鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.315 『基本を認識していることを示してから、お願いする』(17章15~17節)

2010年12月16日 | ヨハネ伝解読

  ヨハネ伝解読。
本日は15~17節です。

  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)   

                                   

あ、それから伝言があります。
このチャーチによくコメントを下さった方、きよ子さん、ISさん、くりまんさん、石ころさん、
もし読んでくださっていたら下記にメールいただけませんか? 空メールで結構です。

     clubbiblic@mail.goo.ne.jp

                    

さて、聖句です。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
「彼らをこの世から取り去って下さるのではなく、悪しきものから守って下さることをお願いします。(15節)
私がこの世のものでないように、彼らも「世」のものではありません。(16節)
彼らを真理によって聖別して下さい。あなたの御言葉は真理です(17節)」
                              (17章15~17節)
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 ここでイエスが創造主に語りかけていることの大半は
両者の間では当然なこととして合意がなっているようなことです。聖句を追ってみましょう。


15節からいきます。
   イエスはこの世での宣教を弟子たちにゆだねようとしています。
だから「彼らをこの世から取り去らないでください」と父なる創主にまず願います。
そして「悪しきもの」から彼らを守って下さい、という。
世は基本的に悪魔のものですから、「悪しきもの」とはすなわち世的なものです。

16節です。
 イエスはここでも、自分が認識していることを創造主に示します。
  「私も彼らも『世に属すものでない』と私は認識しております」
と確認してもらうかの如くに創主に語りかけています。

17節です。
 天のものと世のものとを区分するのは真理です、とイエスは創造主に語りかけます。
これも父と子の間では当然なことです。

真理とは天の創主王国で正しいとされる論理です。
それは創造主から言葉として与えられる、というのが聖書の論理です。
こういう当然なことをイエスは「真理とはあなたの御言葉のこと」とiいって語りかけている。
                    

<喜ばせておいてお願いする?>

~祈りの中では、まずそういう確認するような事項を言葉にして創主に示すべきなのでしょうか。
イエスは、創主との間で当然の合意事項となっているようなことを、
自分は認識していますと、一つ一つ創造主に示しています。

 当然なことを自分はきちんと認識しておりますと
自分の現状を改めて創造主に示すと、創主は喜ばれるのでしょうか。

創主を喜ばせば、それだけ祈りをよく聴いてもらえるのかな。

基本的なことを自分は理解していますと、きちんと示しておいてから願い事を差し出すべきかな。
  イエスがそうしているのですから、そうなんでしょうね。

イエスでもそうしているのですから、ましてや、人間は、
なおさらそれをきちんと示すべきでしょうか。


                    

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Vol.314 『天のもの、世のもの』(17章13~14節)

2010年12月10日 | ヨハネ伝解読

  ヨハネ伝解読。
本日は13~14節に進みます。

  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
  「わたしは今みもとにまいります。わたしはこれらのことをこの世で語っています。
この世の人々の心の内に私の喜びが満ちるためにそうしています。(13節)
わたしは世の人々にあなたのみことばを与えました。そして世はそれらを憎みました。
それらは世のものでないからです。わたしが世のものでないように、であります(14節)」
  (ヨハネによる福音書、17章13~14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

前半の13節から参ります。
 「それらのこと」とはイエスがこの最後の晩餐で弟子たちに語っている事柄です。
それをイエスは天においてではなく「この世で」語っているといっています。

そしてその理由を次のように言っている。すなわち~
イエスが創主の言葉を心に抱いて喜びに充ちているように、
「その言葉を受け入れた」人たちの心にイエスと同じ喜びが満ちるために~と。
 実際、創主の言葉には創主の思いが詰まっています。イエスはそれをこころに抱いているから喜びに充ちている。
世の人々もそれを心に受け入れたらイエスと同じ喜びが湧くはずだというのです。

                    

14節に進みます。

だが、現実には、世の人々の大半はそれらの言葉を受け入れないどころか憎んだ~とイエスは言います。
その憎しみはもう心の奥底から湧いてくるような憎しみで、憎んでいる当人にも言葉で説明しようがないものです。
なぜか。それは彼らが世に属していて、イエスとその言葉が世に属していないことから来るからだ~イエスはそういっています。

天と世とは絶対的に対立する。憎しみはそういう深いところから来るものです。
それを私は理解しています~と父なる創主に語りかけているのです。

                    

 

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Vol.313 『法則にも優先順位がある』(17章12節)

2010年12月05日 | ヨハネ伝解読

  ヨハネ伝解読17章、やっと11節を終えて12節に入れました。
本日の聖句はこれです。

                    
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      =聖句=
      「わたしが彼らと一緒にいた時、あなたがわたしに下さっている御名のもとで彼らを保ち、また守りました。
      かれらのうちだれも滅びたものはなく、ただ滅びの子が滅びました。
      それは聖書が成就するためです。」(17章12節)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

 前半はこれまでの解読でもうわかりますよね。
イエスの名のもとに弟子たちは保たれ守られた。
イエスが共にいる間は、そうであった、といっている。

 そして、これからはイエスは一緒にいなくなる。そうなっても同じように弟子たちを守って下さい、
~と現在祈っているわけですね。

                    

<滅びの子はイスカリオテのユダ>

 後半は解読が必要です。
この「滅びの子」これは誰のことを言っているかは、明らかでしょう。
12弟子の一人として、イエスに付き従ってきたイスカリオテのユダがその人です。
ユダはこれからイエスの居所をユダヤ教の高僧たちに知らせに行き、案内してくるのですね。

 だけど、何か変ですよ。
イエスはここで「誰も滅びたものはない」といっておきながら、すぐに「滅びの子は滅びた」とっている。

おかしいじゃないですか。
イエスが弟子と共にいる間は、イエスの御名のもとにいた弟子たち全員が守られるはずではないのか。
この法則はどうなったんだ。

にもかかわらずユダが滅びた。なぜだ!
これにつきイエスは「それは聖書が成就するためです」といっています。

                    

「聖書が成就する」というのは、聖書独特の表現です。
それは現実が聖書に記されているようになるという意味です。


またここで「聖書」とは旧約聖書を意味しています。
イエスが祈っているこの時点では、新約聖書はまだ出来上がっていませんでしたから。

旧約聖書にユダの裏切りが預言されている、という。

                    

<詩編の言葉>

   旧約聖書はイエスのことを証言する本です。直接証言していないときには、比喩で表現していることになる。

ではここでイエスが示唆している旧約聖書の言葉は何か。それは詩編における次の聖句ではないかとおもわれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までもが、
わたしにそむいてかかとを上げた」(詩編41章9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この言葉は、ず~と昔の預言者ダビデが受信した言葉です。
そこでダビデはその言葉を霊感で受信し、それを預かって記録しています。
そしてその「私」は人間には誰だかわからなかったのだけれど、イエスには自分のことだとわかっていたはずです。

  すると~
   「イエスの信頼した親しい友までもが、裏切ってかかとを上げた」
   ~という預言だったことになります。
 そして現実がそのようになって、ユダが裏切ったわけですね。

                    

さて現実は必ず預言のようになるという法則を法則Aとしましょう。
他方「イエスの名のもとにいれば守られる。滅びない」という法則を法則Bとしましょう。

  そして「本日の聖句」におけるイエスの言葉では、法則Aが法則Bを押し切っていることになっています。

   どうも法則Aは只者ではないようですね。

                    

<創造主から出た言葉に現実は従う>

  聖書の思想には「創造主から言葉が出たら、被造物(物質も)はそれに従う」という鉄則があります。
   聖書では実は、その法則が貫徹しているのです。

創主が「光あれ」というと光が出現する、というのはその一つです。
イエスも創造主(霊)です。イエスから「歩け」という言葉が出ると、足萎えも歩き出すというの一例です。
イエスから「見えるようになれ」との言葉が出ると、盲目の人の眼も開く。これも一例です。

  旧約の預言というのは、その創造主から出た言葉が記録されたものです。
ならば「預言はかならず成就する」というのも「創主から出た言葉に現実が従う」ことの
一形態だと考えられます。 

  そして「創造主から出た言葉には、現実は従う」という法則は、
「イエスの名ものとで全員が守られる」という法則Bよりも、根底的で優先的なのだ。
イエスはそれを踏まえて、本日の、一見矛盾する話をしているとおもわれます。

                    

 

 

          

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Vol.312 『イエスの名のもとには天使の群れが』(17章11節)

2010年12月01日 | ヨハネ伝解読

 ヨハネ伝解読に戻ります。
再び17章11節です。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      =聖句=
      「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父よ、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。
それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(17章11節)
      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

17諸11節では父なる創造主の名とは何か、というビッグテーマに取り組みました。
どうもそれはイエスらしく、さらにこれは御子の名でもあり聖霊の名でもあるらしいという見解にたどり着きました。

この11節は17章のなかでもビッグヴァースでして、まだ吟味事項があります。
ここでイエスは「その名のなかに彼ら(弟子たち)を保って一つにして下さい」と、も祈っています。
これはどういうことか?

 「名」の考察では、イエスの名はドメインを示すので、
その「名のなかに(in the name)」というのは、「名のもとに」が適訳だという見解も出てましたよね。

                     
                    
<名のもとで保たれるとは>

 だけど、その名のもとのドメインに弟子たちが「保たれる」というのはどういうイメージでしょうか。

 鹿嶋はここで、創造的誤読を楽しむことにします。

これはイエスが誕生する場面と共通したイメージではないか、と。
その場面はマタイ伝が記録しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「見よ、東方で(学者たちが)みた星が彼らを先導し、ついに幼子のおられるところまで進んでいき、その上にとどまった」
  (マタイによる福音書、2章9節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この星は実際の物質的な星だと信じていいでしょうかね?
でも物質的な星が横に動いていくことがあり得ますか? 
ないでしょう。創造主が動かすというのもなにか無粋で夢がありませんね。

 三博士や羊飼いたちには星に見えたのですが、
これは大きな星のように輝いた父なる創主イエスの名ではないか。
輝いていたのは御名の栄光(天使)ではないか~鹿嶋はこう想像します。

さらにこういうこともいえる。御名は星のように上空にありますよね。
星のようなものははるか上空から地上の小さな一点を示すことが出来るでしょうか。
つまり、イエスのいる厩を人間にわかるように示せるか。

明確には示せないでしょう。
やはり星のようなものの下には、光の柱のようなものがあるべきだ。
そうすればその光の下端でもって、スポットライトのように、
イエスが誕生した場所をはっきり示すことが出来るはずです。

御名の星の下には光の束はあったはず、というのは
天使の存在を考慮に入れたら納得できるはずです。
聖書では天使は炎にも風にもなることになっています。
当然光をも発するでしょう。

イエスの御名の星の下には天使の群れがいた。
聖書の思想では創造主の御名のもとには天使がいるのが当然なのです。

彼らがイエスのいる厩を示し、創造主のドメインを明示し、これを「世」から区分して守ります。
守るのは、誕生した御子イエスです。
ここに「世」の勢力が侵入しないように、区分し守るのです。
これがイエス誕生状況の真実だと鹿嶋は思っています。

                    

<弟子たちも名のもとに>

話を弟子たちが宣教に乗り出す時点に移します。
 後にイエスがいなくなると弟子たちは集まって活動しました。
その際上方には創造主が掲げたイエスの名があったことでしょう。

その下では当然天使の群れが働いていたでしょう。
これが鹿嶋における創造主の名のもとに「弟子たちを守る」イメージです。

こうして彼らは「世」から区分された。
区分されるからある弟子が世に溶けいってしまうこともおきなかった。
かくして彼らは一つになり続けられた。

+++

本日の祈りの場面に戻ります。
イエスは処刑されるのを前にして、上記のようになるようにと
父なる創造主に乞い願っているのです。

それが弟子たちが名によってたもたれて、一つになることだと
鹿嶋は解します。

                    

 

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