鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

『誰もが聖書を』7~ゆっくり深く長い呼吸で~~

2006年12月31日 | 著書について
                    



~~大晦日ですね。時の流れは速いですね。ついこの間、紅白歌合戦が終わったと思っていたのに、また始まります。鹿嶋が元気でブログが書ける時も、少なくなっているような気がして、少し寂しい思いです。

                    

<集中力をもう少し>

 年の終わりに、前回のべた「知力=集中力」について、若干補足しておきますね。
子供のころ、凸レンズで紙を燃やす実験をした方は多いのではないかと思います。冬の柔らかな日差しは肌に心地よいです。だが、こんな暖かな日差しでも、レンズで一点にあつめると、新聞紙が発火するのですね。

 これは簡単にできるし、理科の実験なんかでみんながやるので、何でもないような気持になりますが、改めて思うに、驚くべきことであります。あの日差しが紙を燃やすなんて・・・。

 人の知的、精神的エネルギーも同様ではないでしょうか。総量は知れていても、ひごろ穏やかな形で認識対象に照射しているエネルギーでも、ひとたびそれを一点に絞って集中的に注ぎ続けると、すごい認識力を発揮するのですね。


                    

<論文「読めない」の構造>

 子供の知力も、結局は、その集中力によるのではないでしょうか。学校の勉強ができない子がいます。その子は、小学校の授業のあるとき、なんかの拍子で先生の話に焦点が合わなかった。で、先生の話が自分の頭と噛み合わず、声だけが空回りした。

 そして、そういう事態がだんだん多くなって、授業中、わからないままで何年も暮らす結果になった。そうしているうちに「わかる」「わからない」の感覚の区別もできなくなる。

 すると心を動かされる知識がなにもなくなるから、授業中も感嘆、感動がゼロのまま。もう精神エネルギーは開いた出口からボ~と力なく流れ出るだけ。それが普通の状態になってしまう。勉強のできない子というのは、それだけのことではないでしょうか。

 鹿嶋は、その仮説の元に、「論文調の文が読めない子」というかな、そういう学生さんたちに、あるトレーニングを実験したことがあります。結果は、なんと、彼らが徐々に「読める子」になっていきました。ここにその内容を書く余裕はありませんが、とにかく、読解力が回復していった。それで上記の仮説は実証されたという気持になっています。


                    

<集中力育成の最大の教師は「飢え」と「死」の環境>

 上記の実験内容よりも、もう一歩下がって、集中力一般を回復する手だてについて考えておきましょう。まず、それには、環境の関与するところが大きいです。食欲における「飢え」とか、生命の存続への危機感、こういうものに幼いときや若いときに襲われる環境に恵まれると、否応なく集中力は養われます。日本のいわゆる戦中派の人々、今の70才~85才くらいの人々は、それに恵まれた世代ですね。

 日本の戦前は、一部の特権階級を除けば、みな貧しかった。日中戦争が始まってからは、飢えの中で、日々を送りました。長じて青春時代になると、赤紙一枚で徴兵され戦地で死に直面させられる、多くの場合そのまま死ぬ、という状態に置かれました。

 腹が減って食べるものがない、という状態は、その人の精神を飢えを満たすことに激しく集中させますよ。このドライブは、人為的な教育によるものの何百倍、何千倍の力を持ちます。だから、戦中派の人々は異例な集中力を身につけているのです。

 死への直面もそうですよ。戦中派の青年たちは、いつ来るかわからない赤紙に脅え、人間とは、民族とは、自分とは、死とは、と激しく問わざるを得なかった。奈良とか京都に旅して、日本のルーツに自分を見出そうとした人も多かったようです。これも人為教育の何千倍もの集中力ドライブ。

 さらに終戦後は食べ物がなく、いつも腹を空かしていた日々だったといいます。生き残った人には、なんと恵まれた集中力訓練環境だったことか。



                    


<政木和三さんのシーター波>

 しかし、戦後の経済成長の結果、また、平和国家実現の結果、日本ではそういうドライブはなくなりました。この環境の中でいかに集中力を養うか、付けるか、は実は今後の国家運営の根幹仮題です。

 いま、教育改革などといって安倍内閣はやっておりますが、この問題は上記の集中力育成から考えていかないと、空回りします。ダメ教師を辞めさす制度作りなど(これも大いに必要なのですが)表層的なことです。おそらく今のままでは、大きな成果は出ないでしょう。

 飽食と平和の中で、一般の日本若者に、さらには日本人にどうやって集中力を養うか。
 最近なくなられましたが、政木和三(かずみ)という発明家、思想家がおられます。この方の話は参考になります。

 政木氏は、人の認識力は詰まるところ、脳波を下げることによって得られる、と述べて行かれました。ベーター波は、いわゆる俗世の雑事にかかわる時のいらいら状態の脳波。アルファアー波は、それより一段低下した静で穏やかな波動。この脳波の名前は、我々は見聞きしていますよね。


                    


 しかし政木氏は、もう一つ低い波動、シーター波に脳波を持って行くことが鍵だと考えます。ここに来ると、通常認知できない微細な事物も、認識できてしまうのだと。

 この方は自然科学者ですから、次のようなたとえで説明しています。磁気録音テープがありますね。カセットに入っている通常のテープです。これにある音を録音し、その上に別の音を録音すると、前のものは消えますよね。それを繰り返しても同様なことが起きます。で何回もそれを繰り返した後、最後に録音した音も無音状態で録音して消してしまいます。

 次に、そうして、なにも聞こえないテープを、音を何万倍も増幅する装置にかけます。すると、前に録音した音は、すべて残っていて聞かれるそうです。

 人の記憶も、そういう風になっている。忘れて、認知できないと思っている過去の記憶も、実は微細な認知が可能になれば、みんな認識できるのだ(前世の記憶だってそうだ、と政木博士は言います)。そして、そういう状態に人の精神がなったときの脳波がシーター波なのだと。鹿嶋が考えてきた集中力が働いている状態とは、この脳波の状態だったかも知れません。

                    

<シーター波は深くゆっくりの呼吸で>

 で、そんな楽しい状態に脳波を持って行くには、政木先生のような方でないとできないでしょうね、というと、そうではない、とおっしゃる。だれでもできる、と。

  「えっ? どうやって?」

その答えは「ゆっくり深く長い呼吸をすること」だと言われるんですね。具体的には、「20秒はいて、20秒止めて、20秒吸って、また20秒止めて・・」と繰り返す。それを一日に機会ある毎に繰り返せば、脳波をシーター波レベルに持って行くことが、誰にでも可能、と言い残しておかれました。

 こういうことを聞くと、ひらめきのあるクリスチャンの方は、「ああ、その状態は一種の瞑想状態だ。我々が深く長く祈っているときもそうかもしれない。脳波はシーター波になっているのかも・・・」と連想されるかも知れませんね。

 実際そうかも知れません。長い祈りの人でもあるベニーヒン牧師が、「癒しのクルセード」の最中に聖霊の意図を感知したり、天使の動きをキャッチしたりするという秘密も、案外、脳波がそのシーター波状態になっている時のことにあるかもしれませんね。

                    


 しかし、政木博士はそういうことはいいません。祈りとかいうと、「ウワァ~、宗教だ!」と浮き足立ってしまう病状に、依然として多くのニッポン人はありますからね(一体、何時になったら治るんでしょうかね)。政木先生はそうでない。無色透明、人畜無害な呼吸法のレベルで話をされます。だから、熱烈なファンを結構お持ちだったんでしょうね。ニッポン人は難しいですね。

                    

<勉強のできる家庭、できない家庭>

 がともあれ、政木理論を更に展開しますと、子供の勉強をできるようにする家庭の脳波環境などということも考えられるかも知れませんね。家庭に流れる波動を、シーター波に近く持って行く。そうすれば、子供は教科書の奥にある微細なことまでをも認知し、どんどん知恵を高めていくのではないでしょうか。

 逆に、ベーター波の状態で、いくら「勉強しろ、勉強しろ」と言ったって、ダメでしょうね。両親のけんかが絶えない家庭、親がいつもいらだっている家庭では、子供は勉強しようとしてもできないでしょうね。可哀想ですね。大人も考えなければいけませんね。

 ところがその親も子供のころそういう環境で育ったりしていてね。自分の家庭で、何が問題かと言うことが、認識できないケースが多いんだよね。だから近所にいい教会が要るんでしょうね。

                    


<洞察力もシーター波状態の産物?>

 「エホバの奥義」のカテゴリーで述べた「洞察力」、これも、政木理論ではその内容が具体的になるかも知れませんね。聖句の奥義を洞察するとは、表に現れていないが微妙で重要な論理を推察することでしたよね。これなど、実は、祈って、あるいは深く長い呼吸をして、脳波をシーター波にもっていくことが、鍵だったのかも知れませんよ。

では、今年はこれで終わりです。 
みなさま、いいお年を。

                    



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『誰もが聖書を』6~知力とは集中力のこと?~

2006年12月29日 | 著書について
                                        


前回の続きです。
sさんの要望に添うべく、鹿嶋は必死に書きました。
自分でもびっくりな集中力・・・。
キーボードがカタカタ鳴り続け、ラフスケッチが一気に出来上がりました。

                    

<あとは俺にはわからんよ>

前作の話という脇道に入ってしまったついでに、もう一つ脇に入りますと・・・、

後に鹿嶋はこの本を本業の師匠に謹呈送付しました。そして着いたころを見計らって電話した。恐る恐るに。


 日本では多芸というのは警戒され、軽蔑される傾向にありまして、「これ一筋」というのが信用されます。
安心するんですかね。

演技しかできなくて、奥さんがいなくなったら家事もままならず生活できないという俳優さんを役者子供といいます。

学者子供というのもおります。

こういうのが信用、尊敬される条件でありまして、日本では本業以外の本を出すのはヤバイのです。

+++

ところが鹿嶋は若いときから色んな分野に興味を抱く傾向が強く、他分野で作品を作ったりしていました。

大学院の修業時代に、その一部が師匠の知るところとなって、こっぴどく叱られたこともありました。

「お前は才に溺れる傾向があるなぁ。それではお前、何にもものにならないぞ。そんなコトしてるのなら、俺はもうお前の面倒見ないぞ!」

                    

面倒見られないんでは、大変です。

院生というのは無名ですから、師匠が保証してくれないと、職も得がたくなるのです。

そんなわけで、ほぼ完成しかけていた、別分野の作品を断念したこともありました。


そういう前歴もあるものですから、「お前、ちゃんと(本業の)研究しているのか?」と叱られそうな気がして、恐る恐る電話しました。

そうしたら「ああ、あの本か。最初の章が面白かったよ。すっ~と一気に読んじゃったよ。君は文才があったんだな」だって。

 で、ホッとすると同時に調子に乗って「・・・で、後の章はいかがでしたでしょうか?」と質問してみました。

そうしたら「ああ、後か。俺にはわからんよ。ああいうことには興味がない」だって。

ホント、質問せねばよかった・・・。

                    

<知的能力=集中力>

 しかし「でも最初のところは一気に読まされたよ」と師匠は話を結びました。

会社での講演に呼んでくれた上場企業の社長さんにも、序章を読むと気持が「スカッとする」と言っておられた方がいました。

どうもあの序章は「食いつき」をよくする撒き餌としては、鹿嶋の能力を超えた出来だったようです。

+++

 どうしてそんなことができたのか。後から考えましたところ、詰まるところは集中したことによるのではないか、という見解にたどり着きました。

人間が一時期に保有する精神エネルギー量には限度があります。

けれども、その出口を一点に集中して強く絞りますと、エネルギーはすごい勢いで対象に向けて噴射するのではないか。

すると見えないものも見えてくるし、それを表現する言葉も流れ出してくるのではないか。

そういう法則の様なものがありそうだ、といま思っています。


                    


 もちろんsさんの経験豊かな指導も不可欠でした。

この方は高村薫さんなど人気作家や評論家の櫻井よし子さんらを担当する花形編集者なのです。

こういう人がどうして鹿嶋程度の著者を担当してくれたのかは、今も謎ですが(天使が動いたのか)、とにかく一般読者が求めるものをよく知っておられた。

それを聖書などと言う、日本人に関心の薄い書物の話につなげるにはどうしたらいいか、を知り尽くしておられた感があります。

 けれども、詰まるところの決め手は、書く当人の集中力だったと思っています。

あの時、書くべき言葉が列をなして目の前に浮上しましたから。

以来鹿嶋は、集中力が弱まったな、と思ったらすぐに休憩を取るようにしています。

でも、あの第一作の序章の時ほどの集中力は、もうなかなか出ないのではないかとも思っています。


(続きます)


                    

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『誰もが聖書を』5~前作序章の出来方~

2006年12月28日 | 著書について
                    

前回、最終の18章についての想い出を書きました。第1章で書いたテーマのいわば私小説版でした。結果的に同じテーマで前後をサンドウィッチすることになった。そのことから、この本が中核に据えている主題がわかります。

 創造主という存在の、すさまじいエネルギーが世界を創っているんだ。創るだけでなくその後も働いているんだ。聖書は、それを伝えているんだ。これが著者の聖書解読の核心なんだ~~そういうことですね。(これが次作の『神とゴッドはどう違うか』に繋がっていきます)

                    

 今回は前に戻って、一番最初の序章のことを書いておきましょう。
鹿嶋は、通常1章から書き始めます。序章は後から付けるのです。付けるというより編集のsさんの指導で付けさせられる、というのが実情です。これについては、その前の本のことをお話しした方がいいです。

 最初の本『聖書の論理が世界を動かす』は、sさんによって構成されたところが多々ある本でした。序章などは全くそうです。鹿嶋の原稿を始めて読んだsさんは、こんな批評をしました~~意外に真っ直ぐの本格派ですね。語り口調からするともっと飄々とした話をするかと思ったのですが、直球一本。変化はスピードを変えるだけでつけてますね。

                    

 言われて気がついたのですが、遠藤周作さんのキリスト教書物は変化球を上手に混じえていますね。この方は冗談・ごまかしを交えて人生送る関西のご出身ですね。鹿嶋は愛知の田舎者、トヨタ左吉の世界出身ですからね。言いたいことから愚直に書き始めるというスタイル。

 で『聖書の論理が世界を動かす』は実は1章から始まっていました。これを見たsさんは、「これでは食いつきが悪いなあ、少し餌をまくか・・・」とかいって、1章の前に序章を付けることを要求しました。

 そして、書く項目をずらずらっと並べました。まずこういう項目について、次にこういう項目について・・・と。鹿嶋が小見出し付けて書いている序章の項目は、実は全部sさんの指定したものでした。そして「一週間、遅くとも二週間で書いて送って下さい」と急に厳しい切り口上。

                    

書きますよ、書きますよ。聖書に関する本を、キリスト教出版社でなく一般出版社から出してもらえるかどうかの瀬戸際ですからね。こちらも必死。わぁ~っと書きました。

(続きます)

                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『誰もが聖書を』4~私的感慨を挿入~

2006年12月27日 | 著書について
                    

「創造主が言葉を発すると現実はそれに従う」というのも、「ああそうか、そういう思想か」とそれだけのものとして受けとっておくことも出来ます。だけど、鹿嶋個人にはそうではなかったな。

                    


<科学は現実に言葉を合わせる活動>

 鹿嶋はマーケティングという経済学の一種で禄を食(は)んでいるものです。聖書解読はまあ、ボランティア的にやっておりまして、本業の方に主たるエネルギーが流れがちになる。で、その経済学は、自然科学、人文科学とならんで社会科学の一分野であり、社会科学は科学の一領域であります。

 で、その科学というのは、現実を理解しようとする営みです。そのために、なるべく現実に適合するような理論を作ります。現実は多様で混沌としています。そのままでは理解できませんので、それを整理して単純化した模型を作ります。それが理論。ですからそれは現実を単純に見るための眼鏡ということも出来ます。

 その理論は、言語を連ねて出来ています。科学というのはその言語を現実に何とかうまく適合させようとする作業です。

 ですから現実実在が動くと、言葉の方もそれに合わせて動かします。それが理論の修正です。うまく修正して現実に合わせないと、その理論は妥当性がないということになります。

 そういう理論をもとに考案した政策はこの世の問題を解決することが出来ないわけです。実際そういうことが多いです。

                    

<二重構造の世界観>

 聖書を知るまで、鹿嶋は言葉と現実とはそういう関係のものだと思っていました。ところがそれとは全く別の関係も併存していた~~そう知らせるのが聖書なんですね。


 科学では言葉が現実に合わせようとして現実実在を追いますが、現実の方が言葉に従うケースもあるという。その言葉が創主から出たものである場合は、そういう関係になるんだと。

 だったら、この言葉は強烈な力を持っているでしょうし、そういう言葉を発することの出来る存在は、基本的には何でも出来るわけです。そしてそういう力を持つ存在がいてくれることは、我々人間に希望を与えます。

 我々は生きていて、どうにかしたいがどうにもならない、ということに周期的に直面します。苦しみを解決してあげられないときには、身悶えます。だがそんなときでも、この力を持つ存在が動くならば、苦しみも解決されるということになりますから。

 聖書ではこの存在に人間は祈りでもって交信することが出来る、としています。うまく交信して力の主に動いてもらえたら、問題にも解決する可能性が出てくるとという。その存在に言葉を発してもらえばいいわけです。そのとき天使が動くかどおうかはともかくとして、超自然的な力で問題は解決してしまいます。

 すごいなぁ。希望が出るなぁ~。人間の力と創造主の力、二つの力が併存して働く世界のイメージを鹿嶋に提供してくれた聖句でした。


                    


 このことも書いておきたいなあ。でも、かなり私小説的領域に入ってるなあ。ほとんど自分のために書いてる特殊状況。最初の章からそこまで突っ込んだら、やっぱりついてこられない人が多いだろうなあ。スペースがあったら後に書くか・・・。

 結局、最終の18章に何食わぬ顔して入れてみました。こんなのも追記してみたんですけど、と編集のsさんにこわごわ見せました。「いいですよ」とsさんは言いました。

                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『誰もが聖書を』3~言葉に現実が従う?!~

2006年12月26日 | 著書について
                    

 ホイッ! Sabiaさんからも掛け声がかかりました。客席からの声は、役者を乗せますね。そもそも純イメージ世界に生きることが多い鹿嶋です。瞬く間に東銀座は歌舞伎座前に心が飛んでいました。

 入ると舞台には松本幸四郎。花道脇に陣取った鹿嶋は「高麗屋!」と声をかけている。と、なんと、幸四郎の顔が鹿嶋に似てきたではありませんか。そして、何時の間にやら舞台に鹿嶋春平太。客席から声、「鹿嶋屋!」・・・あぁ~いい気持ち。正月も近いことだし、まあいいか。大見得切って話を続けるぞ。

<光あれ、で光が出るって?>

聖書を開くと語るべき聖句は最初から出てきました。創世記の冒頭部分に~

    「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光が出来た。」(創世記、)1章3節)

~~とあります。これはなんじゃ? まあ、神が光りあれ、と命じたら、光が出来た、という、それだけのことと読み流すことも出来そうです。けれども、そんなことどうして神様に出来るの?という疑問を持つことだって出来るわけですね。そして、この「どうして・・・なの?」という思いを持ったときにはすでに、解読の必要が浮上しています。
(教理主義はこの願望を圧殺するのです)


                    

<創主の言葉は現実を従わせる>

そして、そこはかとなく理由を考える中で「もしかしたら、創造主が言葉を発すると、現実の物質はそれに従うというのが聖句に秘められた奥義ではないか」というのも出てくるわけですね。で、他のところを当たってみると、ほとんど「創主が・・・と仰せられた」、つまり、言葉を発したということがわざわざ記されているんですね。

                    


 だったらイエスはどうなんだ? イエスは創造主の子、というのが聖書が提示する主張です。羊の子が羊であるように、創主の子も又創造主となるでしょう。で、イエスが不思議をなす場面を洗い出してみると、なんとここでもイエスはほとんど言葉を発してそれをなしているではありませんか。「立って歩け!」「見えるようになれ!」「起きよ(生き返れ)!」等々・・・。

 ウヮァッ! ビックリしたなぁ、もう・・・。聖書って過去の出来事を軽いタッチで記録してるだけかと思ったら、個々の聖句にこんな論理が埋め込まれているとは・・。これは書こう、書こう。

                    


 ・・・けど、間違いだったらどうしょう? どうってことないさ、解読に絶対の正解なんてないんだから。また、新たな方向が見えてきたら、そのとき書けばいいんだから・・・。そもそも聖句主義を理屈抜きでやってみせるのが目的だったんだから。「へ~え、こんな風に読んだっていいのか、聖書って」となればいい。こういう雰囲気が伝われば成功としよう。

 鹿嶋にも不安はありました。ここぞとばかりに異端!と叫ぶ牧師さんの顔も浮かんだしね。でもこうやって自分を言いくるめて第一章が出来上がっていきました。ホントにいい加減だったんだ、今思えば。

(続きます) 

                    



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『誰もが聖書を』2~事例を作ってしまおう~

2006年12月25日 | 著書について
                    

聖句主義を導入するに最も標準的な方法は、その方法論を述べることからはいる行き方でしょう。でも日本には聖句主義はまだ入っていませんので、聖句を自由に解読しているという事例がありません。事例がなければ、一般論として方法を理屈で述べても、見覚えのある事例を提示して説明することは出来ません。それではわかってもらえない。

 さてどうしようか、と思案した結果、方策は割合簡単に出ました。それは「ならば事例を直接造ってしまおう」というものです。余計な理屈をぐだぐだ言ってないで、実際の聖句を自由に解読してお見せしよう。年配の方ならご存じの広告キャッチフレーズ「男は黙って**ビール」でいこうと決めました。


                    


<聖書のはじめから>

 では、どのあたりの聖句を解読するか。こういう機会は少ないだろうから、将来のために福音の神髄を述べている「ヨハネ伝」の聖句解読をこの機に活字にしてしまおう、という案も浮かびました。だが、それではあんまり先に「進みすぎ」になります。いくら好きなように書いていいといっても、読んでみようと思う人が少なくなりすぎては、後に問題になるでしょう。売れ残りが多量に出ると、出版社に大損をかけることになるのです。

 やはり、聖書をあまり読んだことのない人でも、容易にフォローできる聖句であることが必要だ。だったら、聖書の冒頭からやるのはどうか。創世記の1章1節から解読してみる。これなら初心者でも、初めから解説しいるようなので、としばしつきあってみようかなと思ってくれる可能性が出る。こうして聖書の冒頭から、切りのいい6章あたりまでをめざして順に解読していくことにしました。

 旧訳は新約の影絵、というのが鹿嶋のこの書物に対する構造把握です。それからすると、本になるほど書くことあるかな、という感じもありました。しかし、やってみると、結構語ることが出てきました。

(続きます)

                    

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「誰もが聖書を読むために」1

2006年12月24日 | 著書について
~~笹身(sasami)さんのコメントに触発されて、昔のことを少し書いてみますね。
気持ちの流れるままに。

                    

<次は好きなことを・・>

 「次は好きなこと書いて下さい」と編集のSさんに言われたとき、一瞬狐につままれたような気分になりました。

 最初の本『聖書の論理が世界を動かす』の品動きがよくなかったら、あり得ない言葉とは頭ではわかりましたが、それが現実になると不思議な気分に襲われました。

 私は、「誰もが」で書いたようなことを、日本の出版社が本にしてくれることは、もっとズ~と先のことだろうと漠然と思っていました。あの本で私がトライしたのは「日本への聖句主義の導入」だったのですから。


                    

 日本に、キリスト教は入っています。でも、まだ教理主義のキリスト教だけが入った段階なのです。戦国時代の昔、ザビエルがカトリック教団の教えを導入しました。だが、カトリックは教理主義の本家本元のような教団で、彼が入れたのもまさにそれでした。

 明治維新になって、ヘボン博士がプロテスタントのキリスト教を導入しました。だが、彼はニューヨークの長老派教会から派遣された宣教師で、この教派もまた筋金入りの教理主義教派でした。

 少し遅れて、バプティスト派も宣教師を送ってきましたが、その人々も、敢えて言えば「無自覚な聖句主義者」でした。魚は水の外に出されて、初めて自分が水というものの中で育ってきたと知る、といいます。彼等は、聖句主義のやり方で育ってきてはいるのですが、それを一つの方法論として自覚することはなく、ただ、それをしてきたという人でした(今も、状況はあまり変わっておりません)。だから、日本人に聖句主義の行き方を教えることはほとんど出来なかったのです。

 そういう人々が、先行的に出来上がった教理主義の土壌の日本で活動するのですから、結局教理主義と大差ないようなものになっていきました。執筆当時もそのままでした。

                    

 そういうところに、聖句主義の行き方を導入しようとしても、キリスト教関係の出版社だって、著者が何を言ってるか、理解できないです。ましてや、新潮社のようなエスタブリッシュされた一般出版会社が、こんな原稿見たら、相手にしてもらえない、と思う外ありませんでした。

 最初の作の『聖書の論理が・・』は、世界を主導している西欧社会は、実は聖書の論理で動いているのですよ、と示したものでした。これなら日本人にもわかる人が出るでしょうと。実際、企業の人とか、政府官庁の方々に受け入れられました。その方面から講演の依頼も来ました。

 しかし、聖句主義の導入なんて、実業界の人も、政府の人も、まず興味がないわけです。キリスト教の考え方が日本にどういう影響を及ぼすかは知りたくても、キリスト教運動の内容がどう分かれ、どうなってかなんて、どうでもいいんですね。こういうキリスト教があるよとか、聖書の扱い方があるよと書いたって日本人には無理だ。こういうのを本にしてくれるのは、まだまだ、ズ~と先だろうなぁ、と思っていました。

                    

 そこにSさんの、上記の言葉。私は、こんなことを書きたいのですが・・・と、恐る恐る小さな声で口に出してみました。

「いいですよ」

 sさんの唇がそう動いたとき、私は、この世では人間の予測をこえたことが起きるのも有りなのかなぁ・・とこみ上げるものを感じました。

(続きます)

                    
                    


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.24 洞察家の教会と憎悪

2006年12月19日 | “エホバ”の奥義
                    
 
 前回、洞察家の洞察は、教会では通用しない、という主旨のことを申しました。
しかし、これでは夢も希望もない、と感じられる方もおられるでしょう。
洞察に価値を認める方ですね。

 この方々に、追記しましょう。前回の話は一般論です。例外もあります。
洞察家は少数派ですから、彼の「深読み」に賛同する人は少ないです。
しかし、それでも彼が「この指とまれ」と手を挙げたら、とまりにくる人もいます。
少数ですけれど。これで小さな教会が出来ることはあります。


                    

 さらに、例外があります。それはこういう教会に癒しなどの「しるし」が現れたときに起きます。
指導者の「深読み」が聖書に約束された不思議につながることもあるのです。
そうすると小集団はブレークします。
しるしが彼の解読を正しいと信頼させるのですね。で、突然多数の人がその「解読」を聞きたくて参加してきます。

 かつてのオーラルロバーツさんの教会がそうでしたし、今のベニーヒンのフロリダにある教会もそうでしょう。
ベニーのこの教会の会員数はジャスト8000人といいます。
少ないようですが、これ以上は教会員として面倒みられないので、これで止めていると聞いています。
後はクルセードにどうぞ、ということでしょうか。

 この精鋭8000人が、ベニーやその家族の生活を支えているそうです。
で、彼が行っている「癒しのクルセード」活動は、別の財団として行われているようです。
母教会が彼の生活を支えるので、クルセードの活動は純粋に伝道活動として、ベニーは思い切って出来るわけですね。
ベニーがここで行う説教は一部テレビでも見られますが、彼独特の「深読み」がどんどん出てきます。


                    

 しかし、彼の活動が全世界的にテレビ報知されるようになっていながらも、
彼を非難する人々の方が福音世界全体からしたら、圧倒的に多数派です。
そもそも、聖句を自由に探求していい、という立場で活動する教会が少ないですから。
バプティスト派とメノナイト派、それにペンテコステ派くらいではないでしょうか。
あとは、教団からの統一解釈(教理)を信徒に与え、信徒はそれに従うという方式の教会ばかりです。

 その類の教会では、教会本部から天下された解釈と異なった解釈は、
自動的にみんな「異端」ということになります。

 その一つである教会~~カルヴァン派の教会ですが~~の牧師さんなどでは、
「オーラルロバーツ、ベニーヒンなどはもう異端もいいところ」となります。若い牧師はボロクソに言っています。
またこの教派の退役牧師さんの会に出させていただいた時に、
ベニーヒンに対してほとんど憎悪している人々の声を聞きました。

 でも、その方々も、いい人なんですよ。親切で・・・。春平太など、本当にお世話になりました。
・・・これが「世」なんですね。
「人間話せばわかる」なんて大嘘、と述べた「**の壁」という新書本が日本でもベストセラーになりましたが、
本質を突いているからでしょうね。

 教理主義の教会だけではありません。
かのバプティスト派の教会信徒さんだって、春平太の知るところでは大半はベニーを「異端」と位置づけていました。
聖句主義からは異端という言葉は出てこないんですけどね、本来。
ともあれかくのごとくに全体からしたら、オーラルロバーツ、ベニーヒンは相変わらず少数派です。

(前にも書きましたけれど、ベニーヒンの説教を全部コレクションして、
聖書と適合していない箇所を調べあげる研究所まであるそうです。
カリフォルニアにあると、電話番号まで教えてくれた人がいました。
訪問してませんけど、電話番号まで教えてくれるところからすると、本当でしょうね。
でも、暇な人々もいるもんですね。そんなヒマとお金があったら、他のことに注げばいいのに・・。
でもこの人たちは、真剣で、使命感に燃えてやってるんでしょうね)

 世界にはいたるところに「**の壁」あり。こういう構造で世の中というのはなんとか回ってきているんですね。
これからもそういくものでしょうか。あるいは、ある時破綻が来るのでしょうか。
春平太程度の知恵をはるか超えた問題のようです。



                    




コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.23 「奥義」を扱う知恵

2006年12月17日 | “エホバ”の奥義

~~本稿は、2006年4月22日の記事「聖書には総論と奥義が併存」と合わせて読むとよろしいようです~~


                    

 「エホバの奥義」の本論は、大体前回までですが、すこしアフターケアをしておきましょう。
 それは「奥義」というものを扱う知恵についてのことです。

 ここで「表義」という語を作って、定義しましょう。その意味するところは「表面に現れやすい意味」です。表義という語は辞書にはないと思いますが、造語として使いましょう。読み方は「ひょうぎ」としましょう。
 するとこれは奥義の反対語になります。「奥義」は文字通り、奥にある意味、奥に秘められた意味、です。こちらは「おくぎ」です。

                    

<表義、奥義の出現は必然>

人間社会では物事には表義と奥義が必ずと言っていいほど現れます。
 聖書の解釈はその超代表でしょう。この書物は、他に類例を見ないほど内容が深淵広大だからです。人類社会がこれから後何千年つづくかわかりませんが、もうこんな書物は出現しないのではないか~~個人的にはこう思っています。

だから、様々な解釈が成り立ちます。そのうち、字面(じづら)から容易に出来上がる解釈は表義になり、踏み込んで考えてはじめて見えてくるようなものは奥義の位置に来ることが多いです。

                    

 
<洞察力には差がある>

人間の側からの理由もあります。それは洞察力には人によって差があるということです。その差が素質から生じるか、あるいは、その後の教育・訓練から産まれるのか、おそらくその両方でしょうが、とにかく差があります。
 
 洞察という言葉の「洞」は洞穴(ほらあな)を示しています。察は「くわしくしらべること」「おしはかること」という意味をもっています。ですから「洞察」は洞穴をのぞいて中をおしはかるということになるでしょう。いずれにせよ、表に出ているものを簡単に認識するのとはちがうわけです。

 英語ではそれを「インサイト」といいます。「イン」は内側、中の方を意味しますし、「サイト」は見ること、視界、景色などを意味している。やはり「内側のものを見る」ということですね。

聖書の論理構造をみる、などというのは、まさに洞察ですね。家の柱や梁と同じで、構造は表の字面(じづら)には現れていませんから。 

                     

<洞察家は常に少数派>

 そして、人類社会ではこの洞察力に恵まれている人は、いつも少数派です。ある時代にそうなるのではなく、歴史的にいつの時代にも洞察家は少数派、というのが春平太の認識です。

 どれくらい少数派か。経済学などの社会科学の学界の学者さんについてみますと、ホンモノの洞察家は千人に一人という感じです。準ホンモノとなったらもう少しいるでしょうけどね。学者さんでそうですから、全社会に目を広げてみたら1万人に一人といったところではないでしょうか。経営でいったら、京セラの稲盛さんのような方ですね。

 これはいい悪いとは関係なく、事実です。実は、春平太はこの現実に非常な関心を持っています。もし、将来、天の創主王国に行かれて創造主にまみえられたら、とにかく次のような質問はなんとしてもしたく思っています。「人類がこういう比率になるようにお創りになったのは何故だったのですか?」と。春平太にはこの構造はそれほど疑問の的です。

                    


<教会とは表義でやっていくところ>

 今述べたことが、教会の性質を決めています。教会と言うところは多くの人が集まるところです。ですからそこでは奥義ではやって行かれないのです。

 奥義が正しいとしても、そんな話は多数者はわかりません。やったら人が集まりません。だから、表義的な神学でやっていくところとなります。


                    

<教会員としての知恵>

 かといって、奥義をつかんでいる人は、教会に行かれないというわけではありません。奥義とは上記のようなものですから、やたら表に出すものではないと悟っていたらいいのです。

 鹿嶋は米国南部の教会でそういう人を見ました。アラバマ州にあるフィラデルフィア・バプティストチャーチという教会のスモールグループに参加していたときのことです。
 ここでやはり旧約の主(ロードですね)から出た言葉が、創主の言葉としては少しおかしいのではないか、ということが議論になりました。色んな見解が出ました。その中で、特に問題ないと思うと自説を述べた後「この主は、自分は天使じゃないかと見ているから・・・」とちらっと付け加えて話を終えた男性がいました。彼はそれ以上語りませんでした。

 バイブルスタディが終わった後、廊下で彼に近寄って話しかけてみました。「あの話面白かったよ。もう少し聞きたかったよ」 彼はぼそっと応えました。「いや、こういうところで言うべきでないことさ・・」

 さすがサザンだなあ・・・、と感銘した事象でした。サザンバプティストは奥が深いです。聖書探求に関しては底知れない深さを持った少数者がいます。
 でも全ての教会がそうというのではありません。この教会は聖書探求を学術的に行うので、それを知って他教会から移ってくる年配者も少なくないという特殊な教会でした。水曜日夕にシニア担当牧者が行う聖書講義と討議など、鹿嶋が経験した神学大学院での講座以上ではないかと思うほどでした。

 だがそういう教会でも、高校、大学生など若いメンバーもたくさんいます。シニアメンバーだって、洞察家はすくないです。教会では表義で交わっていく、と心する。そう悟れば、教会生活を送ることは可能なんですね。

                    

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.22 「新約優位」の構造を持った本

2006年12月11日 | “エホバ”の奥義
                    


 そろそろまとめに入ります。

 エホバが何者か、は単なる知的興味を満たす問題ではありません。それは新約聖書と旧訳聖書との関係をどうみるか、に密接に関連しています。

<父の言葉がすでにあるのに>

 イエスは「自分の言葉は父(創造主)が語れと命じられている言葉だ」という主旨を述べています(ヨハネによる福音書、12章49節)。
 キリスト教はイエスの言葉に究極の信頼を置くものですので、これは文句なく受け入れるべきです。するとイエスの言葉が、創造主の言葉だということになります。

 そしてもしエホバが父なる創造主であるならば、彼から出た言葉は創主の言葉であって、それは旧訳聖書にすでに記されています。であるならば、後にイエスがあらわれて、また、父の命じる言葉を述べるというのはおかしな話になるでしょう。

                    

<旧約と新約の関係に>

 実際には、エホバから出た言葉には、イエスの言葉と必ずしも主旨が一致しないところがあります。私たちはこれまで、それを見てきました。それを考えていくと、われわれは新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題に到ります。そしてそれはとりもなおさず、新約聖書と旧訳聖書との関係はどうかという問題にもなるのです。 

だが、その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。

 「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネによる福音書、5章39節)

イエスは旧訳聖書という書物は、「わたしのことを記している」といっているのです。ところがこの書物にはイエスという名前は見あたりません。「イエスのイの字もでてこない」と表現することも出来るくらいです。

 にもかかわらず、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で比喩的に述べているということにしかならないでしょう。旧訳聖書の読み方はそういう風に読むのが唯一の正しい方法だということになります。

                    

<新約優位の構造>

 またそれは、聖書は構造的に読むものだ、と言うことをも示唆しています。そしてその構造を一口で言えば「新約優位」となるでしょう。旧訳聖書が新約に描かれたイエスのことを証言しているというのならば、そういうことになるでしょう。そうです。聖書というのは、「新約優位」の構造を持った本なのです。

 すると、新約と一見矛盾するようなことを言っていても、旧約は間違っているのではない。真理(イエス)の影をたとえでもって述べている。こういうことになります。

 昔、幻灯機というのがありました。幼少時にそれに手をかざして犬やウサギの形を作って遊んだ記憶をお持ちの方はわかるでしょうね。イエスの言葉に従って読めば、旧約はその影絵となるのです。

 ただし、それが影絵であるということは、真理(イエス)が現れるまではわかりません。現れることによって、「エホバがその影絵を示す仕事をしていたのだなぁ」とわかる。イエスが「あのうさぎは実は影絵なんだよ。ホンモノは人の手なんだよ」と明かす。そういう構造になっています。

 真理とは霊に関することです。罪の真理も、霊に関することです。旧約で祝福として示される物的豊かさと健康は、霊の豊かさ、霊の健康をという真の祝福を示唆する影となる。旧約は物的富と健康でもって霊の祝福状態を影絵でもって示していることの多い書物。こういうことになります。

                    

<神様と思ってもいいが・・・>

 エホバはそういう性格の言葉を、人間(ユダヤ人)に語っていたことになります。そしてもしこれが高位な天使であったとしても、これを神様(創造主)と思っても、全く間違いということは出来ません。

 また、初心者はそれでいいのです。天使であっても創主として人間に臨んでいるわけですから、人間は臨まれたままにそのまま受け入れても完全な間違いではないでしょう。

 実際、ユダヤ人たちはそうしてきました。のみならずいまでも、ユダヤ教ではそうやっています。

しかし、クリスチャンにはそれは若干の危険を含んでいます。

イエスは「父は私より偉大だ」と言っています(ヨハネによる福音書、14章28節)。
これを「エホバは万物の創造主で、旧約にはイエスの父の創造主が現れている」という判断につなげるとどうなるでしょう。

その人は、イエスよりもむしろエホバの方に真理を求めていくことになるでしょう。
そうやってきまじめな人は誠実に、どんどんと、エホバの言葉を究極の真理として吸収していきがちです。そうなったらどうなるでしょうか。

 答えは、明快です。「その場合はこうなる」ということを身をもって示してくれている人々が実在していますから。「エホバの**」がそれです。彼らが配布していく小冊子では、イエスの影は薄いです。

 でもこの人たちは、本当にきまじめな人なのです。論理思考を徹底させる真面目な人達なのです。しかし、大局観がつかめなかった。つかまないままで、どんどんと小局の深みに入っていくことになりました。


 鹿嶋はまず、それに陥っていく人を出さない為に、この「エホバの奥義」を書きました。

                    

<大多数にはまあ危険はなさそう>

 しかし、大多数のクリスチャンには、そういう危険は少なそうなこともわかってきました。彼らは概して論理的にあまり詰めないようなのです。で、新約も正しいが、旧約も正しい、として両者をべったりと読んでいます。そして、イエスの言っていることと矛盾する聖句に突き当たると、そうなったところで「もう~、わかんなくなちゃった・・・」などといって思考を止めてしまいます。

 あるいは旧約の神が「私はねたむ神」といっているのを読むと「神様がねたむなんて一寸何か変だなあ」と思います。だがすぐに「聖書は神様の言葉で、人間にはわからないところがあるのは当たり前だから・・・」と思考を止めてしまう。

 彼らはこういう「論理的いいけげんさ」によって上記の危険を結果的に避けることができているように思えます。

 これも一つの知恵かも知れません。本能的な知恵。そういう人々は、どのみち危険は少ないですから、エホバは神様、とやっていてもいい。まずはどうでも好きなようにやっていていいようです。

                    

 しかし、微妙な点ではやはり欠陥は生じます。それを示すのが、このシリーズを書いたもう一つの動機です。

 今述べましたように旧約は直接的には、物的富と健康でもって創主の祝福を示す本です。それからストレートに知恵を学ぼうとすると、その知恵は、物的富と健康を得るための、その面での祝福を得るためのものになります。

 端的に言えば、現世での処世の知恵ですね。それに気づかないのは、それを神様からの知恵だとして、権威付けして読んでるからでしょう。処世の知恵を神の知恵として随喜して読み、議論している。結果的にそうなってしまうのです。春平太はその例を日常的に見ています。

(ニッポンキリスト教はそればっかりです。大体それで生涯を送ります)

 そのどこが欠陥かと言いますと、霊の論理の探求に意識が向かわないままで生涯を送ることになる点です。

                    

 それでもいいじゃないか、という人もいるでしょう。それだってイエスへの信頼、聖書という書物への信頼はあるんだから、救いは受けるんでしょう、と。

 信頼ねえ~。漠然としたものでしょけどね。まあ、概して言えばそうだとしておきましょう。それを鹿嶋はあえて否定するまではいたしません。

 しかし、こういう世界にいる人は、聖霊は受けられないでしょうね。聖霊のバプティスマの体験は、まず、得られない。この不思議、この奥義は、霊界の法則を知りたいと渇望して聖書に向かい続ける人だけが体験する可能性を持つからです。

 そして、これを受けない人は、福音の門の内側には足を踏み入れない。門の前で、門前ならし、門前踊りをして一般人への伝道に貢献し続けることになるでしょう。

 これもいいですよ。これもいいんですけどね。ほとんどがこればっかりというんではね。パワーがないんだよね・・・。


                     
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.21 「人間と比較しつつ天使を(17)~~霊的真理の直接提示は託されていない~~」

2006年12月09日 | “エホバ”の奥義
                                     

前回、聖書における罪の概念は三層構造になっていることを示しました。
そうだと直接書かれているのではなく、聖句を眺めていると、そうなっていることが浮上するのですね。
それをインサイト(洞察)するのが解読です。
こういう知的作業を怖がっていたら、解読などというのは成り立ちません。

さて前回は「行いの罪」「思いの罪」に関して述べている聖句を示しました。
そして「原罪」が残りました。

この概念を直接示す聖句は聖書には現れてないいように思います。
原罪という用語も春平太は見たことがないです。どうもこれは神学用語らしいです。

 聖句で直接示されている罪とは別に、その源になっている罪、という観念は間違いなく聖書にあるようなのですね。
アダムとイブが知恵の実を食べたことによって生じた「何か」がある。
それが源になって様々な罪を生じさせた罪というものがあるはずだ。
こういういう風に聖書の論理構造を追うのが神学(theology)です。
そしてその観念に原罪という言葉を神学は作ってあげたようです。

                    

<祝福の内容がちがう>

 さて今回は、罪全般と祝福についてです。
それらの観念が、旧約と新約とではすこし違っているようです。
たとえば「出エジプト記」20章で、エホバは十戒を与えます。
これを守るべき律法として、人々(ユダヤ人)に与えます。
守らないのが罪だと罪を教えます。

そして守った場合はエホバは祝福を与えるという。
それをこう記しています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「私を愛し、わたしの命令を守るものには、恵みを千代(せんだい)にまで施す」(出エジプト記、20章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この「千代にまで」ほどこす「恵み」は物質的恵みでしょうね。具体的には肉体の健康と物的な富でしょう。
霊的な恵みではない。
霊に受ける霊的な恵みは千代(せんだい)を構成する各人ひとりびとりが信頼心(信仰)によって勝ち取るものです。
先祖の功績で自動的に子孫に与えられるものではありません。

                    

ところがイエスになると、祝福の観念が変わってくるんですね。
彼は~~

 「悲しむものは幸いです。・・・」(マタイによる福音書、5章4節)

  ~~なんてことを言い出します。
悲しむのは物的、健康的な祝福がないから悲しむのですね。
これはエホバにおいては、「よくないもの」です。祝福でなく呪いを受けている状態です。
 
 ところがイエスはこれを幸いだという。
こういうことは、この悲しみが契機になって別の恵みを得られる場合にしか言えないことでしょう。
で、物的、健康的な悲しみとは別の次元での恵みといったら、聖書の思想ではもう霊の恵みしかないですよね。

 そして本物の恵みとは、実はこの霊の恵みだったということが、後にイエスによって明かされます。
こういう枠組みから診ると、エホバには霊に関する真理を人間に直接的に提示することは
託されていなかった、といえそうです。

                    


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.20 「人間と比較しつつ天使を(16)~~「行いの罪」の提示だけが託されていた~~

2006年12月04日 | “エホバ”の奥義
~~図は「罪が三重の構造を持っていること」を示すもの~~
     (出所:鹿嶋春平太『聖書のことがよくわかる本』中経出版)  



                    

 エホバは十戒をモーセに与えることによって、「罪」というものをユダヤ人に導入しました。
しかし、それは「罪」の全てではなく、部分的、表層的なものです。
内容的、本質的なものを提示することは託されていませんでした。
今回は、それを考えましょう。

(これまでに春平太は、罪を許す権限について考えました。エホバにはその権限は託されていないだろう、と申しました。本日のところはそれにも関連しています。その詳細は、別に機会があれば述べたく思っています)

                    


<「罪」は多義的な概念>
 
 聖書での罪の概念は、複雑になっているのです。
図式的に考えますと、それは、三重構造になっているように思われます。
(図を参照してください)

 総合的に見ますと聖書では罪と言っても、3つの意味が使い分けられています。
図の一番奥にあるのが、原罪です。
これは創造主から意識をそらすことでもって、いのちエネルギーが十分に霊に吸収されなくなっていることです。
アダムとイブが悪魔の誘惑に載せられて、創主が食べてはならないと命じていた知恵の木の実を食べることによってなされました。
こうして霊のいのちエネルギー充電度が不完全化しました。

そうすると、霊は人の思い(意識)の源ですから、不完全な思いが生じてきます。
不完全、つまり、創造主の意識と協和しないような思いが混じって出てくるようになるのですね。これは創主から見て「よからぬ思い」です。
これが第二層の「思いの罪」です。

創主から見て「よからぬ思い」が心に生じるようになりますと、そのあるものが行動に現れてしまいます。
注意、反省はしていても、気を許すと行動に繋がってしまう。
これが「行いの罪」です。

                    

<原罪>

 この構造から、「原罪」(oroginal sin)という言葉の意味も浮かび上がってきます。
 これは「思いの罪」「行いの罪」の源になっています。
その意味で原罪なのです。

 もう一つは時間的に見ての意味です。
アダムとイブが犯した罪は、全ての罪の歴史的な出発点になっています。
その意味でもオリジナルな罪なのです。

                                        

<十戒が戒める罪は>

 このように罪は複数の意味を持っています。
すると、「罪を許す」という場合も、その各々について考えることが出来ることになるでしょう。
が、それは後の課題として、ここでは、エホバがモーセに教えた罪(旧訳聖書での罪)を見直してみましょう。
旧訳の罪は、詳細に言えば、「律法書」と言われている書物に記されている全ての罪です。
けれども、代表的にはシナイ山でモーセに与えた「十戒」(10の戒め)に反することです。

そこでこの10の戒めを眺めてみますと、ほとんど全てが、「行い」に関して戒めていることがわかります。
ただ一つ、最後の10番目の「他人のものを欲しがるな」というのが、「思い」を戒めているようです。
が、これとて、「他人のものに手を出すな」という行為への戒めにまたがったようなニュアンスを感じることが出来ます。

 このことからわかりますように、エホバが戒めているのは、「行いの罪」にほとんど集中しています。

                    


<律法を完全な形で与える人はイエス>

では、他の罪はどのようにして聖書に現れるか。まず「思いの罪」、これはイエスが直接言葉で語る形で現れています。 「女を見て、姦淫の情を抱けば罪を犯したことになる」という主旨の教えをイエスはしています(マタイによる福音書、5章27~28節)。これによって我々は(新約時代の)、罪には「思いに関するものもある」ということを学ぶわけです。


 イエスはこれを、旧訳聖書だけを学んできたユダヤ人に言っています。彼はまたそのとき「私はこの世に律法を・・・・・・完全化しに来たのだ」とも言っています(マタイによる福音書、5章17節)。ということは、従来のものは不完全だったということになりますよね。

 要するに、従来ユダヤ人たちは、罪と言えば「行いの罪」だと学んできたワケです。そういうユダヤ人たちに、イエスは新しく「思いの罪」を導入した。そしてこれが「律法を完全化すること」だというのですから、従来のものは不完全だったという道理です。

 それによって、エホバには「行いの罪」だけを人間に教えることが託されていた、ということが浮上してきます。
イエスはそういう自分を「私が道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネによる福音書、14章6節)といっています。「私が真理である」というのは、わたしがこれまでたとえでもって影絵のようなものとしてしか示されてこなかった真理を明るみに出すのだ、という意味をも持っているわけです。

                    

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする