鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=日本史での「愛」概念の変遷=

2017年08月08日 | 随想



前掲した「愛欲とグレースの図」で、「愛染明王」と「創造神」が説明されていませんでした。
今回はまず、愛染明王から追加説明します.

それには日本史を「愛」に焦点をあてながら遡ることが必要です。









<日本での「愛」・・・仏教思想に出現>


日本では、「愛」という漢字は、もっぱら図の右側の異性間の性愛を意味するものとして、出発しているようです。

これはお釈迦様の仏教の影響があります。

漢字は奈良時代に中国から入ってきていますが、それは主に表音文字としての輸入でした。
(当時日本には依然として確立した文字がなかった。このことだけからも、日本民族が中国にいかに大きな恩恵を受けているかがわかります)

漢字が意味と共に入ってきたのは平安時代です。
これは、当時の大国際都市であった長安に遣唐使として留学した僧侶たちが輸入しました。

当時長安にはインドから三蔵法師が持ち込んだ、仏教~お釈迦様の仏教ですね~の教えも盛んに研究されていました。
遣唐使留学僧たちは、その教えの中にあった愛という漢字を日本に輸入したのです。





<煩悩の源泉>

お釈迦様の創始された仏教は、心に平安を保つ方法論でした。
その平安を仏教用語では涅槃(ねはん)といいました。

難しい言葉ですね。
仏典が書かれた梵語(ボンゴ:昔のインドの言葉)の発音は「ニルヴァーナ」だったそうです。
これを中国語に音訳したのが、この漢字だった。
日本人はこれを輸入して「ネハン」と読んでいるわけです。




<煩悩をなくして涅槃を>

釈迦はその涅槃を得る方法は、煩悩をなくすことだと考えました。
煩悩とは「思い煩い」という意味です。

そしてその煩悩の思いをもたらす主要な心理要因の一つが「愛欲」の感情だと洞察した。

前述のように、男女の愛欲というのは、激しいですからね。
肉体に与えられる刺激が激しい。
相手に何かを与えたいという欲求も激しいし、
相手を独占したい、奪いたいという感情も激しいです。

相手がほかの異性を愛したら、嫉妬します。
相手の愛欲が自分に向かわなくなったら憎しみも湧きます。

このように、性愛は煩悩の源の代表選手だとお釈迦様は教えられたのです。

愛という語はその性愛を示す語として、遣唐使が日本にもってきた。
比叡山の延暦寺で彼らはそれを講義した。

以来、日本では「愛」という漢字が意味するのは、まずはもっぱら愛欲、性愛となりました。




<ザビエル、「愛」の教えに苦労する>

この思想状況は続きます。
後の、鎌倉、室町から戦国時代にも続きました。

ですから、戦国時代にキリスト教を導入しようとしたフランシスコ・ザビエルたちは困ったようです。

キリスト教では、「ラブ:愛」はキーワードですからね。
この語は、性愛だけでなく,図ではもっと左側のものをも含めた広い概念でした。
前述した「精神的同一化」という一般的な概念です。

だからこれを「愛」という語を使って教えることができない。
その語を使えば、戦国時代の日本人は「男女の生々しい絡みあい」・・・愛欲の世界をイメージしてしまうのです。

ザビエルたちは困りました。

+++

彼らはカトリック教団のイエズス会という修道会からきた宣教師でした。
この修道会は日本では、現在東京の上智大学をつくり、これを運営しています。

ザビエルたちは、思案の末、ラブを「相手を大切に思うこと」と教えることにしました。
またラブを名詞としても使う場合には、「ご大切」という言葉を当てたといいます。
すると今で言う「愛の心で」というのは、当時は「ご大切の心で」とでもなるでしょうかね。

ともあれ、こういうふうに、当時は「愛」という語は、キリスト教のラブを示すにはまったく使い物にならなかったのですね。





<性愛に涅槃あり!!>

その性愛のニュアンスが江戸時代に変化しました。
この時代にも当初は、愛は性愛をもっぱら意味していました。
解脱すべき煩悩の一つという否定的なニュアンスが伴っていた。

ところが、平和が定着した元禄時代になると、これに肯定的なニュアンスも加わっていきました。

~事情は次のようでした。

つまり、・・・性愛は他方において、強い陶酔感も与えますよね。
その陶酔感の中に、人は一時的にすべての思い煩いを忘れます。
そこで、この陶酔状態もお釈迦様のいった涅槃に含まれるのではないか~という考えも現れたのです。

浅はかな推論という人もいるかも知れませんが、「悪女の深情け」ともいいますしね。
性愛関係が深まって、強い刺激と陶酔が得られると、これこそ涅槃だと思うわけですね。

・・・まあ、これは誤解でしょうけどね。
釈迦の説いた涅槃というのはそんな「一時的なもの」ではありませんからね。

でも、とにかくそう誤解して、この陶酔感を肯定的に極めるべきものとする風潮も平和元禄以降には広がりました。
(近松門左衛門の「心中もの」などはその背景の中でヒットしたのですね)




<「愛欲涅槃」の神様も考案>

かくして「深まった性愛」(愛欲)には涅槃の理想も含まれる~というイメージも出来ました。

すると事態はさらに進みます。
理想状態ならば、それをかなえてくれる神様、仏様も日本人は考えた。
神秘的な力を期待して、祈り願える神のイメージです。

性愛の陶酔感にスムースに男女を導いて下さる神仏ですね。
そしてこれに愛染明王という名をつけました。

憎いネーミングです。
愛染というのは、性愛の陶酔感に全身が染まってしまうというイメージ。
愛欲の極致ですね。
明王というのは、不動明王と同じく、菩薩の名前です。
仏教思想では、菩薩は仏の一類型です。
ともあれ、これが図の最右端にある「愛染明王」です。

愛染明王の像は、いまも日本のあちこちにありますよ。
(ニッポン人って楽しい民族だね)




<その後の「愛」>

明治維新になっても、愛が性愛をもっぱら意味する状態は続きました。
その時~、
ヘボン式ローマ字のヘボンさんが聖書の邦訳を志して来日しました。
そして、30年かけて文語文聖書を造り上げた。

このなかでヘボン先生は、キリスト教のラブ(love)に「愛」の語を当てました。
「わが汝らを愛せしごとく,互いに相愛(あいあい)せよ」という風に邦訳文を造った。

こうして邦訳聖書の中で、「愛」は精神的同一化の感情一般に意味が広がりました。
図の「母性愛」までをも包括する概念になったわけですね。

けれども日本では聖書はエリートの読む書物でしたからね。
この拡大された愛の概念は、なかなか一般人には広がりませんでした。

その状態は昭和になっても変わらず、敗戦にまで続きました。

人々は愛の理想を愛欲の中で考え続け、性愛の陶酔に人生究極の幸福を
イメージする状態を続けました。




<空前の大ヒット「愛染かつら」>


こうした大衆心理を絵のように示しているのが映画「愛染かつら」です。

川口松太郎の原作で1938年に封切られたこの映画は、空前の大ヒットとなりました。

+++

ストーリーは他愛ないものです。
病院院長の御曹司が、一介の子持ちの看護婦(今で言う看護師)に恋愛感情を抱き結婚を望みます。

だが身分違いの結婚の常として院長一族は大反対。悪役も現れ、妨害は多い。
当時「色男、金と力はなかりけり」という言葉がありましたが、イケメンの御曹司も優柔不断で、なかなかことは進みません。

御曹司役の俳優は、上原健といって、いまの加山雄三さんのお父さん。
看護師役は田中絹代さんで、彼女はこれで日本を代表する大女優になりました。

二人のすれ違い場面も沢山盛り込まれていて、聴衆は映画館で身もだえしました。
二人が別々のホームに立って互いに気がつかないときなどは、観客は画面に向かって「向かい側のホーム!向かいのホーム!」と絶叫したといいます。

+++

戦時中なのに映画は地方でも巡回公演され、もう全国的な興奮のるつぼ。
ある地方にフィルムが回ってきたとき、「姉は五回も映画館に観にいった」と昔を告白する妹の話も鹿嶋は読んだことがあります。

日本の大衆は純朴だったんですね。

こういうのは、「異性愛」に人生究極の理想を求めるという精神文化があって起きる現象なんですけどね。

+++

戦後も異性愛に涅槃を憧れる文化は続きました。

人間集団の精神文化は、そう簡単には変わらないんですね。

「愛染かつら」は戦後も再上映され、興業主はもうけました。

のみならずそのリメイク版も作られた。
なんと、1948,52,68年版の三作品もです。

全国的にまだまだ愛染明王崇拝が続き、「性愛が至上の喜び」と思う民は、沢山いたんですね。

そんなふうだから、戦後日本社会の民主化に、GHQの米国人は苦労したわけです。

戦後の大衆心理の話はもう少し続けましょう。


(=日本史での「愛」概念の変遷=・・・・完)








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=アガペー、グレース、恩愛、恵み=

2017年08月07日 | 随想





前回、グレースという英語の持つ深遠な意味を示しました。
それは「代償を求めない愛」でした。

これを短く「無償の愛」と言う人もいますが、実はこれは、創造神だけに出来る「一方的に与えるだけの愛」でした。

・・・・・・・・・・・
~御子イエスの統治下に入った人間には、「創造神の子となる機会」が与えられている。
そのことを創世前から決めてくださっている~
・・・・・・・・・・・

人間はこれに対して報いるすべを持っておりません。
ただ感謝して受けるのみだ。
そういうプレゼントをくださる創造神の愛が、英訳聖書ではグレースという語で表現されていたのでした。




<何故か「恵み」になっている>

新約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。その単語はアガペー(agape)となっています。
英訳聖書では、この語の意味を日常語のloveと混同しないために、わざわざgraceという言葉にしているのです。

なのに、日本の口語訳聖書では「恵み」となっています。
これではグレースのもつ意味はほとんど伝わらない。

どうしてこんな、日常語的な言葉を使っているのか。

今回は、それを考えます。





<グレースの思想は日本になかった>

日本語の聖書(文語文聖書)を始めて作成されたのは、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生です。

30年をかけての労作でした。

これを作るとき、「代償を全く期待しないで与える愛」という思想は日本にはありませんでした。

思想がなければ、それを表す言葉も現れません。

ヘボン先生、思案の末に「恩愛」という漢字熟語を考案されました。

そしてそれに「めぐみ」というフリガナをつけました。

もちろん、そんな用語は日本語にはありません。

ない言葉を使って、「この理念は日本語にはない独特のものだ」と示されたのでしょう。

それはヘボン先生がかろうじてとることの出来た最後の策だったのでしょう。

+++

だけど、そんなことされても、日本人はわかりませんよね。

その状態で第二次大戦での敗戦まで行きました。

そして敗戦を契機に、聖書をわかりやすい口語文にしようという動きが起きました。

ヘボン先生のつくられた邦訳聖書は、文語文による聖書です。

これを口語文にしようという動きが起きたわけです。





<どうせわからないなら「恵み」で>

その際、恩愛という語がよくわからない。
「めぐみ」とフリガナはつけてあるけど、漠然としてわからなかった。

そこで~、どうせわからないのだから、もうとっつきにくい「恩愛(めぐみ)」なんて語は使わないでおこう。

「めぐみ」という音を「恵み」と書いて、身近な漢字にしておこうぜ、~となったのでしょう。

こうしてグレースは「恵み」となったわけです。

そういうことですから「恵み」が何のことだか、今もわからないのは当たり前なんですね。

+++

そのわからない邦訳語でもって、「エペソ書」1章のパウロの思想が今も日本では示そうとされています。

・・・・・・・・・・・
~御子イエスの統治下に入った人間には、「創造神の子となる機会」が与えられている。
そのことを創世前から決めてくださっているのは「恵み」だ~とパウロはいっている。
・・・・・・・・・・・

・・と実質上表現しているのですが、・・・そんな言い回しではわからないよね。
そのことがグレースという特別な愛だということなんてわからないよね。





<日本語英語でいくべき>

鹿嶋は、英訳聖書のグレースは、もう日本語英語で「グレース」と訳した方がいいと考えています。
そうすると少なくとも「恵み」という日常語の持つニュアンスに惑わされなくて済むのです。

ちなみに鹿嶋は、聖書で「恵み」と出てきたときには、反射的に「グレース」と読み替えることにしています。

そしてこの語を使うと、「代償を求めない愛」という思いが提供してくれる、さらに多くの面が浮上してきます。

次回にはそれを考えましょう。


(=アガペー,グレース、恩愛、恵み=・・・・完)







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=愛欲とグレース=

2017年08月06日 | 随想





前回、創造神が我が子に対して抱く計画と、被造物である人間に対して描く企画とはベルというか範疇が別である~といいました。

そしてそのことの理解を阻むのは「恵み」という言葉がわからないことによる~といいました。

今回はその「恵み」という平凡な日常用語が、聖書ではとても深い意味を秘めていることを示しましょう。

先に結論的なことを述べますと、この言葉の英語はグレースです。

そしてグレースとは「相手に何も求めることなく、ただ与えようとするだけの思い」です。

この意味するところを、現代日本語の「愛」~英語のラブ(love)ですね~ と照らし合わせながら示しましょう。




<愛欲とグレースの図>

図は、その全体像を一目でわかるようにしようと描いたものです。









<愛は精神的同一化>

先に理屈を考えますね。

人間ベースで考えますと、愛とは精神的に相手と同一化(同じになること)する心理作用です。

人間は、肉体的物理的には同一化できないけれど、心理的には出来るんですね。

自分の生んだ赤子が病で苦しむとき、母親は自分も苦しくなります。

注射を打たれるとき、母親のその場所も痛むという例が少なくないという。

これは母が精神的に我が子と同一化していることを示しています。

これが「愛している」状態です。

+++

人はある対象を愛すると、自分を相手に同化させようと欲しますし、同時に、相手も自分と同一化してくれることを欲します。

そうやって相手と(精神的に)一体化しようとするのです。

「愛は惜しみなく奪う」という文学的用語がありますが、これは相手に「自分の欲するものを与えて欲しい」という面の心情をクローズアップして述べた言葉です。





<母性愛>

そのうちで図に描いた「母性愛」とは、次のような愛です。

つまり「相手に求める思い」は、自分が認識している相手の能力によって左右されます。

赤子は行動能力がないことを、母親はわかっています。
だから、我が子に求めるものは小さいです。

ただし、それはゼロではなく、我が子が成長して行動能力を増すと共に大きくなります。
たとえば、我が子が男の子なら、成長するにつれて「こんな若者になって欲しい」と思う夢(要求)が生じます。
母親は、その期待に添うことを、息子に要求します。

熟年になって生活力を持ち、反対に自分の肉体に不自由が生じてくれば、「介護して欲しい」という思いも生じるでしょう。

だが、我が子が幼いときに母親が我が子に抱く「母性愛」においては「要求」はとても小さいです。





<異性愛>


対照的なのは、右側に描いている異性愛です。

こちらは身体的な性欲という激しいものを含んでいます。

人は異性を愛すると、自分も相手に同化しますが、相手にも同一化してくれること、一つになってくれること激しく求めます。

異性間でのそういう関係は相互独占でないとなかなか成立しがたいです。

故に、異性愛では相手に対し「自分に独占されて欲しい」という欲求も生じます。 

それが嫉妬心をも派生し、傷害、殺人を産んだりもします。

異性愛は「相手への欲求」が大きい極です。

+++

人間の抱く種々の「愛」の感情は母性愛と異性愛という両極の間に位置づけられるとみていいでしょう。





<グレース>

図の左端にある「グレース」は、その「相手に求める所を全く持たない」「与えるだけの愛」です。

そんな愛は、全てに満ち足りていて欠けるところのない存在、創造神だけに可能になる愛です。


<図が示すもの>


以上を踏まえて、繰り返しも含めながら、図を説明しましょう。

この図の真ん中に描かれた横線~「左右に矢印を持った線分」~は人間の「愛」を示しています。

その下方に点線の矢印(右下がりの)が描かれていますね。

これといま述べた「両端に矢印を持った線分」との間の幅は、「その場所での愛」が相手に対して抱く要求の大きさを示しています。

右に行くほど幅は大きくなりますよね。

それは右に行くほど愛する相手に求めるものが大きくなることを示しています。

その最大のものが異性間の愛なのです。

男女の愛では、異性をむさぼり愛しますからね。
だからそれには特別に「愛欲」という文字があてられたりもします。

+++

反対に、左に行くほど、幅は狭くなり、愛する相手に求めるものは小さくなっていきます。

母性愛はその極地でしょう。

かといってそれは、ゼロにはなりません。

点線の左の端が縦になっているのは、そのことを示しています。

人間の愛の場合は、「相手への要求」は完全にゼロにはならないのですね。

+++

そして、その左の極のさらに左に「グレース(の愛)」があります。

これは、相手に何も求めず、ただ与えるだけという愛です。

この心理は、創造神(と聖霊と御子イエス)だけが注ぐことが可能な、いわば「天の愛」です。




<十字架上の父への祈り>


イエスは三年半にわたる宣教活動の中で、この「代償を求めない愛」~グレースの愛~を注ぎ続けました。

盲人の目を開き、足萎えを歩かせ、ライ病は手を触れてまでして癒やしました。
娘や息子が死んで嘆き悲しむ母親に、生き返らせてあげました。

それでいて、代価は一切求めなかった。

5000人の群衆に、パンと魚を出現させて食べさせた。
これも無償提供。

~もう信じがたい無償サービス、グレースの連発でした。
みんなあまりの不思議に、唯々おどろき感謝して受けるのみでした。





<十字架上の祈り>


ところがそのグレースがさらに劇的に表現される事件が起きました。
イエスが十字架刑で殺されるときのことです。

彼はその前に、すさまじい拷問と侮辱を受けました。

裁きの場から刑場に十字架を背負って歩かされる前にも、全身をむち打たれています。
ユダヤ教高僧に仕える従者たちに、つばきを吐きかけられもしています。

+++

そしてイエスは刑場で十字架につるされました。
そこでも、ユダヤ人の群衆は、罵倒します。

「お前、神の子だろ、自分の力で十字架から降りてみろ!」
「なにやってんだ、お前が父と呼んできた神さんはどうしてんだ!」~とユダヤ人大衆はののしりました。

彼らはイエスに、ダビデ王の時代のような黄金時代を再現してもらうことをと夢見てきたのでした。

なのにそのイエスは十字架につるされて無抵抗に殺されようとしている。
彼らは失望と憎悪を込めて、イエスを罵倒したのです。

他方、刑の実行係だったローマ兵士はというと、彼らは十字架の下でくじ引きゲームをしていました。
イエスの着ていた着物をだれがもらうかを、それで決めようとしていた。

イエスは彼らを罰しようと思えば出来るのです。

天使の軍団を呼んで火で焼き殺すなど、その気になれば容易なことでした。
呪い殺すこともやれば出来た。

+++

ところが、そこに予想もしない光景が展開されたのです。
そういう彼らのために、イエスは祈り始めたのです。

十字架につるされている状態で、彼らの罪の許しを創造神に願い始めた。
その時の言葉を、医師だったルカは、バイブルに記録しています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「父よ、彼らを許して上げて下さい。彼らは自分が何をしているかが
わからないのです」(ルカによる福音書、23章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



この話を教会の説教で聞いて、もうそれだけでイエスを信じるようになった人を鹿嶋は数多く知っています。
あるいは、バイブルを読んでいて、この箇所に胸を打たれて即座に信仰者になった人もいます。

そのときの感動を教会で泣いて告白する(これを証しと言います)人も、鹿嶋は幾人か見ました。

+++


このイエスの祈りには、病の癒しなどを超えた、究極のグレースの愛が凝縮されていたのです。

彼らはこの話を聞いただけで、一発で福音をアクセプト(受容)してしまった。

「ああ・・・、これは,人間には出来ないことだ。この人は神の子だ・・・」。

これは比類無くダイナミックなグレースの露呈でありました。


(=愛欲とグレース=    完)





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