鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

『バプテスト自由吟味者』を読む会(1)

2021年08月08日 | キリスト教の正しい学び方

フェースブックで「『バプテスト自由吟味者』を読む会」というグループを始めました。

これは小冊子ながら、非常に深い内容を持った重要な本です。

この内容を知ることが、日本に決定的に必要です。にもかかわらず、一定の助けを得て読み込まないと、理解が難しいです。

+++

その理解のために冒頭に「訳者解説」を長々と記した原稿を出版社に渡しました。

 だが、本が出来上がって読者の感想を聞くと、それでも説明が不足していることが、わかってきました。

それをなんとか補いたい、と願って、「読む会」のグループを始めたのですが、フェースブックをあまりやらない方もおられるようです。

そこで、このブログでもそれを掲載しようと思うに至りました。

愛読いただければ、幸いです。

@@@

「バプテスト」というのは、キリスト教活動をする人々のグループ名です。キリスト教は「聖書(バイブル)」という教典を踏まえた活動ですが、その踏まえ方で教派が分かれるのです。

聖書には、実に多様な話が盛り込まれています。この天地が作られ、そこに人間が創られる話。その人間が悪魔にだまされる話。創造主(神)が、人間に守るべき戒めを下す話。二人の娘が家系を絶やさないようにと、父親の床に忍び込む話、まであります。

そのままでは理解できず、生きる糧にできないので、人間は話を整理し、「理解」を試みる。その整理・理解の仕方が様々に可能になるのです。聖書内容の多様性の故です。実際、通読してみると、驚異的に多様です。

@@@

多様性に満ちた聖書の話を読み解く鍵は「全体観・世界観」をまず探ることにあります。その後、小さな出来事はその中に位置づけていくのです。

とはいえ、その世界観も、聖書には直接そのまま「こうですよ」とは書いてありません。
 
だから、人間はそれを、様々な関連聖句をつなげることによって、解読し浮上させなければなりません。
 
 そこで、そういう難しいことは、それにたけた人にやってもらって、我々一般人はそれを学ぶほうが現実的だ、という考えも出るでしょう。出るというより、これは大方の考えそうなことでしょう。
 
ところが、そうした解読を他者にゆだねないで、一人一人が自由に解読する、そして、独りよがりの迷路に陥らないために、数人の小グループをつくって、そこで、相互に個々人の解読を吟味しあう、という方式をとった人々もいた。
 
 これが「バプテスト自由吟味者」でした。

 

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「わかりやすさ」が生む結集力

2021年06月03日 | キリスト教の正しい学び方

 

 ベルリンの壁が崩壊したので、マルクス思想はもう完全に過去のものとなった、という印象が続いてきている。

だけど実際にはその影響力は、いまでも、他の社会思想を遙かに超えた力を持っています。

まず、これほどに「わかりやすい」社会思想は他にありません。

マルクス思想は、原理を正確に理解してなくても、下記のような風に漠然とした理解をしても、

感覚的によくわかるのです。

 

+++

「資本主義社会では資本家が労働者を搾取しているぞ」

「だから平等は実現されないぞ」

「実現するには、市場で価格が決まる方式をなくせねばならないぞ」

「そのためには、私有財産制をなくし、中央政府が正義でもって経済を運営できるようにせねばならない」

「目を覚ませ、みんな立ち上がろう!」

+++

 これって、とりたてて経済学を学んでない一般大衆にも、具体的なイメージ湧くよね。

だから大勢がこの思想を共有できる。

容易に共有できるから、一つの社会勢力が容易に形成できるのです。

 

<蒋介石が敗れたのも>

 中国では、戦中、戦後を通して、蒋介石と毛沢東が覇権を争いました。

結局、毛沢東が勝ったのも、より多くの人民を一つに結集できたからです。

上記のようなマルクス思想は、学びの機会を持たなかった、貧しい中国大衆にもわかりやすかった。

これに比べたら、「自由市場の働きで経済が機能する」といったような思想はわかりにくかった。

だから、毛沢東の共産主義思想の方が、より多くの人民を一つに結集させることが、時とともに出来ていったのです。

+++

 この「わかりやすさの力」は、いつでも健在です。

いまでは中国は「市場制社会主義」ともいうべき方式の国家です。

土地の私的所有は認められず、国家の所有となっていますけれど、

それが人民に貸し出され、私的に効率を求めて運営するのを許している。

工場も、国営だけでなく、私営も許されています。

+++

 だけど、人民には上記のような「漠然マルクス思想」を抱かせて、国家の一体性を形成しています。

+++

 社会思想というのは、それを抱く人間の心にそのメッセージを発し続けます、

メッセージは四六時中、人の心に影響し続ける。

中国はだから今でも、物理的には市場制社会でありながら、思想的には共産主義国家です。

「(漠然)マルクス思想」は現在も、その力を世界に発揮し続けているのです。

 

 

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マルクス経済思想の骨子

2021年06月03日 | キリスト教の正しい学び方
<マルクス経済思想の骨子>
  フェースブックの「肥の出会」グループに掲載した「マルクスの経済思想の骨子」をここにも記しておこうと思います。
骨子は次のごとくです。
 
@@@
 
① 労働市場では雇用者(資本家)が被雇用者(労働者)への有利な立場を利用して、正しく賃金を決定しない。
② 資本家は、搾取した分で生産機械を増やす。
③ より少ない労働者で生産できるようになるから、ますます搾取できる。
④ 社会の商品需要は減少する一方で、生産能力は増大する。
⑤ 過剰生産不況が頻発し、経済は崩壊する。
⑥ 自由市場制度のもとにある、私有財産制度をなくすれば、矛盾はなくなり、生産と消費の増大が並行してすすむ、自由な理想社会が実現できる。
+++
 骨子は以上ですが、そのうちの⑥は実現しない。
 実際には逆に統制国家が出来ていき、時とともに労働意欲は低下し、社会主義社会は崩壊する~というものでした。
+++
 現代人の最低2割くらいが、この知識を正確にもつことが、国家社会が順調に進展するために必要。 私はそう認識しています。
 
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人類が 聖句上位方式に無知なのは

2021年04月05日 | キリスト教の正しい学び方
 バイブリシズム方式の教会は、キリスト教の開祖的教会だ。
100年もの間、キリスト教活動を普及させてきた。
なのに人類のほとんどが、いまもこれを知らない。
聖句上位の活動方式は、人類の共通知識になっていない。
 
 理由は、この初代教会方式の教会情報が、完全隠蔽されてきたからである。
のちに発生する巨大な教会勢力によって歴史記録から抹殺された。
事情は次のごとくだ。
 
<大衆が参加を求め始める>
 
 聖句上位方式によって、キリスト教会は大発展し、社会的にも容認されるようになった。
教会は、愛の精神でもって、病は癒やすし、貧しきものには食べ物も衣類もほどこす。
そういう社会経済的利得もこの教会に参加すると得られることを、大衆は知った。
彼らは、こぞって、キリスト教会に参加することを希望した。
 
+++
 
 だが、大衆は聖句を読まない人たちであった。
のみならず、文字も読めないのが普通だった。
 
<パリサイ人、サドカイ人、大衆>
 
 当時の社会構成をユダヤ人社会の例で見ると、民族は三つの階層に別れていた。
サドカイ人、パリサイ人、そして一般大衆だ。
 
 サドカイ人は、最高所得層で、彼らは人間の復活はない、と信じていた。
金持ちというのは、概して、そういう見えない世界は信じない。
この世が楽しいので、そういう風になるのだ。
 
だが彼らは、聖書〔当時は旧約のみ)を読んでいた。
 
+++
 
パリサイ人は、中高層所得階級で、人間の死後の復活を信じていた。
彼らもまた、聖書を読んでいた。
 
+++
 
 その下に膨大な数の大衆がいた。
残りの大多数を占める彼らは、貧しく、文字を学ぶ機会ももたず、従って、聖書を読んでいなかった。
 サドカイ人、パリサイ人は、彼らを罪人(つみびと)と呼んでいた。
 
+++
 
 その彼らが、紀元後二世紀の後半になると、キリスト教会に加わることを求めて、どっとやってきはじめたのだ。
 教会は,愛の教えに従って「来る者拒まず」で応じる。
そうした大衆を皆受け入れた。
 
 だけど彼らは、聖句自由解読活動などできない。
読んだことないし。そもそも、文字をほとんど読めないのだから。
 
<教理上位方式の教会が開始>
 
 彼らの担当にまわった指導者たちは、簡素な教理を作り、これがキリスト教の正統な教えですよ、として指導するしかなかった。
 こうして教理上位方式で活動する部門が開始された。
 
 だが、この方式は、信徒を大量に管理していくには,効率的だった。
信徒の信じる内容が、みな、与えてあげた教理のままだから。
キリスト教意識の中身がみな、金太郎飴だから。
 
 指導者は、信徒を組織化しやすく、統率しやすい。
指導者自身も、ピラミッド型の階層組織を作り、管理機構を形成した。
こうして新興教団は、いまの会社や政府のような社会組織になった。
 
 ローマ帝国政庁としては、相手にしやすい。
社会的勢力を備えた教理上位教会は、キリスト教界の代表の様相を示すようになっていく。
 
<新興教団の規模、大成長>
 
 この方式の教会は、紀元後二世紀半ば頃から急成長し、社会勢力としてもキリスト教会を代表するようになった。
 ローマ帝国政庁も、この教団をキリスト教の代表集団とみなし、彼らを交渉相手にして、キリスト教対策を行うようになった。
 
 これが、のちにカトリック教会と名乗ることになる教団だ。
以後便宜上、カトリック教団と称していこう。
 
<ローマ帝国国教の地位を得て統率を開始>
 
 がともあれこの教団は、紀元後4世紀になると、ローマ帝国の単独国教の地位を確保する。
彼らは、国家権力を用いて、キリスト教会全体を統率しようとしはじめた。
そのためには、個々人が聖句を自由に解読し、小グループで自由に話し合う方式の教会は邪魔になる。
彼らは、聖句上位主義で活動する教会に、自分たちの教理上位主義方式に改めるように要求した。
 
 だが、聖句上位方式の教会は、頑として従わなかった。
初代教会以来の聖句自由吟味方式を改めなかった。
 
 すると、カトリック教団は、「何を生意気な!」となる。
軍隊を用いて彼らを捕らえ、処刑するようになった。
のみならず、彼らを教会と認めず、その活動の歴史も、現状も、一切記録に残さなくなった。
そういう彼らの世が、欧州では、1200年続いた。
 
この状態がルターが宗教改革を始めるまで続いた。
 
 1200年もこの状態が続くと、それが世界の常識知識となる。
それが、人類の世界史知識に、キリスト教発生源である聖句上位主義方式の記録がない理由だ。
このブログを読んでいるあなたも、皆目それに無知な理由だ。
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聖句上位方式は人智を超えて発生した

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 聖句上位方式は、有能な誰かが考案し、実施したのではない。
人知の産物でなく、初代教会に自然発生的にできあがったものだ。
初代教会とは、イエスの弟子〔使徒)たちが中心になって出来た信徒の集いで、人類史初のキリスト教会だ。
 
 
<残された信徒に聖霊が下る>
 
 この教会は、聖霊が引き起こした奇跡(不思議なしるし)を契機にできあがっている。
イエスが復活して昇天した後、エルサレム神殿近くの大部屋に、200人余の信徒が集まっていた。
その群れに轟音とともに聖霊が下り、信徒たちの口から異言(いげん)があふれ出した。
 
 異言とは語っている本人も、その意味を理性で解することも出来ない言葉だ。
英語ではストレンジ・タング(strange tangue)という。
 
 
<使徒ペテロ、独自聖句解読で事態を説明>
 
 轟音に驚いて駆けつけ押し寄せたエルサレム神殿参拝者は、信徒の語る異言を驚き怪しんだ。
使徒ペテロは事態を聖書〔旧約)解読して説明した。
人々は感銘を受け、その日だけでも三千人が使徒たちに加わった。
 
+++
 
 使徒たちは、彼らを数人の小グループに分け、リーダーを一人選ばせた。
そのうちの一人の家で聖書を自由吟味しあうようにした。
 
<統一教理など作れなかった>
 
 使徒たちは教会の統一解釈〔教理)を提示することはなかった。
そういうものは作れなかったのである。
 
 イエスは十字架死し、復活し、昇天する直前まで、使徒たちに独自な聖句説明をし続けた。
その都度、各々に「まだわからないのか」と指摘した。
そんな状態だから、使徒は「俺の解釈が正しい」と主張することなどできなかった。
 
 だから、教会の統一教理をつくり、新参加者に提示することなど望むべくもない。
各人、各グループに自由解釈、自由吟味させるしかなかった。
自由吟味を許すというのは、絶対正統な教理を認めないことでもある。
 
 その自然な帰結として、聖句上位方式は出現した。
不思議と言えば、不思議なことでもある。
 
+++
 
 伝道活動で新しく増えていった教会でも、この方式は実施された。
初代教会以降、一世紀間にわたって,キリスト教会と言えば、この方式の教会だった。
 
 紀元後100年頃には、初代教会方式で活動する信徒の群れが、ローマ帝国全土に点在するに至っていた。
 
 
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聖句に教理が併存する事例

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 
 聖句にほぼ反射的に解釈〔教理)が出現し、伴侶・併存する事態は、聖書の冒頭部分から体験することが出来る。
『創世記』にこんな話がある~。
 
 アダムとイブ〔エバ)は、食べるのを禁じられていた木の実、エデンの園の中央に置かれていた木の実を食べてしまった。
 
 創造神は、イブに問う。
  「おまえは、なんということをしたのか」
 エバ、答えて曰く。
  「蛇が私をだましたのです」
 
 創造神は、同じ問いをアダムにも投げかける。
 アダム答えて曰く。
  「イブがわたしを誘惑したのです」
 
+++
 
 こうした要旨の聖句を読むと、たとえば、こんな思い(解釈)」が人の心には浮かぶ。
「人間には、物事の責任を他者になすりつけるという罪の資質があるのだ」と。
 
他にも解釈は出来,教理はつくりうる。
 が、とにかく、聖句の記述に教理が自然併存する様、かくのごとしだ。
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「上位」主義か「至上」主義か

2021年04月04日 | キリスト教の正しい学び方
 
 前回、教理よりも聖句に権威を置く方式を、「聖句上位主義ないしは聖句至上主義」と呼ぼう~と言った。
 今回は、今ひとつこだわって、さらに微妙な点に立ち入ろう。
 
 「上位主義」と「至上主義」との間のニュアンスの差を考える。
 
+++
 
 至上主義の語には、聖句をあがめ、教理の存在を否定する、ようなニュアンスがある。
上位主義の語には、そういう感情は少なく、両者の存在をともに認めているニュアンスがある。
 
 そして、バイブリシズムに対する、より適切な訳語は、聖句上位主義の方だと思われる。
 
+++
 
 聖句に教理はつきものだ。
聖句があれば、人は、それを解釈しようという欲求を自然に抱く。
 
ほぼ反射的に教理は現れ、心の中で、まるで伴侶のように聖句と併存する。
一方が輝いて、他方が、その輝きの陰におかれて、存在が薄れたり、見えなくなったりするものではない。
 
両者の併存を銘記するために、聖句上位主義の語を選択しておいた方がいいように思う。
 
 
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バイブリシズムは聖句上位主義

2021年04月03日 | キリスト教の正しい学び方
 聖句を解釈して出来る教理ではなく、もとの聖句そのものに最終権威をおく姿勢、バイブリック(Biblic) はサザンバプテスト地域独特の用語で,一般の辞書にはない・・・・これは前述した.
 
 今回はもう一つ、その親類のような言葉をも紹介する。
バイブリシズム(Biblicism)がそれで、これもまたサザン特有の用語、一般辞書にはない用語だ。
 
<聖句上位主義>
 
 ismというのは、「~の方がベターだ、上位だ」という意味を持った接尾語で、日本語では「~主義」と訳されている。
 
 「ベター」というのは、「何かと比較して」とのニュアンスをもっている。
この際、比較されているのは教理だ。
 
 つまり、教理よりも聖句を上位に置く、という姿勢がバイブリックであり、その方式がベターだという思想を表すのがバイブリシズムだ。
日本語ではどう言うべきか、聖句上位主義といったところか。
 
 短く聖句主義といきたいところだが、筆者のこれまでの経験では、当面それだとほとんどその真意が伝わらない。
面倒だが聖句上位主義、ないしは聖句至上主義と言っておいた方が当面は無難である。
 
<教理上位主義>
 
 対して、教理を上位にすべきという思想もある。
聖句上位主義のバイブリシズムにをこれに対比させるには、やはり教理上位主義ないしは教理至上主義と言っておくのが良さそうだ。
 英語ではcreedalismとか    doctrinism とか    dogmatism  とかの語がそれにあたる。
 
+++
 
 教理上位主義の方式をとる教派・教団もある。代表はカトリック教団だが、それから派生しているプロテスタント教団もまた、教理上位主義だ
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教理は真理になりうるか?

2021年04月03日 | キリスト教の正しい学び方
 最終権威は聖句にあって、その解釈は複数通りできる。そこからできあがる教理の正しさは、相対的なものだ・・・・前回それを示した。
 そういうと、では教理には真理はないのか、だったら聖句解読〔解釈)なんてする意義あるのか? そういう疑問が心に湧くだろう。
 
<真理という日本語>
 
 これについては、真理という日本語の意味を、改めて考えねばならない。
 
 この英語はトルース(truth)で、その原義は「変わらざるもの」であり、多くの場合それは「変わらざる理論」をいっている。
 「変わらざるもの〔理論)」という概念は、幕末までの日本にはなかった。
それは聖書の中だけにある言葉だった。
 
+++
 
 初の聖書邦訳者ヘボン先生は、これには頭を悩まされた。
どう訳したら、日本人はわかるだろうか。
 
 思案のあげく、真実の「真」という語と「理(筋道、理論)」ということばを組み合わせて「真理」の語をつくった。
そしてこれに「まこと」というふりがなをつけた。ヘボン先生苦心の造語であった。
 
+++
 
 だから、真理の真意は「変わらない理論」だ。
それは「究極的に正しい」理論を意味する。
そういう理論があるならば、それはもう、修正して変えられることなく存在し続けられるだろう。
けれども、そんな理論知識に解読者はたどり着けるだろうか?
 
<科学の経験>
 
 それには科学の知識が参考になる。
 科学というのは、「認識対象を五感で経験認知できる範囲に限定」して行う、認識のやりかただ。
そこには、誰もが納得できる五感経験によって、確実な認識を得よう、という志がある。
 
 その科学において、発見される事象のつながり、筋、は理論で表される。
だが、科学者はそれを決して真理とは呼ばない。素晴らしい発見も皆「仮説」という。
 
 仮説とは「仮に設定した説〔理論、理屈)という意味だ。
仮だから、常に、新しい事実がわかったら修正される余地を持っている。
 
<聖句の論述範囲>
 
 一方、聖書で記述されている世界はどうか。
それは五感認識界に加えて、五感では経験できない領域も含めた広大な世界だ。
これを認識対象にして言葉で記述されているのが聖句だ。
 
 その聖句の間に発見される理論が、修正余地のない真理になりうるはずはないだろう。
みな仮説以上のものになり得ない。
 
<真理は遠望して探求され続けるべきもの>
 
 聖句を解釈して得られる理論、すなわち、教理というのは、みな仮説なのだ。
もちろん解釈努力している人は、真理を希求して行っている。
その気持ちは痛いほどわかる。
 
 だが、現実には究極普遍の教理には、人間はたどり着けない。
究極の真理は、科学と同様に、永遠に憧れ遠望して追求し続けるべき存在なのだ。
 
 これに気づくと、バイブリックという思想は、人間の現実に沿った、着実な思想であることがわかってくる。
 
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教理は複数作りうる

2021年04月02日 | キリスト教の正しい学び方
 教理を作ることを聖句を「解釈する」ともいう。そして聖句解釈は一つしか出来ないのではなく、基本的にいろいろにできるものだ。
一人の人間の人格を他者がいろいろに解釈できるように、聖句解釈もいろいろ出来るのだ。
 
 +++
 
 だが解釈している当人は、正しい解釈をしたいと思って出発している。
言い換えれば「真理を求めて」スタートしている。
 
 だから一つの正しい教理を得ようと思って、解釈を試みる。
そして出来た解釈を最も正しいと思う傾向を持つ。
 
 「最も正しい」という思いは「正統」とも表現できる。
この言葉を使うと、「正統な解釈」、あるいは「正統な教理」ということになる。
 
 Aさんは、自分の解釈を正統と思いがちなわけだ。
これは自然の情であろう。
 それはBさんも同じで、自分が到達した解釈を正統と思いがちだ。
 
<正統論争>
 
 そこでどちらが正しいかをめぐって、論争が起きる。
でも決着は基本的につかない。
やってみるとわかるが、そもそも解釈はいろいろに出来るものだからだ。
 
 ときには口争いに留まらず、つかみ合いのけんかになることもある。
それが人情だ。
 
+++
 
 前々回に述べたBiblicという思想は、このどうしょうもない状況を避ける一つの知恵でもある。
「そもそも教理というのは、最高の権威を持つものではありませんよ。聖句こそが教理に勝る権威を持っているのですよ。それを認めましょう」とこの思想は言う。
 
 「認めると、あなたの作った教理も、その妥当性を常に聖句に照らして吟味されるべき存在と考えられるようになりますよ」とバイブリック思想はいうことができる。
こうやって、一つの教理〔解釈)を絶対視しないで相対視するのを可能にしてくれるのだ。
 
 
 
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聖句と教理

2021年04月02日 | キリスト教の正しい学び方
 前回、Biblicというのは、「聖句を最終権威として聖書に対する姿勢」を意味していると言った。
ここで聖句という言葉の特徴をみておこう。
 
 聖句というのは、聖書という書物に記されている言葉そのものをいう。
英語では スクリプチャー(scripture)といわれる。
 
<聖句の文章は記述的>
 
 現実は多様なものだ。聖句はその多様な現実を多様なままで、写真を撮るようにして文字に書いた文章でできている。
これを日本語では、記述的(descriptive) とか描写的とかいう。
 
<説明本能>
 
 記述的」と対をなす言葉は、説明的(]explanatory)だ。
「説明的」は、記述的で多様な聖句の間にある論理的なつながり、すなわち、筋道を見つけ出して書く文章だ。
 
 聖句はそのままでは「何を言ってるか」が理解しにくい。
だが人間は、そういうものを見ると、それが「何を言ってるのか」を簡明に知りたいと欲していく。
これは自然な本能だ。
 
 簡明に知る、というのは、簡単な文章に要約して知る、ということだ。
要約文に「置き換えて」知るといってもいい。
 
 そのために人間は聖句の間に論理的な筋道を見出そうとする。
そうして、聖句が「言いたそうなこと」を「理解」しようと欲していく。
 
 
 
<教理>
 
 こうして出来た文章(言葉)を、教理(doctrineまたはdogma)という。
人間は「言ってること」を理解しようとして、教理を自然に、本能的に作り出す。
 
 だから聖句と教理は一人の人間の心の中に併存するようになっていくのだ。
 
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バイブリック~狂信から人を救う対聖書姿勢~

2021年03月29日 | キリスト教の正しい学び方
 聖書を探求し始めてしばらくすると、その解釈を巡って信徒や牧師さんが互いに攻撃し合うのが目についた。そのとき、「学び合い」は消滅している。各々が自分の解釈にしがみつくのみだ。
 これがなくならないと、聖書は知力向上に役立たない。どうしたらなくなるか? この問題意識は長期の間、解決されないままで私の中に留まった。
 
+++
 
 解決は、現場を体験することで発見できた。米国南部、サザンバプティスト地域の教会で行われている、聖句自由吟味主義とでもいえる聖書への取り組み方〔メソッド)を実施している現場だ。
 教会メンバーは、まず個々人が聖句を自由に解読する。そして日曜礼拝の前に、数人の小グループで自由吟味会を開く。礼拝での牧師のメッセージも、牧師の個人的解釈であることを大前提に、なされる。
 
 この聖書処遇の姿勢を、彼らはバイブリック(Biblic)と言っていた。
そういう英語は辞書にない。サザンバプテストのあいだだけで使われる用語なので、英語の辞書にはまだ掲載されていないのだ。
邦訳すれば、「〔常に)聖句それ自体を最終権威として」といったところか。
 
+++
 
ということは、いかなる解釈にも最終権威は認めない、という姿勢だ。
実はこの姿勢は、初代教会で採用されていたスタンスだ。
そして、それが予想外の恩恵を人類に与えていた。
 
+++
 
筆者の場合それは、現場の教会に参加することで、はじめて認識できたことであった。
これを現場体験のない人に説明するには、多くの言葉の追加が必要になる。
だが、それを順を追ってやっていくのは大変だ。
では、いくつかの断片を、打ち上げ花火的に、記したらどうか?
そんな開き直りのような気持ちになってきている。
 
 
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人みな神イメージをもつ

2021年03月26日 | キリスト教の正しい学び方

しばらく、まとまった文章にする前に、思いついた短文を書いて、投稿することにします。

+++

・神とは定義すれば「見えない影響者」だ。

・「そんなものいると絶対に信じない」という人もいる。

・だが、その人も、暗い夜道をとぼとぼと向こうから歩いてくる背が高めで細身の女性に気づき、近づいてきた顔を見ると、細面に長いザンバラ髪が垂れ下がった間から、二つの目がこちらを向いて恨めしそうに光ったとする。

・ギョッとして凍り付くだろう。恐怖するだろう。

・ことほどさように、人は皆「見えない影響者」すなわち神のイメージを心に抱いて生きている。

・無神論者というのは、厳密には、人間世界には存在しない。

 

〔今回、以上です。余裕出たとき、まとまった文章にしていこうと思います)

 

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石原裕次郎特集

2021年03月04日 | キリスト教の正しい学び方

最近テレビで昭和を華やかに生き、52歳の若さで死んだ俳優石原裕次郎の特集番組が流されている。

「日本で最も愛された俳優」という。

彼のハチャメチャともいえる活動は、永続確信のなさがベースになっている。

いいかえれば「人間は死んで消滅しておしまい」という恐怖を素直に受け、それを逃れる時間を作ろうとして、やけくそ人生をダイナミックに生きた。

そのダイナミックさが、同じく永続確信ゼロの日本人を感嘆させ、憧れさせたのだ。

その本質から意味理解する記事を、少々書いてみようと思う。

では、そのときまで。

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タイトルを変更しました

2021年02月14日 | キリスト教の正しい学び方

長らく用いてきたタイトル「鹿嶋春平太チャーチ」を変更しました。

「永続確信チャーチ」が新名称です。

投稿をお休みさせていただいている間、鹿嶋は、福音の構造とその本質を探究し続けていました。

このほど、福音最大のギフトは”偉跡で証拠づける永続イメージ”と悟った、それが理由です。

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永続確信が「死・消滅の恐怖」をオーバーシャドウした状況でのみ、肉体の健康、富、愛、長寿への超自然的力も強く働きます。

イエスはその論理体系を教え、それを自ら偉跡で証拠づけました。

また、教えを宣教する者にも、証拠づけの方法を言い遺しました。

福音活動は、この路線の上を進むものです。それは父なる創造主と御子の御旨でもあります。

鹿嶋もその路線を進もうと思います。

当面、Kindleの電子ブックを主体に発信していきますので、そちらもよろしくご参照くだされば幸いです。

 

 

 

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