鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

翻訳権と「使える言葉」の問題

2017年10月04日 | 随想





「本場の本」に語らせようとすると次の壁が現れました。

翻訳権の問題がそれです。

原著書は、1934年に出版された本です。
鹿嶋の手元のものは、古本屋で探し出すようなボロボロになった本でした。

著者ミードは1982年に死んでもういなかった。
米国では著作権は著者の死後70年有効です。

権利は今も生きている。
ミードの親族がどうなっていて、著作権がどこにあるのかさがさなければなりませんでした。
筆者の知識不足もあって、試行錯誤しました。
苦労の末にやっと問題は解決しました。








そうすると、また次の壁が出てきました。

邦訳に使える日本語がないのです。



実情はこういうことです~。

~原著者ミードが書いていることは、これまで、政治権力によって「歴史記録に値しないものとされてきた」活動なのです。
言い換えれば、「存在しないものと扱われてきた活動」です。



このあたりをもう少し詳しく言うと~

キリスト教は発祥以来、、初代教会と呼ばれた教会の活動方式で100年余にわたってやってきました。

この方式では、信徒個々人に聖書解釈を自由にさせておきます。
そして信徒たちを数人の小グループを形成させ、そこで、互いの解釈を自由に議論・吟味させる、という方式をとる教派なのです。

初代キリスト教会は、発足後100年間、この方式だけでやりました。
(今も、米国南部のサザンバプテスト教会や北西部のメノナイト教会では、それを継承しています)

その方式で、発足してわずか30年のうちに、ローマ帝国全土に信徒の小集団が散在するほどに大発展しました。




<後発教団が急成長し国教に>

ところが紀元後2世紀中頃に、初代教会から後発したカトリック教団が、急成長した。

この教団は、教団の幹部が「正しいとする」聖書解釈を一つ造って、それを正統教理として信徒に与えて活動していくという、そういう方式で活動する教団でした。
この教団が急成長し、ローマ帝国の国教となって、政治権力を握り、公式歴史の作成権を握ったのです。

そして本家本元の教会活動を、公式歴史で「記するに値しないもの」と扱いました。
カトリック教団は本家本元を徹底的に迫害し、その存在を事実上、歴史記録から抹殺したのです。

そういう歴史が現在も人類社会では公式の歴史教科書となっています。
だから、今日までその存在が認知されないで来ています。

(その結果、人類は今も、キリスト教はカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)よりなっている、と信じているのです)

+++


存在しないものとされた事柄には、人々はそれを説明する言葉もつくりません。
言葉とは、みんなが「存在を承認・同意する」ものを伝え合うために出来上がっていくものですからね。

鹿嶋は、その存在を説明する言葉を、一つ一つ造る必要に立たされました。




<そのままでは使えない言葉もあった>

また一見言葉があるように見えても、事実から外れた言葉で、そのままでは使い物にならない、というのもありました。

原著書の題名からしてそうだった。
原題は「ザ・バプテスト」です。

+++

「バプテスト」という日本語はありますよ。
だけどそれは公式の歴史常識では、キリスト教の中のプロテスタントの一派ということになってきています。

だが、真実はそうでないのですね。

プロテスタントというのは、カトリックと同じ方式で教会運営をします。
教団の幹部が「これは正しいとする」聖書解釈を一つ造って、それを正統教理として信徒に与えて活動していく、そういう方式で活動します。

この点では、カトリックと同じで、カトリックの一派ともいえるものなのです。

+++

ところが、原著書で「バプテスト」と称される人々の「真実のところ」は、本家本元の初代教会の方式で活動していました。

その教会が、ローマ帝国の国教になって、政治権力をつかんだカトリック教団に黙殺されてきた。
だから、本来の意味での「バプテスト」という言葉は(いまもこの世に)存在していないのですね。





<原著者はジャーナリストだった>


で著者ミードはどうかというと、この黙殺された人々を(おおまかに)意味して「バプテスト」という語を使っていたのですね。


彼はキリスト教ジャーナリストでした。
(米国にはそういう職業があるのですね。日本の仏教ジャーナリストのようなものでしょうか)

つまり、神学者でなかったこともあって、その時その場の言葉を説明抜きに、直感的にざっくり使っていたのです。

だけど、その言葉をそのまま邦訳書で使えば、日本では、前述した「プロテスタントの一派」という意味でしか受け取られません。

さすれば、読者は誤解の波に流されていってしまうでしょう。
だからこの言葉はそのままでは使えなかった。

そこで、自由吟味者という語をくっつけて「バプテスト自由吟味者」という語を私は造りました。
理由も十分説明して使いました。

+++

ことほど左様に、新しく説明を加えて使わないとわからない用語が、沢山ありました。
鹿嶋は、ひとつひとつ新語を造り、邦訳文を造らねばならない、という用語の「壁」に直面したのでした。

この壁は厚かったな。






最後にアナウンスです。

これまでの本の10倍以上のエネルギーを注いだ
『バプテスト自由吟味者』は
10月5日からアマゾンで発売予定です。

(それ以前にも、注文は予約注文としてキープされます)


(完)







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隠された会派の人々が、快適生活制度を作ってくれている

2017年10月01日 | 随想



出版のための原稿を造り上げるにも、今回はこれまでに経験したことのない壁がありました。

現在人類は、キリスト教には「カトリック(旧教)とプロテスタント(新教)だけがある」と信じています。

中学・高校の学校教科書も、歴史学者が書く専門書も、そうなっている。
そういう常識が人類世界に出来上がっています。

+++

ところが鹿嶋が本で伝えようとしていたのは、もう一つの大きな流れがあって、その会派が実はキリスト教の本家本元だということでした。

のみならず、その会派の人々は、実は現在われわれがエンジョイしている近代社会の諸制度をあらかた造り上げてくれてきている。
民主制も、政教分離も、個人の精神生活の自由・言論の自由も、みなこの会派の人々が流血の活動によって実現してくれている。

それを米国の一般人民も、欧州諸国、日本、台湾、韓国などの人民もいま享受している。

~そういうことを伝えようとしたのです。











 だがその仕事を手がけようとして、鹿嶋は考えました~。



こういう人類の常識を越えた超常識のことを、しかもキリスト教世界のことを、一介の日本人が述べても人々は信用しないだろうな。
日本人だけでなく外国人も信用しないだろうな。

これは本場の米国人がこの流れを簡明に示している書物を邦訳して出すしかないな。

本場の人が書いたものなら、日本人もまあ、鹿嶋春平太が書くよりは信用するだろう。



 ~そう考えた鹿嶋は、これまで収集してきた英文資料の箱をひっくり返して調べました。
そして小さな冊子を見つけ出した。

それはミードという米国のキリスト教ジャーナリストが事態を概説した小さな本でした。

よし、これを邦訳して出版しよう!

ジャーナリストの著者であるが故に理論的な説明が不足しているところは、自分が<訳者解説>で補おう。

鹿嶋はそう決断しました。







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でも出しておかねばならない本

2017年09月30日 | 随想



<大手のありがたさ>

ちなみに、この初めての体験で、鹿嶋は従来大手で本を出してもらったのがいかに恵まれていたか、をあらためて知りました。
初版を2000部とか3000部とか、何でも無いかのように印刷してくれる。

販路も沢山持ってる。
『聖書の論理が世界を動かす』などは、発売2週間で、「増刷決定です。2000部です」となり、
次の週には「また増刷決定です。1000部です」となった。
三ヶ月で五刷までいきました。

「どういう売れ行きを示すと売り上げはどうなっていく」というデータを持ってるんだよね。とにかく楽だった。

 原稿の推敲だって、プロの編集者が手取り足取りガイドしてくれます。 
ゲラの校正もね、最後は、誤字脱字のチェックだけど、(この仕事は、校正でなく校閲と言うんだけど)大手は、校閲専門のプロ社員もいる。

多数の本を出すので、そういう専門者を雇っておかれるんだね。 
だからそこそこで「はい、これで校閲に回して出版です」なんて、なります。
 大手はホントに楽だった。







<どうしても・・・>

 だけど、この本は日本のためにも、世界のためにも、どうしても出しておかねばならない本でした。
多くの人が幸せ感の大きい人生を送れる近代社会を維持するのに、国民の一定数がこの知識を持つことが必須、という本だった。
だからとにかく出版までこぎ着けた、という本です。

鹿嶋は従来、新刊を出すに当たっては、お世話になっている方々に、出版社から謹呈本を送ってもらっていました。
だが、今回はそういう余裕のない出版です。
親しくしていただいている方々にも、義理を果たせない。
今回は逆に、購買することでサポートしていただきたい様な本なのです。

でも、お読みくだされば、必ず、その価値をおわかりいただけます。
こんなことを言うのは初めてですが、今回はみなさまの購買によるサポートを、切に希望しております。

アマゾンでは、10月5日より発売されます。



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常識と逆の本

2017年09月29日 | 随想




 鹿嶋の今度の邦訳本は、これまでの新潮選書本などとは、かけ離れた本です。
一口で言えば、「世界で常識としている知識が真っ赤な間違いだと示し、そこからわれわれのとるべき道を明かす」本です。

(読んでくださればわかるのですが、邦訳本とはいいながら、実質は原著者との共同制作のような本にできあがってもいます)










 常識に反する知識は、人々が受け入れるのに非常に長期を要します。
それまで本は超長細い販売状態を続けることになる。そこで大手の出版社は逃げてしまった。

 出版不況が続いていて、大手も、まとめてサッと売ってさっと引き上げ、次の本へ・・・という方式にますます重点を置くようになっています。
そんななかで、よくても超細長いロングセラーで、その間長いこと本の在庫を保持し、本屋の店頭に書籍をキープするなんてことは出来ないのですね。

(本は売れなかったら、最後は本屋は出版社に返品してきます。受けた出版社は細断処分します)

 そうしたなかで、鹿嶋の長年のファンでいてくださる方の紹介で、一人出版社(いま流行です)が「やってみましょう」といってくれました。
でも、小出版社は資金力が無いんだよね。
売れない本を在庫し続ける力が無い。

それでも廃棄(細断)しないでもっていると、資産として課税されるそうです。
「これも苦しい」という。心細い話ですが、鹿嶋は感謝してお願いしたのでした。






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『バプテスト自由吟味者』

2017年09月28日 | 随想



今回、20年ぶりに出版する福音関係書籍は邦訳書で、下記のような表紙の本です。

『バプテスト自由吟味者』(フランク・S・ミード著、鹿嶋春平太訳・解説、編集工房DEP刊)、です。

発売日は~
  
アマゾンが10/4 、書店が10/10です。

書店は「ジュンク堂、名古屋駅前店」など限られたところになりますので、購入はアマゾンが便利になるでしょう。












邦訳書ですが、鹿嶋はこれに従来書いてきた単独著書の何倍もの労力を注ぎました。

これは誰の予想をも超えた、誰もが驚く重要な本です。

その内容を語ることによって、本書の性格も浮上します。

次回からそれを書いてみます。







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「チャーチ」休筆のおわび

2017年09月28日 | 随想



みなさま

 「鹿嶋春平太チャーチ」長いこと記事を休みました。すみません。

 フェースブックのスパムメールで、ひどい目に遭っていました。
連鎖型で、「友達」登録してくれている人々にも、それが、送られ、
多くの方に「***@のメールは開かないように」と知らせたりするのに忙殺されました。




 続いて、20年ぶりに出す福音関係書(邦訳書)の校正その他にも追われました。
このほどようやっと本の販売予定も立ちました。

次回から、この本の話でもって投稿を再開させていただきます。



 「愛とグレース」に関わる話は、あらためて、再構成して行います。
量子力学の援用が進んで、この問題への鹿嶋の考えはさらに新しくなりました。
新展開をご期待くだされば幸いです。

では、次回からの新刊の話、ご期待くださいますように。






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=日本史での「愛」概念の変遷=

2017年08月08日 | 随想



前掲した「愛欲とグレースの図」で、「愛染明王」と「創造神」が説明されていませんでした。
今回はまず、愛染明王から追加説明します.

それには日本史を「愛」に焦点をあてながら遡ることが必要です。









<日本での「愛」・・・仏教思想に出現>


日本では、「愛」という漢字は、もっぱら図の右側の異性間の性愛を意味するものとして、出発しているようです。

これはお釈迦様の仏教の影響があります。

漢字は奈良時代に中国から入ってきていますが、それは主に表音文字としての輸入でした。
(当時日本には依然として確立した文字がなかった。このことだけからも、日本民族が中国にいかに大きな恩恵を受けているかがわかります)

漢字が意味と共に入ってきたのは平安時代です。
これは、当時の大国際都市であった長安に遣唐使として留学した僧侶たちが輸入しました。

当時長安にはインドから三蔵法師が持ち込んだ、仏教~お釈迦様の仏教ですね~の教えも盛んに研究されていました。
遣唐使留学僧たちは、その教えの中にあった愛という漢字を日本に輸入したのです。





<煩悩の源泉>

お釈迦様の創始された仏教は、心に平安を保つ方法論でした。
その平安を仏教用語では涅槃(ねはん)といいました。

難しい言葉ですね。
仏典が書かれた梵語(ボンゴ:昔のインドの言葉)の発音は「ニルヴァーナ」だったそうです。
これを中国語に音訳したのが、この漢字だった。
日本人はこれを輸入して「ネハン」と読んでいるわけです。




<煩悩をなくして涅槃を>

釈迦はその涅槃を得る方法は、煩悩をなくすことだと考えました。
煩悩とは「思い煩い」という意味です。

そしてその煩悩の思いをもたらす主要な心理要因の一つが「愛欲」の感情だと洞察した。

前述のように、男女の愛欲というのは、激しいですからね。
肉体に与えられる刺激が激しい。
相手に何かを与えたいという欲求も激しいし、
相手を独占したい、奪いたいという感情も激しいです。

相手がほかの異性を愛したら、嫉妬します。
相手の愛欲が自分に向かわなくなったら憎しみも湧きます。

このように、性愛は煩悩の源の代表選手だとお釈迦様は教えられたのです。

愛という語はその性愛を示す語として、遣唐使が日本にもってきた。
比叡山の延暦寺で彼らはそれを講義した。

以来、日本では「愛」という漢字が意味するのは、まずはもっぱら愛欲、性愛となりました。




<ザビエル、「愛」の教えに苦労する>

この思想状況は続きます。
後の、鎌倉、室町から戦国時代にも続きました。

ですから、戦国時代にキリスト教を導入しようとしたフランシスコ・ザビエルたちは困ったようです。

キリスト教では、「ラブ:愛」はキーワードですからね。
この語は、性愛だけでなく,図ではもっと左側のものをも含めた広い概念でした。
前述した「精神的同一化」という一般的な概念です。

だからこれを「愛」という語を使って教えることができない。
その語を使えば、戦国時代の日本人は「男女の生々しい絡みあい」・・・愛欲の世界をイメージしてしまうのです。

ザビエルたちは困りました。

+++

彼らはカトリック教団のイエズス会という修道会からきた宣教師でした。
この修道会は日本では、現在東京の上智大学をつくり、これを運営しています。

ザビエルたちは、思案の末、ラブを「相手を大切に思うこと」と教えることにしました。
またラブを名詞としても使う場合には、「ご大切」という言葉を当てたといいます。
すると今で言う「愛の心で」というのは、当時は「ご大切の心で」とでもなるでしょうかね。

ともあれ、こういうふうに、当時は「愛」という語は、キリスト教のラブを示すにはまったく使い物にならなかったのですね。





<性愛に涅槃あり!!>

その性愛のニュアンスが江戸時代に変化しました。
この時代にも当初は、愛は性愛をもっぱら意味していました。
解脱すべき煩悩の一つという否定的なニュアンスが伴っていた。

ところが、平和が定着した元禄時代になると、これに肯定的なニュアンスも加わっていきました。

~事情は次のようでした。

つまり、・・・性愛は他方において、強い陶酔感も与えますよね。
その陶酔感の中に、人は一時的にすべての思い煩いを忘れます。
そこで、この陶酔状態もお釈迦様のいった涅槃に含まれるのではないか~という考えも現れたのです。

浅はかな推論という人もいるかも知れませんが、「悪女の深情け」ともいいますしね。
性愛関係が深まって、強い刺激と陶酔が得られると、これこそ涅槃だと思うわけですね。

・・・まあ、これは誤解でしょうけどね。
釈迦の説いた涅槃というのはそんな「一時的なもの」ではありませんからね。

でも、とにかくそう誤解して、この陶酔感を肯定的に極めるべきものとする風潮も平和元禄以降には広がりました。
(近松門左衛門の「心中もの」などはその背景の中でヒットしたのですね)




<「愛欲涅槃」の神様も考案>

かくして「深まった性愛」(愛欲)には涅槃の理想も含まれる~というイメージも出来ました。

すると事態はさらに進みます。
理想状態ならば、それをかなえてくれる神様、仏様も日本人は考えた。
神秘的な力を期待して、祈り願える神のイメージです。

性愛の陶酔感にスムースに男女を導いて下さる神仏ですね。
そしてこれに愛染明王という名をつけました。

憎いネーミングです。
愛染というのは、性愛の陶酔感に全身が染まってしまうというイメージ。
愛欲の極致ですね。
明王というのは、不動明王と同じく、菩薩の名前です。
仏教思想では、菩薩は仏の一類型です。
ともあれ、これが図の最右端にある「愛染明王」です。

愛染明王の像は、いまも日本のあちこちにありますよ。
(ニッポン人って楽しい民族だね)




<その後の「愛」>

明治維新になっても、愛が性愛をもっぱら意味する状態は続きました。
その時~、
ヘボン式ローマ字のヘボンさんが聖書の邦訳を志して来日しました。
そして、30年かけて文語文聖書を造り上げた。

このなかでヘボン先生は、キリスト教のラブ(love)に「愛」の語を当てました。
「わが汝らを愛せしごとく,互いに相愛(あいあい)せよ」という風に邦訳文を造った。

こうして邦訳聖書の中で、「愛」は精神的同一化の感情一般に意味が広がりました。
図の「母性愛」までをも包括する概念になったわけですね。

けれども日本では聖書はエリートの読む書物でしたからね。
この拡大された愛の概念は、なかなか一般人には広がりませんでした。

その状態は昭和になっても変わらず、敗戦にまで続きました。

人々は愛の理想を愛欲の中で考え続け、性愛の陶酔に人生究極の幸福を
イメージする状態を続けました。




<空前の大ヒット「愛染かつら」>


こうした大衆心理を絵のように示しているのが映画「愛染かつら」です。

川口松太郎の原作で1938年に封切られたこの映画は、空前の大ヒットとなりました。

+++

ストーリーは他愛ないものです。
病院院長の御曹司が、一介の子持ちの看護婦(今で言う看護師)に恋愛感情を抱き結婚を望みます。

だが身分違いの結婚の常として院長一族は大反対。悪役も現れ、妨害は多い。
当時「色男、金と力はなかりけり」という言葉がありましたが、イケメンの御曹司も優柔不断で、なかなかことは進みません。

御曹司役の俳優は、上原健といって、いまの加山雄三さんのお父さん。
看護師役は田中絹代さんで、彼女はこれで日本を代表する大女優になりました。

二人のすれ違い場面も沢山盛り込まれていて、聴衆は映画館で身もだえしました。
二人が別々のホームに立って互いに気がつかないときなどは、観客は画面に向かって「向かい側のホーム!向かいのホーム!」と絶叫したといいます。

+++

戦時中なのに映画は地方でも巡回公演され、もう全国的な興奮のるつぼ。
ある地方にフィルムが回ってきたとき、「姉は五回も映画館に観にいった」と昔を告白する妹の話も鹿嶋は読んだことがあります。

日本の大衆は純朴だったんですね。

こういうのは、「異性愛」に人生究極の理想を求めるという精神文化があって起きる現象なんですけどね。

+++

戦後も異性愛に涅槃を憧れる文化は続きました。

人間集団の精神文化は、そう簡単には変わらないんですね。

「愛染かつら」は戦後も再上映され、興業主はもうけました。

のみならずそのリメイク版も作られた。
なんと、1948,52,68年版の三作品もです。

全国的にまだまだ愛染明王崇拝が続き、「性愛が至上の喜び」と思う民は、沢山いたんですね。

そんなふうだから、戦後日本社会の民主化に、GHQの米国人は苦労したわけです。

戦後の大衆心理の話はもう少し続けましょう。


(=日本史での「愛」概念の変遷=・・・・完)








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=アガペー、グレース、恩愛、恵み=

2017年08月07日 | 随想





前回、グレースという英語の持つ深遠な意味を示しました。
それは「代償を求めない愛」でした。

これを短く「無償の愛」と言う人もいますが、実はこれは、創造神だけに出来る「一方的に与えるだけの愛」でした。

・・・・・・・・・・・
~御子イエスの統治下に入った人間には、「創造神の子となる機会」が与えられている。
そのことを創世前から決めてくださっている~
・・・・・・・・・・・

人間はこれに対して報いるすべを持っておりません。
ただ感謝して受けるのみだ。
そういうプレゼントをくださる創造神の愛が、英訳聖書ではグレースという語で表現されていたのでした。




<何故か「恵み」になっている>

新約聖書の原典はギリシャ語で書かれています。その単語はアガペー(agape)となっています。
英訳聖書では、この語の意味を日常語のloveと混同しないために、わざわざgraceという言葉にしているのです。

なのに、日本の口語訳聖書では「恵み」となっています。
これではグレースのもつ意味はほとんど伝わらない。

どうしてこんな、日常語的な言葉を使っているのか。

今回は、それを考えます。





<グレースの思想は日本になかった>

日本語の聖書(文語文聖書)を始めて作成されたのは、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生です。

30年をかけての労作でした。

これを作るとき、「代償を全く期待しないで与える愛」という思想は日本にはありませんでした。

思想がなければ、それを表す言葉も現れません。

ヘボン先生、思案の末に「恩愛」という漢字熟語を考案されました。

そしてそれに「めぐみ」というフリガナをつけました。

もちろん、そんな用語は日本語にはありません。

ない言葉を使って、「この理念は日本語にはない独特のものだ」と示されたのでしょう。

それはヘボン先生がかろうじてとることの出来た最後の策だったのでしょう。

+++

だけど、そんなことされても、日本人はわかりませんよね。

その状態で第二次大戦での敗戦まで行きました。

そして敗戦を契機に、聖書をわかりやすい口語文にしようという動きが起きました。

ヘボン先生のつくられた邦訳聖書は、文語文による聖書です。

これを口語文にしようという動きが起きたわけです。





<どうせわからないなら「恵み」で>

その際、恩愛という語がよくわからない。
「めぐみ」とフリガナはつけてあるけど、漠然としてわからなかった。

そこで~、どうせわからないのだから、もうとっつきにくい「恩愛(めぐみ)」なんて語は使わないでおこう。

「めぐみ」という音を「恵み」と書いて、身近な漢字にしておこうぜ、~となったのでしょう。

こうしてグレースは「恵み」となったわけです。

そういうことですから「恵み」が何のことだか、今もわからないのは当たり前なんですね。

+++

そのわからない邦訳語でもって、「エペソ書」1章のパウロの思想が今も日本では示そうとされています。

・・・・・・・・・・・
~御子イエスの統治下に入った人間には、「創造神の子となる機会」が与えられている。
そのことを創世前から決めてくださっているのは「恵み」だ~とパウロはいっている。
・・・・・・・・・・・

・・と実質上表現しているのですが、・・・そんな言い回しではわからないよね。
そのことがグレースという特別な愛だということなんてわからないよね。





<日本語英語でいくべき>

鹿嶋は、英訳聖書のグレースは、もう日本語英語で「グレース」と訳した方がいいと考えています。
そうすると少なくとも「恵み」という日常語の持つニュアンスに惑わされなくて済むのです。

ちなみに鹿嶋は、聖書で「恵み」と出てきたときには、反射的に「グレース」と読み替えることにしています。

そしてこの語を使うと、「代償を求めない愛」という思いが提供してくれる、さらに多くの面が浮上してきます。

次回にはそれを考えましょう。


(=アガペー,グレース、恩愛、恵み=・・・・完)







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=愛欲とグレース=

2017年08月06日 | 随想





前回、創造神が我が子に対して抱く計画と、被造物である人間に対して描く企画とはベルというか範疇が別である~といいました。

そしてそのことの理解を阻むのは「恵み」という言葉がわからないことによる~といいました。

今回はその「恵み」という平凡な日常用語が、聖書ではとても深い意味を秘めていることを示しましょう。

先に結論的なことを述べますと、この言葉の英語はグレースです。

そしてグレースとは「相手に何も求めることなく、ただ与えようとするだけの思い」です。

この意味するところを、現代日本語の「愛」~英語のラブ(love)ですね~ と照らし合わせながら示しましょう。




<愛欲とグレースの図>

図は、その全体像を一目でわかるようにしようと描いたものです。









<愛は精神的同一化>

先に理屈を考えますね。

人間ベースで考えますと、愛とは精神的に相手と同一化(同じになること)する心理作用です。

人間は、肉体的物理的には同一化できないけれど、心理的には出来るんですね。

自分の生んだ赤子が病で苦しむとき、母親は自分も苦しくなります。

注射を打たれるとき、母親のその場所も痛むという例が少なくないという。

これは母が精神的に我が子と同一化していることを示しています。

これが「愛している」状態です。

+++

人はある対象を愛すると、自分を相手に同化させようと欲しますし、同時に、相手も自分と同一化してくれることを欲します。

そうやって相手と(精神的に)一体化しようとするのです。

「愛は惜しみなく奪う」という文学的用語がありますが、これは相手に「自分の欲するものを与えて欲しい」という面の心情をクローズアップして述べた言葉です。





<母性愛>

そのうちで図に描いた「母性愛」とは、次のような愛です。

つまり「相手に求める思い」は、自分が認識している相手の能力によって左右されます。

赤子は行動能力がないことを、母親はわかっています。
だから、我が子に求めるものは小さいです。

ただし、それはゼロではなく、我が子が成長して行動能力を増すと共に大きくなります。
たとえば、我が子が男の子なら、成長するにつれて「こんな若者になって欲しい」と思う夢(要求)が生じます。
母親は、その期待に添うことを、息子に要求します。

熟年になって生活力を持ち、反対に自分の肉体に不自由が生じてくれば、「介護して欲しい」という思いも生じるでしょう。

だが、我が子が幼いときに母親が我が子に抱く「母性愛」においては「要求」はとても小さいです。





<異性愛>


対照的なのは、右側に描いている異性愛です。

こちらは身体的な性欲という激しいものを含んでいます。

人は異性を愛すると、自分も相手に同化しますが、相手にも同一化してくれること、一つになってくれること激しく求めます。

異性間でのそういう関係は相互独占でないとなかなか成立しがたいです。

故に、異性愛では相手に対し「自分に独占されて欲しい」という欲求も生じます。 

それが嫉妬心をも派生し、傷害、殺人を産んだりもします。

異性愛は「相手への欲求」が大きい極です。

+++

人間の抱く種々の「愛」の感情は母性愛と異性愛という両極の間に位置づけられるとみていいでしょう。





<グレース>

図の左端にある「グレース」は、その「相手に求める所を全く持たない」「与えるだけの愛」です。

そんな愛は、全てに満ち足りていて欠けるところのない存在、創造神だけに可能になる愛です。


<図が示すもの>


以上を踏まえて、繰り返しも含めながら、図を説明しましょう。

この図の真ん中に描かれた横線~「左右に矢印を持った線分」~は人間の「愛」を示しています。

その下方に点線の矢印(右下がりの)が描かれていますね。

これといま述べた「両端に矢印を持った線分」との間の幅は、「その場所での愛」が相手に対して抱く要求の大きさを示しています。

右に行くほど幅は大きくなりますよね。

それは右に行くほど愛する相手に求めるものが大きくなることを示しています。

その最大のものが異性間の愛なのです。

男女の愛では、異性をむさぼり愛しますからね。
だからそれには特別に「愛欲」という文字があてられたりもします。

+++

反対に、左に行くほど、幅は狭くなり、愛する相手に求めるものは小さくなっていきます。

母性愛はその極地でしょう。

かといってそれは、ゼロにはなりません。

点線の左の端が縦になっているのは、そのことを示しています。

人間の愛の場合は、「相手への要求」は完全にゼロにはならないのですね。

+++

そして、その左の極のさらに左に「グレース(の愛)」があります。

これは、相手に何も求めず、ただ与えるだけという愛です。

この心理は、創造神(と聖霊と御子イエス)だけが注ぐことが可能な、いわば「天の愛」です。




<十字架上の父への祈り>


イエスは三年半にわたる宣教活動の中で、この「代償を求めない愛」~グレースの愛~を注ぎ続けました。

盲人の目を開き、足萎えを歩かせ、ライ病は手を触れてまでして癒やしました。
娘や息子が死んで嘆き悲しむ母親に、生き返らせてあげました。

それでいて、代価は一切求めなかった。

5000人の群衆に、パンと魚を出現させて食べさせた。
これも無償提供。

~もう信じがたい無償サービス、グレースの連発でした。
みんなあまりの不思議に、唯々おどろき感謝して受けるのみでした。





<十字架上の祈り>


ところがそのグレースがさらに劇的に表現される事件が起きました。
イエスが十字架刑で殺されるときのことです。

彼はその前に、すさまじい拷問と侮辱を受けました。

裁きの場から刑場に十字架を背負って歩かされる前にも、全身をむち打たれています。
ユダヤ教高僧に仕える従者たちに、つばきを吐きかけられもしています。

+++

そしてイエスは刑場で十字架につるされました。
そこでも、ユダヤ人の群衆は、罵倒します。

「お前、神の子だろ、自分の力で十字架から降りてみろ!」
「なにやってんだ、お前が父と呼んできた神さんはどうしてんだ!」~とユダヤ人大衆はののしりました。

彼らはイエスに、ダビデ王の時代のような黄金時代を再現してもらうことをと夢見てきたのでした。

なのにそのイエスは十字架につるされて無抵抗に殺されようとしている。
彼らは失望と憎悪を込めて、イエスを罵倒したのです。

他方、刑の実行係だったローマ兵士はというと、彼らは十字架の下でくじ引きゲームをしていました。
イエスの着ていた着物をだれがもらうかを、それで決めようとしていた。

イエスは彼らを罰しようと思えば出来るのです。

天使の軍団を呼んで火で焼き殺すなど、その気になれば容易なことでした。
呪い殺すこともやれば出来た。

+++

ところが、そこに予想もしない光景が展開されたのです。
そういう彼らのために、イエスは祈り始めたのです。

十字架につるされている状態で、彼らの罪の許しを創造神に願い始めた。
その時の言葉を、医師だったルカは、バイブルに記録しています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「父よ、彼らを許して上げて下さい。彼らは自分が何をしているかが
わからないのです」(ルカによる福音書、23章34節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



この話を教会の説教で聞いて、もうそれだけでイエスを信じるようになった人を鹿嶋は数多く知っています。
あるいは、バイブルを読んでいて、この箇所に胸を打たれて即座に信仰者になった人もいます。

そのときの感動を教会で泣いて告白する(これを証しと言います)人も、鹿嶋は幾人か見ました。

+++


このイエスの祈りには、病の癒しなどを超えた、究極のグレースの愛が凝縮されていたのです。

彼らはこの話を聞いただけで、一発で福音をアクセプト(受容)してしまった。

「ああ・・・、これは,人間には出来ないことだ。この人は神の子だ・・・」。

これは比類無くダイナミックなグレースの露呈でありました。


(=愛欲とグレース=    完)





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我が子への対応と被造物への対応は別範疇

2017年07月27日 | 随想





ゲラを校正して、出版社に送りました。

「随想」を続けます。

+++

前回、創造神の創世前からの意志は、天国を創り御子をその王座に据えることにある~と述べました。

これを聞いて、拍子抜けした気持ちになられた読者は少なくないと思います。

あれ? 人間には救われる機会は前もって決められていないの?~と。

+++

パウロは「決められている」と言っています。

『エペソ書』の1章では、その企画は「全被造界の基の据えられる前から」存在していた、と言っていました。
もう一度示しましょう。

・・・・・・・・・・・・
「創造神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・

ではありますけど、創造神が我が子に対応するのと、被造物である人間に対応するのとはレベルというか範疇が別です。






<親子の心情は『創世記』で示唆されている>

創造神は御子に対しては、自分の一部(分身)として愛し、精神的に同一化しています。

このことを我々人間は、聖句を手がかりに推察することが出来ます。

「創世記」で創造神が人間を創る際の聖句はこうなっています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造神はおおせられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて』」
    (創世記、1章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・



この「われわれに似せて」は単なる外形デザインだけでなく、その人格的属性も含めて「似せて」である~と鹿嶋は解します。
だとすれば、われわれは自分たち人間の心理属性から、創造神の心理属性を「似たもの」として推察してよさそう~となります。

+++

そこで、人間の親の我が子に対する心理をみますと、人間の親は、なぜか自分の子と精神的に同一化しています。

子どもが病気になり苦しむと、自分も苦しくなり、何とか治そうとします。
他人の子どもにも心配はしますが、それほどにはなりません。

人間心理には「親がわが子を他人の子以上に愛する」という属性も含まれているのです。




そして、そのことから創造神の父子(親子)の間の心情を推察するとこうなるでしょう~。

創造神も、我が子である御子に同一化し、自分の一部として愛しているのです。

御子は創造神の一部であり、分身なのです。





だけど、被造物である人間に対してはそういう心理はありませんよ。

そのことも、人間の心理から類推しましょう。

人間とテレビの例に照らして言えば、テレビは人間にとって自分の子ではなく、「オレが造った」被造物です。

テレビを間違って傷つけても、自ら苦しむことはない。

せいぜい部品を取り替えようかと思う程度です。

+++

自分の子だったら、自ら苦しみ、お医者さんに連れて行こうとするのに・・・。

自分が造った被造物であるテレビに対してはそういう心理は湧かないのです。


創造神にとっての人間は、基本的にそういう位置づけです。

「人間を救う」としても、その基盤の上での行為です。


+++

だから、創造神と被造物である人間との関係と、創造神と御子と関係のことを同じ範疇の事件として扱うべきではない。

鹿嶋はそう考えて、敢えて前回には示しませんでした。




<主目的と副次目的>


くどいようですが大事なことですので、繰り返しを含めて述べますと~

前回に述べた企画は、創造神が自分と同等に愛する存在、御子に関するものでした。

御子がこの宇宙に「人の子」として遣わ され、悪魔のうちにある創造神への敵意の物証を挙げる。

そして天の王座に就く~という物語はそういう性格のものです。

父なる神にも御子にもこの技が主目的であった。

だから十字架上で息と引き取るときイエスは「完了した!」と言ったのです。

人間の救いに関しては、まだまだやることがあるのにそういったのです。

+++

御子は復活して現れた後にも、弟子に追加レッスンをします。

天に昇って王座に就いたら、聖霊を送ります。

そういうことがまだ残っているのに「完了した」と言ったのは、この仕事が御子の主目的であったからです。

人間への救いの仕事は言ってみれば、副次目的だったからなのです。





<肉体にはそれ自体の「死」がある>


この主目的の仕事の中では、人間の創造は、御子がこの世に来るための手段(道といってもいい)の創造という位置にあります。

人間は肉体をもつように創造神は創っています。

肉体にはそれ自体の死があります。

だから、他者(悪魔に動機づけられたユダヤ教高僧たち)が殺すことも可能だ。

殺されて悪魔の敵意の証拠を挙げるために、肉体を持つ存在としての人間が必要だった。

その「人の子」としてこの世に来ることが必要だった。


+++

マリアのおなかに入って「人の子」として生まれるのが必要だった。

それらは創造神が御子に対してあらかじめ意図した主目的の企てのために必要な手段だったのです。

だから人間を造るという企ては、創世の前から企画されていた手段なのです。






<テレビ受像機は人間に文句を言わない>


そして、被造物である人間が創造神に対する位置は、テレビが人間に対する位置と基本は同じです。

テレビを人間は好きなように用いて処分しますよね。

創造神も、人間を好きなように用いて処分できる立場に、基本的にはあるのです。

創造神の被造物に対する絶対優位性(dominance)~これは造る側と造られる側との間に定められた鉄則です。

+++

だってテレビが人間に「少しはオレにもいい思いさせてくれ」といわないでしょう。

人間は、用を足して疲弊したらリサイクルして「はい、サヨナラ」するでしょう。

それをごく当然のこととして人間はやっている。

なのに、自分の創り主である創造神に対して「オレにも一寸はいい思いをさせろ」なんて言える義理には、人間はないのです。

(パウロはそのことを旧約聖書を解読してよくわかっていたのです)






<どうして人間だけに!!>


『エペソ書』1章に戻ります。

だから、パウロは驚愕の思いで、のべています~。

・・・なのに、人間に対しては、御子の統治傘下に入ったら、御子と同じく自分の子とする。

子として、天国の所有権にもあずからせてくれる。

~そういう企てが、被造物創造の前から、創造神の意志にあった。

+++


パウロにはこれは驚くべきことだったのです。

あまたある被造物の中で「どうして人間だけに」そんな企画をあらかじめしてくださっていたのか。

その理由はわからん。どうしてもわからん。


人間に対するこのような意志は、もう一方的な「恵み」と受け取るしかない。

そう認識したパウロの胸には、もう感謝、感謝、大感謝があふれ出しました。

ジョイ(歓喜)があふれだした。



     


<これは「恵み」としか言い様がない!」>


そのことが『エペソ書』でパウロが披露した心情です。

そのことが、1章全体にわたって、表現されています。

とくに後半ではパウロは、「恵み」、「恵み」と繰り返しています。


+++

そしてこの創世前からの企画を、創造神は人間に聖霊を送ることでもって確信させてくださった。

人間に対しては、救いの道を備えていることを、確証させてくださった。

なんという「恵み」か・・・。 理解できないよ!

パウロはこのことを、驚愕と感謝と歓喜でもって受け入れているのです。


+++

でも、この奥義は聖書を読むものにも、特に日本人にはなかなか識別できにくい状態にあります。


その大きな原因が言葉にあります。

用語「恵み」にありますす。

この平凡な言葉では、パウロが洞察した福音のエッセンスがなかなかわかりにくいのです。


次回には、この問題を吟味してみましょう。


(我が子への対応と被造物への対応は別範疇・・・完)








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校正作業中です

2017年07月22日 | 随想

 

 

 

二十年ぶりに出す本のゲラが来ました。

いま校正しています。

このシリーズ記事もこれから重要なところに入るのですが、

読者の皆様、今しばらくお待ちください。

 

 

 

 

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=宇宙に人間を創り、御子をその姿で出現させる=

2017年07月17日 | 随想

 

 
 
さていよいよ宇宙の中での創造です。
 
ここからに話の内容は格段と豊富になりますが、まず、短く概略のみを述べます。
 
 
 
 
創造神は、次のことも創世前に決定しています~。
 
まず、地球上に、霊と肉体を持った人間を創る。
 
御子イエスをその人間の姿で地上に出現させる。
 
御子は天国の性質を持った空間を地上(宇宙)に作っていく。
 
悪魔は自分の世界(宇宙)に天国を増大させるのを許せず、創造神への敵意はイエスへの殺意になる。
 
悪魔は人間(ユダヤ教僧侶たち)に、イエスを殺そうという思いを与え、御子の肉体を十字架刑で殺させる。
 
 
 
 
だが、それは創造神に対して抱いていた敵意を現実での証拠として現すことにもなっている。
 
それまでは悪魔は容疑者だったが、これで証拠が挙がってしまう。
 
これで悪魔に有罪の裁きが決まり、あとは、刑の執行を待つのみとなる。
 
こうして御子は懸案の悪魔(敵対天使)の問題を解決し、現場訓練(オンザジョブトレーニング)のすべてを終える
 
(イエスが十字架上で「完了した!(It is finished)」というのはそのためである)
 
 
 
 
創造神は御子を復活させ、御子が「罪なき存在」であると、証明する。
 
御子は天国に昇って、王座に就く。
 
~以上の展開もまた、創世前に創造神は決定している、との啓示をパウロは受けていたとみられます。
 
今回は短いのですが、これで。
 
=宇宙に人間を創り、御子をその姿で出現させる=・・・完)





 
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=天使に自由意志を持たせたがために=

2017年07月15日 | 随想

 

 
 
 前回のストーリーは、大半の日本の方々とっては「目がクラクラするような」話だったのではないでしょうか。
 
鹿嶋のよき相談役読者、こずえ姐さんもフェースブックで「 悪いので悪いのを抑えるという感じですね、あはは・・」とコメントされてました。

+++

でも、そもそもなんでこんなことまで前もって設計しなければならないのでしょうね。

御子のためなら、天に王国空間を作り、神の名を置き、王座を置けばそれで完了ではないの?



<自由意志を持った人民が要る>

いやいや、そう簡単ではないんですよね。

王様一人では天国という「国」は成立しませんからね。

人民がいる。 それが天使なのです。

(あ、天使と言えばエンジェルで、丸々太って背中に羽がついた赤ん坊だ、なんて考えないでね。
あれはローマ神話のキューピッドをもってきてしまったものです。
森永のミルクキャラメルがその誤解を普及させてしまった。「森永のエンゼルマーク」とかいっちゃってね。
聖書の天使は、「火にもなり、風にも変身できる、強力な霊的存在~「ヘブル書」~です。
もちろん背中に羽根などない。霊ですからそのまま空中を移動できるのです。
普段の姿は、人間のような姿と考えていいでしょう)

 
そして、天使をロボットのようなものとして創ったら、統治(統御)が砂を噛むような仕事になる。

そこで、自由意志を持たせようと、父は決めたのです。




<被造物が自由意志を持てば>

そして、被造物が自由意志を持てば、それをもちいて王に従いもしますが、無視、反抗もしうるでしょう。

だって、自由意志をもらったのですから。

御子は、それを統御する知恵を持たねば、王としての統治を楽しむことなど出来ないのです。


そのため、父なる創造神は、王座に就く前に行うオンザジョブトレイニングをあらかじめ決めておくのです。

前回は、そのトレーニング装置の一部をあらかじめ設計しておく話なのです。



<天国はすべて厳密な法に沿って統治>

まだ述べてはいませんが、天国という霊界では全面的に法でもって統治がなされます。

その多くはバイブルに示されますが、天国にはジャスティス(正義)があり法廷もあり、

実際に裁判がなされ、すべての構成員はそれにしたがって行動します。

人間も、悪魔もそこに提訴できます。

そしてその裁定は、地上(宇宙)でも優越します。

聖書をよく見ていくと、そうなっているという奥義思想がわかってきます。



<パウロ「エペソ書」の啓示を踏まえていくと>

ともあれ、自由意志を持った被造物である御使い(天使)を正しく統御できるように、

創造神は御子の訓練装置をあらかじめ決めるのです。

パウロの受けた啓示を踏まえると、そういう道理になるのですね。

次回も、さらなる装置の話が続きます。

宇宙の中に、地上も人間も造ると父なる創造神はあらかじめ決定します。


(=天使に自由意志を持たせたがために= ・・・完)   





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=天使と宇宙の出現も事前に決まっていた?=

2017年07月14日 | 随想

 

前回の続きです。
 
「エペソ書」1章の聖句をもう一度掲示しましょう。
 
・・・・・・・・・・・・
「創造神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・・
 
これが、パウロが受けた啓示によるもので、その啓示が正しいならば、どうなるか。
 
それに繋がる事柄もまた、創世前に決められていたはずだ~となるでしょう。
 
+++
 
前回は、その観点から次のことも決まっていたと述べました~
 
すなわち、創造神が愛する御子が王として統治する被造空間・天国(天の創造神王国)をつくること、
 
そこに自らの名を置くこと、とその右に御子のための王座を置くこと
 
~これらも前もって決まっていたことになろう、と。
 
 
 
<天国空間に無数の天使を>
 
今回はその他に決まっていたであろうことを、追加します。
 
その一つが天国空間の中に、無数の天使を創ることです。
天使は御子に仕えるための霊的存在で、同時に、神の名を誉め讃えるという職務も与えられます。
 
 
 
<私も神のように賛美されたい・・・>
 
そして、その天使の中から、創造神に対抗して自分も賛美されるようになりたい、として
職務に反する行動をとるものが出る。
 
~これもあらかじめ決まっております。
 
 
 
 
<天使の自由意志の中で>
 
ただし、具体的にどの天使が敵対するかは決まっていない。
 
天使には後に造られる人間と同じく、自由意志が与えられていることと、それは繋がっています。
 
その自由意志を用いて誰かが敵対することは、決まっていくということですね。
 
そうなってしまう天使は気の毒なような気もしますが、それは自由意志を用いた行動の結果です。
 
 
 
 
<暗やみの空間も事前に>
 
さらに、敵対することになる天使と追従者を、戦いの天使ミカエルが
傘下の天使と共に暗やみに落とし込むことも決まっています。
 
追い落とすことが決まっているならば、暗やみの空間もそのために前もって創られることも、
~あらかじめ決まっているはずです。
 
ちなみに、この暗やみ空間が、今で言う「宇宙」ということになります。
 
宇宙は言ってみれば、敵対天使たち閉じ込める収監するための牢屋なのです。
そして敵対天使の長はそこの牢名主となって、他の追従天使たちに君臨します。
 
聖書では後に、この空間を「世(world)」とも表現します。
我々が今住むこの「世」という意味です。
 
それが、悪魔を「世の君(君主)」という、イエスの言葉と繋がっています。
 
 
 
 
 
ともあれ、宇宙がそういう空間となること、これも、創世前から決まっています。
 
以上のことから、我々は一つの空間のイメージ図を描くことが出来ます。
 
それが鹿嶋がこれまで何度も示してきた「聖書の空間理念」の図でした。
 
これが絶対に正しいというのでなく、こういうものをイメージすると、
バイブルが示していく歴史展開を理解するのに助けになりますよ、ということでした。
 
+++
 
今回はそれにもう一つの意味が加わったことになりますね。
 
つまり、こういう空間構成も「あらかじめ決められていた」もの、というのがそれです。
創造神が歴史展開の舞台として、被造物を創る前から決めていた、というのがその意味です。
  
「エペソ書」に含意されているパウロの受けた啓示、~これからすると「事前に決まっていた」らしいことは、さらにありそうです。
 
この話は続けましょう。
 
 
=天使と宇宙の出現も事前に決まっていた?=・・・完)




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=「歴史展開」大枠理解に必須な第一歩=

2017年07月13日 | 随想

 

 
歴史展開の大枠が事前に決定されているならば、どういうものになるだろうか、鹿嶋の解読を述べましょう。
 
途中で「異端!」なんて叫ばないでくださいね。
 
鹿嶋は自由吟味主義者です。
「個人の聖句解釈自由の原則」に立って、思うままをのびのびと考えるのを楽しむ主義ですので、楽しませてください。
 
その際、鹿嶋は量子物理学(力学)の概念を援用します。
 (その概略は前の記事に述べています)
 
最新の物理理論として出現してくれた量子論は、まさに「聖句と物理事象をつなぐブリッジ」なのです。
 
 
 
 
<TVを創る側>
 
さてまず、「歴史展開を」決定をする主体を確認しましょう。
それは創造神、創る側です。
このことをきちんと確認するのが第一歩です。
 
そのために、我々被造物の世界での、TVシステムについて、あらかじめ考えておきましょう。
 
+++
 
TVを作る場合、人間はまずそのコンセプトを想い描きます。
 
家にいながら音付の動画が見られる箱のようなものがあるといいなあ、とまずイメージする。
 
そしてつれづれなるがままに、それを具体的に設計図にブレイクダウンして描いていきます。
 
次いで、それに沿って、部品を作り、組み立てて、テレビ受像機を出現させます。
 
(テレビ局側の設備は、話を簡明にするために、もう出来ているとしましょう)
 
+++
 
この時、人間は「創る側」です。 TVセットは「創られる側」です。
 
人間は、自分の意志のままに、設計し、部品を造り、組み立てます。
 
そのとき部品さんもなされるがままです。
 
「あんた、ここんところを、もうちょっとこんな風にできない?」なんていいません。
 
創る側の人間に対しては、被造物はそういうことは言わないし、言えない。
 
創る側にすべてを決める権威があるのです。
 
 
 
 
 
 
<創造神と被造物に於いても>
 
創造神と被造物の関係も同じです。
 
創造神の側がすべてを決めるのです。
 
歴史展開を事前に決めるのも、創造神が100%行うのです。
 
+++
 
その際、創造神はどのように決定し造るか?
 
聖書のなかの言葉は、それを知る手がかりを我々に提供してくれています。
  
そしてその重要な手がかりは、「創造神はどんな方か」のイメージです。
 
 
 
<「いのち」(量子)波動の源>
 
聖書の全体がまず醸し出すのは「創造神はいのちという量子波動を常時全空間に放射している」というイメージです。
 
創造神は「いのち」という量子波動の源なのです。
 
いのち波動は建設志向の波動です。
(後に「死の波動~破壊志向の波動~」が出てくると、その意味がハッキリします)
 
創造神は「いのち波動」に満ちた源であって、全身喜びに満ち、幸せに満ち、自己への愛と他者への愛にも満ちています。
 
自らは、すべてが満ち足りた方です。
 
だから、自分自身に対して新たになすべきことは一つもありません。
 
 
 
<最愛の存在は御子>
 
その創造神が最も愛する他者は、ひとり子である御子イエスです。
 
創造神は、後に創造する被造物・人間も愛していきますが、その愛は、御子への愛に勝ることはありません。
 
(後に創造神と御子は「我々に似せて人を創ろう」としますが、それには「自分たちの愛情関係に似せて」というのも含まれています。だから人間は「わが子を最も愛すようにできている」というのが、聖書の論理です)
 
それは、次の聖句にも現れています~
 
・・・・・・・・・・・・・・
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
(マタイによる福音書、3章17節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
 
これは、イエスがバプテスマを受けたとき、天から下った声の記録です。
もう一つあげましょう。
 
・・・・・・・・・・・・
「これはわたしの愛する子。(モーセ、エリアでなく)彼の言葉に従え・・・」
(マルコによる福音書、9章7節)
・・・・・・・・・・・・
 
これはイエスが高い山に、三人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをつれて登ったときに、天から下った声の記録です。
 
このときイエスの衣は純白に変容し、そこに預言者として死んだモーセとエリアが現れました。これをみたペテロが、「この山のここに(記念に)幕屋を三つ創りましょう」といった。
上記聖句はそのとき天から下った声の記録です。
 
ここでペテロは、三人を不思議が現れた存在として同等に拝するようにしようとした。
これにたいして、天からの声は、「イエスの優越」を伝えているのです。
 
+++
 
だから、創造神が被造界を創造するのは、なによりも最も愛する御子のためなのです。
 
天国という被造空間を創るのも、何よりもまず、御子のためです。
 
御子がそこに住み、王として統治する空間(被造空間)を造るためです。
 
それが天国(天の創造神王国)です。
 
天国は被造空間であり、その大きさは有限です。
 
これは一つの巨大な球体をイメージしたらいいでしょう。
 
 
 
 
 
<御子の王座を創る>
 
創造神は次にその天国の一角に、自分の名を置きます。
 
そしてその右(最も大切な場所、の意味)に、将来御子が王として座す王座を造ります。
 
+++
 
・・・事前に決めて造られていく被造物は、まだまだありますが、今回はこれくらいにしておきましょう。
 
新しい考えを導入するときには、一度に沢山示すと、身につきがたくなりますから。
 
 
 
 
 
<創造神の身になって聖句を見る>
 
ただし今回は、次のことを把握しておきましょう。
 
聖書の世界イメージを適切に得るには、「創る側である創造神の立場に立ちきって」すべてを認識しなければならないこと~これです。
 
これは「あ、そうですか」で済ますべきことではありませんよ。
 
「創る側の立場に全面的に立つ」というのは、創造神に同一化してこの方を追体験理解することです。
 
被造物である我々には、これが想像以上に難しいのです。
 
+++
 
一つには我々は、生まれてこの方、神様とイメージするもの(在物神)に、仰ぎ見る意識でもって対してきているからです。
 
これが聖書の記述を追う場合にも、なかなか抜けきらない。
 
+++
 
だがこれは、在物神に対するときの姿勢であり、感覚です。
 
聖書の神は、万物を創造した創造神です。
 
「下から仰ぎみる在物神感覚」が混入してきたら、聖句認識は出発点からゆがんでしまいます。
 
創造神の立場に100%立ってものごとをイメージするのは、聖書の論理を正しく理解する必須条件です。
 
それは鹿嶋にももちろん、簡単に保てる姿勢ではありません。
 
テレビセットを持ち出したのは、鹿嶋自身が、創る側の立場にたつ練習を繰り返すためでもありました。
 
この話は続けましょう。
 
 
=「歴史展開」大枠理解に必須な第一歩= ・・・完)
 
 
 
 
 
 
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