鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

『誰もが聖書を』8~序章を比較して~~

2007年01月02日 | 著書について
                
新年になりました。話を『誰もが聖書を』の序章に戻します。

                    

前作の『聖書の論理が世界を動かす』の序章は、編集のsさんの指示する項目の各々について鹿嶋が文章を作った、と申しました。この第二作でも序章は必要でしたが、今度は鹿嶋が自分で構成し文章化しました。それにsさんが注文をつけるという方法がとられました。今度は自分でさせて鹿嶋の序章作成力を育てようとされたのかもしれません。


 結果を前作と比べますと、やはり見劣りするように思います。前作では、文章が躍動していました。ぴょんぴょんと跳躍しています。対して二作目の序章は、ウオーキングしているという感じです。跳躍でなく、地をはっているというか。文章のキレが悪い。べたっとしている。リズム感が乏しいです。

                    

<序章はブリッジ>

 後に振り返ってみますと、sさんと鹿嶋とでは、序章というものの役割の見方が違うことに気づいてきました。sさんは、序章はブリッジだと割り切っておられるようでした。どういうことかというと~~

~~著者が述べようとしている本文は、聖書の思想、論理の話です。これ自体は、日本の一般読者の興味とは距離があります。で、そのままでは読者は本を手に取る気になりません。そこでそれと読者の興味あることがらとにつなぎを付けることが必要になります。端的に言えば、著者の関心と読者の興味との間にブリッジ(橋)を架けるわけですね。sさんにはそういう明確な役割認識が序章にあったように思われます。

 対して著者というのは、概してそう明確な位置付けをしていないことが多いのです。その状態で、自己の心情や、本論に到る思考過程を吐露したりするのに序章のスペースを使います。読者の興味とのつなぎも考えていないことはないのですが、それ一本という明確な割り切りがありません。これは今思うとアマチュアの感覚ですね。対してsさんはプロ。本作りのプロでした。

                    

<アマチュアのままで>

 これに気づくと同時に、sさんの「食いつきが・・・」という言葉の意味がわかりました。一作目の序章を作っている途中でこの言葉を聞いたとき、鹿嶋は「なんか一般読者を魚みたいにいうんだなぁ~。食いつきがわるい、なんて~」と漠然と思いました。そしてそれはず~と記憶に残ってきましたが、釈然としないままでした。それが、本作りのプロとアマチュアと言うことに気づいて、その意味がパラリとわかりました。いや~そうだったんだ、とね。

 でも、sさんは、それをわかってて二作目は赦してくれていたのでしょうね。それでいいから、やってみなさい、と。で、アマチュアのままで『誰もが聖書を』はやらせていただいたといまわかります。

 鹿嶋は、この機に言いたいことをできるだけ活字にさせてもらおうというスタンスでした。あれかこれかでなく、あれもこれも盛り込もうとした。アマチュア丸出し。結果、予想以上の厚い本になりました。前作の1.5倍近くになったんじゃないかなあ。

 ・・・で売れ行きは? 近く機会をみて書くかもしれません。

                    

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2007年が明けました

2007年01月01日 | 著書について


2007年が明けましたね。
A Happy New Year !
今年もよろしくお願いします。

鹿嶋春平太


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『誰もが聖書を』7~ゆっくり深く長い呼吸で~~

2006年12月31日 | 著書について
                    



~~大晦日ですね。時の流れは速いですね。ついこの間、紅白歌合戦が終わったと思っていたのに、また始まります。鹿嶋が元気でブログが書ける時も、少なくなっているような気がして、少し寂しい思いです。

                    

<集中力をもう少し>

 年の終わりに、前回のべた「知力=集中力」について、若干補足しておきますね。
子供のころ、凸レンズで紙を燃やす実験をした方は多いのではないかと思います。冬の柔らかな日差しは肌に心地よいです。だが、こんな暖かな日差しでも、レンズで一点にあつめると、新聞紙が発火するのですね。

 これは簡単にできるし、理科の実験なんかでみんながやるので、何でもないような気持になりますが、改めて思うに、驚くべきことであります。あの日差しが紙を燃やすなんて・・・。

 人の知的、精神的エネルギーも同様ではないでしょうか。総量は知れていても、ひごろ穏やかな形で認識対象に照射しているエネルギーでも、ひとたびそれを一点に絞って集中的に注ぎ続けると、すごい認識力を発揮するのですね。


                    

<論文「読めない」の構造>

 子供の知力も、結局は、その集中力によるのではないでしょうか。学校の勉強ができない子がいます。その子は、小学校の授業のあるとき、なんかの拍子で先生の話に焦点が合わなかった。で、先生の話が自分の頭と噛み合わず、声だけが空回りした。

 そして、そういう事態がだんだん多くなって、授業中、わからないままで何年も暮らす結果になった。そうしているうちに「わかる」「わからない」の感覚の区別もできなくなる。

 すると心を動かされる知識がなにもなくなるから、授業中も感嘆、感動がゼロのまま。もう精神エネルギーは開いた出口からボ~と力なく流れ出るだけ。それが普通の状態になってしまう。勉強のできない子というのは、それだけのことではないでしょうか。

 鹿嶋は、その仮説の元に、「論文調の文が読めない子」というかな、そういう学生さんたちに、あるトレーニングを実験したことがあります。結果は、なんと、彼らが徐々に「読める子」になっていきました。ここにその内容を書く余裕はありませんが、とにかく、読解力が回復していった。それで上記の仮説は実証されたという気持になっています。


                    

<集中力育成の最大の教師は「飢え」と「死」の環境>

 上記の実験内容よりも、もう一歩下がって、集中力一般を回復する手だてについて考えておきましょう。まず、それには、環境の関与するところが大きいです。食欲における「飢え」とか、生命の存続への危機感、こういうものに幼いときや若いときに襲われる環境に恵まれると、否応なく集中力は養われます。日本のいわゆる戦中派の人々、今の70才~85才くらいの人々は、それに恵まれた世代ですね。

 日本の戦前は、一部の特権階級を除けば、みな貧しかった。日中戦争が始まってからは、飢えの中で、日々を送りました。長じて青春時代になると、赤紙一枚で徴兵され戦地で死に直面させられる、多くの場合そのまま死ぬ、という状態に置かれました。

 腹が減って食べるものがない、という状態は、その人の精神を飢えを満たすことに激しく集中させますよ。このドライブは、人為的な教育によるものの何百倍、何千倍の力を持ちます。だから、戦中派の人々は異例な集中力を身につけているのです。

 死への直面もそうですよ。戦中派の青年たちは、いつ来るかわからない赤紙に脅え、人間とは、民族とは、自分とは、死とは、と激しく問わざるを得なかった。奈良とか京都に旅して、日本のルーツに自分を見出そうとした人も多かったようです。これも人為教育の何千倍もの集中力ドライブ。

 さらに終戦後は食べ物がなく、いつも腹を空かしていた日々だったといいます。生き残った人には、なんと恵まれた集中力訓練環境だったことか。



                    


<政木和三さんのシーター波>

 しかし、戦後の経済成長の結果、また、平和国家実現の結果、日本ではそういうドライブはなくなりました。この環境の中でいかに集中力を養うか、付けるか、は実は今後の国家運営の根幹仮題です。

 いま、教育改革などといって安倍内閣はやっておりますが、この問題は上記の集中力育成から考えていかないと、空回りします。ダメ教師を辞めさす制度作りなど(これも大いに必要なのですが)表層的なことです。おそらく今のままでは、大きな成果は出ないでしょう。

 飽食と平和の中で、一般の日本若者に、さらには日本人にどうやって集中力を養うか。
 最近なくなられましたが、政木和三(かずみ)という発明家、思想家がおられます。この方の話は参考になります。

 政木氏は、人の認識力は詰まるところ、脳波を下げることによって得られる、と述べて行かれました。ベーター波は、いわゆる俗世の雑事にかかわる時のいらいら状態の脳波。アルファアー波は、それより一段低下した静で穏やかな波動。この脳波の名前は、我々は見聞きしていますよね。


                    


 しかし政木氏は、もう一つ低い波動、シーター波に脳波を持って行くことが鍵だと考えます。ここに来ると、通常認知できない微細な事物も、認識できてしまうのだと。

 この方は自然科学者ですから、次のようなたとえで説明しています。磁気録音テープがありますね。カセットに入っている通常のテープです。これにある音を録音し、その上に別の音を録音すると、前のものは消えますよね。それを繰り返しても同様なことが起きます。で何回もそれを繰り返した後、最後に録音した音も無音状態で録音して消してしまいます。

 次に、そうして、なにも聞こえないテープを、音を何万倍も増幅する装置にかけます。すると、前に録音した音は、すべて残っていて聞かれるそうです。

 人の記憶も、そういう風になっている。忘れて、認知できないと思っている過去の記憶も、実は微細な認知が可能になれば、みんな認識できるのだ(前世の記憶だってそうだ、と政木博士は言います)。そして、そういう状態に人の精神がなったときの脳波がシーター波なのだと。鹿嶋が考えてきた集中力が働いている状態とは、この脳波の状態だったかも知れません。

                    

<シーター波は深くゆっくりの呼吸で>

 で、そんな楽しい状態に脳波を持って行くには、政木先生のような方でないとできないでしょうね、というと、そうではない、とおっしゃる。だれでもできる、と。

  「えっ? どうやって?」

その答えは「ゆっくり深く長い呼吸をすること」だと言われるんですね。具体的には、「20秒はいて、20秒止めて、20秒吸って、また20秒止めて・・」と繰り返す。それを一日に機会ある毎に繰り返せば、脳波をシーター波レベルに持って行くことが、誰にでも可能、と言い残しておかれました。

 こういうことを聞くと、ひらめきのあるクリスチャンの方は、「ああ、その状態は一種の瞑想状態だ。我々が深く長く祈っているときもそうかもしれない。脳波はシーター波になっているのかも・・・」と連想されるかも知れませんね。

 実際そうかも知れません。長い祈りの人でもあるベニーヒン牧師が、「癒しのクルセード」の最中に聖霊の意図を感知したり、天使の動きをキャッチしたりするという秘密も、案外、脳波がそのシーター波状態になっている時のことにあるかもしれませんね。

                    


 しかし、政木博士はそういうことはいいません。祈りとかいうと、「ウワァ~、宗教だ!」と浮き足立ってしまう病状に、依然として多くのニッポン人はありますからね(一体、何時になったら治るんでしょうかね)。政木先生はそうでない。無色透明、人畜無害な呼吸法のレベルで話をされます。だから、熱烈なファンを結構お持ちだったんでしょうね。ニッポン人は難しいですね。

                    

<勉強のできる家庭、できない家庭>

 がともあれ、政木理論を更に展開しますと、子供の勉強をできるようにする家庭の脳波環境などということも考えられるかも知れませんね。家庭に流れる波動を、シーター波に近く持って行く。そうすれば、子供は教科書の奥にある微細なことまでをも認知し、どんどん知恵を高めていくのではないでしょうか。

 逆に、ベーター波の状態で、いくら「勉強しろ、勉強しろ」と言ったって、ダメでしょうね。両親のけんかが絶えない家庭、親がいつもいらだっている家庭では、子供は勉強しようとしてもできないでしょうね。可哀想ですね。大人も考えなければいけませんね。

 ところがその親も子供のころそういう環境で育ったりしていてね。自分の家庭で、何が問題かと言うことが、認識できないケースが多いんだよね。だから近所にいい教会が要るんでしょうね。

                    


<洞察力もシーター波状態の産物?>

 「エホバの奥義」のカテゴリーで述べた「洞察力」、これも、政木理論ではその内容が具体的になるかも知れませんね。聖句の奥義を洞察するとは、表に現れていないが微妙で重要な論理を推察することでしたよね。これなど、実は、祈って、あるいは深く長い呼吸をして、脳波をシーター波にもっていくことが、鍵だったのかも知れませんよ。

では、今年はこれで終わりです。 
みなさま、いいお年を。

                    



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『誰もが聖書を』6~知力とは集中力のこと?~

2006年12月29日 | 著書について
                                        


前回の続きです。
sさんの要望に添うべく、鹿嶋は必死に書きました。
自分でもびっくりな集中力・・・。
キーボードがカタカタ鳴り続け、ラフスケッチが一気に出来上がりました。

                    

<あとは俺にはわからんよ>

前作の話という脇道に入ってしまったついでに、もう一つ脇に入りますと・・・、

後に鹿嶋はこの本を本業の師匠に謹呈送付しました。そして着いたころを見計らって電話した。恐る恐るに。


 日本では多芸というのは警戒され、軽蔑される傾向にありまして、「これ一筋」というのが信用されます。
安心するんですかね。

演技しかできなくて、奥さんがいなくなったら家事もままならず生活できないという俳優さんを役者子供といいます。

学者子供というのもおります。

こういうのが信用、尊敬される条件でありまして、日本では本業以外の本を出すのはヤバイのです。

+++

ところが鹿嶋は若いときから色んな分野に興味を抱く傾向が強く、他分野で作品を作ったりしていました。

大学院の修業時代に、その一部が師匠の知るところとなって、こっぴどく叱られたこともありました。

「お前は才に溺れる傾向があるなぁ。それではお前、何にもものにならないぞ。そんなコトしてるのなら、俺はもうお前の面倒見ないぞ!」

                    

面倒見られないんでは、大変です。

院生というのは無名ですから、師匠が保証してくれないと、職も得がたくなるのです。

そんなわけで、ほぼ完成しかけていた、別分野の作品を断念したこともありました。


そういう前歴もあるものですから、「お前、ちゃんと(本業の)研究しているのか?」と叱られそうな気がして、恐る恐る電話しました。

そうしたら「ああ、あの本か。最初の章が面白かったよ。すっ~と一気に読んじゃったよ。君は文才があったんだな」だって。

 で、ホッとすると同時に調子に乗って「・・・で、後の章はいかがでしたでしょうか?」と質問してみました。

そうしたら「ああ、後か。俺にはわからんよ。ああいうことには興味がない」だって。

ホント、質問せねばよかった・・・。

                    

<知的能力=集中力>

 しかし「でも最初のところは一気に読まされたよ」と師匠は話を結びました。

会社での講演に呼んでくれた上場企業の社長さんにも、序章を読むと気持が「スカッとする」と言っておられた方がいました。

どうもあの序章は「食いつき」をよくする撒き餌としては、鹿嶋の能力を超えた出来だったようです。

+++

 どうしてそんなことができたのか。後から考えましたところ、詰まるところは集中したことによるのではないか、という見解にたどり着きました。

人間が一時期に保有する精神エネルギー量には限度があります。

けれども、その出口を一点に集中して強く絞りますと、エネルギーはすごい勢いで対象に向けて噴射するのではないか。

すると見えないものも見えてくるし、それを表現する言葉も流れ出してくるのではないか。

そういう法則の様なものがありそうだ、といま思っています。


                    


 もちろんsさんの経験豊かな指導も不可欠でした。

この方は高村薫さんなど人気作家や評論家の櫻井よし子さんらを担当する花形編集者なのです。

こういう人がどうして鹿嶋程度の著者を担当してくれたのかは、今も謎ですが(天使が動いたのか)、とにかく一般読者が求めるものをよく知っておられた。

それを聖書などと言う、日本人に関心の薄い書物の話につなげるにはどうしたらいいか、を知り尽くしておられた感があります。

 けれども、詰まるところの決め手は、書く当人の集中力だったと思っています。

あの時、書くべき言葉が列をなして目の前に浮上しましたから。

以来鹿嶋は、集中力が弱まったな、と思ったらすぐに休憩を取るようにしています。

でも、あの第一作の序章の時ほどの集中力は、もうなかなか出ないのではないかとも思っています。


(続きます)


                    

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『誰もが聖書を』5~前作序章の出来方~

2006年12月28日 | 著書について
                    

前回、最終の18章についての想い出を書きました。第1章で書いたテーマのいわば私小説版でした。結果的に同じテーマで前後をサンドウィッチすることになった。そのことから、この本が中核に据えている主題がわかります。

 創造主という存在の、すさまじいエネルギーが世界を創っているんだ。創るだけでなくその後も働いているんだ。聖書は、それを伝えているんだ。これが著者の聖書解読の核心なんだ~~そういうことですね。(これが次作の『神とゴッドはどう違うか』に繋がっていきます)

                    

 今回は前に戻って、一番最初の序章のことを書いておきましょう。
鹿嶋は、通常1章から書き始めます。序章は後から付けるのです。付けるというより編集のsさんの指導で付けさせられる、というのが実情です。これについては、その前の本のことをお話しした方がいいです。

 最初の本『聖書の論理が世界を動かす』は、sさんによって構成されたところが多々ある本でした。序章などは全くそうです。鹿嶋の原稿を始めて読んだsさんは、こんな批評をしました~~意外に真っ直ぐの本格派ですね。語り口調からするともっと飄々とした話をするかと思ったのですが、直球一本。変化はスピードを変えるだけでつけてますね。

                    

 言われて気がついたのですが、遠藤周作さんのキリスト教書物は変化球を上手に混じえていますね。この方は冗談・ごまかしを交えて人生送る関西のご出身ですね。鹿嶋は愛知の田舎者、トヨタ左吉の世界出身ですからね。言いたいことから愚直に書き始めるというスタイル。

 で『聖書の論理が世界を動かす』は実は1章から始まっていました。これを見たsさんは、「これでは食いつきが悪いなあ、少し餌をまくか・・・」とかいって、1章の前に序章を付けることを要求しました。

 そして、書く項目をずらずらっと並べました。まずこういう項目について、次にこういう項目について・・・と。鹿嶋が小見出し付けて書いている序章の項目は、実は全部sさんの指定したものでした。そして「一週間、遅くとも二週間で書いて送って下さい」と急に厳しい切り口上。

                    

書きますよ、書きますよ。聖書に関する本を、キリスト教出版社でなく一般出版社から出してもらえるかどうかの瀬戸際ですからね。こちらも必死。わぁ~っと書きました。

(続きます)

                    

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『誰もが聖書を』4~私的感慨を挿入~

2006年12月27日 | 著書について
                    

「創造主が言葉を発すると現実はそれに従う」というのも、「ああそうか、そういう思想か」とそれだけのものとして受けとっておくことも出来ます。だけど、鹿嶋個人にはそうではなかったな。

                    


<科学は現実に言葉を合わせる活動>

 鹿嶋はマーケティングという経済学の一種で禄を食(は)んでいるものです。聖書解読はまあ、ボランティア的にやっておりまして、本業の方に主たるエネルギーが流れがちになる。で、その経済学は、自然科学、人文科学とならんで社会科学の一分野であり、社会科学は科学の一領域であります。

 で、その科学というのは、現実を理解しようとする営みです。そのために、なるべく現実に適合するような理論を作ります。現実は多様で混沌としています。そのままでは理解できませんので、それを整理して単純化した模型を作ります。それが理論。ですからそれは現実を単純に見るための眼鏡ということも出来ます。

 その理論は、言語を連ねて出来ています。科学というのはその言語を現実に何とかうまく適合させようとする作業です。

 ですから現実実在が動くと、言葉の方もそれに合わせて動かします。それが理論の修正です。うまく修正して現実に合わせないと、その理論は妥当性がないということになります。

 そういう理論をもとに考案した政策はこの世の問題を解決することが出来ないわけです。実際そういうことが多いです。

                    

<二重構造の世界観>

 聖書を知るまで、鹿嶋は言葉と現実とはそういう関係のものだと思っていました。ところがそれとは全く別の関係も併存していた~~そう知らせるのが聖書なんですね。


 科学では言葉が現実に合わせようとして現実実在を追いますが、現実の方が言葉に従うケースもあるという。その言葉が創主から出たものである場合は、そういう関係になるんだと。

 だったら、この言葉は強烈な力を持っているでしょうし、そういう言葉を発することの出来る存在は、基本的には何でも出来るわけです。そしてそういう力を持つ存在がいてくれることは、我々人間に希望を与えます。

 我々は生きていて、どうにかしたいがどうにもならない、ということに周期的に直面します。苦しみを解決してあげられないときには、身悶えます。だがそんなときでも、この力を持つ存在が動くならば、苦しみも解決されるということになりますから。

 聖書ではこの存在に人間は祈りでもって交信することが出来る、としています。うまく交信して力の主に動いてもらえたら、問題にも解決する可能性が出てくるとという。その存在に言葉を発してもらえばいいわけです。そのとき天使が動くかどおうかはともかくとして、超自然的な力で問題は解決してしまいます。

 すごいなぁ。希望が出るなぁ~。人間の力と創造主の力、二つの力が併存して働く世界のイメージを鹿嶋に提供してくれた聖句でした。


                    


 このことも書いておきたいなあ。でも、かなり私小説的領域に入ってるなあ。ほとんど自分のために書いてる特殊状況。最初の章からそこまで突っ込んだら、やっぱりついてこられない人が多いだろうなあ。スペースがあったら後に書くか・・・。

 結局、最終の18章に何食わぬ顔して入れてみました。こんなのも追記してみたんですけど、と編集のsさんにこわごわ見せました。「いいですよ」とsさんは言いました。

                    

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『誰もが聖書を』3~言葉に現実が従う?!~

2006年12月26日 | 著書について
                    

 ホイッ! Sabiaさんからも掛け声がかかりました。客席からの声は、役者を乗せますね。そもそも純イメージ世界に生きることが多い鹿嶋です。瞬く間に東銀座は歌舞伎座前に心が飛んでいました。

 入ると舞台には松本幸四郎。花道脇に陣取った鹿嶋は「高麗屋!」と声をかけている。と、なんと、幸四郎の顔が鹿嶋に似てきたではありませんか。そして、何時の間にやら舞台に鹿嶋春平太。客席から声、「鹿嶋屋!」・・・あぁ~いい気持ち。正月も近いことだし、まあいいか。大見得切って話を続けるぞ。

<光あれ、で光が出るって?>

聖書を開くと語るべき聖句は最初から出てきました。創世記の冒頭部分に~

    「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光が出来た。」(創世記、)1章3節)

~~とあります。これはなんじゃ? まあ、神が光りあれ、と命じたら、光が出来た、という、それだけのことと読み流すことも出来そうです。けれども、そんなことどうして神様に出来るの?という疑問を持つことだって出来るわけですね。そして、この「どうして・・・なの?」という思いを持ったときにはすでに、解読の必要が浮上しています。
(教理主義はこの願望を圧殺するのです)


                    

<創主の言葉は現実を従わせる>

そして、そこはかとなく理由を考える中で「もしかしたら、創造主が言葉を発すると、現実の物質はそれに従うというのが聖句に秘められた奥義ではないか」というのも出てくるわけですね。で、他のところを当たってみると、ほとんど「創主が・・・と仰せられた」、つまり、言葉を発したということがわざわざ記されているんですね。

                    


 だったらイエスはどうなんだ? イエスは創造主の子、というのが聖書が提示する主張です。羊の子が羊であるように、創主の子も又創造主となるでしょう。で、イエスが不思議をなす場面を洗い出してみると、なんとここでもイエスはほとんど言葉を発してそれをなしているではありませんか。「立って歩け!」「見えるようになれ!」「起きよ(生き返れ)!」等々・・・。

 ウヮァッ! ビックリしたなぁ、もう・・・。聖書って過去の出来事を軽いタッチで記録してるだけかと思ったら、個々の聖句にこんな論理が埋め込まれているとは・・。これは書こう、書こう。

                    


 ・・・けど、間違いだったらどうしょう? どうってことないさ、解読に絶対の正解なんてないんだから。また、新たな方向が見えてきたら、そのとき書けばいいんだから・・・。そもそも聖句主義を理屈抜きでやってみせるのが目的だったんだから。「へ~え、こんな風に読んだっていいのか、聖書って」となればいい。こういう雰囲気が伝われば成功としよう。

 鹿嶋にも不安はありました。ここぞとばかりに異端!と叫ぶ牧師さんの顔も浮かんだしね。でもこうやって自分を言いくるめて第一章が出来上がっていきました。ホントにいい加減だったんだ、今思えば。

(続きます) 

                    



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『誰もが聖書を』2~事例を作ってしまおう~

2006年12月25日 | 著書について
                    

聖句主義を導入するに最も標準的な方法は、その方法論を述べることからはいる行き方でしょう。でも日本には聖句主義はまだ入っていませんので、聖句を自由に解読しているという事例がありません。事例がなければ、一般論として方法を理屈で述べても、見覚えのある事例を提示して説明することは出来ません。それではわかってもらえない。

 さてどうしようか、と思案した結果、方策は割合簡単に出ました。それは「ならば事例を直接造ってしまおう」というものです。余計な理屈をぐだぐだ言ってないで、実際の聖句を自由に解読してお見せしよう。年配の方ならご存じの広告キャッチフレーズ「男は黙って**ビール」でいこうと決めました。


                    


<聖書のはじめから>

 では、どのあたりの聖句を解読するか。こういう機会は少ないだろうから、将来のために福音の神髄を述べている「ヨハネ伝」の聖句解読をこの機に活字にしてしまおう、という案も浮かびました。だが、それではあんまり先に「進みすぎ」になります。いくら好きなように書いていいといっても、読んでみようと思う人が少なくなりすぎては、後に問題になるでしょう。売れ残りが多量に出ると、出版社に大損をかけることになるのです。

 やはり、聖書をあまり読んだことのない人でも、容易にフォローできる聖句であることが必要だ。だったら、聖書の冒頭からやるのはどうか。創世記の1章1節から解読してみる。これなら初心者でも、初めから解説しいるようなので、としばしつきあってみようかなと思ってくれる可能性が出る。こうして聖書の冒頭から、切りのいい6章あたりまでをめざして順に解読していくことにしました。

 旧訳は新約の影絵、というのが鹿嶋のこの書物に対する構造把握です。それからすると、本になるほど書くことあるかな、という感じもありました。しかし、やってみると、結構語ることが出てきました。

(続きます)

                    

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「誰もが聖書を読むために」1

2006年12月24日 | 著書について
~~笹身(sasami)さんのコメントに触発されて、昔のことを少し書いてみますね。
気持ちの流れるままに。

                    

<次は好きなことを・・>

 「次は好きなこと書いて下さい」と編集のSさんに言われたとき、一瞬狐につままれたような気分になりました。

 最初の本『聖書の論理が世界を動かす』の品動きがよくなかったら、あり得ない言葉とは頭ではわかりましたが、それが現実になると不思議な気分に襲われました。

 私は、「誰もが」で書いたようなことを、日本の出版社が本にしてくれることは、もっとズ~と先のことだろうと漠然と思っていました。あの本で私がトライしたのは「日本への聖句主義の導入」だったのですから。


                    

 日本に、キリスト教は入っています。でも、まだ教理主義のキリスト教だけが入った段階なのです。戦国時代の昔、ザビエルがカトリック教団の教えを導入しました。だが、カトリックは教理主義の本家本元のような教団で、彼が入れたのもまさにそれでした。

 明治維新になって、ヘボン博士がプロテスタントのキリスト教を導入しました。だが、彼はニューヨークの長老派教会から派遣された宣教師で、この教派もまた筋金入りの教理主義教派でした。

 少し遅れて、バプティスト派も宣教師を送ってきましたが、その人々も、敢えて言えば「無自覚な聖句主義者」でした。魚は水の外に出されて、初めて自分が水というものの中で育ってきたと知る、といいます。彼等は、聖句主義のやり方で育ってきてはいるのですが、それを一つの方法論として自覚することはなく、ただ、それをしてきたという人でした(今も、状況はあまり変わっておりません)。だから、日本人に聖句主義の行き方を教えることはほとんど出来なかったのです。

 そういう人々が、先行的に出来上がった教理主義の土壌の日本で活動するのですから、結局教理主義と大差ないようなものになっていきました。執筆当時もそのままでした。

                    

 そういうところに、聖句主義の行き方を導入しようとしても、キリスト教関係の出版社だって、著者が何を言ってるか、理解できないです。ましてや、新潮社のようなエスタブリッシュされた一般出版会社が、こんな原稿見たら、相手にしてもらえない、と思う外ありませんでした。

 最初の作の『聖書の論理が・・』は、世界を主導している西欧社会は、実は聖書の論理で動いているのですよ、と示したものでした。これなら日本人にもわかる人が出るでしょうと。実際、企業の人とか、政府官庁の方々に受け入れられました。その方面から講演の依頼も来ました。

 しかし、聖句主義の導入なんて、実業界の人も、政府の人も、まず興味がないわけです。キリスト教の考え方が日本にどういう影響を及ぼすかは知りたくても、キリスト教運動の内容がどう分かれ、どうなってかなんて、どうでもいいんですね。こういうキリスト教があるよとか、聖書の扱い方があるよと書いたって日本人には無理だ。こういうのを本にしてくれるのは、まだまだ、ズ~と先だろうなぁ、と思っていました。

                    

 そこにSさんの、上記の言葉。私は、こんなことを書きたいのですが・・・と、恐る恐る小さな声で口に出してみました。

「いいですよ」

 sさんの唇がそう動いたとき、私は、この世では人間の予測をこえたことが起きるのも有りなのかなぁ・・とこみ上げるものを感じました。

(続きます)

                    
                    


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聖書の論理が世界を動かす(新潮選書)

2004年11月12日 | 著書について
聖書の論理が世界を動かす(新潮選書)
目次

序章 不可解をたどれば聖書の論理
第1章 西洋人はなぜ空間意識が広いか
第2章 なぜ大局観があるか―ブレイクダウンの思考方式
第3章 この先、世界はどうなると考えているか―西洋人の歴史観
第4章 どういう理屈でイエスを「神」と考えるか―教会のアイデンティティー政策
第5章 カトリック、プロテスタントとは何か―キリスト教団の展開
第6章 カルビンは何をしたか―理念家と能史のコンビが最大パワーを生む
第7章 人の心をどう見ているか―聖書の意識構造論〔ほか〕

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図解聖書のことがよくわかる本 2時間でわかる

2004年11月12日 | 著書について

目次

プロローグ 聖書がわかれば、世界の動きが見えてくる
第1章 まずは聖書の世界をのぞいてみよう
第2章 イエスによる「救い」の論理を読みとく
第3章 聖書の壮大な歴史絵巻を読みとく
エピローグ なぜ、人々は聖書を信じるのか


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キリスト教のことが面白いほどわかる本

2004年11月12日 | 著書について
キリスト教のことが面白いほどわかる本
目次

プロローグ キリスト教って、どんな宗教?―こんなにたくさんの人が信じてる(世界にキリスト教徒はどれくらいいるの?
どうしてキリスト教を信じている人が世界でいちばん多いの?)
第1章 イエスが教えていることって、どんなこと?―イエスは人類に究極の癒しをくれた!(イエスの究極的な癒しって、どんなものなの?
霊界って、どんな世界? ほか)
第2章 キリスト教って、どんなふうに成立していったの?―キリスト教の広まりと歴史(イエスの死後、キリスト教はどんなふうに広がっていったの?
信者の急増に合わせて生まれたのが、「家の教会」 ほか)
第3章 イエスの教えの核心って?―キリスト教の宗派はどうして戦争するの?(「地の塩、世の光」になれれば、戦争は起こらない
「地の塩、世の光」理解のキーワードは、「いのちエネルギー」! ほか)
第4章 イギリスとアメリカで展開したこと―宗教改革後にやってきた、革命の時代(プロテスタント国家ができたら、聖書主義者たちも安泰?
イギリスの自由な風土が、聖書主義者たちを受け入れた ほか)

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聖書がわかればアメリカが読める

2004年11月12日 | 著書について


目次

プロローグ アメリカ魂は三層構造になっている
第1章 日常垣間見るアメリカ人の本質とは?
第2章 日本人はなぜ聖書を理解できないのか?
第3章 アメリカ建国の父はどんな理念を抱いていたか?
第4章 アメリカを独立へと駆り立てたものは何か?
第5章 アメリカ人を動かす聖書の論理とは何か?
第6章 アメリカの国家アイデンティティはどうつくられたか?
第7章 アメリカ魂の源はどこにあるのか?
第8章 聖書主義はなぜアメリカで生き残ったのか?
第9章 聖書主義はアメリカにどう影響しているか?
第10章 聖書の論理で不可解なアメリカの政治を読めば?

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3日でわかる聖書 知性のBasicシリーズ (ダイヤモンド社)

2004年11月12日 | 著書について

目次

序章 聖書の世界がよくわかる!何でもQ&A―キリスト教とは?史上最大のベストセラー「聖書」とは?
旧約聖書編(世界の始まり、人類の始まり―神はこの世をどうつくり、人類はどのようにして生まれたのか?
イスラエル民族の成立―"神に選ばれた民族"はいつ誕生し、どう発展してきたか?
偉大なヒーローとヒロイン―古代イスラエルのリーダーたちは波乱の時代をどう生き抜いたか?
旧約聖書の歌と預言―時代を予見し、動かしてきた神のメッセージとは? ほか)
新約聖書編(イエス・キリストの生涯―"キリスト"(救い主)と呼ばれた彼は何を思い、どう生きたのか?
イエスをめぐる人々―なぜイエスの教えは民衆の心をとらえたのか?
イエスの教えとたとえ話―2000年の時を超えて生き続けるイエスが残した言葉とは?
イエスが起こした奇跡―イエスは本当に奇跡を起こしたのか? ほか)
終章 聖書がもっと読みたくなる何でもQ&A―キリスト教でいう天使・悪魔、罪ってほんとはどんな意味?

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マーケティングを知っていますか(新潮選書)

2004年11月12日 | 著書について

目次

第1部 マーケティングとはどんな学問か(リゲインの市場導入作戦
戦略図式が登場する
産業革命が生みの親
なぜアメリカで発生したか ほか)
第2部 マーケティングの戦略手段を組み合わせる法(流通には種類がある―「四流」の概念
消費者の流通行動を描き出す
購買消費プロセスのモデル
安価消耗品のB‐Cプロセス ほか)

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