鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

39.「イエスの名の中で」とは?

2019年02月22日 | 鬱を打破する聖書の論理

さて今回は~

・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17-8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の③「私の名によって」だ。

②「次のようなしるし」は、それ以後に述べられるようなしるしだから、③以下の解読で自然に浮上するからとばす。
 
 
 
<わたしの名によって>
 
この③「私の名によって」には、そもそもを考えたらおかしなことがある。

その英語は(in My name)だ。それは素直に訳せば「私(イエス)の名のなかで」となる

なのに、こういう邦訳は見たことがない。ほとんどが「によって」だ。

だけど「によって」なら英語は(by)だよ。
どうして(in)が(by)に化けてしまうのか?

+++

先に結論を言ってしまうと、「のなかで」では、日本語として何を言っているか解らないからだろう。
意味がわからないので、邦訳書では「によって」としてしまっている。
理由も示さないで。
 
お祈りの場面では「イエスの名を通して」という人もいるよ。
みんな各々暗中模索してるわけだ。
 
 
だが、このままではいけない。
こういうモヤモヤは「イエスを知る」のに障害になるのだ。

そしてその状態は「御子イエスを心霊込めて愛する」障害ともなるのだ。
 
+++

そこでこの障害の打破を試みよう。

おそらく本邦初の試みになるだろう。
(また「異端!」の声が上がるかな。ニッポンキリスト業界には、異端と叫ぶのが好きな先生方が沢山おられるからな・・・)
 
 
 
<ソシュールの記号論>
 
”in My neme”(=in the name of  jesus) の妥当な意味を追うには、記号論知識の援用が必要だ。

+++
 
記号論では、たとえば金という「名」は、「キ・ン」という音や文字による信号でできているだけでない、とする。
 
それには「鉱物の中に在って黄色く光り輝く物質」といったような「意味」も併存している、と認識する。

この両者を「金という名」は最初からセットとしてもっている、と認知するのだ。

+++
 
そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールだ。
 
彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をも(はじめから)セットでもちあわせている実体」であることを、明らかにした。
 
この認識論を、日本では記号論と呼ぶようになっている。
彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされている。


     

<「シニファン」と「シニフィエ」>
 
 彼はフランス人で、信号を「シニファン」とフランス語で
いい、意味を「シニフィエ」と、いっている。
 
シニファンは、能動態で「(記号が)さし示すもの」といった感じだ。つまり信号の側面を言っている。
シニフィエは、受動態で「(記号で)指し示されるもの」との感覚のことばだ。これはつまり、意味の側面を言っていることになる。
 
 
 
 
<イエスとは「イエスの名」>
 
これを援用してイエスという名を考えると、こうなる。

イエスの名も、「イ・エ・ス」という音や文字によって示される信号(シニファン)だけでなっているのではない。
その信号は特有の意味(シニフィエ)もはじめから伴っている。

たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」「癒やす方」といった意味が初めから伴走している。
 
従来のギリシャ哲学での概念論では、そのあたりが明確でなかった。
だがイエスという名には初めから(人の心に)その両者がセットで含まれているという法則を、天才ソシュールは明かしたのだ。
 
 
 
 
<量子論では「名」もまた波動体>
 
さて、ここでもう一つ、これまで何度も援用してきた量子力学の思想を思い起こそう。
 
物理学における最新の理論である量子力学(量子論)は、中性子や電子や光子といった素粒子の根源は、量子という波動体であることを明かした。
 
波動というのは運動体であり、自らも波動を発している。
 
+++
 
その思想を記号論に組み合わせると、こうなる。
 
すなわち「名」(という記号)もまた波動(量子)でできている。
名はその「信号(波動)」によって、人の知覚に影響を与え続けている。

たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号波動を放射し続けている。
そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けている。

+++
 
ところが同時に名は、その「意味の波動」も発している。その波動が、受信者の意識に意味の波動を形成し、イメージさせる。
名は、そういう精神エネルギーを要求する仕事を受信者に誘発する。そういう働きをもし続けている。
 
~要するに「名」はそういう影響力をもっている実体であり、このような波動を放射しているのだ。
 
 
 
<私の名のなかで>
 
イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その波動(力)を発揮し続けている。
 
言い換えれば、その名を信じる(拒絶しないで受容する)人の中で、量子的な力を放射し続けるのだ。
 
~だから ③「私の名のなかで」は、「そういうわたし(イエス)の波動体のなかに住まっていて」という意味になる。

+++

これはなんと、イエスの夢の約束の言葉(ヨハネ8:32)の「ステージ(II)]に対応している。
「イン・ザ・ネーム・オブ・ジーザス」はまさに、これをいっていたのだ。

だから、これは「イエスの名によって」ではピント外れになってしまっているのだ。

だったら、どういったらいいだろう。

「イエスの名の持つ波動体の中で」という邦訳が当面筆者の心には浮上している。
筆者は当面それを用いてきている。

(これは深い意味をもっているが、次回に示すことにする)
 
 

<ステージ(III)をも含めて?>
 
また、この聖句が意味する「ステージ(II)」は「ステージ(III)」をも含意しているように、筆者には解せられる。

つまり「イエスの名の持つ波動体の中に」住まっていてその波動を受け続けると、イエスへの愛は深まる。
するとそれは「ステージ(III)」の事態にも」繋がる。

その意味で、マルコ伝のこの聖句「③私の名のなかで」(=「そういうわたし(イエス)の波動体のなかに住まっていて」)は、なんとイエスの夢の約束(ヨハネによる福音書、15章7節)全体と重なっているのだ、と。

筆者はそう解している。




<量子論あってこその理解>

余談を一つ。

イエスが語った~
「父よ、あなたが私のうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」(ヨハネ17:21)
~のような聖句も、量子論の援用でわれわれは物理学的に理解できる。

「父なる創造神も御子イエスも波動体」であるとすれば、父が御子の内にいて、かつ、御子が父の内にいる」という事態もイメージ可能になる。
波動体は弾力的だろうと思えるからだ。

全ての存在を粒子の結合体だとすると、「AはBの内にいて、同時にBがAのうちにいる」という事態はイメージしがたい。

ちなみに、筆者は創造神も波動体であるとの理解に当面いたっている。
被造物との違いは、「創造神はいのちエネルギーを放射・供給できることにある」と認識している。

+++

今回は学問的な話で退屈だったかも知れない。
だが、理解は詳細であるほど「イエスを知る」度合いは高まり、それはまた「イエスを愛する」度合いをも高める。

「知ること」は「愛すること」を深めるのである。






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38.「夢の約束」の具体論述がマルコ16章の約束

2019年02月17日 | 鬱を打破する聖書の論理

鬱を打破する聖書の論理を追ってきた。
ヨハネ8:32の解読にいきついた。
「イエスの言葉が内に住まうように(ステージIIIに)なれば、求めるものは何でも与えられる」という。

その(内に住まう)方法がわかったのだから、あとはそれに沿って、鬱の打破も求めたらいい。
自分でなく、うつ病の人を救う際にも、「この鬱の霊(波動体)を追放してください」と願いもとめてあげたらいい。

あるいは、~理由は後述するが~「鬱の霊よ、この人から出ていけ!」命じてもいい。


 
<具体例で埋めると>

これで本筋は解決したが、この8章3節の聖句は非常に一般的で広い(ありがたいことでもあるが)。
これをもう少し具体的な形で例示している聖句がある。

これを吟味することで、イエスの夢の聖句をもう少し具体例で埋めてみよう。
それはマルコによる福音書16章の聖句である。



復活したイエスは、天に上る前にこう述べている。

・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、全ての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受けるものは、救われます。信じない者は罪に定められます。
信じる人々のは次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって 
悪霊を追い出し、
新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、
たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章15~18節)
・・・・・・・・・・・・・・

 
この聖句を吟味しておくのは、イエスの夢の約束を、多様な現実の中で活かして行くのに役立つように思えるのだ。
そのために、各フレーズに番号を打とう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章15節)
・・・・・・・・・・・・・・




<「信じる」を再考>
 
 さて①「信じる人々」の「信じる」から~。

これまでにもみてきたが、「信じる」という語は、広い意味を持った言葉である。
イエスの言葉についてみると、まず、

①その言葉を拒否しない、
 ~という状態もその一つだ。

自由意志を与えられている被造物(天使と人間)では、ケースは「排除する」と「受容する」二つだから、拒否しないというのは受容することだ。
「わたしは拒否はしてませんよ~」というのも「信じる」に入るのだ。

+++

②はイエスの言葉の中に住まう状態である。
前述の「夢の約束」に対するステージ(II)だ。

+++

③は「夢の約束」の(III)だ。

 イエスを全身全霊込めて愛し、イエスに同一化し、分身となる。
イエスと同じに「父なる創造神の言葉(=イエスの言葉)」が内に住まっている状態になる。

実は この状態に達して、はじめて、このマルコ16章の約束も実現される。
ヨハネ15:7に重ね合わせてみると、ここでいうイエスの「信じる」はその意味であることがわかるのだ。

 
<クリスチャンが「パス」するのは>

ところが「信じる」の語は、その全てを含んでいるから、そのままでは、理解は混沌としてしまう。
その状態だと、マルコ16章の言葉は全然実現しない。
そこで、多くの信徒も牧師さんも、この聖句は「パス」となっている。
これについてはニッポンキリスト教だけに限らないよ。

+++

繰り返すが、ここでイエスの言っている「信じる人々」とは、
ステージ(III)のイエスを同一化するほどに愛し、その分身になっている人だ。
その結果、(イエス)の意識波動体(言葉)が自分の意識波動体の内に住まっている人々」だ。

そして「そういう波動状態になっている人には、②次のようなしるしが伴う」といっている。
しるしの中身は後にして、③にすすみたいが、長くなるので、次回にしよう。

 
 
 
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37.「死に至る罪」「死に至らない罪」

2019年02月08日 | 鬱を打破する聖書の論理

 



福音における「罪の真理」は込み入っている。

「律法を守れ」、といいながらも、それを守れないのは、「究極の罪にはならない」、という。

では、究極の罪とは何かというと、「それはイエスを信じないこと」で「その真理には聖霊が導き入れてくれる」という。

この論理が複雑で、明確に理解できない。
良心の働きも複雑さを加重する。・・・これが人間の実情である。

理解できないから、今も日本の教会では「これこれの罪を犯しました」「御旨に従いませんでした」と“告白ごっこ”が盛んである。

 
<ヨハネの素晴らしい命名>

そこでこの二つに明確な名前を与えて、わかりやすく示そうとしたのが「ヨハネ伝」の著者ヨハネである。

彼は「死に至る罪」「死に至らない罪」という名前を考案した。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、創造神に(いのちを)求めなさい。
そうすれば創造神はその(求めた)人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。
死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります」
   (ヨハネによる第一の手紙、5章16-17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
「死に至らない罪」とは、「律法を守りきれない罪」だ。
良心うずきの罪、いわゆる罪咎(つみとが)の罪はこちらだ。

これはイエスの血を信じることによって、そのいのちでもって相殺され、消し去られる。
だからこの罪で死に至ることはない。

+++

「死に至る罪」とは、「イエス(の血の効用)を信じない罪」である。

すべての罪を消し去る「イエスの血の効力」を受け入れなかったらもうゆるし(消去)の道はない。
これすなわち「死に至る罪」となる。


<『ヨハネ伝』には神学がある>

ヨハネは教えられた言葉の言葉面の下にある奥義を熟考して、福音を示した人であった。
同じ伝記でも「ヨハネ伝には神学がある」と言われるゆえんである。

その代表例は~
 イエスは創造神から出たロゴス(ことば)であり、「人の子」イエスは、そのロゴスが肉体となった方、という認識である。

こういう解説(教え)は、イエス自身もされていない。
だが、ヨハネはイエスの十字架上の身体が槍で刺されたとき、「血と水」が出たのをみて衝撃を受けた。

この記憶を晩年まで疑問として心に抱き、ついに、「この方の身体は人間の身体とは違っていた」のだ、という洞察にヨハネは達した。

「創造神から出たロゴスが肉体となった方」との本質的な理解に達したのだ。

これがないとイエスの伝記である「ヨハネ伝」にもよくわからないところが読者の心に残る。

ヨハネはそこで「人の子」イエスは「ロゴスが肉体化した存在」と伝記の冒頭に書いたのだ。



    

<大切な「恐れ」からの解放>

ともあれ、この明確な罪認識があってこそ、人は「恐れ」なくして律法に対面することが出来る。
「恐れから解放されて」律法を守るよう努められる。

これはイエスを心置きなく愛し、同一化の努力をするために必須なのだ。
 
+++
 
まず聖霊によって罪の真理を悟らされ、
それから、イエスとの同一化に、全身全霊を尽くす。

これによって、ステージ(III)への道は開かれるのだ。
 
~今回は、ここまでにしておこう~




 
 
 
 
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