「癒し」の方法が一段落した.
ここで改めて総括的に考えてみよう。
<近代医学が創り出している地獄>
ウツ症状ほど、科学的医療にそぐわない病はない。
科学は、五感主義にたっている。
それは見えない存在を五感で認知できる領域に投影させて認識する認識の一手法だ。
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そこで医学は鬱症状をも、神経波動、脳波動などの可視的な局面でとらえようとする。
だが、ほとんど把握できない。
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把握できずに、わからないままに、神経系や脳細胞に化学薬品をほどこす。
心が重くて苦しいなら、それを感知しにくいように、神経系をダラッと麻痺させる薬を与える。
あるいは向精神薬という名の覚醒剤を与えて、脳神経系を興奮させて一時逃れをする。
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だが、どちらも、時間がたつと効かなくなる。
効かなくなると、また与える。
患者はたまったものではない。
中毒になって、薬への依存度を高めていく。
ますます自立できずに、精神病院に閉じ込められていく。
これは現世の地獄だ。
おそろしいことに、こういう地獄が、いまこんにち、現代日本に医学の名で造り上げられているのだ。
<「憂鬱」でなく「抑鬱」>
鬱症状は、医療科学ではなく、人間構造観によってはじめて正統に認識される病だ。
だが日本ではその認識が全くない。
ゼロだ。
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その状況は、言葉からもうかがい知れる。
そもそも鬱は英語の「ディプレッション(depression)」の邦訳語だ。
だが、この英語は「下へ」「プレスする、押す」という意味だ。
素直に訳せば「(上から)抑圧されて気がふさいだ心理」だ。
その「気がふさいだ」心理を鬱というのならば、それは最低限「抑うつ症」
とされるべきだ。
なのに日本では「抑」の語が省かれている。
「押さえつけられているもの」が何かを全く認識できてないからだ。
だから「ふさいだ気分」という、「漠然とした現象として」しかとらえられないできてるのだ。
人に地獄の苦しみを与えるのは、「憂鬱」でなく「抑鬱」なのだ。
<生きよう!」という意識>
では、この押さえつけられている意識と何か。
これはもう、先に結論的に示した方がいい。
それは人間の、肉体と精神との両面に生来埋め込まれている「生きよう!」という意識だ。
これは生まれてくるときすでに肉体と精神との両方に埋め込まれている。
人間はその肉体が「生きよう!」という基本ベクトルを心身に備えたものとして生まれる。
(赤ん坊の息を塞いでやると、激しくその手を振りほどこうとして、顔を左右に振るのは、それを示している)
そして幼児の心理は幼稚だからその精神も、肉体の動向に沿ったものとなっている。
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これら生来の心理ベクトルを上方に向かって働いているとイメージすると、デプレッションとは、それを上から下方に向けて押さえつけようとする心理ベクトルのイメージだ。
押さえつけるのは意識波動体である。
それは「お前は(または自分は)生きるに値しないぞ」という思いを発している波動体だ。
英語のディプレッションは、この原因の方を名称に使っている。
これがないと、この無力感を伴った特殊な厭世感は明確に認知できないからだ。
日本ではその実体がわからないままで、”鬱(うつ)”の字を当てている。
明確な人間構造観がないと、なるべくしてこうなる。
<「自分は永続する」という確信>
この「生きるに値しない」という意識波動体に積極的に対抗できるのは、「自己が永続するという確信」以外にない。
そしてこの思いは、肉体だけを見ていては生まれない。
肉体は100年もすれば循環運動をやめて死んで消滅するからだ。
永続するものがあるならば、それは最低限、肉体の内にあって、肉眼で見えない存在でなければならない。
聖書ではそれが霊(霊体)として存在するとしている。
人はそれを感知せねばならないが、それにはいわゆる霊感を開くことが必要だ。
その霊感による認識を筆者は、略して「霊識」という。
<霊は意識の本体>
聖書では、この霊体は実は意識の本体であり、かつ、それは「肉体が死ぬとそれを抜け出て永続する」としている。
<証言する書物>
聖書はそのことを、論理的に述べている。
その際まず、「万物の創造神」をもってくる。
そしてこの神は、永遠の過去から永遠の未来に渡って存続している神であるべきことが、論理的にわかってくる。
<無限の過去>
創造神が「自分以外の万物」を創造したのなら、その万物は被造物だ。
被造物は存在の出発点を持つ。
造られたその時点が、それだ。
そしてもしも、万物の創造神もまた存在の出発点を持つならば、それは「万物」をオレが造ったとは言えない。
なぜなら、「万物」には、創造神のその出現以前に出現した物もありうるだろう。
それに対して、創造神は「オレが造った」とはいえなくなる。
無限の過去から存在していないと、筋が通らないのだ。
<無限の未来>
未来に関しても同様である。
これから出現する「すべての存在」を「オレが造った」といえるのなら、自分自身は無限の未来にわたって存在しなければ筋が通らない。
<時間的無限者>
つまり、文句なしに「万物の創造者」であるためには、その神は永遠の過去、無限の過去から存在してなければならない。
万物の創造神とはそういう理念の神である。
万物の創造神は時間的無限者であるのが道理、となる。
また、そうでなければ、被造物である人間に対して、あなたは永続するよ(永遠に存在し続ける)となどいっても信憑性がでない。
<言葉による理念>
万物の創造神の神イメージは、このような「言葉による論理体系」を伴った理念イメージでもある。
<自然発生的神イメージ>
言葉によらない、ただ「神様・・・」といった漠然とした神イメージはそれと一線を画する。
論理体系のない神イメージなら、生来の人間の心に自然の心情として発生する。
それは山や海や墓石や社殿などの「物資の中に」染み込んでいると意識される「見えない影響者」の感慨だ。
(神とは「見えない影響者」と定義できる)
その神イメージの実体は、感慨であり、フィーリングであり、情緒であり感情である。
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人間には、感情のほかにもう一つ、理性が与えられている。
これが明確な図式的なイメージ理念を形成する。
青写真にもたとえられるそれは、概念(英語ではコンセプト)の繋がりでできている。
自然発生的な「(感慨)神イメージ」には、そういうことば(概念、コンセプト)が組み合わさってできた理念構築物がない。
これからは「永続する」という確信は心に作れない。
なんとなく「永続なさっているような感じ」は受けられるかもしれない。
だが、その感じには明確さがなく、持続もしない。
一時的に情緒に浮かんではまた消える。
<在物神>
筆者はこういう神イメージを「在物神」イメージと呼んでいる。
「物」のなかに「在」るとイメージされる「神」という命名だ。
この「神イメージ」はみな物質を先に認知した後で、心に浮かぶ感慨だ。
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こういう感慨からは、「自己が永続する」という確信は導き出せない。
たとえば荘厳な礼拝堂の中で、そこで響く荘厳なパイプオルガンや美しい賛美歌を聞きながら、神をイメージしても、それはそれだけのものだ。
湧き上がる感情のなかで、慰めや安息(平安)を得て神をイメージしても、それは一時的だ。
感慨は演出によって増幅されても、しばらくすると消えていく。
情緒からは、不動な永続確信は形成されないのだ。
<若き日に創造神を覚えよ>
「旧約聖書」のなかの~
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「汝の若き日に、汝の創造者を覚えよ」
(『伝道者の書』12章1節)
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~という聖句は、創造神理念をもつことが、如何に大切かを示唆している。
<「知るだけ」でもいい>
ただし、かといって、これを一足飛びに「信じる」「信じない」に結びつける必要はない。
「見えない影響者」のことになると、すぐに「信じますっ!」といわないと不敬虔、不謹慎と思うのは、日本人(牧師さんも含めて)の悪しき習性だ。
それも実は在物神イメージしか神イメージを持たないことからくるのだが、とにかく「信じねばならない義務」などない。
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「まず知ればいい」のだ。
在物神イメージしかもってないところに、万物の創造神、というもう一つの神イメージが存在することを”知ること”これ自体に価値がある。
<霊のない人間、霊のある人間>
ではこの創造神は人間をいかなる構造に造ったと、聖書は示しているのか。
『創世記』の冒頭部分にこう記されている~。
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~創造神はまず、霊のない人間(魂と肉体だけでなっている)を創り、「産めよ増えよ地に満ちよ」という言葉を投げかける。
そして、満ちたところで、一人の人間、アダムを選び、その身体の内に「いのちの霊」を吹き込む。
これは天の創造神王国にある被造霊で、これによってアダムとエバは「創造神を知り、交信する人間」となって、繁殖する。
こうして、地上には霊のない人間(ネフィリムたち)と霊のある人間とが併存することになる。
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だが、しばらく後に、「ノアの大洪水」でネフィリムらは全滅し、霊のある人間(ノアの家族)だけが残る。
そしてそれが繁殖して今の人類に至っている、と。
そのように直接言っているのではなく、そういう論理が解読されるのだが、とにかくそういう物語が存在する。
その中で、人の霊は永続する、という思想もまた示される。
もちろん被造霊だから、存在の出発点~「創造された時点」~はあるが、未来には永遠に存続するとしている。
こうした物語がどの程度のリアリティをもつかどうかは、次の問題だ。
とにかく、こうした理念像がなければ、不動の永続確信など生まれず、「死んでおしまい」の通念を打破することもできないのだ。