鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

5.聖書吟味が政治見識を劇的に高める

2013年07月21日 | 「想像する力」が日本を救う




前回、4の話は少し詳細に立ち入りすぎました。
その結果、長すぎることにもなり、わかりづらかった嫌いがあります。
反省して、もう一度、要点を述べてみようと思います。





<適切な政治行動にはイメージ力が必須>


適切な政治行動がとれるには、政治見識をもつことが必要です。
そして政治への見識は、等身大の日常的経験知識を超えた世界の知識が必要です。
いわばマクロ世界の知識を、必要とするのです。

また、それには、直接経験する領域を超えた世界を想像する力、イメージ力がいります。

これを養わねば、政治見識、政治能力は出来ないのです。
個人についても、国民全体についてもそれは言えます。





<イメージ力を劇的に養う素材>

イメージ力を劇的に養う方法があれば、どんなにいいでしょうか。
それがあるのです。
聖書という素材を用いて、これを様々に吟味する方法がそれです。

聖書という書物には、一見奇想天外に見える世界や出来事の話が沢山含まれています。
そしてこれは、全知全能の創造神が、事実であるとして送ったメッセージの記録だと、自ら言っています。

その言葉を肯定的に受けとめ、て事実として吟味してみます。
すると我々は、通常では事実だと思えないような世界や出来事を、
日常の事実感覚を延長して理解しようと勤めます。

これがイメージ形成力を劇的に養うのです。

のみならず聖書に盛り込まれた世界観は、われわれの世界観を強烈に広げます。
政治の事柄は、その世界観の中に位置づけると、突然その理解は飛躍するのです。

(完)





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4.イメージ力を養う最高の方法

2013年07月05日 | 「想像する力」が日本を救う





<政治事象一般の認識もイメージ力による>

国防政策や原発設備政策に限らず、人間が広く、政治現象一般を認識するための主要手段は
イメージ力です。

政治事象というのは、人民個々人にとっては自分が日々の生活で経験する事柄を超えたことです。
そういう等身大を超えた事象をリアルに認識するのは容易ではありません。
直接経験してないのですからね。

結局、メディアなどで得られる限られた情報を手がかりにして、
我々は政治事象をイメージするしかありません。

そのイメージ力が人民に貧しかったらどうなるでしょうか?
国民は結局、政治に暗愚な愚民となるしかないのです。
民主制の国家では、愚民国家を形成するしかなくなるのです。




<イメージ力を養うには>


では、我々は想像力、イメージ力をどうやって高めたらいいでしょうか。
ここからようやっとクリスチャンの方にも喜んでいただく話になります。
そのために最も有効な教材は、聖書だからです。
これを吟味するのが、最高のイメージ力育成手段なのです。




<事実と前提して吟味する>

ただし、その吟味には条件があります。
吟味は聖書の中の話はすべて事実だと受け止めてするということです。

聖書には、一見したところ、「とても現実の出来事には思えない、これは作り話だろう」
~という話がたくさん出てきます。

たとえば「天から毒蛇が降ってきてイスラエルの民を噛む」(「出エジプト記」)という話もあります。
「ヨナという預言者が海に放り込まれ、大きな魚に飲み込まれておなかの中で三日三晩すごし、
陸に吐き出されて元のように暮らす~という話」(「ヨナ記」)もでてきます。

われわれ現代人には、こんな話を事実として吟味するのは知性に反すると思えてきます。

だが、これを事実と主張する根拠を聖書は持っています。
聖書のなかの話は、「万物を創造した創造神から事実の話としてイスラエル民族にメッセージされ、霊感の豊かなものがこれを受信し記録したもの」、となっているのです。

「そんなバカな」「笑わせるな」と多くの現代人は言うでしょう。

だけど万物を創造した方がもしいるのならば、この方はすべてを知っているはずとなるでしょう。
テレビを造った人間が、テレビのすべてを知っているように、つくった万物についてすべてを知っているわけです。

そしてそういう存在がもしいるとしても、それは人間の五感認識を超えた世界のものです。
その世界のことは人間には手応えを持った認識が出来ません。
認識できない世界(これを形而上世界と言うこともあります)の物事については
「ある」とも「ない」ともいえないはずです。
だって見えないんですから。

創造神が存在するかどうか、だけでなく、その方からのメッセージが
霊感受信可能な形で人間に送られたかどうか、も人間には見えません。
だったら、それらが存在する確率は合理的には五分五分でしょう。

なのに、もともと存在界のほんの一部しか知ることの出来ない人間が
「そんなことはありえない」というのは論理的におかしな話となるでしょう。
だって、それは「存在する確率は合理的には50%であるのに、ゼロだよといっている」
のですから。
そういう判断は合理的ではなく、実はとても感情的な判断なのです。




<事実として吟味する心理の特徴>

合理的に考えますと、聖書の話が事実の記録である確率は五割です。
それを事実として読むというのは、「事実である」という肯定的な確率の方の5割に立って
読むと言うことです。

そうやって聖書の話を吟味するという手法は、想像力を強烈に高めるのです。
そのことは、聖書をもう少し具体的に眺めてみるとわかってきます。
旧約聖書を例に取るとわかりやすいので、それを眺めてみましょう。

+++

そこには、現代人には奇想天外に見える話が沢山出てきます。
さきほどの毒蛇の話も、預言者ヨナのはなしも旧約の中の話です。

これを歴史的事実として吟味するとはどういうことか。
それはまず~、いま自分が直接経験によって認識している身辺事項の延長線上に、
これらの「奇想天外風」の話を位置づけるということです。
そしてそういう話と実生活での経験事項との間につながりを見つけ出そうとすることです。

そいう精神作業では、人は様々にイメージ形成活動をします。
奇想天外風の話の中に、全能者である創造神はどのように関与していることになるか、
もイメージします。

そして、これはやってみてはじめてわかることですが、
そうしていると当初予想もしなかったつながりが見えてきます。
そこには究極の知識と思えるものが含まれていることもあります。
「これは究極の真理ではないか!」という経験です。

そういう体験が重なるにつれて、「聖書の話は事実かも知れない」という
当初の50%の心理的確率は、60% → 70% ・・・と上昇することも起きます。




<ファンタスティックな物語の効果は弱い>

童話やいわゆる空想小説も奇想天外な話を含みます。
だが、我々はそれは100%作り話だと知っていますから、
そこには実話と解する余地がありません。
だから、読者は最初から「作り話」として読みます。

そういうときには人は、物語からえられるイメージと、自分が実生活に抱いているイメージとの
「つながりをつけよう」という努力をしません。
物語が示唆する状況のイメージは、独立した「それだけのもの」となります。そう思うのです。

「白雪姫」の物語や「ウサギとカメの駆け競べ」の話を、
我々は最初から「作り話」だとして読みますよね。
それでも話の中身に関するイメージは頭の中で造りますよね。
だが、それを自分の実生活と同質の出来事として受け止め、
それとのつながりをイメージしようとすることはいたしません。


こういう精神作業では「物語のイメージをリアルなものにしよう」という意欲はあまり生じません。

物語は、事実だとして読むときに、そのイメージがリアルなものになる可能性を持ってきます。
私たちは、生きるために出来るだけ多くのことを知りたいと常に欲しています。
事実の話だと思えば、それと自分の実生活とのつながりを見出そうと、切実に思うのです。
その思いの切実さが「つながりがりの発見」を産み、さらにイメージをリアルにするのです。





<空想的にして事実と読めるもの>

聖書には、一見空想的であり、同時に事実としても吟味できる話が満載されています。
だがそこにはそれをリアリスティックに、現実的に解する余地も含まれています。
こういう性格を持った書物は他にありません。




<歴史が証明すること>

人類史では、この書物の吟味を一貫して続けた人々が、実は、集団に関わる事項の決定権を
構成員個々人に均等に分配するシステムを考案し、実施してきました。
それはこのブログの、「幸せ社会の編成原理」で示したとおりです。

このシステムがすなわち民主主義制度です。
この人々が人類史に民主制を出現させたのです。
そして、この人々だけがこの制度を十全に機能させているのです。

人類史はそのことを経験的に示してくれています。





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3.国防政策の方向も人民のイメージ力で決まる

2013年07月01日 | 「想像する力」が日本を救う





<戦争以上の悲劇もある>

戦争は地獄の悲劇を引き起こしますが、人の世にはそれよりも悲劇的な地獄があります。
それは、他民族に征服され、支配されることです。

そう遠くない過去に、アルメニア人に起きたことがそれを物語っています。
隣国のトルコ人は、ある日突然に攻め入り、男・子供を皆殺しにし、女を自国に連れ帰って性奴隷にしました。

トルコの男は各々が何人かのアルメニア女を自国に連れ帰り、
自宅に囲い、現代のハーレムを形成しました。

女の手首には、逃げてもわかるように、リングの入れ墨を入れました。
第一次大戦後、それが世界に知れてやっと解放されました。





<日露戦争に負けていたら・・・>

日本民族は、他民族に征服された経験をしていません。
幸か不幸か、蒙古による征服は回避できました。
だが、イメージ力があれば、征服された事態をリアルに認識することはできます。

例えば、明治時代に日露戦争で日本が負けていたらどうなったか。
これなどは想像できるのです。

日本列島にはロシア軍人と秘密警察が横行し、女の中には捕獲されて
アルメニアの女性たち近い境遇に陥るものも多く出たでしょう。

これを阻止しようとする男は、逮捕され、次々にシベリアに送られ強制労働させられたでしょう。
多くは餓死や病死などに至ります。
そういうことは、第二次大戦終盤に、ロシア人が中国大陸や、シベリアで見せた性質から想像でるのです。

+++

これは戦死よりも悲劇的なことです。
死に至るまでにも、屈辱感を味わって生きることになるからです。
想像する力があれば、これはイメージ認識できるのです。

国防軍は要るのです。





<人の心には獣性がある>

このブログの「仕合わせ社会の編成原理」で見ましたように、人間の心底には獣性が横たわっています。
残念ながら、そうなっているのです。

そして民族の大多数に、この心理が意識の上位に浮上するような事態は、いつの時代にも発生し得ます。
このとき他民族への攻撃は自然に起きるのです。

そして、獣性が心理の上位に浮上した人間には、征服後も他民族への追体験・同情はありません。
若干生じたとしても、希薄です。少なくとも、自分の民族の人々にたいする同情よりも、遙かに希薄です。

これは人間の性(さが)です。
国防軍は要るのです。





<「だけど性善説を信じます」というアホウドリ>

だが国民の大多数にこれをイメージする力がなかったらどうなるか。
若者たちは、嬉々としてテレビの馬鹿バラエティ番組にうつつを抜かし続けるでしょう。
テレビニュースを見て、ときには戦争反対、国防軍反対、などというでしょうが、
すぐに放念してしまいます。

そうしながら、ときどきテレビで残忍な殺人事件などの報道を見ると、その時だけ驚きます。
だがすぐに「ボクはやはり人間の本性は善だと思います」などという極楽とんぼの意見を発する。
こうして彼らは、結局「あほうどり国家」を形成していくでしょう。

(「あほうどり」はその肉が缶詰などにして食用に供せられる鳥。
捕らえても捕らえても捕獲する人間に近づいてくるので、その名がつけられた)


+++

そうやって、あるとき異民族に蹂躙される事態になっても、
それはもう自業自得と言うしかありません。

国防政策の基本方向も、結局、国民のイメージ形成力が決定するのです。


(続きます)





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2.原発設備政策もイメージ力が決める

2013年06月26日 | 「想像する力」が日本を救う





<原発設備政策も人民の想像力で決まる>

原発設備をどうするかの政策も同じです。
人民多数のイメージ形成力が進路を決めるのです。

原発事故は起きないかも知れません。
それをもたらす大地震も起きないかも知れない。

だが、起きたら何万年も続く環境破壊が現実のものとなります。
日本列島は地震活動期に入っています。
50基もの原発設備が列島を埋めています。
いくつかが爆発したら地獄ですが、これらもまた将来のことで、
現実化するかどうかは確率のなかにあります。

最悪の事態を避けるべく、設備の廃棄に着手できるかどうかも、
結局人民大多数のイメージ力によります。

原発設備が爆発した状態、人々が被害に長期間苦しみ続け死に絶えていく状態、
これまで先達が耕してきた国土がみな死の土になる。

~こういう事態をリアルにイメージする力の強弱が政策を決めるのです。

人民にイメージ力が貧しければ、結局、その廃棄政策に踏み切るパワーは政治に生まれません。
現実には放置することになる。のみならず、そういう体質であれば予防措置にも、
あちこちで手抜きが起きるでしょう。このままではこれから日本はごく自然にそうなるでしょう。





<ドイツとの対照>

 ドイツは福島原発事故の当事者ではありません。
人民はメディアを通じてその情報を入手しているに過ぎません。

だが彼らは、原発が人間の力では統御しきれないものであるというイメージを
明確に描くことが出来ました。
その事故による環境破壊が永続的で取り返しの付かないものとなることをリアルに想像できました。

その結果、原発廃止と再生可能エネルギー増強という政策に、舵を切ることが出来たのです。
理由は言葉にすれば単純です。
人民の豊かなイメージ力がそういう政策を自然に産んでいったのです。


(続きます)





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1.対・放射能政策は人民の想像力で決まる

2013年06月23日 | 「想像する力」が日本を救う






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<はじめに>

このブログは鹿嶋春平太「チャーチ」であり、ネットの教会です。
教会での中心話題は、福音であるべきです。
よくわかっています。
にもかかわらず、鹿嶋はこのところ現世的な社会問題を論じています。

理由は一つには、これから語る全てが福音に無関連な話ではないことです。
それは結局めぐりめぐって、福音のメッセージになります。
それを現世の問題も含む、大きな視野のもとに行うことに結局はなります。
約束します。

けれども、当面は現世的な話が続くでしょう。
鹿嶋は、いまユーチューブの動画で「ヨハネ伝解読」シリーズを併行して行っています。
こちらは福音メッセージそのものですので、当面それでもってご容赦ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




<「想像する力」が日本を救う>

本題に入ります。
鹿嶋は今、「想像」という言葉について考えようとしています。
この言葉は、重々しくはないですね。実際日本では軽いものとして扱われてきました。
「想像でものを語るなよ!」と言った具合に、使われてきました。
想像するというのは「空想すること」でむなしいというわけです。

だが 「想像する力」とは「イメージを形成する力」です。
このイメージ力が人民にないと、国としてなすべき方策は漠然とはわかっていても、
実際にはどうにもならなくなります。

これはあらゆる国についていえます。一党独裁制を取っている中国においてすらそうなります。
独裁国家においてさえ、人民の意向は政策の方向を左右します。
ましてやまがりなりにも民主制をとっている国家では特にそうです。




1,対・放射能政策

日本に目を向けましょう。
例えば、放射能問題への政策を見ましょう。

「年間1ミリシーベルトの被曝量を超えると、多数の人民に健康被害が及ぶ」
というのは世界の統一見解でした。我が国もそれを受け入れてきました。
居住者はそれ以上の放射線量の地域からは避難さすべきとされてきました。

ところが、周知のように原発事故が起きたら、我が国ではそれがなし崩しに緩められました。
一時は上限が年間20ミリシーベルトというところまで緩められた。
後に多少の反省はなされてきましたが、現在も基本的には地方自治体や国家の短期的な都合によって、
基準値は容易に変更されています。

なぜそうなってしまうか?
本来の上限が厳格に維持されるには、そういうプリンシプルに沿った政策が実現されには、
人民の大多数が一定以上のイメージ力をもつことが必要なのです。

+++

放射能の被害というのは、戦争などの被害と違って、
何年後というタイムラグ(時間の遅れ)をもって出現します。
多数に被害が出るとしても今すぐではない。将来のことです。

将来のことは確率の世界のことです。100%そうなるというものではない。
そういう確率世界では、将来の最悪の事態はイメージされて認識されうるものです。
人はそれをリアルにイメージできなければ、認識できないのです。

だから結局、人民の多くがそれをリアルにイメージできるかどうかで、政策が別れるのです。
元来の放射線量基準で避難をさせる政策が実現するかどうか、がそれで別れます。

大多数の人民のイメージ力が貧しければ、最悪の事態がリアルにイメージできない。
明確なイメージが結べなければ、一時は大変と思っても、時がたつにつれて実体を放念していきます。
マスコミ当事者も、興味を失っていって、報道しなくなります。

すると危険地帯の中の住民を、ぐずぐず住まわせ続ける政策になってしまう。

除染など言う不完全きわまりない政策でお茶を濁したりしてぐずぐずやることになります。
今現在、日本がそれを自ら体現して証明しています。

(続きます)






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