さて今回は~
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「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
(マルコによる福音書、16章17-8節)
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~の③「私の名によって」だ。
②「次のようなしるし」は、それ以後に述べられるようなしるしだから、③以下の解読で自然に浮上するからとばす。
<わたしの名によって>
この③「私の名によって」には、そもそもを考えたらおかしなことがある。
その英語は(in My name)だ。それは素直に訳せば「私(イエス)の名のなかで」となる。
なのに、こういう邦訳は見たことがない。ほとんどが「によって」だ。
だけど「によって」なら英語は(by)だよ。
どうして(in)が(by)に化けてしまうのか?
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先に結論を言ってしまうと、「のなかで」では、日本語として何を言っているか解らないからだろう。
意味がわからないので、邦訳書では「によって」としてしまっている。
理由も示さないで。
お祈りの場面では「イエスの名を通して」という人もいるよ。
みんな各々暗中模索してるわけだ。
だが、このままではいけない。
こういうモヤモヤは「イエスを知る」のに障害になるのだ。
そしてその状態は「御子イエスを心霊込めて愛する」障害ともなるのだ。
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そこでこの障害の打破を試みよう。
おそらく本邦初の試みになるだろう。
(また「異端!」の声が上がるかな。ニッポンキリスト業界には、異端と叫ぶのが好きな先生方が沢山おられるからな・・・)
<ソシュールの記号論>
”in My neme”(=in the name of jesus) の妥当な意味を追うには、記号論知識の援用が必要だ。
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記号論では、たとえば金という「名」は、「キ・ン」という音や文字による信号でできているだけでない、とする。
それには「鉱物の中に在って黄色く光り輝く物質」といったような「意味」も併存している、と認識する。
この両者を「金という名」は最初からセットとしてもっている、と認知するのだ。
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そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールだ。
彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をも(はじめから)セットでもちあわせている実体」であることを、明らかにした。
この認識論を、日本では記号論と呼ぶようになっている。
彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされている。
<「シニファン」と「シニフィエ」>
彼はフランス人で、信号を「シニファン」とフランス語で
いい、意味を「シニフィエ」と、いっている。
シニファンは、能動態で「(記号が)さし示すもの」といった感じだ。つまり信号の側面を言っている。
シニフィエは、受動態で「(記号で)指し示されるもの」との感覚のことばだ。これはつまり、意味の側面を言っていることになる。
<イエスとは「イエスの名」>
これを援用してイエスという名を考えると、こうなる。
イエスの名も、「イ・エ・ス」という音や文字によって示される信号(シニファン)だけでなっているのではない。
その信号は特有の意味(シニフィエ)もはじめから伴っている。
たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」「癒やす方」といった意味が初めから伴走している。
従来のギリシャ哲学での概念論では、そのあたりが明確でなかった。
だがイエスという名には初めから(人の心に)その両者がセットで含まれているという法則を、天才ソシュールは明かしたのだ。
<量子論では「名」もまた波動体>
さて、ここでもう一つ、これまで何度も援用してきた量子力学の思想を思い起こそう。
物理学における最新の理論である量子力学(量子論)は、中性子や電子や光子といった素粒子の根源は、量子という波動体であることを明かした。
波動というのは運動体であり、自らも波動を発している。
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その思想を記号論に組み合わせると、こうなる。
すなわち「名」(という記号)もまた波動(量子)でできている。
名はその「信号(波動)」によって、人の知覚に影響を与え続けている。
たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号波動を放射し続けている。
そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けている。
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ところが同時に名は、その「意味の波動」も発している。その波動が、受信者の意識に意味の波動を形成し、イメージさせる。
名は、そういう精神エネルギーを要求する仕事を受信者に誘発する。そういう働きをもし続けている。
~要するに「名」はそういう影響力をもっている実体であり、このような波動を放射しているのだ。
<私の名のなかで>
イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その波動(力)を発揮し続けている。
言い換えれば、その名を信じる(拒絶しないで受容する)人の中で、量子的な力を放射し続けるのだ。
~だから ③「私の名のなかで」は、「そういうわたし(イエス)の波動体のなかに住まっていて」という意味になる。
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これはなんと、イエスの夢の約束の言葉(ヨハネ8:32)の「ステージ(II)]に対応している。
「イン・ザ・ネーム・オブ・ジーザス」はまさに、これをいっていたのだ。
だから、これは「イエスの名によって」ではピント外れになってしまっているのだ。
だったら、どういったらいいだろう。
「イエスの名の持つ波動体の中で」という邦訳が当面筆者の心には浮上している。
筆者は当面それを用いてきている。
(これは深い意味をもっているが、次回に示すことにする)
<ステージ(III)をも含めて?>
また、この聖句が意味する「ステージ(II)」は「ステージ(III)」をも含意しているように、筆者には解せられる。
つまり「イエスの名の持つ波動体の中に」住まっていてその波動を受け続けると、イエスへの愛は深まる。
するとそれは「ステージ(III)」の事態にも」繋がる。
その意味で、マルコ伝のこの聖句「③私の名のなかで」(=「そういうわたし(イエス)の波動体のなかに住まっていて」)は、なんとイエスの夢の約束(ヨハネによる福音書、15章7節)全体と重なっているのだ、と。
筆者はそう解している。
<量子論あってこその理解>
余談を一つ。
イエスが語った~
「父よ、あなたが私のうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」(ヨハネ17:21)
~のような聖句も、量子論の援用でわれわれは物理学的に理解できる。
「父なる創造神も御子イエスも波動体」であるとすれば、父が御子の内にいて、かつ、御子が父の内にいる」という事態もイメージ可能になる。
波動体は弾力的だろうと思えるからだ。
全ての存在を粒子の結合体だとすると、「AはBの内にいて、同時にBがAのうちにいる」という事態はイメージしがたい。
ちなみに、筆者は創造神も波動体であるとの理解に当面いたっている。
被造物との違いは、「創造神はいのちエネルギーを放射・供給できることにある」と認識している。
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今回は学問的な話で退屈だったかも知れない。
だが、理解は詳細であるほど「イエスを知る」度合いは高まり、それはまた「イエスを愛する」度合いをも高める。
「知ること」は「愛すること」を深めるのである。