~~大晦日ですね。時の流れは速いですね。ついこの間、紅白歌合戦が終わったと思っていたのに、また始まります。鹿嶋が元気でブログが書ける時も、少なくなっているような気がして、少し寂しい思いです。
<集中力をもう少し>
年の終わりに、前回のべた「知力=集中力」について、若干補足しておきますね。
子供のころ、凸レンズで紙を燃やす実験をした方は多いのではないかと思います。冬の柔らかな日差しは肌に心地よいです。だが、こんな暖かな日差しでも、レンズで一点にあつめると、新聞紙が発火するのですね。
これは簡単にできるし、理科の実験なんかでみんながやるので、何でもないような気持になりますが、改めて思うに、驚くべきことであります。あの日差しが紙を燃やすなんて・・・。
人の知的、精神的エネルギーも同様ではないでしょうか。総量は知れていても、ひごろ穏やかな形で認識対象に照射しているエネルギーでも、ひとたびそれを一点に絞って集中的に注ぎ続けると、すごい認識力を発揮するのですね。
<論文「読めない」の構造>
子供の知力も、結局は、その集中力によるのではないでしょうか。学校の勉強ができない子がいます。その子は、小学校の授業のあるとき、なんかの拍子で先生の話に焦点が合わなかった。で、先生の話が自分の頭と噛み合わず、声だけが空回りした。
そして、そういう事態がだんだん多くなって、授業中、わからないままで何年も暮らす結果になった。そうしているうちに「わかる」「わからない」の感覚の区別もできなくなる。
すると心を動かされる知識がなにもなくなるから、授業中も感嘆、感動がゼロのまま。もう精神エネルギーは開いた出口からボ~と力なく流れ出るだけ。それが普通の状態になってしまう。勉強のできない子というのは、それだけのことではないでしょうか。
鹿嶋は、その仮説の元に、「論文調の文が読めない子」というかな、そういう学生さんたちに、あるトレーニングを実験したことがあります。結果は、なんと、彼らが徐々に「読める子」になっていきました。ここにその内容を書く余裕はありませんが、とにかく、読解力が回復していった。それで上記の仮説は実証されたという気持になっています。
<集中力育成の最大の教師は「飢え」と「死」の環境>
上記の実験内容よりも、もう一歩下がって、集中力一般を回復する手だてについて考えておきましょう。まず、それには、環境の関与するところが大きいです。食欲における「飢え」とか、生命の存続への危機感、こういうものに幼いときや若いときに襲われる環境に恵まれると、否応なく集中力は養われます。日本のいわゆる戦中派の人々、今の70才~85才くらいの人々は、それに恵まれた世代ですね。
日本の戦前は、一部の特権階級を除けば、みな貧しかった。日中戦争が始まってからは、飢えの中で、日々を送りました。長じて青春時代になると、赤紙一枚で徴兵され戦地で死に直面させられる、多くの場合そのまま死ぬ、という状態に置かれました。
腹が減って食べるものがない、という状態は、その人の精神を飢えを満たすことに激しく集中させますよ。このドライブは、人為的な教育によるものの何百倍、何千倍の力を持ちます。だから、戦中派の人々は異例な集中力を身につけているのです。
死への直面もそうですよ。戦中派の青年たちは、いつ来るかわからない赤紙に脅え、人間とは、民族とは、自分とは、死とは、と激しく問わざるを得なかった。奈良とか京都に旅して、日本のルーツに自分を見出そうとした人も多かったようです。これも人為教育の何千倍もの集中力ドライブ。
さらに終戦後は食べ物がなく、いつも腹を空かしていた日々だったといいます。生き残った人には、なんと恵まれた集中力訓練環境だったことか。
<政木和三さんのシーター波>
しかし、戦後の経済成長の結果、また、平和国家実現の結果、日本ではそういうドライブはなくなりました。この環境の中でいかに集中力を養うか、付けるか、は実は今後の国家運営の根幹仮題です。
いま、教育改革などといって安倍内閣はやっておりますが、この問題は上記の集中力育成から考えていかないと、空回りします。ダメ教師を辞めさす制度作りなど(これも大いに必要なのですが)表層的なことです。おそらく今のままでは、大きな成果は出ないでしょう。
飽食と平和の中で、一般の日本若者に、さらには日本人にどうやって集中力を養うか。
最近なくなられましたが、政木和三(かずみ)という発明家、思想家がおられます。この方の話は参考になります。
政木氏は、人の認識力は詰まるところ、脳波を下げることによって得られる、と述べて行かれました。ベーター波は、いわゆる俗世の雑事にかかわる時のいらいら状態の脳波。アルファアー波は、それより一段低下した静で穏やかな波動。この脳波の名前は、我々は見聞きしていますよね。
しかし政木氏は、もう一つ低い波動、シーター波に脳波を持って行くことが鍵だと考えます。ここに来ると、通常認知できない微細な事物も、認識できてしまうのだと。
この方は自然科学者ですから、次のようなたとえで説明しています。磁気録音テープがありますね。カセットに入っている通常のテープです。これにある音を録音し、その上に別の音を録音すると、前のものは消えますよね。それを繰り返しても同様なことが起きます。で何回もそれを繰り返した後、最後に録音した音も無音状態で録音して消してしまいます。
次に、そうして、なにも聞こえないテープを、音を何万倍も増幅する装置にかけます。すると、前に録音した音は、すべて残っていて聞かれるそうです。
人の記憶も、そういう風になっている。忘れて、認知できないと思っている過去の記憶も、実は微細な認知が可能になれば、みんな認識できるのだ(前世の記憶だってそうだ、と政木博士は言います)。そして、そういう状態に人の精神がなったときの脳波がシーター波なのだと。鹿嶋が考えてきた集中力が働いている状態とは、この脳波の状態だったかも知れません。
<シーター波は深くゆっくりの呼吸で>
で、そんな楽しい状態に脳波を持って行くには、政木先生のような方でないとできないでしょうね、というと、そうではない、とおっしゃる。だれでもできる、と。
「えっ? どうやって?」
その答えは「ゆっくり深く長い呼吸をすること」だと言われるんですね。具体的には、「20秒はいて、20秒止めて、20秒吸って、また20秒止めて・・」と繰り返す。それを一日に機会ある毎に繰り返せば、脳波をシーター波レベルに持って行くことが、誰にでも可能、と言い残しておかれました。
こういうことを聞くと、ひらめきのあるクリスチャンの方は、「ああ、その状態は一種の瞑想状態だ。我々が深く長く祈っているときもそうかもしれない。脳波はシーター波になっているのかも・・・」と連想されるかも知れませんね。
実際そうかも知れません。長い祈りの人でもあるベニーヒン牧師が、「癒しのクルセード」の最中に聖霊の意図を感知したり、天使の動きをキャッチしたりするという秘密も、案外、脳波がそのシーター波状態になっている時のことにあるかもしれませんね。
しかし、政木博士はそういうことはいいません。祈りとかいうと、「ウワァ~、宗教だ!」と浮き足立ってしまう病状に、依然として多くのニッポン人はありますからね(一体、何時になったら治るんでしょうかね)。政木先生はそうでない。無色透明、人畜無害な呼吸法のレベルで話をされます。だから、熱烈なファンを結構お持ちだったんでしょうね。ニッポン人は難しいですね。
<勉強のできる家庭、できない家庭>
がともあれ、政木理論を更に展開しますと、子供の勉強をできるようにする家庭の脳波環境などということも考えられるかも知れませんね。家庭に流れる波動を、シーター波に近く持って行く。そうすれば、子供は教科書の奥にある微細なことまでをも認知し、どんどん知恵を高めていくのではないでしょうか。
逆に、ベーター波の状態で、いくら「勉強しろ、勉強しろ」と言ったって、ダメでしょうね。両親のけんかが絶えない家庭、親がいつもいらだっている家庭では、子供は勉強しようとしてもできないでしょうね。可哀想ですね。大人も考えなければいけませんね。
ところがその親も子供のころそういう環境で育ったりしていてね。自分の家庭で、何が問題かと言うことが、認識できないケースが多いんだよね。だから近所にいい教会が要るんでしょうね。
<洞察力もシーター波状態の産物?>
「エホバの奥義」のカテゴリーで述べた「洞察力」、これも、政木理論ではその内容が具体的になるかも知れませんね。聖句の奥義を洞察するとは、表に現れていないが微妙で重要な論理を推察することでしたよね。これなど、実は、祈って、あるいは深く長い呼吸をして、脳波をシーター波にもっていくことが、鍵だったのかも知れませんよ。
では、今年はこれで終わりです。
みなさま、いいお年を。