前回の~
=御国が臨在する条件2=
~に量子論を援用した考察を加えてみたら、
こんな解読になりました~
<実在感が高まると言葉は「心に入って留まる」>
さて前々回の~
=御国が臨在する条件1=
~の解釈を踏まえた上で、残りのイエスのことばを考えましょう。
聖句はこうでしたね。
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「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」
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これは前回には次のように解読しました~。
すなわち、イエスの言葉が形成する「イエスワールド」へのアクセプト発信((アーメン)を維持する。
こうしてその世界のリアリティが高まっていくと、あるとき、その言葉は強烈な活きた霊 「活霊」になる~と。
<量子論による理解>
このあたりのことは、従来は神秘の領域の事柄でした。
だが、量子論が出現することによって物理学的な理解が可能となってきました。
量子とは、最小の物質単位とされてきた素粒子の別名です。
従来の物理学では、我々が目にする物質は分子によってできており、分子は、原子が組み合わさって出来ていることが明らかになりました。
そして、その原子がさらに素粒子という小さな微粒子で出来ていることもわかった。
陽子、中性子、電子、光子などがそれです。
これら微粒子は、発見されたときには、粒子(つぶつぶの塊)だと思われてきました。
素粒子〔素になる粒子)という名はそのことに由来しています。
<素粒子は波動の性格も持つという発見>
ところが後に~
物質もこれくらいに微少になると、従来考えられなかった不思議な現象をも起こす
~ことがわかってきました。
どうもこれらの素粒子には波動のような性格もあって、それが予想されなかった現象を引き起こしているらしい。
物理学者はそう推定しました。
そこで、これらの極小物質を新しく量子(りょうし:quantum)と呼んでとらえ直すことにしました。
そしてこれを探求する学問を量子論、とか量子力学(りょうしりきがく)と呼ぶことになりました。
<最新の物理学>
量子力学が現れると、従来のニュートン物理学もアインシュタイン物理学も、古典物理学となってしまいました。
アインシュタインも、物質の最小単位は粒子としていた。
ところが、量子力学は物質の最小単位を、波動~という運動エネルギー~と重なった量子としてみます。
その波動が凝集すれば、 一つの粒子(つぶつぶのもの) のように感じられうるだろう。
こうして量子の粒子としての側面もイメージできます。
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また、従来の物理学はみな、物質を、それ自体意識を持たない「モノ(物質)」として研究してきました。
ところが量子論では、人の意識活動も波動を発信する活動となります。
意識体も、波動を発する波動凝集体となります。
<従来の波動論は電子の働きだった>
ちなみに、人が意識活動をするとき、波動が出ている、ということは以前からわかっていました。
ただ、従来それは電子の活動によるという理解でした。
すなわち、人が意識活動をするとき、脳神経系に電子が流れることが、脳生理学でわかっていました。
他方、電子が流れるところでは波動が出ることが、古典物理学で明らかになってました。
~それを組み合わせると、「意識活動有るところには波動が出ている」となります。
従来はそういう思考でもって、意識活動をするとき波動が出ると、考えられていました。
アルファー波、ベーター波などの概念はこの思考の線上にあります。
<言葉は量子波動の凝固体>
けれども、量子力学の世界では量子自体が波動となります。
波動が凝集すると、まとまった意識波動体ともなり、「思い(意識)」をも形成します。
思いは言葉〔概念)を形成しますが、これも波動量子群の凝集体です。
それが連なったものが理論や思想になりますから、これも量子の凝集体です。
言葉も(文字も)理論も波動を発していることになります。
<認識されると変化する~光子での実験~>
量子力学では、もうひとつ、驚くべき事象が発見されています。
「量子は認識されることによって変化する」というのがそれです。
光子(こうし)という量子についてある実験がなされました。
光子は 我々の目に入ってくる素粒子の一つで、それは量子でもあります。
この量子について実験がなされました。
人に新しく認識される前の状態と、それが認識された後の状態とが比較された。
すると、人に認識された後の光子の状態と、認識される前の状態とは、異なっていたのです。
こうして量子は、認識される(認識の意識波動を受ける)ことによって、変質することが実験で確かめられたのです。
<認識が対象量子に変化をもたらす>
すると、こんな推察もできてきます。
光子でわかったことは、量子一般についても言えるのではないか。
もしそうなら、意識を形成する量子群は、他者に認識されることによって意識波動の影響を受けて、その状態が変化することになるのではないか。
さらにそれら量子群もまた、その認識のされ方によっても、異なっていくのではないか。
大胆な推論ですが、この仮説は筆者にはかなり妥当に思われます。
<「イエスの言葉が裁く」とは?>
この仮説は、従来、物理学的理解が困難だった次の聖句にもイメージを提供してくれます。
イエスの~
「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。
私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」(ヨハネによる福音書、12章58節)
~ということばです。
この「言葉を受け入れない人を、その言葉が〔終わりの日に)裁く」という聖句は、従来ほとんど理解できませんでした。
「言葉が裁く」とは、どういうことか?・・・わからなかった。
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ところが、上記の推論仮説を援用すると、物理学的解読が可能になるのです。
すなわち、イエスが語った言葉は、波動量子群という実体になっているとみることができる。
それは肯定的に認識されれば、相応に変質するだろうし、否定的に認識されれば、また別の様式に変質するだろう~と。
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具体的に上記の聖句は、イエスの言葉は否定的に認識された場合には、「最後の審判」のときに、その人に有罪の裁きをする意識体に変質する~と解せます。
他方、肯定的にアクセプトされた場合には、イエスのその言葉の量子群は、認識者の霊を活かす強力な活霊量子群となって働くだろう~と解釈できます。
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そうすると~、
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「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」
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~は、次のように解することも出来てきます。
すなわち、イエスの言葉は最後の審判の前にも、人の「心のうちに入り留まる」~と。
イエスの言葉に対して、アクセプトするとの発信を続れば、それは生きた活霊となり、入って留まる~と。
また、そうなれば、活霊となったイエスの言葉は、当人の意識を導くようになるでしょう。
ということは、その人は、それだけ真面目な意味で御子の「分身」になったことにもなります。
すると、創造神はその分身の求めに応じられるのではないか。
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なぜなら創造神は自分と同等に、自らのひとり子を最も愛します。
(人間はその次です)
だから自らの「ひとり子」の分身の求めには、父なる創造神は応えられる~と。
御子イエスの求めに応じると同じように、応じられる~と。
その解読は、イエスが「最後の晩餐で」弟子たちにいった次の言葉ににも符合します。
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「諸君は今まで、何も私の名によって求めたことはないよね。
だが(私の言葉が諸君の心の内に留まったら)これからは自分で(直接)求めなさい。
そうすれば受けるのです」」
(ヨハネによる福音書16章24節)
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つまり、今までの奇跡はみな、イエスが父に願って与えてもらっていた。
だが、言葉が留まり分身になったら、もう、自分で父に求めなさい。
すると、受けるようになる。
~こういうことになります。
<御国の来臨と臨在>
これを御国との関係で言えばこうなるでしょう。
つまり、条件を満たし人が求めたら、その時、天の王国空間はその人の周囲空間に降りてきて、臨在する。
臨在して御国の臨在感がそこに満ち、栄光が満ちる。
こうなったらあとはオートマチックです。
「世」の悪しき諸要素である~病、身体不全、貧困、憎しみ、妬み、鬱などは、御国の栄光よって圧倒され出ていきます。
法的に言うと、上位の統治権(ドミナンス)を持つ御国の権威によって、「世の権威」は自動的に駆逐されることになるのです。
すると、病は癒やされ、身体器官を構成する細胞は再創造され、経済は祝福され、憎しみや妬みの思いも消えてしまう。
鬱などの精神疾患も一瞬で快適状態に転じてしまうでしょう。
こうして「超自然的な奇跡への願い」はすべてかなえられ、「しるし」が現れるのです。
前掲したイエスの言葉の全体~
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「諸君が私(の言葉)にとどまり、
わたしのことばが諸君にとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。
そうすれば諸君のために、それがかなえられます」
(ヨハネによる福音書、15章7節)
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~は、このように理解されるのです。
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繰り返しますが、こういう超自然的事象をみると、人は最初は驚きます。
だが、これが繰り返されると、普通のことと思うようになります。
この体験によって「御国の知らせ(よき知らせ)」への確信は確かなものになっていくでしょう。
「しるし」を現せば、日本の福音土壌の悪さも正面から突破されていく。
もう、脇の下に手を入れてくすぐる必要も無いわけです。
(=御国が臨在する条件2~量子論による理解~= ・・・・完)