鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

小泉君への助言・3

2005年06月22日 | 「考える宗教」へ
チャペルで世的な話はよくないのですが、
小泉首相の靖国政策にあまりに宗教的純朴が
目立ちますので、日本のために少し語ってみます。
またすぐに、本来の霊的な話にもどります。

***


前回レスポンスを下さった方から、再び、ご意見をいただきました。

要点は、結局は「分祠は容認できない」、というものでした。

前回、「小泉さんの論理は中国には通じない
ということがよくわかった」ということでした。
が、それでもご当人は結局合祀主義である
と、今回表明されました。

 下記がその主旨です。

***
>かのロー
>マ帝国や大英帝国において、このように、相手国のリーダーを
>「正義に反する犯罪者」として断罪すること、弔うことも禁止
>する非道があったでしょうか?
***

これは、小泉君の心情にも共通しているものと思います。

~~~素朴な心情でいえばニッポンジンには、
分祠なんてとんでもないのですね。
日本人の心情とは、「みんな一つに同一化する、
そうしないと気持ちが安定しない、不安定でやっていけない」
という心情です。そこから、合祠への根拠はどんどん出てきます。

「A級戦犯だって、国家を守ろうとして
一生懸命やったではないか。
悪いところもあったかもしれないが、
それは我々も同じではないか。
人間神様でないんだから・・・。」

「遺族の方々にいつまでも苦い思いを残すのはよくない、
同じ日本人ではないか」

「人間は十二支一巡りで忘れるというではないか、
もう戦後60年もたったのだから、互いに忘れて水に流したらどうだ」

「A級戦犯だけ別にしていては愛国心の
素直な育成に障害になる」等々。

 いわゆる国家主義的主張は、
これらの心情から直線的に噴出してくるものです。

 この線だけでいけば、「日本には民族固有の愛国心情がある、
中国は分祠というが、それではこちとらの気持ちが収まらないんだよ。
これをどうしてくれるんだ」となります。

 まあ、最初はそれもいいでしょう。長い間土下座外交で
「すみません、すみません」とやってきて、心がいじけてしまった。
愛国心のゆがみを矯正するには、純朴な国家主義もしばらくは効用を持つでしょう。


 だがこれだけでは中国の主張とまともに衝突し続けることになるのです。
中国からすれば、首相が参拝するならば分祠の道しかない、合祀こそが非道です。
これは変わらないですよ。「水に流せばすべては許せるではないか」
という思想・風習は、日本だけのものなのですから。



<靖国線上に分祠する>

 純朴な国家主義を卒業して、反戦・平和主義と両立する方策を考えないといけません。
しばらくは国家主義でぶちかますのもいいけれど、結局は知恵を出さないといかんのです。

 その一案は次のようになるでしょう。

~~ すなわち、A級戦犯は、中国の切望通り、分祠します。
ただし、分祠場の位置は、靖国を参拝するとき、
参拝者が正面を向いた直線上に作ります。

 直線上ならどこでもいい。
近くの千鳥ヶ淵のどこかであってもいいし、
埼玉、千葉など遠く離れた他県の森林でもいい。
とにかく靖国の礼拝方向の直線上に正確に作ります。

 これは利点を持っています。

1.
A級戦犯を同時に礼拝したい人も、
それを意識することでもって密かに礼拝することが出来る。
望む人にはそうさせることができる。

2.
A級戦犯の遺族の人も、深い国家貢献意識を抱くに至ることができる。
「我々は、国家が国際社会で生きていくために犠牲になって、
このように分祠を承諾した。
だが、わかる人はわかって拝してくれている。
我々にはそれがわかる。
耐え忍ぶ我々こそ最大の愛国者・・」と、深い満足感を抱くことができる。

3.
 一般人も、これをストーリーとして密かに語り継ぐことによって、
武人的精神を養うことができる。
 これによって愛国心も、平凡に合祀するよりも、はるか何倍も高まる。
こういう二重構造的物語は、日本人の心にあう、心情に深くタッチするのである。

4.
 もちろん、これで中国の積年の願望にも応じていることになる。

~~靖国延長線上に、分祠するのがいいのです。
だが、これは分祠であって分祠でない。
合祠であって合祠でない。
まさに、ニッポンの神髄をいく解決策であります。





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小泉君への助言・2

2005年06月21日 | 「考える宗教」へ
 チャペルで世的な話はよくないのですが、小泉首相の靖国政策にあまりに宗教的純朴が目立ちますので、日本のために少し語ってみます。またすぐに、本来の霊的な話にもどります。戻らなければならないです。

<怒りのレスポンス>

 前回の春平太の投稿に対し、読者から、長いレスポンスを個人的にいただきました。要点は下記のごとくです。

~~なるほど、小泉さんの
論理は、国際社会(アメリカ、中国、韓国)には通じがたい
ということがよくわかりました。

 ただ「戦争に正義を導入し
て断罪する」というやり方は、アメリカそして中国に特殊な
考え方であるということを聞いたことがあります。

   ・・・(中略)・・・

日本を悪とし、共産主義を悪とし、イスラムを悪とするアメリカ。

また歴史を都合
よく平気で改ざんし、自国の支配の道具とするとともに、外
交における有利な交渉材料、他国侵略の道具とすべく、戦時
プロパガンダを執拗に展開するという、まさに中華社会の伝
統に忠実な中国や韓国。

 これらは、欧州の主流の伝統的な戦
争観から見れば、極めて特殊な考え方です。つまり「誰が良
い者で誰が悪者であるかを言い続ける」というイデオロギー
史観こそ特殊です。

 A級戦犯という、東京裁判のバカげた決め付けそのも
のが意味ないわけであり、その後の国会決議でも、戦犯特赦
を圧倒的多数で決議し、無念を晴らした。これは当時の国民
の常識です。A級戦犯が許せない、霊も弔えないなら、A級
戦犯である岸さんが、なぜ総理になった時に、アメリカも中
国も、文句を言わなかったのでしょうか?つまり、自国にと
って有利に使える材料だから、情勢によって、靖国を持ち出
しているだけであり、一貫性など何も無いのです。

 従って、小泉首相に期待するのは、国際社会を意識してもっと論理的に徹底的に主張
をすることでしょう。まっとうなブレーンをつかって徹底し
た論理展開を、国内、国外に向かって、各国の母国語で直接
語りかけること。

・・・(中略)・・・

間違った戦後60年のゆがみを正
すこと、それが、残された任期における小泉さんの重大な仕
事である~~~

<春平太のレスポンス>

 で、鹿嶋としては、こんな対応をいたしました。


***

~~憤懣、よくわかります。
心ゆくまで怒ってください。私も一緒に怒ります。
これはこれで、抗議していていいのです。

 ただし、そう言いながら他方において、
犯人を明確にして事件は事件として銘記する、
というのは独立に処せねばならない、ということですね。
 
 全大和民族がこの辺を「わからない、しない」なので、
中国の民衆暴動が誘発されている、
という面も、濃厚にあるのですね。
火に油を注ぐというか、その油の役割までしてしまっているのですね。

 その意味で、犯人銘記の必要がわかっていないこと
へのいらだちは、できものの根っこに当たるわけです。
これを切除したら、できものはス~と引っ込んでいくでしょう。
多少、かさぶたは残りますけどね。

(>「誰が良
>い者で誰が悪者であるかを言い続ける」というイデオロギー
>史観こそ特殊です。
 ~~これは、史観などという頭のてっぺんに
あるものとは違いますよ。多民族社会統治の知恵です。
それに、当事者が自主的にちゃんと対処したら
「言い続け」ませんよ)

 そこで、根っこをとるための考察をすすめましょう。
その方が生産的です。

<かみ合わないなあ>

 春平太の前回の投稿を読んで、
「要するに分祠をしろといってるだけじゃないか、
よく聞く通説じゃないか・・・」という印象をおもちに
なったかも知れませんね。

 だが、よ~くみて下さい、そうではありませんよ。
通説では、分祠を一つの選択の道のように捉えています。
私はそうではなく「分祠は選択の余地のない
絶対的な道だ」といっているのです
(だから、できものの根っこです)。

 この違いは、大きいですよ。
分祠という道は避けて通れない道なのです。
国際社会で生きていく限りは、やらねばなりません。

 これが十分にわかっていないから、
「戦後60年間も平和主義を通してきたではないですか、
そのあたりを評価していただかないと・・・」
といったような、ずっこけたお願いを、
政権政党の幹事長あたりがすることになるのです。

 それと、犯人を消滅させない、というのとは、別の話なのです。
ほーんとにかみ合わない。中国側は、あきれているでしょう。

 (これがすすむと、バッシングになります。
わからなければ、子供を訓戒するときのように
バッシングするしかない、というのは
アメリカもやりましたね。
ジャパンバッシング・・・)

<女性副首相が帰ったのは>

 中国の女性副首相が、小泉君との面談をドタキャンして日本を離れましたね。
小泉君に上記のことがわかっていないのが明らかだったからです。
どうして話し合いさえしないのか、ですって?

 彼等は、人間社会の本質をよく知っているのです。
ある問題をめぐって「わかっているものと」「わかっていないもの」
とが論争したら、後者の「わかっていない方が勝つ」ということを。

 実際そうでしょう、常に。
日本人でも既婚者には、それを知っている人が
少なからずいるのではないでしょうか。

 中国の為政者の知恵に関して、マスコミに出ないものが
私の耳に入ってくることがあります。
宗教社会的な側面のものですけどね。
それから受ける彼等の知恵の深さには、驚嘆することがあります。

 中国の統治者の知的な能力には飛び抜けたものがあります。
なにせ、麻雀を考え出した民族です。

 でも、小泉君は、自説を率直に、堂々と主張しますよね。
慶応ボーイそのもの。裏がない。
だから、中国の統治者も、安心できるし、
憎めないんじゃないですか。
やんちゃな息子のようにかわいく感じる面もある。

 そこで、今回は、
「純なる少年よ、我々の負けです。バンザイです」
ということになった。
そこで、女性副首相は呼び戻されたのです。
日本の識者・ジャーナリズムは「何故だ、失礼ではないか」
などと理解に苦しんでおりますけどね。
筋道は明瞭なのです。


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小泉君への助言・1

2005年06月20日 | 「考える宗教」へ

~~(カテゴリーが多くなってきましたので、「小泉君への助言、1~3」を『「考える宗教」へ』のカテゴリーに移しました)~~


+++

 チャペルで世的な話はよくないのですが、小泉首相の靖国政策にあまりに宗教的純朴が目立ちますので、日本のために少し語ってみます。またすぐに、本来の霊的な話にもどります。

<「水に流す」は日本だけの倫理>

 何から書いたらいいか。たくさんありますから。
 「罪を憎んで人を憎まず、というのは(中国の)孔子の言葉ではないか!」という小泉君の国会発言からいきましょうか。

 結論から言って、こういう発言は当人の宗教社会学的純朴さを披露するのみで、中国だけでなく、米国だってあきれかえるものです。

 人間というのは、間違いを犯すしかないような存在です。唯一の方法は、過去の経験(歴史)という経験素材になっているものを何とか用いて、失敗を繰り返さない、というもののみです。これは人類が身につけてきた歴史的知恵です。

 そのために、過去において国際的に、間違いだった、という大きな事件はそのまま記憶に留めることが必要です。その際、その事件を引き起こした主体(犯人)は、記憶のために必須なのです。

 人間の認知構造上、シンボリズム上、これはいるのです。国際的な出来事に限らず、「水に流す」という倫理は日本以外の国にはありません。

<サタンは憎み続けます!>

 米国もこれについては同じです。詳しくは『聖書の論理が世界を動かす』(新潮選書)の「なぜ真珠湾を忘れないか」という章(8章)に書きましたが、たとえば、パールハーバー。こういう宣戦布告なしの、突然の不意討ちは、いけないのです。事務的なミスで通達が少し送れた、という言い訳もあります。そういう小細工的ないいわけを伴わせてやるのは、なおいけないのです。

 で、これは、周期的に「パールハーバー記念式典」を行って、決して風化させない、ということになります。日本人は、この季節ごとに気持ちが重くなりますが、米国はやり続けます。

 では、その際、事件を行った主体である日本人を許していないのか、というと、そうではありません。ここは、米国独特の思想がはたらいて、結論は「日本人そのものは許している」となります。

 米国では、究極の犯人はサタンということになるのです。だから「サタン憎んで人を憎まず」にはなります。日本人そのものは許している。しかし、サタンが活動して、こういう事件につながるような意志決定に、人民・指導者を誘導したサタンは決して許してはならない、という論理です。

 これを屁理屈ととる向きは、米国社会の意識構造を知らない人です。日本人にはサタンは架空の存在でしょうが、米国では、明確に実在する主体・意識体です。だから、はっきりとした実在感をもって、憎んでいるのです。

 式典で「創造主よ、このようなことが二度と起こされないように、我々を守ってください」という祈りが出るのは、その関連なのです。

<五人組事件>

 ところが、中国ではその種の実在感を与えてくれる理念上の存在はありません。そこで、当事者である日本人を憎まざるを得ません。だけど、民族全員を悪としたのでは、その後の国際社会の建設ができません。

 そこで、それを主導した指導者たちが悪いのであって、人民はそれに引きずられただけ、という理解をします。これは中国の知恵に根ざしたやり方なのです。

 「五人組事件」というのをご記憶でしょうか。林彪や江青たちが、毛沢東体制を打破しようとした戦後の革命事件です。国家体制を回天させるようなもくろみが、5人で出来るわけがありません。沢山の同調者、仕掛け人、フォロワーがいたのです。

 けれども、時の政府は、彼等の罪は問わなかった。指導者の5人だけを罪人として、裁き、後は現体制の国家建設活動に協力させていきました。

 指導者に対して、シンボリックに「五人組」という名称を与えたことが、それを絵のように示しています。

<反日暴動の処理も同じ>

 新しいところでは、最近の反日暴動への対処がありますね。
 上記の理由で中国国民の怒りはわかるのです。ですから、政府はやらせました。しかし、そのままでは、国際社会における国家運営ができません。そこで、暴動の写真をしらべて、顕著な暴動者を幾人か捕らえた。彼等をテレビに出し、謝罪させ、他の暴動者を全て許しました。

 これも「五人組」方式そのものです。五人くらいには悪者になってもらって、暴動してものを壊すのは悪いことだ、という認識は明示・安定化します。そして、人民は許しましたね。

<仇に対するに徳をもってす>

記憶のずれがあったら指摘して欲しいのですが、60年前に、日本の敗戦が確定的になったとき、時の中国の統治者と国際的に認知されていたのは、蒋介石でした。その統治者が「日本に対して賠償を求めない」、と宣言しました。

 その時でた言葉がたしか「仇(?)にもってするに徳をもって対する」といったようなものでした。儒教の教えにある言葉ではないでしょうか。

 つまり、こういって、まず、日本民族は即座に許したのです。しかし、日本帝国の指導者たちはやはり裁かれるべき悪者でした。日本人民は、彼等に引きずられて罪を犯したに過ぎないので、究極的には悪者ではない。だから、徳でもって許すという。五人組と同じ論理です。

 だがその五人組は必要なのです。それが東京裁判で処刑されたA級戦犯です。こういう存在は必要なのです。今中国は、日本の諸君よ、そういう存在を持つと言うことが、過去やらかしたことを風化させないために必須なんだよ、と言っているのです。A級戦犯さんたちに、これになってもらいなさい、といっているのです。

<長年の歴史に根ざした知恵>

 これは、中国4千年の歴史に根ざした知恵なのです。そうしないと、異民族国家も含めた国際社会は統治できないのです。

 それにたいして、「もうみんな許したらどうなの? 罪を憎んで人を憎まず、というじゃないの」と小泉君はやらかした。びっくりするなあ・・もう・・・。

 考えてみてください。罪を憎んで人を憎まず、というのは、個人レベルでは、時には民間で成立する論理かもしれませせん。だけど、国家規模でやらかした国際的事件にかんして、「人を憎まずだから、もう、指導者もみんな許しなさい」といってたら、国際社会の統治は出来ないですよ。そもそも「裁き」というのが成り立たなくなってしまうではありませんか。


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