前回~
「イン・ザ・ネーム・オブ・ジーザス」の直訳「イエスの名の中で」を筆者は当面「イエスの名の持つ波動体の中で」と理解している~といった。
そして、それは深い意味をもっている、と付言した。
今回はその「深い意味」を考える。
長くなる。
<「御名の中に保ち守る」がわかる>
まず、この理解によって、従来わかり辛かったイエスの次の言葉の意味が初めてわかってくる。
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「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。・・・(中略)・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしにくださっている御名のなかに、彼らを保ち、守りました」
(ヨハネによる福音書、17章11~12)
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これはイエスが十字架刑死を直前にして、父なる創造神に、弟子たちのことを祈る大切な場面だ。けれども「御名(イエスの名)の中に弟子たちを保ち守る」という祈りの言葉の意味がわからない。
それが「イエスの名」が波動体だとなると、わかってくるのである。
つまり、その意味は~
「自分は、イエスの名の波動体のなかに彼らを住まわせて守ってきた」
「そして、自分はまもなく天に上っていなくなるが、この世にイエスの名を遺していくので、その波動体の中に彼らを保ち守ってください」
~という風に理解できるようになる。
<イエスは天国を持って地上に来た>
ついでにイエスのこの祈りの背景を、今少し詳細に考察するとこうなる~。
聖書では被造界の大枠は、天の創造神王国(天国)とその中の「宇宙」で構成されている。
天国は、罪のない世界、創造神の義の世界だ。
対して宇宙は罪に満ちた不義の世界だ。そこは黄泉(暗いところ)であり、いわゆる「世」だ。
その宇宙に「人の子」の姿をとったイエスは~天から~やってきた。
そしてそこに、いのち、救い、希望、能力、グレースの愛、慈愛(あわれみをもった慈しみの愛)等などを実現した。
これらは全て天国(天の創造神王国)に満ち満ちた要素である。
つまりイエスは「天国(の属性をもった空間)を伴ってこの世に来た」のだ。
それ故にイエスは「回心(repent)せよ。天国は近づいた」といった。イエスの近くにいた人間には「天国は近くに来ている」ことになるからである。
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言い換えると、御子は天国の波動空間をもって、「世」に下って来たのだ。
そして世を切り裂き、その中にイエスの名がもつ天国の波動空間を貫き建てたのだ。
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天国は宇宙より絶対的上位にある。そこに住む者は、その天の権威を行使できる。
この空間が併存するようになって、宇宙は悪魔の一円知行の空間ではなくなった。
天国という波動空間が併存する、そういう二元的波動空間になったのである。
<「世」の空間では悪魔の権は存続>
だから、従来の「世」の属性を持ったままの空間では、あいかわらず悪魔が空中の権を握って主導しているのだ。
昨今「イエスが十字架で殺されても復活したから、もう悪魔は打ち負かされ、空中の権も取り上げられた」と説明する指導者が多いのだが、事態はそうではない。
イエスの復活後も、「世」の空間では依然として悪魔が支配している風景になるのだ。
<「殺意」の証拠はあがったけれど>
たしかに悪魔は、創造神の御子をユダヤ人たちに殺させた。
それによって、創造神に対して抱いている殺意の証拠があがってしまった。
それで悪魔には有罪判決が下り、裁きは完成した。
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だが、刑の執行までにはまだ期間がある。
その間も悪魔は「世」の波動空間では支配者であり続けるのだ。
悪魔はその本性に従って行動することしかできない。
だから一人でも多くの人間を自分の(「世」の)側に取り込もうと働くのだ。
悪アガキと言われようがどうだろうが、そうしかできないのだ。
<バプテスマとは何か?>
こうした二元的空間の中でこそ、「信じる者には次のしるしが伴います・・・」という、今筆者が問題としている聖句の、すぐ前の聖句の正確な意味と位置もわかってくる。
その聖句は~
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「信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます」
(マルコによる福音書、16章16節)
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~だった。
ここでイエスは「信じる」だけでなく「信じてバプテスマを受ける者には・・・」と言い残している。
なぜバプテスマまで持ち出すのか。
一体バプテスマとは何なのだ?
それはまず、①人を水に沈めるが、これは~
~従来「世」の空間でその不義の波動のなかで生まれ育ち、義のない人間が、その旧来の自分を~イエスの名を信じて~水に沈めて葬る行為だ。
②次いで人は水から浮上する。
これは「世」の空間にいて義のない自分を葬った後、新たに生まれて「天国の(義の)波動空間」に入る行為だ。
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このように、イエスが来てからのバプテスマは、自分の霊の居所を切り替える行為である。
これを「新しく生まれる」という。
そしてそれは、この宇宙に「天と世」という、2つの相対立する波動空間が併存していてこそ成り立つことである。
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バプテスマは「信じたことを公に表明する儀式」と教える指導者も多い。
たしかにこれは一見儀式のように見える。だがそうではない。
これは「信じた者にはバプテスマを施せ」という、「主の命令に従う」行為である。
その命令に従うことによって、人はイエスの名の波動空間の方に、その霊の居所を変えるのである。
<「救い」は霊の住む波動体を変えることで>
天国の波動ゾーンに入って、人は初めて義と認められる。
世において善良で正直に生きた人でも、そのまま「世」のゾーンに留まっていれば、その霊は不義とされる。
最後の審判では有罪の裁きを受け、永遠に「火の池」にはいる。
創造神は人間のうわべをみない(第一サムエル記、16章7節)で、「霊」をみるからである。
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逆に「世」において悪行を重ねた人でも天国(イエスの名)ゾーンに入るならば、その霊は義と認められる。
彼は世の法で審判され、刑罰は受ける。
だが霊は義とされ、最後の審判でも天国に迎え入れられる。
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これが「救い(salvetion)」の実体である。
救いとは霊の居所を変えることで得られるものなのだ。
それにバプテスマが決定的な役割を果たす。
だからイエスは、信じて「バプテスマを受ける者」は救われる、といったのだ。
<バプテスマの神秘>
話は長くなるが、この機にのべておく。
量子力学の知識は、バプテスマのその効果を、物理学的に理解させてくれるだろうと、筆者は思っている。
だが、いま筆者・鹿嶋にはその論理を見出す余力がない。
そこで当面それは「バプテスマの神秘」として認識している。
福音の認識では、神秘主義は避けねばならない。
それはわかっているが、ここはかの創造神の御子、イエスの事例でほぼ納得している。
ヨハネからバプテスマを受けることで、一気にその姿を変えたイエスの事例がそれだ。
聖句をみよう。「マタイ伝」3章である。
イエスはヨハネからバプテスマを受けようとする。
だがヨハネは「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに・・・」と辞退する。(14節)
けれどもイエスは言う。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、全ての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(15節)
そこでヨハネはバプテスマを授ける。
すると「イエスが水から上がられると天が開けて聖霊が鳩のように下って、自分の肩に留まられる」のをイエスはご覧になった。(16節)
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(17節)
<突然母マリアを「女の方」と呼ぶ>
これを契機に、イエスのマリアの生んだ息子であり「大工の子」の側面は後退する。
代わって人間の姿をとって現れた創造神である「人の子」の側面が前面に出る。
なんとすぐに彼は、自分を産み育てたマリアを「女の方」と呼ぶのだ。
その時彼はすでに「人の子」としての公生涯を開始しているのだ。
その転換点に、バプテスマが位置している。
~これら一連の衝撃的な出来事が、当面バプテスマの力を筆者に理屈抜きで納得させてくれている。
<救われてもしるしが伴わないのは>
さてこれで、16節の、「信じてバプテスマを受けるものは」の「信じる」と、17節の「信じる者にはつぎのしるしが・・・」の「信じる」との関係も明らかに出来るようになった。
結論から言うと、16節での「信じる」は、イエスの「夢の約束」(ヨハネ伝、15:7)の第(II)ステージに相当する。
だから、これにはしるしは伴わないのが道理だ。
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現在、「俺、信じてバプテスマ受けたけど、しるしは現れないよ。あの彼も、この彼女もそうだよ。マルコ伝のこの聖句の言葉はオーバーだよ」といった感慨を抱くクリスチャンは多い。
だが、その状態は当然の帰結なのだ。
この「信じる」は、次の17節での「信じる者には・・・」の「信じる」とは違うからだ。
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つまり、それに続く17節の「信じる者には次のしるしが伴います」の「信じる」は第(III)ステージの状態だ。
イエスを全身全霊込めて愛し、同化し、分身となったレベルの「信じる」なのだ。
これにはしるしが伴う。
イエスの波動体空間の中に住まって、天国の「義」を与えられ、第(III)ステージに達すれば、天の「力」をうけるのが道理だ。
だから、その人からは、当然、しるしと力が現れることになるのだ。
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「イエスの名の中で」は、以上のような豊富な論理体系に繋がっている。
~今回はこれまでにしよう。