前回、ハイエクの洞察が、まず、モンペルラン協会の発足・拡大と、マッカーシー旋風を引き起こしたことを述べた。
今回は、その後の出来事を記す。
モンペルラン協会は発展を続けた。
特に、その、国際会議は大規模化した。
大会には正規会員の何倍という人数が、彼等の推薦を受けて世界中から参加するようになった。
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筆者は1980年の大会に参加した。
(ある有力会員の推薦による出席だった。ハイエク、フリードマンの経済学とその行動を学ぶにつけ、筆者はこの方から多くの学恩を受けている)
米国・カリフォルニアで行われたこの大会には、1000人を超える人が参加していたと思う。
一般討論の会場には、前年に英国首相となったサッチャーの片腕のような人も出席していた。
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そういう風だから、それまでの大会には、ロナルド・レーガンやサッチャーも招待参加していたであろう。
彼等はすでに、ハイエクの洞察に共鳴し、世界を全体主義の悲劇から守ることに使命感を抱いていた。
1980年のモンペルラン国際会議には、レーガンを大統領にして、世界の社会主義化に歯止めをかけようという熱気も満ちていた。
フリードマンは『選択の自由(Free to Choose)』を出版して、援護射撃をしていた。
そしてレーガンはその年、1980年、この大会の後に、ジミー・カーターに地滑り的圧勝をし、翌年大統領に就任した。
<ゴルバチョフ>
他方このとき、ソ連にも変化が起きていた。
革命後60年がたったソ連では、ハイエクの予測どおり、全体主義の恐怖統制による生産停滞が、末期的状態にきていた。
ソ連も、革命後しばらくは、労働英雄(カトリックの聖人のパクリ)を造ったりして、労働者を鼓舞できていた。
たが、そういう子供だましは、長続きするものではない。
1970年代末期、ソ連の労働者の労働意欲は減退し、生活の喜びもなくなり、ウオッカがやたら売れる状況になっていた。
こうしたソ連に、ゴルバチョフという合理的精神に充ちた政治幹部への期待が高まっていた。
彼は教条主義とはかけ離れた、合理的思考の持ち主だった。
当時、ソ連に起きている生産機能不全を、西欧マスメディアが彼に指摘したことがある。
そのときなど彼は、「ソ連には経済発展段階の遅れがあって、社会主義方式をとったのもやむを得なかったのだ」といった旨の、応答をしていた。
こういう人物である。
教条主義者なら、「それは資本主義的害悪からでた毒のある指摘だ」とでもいうところだ。
ゴルバチョフの応答は、まるで近代経済学者のそれだった。
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けれども生産機能が末期的に低下してしまったソ連では、ゴルバチョフの明晰さへの期待は高まる一方だった。
1985年、ついに彼はソ連共産党書記長に選ばれるに至った。
<レーガンの洞察と行動>
そのゴルバチョフと、レーガンは、単なる外交的交流を超えた、親交を結んでいった。
レーガンの西部開拓者的おおらかさと、包容力ある人格、愛嬌に充ちた人柄が奇跡的にそれを可能にした。
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二人の間に具体的に、どんな会話が交わされたかは、知りようがない。
だが、レーガンとの親交に併行して、ゴルバチョフはソ連を漸進的に変えはじめた。
彼はペレストロイカ〔改革)とグラスノスチ(情報公開)というキャッチワードをかかげ、事を進めていった。
どちらもマルクス思想の教条主義からしたら、とんでもないかけ声である。
マルクスの社会思想では、問題はその本質を一層推し進めて解消すべきもの、となる。
「改革」など本筋を離れたとんでもない思想なのだ。
「情報公開」はもっともっと、社会主義方式に反するものだ。
全員を統制経済の中で働かせるには、情報を伏せて、共産党一党独裁でいくしかない。
情報公開などしたら、自由の気風が台頭し、様々な党派活動を容認せざるを得なくなる。
秘密主義は、共産主義体制の必須政策なのだ。
だが、ゴルバチョフのこのかけ声は、まるで当たり前であるかのようにソ連議会を通過していった。
それほどまでに、人民を国家権力で統制して行う生産方式は、悲惨な状況にあり、
このなかにあって、ゴルバチョフのあの明晰な知的資質は、ソ連の人々にとって、残された唯一の希望の灯火だったのだ。
彼が政策提案すると、市場システムも導入されていった。
それはマルクス方式を崩していって、ソ連はなし崩しに社会主義国家でなくなっていった。
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すると、従来ソ連に統制されて社会主義方式を維持していた周辺社会主義国家でも、共産党独裁体制は崩れていった。
この変化は、あまりになし崩し的で自然現象のごとくだったが故に、我々はその変革の巨大さを自覚できないできている。
世界はまるで夢を見ているような心理状況だったのだ。
<戦後人類は世界戦争勃発の危機の中で暮らしてきた>
だが、考えてみよう。
ゴルバチョフ以前のソ連は、マルクス思想を抱いて、全世界の共産化に使命感を抱き、資本主義圏に敵対してきた。
強大な核兵器を持って、市場経済諸国とにらみ合いを続けてきた。
その間、人類は「いつ終末的核戦争が起きるかわからない」という恐怖の中で暮らしてきたのだ。
レーガンは、ゴルバチョフの天才を洞察し、彼の変革を後押しし、この恐怖を解消したのだ。
<ベルリンの壁崩壊>
1989年11月10日、東西ベルリン市民は、ベルリンの壁をツルハシで壊し始めた。
この時点での米国大統領は、大ブッシュ(任期1989年1月20日~1993年1月20日。レーガンの副大統領任期は1981年1月20日~1989年1月20日。後のジョージ・ブッシュ大統領の父)だった。
けれどもこれは、すべてレーガン=ゴルバチョフの引いた路線上での出来事であった。
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この二人が米ソ両国で、同じ時期に指導者となったのは、不思議にさえ思える。
とりわけ、ゴルバチョフを後押ししたレーガンの仕事が大きかったことを、我々は知るべきである。
<レーガノミックス、新自由主義は大芝居の一環だった>
~余談である。
(「アメリカンドリーム」のスローガンを掲げ、急進的な規制緩和を進め、一時的に資本主義経済を過熱させた「レーガノミックス」も、実は、市場経済の効率をソ連に認めさせ、社会主義経済をやめさせるを主目的とする手段だったのだ)
(時の総理大臣、中曽根もそれを日本から「リゾート開発ブーム」で支援した。1980年代の過剰バブル景気は、人類滅亡の危機を解消するを主目的とする大芝居の一環だったのだ。 中曽根はそのことは語ることなく、墓場まで持って行くだろうが・・・)
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(ついでに言うと、いわゆる新自由主義経済政策というのは、実はこういう特殊な目的のための政策であった。 それを普遍の原理と誤解して、そもまま今も推し進めようとしているのが、日本の政権者である。民主党政権時代にもそれはあったが、今、自民党政権でそれがひどくなっている)
(自由市場制度には、短所もある。
市場経済を推奨した「経済学の父」アダムスミスですら、すでにそれを指摘している)
(たとえば取引上の立場の弱い弱者に正当な労働価格を支払わせなくする、という性格を市場制度は持っている。)
(これらの短所を補修しつつやらないと自由市場経済は機能しなくなる)
(「市場原理主義」などというのは、マルクス教条主義と同様に、思考の浅薄な経済学者が主張する、妄想なのだ)
(安倍政権は特に、一日も早くそれを知らねばならない。でないと、知らず知らずのうちに弱者を苦しめていくことになる)
話を戻す~
こうした大芝居を打てる大統領を生み、人類滅亡の危機を取り除くようなことが出来る国は、米国をおいて外になかった。
こんなこと、他のどの西欧諸国にも出来はしない。
もちろん、日本など遠く及ばない能力だ。
われわれは、もっと米国を深く認識すべきなのだ。