鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

京都のキリスト教的教会での事件

2005年04月09日 | 春平太チャペル

京都にある、韓国人牧師の教会で、不祥事が起きてマスコミを騒がせていますね。
牧師が、少女の信徒に対して、長年にわたって性的暴行を働いてきた。
幹部もそれを容認し、隠蔽工作に協力してきた。
そういうことが、捜査で次々に明るみに出てきています。マスコミの報道ですけれど、事実なようです。

***

どうしてこんなことがキリスト教会に起きるのか?
彼らもイエスの名を奉じてい礼拝してるのにどうしてそうなるのか。

疑問を抱かれる方も多いと思われます。信仰者には理解に苦しみ、当惑し心が混乱に陥っている人も多いように見受けられます。

理由は、結論からいえば簡明です。
「牧師は創造神から特別の権威・神格的権威を与えられた存在」という主旨の聖書解釈(教理)を作っていたところにあります。

 



<霊的活動自体に原因はない>

この教会は日本としては大きな教会になっているようです。その理由も簡明です。
日本の教会にない魅力を持っていたからです。


魅力とは、「霊的なことに、尻込みしないで、本格的に取り組む」ということです。
信徒が喜びの表情で踊ったり、恍惚、失神まがいになって倒れたりするのは、それによる一現象であって、何も奇怪なことはありません。


日本の教会にそれがないのは、そういう霊的局面を恐怖して、それに取り組むことを避けているからに過ぎません。

世の中には、霊的としか考えがたいような原因で苦しんでいる人が少なくありません。
これに、日本の教会は、全く無力です。霊的局面を避けるのだから。
だから、苦しむ人々は教会に失望します。その結果、教会は成長いたしません。

韓国系の教会には、これに本格的に取り組む姿勢を持っているのがたくさんあります。
「汚れた霊を追い出す」というのも、その一つです。これ自体は、聖書にあることであって、何も奇怪なことではありません。
異端でも何でもありません。

 



<韓国教会に多い欠陥>

しかし、韓国の教会には、概して大きな欠陥があります。
それは、米国の聖句自由吟味主義者が守り続けているような、自由吟味活動と、そこからくる原理がないことです。

(なお今日では、自由吟味主義者の大半がバプティストという名で呼ばれています。そこでここでは、これをバプティスト原理ともいうことにします)



<ソウル・コンピテンス>

聖句自由吟味(バプティスト)原理の一つに、ソウルコンピテンス(soul competence:霊的能力)原理というのがあります。

 「信徒は各々魂の中に、聖書の奥義を直接自分で探っていく能力(soul)を与えられている」
~~という原理です。

 ここでは、牧師や神父などの僧職者に別格な能力が与えられる、という認識はしません。
その結果、礼拝における牧師のメッセージが「創造神の言葉」などという解釈も、出てこないわけです。


「牧師の説教の言葉はカミ(ハナニム)の言葉だから、服従しなければならない」、と韓国ではよく言います。
こんなこと、米国のバプティストが聞いたら、仰天しますよ。そして反射的に拒否するでしょう。

牧師は説教していても、もちろん、間違うのです。
米国、特に南部では、それを前提に、みんなで教会をやっています。

 



<万人祭司>

 そこから、又、「万人祭司)(priesthood of all believers)の原理も出てきます。

祭司というのは聖職者の名前ですが~、
「牧師や神父に説教の力が与えられているというのなら、信徒はみんな祭司だ」~といっている。

それにしても「万人祭司」というのは上手い邦訳ですね。

ともあれ、だから、信徒はみんな、説教していいんだよ、ということになります。

米国の自由吟味主義地域では、バプテスマ(洗礼)も執事(信徒の代表)が授けています。
牧師の特権では全然ありません。



<韓国・日本は自遊吟味義原理に鈍感>

教会を健全に保つのには、これらの原理を自覚的に保持することが必須です。
聖句自由吟味者の祖先たちは、紀元後5世紀から16世紀にかけて、
1200年間にわたって、それを守るために殉教し、多くの血を流してきたのです。


ところが韓国の教会、信徒、牧師はこうした原理に盲目です。
日本でもそうですが、儒教の思想基盤が濃厚なせいでしょうか、韓国ではその傾向がより顕著です。

だから「牧師はカミにたてられたもの」などということを平気でいいます。
そして、牧師もそれに乗っかって自分を神格化していきます。
自分を通して信徒は創造神と交わるのだ、などと真面目に考えている牧師はたくさんいます。

これ、中世カトリック教団が、法皇をイエスの代理人として、イエスの権威を自分に延長したのと質的には同じです。
また、彼のその権威を各地の教区教会の神父に与えたのと同じ性質のものです。

同じことを、人間は性懲りもなく現代、繰り返しているわけです。

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中世欧州で聖句自由吟味者は、教職者の神格的権威を拒否し続けてきました。
最終的な権威は、「聖句そのもの」にある、と教皇の神格を否定し続けてきました。

そこで、教皇の名の下に出される教団の教理(聖書の一解釈)も受け入れませんでした。

そのため、自由吟味者は1200年間にわたって、総計5000万人もが処刑され続けてきた。

そういう精神統制が国家宗教(カトリック教団)によってなされた時期、
~これが後に「中世暗黒時代」と称されるようになったのです。

国家によって精神統制が行われると、文化的にも、創造性が萎えてしまう。
だから「暗黒時代」と呼ばれるのです。

そういうなかで聖書解釈の自由を守ってきた人々がいた。

彼らの信ずるところを言葉にしたのが、バプティスト(聖句主義)原理です。

その精神的な子孫たちが今でも、米国南部にたくさんいます。
彼らは教職者を神格化するような気配があったりしたら、気配を感じただけでも、即座に拒否します。
非常に敏感です。

 


<情欲の薪がどんどんくべられる>

聖句吟味主義の伝統がない韓国では、それがすっぽり抜けているのです。
そこに儒教風土も加わってか、信徒も神格化された牧師をありがたがったりします。

そうすると、もうだめです。
牧師は自分の中に、特別な神性があるなどと妄想してしまいます。
妄想もイメージの一種です。色々イメージすることそれ自体は、聖書解読の一作業としてはよろしい。

 だけど、自分に特別な神性があると思ってしまうと、その人はもう聖句と自己の解釈とをつきあわせようとする意識を失ってしまいます。

聖書に書かれているような悪魔が存在するとすれば、悪魔はそこにすべり込みます。

悪魔はそこに、物質的・世的な意識をどんどん注入していきます。

まるで、蒸気機関車の釜焚きが、石炭や薪をくべるように、ドンドンドンドンとくべていきます。

 だから、情欲もどんどんふくらんでいきます。本人も予想しなかったような異常な大きさにそれはふくれあがります。

今回の事件は、なるべくしてなった、公式どおりの、自然な結果なのです。

 



<安全策=聖句主義原理を保持すること>

では、一般の人々は、今後どうしたらいいか。
創造神とイエスと聖霊のみに神格を認める~~これを意識の中で徹底させたらいいです。

 そして、この神格イメージを自分に拡張しようとする牧師、その一端を自分に重ね合わせようとする牧師がいたら、即座に拒否することです。

これには敏感であるべきです。

いたらその教会を離れることです。そうしたらいいのです。

そのためには、今述べた二つのバプティスト(聖句主義)原理も改めて明確に知っておきましょう。

その一つは、ソウルコンピテンス(soul competence:霊的能力)の原理でしたね。

 「信徒は各々、聖書の奥義を直接自分で探っていく能力(soul)を与えられている」
~~という原理でした。

 これを正確に踏まえますと、「牧師や神父などの僧職者に別格な能力が与えられる」というような認識をしなくなります。

礼拝における牧師のメッセージを「創造神の言葉」などと、教職者や教会員が言ったら、「あほか・・・」と思うことが出来ます。

そしてその教会を即座に離れることができます。

+++

 第二はpriesthood of all believersの原理でしたね。
「万人祭司」の原理だ。

 「信徒はみな、説教者であって、牧師や神父だけに特別に説教の力が与えられているのではない」と考える。

すると、「みんな、説教していい」ということになります。

それをうけて、自らも説教する姿勢を持つことです。
姿勢だけでなく、強く意欲することです。

 そうすれば、聖書は素晴らしい知恵と力を与え続けてくれます。
信頼し続けて、まったく差し支えありません。

 

 

 

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