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=聖句=
「自分の権威を基盤にしてことを語る者は、自分の栄誉を求めます。だが、自分を使わされた方の栄誉を求める者は正直であって、彼の内には偽りがありません」(7章18節)
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「創主の真意を行おうとしている者ならば、私が語っていることは父なる創主から来たことばであることがわかる」(17節)の意味は、Vol.93で解読しました。しかし、イエスはこういった後に、さらに意味深い言葉を付け加えています。
本日の聖句、「自らの権威を基盤にして語る者は、自分の栄誉を求めるんだ・・・」(18節)がそれです。これも、たくさんの中身を、短いフレーズにおさめたせりふであります。
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まず、「自らの権威を基盤にして」とはどういうことでしょうか。「自分個人が思考して出来た信念でもって」語ると、自然にそういう結果になりませんか。自分の頭で考えたものは、たとえいろんなものを持ってきても、結局はその根拠づけは自分の考えでするわけですからね。
そうすれば賞賛も非難も詰まるところ、その話を正しいと保証している存在、すなわちそのように権威づけている存在に対してなされるでしょう。
“アンサンのいうてはりますこと、ホンマにホンマでっか?”
・・・ホンマでんがな。
“そんなこと、どうやってわかりまんのや?”
・・・それはやな、ワイがわかってるからや。
”へーえ、そんならアンサンそれ責任とってくれはりまっか?”
・・・ああ、とるがな。
自分の権威を基盤にして正否をいえば、結局責任も自分で抱えることになります。責任とは、結果に対するものです。で、結果が悪ければ責めもその人に来るのですが、よければ人々からの称賛もその人に来るわけです。
~~本人にはそのあたりの自覚はあるわけです。あってやっている。これが人間でしょうね。
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そして、人間は非難でなく称賛を求めます。すると、自分が聞く人から同意され、賞賛されることへの期待が当人の心理に存在することになるんですね。
すなわち、自分自身で正しいと権威づけて、何かを教えている際には、多かれ少なかれ自分自身に栄誉が増すことをも期待して語っていることになる。鋭いですね。
だったら、自分の栄誉を求めないで、物事を語るにはどうしたらいいか。自分以外のところの権威を基盤にして語る、が正解でしょうかね。臭みのないように、純粋に謙虚に物事を語れる時とは、なにか、自分以上の権威を心に抱いている時となるでしょうか。ウ~ン、鋭いなぁ・・・。
「創主の言葉は生きていて力があり・・・心のいろいろな考えやはかりごとを識別(解明)してしまいます」(ヘブル人への手紙4章11節)
とあります。まことに聖書の言葉は、人間の行いや意識をレントゲンのように透視してしまうのでしょうか。