鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=赤い糸で結ばれていた?=

2017年06月30日 | 随想

 

 

 

「エペソ書」でもパウロの全体世界観が、いきなり冒頭から出てきます。
 
「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、御前で聖く傷のないものにしようとされました」
  (1章4節)~がそれです。
 
このパウロの言葉は複雑です。 彼はここでは複雑な言葉遣いをしています。
 
 
 
<「御前で聖く傷のないものに」は「罪許される」>
 
まず細かいところを処理しましょう。
結論を示しておきます。
 
「御前で聖く傷のないものに」する、というのは「イエスの言葉をアクセプト」ことによって実現されることです。
通常の言葉で言えば「イエスを信じることによって」です。
信じて「罪を許され」て「救い」を受ける、と同義とみていいです。
 
この「救いを受ける」のを、凝った表現でパウロはいっている。
が、その表現について考えるのは後にしましょう。
 
 
 
<あらかじめ決まっている?!>
 
ここで重要なのは、「私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選びchose)」です。
 
「世界のもとい(foundation)の置かれる前」は要するに「被造物を造る前」です。
 
この聖句ではパウロは何故か、凝った表現をしてるんですね。
 
ともあれ、上記の聖句をストレートにとりましょう。
 
すると~「あなたがイエスを信じて救いを受けるのは、もう被造物が造られはじめる前から決まってたんだよ」
~となる可能性がとても高い。 
 
控えめに言っても、8割方そうなるでしょう。
 
 
+++
 
だけど、そうなると「信じて救われない人」だと「あらかじめ決められた人間も造られている」ことにもなりますよね。
 
そこで「これはおかしいのではないか」という考えも出ます。
 
例えば「あらかじめ決めて造られているのなら」福音伝道なんて無意味になるんじゃないの?
~という意見も当然出るでしょう。
 
 
 
 
<生まれる前から結ばれていた・・・>
 
この問題はとにかくややこしいので、鹿嶋の結論をまず言います。
 
「生まれる前から二人は赤い糸で結ばれていた」なんて愛し合う男女がよくいいますよね。
 
そんなこと客観的にはわからないのに、どうしていうか。
 
そういう風に結果的状況を、「前から決まっていた」と思うと、気持ちが落ち着くからです。
 
結婚式の最中に「たまたまこうなった」なんて思うと落ち着かないでしょう。
 
「この先どうなるかわからない」とも思えてくるでしょう。
 
それでは落ち着かないから「生まれる前から・・・」と自分に言い聞かせるのです。
 
 
 
 
<パウロは教養人で現場コーチ>
 
事実かどうかにはかかわらず、「・・・というくらいだ」とか、「・・・といっても過言でない」という風にも言葉は使いうる。 
 
これも言葉に装備された機能です。
 
パウロはここで、そういう言葉の機能を使っているのです。
 
信徒を「落ち着いた気持ちにする」のに、そういうレトリック(修辞法)を使っているのです。
 
パウロはギリシャで生まれ育った教養豊かなユダヤ人です。
 
+++
 
またパウロはイエスの側近だったヨハネのような人とは置かれている状況が違います。
野球球団で言ったらヨハネは監督兼ゼネラルマネジャー人です。
本部で静かに教会全体を眺めています。
 
一方パウロはあちこちの練習グラウンドに出かけていって、ノックバットを持って選手を叱咤激励して鍛える回るコーチです。
 
ノックを受けて疲れた選手を奮い立たせるために、その時々に最も有効な言葉を使います。
 
それが冒頭の聖句で、パウロは全体世界像をそういう修辞法でいったのです。
 
「君たちはもう創世以前から救われるように造られていたんだ。がんばれよ」と。
 
 
(=エペソ書の全体世界像=  続きます)
 
 
(=赤い糸で結ばれていた?=・・・完)
 

 

 

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=「エペソ書」の全体世界像=

2017年06月28日 | 随想

 

 
 
聖書には、そのなかに展開する様々なドラマを鳥瞰させてくれる、全体世界像を述べた聖句があります。
 
それは我々の五感認識を超えたゾーンに及ぶ、広大な世界像です。
 
その代表を三つあげるとすれば、「創世記」の冒頭、「エペソ書」の冒頭、「ヨハネ伝」の冒頭だと鹿嶋はみています。
 
著者は順に、モーセ、パウロ、ヨハネです。
 
みな短い文章で描かれています。
 
こいうものは、著者の経験知識から論理的に持ってくるのではなく、直接与えられる啓示(その多くは幻)を基に書かれているからです。
 
啓示は言葉にすれば短いメッセージになるのです。
 
 
 
 
「創世記」では、宇宙の中にある地球という惑星の、その地表に人間が住める環境が造られ、そこに人間が創造される状況をのべています。
 
+++
 
「エペソ書」は、御子イエスをアクセプトした者が創造神の子とされる、そういう特権を得られるように、全被造界があらかじめ創造されている様を述べています。
 
+++
 
「ヨハネ伝」は、「エペソ書」で描かれたことを、一段と総合的に、論理的に、そして神学的に描いています。
 
 
 
 
時系列で言うと、ヨハネの著述は三番目です。
 
キリスト教会の大長老となっていたヨハネは、パウロの著述~「エペソ書」は彼が書いた手紙~も当然読んでいます。
 
おそらく、それをも体系化しつつ、より総合的に述べたのでしょう。
 
 
ヨハネは、創造神とその御子イエスだけが存在する世界に被造物が作られていく仕組みを述べています。
 
まず御子が被造物の型枠(枠組み:ロゴスと記されている)を造ります。
 
父なる創造神がそこに量子波動を注入します。
 
(この量子波動を鹿嶋は「いのち」の量子波動、略して「いのち波動」と名付けています)
 
すると、そのカテゴリー(枠組)のなかに、各々個性をもった被造物が出現する~こういう様を述べています。
 
 
 
 
鹿嶋は、このブログでこれまで、「創世記」と「ヨハネ伝」の解読は試みてきました。
 
だが、「エペソ書」には、取り組んで来ませんでした。
 
いまそれの全体世界像を、微力にしてささやかながら~ホントにささやかながら~読み解いてみようと思います。
 
次回からはじめます。
 
 
(=「エペソ書」の全体世界像=・・・完)
 
 
 
 
 
 
 
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=御国が臨在する条件2~量子論による理解~=

2017年06月22日 | 随想

 

 

前回の~
  =御国が臨在する条件2=
    ~に量子論を援用した考察を加えてみたら、
      こんな解読になりました~

 
<実在感が高まると言葉は「心に入って留まる」>
 
 
さて前々回の~
    =御国が臨在する条件1=
  
 ~の解釈を踏まえた上で、残りのイエスのことばを考えましょう。

聖句はこうでしたね。

・・・・・・・・・・・
「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」
・・・・・・・・・・・
 
 
+++
 
これは前回には次のように解読しました~。
 
すなわち、イエスの言葉が形成する「イエスワールド」へのアクセプト発信((アーメン)を維持する。
 
こうしてその世界のリアリティが高まっていくと、あるとき、その言葉は強烈な活きた霊 「活霊」になる~と。
 
 
 
<量子論による理解>
 
このあたりのことは、従来は神秘の領域の事柄でした。

だが、量子論が出現することによって物理学的な理解が可能となってきました。
 
+++
 
量子とは、最小の物質単位とされてきた素粒子の別名です。
 
従来の物理学では、我々が目にする物質は分子によってできており、分子は、原子が組み合わさって出来ていることが明らかになりました。
 
そして、その原子がさらに素粒子という小さな微粒子で出来ていることもわかった。
 
陽子、中性子、電子、光子などがそれです。
 
これら微粒子は、発見されたときには、粒子(つぶつぶの塊)だと思われてきました。

素粒子〔素になる粒子)という名はそのことに由来しています。
 
 
 
 
<素粒子は波動の性格も持つという発見>
 
ところが後に~

 物質もこれくらいに微少になると、従来考えられなかった不思議な現象をも起こす

           ~ことがわかってきました。
 
どうもこれらの素粒子には波動のような性格もあって、それが予想されなかった現象を引き起こしているらしい。
物理学者はそう推定しました。
 
そこで、これらの極小物質を新しく量子(りょうし:quantum)と呼んでとらえ直すことにしました。
 
そしてこれを探求する学問を量子論、とか量子力学(りょうしりきがく)と呼ぶことになりました。


 
 
<最新の物理学>
 
 
量子力学が現れると、従来のニュートン物理学もアインシュタイン物理学も、古典物理学となってしまいました。

アインシュタインも、物質の最小単位は粒子としていた。
 
ところが、量子力学は物質の最小単位を、波動~という運動エネルギー~と重なった量子としてみます。
 
その波動が凝集すれば、 一つの粒子(つぶつぶのもの) のように感じられうるだろう。
 
こうして量子の粒子としての側面もイメージできます。
 
+++
 
また、従来の物理学はみな、物質を、それ自体意識を持たない「モノ(物質)」として研究してきました。

ところが量子論では、人の意識活動も波動を発信する活動となります。

意識体も、波動を発する波動凝集体となります。

 
 
 
<従来の波動論は電子の働きだった>
 
ちなみに、人が意識活動をするとき、波動が出ている、ということは以前からわかっていました。
 
ただ、従来それは電子の活動によるという理解でした。
 
すなわち、人が意識活動をするとき、脳神経系に電子が流れることが、脳生理学でわかっていました。
 
他方、電子が流れるところでは波動が出ることが、古典物理学で明らかになってました。
 
~それを組み合わせると、「意識活動有るところには波動が出ている」となります。
 
従来はそういう思考でもって、意識活動をするとき波動が出ると、考えられていました。
 
アルファー波、ベーター波などの概念はこの思考の線上にあります。
 
 
 
<言葉は量子波動の凝固体>
 
けれども、量子力学の世界では量子自体が波動となります。
 
波動が凝集すると、まとまった意識波動体ともなり、「思い(意識)」をも形成します。
 
思いは言葉〔概念)を形成しますが、これも波動量子群の凝集体です。
 
それが連なったものが理論や思想になりますから、これも量子の凝集体です。

言葉も(文字も)理論も波動を発していることになります。
 
 
 
 
<認識されると変化する~光子での実験~>
 
量子力学では、もうひとつ、驚くべき事象が発見されています。
 
「量子は認識されることによって変化する」というのがそれです。
 
光子(こうし)という量子についてある実験がなされました。
光子は 我々の目に入ってくる素粒子の一つで、それは量子でもあります
 
この量子について実験がなされました。
 
人に新しく認識される前の状態と、それが認識された後の状態とが比較された。
 
すると、人に認識された後の光子の状態と、認識される前の状態とは、異なっていたのです。
 
こうして量子は、認識される(認識の意識波動を受ける)ことによって、変質することが実験で確かめられたのです。


 
 
 
<認識が対象量子に変化をもたらす>
 
すると、こんな推察もできてきます。
 
光子でわかったことは、量子一般についても言えるのではないか。
 
もしそうなら、意識を形成する量子群は、他者に認識されることによって意識波動の影響を受けて、その状態が変化することになるのではないか。
 
さらにそれら量子群もまた、その認識のされ方によっても、異なっていくのではないか。
 
大胆な推論ですが、この仮説は筆者にはかなり妥当に思われます。


 
 
<「イエスの言葉が裁く」とは?>
 
この仮説は、従来、物理学的理解が困難だった次の聖句にもイメージを提供してくれます。
 
イエスの~
 
「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。
私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」(ヨハネによる福音書、12章58節)
 
~ということばです。
 
この「言葉を受け入れない人を、その言葉が〔終わりの日に)裁く」という聖句は、従来ほとんど理解できませんでした。
 
「言葉が裁く」とは、どういうことか?・・・わからなかった。
 
 
+++
 
 
ところが、上記の推論仮説を援用すると、物理学的解読が可能になるのです。
 
すなわち、イエスが語った言葉は、波動量子群という実体になっているとみることができる。
 
そうであれば~
 
それは肯定的に認識されれば、相応に変質するだろうし、否定的に認識されれば、また別の様式に変質するだろう~と。
 
 
+++
 
具体的に上記の聖句は、イエスの言葉は否定的に認識された場合には、「最後の審判」のときに、その人に有罪の裁きをする意識体に変質する~と解せます。

他方、肯定的にアクセプトされた場合には、イエスのその言葉の量子群は、認識者の霊を活かす強力な活霊量子群となって働くだろう~と解釈できます。

「活かす霊」になるのですね。
 
+++
 
そうすると~

・・・・・・・・・・・・・・
「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」
・・・・・・・・・・・・・

~は、次のように解することも出来てきます。

すなわち、イエスの言葉は最後の審判の前にも、人の「心のうちに入り留まる」~と。

イエスの言葉に対して、アクセプトするとの発信を続れば、それは生きた活霊となり、入って留まる~と。



<分身の求めには応じる>

 
また、そうなれば、活霊となったイエスの言葉は、当人の意識を導くようになるでしょう。
 
ということは、その人は、それだけ真面目な意味で御子の「分身」になったことにもなります。

すると、創造神はその分身の求めに応じられるのではないか。

+++
 
なぜなら創造神は自分と同等に、自らのひとり子を最も愛します。
 
(人間はその次です)
 
だから自らの「ひとり子」の分身の求めには、父なる創造神は応えられる~と。

御子イエスの求めに応じると同じように、応じられる~と。

その解読は、イエスが「最後の晩餐で」弟子たちにいった次の言葉ににも符合します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君は今まで、何も私の名によって求めたことはないよね。
  だが(私の言葉が諸君の心の内に留まったら)これからは自分で(直接)求めなさい。
そうすれば受けるのです」」  
    (ヨハネによる福音書16章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    
つまり、今までの奇跡はみな、イエスが父に願って与えてもらっていた。
だが、言葉が留まり分身になったら、もう、自分で父に求めなさい。
すると、受けるようになる。

~こういうことになります。

 
 
 
 
<御国の来臨と臨在>
 
 
 
これを御国との関係で言えばこうなるでしょう。

つまり、条件を満たし人が求めたら、その時、天の王国空間はその人の周囲空間に降りてきて、臨在する。
 
臨在して御国の臨在感がそこに満ち、栄光が満ちる。
 
こうなったらあとはオートマチックです。
 
「世」の悪しき諸要素である~病、身体不全、貧困、憎しみ、妬み、鬱などは、御国の栄光よって圧倒され出ていきます。

法的に言うと、上位の統治権(ドミナンス)を持つ御国の権威によって、「世の権威」は自動的に駆逐されることになるのです。
 
すると、病は癒やされ、身体器官を構成する細胞は再創造され、経済は祝福され、憎しみや妬みの思いも消えてしまう。

鬱などの精神疾患も一瞬で快適状態に転じてしまうでしょう。
 

こうして「超自然的な奇跡への願い」はすべてかなえられ、「しるし」が現れるのです。
 
前掲したイエスの言葉の全体~

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(の言葉)にとどまり、
わたしのことばが諸君にとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。 
そうすれば諸君のために、それがかなえられます」
      (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~は、このように理解されるのです。
 
 
+++
 
 
繰り返しますが、こういう超自然的事象をみると、人は最初は驚きます。
 
だが、これが繰り返されると、普通のことと思うようになります。
 
この体験によって「御国の知らせ(よき知らせ)」への確信は確かなものになっていくでしょう。
 
「しるし」を現せば、日本の福音土壌の悪さも正面から突破されていく。
 
もう、脇の下に手を入れてくすぐる必要も無いわけです。
 
 
 
=御国が臨在する条件2~量子論による理解~ ・・・・完)








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=御国が臨在する条件2=

2017年06月15日 | 随想

 


~前回の続きです。
   字数が規定をオーバーしたようですので、後半をここに~




 

<実在感が高まると言葉は「心に入って留まる」>


さてこの解釈を踏まえた上で、残りのイエスのことば~

・・・・・・・・・・・
「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」
・・・・・・・・・・・

を考えましょう。

+++

これは次のように解読できるのではないでしょうか~。

すなわち、イエスの言葉が形成する「イエスワールド」へのリアリティが高まっていくと、あるとき、その言葉は活きた霊 「活霊」になる~と。
 
そしてその人の「心のうちに入り留まる」のだ~と。

そうなれば、生きものとなったイエスの言葉は、必要なときに当人の意識を導くようになるでしょう。

それはつまり、それだけ「分身」になったわけでもあります。
 
 
 
 
<日本の「言霊(ことだま)」>
 

ところで「言葉が霊になる」と聞くと「ああ、もうついていけない」という人が出るかも知れませんね。

だけど「言葉ワールド」のリアリティが高まると、その言葉が一人歩きするという認識は日本にも昔からありますよ。

「言霊(ことだま)」という日本語はそれを指しています。

+++

世俗世界にもそれに似た心理現象は起きていますよ。

たとえば小説作家は、登場人物の性格や生育環境などをことばで設定し、そのイメージを心の中に寝かせておきます。

するとあるとき、その人物像が自主的に動き出す、といいます。

このとき、作家はその人物イメージ(霊)の動きを追うことによって、活き活きした物語を書いていくようです。
 

 


<御国の侵入>
 
ともあれ、上記の聖句「わたし(イエス)の言葉が諸君にとどまる」は、以上のように解読できるわけです。

この条件を満たして、当人が御国を求めたら、その時、天の王国空間はその人の周囲空間に侵入し、臨在するのではないでしょうか。

御国の臨在感がそこに満ちる。

この臨在感は栄光と呼ばれることもあります。

が、ともあれこうなったらあとはオートマチックです。

「世」の悪しき諸要素である~病、身体不全、貧困、鬱などは、上位の統治権を持つ御国の権威によって自動的に追い出されます。

病は癒やされ、身体器官を構成する細胞は再創造され、経済は祝福され、鬱などの精神疾患も快適状態に転じてしまう。

こうして「超自然的な奇跡への願い」がすべてかなえられる。
「しるし」が現れるのです。

前掲した聖句~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがた(イエスを信頼する人々)が私(の言葉)にとどまり、
わたしのことばが諸君にとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。 
そうすれば諸君のために、それがかなえられます」
      (ヨハネによる福音書、15章7節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~は、このように解読されます。


+++


繰り返しますが、こういう超自然的事象をみると、人は最初は驚きます。

だが、これが繰り返されると、普通のことと思うようになります。

この体験によって「御国の知らせ(よき知らせ)」への確信は確かなものになっていく。

こうした「しるし」を現せば、日本の福音土壌の悪さも正面から突破されていくでしょう。

もう、脇の下に手を入れてくすぐる必要も無いわけです。



=御国が臨在する条件2= ・・・・完)







 
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=御国が臨在する条件1=

2017年06月15日 | 随想

 




今回は、御国空間が特定の人々の周囲に降りてきて臨在するための、人間側の条件を解読しましょう。




<イエスのことばに留まる>


条件は、先回示した聖句の前半~

・・・・・・・・・・・・・・・
「諸君が私(イエス)の言葉にとどまり、わたしのことばが諸君にとどまるなら」
・・・・・・・・・・・・・・・

~に記されています。


+++

まず、「諸君がイエスの言葉に留まる」から読み解きましょう。

ここで「イエスの言葉に」というのは「イエスの言葉が形成するイメージワ-ルドに」と鹿嶋は解します。

「留まる」とは、「そのイメージ世界に意識を留める」ということ。
そしてそれは、そこでしばし黙想(瞑想)することによってなされます。

つまり、イエスの言葉を一つ理解したら次に進む、というのではない。
「ああ、いい教えだった。はい!、では次の教えを」と進むのではありません。

しばらくの間「そのイメージワールドを瞑想する」のです。



<超自然界(霊界)の話の実在感は20%以下>

それは「霊界」にリアリティーを感じられるようになるために必要です。

イエスの伝える「よき知らせ」の核心である「天の御国」は「超自然(超物質)な霊的空間の世界」です。

そういうワールドに対しては、人間は自然なままではあまりリアルな実在感が抱けないのです。
 

我々人間は生まれて以来、五感で認識できる物質世界(自然界)にもっぱら対応して生きてきていますからね。

いわゆる五感は比較的よく育っていますが、霊的領域への感覚は薄いのです。

+++


前述した福音の表義「イエスをアクセプトすると原罪が許され、救いの資格は与えられるよ」というのも霊領域の話です。

それをアクセプトした人でも、リアルに感じる度合いは小さいですよ。

よくいってもせいぜい20%くらい、多くはもっともっと小さいでしょう。

また、その確信度合いも放っておけば時と共に薄れていくでしょう。
10% ⇒ 5% ⇒ 2%・・・といった具合に。

+++

でもそれについては、表義はのべておりません。

実際には、2%の確信でもアクセプトしてバプテスマを受けたら「救い」の資格は得られるでしょう。
 
だけど、さらに低下して確信がゼロになったら、資格は帳消しですよ。

+++

もちろん当人が所属する教会は、その実在感を維持させるために、いろんなサービスをしてくれます

日曜毎の礼拝とか信徒同士の交わり機会の提供とかしてくれる。

だがそれらによっては実在感はあまり上昇することはありません。

確信はあやふやな状態にあり続けます。



<霊感という直感能力>

 
この実在感を奇跡によって飛躍させる方法が奥義なのですね。

「しるし」は御国が臨在してくれたら、オートマチックに現れます。

その臨在を得るための、条件の話を今回はしているわけです。

そこに話を戻しますと、

その第一は~

「イエスのことばのイメージワールドの中に意識を留める(黙想する)」ことだと、鹿嶋は解したわけです。

+++

話を進めます。

この解読をもう少し具体的にするためには、「霊感」という語を導入するのがいいです。

人には五感覚があるといわれますよね。

視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚がそれです。

これは物質に対する感覚ですから、物質感、略して「物感」といってもいい。
そんな語は辞書にありませんけどね。

ならば、これに対応させるて霊に関する感覚を考えることができる。
すると、それは霊質感となり、略して「霊感」となるでしょう。

+++

霊感も感性の一機能で感覚です。

これにも五感覚と同じように、五霊覚なんてのを考えていいでしょう。

創造神(感)覚、聖霊覚、天使覚、人霊覚、栄光覚、なんてどうでしょうかね。

でも我々の五霊覚は自然なままでは薄いんですよね。
 
人はせいぜい、それらを漠然と「第六感」などといって、時折かすかに自覚しているくらいです。





<霊感を開く>


だが、霊感は開かれ拡大され得ます。

そしてこれを開けば認識できる霊界の領域は拡大します。

それが「イエスの言葉が形成するイメージ世界」に意識を留め、瞑想の時を持つことによってなっていくのです。

よく味わい黙想(瞑想)する。

これによって霊感が開き、育っていく~と鹿嶋は解します。

+++
 
だけど、実際に効果が現れるにはどれくらいの期間が必要なのでしょうね。

この方法で癒しなどの奇跡を連発している日本人女性(カナダ在住)がいます。

生物物理学者です。

彼女は体験から「一つの聖句につき、三日から数日間ほど黙想すると、認識可能な霊領域は拡大していく」との旨をいっています。


+++

もちろん、人は仕事もクルマの運転も買い物もしますよね。

そういう生活の中で、黙想の時をもちながら一定期間過ごすわけです。

するとその間に、霊感は育成される。

そして「イエスの言葉のイメージ世界」が物質世界と同等にリアルに感じられるようになると思われます。

+++

この瞑想を他の言葉に広げていけば、霊的ワールドに感じるリアリティ(実在感)は物質世界以上になっていくでしょう。

それは、道理に沿ったルートです。

聖書の存在観では、霊的世界の方が根底的であり、基盤だからです。

 


=御国が臨在する条件1= ・・・・完)



~字数が規定をオーバーしたようですので、次回とに分けて投稿します~

 

 

 

 

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=福音の奥義~「しるし」で確信させる~=

2017年06月13日 | 随想

 

 

前回、福音の表義(ひょうぎ)は「イエスの救いをアクセプトすると、それは実現する」であり、
奥義はそのことへの確信を「しるし」によって深める方法だと申しました。
 
今回は、その奥義を追ってみます。



<パワーも物質も波動で出来ている>


「しるし」を実現するには力、パワーが要ります。
 
量子物理学はパワーの実体が波動であることを明かしました。
 
その波動が凝集すると、力(パワー)となり、また物質にもなるという。
 
驚くべき発見です。
 
+++
 
物理学の歴史を振り返ると~、
ニュートン力学では、この力がエネルギーとよばれてきた。
彼は、その力の法則を明かしました。
 
その後、アインシュタインは、その「エネルギーは物質と相互転化する」ことを明かしました。
この理論によって、原子爆弾が出来、広島と長崎に落とされました。
 
ところが量子力学は、そのエネルギーと物質は、実は、「波動で出来てる」んだよ、と実験で明かしてしまったのです。
 
+++
 
この知識を聖書の論理に援用すると~

その波動の源は創造神で、すべての力はここから放射されている、という理解になります。

そしてその波動は「天の御国(みくに)」に満ちていることになります。





<聖書の空間理念>


では「天の御国(天国)」とはなにかというと、

ここは聖書の空間理念の中の「一被造空間」です。

そのイメージを得るには、これまで何度も提示してきた「聖書の空間理念はの図」をもういちど眺める必要があります。

この図でイメージできるように、天国は被造空間だから、大きさは有限です。

これをイエスの教えと組み合わせるとは次のようになります~。

+++

我々の地球を含む宇宙は「世」であって、悪魔に一時的に支配権を与えている世界だ。
(イエスは悪魔を「世の君(君主)」といっています)

そこは、偽りも、病も、貧しさも罪も呪いもある闇の世界だ。

だがその上位に「創造神が王として完全統治する王国」がある。

それが「天国(御国)」で、その空間にはパワーの源である波動がみちている。

その空間が来れば、「世」の空間の性質は退かざるを得ないのだ~と。



・・・・・・・・・・・・・
=聖書の空間理念=







・・・・・・・・・・・・




<天国は創造神が王として統治する国>

「天の御国」をもう少し考えておきましょう。
これは英語では「キングダム・オブ・ヘブン」です。

キングは「王」で、ダムは一つの世界、ワールドです。

だから「御国」は正確には、「創造神が王として完全統治する王国空間」です。

+++

いま日本は一応主権在民制の民主制社会です。
人民が最終的な統治権を持っている。

人間の能力には限りがありますから、一人に統治権を与えるより、人民に配分した方がいい。
だから、この世はそれでいいわけです。

だが、御国は王に統治権が集中している王国です。
一人が統治すると聞くと、我々は、「独裁制だ、これは悪い」
と連想します。

だが聖書が示す創造神は全知にして完全な全能者です。
加えて、被造物に対する「あわれみの心」を持っておられます。

だから、この方の独裁統治は民主主義を超えた、ベストな体制なのです。

+++

日本ではあまり意味がわからいままに「天国」という言葉が日常的に使われています。
そして人々は「極楽」の代用語程度に漠然としかイメージしていません。

そこでここではあまり「天国」とはいわないようにします。
なるべく「御国」または「創造神の王国」ないしは「天の王国」ということにします。

 
 

<御国は完全幸福社会>

創造神が王として統治する「御国」は理想の幸福社会です。
偽り、病、貧しさ、悲しみ、憂鬱や、許されない罪などがなく、悪霊もいない光(栄光)に満ちた空間です。

また王の下には、この世(宇宙)を支配する悪魔を命令に服従させる権威を持った政府があります。
裁判所もあります。

それは「地上の世界」に対して完全優位な性質を持っています。
この空間が地上に降りてくれば、そこでは地上の法則を押しのけて天の法則が貫徹してしまいます。
 
+++

イエスが伝えた「福音(よきしらせ)」とは、実はこの「御国についての知らせ」なのです。

上記に福音の表義を示しましたね。
それは「イエスの十字架死による罪の代償をアクセプトする者にはそれが実現する」という法則の「知らせ」でした。

だがそれはこの御国という空間の持つ属性(力)の一つに過ぎません。

他にも多くの「よきもの」を「創造神の王国」はもっているのです。





<御国が近づいた!~福音の第一声~>

イエスは、その御国の説明は後にして、まず、それが「地上の近いところまで降りてきている」と知らせます。

それが福音の奥義の第一声です。

「悔い改めよ、天の御国が近づいた」(マタイによる福音書、3章2節)

~というイエスの宣言はそれを言っているのです。

+++

これは「新しい」知らせです。

旧約時代には、御国の空間は「地上」より遙か上方にある、人間が接することの出来ない空間だったからです。

それが、イエスは自分が「人の子」としてこの地上にやってきたのに伴って、「地上に近いところに降りてきている」というのです。

+++

なお「悔い改めよ」という日本語は「道徳的な罪を反省せよ」と受け止められがちですが、聖書ではそうではありません。

もっと広く「今までの考え方を180度転換せよ」という意味です。

いい日本語がなかったのでしょうか、日本語聖書の作成者ヘボン先生は、英語のrepent を「悔い改める」と訳していかれました。






<御国が地上に降りてくる>
 
イエスの「いい知らせ」の奥義ははさらにあります。

近くにきているその御国の空間は、今や「地上」に降りてくることもある」、というのです。

イエスの~

・・・・・・・・・・・・
「わたしが創造神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう御国は諸君のところに来ている」(マタイによる福音書、12章28節)
・・・・・・・・・・・・


~という言葉はそれを示しています。


つまり「近づいていた御国の性質を持った空間は、さらに地上に降りてきて、一定の領域に侵入することがある」という。

すると「悪霊はそこにとどまれなくなくなって出ていく」ことになる。
ぐずぐずしたいたら「出ていけ!」の命じれば、出ていくことになるのです。
 
この空間からはまた、病も貧しさも、憂鬱も出て行かざるを得ません。

代わりに、健康と豊かさと、喜びと爽快さが、オートマチックに満ちあふれるようになる。、

~これが「近くに降りてきている御国が、さらに地上に臨在した状況」です。

イエスの「よき知らせ」の奥義はそれも含めています。

 
 
 

<全地がユートピアになるのではない>

なお、イエスが地上に臨在しているという「天の王国」は「その王国の性質を持った限定的な空間」を意味しています。

「御国が降りてきて全宇宙空間に取って代わる」というのではない。

そうなったら、「この世」がユートピアになり、めでたしめでたしとなるでしょうが、そうではない。

聖書はそういう地上ユートピア観とは対立する世界観を持っています。

この世(宇宙)は最終的には「最後の審判」火で焼かれることになっています。





<人間側が満たすべき条件>

話を戻します。

そうしておいて、イエスは弟子たちにインストラクションをします。

御国が一定の空間に臨在するには、
そこにいる人間の側にも、それを迎え入れるべき条件がある、と教えます。

それを、自分が十字架にかけられる直前の「最後の晩餐」の場で遺言していくのです。

~知りたいですね。

しかし、今回もまた、話が長くなりました。
 
気を持たせるつもりはありませんが、話は一定の短さとまとまりを持っていませんと、
人の心に入りません。
 
次回にしますね。
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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=福音は二重構造になっている=

2017年06月11日 | 随想

 

 
こんちにわ。 
 
先回~、
  日本の福音土壌はとても悪い。
戦後~
  「天皇=現人神(あらひとかみ)」を信じて戦場に送られた、という一億総懺悔がなされた結果、
  「聖書はキリスト教、⇒ キリスト挙は宗教 ⇒ 宗教はだます」という連想が習性化してしまっている。
 
この土壌に福音を伝えるのは難しい
~との旨を述べました。
 
 
 
<「神が二人いる」といったら即殺される>
 
だけど、広く歴史を鳥瞰しますと、もっともっと固い土壌もありますよね。
 
イエスの弟子たちが宣教するときなどには、特にそうだった。
 
当時、イスラエルには「創造神はお一人」という、日本でいわれるところの「一神教」が根付いていた。
 
これに反することを口に出したら、石打でもって殺されるのが当然でした。
 
これ「宗教アレルギー」程度のものじゃないよね。
 
+++
 
そこに「創造神には一人の御子がいる」という教えを、弟子たちは伝えはじめたのです。
 
そして土壌を突き破って、福音宣教は進んだ。
 
いったい、彼らはどうしたのか?
 
これをあらためて吟味すると、彼らは「正攻法で正面突破をしている」ことがわかります。
 
「人々の知的好奇心に働きかけてみる」なんて、脇の下をくすぐるようなものではなかった。
 
それを見るには、あらためて「福音(よきしらせ)」を吟味し直してみる必要がある。
 
~鹿嶋はそう思い至りました。
 
すると、福音は表の意味(表義といいましょう)と奥の意味(奥義)との二重構造になっているのでは、・・・という思いが、浮上してきました。
 
 
 
=福音の表義=

 福音の表義は次のようなものです~


・・・・・・・・・・・・・・

「創造神の御子が「人の子」として世に来られ、
死ぬべきでないのに殺されて死んで
人類の罪(原罪)の代償をつくった」

「この言葉をアクセプト(受容)し
それを表明してバプテスマ(洗礼)を受けると、 
言葉(波動)が有効化し
「罪の許し」が保証される」

「するとその人は『救い』の資格を得て、
死後『天の王国』に入ることが出来る」

・・・・・・・・・・・・・

~これが「よき知らせ」の表義です。

 
 
<「信じる」は「アクセプト」すること>
 
なお、「アクセプト」は日本の教会で通常いわれる「信じる」とか「信仰する」とかに対応する英語です。

ルーク唐沢先生などは、かねがね「日本語には日本語のマトリックスがある」「邦訳語では聖書の正確な意味は伝わらない」というのが持論です。

実際、日本語には余計なニュアンスが含まれていることが多い。

鹿嶋もそう思いますので、キーワードはなるべく英語のままで行くようにしています。

+++

「信じる、信仰する」に比較的正確に対応する日本語は「受容する(心に)」でしょうけれど、英語で言った方がもっとはっきりします。

鹿嶋は「アクセプト」すること、ないしは、「アクセプタンス」ということにします。

なお、「救い」の資格とは、(死後に法廷に立つべき)いわゆる「最後の審判」の時に「さばきを免れる」資格を意味します。

そして日本の教会の99%は、福音を上記のように把握してやってきました。

福音を表義止まりにして、これをアクセプトして洗礼を受けたら、「めでたしめでたし」
~としてきました。
 
 
 
 
=福音の奥義=

それは間違いではありません。

アクセプトしてバプテスマ(洗礼)を受ければ「救い」の資格を得られる~というのは聖書の論理を外れてはおりません。
だが、「よき知らせ」には奥義もあります。

それは、超自然的な奇跡によって、表義の福音を含む御子イエスの言葉への実在感(リアリティ)を飛躍させる・・・その方法の「知らせ」です。

奇跡を得る方法は、次の聖句(イエスの言葉)に示されています~。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたがた(イエスを信頼する人々)が私(の言葉)にとどまり、わたしのことばが諸君にとどまるなら、何でも欲しいものを求めなさい。

そうすれば諸君のために、それがかなえられます」

      (ヨハネによる福音書、15章7節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 

 
「欲しいもの」の代表は「苦痛の超自然的解決」>


この聖句を、「個人の聖句解釈の自由」の原理のもとに、鹿嶋流に解読してみましょう。

後の方の「欲しいものは何でもかなえられる」から読み解いてみます。
 
ここで「欲しいもの」とは「自然の力では解決が絶望的な問題を、超自然の力で解決してもらうこと」です。


具体的にはどうか?

人間がかなえて欲しいと切望するものの代表は、医療など自然界の方法ではどうにもならない病の「癒し」でしょう。

ガン細胞やうつ病の消滅。

不全な目や耳や手脚などの器官の再創造(新しく創造し直されること)。

さらには膵臓や肝臓や手足などの再創造などがそれでしょう。

肉体や心の不全による苦痛は直接的で耐えがたいですからね。

加えて、金銭状態の困窮も辛いもので、これからの解放も人は強く求めます。

そしてより精神的には、罪の赦し~悔い改めることによっての~もあるでしょう。

これらの問題の超自然的な解決、・・・これが上記聖句での「諸君が願う『欲しいもの』」の具体的な内容です。





<超自然的解決がもたらす心理効果>


この苦痛が願い求めて超自然的に解決されると、人間の心には驚きと喜びが突発します。

これはもう、人はそう創られているのですね。

超自然的出来事でなくても、同様な心理は現れますからね。

たとえば科学の実験で理論に沿った結果が出た時にも人は狂喜します。

もう一度やったら別の実験結果になる可能性がゼロでないにもかかわらず、「これはノーベル賞かも!」と興奮したりします。

あり得なさそうなことが現れると、人間は激しくよろこぶように出来ているのですね。


+++



超自然的な奇跡を聖書では「しるし」といっています。

漢字では「物証」といったところでしょうか。

これは「しるしと不思議(sings and wonder)」と表現されることもあります。

が、とにかくこれが現実化されると、当人のイエスのことばへの実在感は100%近くに上昇します。

そして「この言葉はまことだ」との確信度が飛躍します。

この「しるしと不思議を得る方法」が福音の奥義です。

~長くなりましたので、次回にそれをのべますね。


(   =福音は二重構造になっている=  ・・・・・    完)









 
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=「女の子孫」は「イエス」と解読=

2017年06月05日 | 随想

 

 
 
先回、戦後日本人には宗教一般に対して反射的に恐怖を抱く、と申しました。

だから聖書自由吟味が鍵ですよといっても「聖書なんか宗教の本ではないか!」と即座に思ってしまう。
それが聖句自由吟味にいたる前に、壁となってたちはだかっている。

~こう申しました。

+++

こういうケースでは、「宗教の教典と言っても聖書はですね・・・」と一般論的に語りかけても、鉄板にげんこつで穴をあけようとするようなものです。

戦後日本人の宗教不信と恐怖症はそれほど深いのです。

+++

う~ん、どうしようかなあ・・・。

こんなのはいかが?

日本人も、聖書が新約聖書と旧約聖書とからなっていることは、おおむねしっています。
この両者の関係を示してみたらどうかな?

それを筋道だって示したら、知的欲求はみたすのではないか。

それを短い聖句を提示してイメージしてもらったらどうか。

これがわかれば、聖書の全体観の一端に触れることができ、聖書って結構知的な本なのだなあ・・・と、わかるのではないかな。




<旧約聖書はイエスを述べた本>

 

その聖句は、新約聖書の「ヨハネによる福音書」(ヨハネ伝、ともいいます)にあるこんなものです。


・・・・・・・・・・・・
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って読んでいるが、これは私のことを述べた本なのだよ」
    (5章39節)
・・・・・・・・・・・・・

これはイエスの言葉です。
だから、ここで「わたし」とはイエスのことだとわかります。

また、この時点では、新約聖書は出来ておりませんので、ここでの「聖書」とは旧約聖書のことである。
その程度の解説なら、ついてくる人も少なくないでしょう。

@@@

そしてこの二つをつなぎ合わせます。
するとイエスは「旧約聖書は自分のことを述べた本だ」といっていることになります。



<だってイエスの名は一つも出てこないよ>

 
そして旧約聖書をパラパラと見せてあげます。
で、そこには、「イエスという名前は一つも出ていない」と伝えます。

加えてこう伝えます。

「イエスのこの言葉は新約聖書に記録されています。

そして、旧約聖書は、この言葉の故に、キリスト教の聖書に含めて編集されているのです。

キリスト教は、イエスのことばは真理だとして語る教えですから」と。


そして、こういう~。

「旧約の後に作られる新約聖書は、みな“イエスの生涯とその教え”を述べています。

すると、結局、新約聖書に記録されたイエスを、別のことば、別の話でもって述べている本が旧約聖書、ということになります」


「つまり、イエスを何か別の言葉で、つまり、比喩でもって暗示している本となります」



<比喩表示を例示する>

 
そして旧約聖書「創世記」の冒頭の話ででその実例を示します。
そこにはこういう聖句があります~。


・・・・・・・・・・・
 「わたしはおまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼はおまえの頭を踏み砕き、
おまえは、彼のかかとにかみつく」
          (創世記、3章15節)
・・・・・・・・・・・


「・・・なんとも奇想天外な文章ですね。

だが状況のいきさつは、この聖句の前後の文章を読むと容易にわかります」

~こう伝えて、話を続けます。


「これは、エデンの楽園で起きた出来事をめぐっての創造神の言葉です。

悪魔がヘビを使ってイブを誘惑します。

園の中央にある木の実を、創造神は“「食べてはならない”と命じています。

だがヘビは、上手く誘導してイブに、食べさせてしまいます。

さらにアダムも、イブにすすめられて食べてしまいます」





<「罪」とは>

「創造神の御旨を外れた行為を聖書では「罪」といいます。

二人は、悪魔の誘惑に乗ってしまって、罪を犯したのです」


+++

こういって~、

「ではここで、“女の子孫”と“悪魔(ヘビを使って誘惑している)”が何を言っているか、解読しましょう」

~と、話を続けます。





<「女の子孫」とは?>

「まず、“「女の子孫”です。

結論から言うと、これは創造神の御子イエスに対応しています。

これ以外に対応するものはないことを今示しますね」


「聖書では、霊の資質は父親を通して遺伝する、としています。

だから人間はみな、霊的には、言ってみれば「男の子孫」となります」

「ところが、イエスだけは『聖霊の力によって処女マリアが身ごもって産んだ子』という論理に聖書ではなっています。

だから、イエスは男の子孫ではなく、この地上における只一人の”女の子孫”ということになるのですね」





<「悪魔の子孫」とは?>

「次に、“おまえ(悪魔)の子孫”」にいきましょう。

こちらはちょっと理屈が複雑です」

「こちらもまず結論から~。

創造神は「おまえ」というのを悪魔をさして言っています。

 

そして“「おまえの子孫”には“この世の人々”が対応しています」





<悪魔は「世の君」>

「これもかなりビックリですね。
なぜか?

イエスの認識では、悪魔は、根底的に、全身全霊的に、創造神に敵対する存在になってしまっています。


そしてこの『世』は基本的には悪魔の影響下にあるのです。

それは、新約聖書のイエスの言葉で明かされます。

イエスは悪魔を『世の君(君主)』と言っています」


「つまり、この世が基本的に悪魔の影響下にあるのなら、人間はその下に生まれ、成長しますよね。

無自覚のうちにそうしてきます。

だから、知らぬ間に「世の意識」をベースに持った状態になって生きていることになるのです」


「これを『創世記』の上記の聖句では、悪魔の子孫となっているととらえています。

だからここで『おまえの子孫』は、この世の一般の人々(イエスの弟子以外の)のことと、なるのです」






<殺せ! 十字架にかけろ!>


「そこで、一般のユダヤ人もイエス(創造神の子)には、意識の根底でイエスへの敵意、殺意に満ちていることになります。

これはもうもう理屈抜きで、宿命的であって和解の余地はない~ということになります」


「実際、新約聖書の終盤で、ユダヤ教の指導者(高僧)は『イエスを十字架にかけろ!』叫び、群衆もそれに呼応して叫ぶ状況が、記録されています」

「そういう衝動が心の根底にあるからです」

「イエスの愛弟子ヨハネは、その事実を「ヨハネ伝」の18章以降に、克明に描写しています」
 
+++
 
・・・こんなのでいかがでしょうか?

う~ん、説明の過程で、「や~めた」という人が出てくるでしょうね。

これ以上ついていくと、何かだまされるかもしれないと怖くなった、とかで。


残って、「へーえ、おもろいなあ」と、聖書に関心を留める人は、少ないかもね。

ゼロではないにしても・・・。


う~ん、日本人が人生観を深め、政治見識を持つための鍵に目覚めるのは、大変なんだなぁ~。



 


 
 
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= 聖書なんて宗教の本!=

2017年06月01日 | 随想

 



先回、日本人の人生思想を深いものにする実践的な案を述べました。
それは、聖句を自由に吟味する活動が広がること、でした。

+++

けれどもこれは今の日本の読者には、直ちには飲み込むのが難しい案だと思います。
日本には、いくつもの壁があるのです。

その一つは、「そんな“宗教的な”案など信用できない」という思いでしょう。


<戦前までは国家武士道一色>

日本人は、戦前まで、国家武士道という、簡単でわかりやすい人生思想を小学生のうちからすり込まれてきました。

それは、神道と組み合わされて、現人神(あらひとかみ: 天皇)を日常的に反復礼拝させることでもって、補強されました。
幼いうちから、それ一色の人生思想の中で育てられると、人間は、そういう思想の人間になっていくものです。
彼らはこの教育によって、兵士として戦場に補給されてきました。




<もう宗教は絶対信じないぞ!>

ところが、戦争に負けてしまった。
米国艦船が沖縄を取り囲んでも、教え込まれた「カミカゼ」は吹かなかった。

「俺たちは、だまされてきたのだ!」
戦中派の大人たちは、敗戦と同時にそう懺悔しました。
いわゆる「一億総懺悔」です。

そして「宗教はだますものだ」「もう宗教は絶対に信じないぞ」と固く心に誓いました。


<今日は坊主を見た、縁起が悪い>

戦後日本人は、この風潮と共に立ち上がりました。
新聞も思想雑誌も学術的な雑誌も、大衆も知識人も文化人もみな、宗教不信に発した無神論でスタートしました。

この戦後の風潮を、幼少だった鹿嶋も、明確に記憶しています。
人間観察においては、早熟だったのかも知れません。

ラジオから流れてくるメッセージも、無神論をベースにしたヒューマニズムのそれでした。
大人たちは、「ああ、今日は坊主を見た。縁起が悪い」と言い交わしていました。
私たち子どももそのセリフをまねして、会話に交えていました。

この心情・思想の基調は、そのまま、今日まで続いています。
学校教育も、戦後は「無神論ベースで」再開されてきているのです。

そうしたなかで、三島事件も、統一教会事件も、おうむ事件も突発してきているわけです。

だから、「聖書? そんなものキリスト教の教典じゃないか。宗教の本じゃないか」ということで、はなっから受け付けない。
そういう土壌を承知で、鹿嶋は、「聖句自由吟味活動で打開できる」と述べました。

この壁に穴をあけるのが、いま製本中の次作本なのですが、なかなか大変であります。







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