていた。
 
それは、創造神はどんな方か、を知る手がかりの理屈だった。
 
 
 
 
在物神にも、創造神にも、自称仲介者が現れる。
 
これが定着すると、人々の思いに影響力をもっていく。
 
だから、宗教に安全でないところが出てくる。
 
 
 
 
<仲介者なしの聖句解読活動>
 
この危険がないのは、自らが聖句を自由吟味し、スモールグループで相互吟味会をする~という方法だ。
 
~まとめると、そんなところか。
 
今回は、こうした話の流れを思い出しておこう。
 
 
 
 
 
 
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26.創造神宗教にも仲介者は現れうる

2018年04月11日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 
これまでに~
 
仲介者が介入すると、在物神宗教は安全でなくなることを
 
      ~みてきた。
 
+++
 
 
今回は、その構造が創造神宗教にも現れうることをみよう。
 
創造神を神イメージとする場合にも、仲介者が介入することはあるのだ。
 
 
 
 
<聖書は与えられているが>
 
創造神宗教では、聖書が与えられいる。
 
それは、創造神がいかなる神かを知っていくための、ことばによる手がかりだ。
 
だが、この書物についても、人間は唯一の正統解読を得ることはできない。
 
それは、自由解読をし、スモールグループで相互吟味をしていると、経験的にわかってくる。
 
+++
 
けれども、「絶対正解が得られるかもしれない」と漠然と思っている人は沢山いる。
 
その人々は、やはり唯一の正解を期待する。
 
同時に自分の解釈がそれから外れているのでは、という恐れも抱く。
 
そういう人々を対象に、自称仲介者は出てくるのだ。
 
 
 
 
<代表例はカトリックの聖職者>
 
創造神宗教での仲介者の代表は、カトリック教会の聖職者~法王、司教、司祭~だ。
 
彼らは話し合って、聖書の唯一正統な解釈はこれだ、と決めて、一般人に与える。
 
彼らは、「自分たちは創造神の御旨を受信している」と考えている。
 
+++
 
これを受け入れると、人々はなにかにつけて彼らの言葉に左右されやすくなる。
 
この状況は仲介者付き在物神宗教と同じ構造である。
 
 
 
<天動説と地動説>
 
なお、カトリックの場合には、仲介が正しくないとバレた歴史的事件がある。
 
欧州のルネッサンス期に、絶対正しいとしてきた天体知識が、科学者の発見によって覆された。
 
いわゆる天動説の間違いが、地動説によって証明された。
 
 
 
 
<科学という認識手法の出現>
 
これを機に、カトリック教団とは異なった、認識の手法が生まれた。
 
サイエンスという手法がそれだ。
 
それは~「見えない世界の事柄」は、五感で認識できるところに投影させて捉えて、考えよう
 
      ~という手法だった。
 
サイエンスの日本での訳語が科学である。
 
今回はここまでにしておこう。
 
 
 
 
 
 
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25,占いも神道も「仲介者付き」在物神宗教

2018年04月08日 | 安全なキリスト教の学び方

 

 
前回、「在物神に仲介者が介入する」宗教は安全でないものを含む、といったね。
 
前に述べた「占い」も、このタイプの一つだ。
 
 
 
 
 
<「神イメージ」は暗黙の前提>
 
ここでは神イメージは具体的に出てこないが、「見えない影響者」がいることが暗黙の前提になっている。
 
占い師は、そのご託宣を仲介する仲介者だ。
 
カード占いや星占いは、託宣を受ける技術であり作法なのだ。
 
+++
 
この知識があれば、ネット占い師に深みに誘われていって、大金を振り込むという被害に遭わずに済む。
 
 
 
 
 
<神社宗教も同じ構造>
 
 
神社宗教は、全く別物に見えるけれど、構造は同じだ。
 
占いは「個人・対・個人」でやるからわかりやすいが、こちらは漠然としたところが多いのでわかりにくいだけだ。
 
+++
 
神道での「見えない影響者」のイメージ(神イメージ)は、社殿のなかにいるとイメージされる神である。
 
社殿は人々の住む家と似た形の建物なので、「その中に何かがいる」というイメージがしやすい。
 
 
+++
 
だが、その神の中身は「ジ~ン」と感じる神秘的な感慨だ。
 
感慨は感情・情緒なので、「その神はどういう神か」が理念・言葉で説明されることはない。
 
つまり漠然としたままだ。
 
すると、公式通り、「仲介者」が出現し、それが職業となる。
 
これが神官だ。
 
 
 
 
<ヤバい託宣はしない>
 
神官は占い師のように、詐欺罪で訴えられることは無い。
 
だがそれは、託宣の内容が、依頼者の生活に具体的に関わるものでないからに過ぎない。
 
恋愛、結婚、商売など、具体的な、生活に関わる事柄のメッセージは仲介しない。
 
新しい建物を建てる際に、土地の呪いが吹き払われるようにお願いしましたからね~とか。
 
この結婚は祝福され、呪いがないようにお願いしましたからね、~とか、無難な託宣しか伝えない。
 
(そのことすら、はっきりいわない)
 
だから「話が違う」と訴えられにくい。
 
問題が起きることがほとんどないので、繰り返され、慣習化しやすい。
 
地域的に広く普及しやすい。
 
+++
 
けれども、その構造が「神イメージ⇒ 仲介者 ⇒ 一般人」であることには変わりない。
 
「占い」と同じく、仲介者付きの在物神宗教なのだ。
 
 
今回はここまでにしよう。
 
+++
 
(旅行に出ますので、3~4日ほど投稿を休みます)
 
 
 
 
 
 
 
 
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