鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

50. 西欧を知るための「キリスト教再入門」へ

2019年05月10日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
 
 
 

「鬱を打破する聖書の論理」なんと今回で50回目だ。

探究してきて、わかったのは~、
 鬱は「抑うつ」であり、それは人間に生来与えられた、精神、肉体の両面に渡る資質が、上から抑圧されることによって生じた葛藤、混乱による苦しみである、~ということだった。

具体的には「生きよう」という意向が「生きるに値せず」との思いによって上から下に向けて抑圧されたことによって生ずる、心奥での、心的エネルギーの激しい葛藤、苦しみであった。

現代の精神医学は、それに盲目で、患者の肉体(脳神経系)にやたら神経鈍化剤や脳興奮剤を、無慈悲冷酷にぶち込んでいる。

それによって患者は地獄の苦しみに陥れられ、廃人にさせられている。
現代精神医学は、まさに悪魔の手先を演じている。

+++

事態の打破は、福音の力によるしかない。

そのため、イエスを愛し同一化した「イエスの人」は、福音の二本柱~①宣教と②偉跡による証明~を、素直に、怖れず実施すべきだ。

~以上がこのシリーズの大筋だった。

 
 
<キリスト教の再入門シリーズ>

さてこれからしばらく、改めての「キリスト教入門」を語ってみようと思う。

同類のことがらは、『聖書の論理が世界を動かす』『誰もが聖書を読むために』『神とゴッドはどう違うか』(以上すべて新潮選書)でも述べてきた。

特に「誰もが聖書を」はほとんど文字通りの「キリスト教入門」でもあった。

だが、今回「福音の二本柱」をやっと悟ったことによって、これまでにない「入門手引き」が書けそうな予感がするのだ。

タイトルは「(西欧を知るための)キリスト教再入門」といったような感じになるのではないかな、、、・

抑うつ関連で、述べたいことはまだあるが、それは適時この「再入門シリーズ」の中に臨時版として差し挟んでいこうと思う。

50回にわたってフォローしてくださった方々に感謝します。
次回からの、「キリスト教再入門」の話も引き続きご愛読下さい。

(完)





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49. やっと悟れた福音の「二本柱」

2019年05月07日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回述べた「人間は永続する」との人間観のもっている、抑うつへの治療効果は重要である。

だが、ことばの力には限界がある。

例えば、鬱に苦しむ人には、言葉の理解をする知力が弱ってしまっていることが多く、言葉だけでは治療効果は発揮されない。

その場合はやはり、創造神の力を得て癒やしてやってしまわないと、事態は打開できない。

また一般的にいって、言葉の説明では、聞く者の心底に「口だけなら何とでも言えるさ」という気持ちが常駐する。

 
 
<偉跡の納得力>

イエスの宣教も、言葉での説明にはそういう限界があった。

そこでイエスは、言葉の説明を受け入れきれないユダヤ人たちに対して、偉跡~しるしと不思議~を見せた。

偉跡といっても、イエスが説明している「見えない世界」(霊界)そのものを目に見えるようにしたのではない。

それとは別の、たとえば病人の「速やかな癒し」などを見せた。

すると人間は、そういうことは、「見えない世界」に通じている人でないと出来ない、と直感するものだ。

そこで、多くの人が偉跡によってイエスの教えを受け入れた。

 

<「偉跡の方法」を言い遺す>

イエスは、弟子や、弟子の宣教によって宣教者になる人々が宣教する際にも、それが出来るようにと、「しるしと不思議」を現す方法を教えていった。

そして、自分が天に昇って地上にいなくなるにつけ、福音を伝えるには~

①宣教と
②しるしによる証明

~の二本柱が必要と言い遺した。


            

<余談~反省~>

さて今回、ここからは余談だ。
筆者は一つの反省を述べておこうと思う。

30余年前に聖書解読を志して以来、筆者がこの「②しるしと不思議による証明」に正面から取り組まないままできた。
~そのことへの反省だ。

 
 
 
<偉跡をスキップして聖書解読>

筆者は、聖書にある「癒し」などの不思議を述べた聖句を、神話だとかいって一笑に付すことはしなかった。

実際に癒しを現す人をもよく知っていたし、奇跡は存在すると受け取ってきた。

+++

だが、今思えば、自分が「しるしと不思議」を現すことに尻込みした。

筆者は、癒しで偉跡を示す人たちに、「霊感が豊か」という共通の資質を観察していた。

その認識を踏まえて、筆者は「自分が癒しをするには、霊感が育ってから」と考えた。

そして聖書解読を伝える途中で、癒しの必要な人に出会ったときには、自分の知る「霊感の豊かな人」にそれを依頼してきた。
それで実際に病める人は癒やされた。

その状態で筆者は、自らに霊感が育つのを待ちながら、癒しへの取り組みをスキップした聖句解読を、続けてきた。

30年以上、そうしてきた。



<もう自分がせねば>
 
ところが、今回、筆者が直面した「抑うつに苦しむ人」は、これまで依頼してきた「癒し人」と居住地が遠く離れていた。
かつ、「苦しむ人」の親御さんが霊ベースの、霊感者による癒し、ということに、関心が薄かった。
これらの壁に対処している内に、患者当人が悲劇に襲われてしまった。
 
+++

この事態に直面して、筆者は「私自身が癒やさねばならなかったのだ」と痛感した。

そこで、聖書の中の「偉跡」~とりわけ癒しの方法~に、初めて本気で取り組んだ。
それが、本稿で示したヨハネ15:7の「イエスの夢の約束」をはじめとする聖句の解読だったのだ。



<時々聞かれるように>

そして、目の覚めるようなことが起きた。

イエスの「夢の約束」の聖句を吟味解読していたら、時々ながら、祈りがきかれ、しるしが現れるようになったのだ。

探究している間に霊感が増したという自覚はなかった。
霊感の豊かさは必須ではなかったのだ。

偉跡は思ってたより簡単だった。

+++

今振り返ると、筆者は聖書の「しるしと不思議」のところで、腰が砕けていたと思う。

そして「霊感の必要」を勝手に持ち出して、「しるしと不思議」の箇所をほとんどスキップし、「理解の聖書学」をすすめてきた。

 
 
<もう少し早ければ・・・>

だが、「もう自分がやるしかない場面もある」と思い知り、「理解の聖書学」の限界を悟った。

「実践の聖書学」がそこに加わらねばならない、と思った。
 
そうしてイエスの「夢の約束」の吟味に、初めて正面から取り組み始め、徐々に祈りがきかれ「しるし」が現れてしまった。

それを通して、30年間聖書を通して学んできた自分の福音は、二本柱でなかったことを、思い知った。

筆者は「(気がつくのが)遅かった・・・」としみじみ感じた。

残された自分の余生をみると「遅かった」のだと。

もっと早くやっていたら、多くの人を助けられたのに。
教会という「助けの場」を造ることも、あるいは出来たかも知れなかったのに、と悔いた。


+++

聖書には、癒しを始めとして様々な超自然的事象が記されている。
特にイエスは偉跡を連発し、死からの復活もして見せた。

のみならず、人間がそれを証言~当面「証し(あかし)」と呼ばれることが多いが、要するに証言だ~し、しるしと不思議でそれを証拠する方法も言い遺していった。

世を去るに当たって、イエスはそれを遺言していった。

聖書にはまた、宣べ伝える者たちが、多くの偉跡を実現した事例が、数多く記録されている。

+++

だが、筆者は聖書をそのまままっすぐには、ストレートには探究してこなかった。
自分のキリスト教探究は、真の素直さを持っていなかった。

伝道活動も、①宣教と②証拠、の二本柱を最初から明確に目標とすべきだった。
 
聖書の論理も、しるしを体験しないと深く霊識できない。

また、その霊識も周期的にしるしを体験しないと、維持できない。

オレのやってきた福音探究は「ママゴト」だった・・・。
 
この歳になって、はじめてそれを悟るとは・・・。
 
晴れやかでもあるような、複雑な気持ちだ。
 
 
 
 
 
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48.抑うつ対策には創造神理念を知るのが必須

2019年04月10日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

「癒し」の方法が一段落した.
ここで改めて総括的に考えてみよう。


<近代医学が創り出している地獄>

ウツ症状ほど、科学的医療にそぐわない病はない。
科学は、五感主義にたっている。
それは見えない存在を五感で認知できる領域に投影させて認識する認識の一手法だ。

+++

そこで医学は鬱症状をも、神経波動、脳波動などの可視的な局面でとらえようとする。
だが、ほとんど把握できない。

+++

把握できずに、わからないままに、神経系や脳細胞に化学薬品をほどこす。

心が重くて苦しいなら、それを感知しにくいように、神経系をダラッと麻痺させる薬を与える。
あるいは向精神薬という名の覚醒剤を与えて、脳神経系を興奮させて一時逃れをする。

+++

だが、どちらも、時間がたつと効かなくなる。
効かなくなると、また与える。

患者はたまったものではない。
中毒になって、薬への依存度を高めていく。
ますます自立できずに、精神病院に閉じ込められていく。

これは現世の地獄だ。
おそろしいことに、こういう地獄が、いまこんにち、現代日本に医学の名で造り上げられているのだ。


 
<「憂鬱」でなく「抑鬱」>

鬱症状は、医療科学ではなく、人間構造観によってはじめて正統に認識される病だ。
だが日本ではその認識が全くない。
ゼロだ。

+++

その状況は、言葉からもうかがい知れる。
 
そもそも鬱は英語の「ディプレッション(depression)」の邦訳語だ。

だが、この英語は「下へ」「プレスする、押す」という意味だ。
素直に訳せば「(上から)抑圧されて気がふさいだ心理」だ。

その「気がふさいだ」心理を鬱というのならば、それは最低限「抑うつ症」
とされるべきだ。

なのに日本では「抑」の語が省かれている。

押さえつけられているもの」が何かを全く認識できてないからだ。
だから「ふさいだ気分」という、「漠然とした現象として」しかとらえられないできてるのだ。
 
人に地獄の苦しみを与えるのは、憂鬱」でなく「抑鬱」のだ。
 
 
 
 

 
<生きよう!」という意識>
 
では、この押さえつけられている意識と何か。

これはもう、先に結論的に示した方がいい。
それは人間の、肉体と精神との両面に生来埋め込まれている「生きよう!」という意識だ。

これは生まれてくるときすでに肉体と精神との両方に埋め込まれている。

人間はその肉体が「生きよう!」という基本ベクトルを心身に備えたものとして生まれる。
 
(赤ん坊の息を塞いでやると、激しくその手を振りほどこうとして、顔を左右に振るのは、それを示している)

そして幼児の心理は幼稚だからその精神も、肉体の動向に沿ったものとなっている。

+++

これら生来の心理ベクトルを上方に向かって働いているとイメージすると、デプレッションとは、それを上から下方に向けて押さえつけようとする心理ベクトルのイメージだ。

押さえつけるのは意識波動体である。
それは「お前は(または自分は)生きるに値しないぞ」という思いを発している波動体だ。

英語のディプレッションは、この原因の方を名称に使っている。
これがないと、この無力感を伴った特殊な厭世感は明確に認知できないからだ。

日本ではその実体がわからないままで、”鬱(うつ)”の字を当てている。
明確な人間構造観がないと、なるべくしてこうなる。

 
<「自分は永続する」という確信>

この「生きるに値しない」という意識波動体に積極的に対抗できるのは、「自己が永続するという確信」以外にない。

そしてこの思いは、肉体だけを見ていては生まれない。
肉体は100年もすれば循環運動をやめて死んで消滅するからだ。

永続するものがあるならば、それは最低限、肉体の内にあって、肉眼で見えない存在でなければならない。

聖書ではそれが霊(霊体)として存在するとしている。

人はそれを感知せねばならないが、それにはいわゆる霊感を開くことが必要だ。
その霊感による認識を筆者は、略して「霊識」という。

 
<霊は意識の本体>

聖書では、この霊体は実は意識の本体であり、かつ、それは「肉体が死ぬとそれを抜け出て永続する」としている。



<証言する書物>

聖書はそのことを、論理的に述べている。

その際まず、「万物の創造神」をもってくる。
そしてこの神は、永遠の過去から永遠の未来に渡って存続している神であるべきことが、論理的にわかってくる。

 
<無限の過去>

創造神が「自分以外の万物」を創造したのなら、その万物は被造物だ。

被造物は存在の出発点を持つ。
造られたその時点が、それだ。

そしてもしも、万物の創造神もまた存在の出発点を持つならば、それは「万物」をオレが造ったとは言えない。

なぜなら、「万物」には、創造神のその出現以前に出現した物もありうるだろう。

それに対して、創造神は「オレが造った」とはいえなくなる。
無限の過去から存在していないと、筋が通らないのだ。


<無限の未来>

未来に関しても同様である。

これから出現する「すべての存在」を「オレが造った」といえるのなら、自分自身は無限の未来にわたって存在しなければ筋が通らない。


<時間的無限者>

つまり、文句なしに「万物の創造者」であるためには、その神は永遠の過去、無限の過去から存在してなければならない。

万物の創造神とはそういう理念の神である。

万物の創造神は時間的無限者であるのが道理、となる。

また、そうでなければ、被造物である人間に対して、あなたは永続するよ(永遠に存在し続ける)となどいっても信憑性がでない。
 
 
<言葉による理念>
 
万物の創造神の神イメージは、このような「言葉による論理体系」を伴った理念イメージでもある。




<自然発生的神イメージ>
 
言葉によらない、ただ「神様・・・」といった漠然とした神イメージはそれと一線を画する。
 
論理体系のない神イメージなら、生来の人間の心に自然の心情として発生する。
 
それは山や海や墓石や社殿などの「物資の中に」染み込んでいると意識される「見えない影響者」の感慨だ。
(神とは「見えない影響者」と定義できる)
 
その神イメージの実体は、感慨であり、フィーリングであり、情緒であり感情である。

+++

人間には、感情のほかにもう一つ、理性が与えられている。

これが明確な図式的なイメージ理念を形成する。
青写真にもたとえられるそれは、概念(英語ではコンセプト)の繋がりでできている。

自然発生的な「(感慨)神イメージ」には、そういうことば(概念、コンセプト)が組み合わさってできた理念構築物がない。
 
これからは「永続する」という確信は心に作れない。

なんとなく「永続なさっているような感じ」は受けられるかもしれない。
だが、その感じには明確さがなく、持続もしない。

一時的に情緒に浮かんではまた消える。
 
 
<在物神>
 
筆者はこういう神イメージを「在物神」イメージと呼んでいる。
 
「物」のなかに「在」るとイメージされる「神」という命名だ。

この「神イメージ」はみな物質を先に認知した後で、心に浮かぶ感慨だ。

+++
 
こういう感慨からは、「自己が永続する」という確信は導き出せない。

たとえば荘厳な礼拝堂の中で、そこで響く荘厳なパイプオルガンや美しい賛美歌を聞きながら、神をイメージしても、それはそれだけのものだ。

湧き上がる感情のなかで、慰めや安息(平安)を得て神をイメージしても、それは一時的だ。

感慨は演出によって増幅されても、しばらくすると消えていく。
 
情緒からは、不動な永続確信は形成されないのだ。


 
<若き日に創造神を覚えよ>
 
「旧約聖書」のなかの~
 
・・・・・・・・・・・・・
「汝の若き日に、汝の創造者を覚えよ」
(『伝道者の書』12章1節)
・・・・・・・・・・・・・
 
~という聖句は、創造神理念をもつことが、如何に大切かを示唆している。


<「知るだけ」でもいい>

ただし、かといって、これを一足飛びに「信じる」「信じない」に結びつける必要はない。

「見えない影響者」のことになると、すぐに「信じますっ!」といわないと不敬虔、不謹慎と思うのは、日本人(牧師さんも含めて)の悪しき習性だ。
それも実は在物神イメージしか神イメージを持たないことからくるのだが、とにかく「信じねばならない義務」などない。
 
+++

「まず知ればいい」のだ。
在物神イメージしかもってないところに、万物の創造神、というもう一つの神イメージが存在することを”知ること”これ自体に価値がある。


<霊のない人間、霊のある人間>

ではこの創造神は人間をいかなる構造に造ったと、聖書は示しているのか。
『創世記』の冒頭部分にこう記されている~。

+++

~創造神はまず、霊のない人間(魂と肉体だけでなっている)を創り、「産めよ増えよ地に満ちよ」という言葉を投げかける。

そして、満ちたところで、一人の人間、アダムを選び、その身体の内に「いのちの霊」を吹き込む。

これは天の創造神王国にある被造霊で、これによってアダムとエバは「創造神を知り、交信する人間」となって、繁殖する。

こうして、地上には霊のない人間(ネフィリムたち)と霊のある人間とが併存することになる。

+++

だが、しばらく後に、「ノアの大洪水」でネフィリムらは全滅し、霊のある人間(ノアの家族)だけが残る。

そしてそれが繁殖して今の人類に至っている、と。

そのように直接言っているのではなく、そういう論理が解読されるのだが、とにかくそういう物語が存在する。

その中で、人の霊は永続する、という思想もまた示される。
もちろん被造霊だから、存在の出発点~「創造された時点」~はあるが、未来には永遠に存続するとしている。

こうした物語がどの程度のリアリティをもつかどうかは、次の問題だ。

とにかく、こうした理念像がなければ、不動の永続確信など生まれず、「死んでおしまい」の通念を打破することもできないのだ。



 

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47.癒しの際に留意すべきこと

2019年04月02日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回に述べた三つ方法のどれをとっても癒しは起きる。
メソッドに正確に従えば、不思議に癒しは起きる。

だが、その際に留意すべきことがある。



<「創造“神”のなす」癒し>

これらの癒しはみな、「神癒(しんゆ)」(神のなす癒し)である。

イエスも超自然な証拠を見せるときには、常に「父からの力を得ている」という自覚にたってそれをなしている。
このことを放念してはならない。
 
たとえば、死後四日たった青年ラザロを生きかえらすとき、彼はこう言っている~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「『父よ、私の願いを聞いて下さったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いて下さることを知っています。
しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』」
(ヨハネによる福音書、11章41~42節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

ましてや、人間に於いておや、だ。
イエスに身霊込めて同一化している人間が「手を置く(按手する)」場合も、按手のあとはすべて創造神がなしている。

いのち波動を流入させて癒しを実現しているのは創造神だ。
これを確(しか)と認知すべきである。
 

 
<「ここで決めてやる!」>
 
 
この実感が薄いと、人はついつい「ここで一発決めてやる!」と力んで按手しがちだ。
あるいは、顔引きつらせてやる。

すると、癒しは現れなくなる。
また、たまたま上手くいくことはあっても、しばらくすると癒しは現れなくなったりする。



<神秘イメージが介入しやすい>

「神癒」という認識が薄いとまでは行かなくとも、確かさがいま一つ十分でないことがある。

この場合は、一定期間癒しは現れ続けるが、危険なことが生じやすい。
 
回りで見ている人々は概して、癒し人に神秘性を感じていくのだ。

人間は生来「在物神イメージ」を抱く性向を持っているから、これは仕方ない所もある。


 

 
<当人に感染するとヤバい>

だが、その感情は癒し人、当人にも感染しやすい。
つまり、知らず知らずのうちに、自らのうちに神秘性をついつい容認してしまうのだ。

神秘性を感じると、人々は彼を崇めもする。

その心理にも感染すると、当人は“神の気分”になる。
そういう誘惑が働くのである。

+++

これは外国の例だが、ある牧師さんに癒しの力が1年ほど続いたことがあった。
人々は押しかけ、教会は速やかに大教会になった。

1年が過ぎるころ、彼は白い衣を着てひげを生やし、白い馬に乗ってくるようになった。
そうしたらしばらくして癒しが現れなくなった。

+++

その後当人は徐々に悪魔の試みに陥り、翻弄されてひどいことになった。
ここでは詳しくは言えないが、そういうケースも筆者は耳にしている。


 
どうしたらいいか?

対策は、「癒やしは楽なもの」と徹底して悟ることだと、筆者は考えている。

癒しは「神」癒であって、創造神がなされることだ。
自分は手を置くだけで、楽なものだ、と悟ってやる。

これが正解だと思っている。





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46.「癒し」には三つの方法がある

2019年03月27日 | 鬱を打破する聖書の論理
 



前回、病人に按手すると病人が癒やされるメカニズムを考えた。
これを容認すると、新しい問題が浮上する。

それは、“イエスの黄金の約束”と按手との関係だ。
黄金の約束とは~「わたしのことばが諸君のうちに住まうなら、望むことは何でもかなえられる」~だった。

「何でも」といったら、病人の癒しも含まれる。
つまり、病を癒やすのに、聖書には二つの方法が提供されていることになる。
すると癒しについて、この両者の関係をどう見たらいいのか、という問題が浮上するのだ。

+++

これを考えようとすると、癒しの方法を鳥瞰することになる。
そして、鳥瞰すると、聖書にはもう一つの、第三とも言うべき方法も出てくると、鹿嶋は認識している。



<第三の方法>

それは~「イエスの名のなかで命ずる」~という方法だ。
 
命じる対象は、病人でもいいし、その病を引き起こしている「汚れた霊」でもいい。また、ウイルスなどの物質でもいい。とにかく命じるのだ。

+++
 
この方法は少し解読がいるが、『ヨハネ伝』の14章13節に記録されている。

邦訳聖書で示すとそれは~
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって求めることは何でも、それをしましょう」
  (ヨハネによる福音書、14章13節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
~となっている。

 
 
<修正すると>
 
面倒だが、この邦訳文は修正が必要だ。
 
まず、これまで繰り返し述べてきたように「イエスの名によって」は「イエスの名(の波動体)の中で」というのが正しい訳だ。
 
+++
 
そしてこの聖句には、もう一つ直すべき邦訳語がある。

それは「求めることは何でも」の「求める」だ。
 
これは英文でaskとなっている。
(このあたりの英文聖句は "Whatever you ask in My name" となっている。)
 
ところがギリシャ語(新約聖書の原文の語)に詳しい人によると、このaskはむしろcommand(要求する、命じる)に近い意味を持ってる、という。
 
すると聖句はこうなる。

つまり~「わたし(イエス)の名の中で対象に、望む方向に変化する(癒やされるも含む)ように命じることはなんでも、わたし(イエス)がしましょう」となる。
 
 
 
<弟子は「命じて」いる>
 
実際、新約聖書『使徒行伝』にその一例の記録をみることができる。話はこうだ~。
 
イエス昇天後に弟子のペテロとヨハネがエルサレムの宮殿に入ると、足のきかない男が運ばれてきた。

このときペテロは彼に「ナザレのイエスの名の中で歩きなさい』と“命じて”いるのだ。

その結果を聖句はこう記している~
 

・・・・・・・・・・・・・・
「(ペテロは)その男の右手をとって立たせた。するとたちまち
彼の足とくるぶしが強くなり、おどりあがってまっすぐに立ち、歩き出した」
(『使徒行伝』3章6~8節)
・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
 
この方法の特徴は、癒しを父なる創造神でなく「イエスご自身がなされる」、となっているところにある。

イエスは、「私の名の中で命じたら“私がする”といっているのだから。


 
<どの方法でもいい>

そこで「父がなさる」のを「第一の方法」とし、按手を「第二の方法」とすると、この「私(イエス)がやる」は癒しの第三の方法と言ってもいいだろう。

もちろん、第一と第三の方法がカバーするのは、癒しに限らず、願うことの全てだ。

だが、それらは癒しをも含んでいるのだから、癒しに焦点を当てれば、その三つの方法といってもいいだろう。

では、癒しを施そうとする側は、このうちどの方法をとったらいいのか。

答えは、「どれでもいいはず」、となるだろう。
みな、聖書に記されている、イエスの約束だからだ。

どの方法をとっても、病人は癒やされる。

ただし、どの方法でも、癒やそうとする人は、イエスを全身全霊込めて愛し、イエスに同一化していることが必要だ。
そういう「信じ方」に至っている人であるべきことも明記しよう。








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45.「⑧手を置けば病人がいやされる」理由

2019年03月22日 | 鬱を打破する聖書の論理


今回は~
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
~の最後のフレーズ⑧病人に手を置けば病人はいやされます」である



これも、前回の「毒を飲んでも害を受けず」に共通した原因による。

病人は、物質的にせよ、霊的にせよ「死の波動(いのちのマイナスの波動)」に侵入されている、というのが聖書の論理だ。

だが「信じる」の第(III)ステージに到達している人間は、イエスと同一化している。

だから彼の身体は~イエスがそうであるように~創造神から放射されている「いのち波動」が通過しやすくなっている。

その波動が、置いた(按手した)手を通して、病人の身体に流れ込むのだ。

すると病の真因である「死の波動は楽々と相殺され、消滅してしまう。極当然の論理として、そうなるのだ。


 

<癒しは神の光線>

こう述べながら、筆者は、多くの病人を按手でいやしていた女性伝道師のことばを思い出す。

今は老齢となって癒しもされなくなっているが、彼女は「癒しは難しくない、神の光線ですから」と常々言っていた。

筆者がここでいまいう「いのち波動」を彼女は「神の光線」と表現しておられたと思う。

まだ、言いたいことはあるが、今回はここまでにしよう。



 
 
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44.「⑦毒を飲んでも害を受けない」?

2019年03月20日 | 鬱を打破する聖書の論理

 


今回は~
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
~の「⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず」だ。

 
    
 
これは前回に引用した、『使徒行伝』のパウロの事例がそのまま対応する。もう一度示すと~

パウロ一行は、伝道旅行の途中で上陸したマルタ島の人々に、親切にされる。島の人々はおりから雨が降り出して寒かったので、火をたいてもてなした。そして~
 
・・・・・・・・・・・・・・
「パウロがひとかかえの柴を束ねて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出してきて、彼の手に取り付いた。・・・(中略)・・・しかし、パウロは、その生きものを火の中に振り落として、何の害もうけなかった」
(『使徒行伝』28章3~5節)
・・・・・・・・・・・・・・

ここで「(パウロの手に)取り付いた(fastened itself on his hand)」というのは噛みついたという意味だ。それはこれに続く次の文からもわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
島の人々は、彼が今にも、はれ上がってくるか、または、倒れて急死するだろうと待っていた。しかし、いくら待っても、彼には少しも変わった様子が見えないので、彼らは考えを変えて、『この人は神様だ』と言い出した」
(『使徒行伝』28章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

マムシの毒は、人の血液を速やかに凝固させる。だからまともにかまれると、生きものは急死する。
だがパウロにはそれは起きなかった。なぜか?



<「毒」は「死の波動」放射物>

毒というのは、聖書の思想では「死のエネルギー(波動)放射物」だ。
死の波動は「いのちエネルギー(波動)」によって相殺される。

パウロは回心して以来、イエスを全身全霊でもって愛するようになり、イエスと同一化している。
だから、彼の身体からはイエスと同じいのち波動が常時放射されている。

これはマムシの毒の「死の波動」を楽々と相殺し、消滅させてしまうのだ。

それゆえ、「信じる」の第(III)ステージに到達している人間は、毒を飲んでも害は受けない。
ごく当然のこととして害を受けない。

⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず」は、それを言っている。






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43.「⑥ 蛇をもつかみ」は“恐怖ゼロ”のこと

2019年03月19日 | 鬱を打破する聖書の論理


今回は~
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
~の「⑥ 蛇をもつかみ」である。

+++

「蛇をつかむ」というと、『使徒行伝』に記録されている、伝道者パウロの次の事件を連想する(28章)~。

すなわち~、
パウロ一行(「使徒行伝」の著者となるルカも加わっている)は、伝道旅行の途中で上陸したマルタ島の人々に、非常に親切にされる。島の人々はおりから雨が降り出して寒かったので、火をたいてもてなした。そして~

・・・・・・・・・・・・・・
「パウロがひとかかえの柴を束ねて火にくべると、熱気のために一匹のまむしが這い出してきて、彼の手に取り付いた。・・・(中略)・・・しかし、パウロは、その生きものを火の中に振り落として、何の害もうけなかった」
(『使徒行伝』28章3~5節)
・・・・・・・・・・・・・・

このくだりを連想するのだが、鹿嶋の正解は少し違う。

ここでの「⑥ 蛇をもつかみ」はむしろ、「恐怖」がなくなることをいっている、とみる。



<蛇は不気味な生きもの>

蛇は、本来多くの人に恐怖を与える。あの眼も、ヌメヌメした動きも不気味だ。
また聖書読みは、『創世記』冒頭で、悪魔が蛇を用いてエバを誘惑した場面も連想する。

だが、ここでは「恐怖が全くない状態」をいっているのだ。

恐怖の反対語は安息(平安)である。人の心に安息が充満であれば、恐怖心の侵入する余地はない。その状態をいっている。

 
<恐怖は安息心理を失わせる>

恐怖は、たとえ一瞬のものであっても、イエスの「黄金の約束のことば」を信じる「第(III)ステージ」の心理を失わせる。

つまり、イエスと同一化した意識波動の状態を放念させる。
すると、「望むことはなる」という状態も消滅する。

それはイエスの弟子ペテロに起きた次の事件が如実に例示している~
(マタイ14:28)

+++

~弟子たちが、イエスより先に舟で湖の向こう岸に向かっていると、夜中の三時頃、イエスが湖の上を歩いてこられた。・・・(中略)・・・するとペテロがいう。「主よ、もしあなたでしたら(幽霊でなく)、わたしに、水の上を歩いてここまで来い、と命じてください」と。
イエスは「来なさい」といわれ、ペテロは水の上を歩いてイエスの方に行った。

・・・・・・・・・・・・
「ところが風を見て怖くなり、沈みかけたので『主よ助けてください』といった。」
(マタイによる福音書、14章29~30節)
・・・・・・・・・・・・・

ペテロは、イエスの天の意識波動体の中にいて、水の上を歩いていたのだ。

そのペテロの意識に、この世(地上)の物理的意識波動体が一瞬侵入した。
すると、ペテロは地上の物理法則の波動のとおりに、水に沈み始めたのである。

 
<イエスの与える安息は・・・>

だからイエスは弟子たちにことあるごとに、「平安(安息)でいなさい」「安息あるように」といった。
「私の与える安息は世の与えるものとはちがう」といった。

+++

世の与える安息とは、「優しい言葉」や「物的豊かさ」などの、安息心理を造る環境条件が形成するものである。
安息を増す、とは、それらの環境要素を増すことだ。

だが、イエスのいう安息は、「(天の)安息の波動体そのもの」なのだ。
その波動体が心に充満すると、もう恐怖の忍び込む余地はなくなる。

その結果、驚くほどに大胆にもなる。
恐怖がゼロになれば、大胆が100%にもなるのだ。

だから、「信じる」の第(III)ステージにいたると、「蛇をも(何の恐怖もなく)当然のようにつかむようになるのだ」と。

今回の聖句⑥ 蛇をもつかみ」はそう言っているのである。




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42.⑤「新しいことばを語り」とは?

2019年03月14日 | 鬱を打破する聖書の論理

今回は~

・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の「⑤新しいことばを語り、」である。

結論から言うと、この「新しいことば」はいわゆる異言(いげん:strange tongue)のことを言っている。
これはまず事例で示した方がわかりやすい。

 
 
 
<「マルコの部屋」での出来事>

イエスは復活して昇天するとき、「(故郷に帰らないで)エルサレム市内に留まっていなさい」という命令を弟子たちに与えた。
信徒たち200人ほどが大部屋(「マルコの部屋」と呼ばれる)に集まっていた。

すると、突然轟音がその家全体に響き渡り、この部屋では炎のような舌が一人一人の上に留まった。
すると各々が、他国のことば(自分の理知では理解できない)で話し出した。



エルサレム神殿に参拝に来ていた人々は、轟音に驚いてそのマルコの部屋に走り、突入した。
すると信徒たちは、彼ら参拝者たちの国のことばで、各々「ワ~ワ~」と語っているではないか!

それを見て、彼らは怪しみ驚き「連中は酒に酔っているのだ」などと言った。

語っている信徒たちの大半はガリラヤの人だったからだ。

+++

こういう事件が新約聖書『使徒行伝』2章に記録されているが、ここで信徒たちの口から出たのが異言である。

 
 
<「聖霊のバプテスマ」に関する諸説>

この事件は「聖霊のバプテスマ」とも呼ばれる。
その構造はこう理解できる。

+++

聖霊は「父・子・聖霊」の一つである創造神(霊)である。
創造霊だから、そこからいのちエネルギーが常時湧き出ている「いのち波動の源泉」だ。

この波動が、信徒たちの頭を、帽子をかぶせるように包んだ。

すると当人の意識は「聖なる天の意識」になる。

 
 
<「天の父」が示したこと>

このことは『マタイ伝』16章13-20節におけるイエスのことばで示されている。

イエスが連発する奇跡に驚き、人々は彼のことをバプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、そういう預言者の一人だと噂していた。

イエスは弟子たちに尋ねた、

「では諸君らはどう思っているのか?」

弟子の一人ペテロが応えた。

「あなたは(人間ではなく)生ける神の御子キリストです」

+++

するとイエスは言う。
「バルヨナ・シモンあなたは幸いだ。そのことを貴君に示したのは、人間ではなく、天の父です」と。

そして~

「私がキリストである、と誰にも言ってはならない」と釘を刺した。



<ヨナの子・シモンよ>

余談だが~
「バ」とは「子」で、「バルヨナ」とは「ヨナの子よ」という意味だという。

「ヨナ」は旧約聖書『ヨナ書』に出てくるヨナで、彼は海に溺れて死にそうになったのに大魚が飲み込み吐き出して死ななかった。

そしてニネベという街にいき、3日の道のりを1日で巡り尽くして創造神を伝道した。

その結果、ニネベの人々はみな創造神のことばに立ち返った。

このように、1日にして全員が創造神を信じた、というスーパーマンだ。

+++

シモンというのは、ペテロの本名だから、「バルヨナ・シモン」というのは「ヨナの子・シモンよ」と呼びかけだ。

イエスはペテロに、こう呼びかけたのである。
 
 

<「まだ他の誰にも言うな」>

預言者というのは、当時、飛び抜けて高い尊敬を受けていた。
そういう特別の人だったが、人間である。

だがペテロは、「あなたは(そうではなく)創造神の子・キリストです」と言ったのだ。

「キリスト」というのは「救い主といいう職分」の名である。
ペテロはイエスを「あなたは救い主という職分をもってこられた神の子です」といったのだ。

 

するとイエスは~
「そういう認識をさせたのは天の父(創造神)だ」といった。

どういうことかというと~
この創造神は、後に、聖霊であるとイエスは示す。
そういうことになる「聖なる意識波動体」だ

つまり、聖霊がペテロを覆い囲んだがために、その意識波動の影響でペテロは「神の子」と自然に認識した。

でなければ、ナザレ村出身の聡明な青年で、大工の子で、せいぜい預言者という「人間」という認識にしかならない。

~イエスはそれを知っていたので「他の誰にもそれを言うな」と命じた~言ってもわからないから~ことになる。

イエスが、多くの他の人々に聖霊を送るのは、もっと後になる。

そしてそれが開始されたのが、上記の『使徒行伝』2章の出来事だった。




<「聖霊のバプテスマ」に関する諸説>

話を戻す。
このマルコの部屋で起きたことは、現在「聖霊のバプテスマ」と呼ばれている。

ただし「聖霊のバプテスマを受ける」というのも、いろいろに解読されうる。

+++

『ヨハネ伝』14章では、イエスは~


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「わたしは父に願って、私とは別の助け主を送ってもらいます。
その方(聖霊)は・・・(中略)・・・諸君とともに永遠に住まわれます (abide with you forever)、
そして諸君の内に入り(will be in you)ます」
     (ヨハネによる福音書、14章15-20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~といっている。

この「(諸君の)内に入る」を「(諸君の)霊の内に入る」と解し、そのときに上記「マルコの部屋」におけるように、異言が口から噴き出すのだ、との解読もできる。

+++

聖霊は「父・子・聖霊」の一つである創造神(霊)である。
それは創造霊だから、そこからいのちエネルギーが常時湧き出ている「いのち波動の源泉」だ。

これが人間の霊の内に入ると、突然、その霊は活性化し、聖なる思いがあふれだす。

霊はフロイト精神分析学では、意識の最基底層にある潜在意識であり、それは全意識の根底となる。
ここから思いがあふれ出たら、それを日常の地上のことばでは表すには追いつかない。
 
なので、「異言となってことばがあふれでれるのだ」と構造理解する。

そしてこれを「聖霊のバプテスマ」をうけたしるし、と解するのである。



<「信じた全員に入っていく」との見解>

かというと、イエスを信じてバプテスマを受けたら、聖霊は徐々に当人の内に入っていくのだ、~との解釈もある。

その場合は、異言が口から噴き出すことはないが、当人は異言を「語る」ことができていく、というのだ。

この時の異言は、意図的に語る異言だ。

+++

このことからわかるように、異言には「口から噴き出す異言」と「意志でもって語る異言」とが認識されている。

そして「信じたらみな聖霊のバプテスマを受ける」との解読では、この二つの状況はあえて区別するほどのことではない、という認識になる。

+++

かというと、前者の「噴き出す異言」が出たことを「聖霊のバプテスマを受けたしるし」とする解読も成り立ちうる。

(以後の異言も否定しないが、それは「意志の力で語る」のだ、と考える)

いずれにせよ、「異言(strange tongue) ]とはそういうもので、これは「噴き出そうが、意志で語ろうが」とにかく存在する、というのが聖書の論理である。

@@@

ちなみに、YouTubeに登場する、カナダ在住の日本人伝道者、ドクターあいこさん~多くの人を癒やしている~は、この異言を「天のことば」といっている。
すると、われわれが日常話すことばは「地のことば」となる。

たしかに「天国で語られている言葉ならば、人間日常の理知ではわからない、のが道理となる。


 
<ニッポンキリスト教の見解>

そうかというと~、

上記『使徒行伝』に記録されているような事態は、聖書という書物ができていなかったときのものだ。

いまは聖書があるからそういう事態は必要ないから、「聖霊のバプテスマ」などはないし、なくていいのだ。

~そういう見解もある。

ニッポンキリスト教の神学校の教授先生や牧師さんたちはほとんどがこれだ。

いずれにせよ、「⑤新しいことばを語り」は、そういう「ストレンジタング」を語り、という意味である。




 
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41.「悪霊を追い出す」には

2019年03月12日 | 鬱を打破する聖書の論理

 

今回は~

・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17~8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の「④悪霊を追い出し」である。

うつ病も含めて、人間の病には、「細菌、ウイルスなど物質的な原因のもの」もあれば「霊(という波動体)によるもの」もある。

また、悪霊は貧困、事業の失敗、家庭不和などももたらす。

 
 

まず、「信じる者には・・・」の「信じる」の状態を再確認しよう。

これは~繰り返し述べてきた~ヨハネ15:7の「第三ステージ」の状態である。
すなわち、「イエスを全身全霊で愛することで、イエスと同一化し、創造神のことばが内に住まっている」状態。

+++

それ故、この人の行くところには、天の御国の空間も伴走している。

天国は創造神が王として統治する王国。その下で天使たちがガバメント・政府を形成している。
天国の政府の権威は、地(宇宙)における悪魔が統治する霊的ガバメントの権威より圧倒的に上位にある。

そこでステージ(III)の「信じる者」が、天の統治者イエスの名の波動体の中で、(悪魔統治下の)悪霊に「出ていけ」と命じれば、彼は命令に従わねばならない。

かくして、悪霊は、入っている人の身体から追い出されるのが道理となる。

+++
 
こんにち、そうならないのは、その信じる人の「信」(ルーク唐沢の言う「フェイス」)が第(III)ステージに達してないことによるにすぎない。

その信者は「信じる」という、このだだっ広い概念を吟味することから再出発すればいい。



<悪霊とは?>

追記である。
「悪霊とは何か?」もホントは考えねばならない。

+++

霊とは「見えない意識体」と鹿嶋は認識している。

この意識体を、聖書ではどう教えているかというと、1つはいわゆる「堕落天使」である。
つまり、サタンとなる反逆天使長~その名をルシファーとする解釈もある~に従った配下の天使たちの変質した姿、という説がその一つだ。

 

<もう一つの可能性>

だが、もう一つ、~聖書はそのものずばりで述べてはいないが~「可能性」がある。
それは人間~全てではないが~の死者の霊である。

これについては『キリスト教のことが面白いほどわかる本』中継出版に事例とともに詳しく述べているので、興味ある人は参照されたい。

+++

こういうとまた「異端!!」と叫ぶニッポンキリスト教のセンセイが出るなぁ。

聖句自由吟味活動を肯定できない人がそうなるのは道理でしてね。

まあ、仕方ないね。



 

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40.「イエスの名の中で」に繋がる壮大なイメージ世界

2019年03月02日 | 鬱を打破する聖書の論理
 
 
前回~
「イン・ザ・ネーム・オブ・ジーザス」の直訳「イエスの名の中で」を筆者は当面「イエスの名の持つ波動体の中で」と理解している~といった。
そして、それは深い意味をもっている、と付言した。

今回はその「深い意味」を考える
長くなる。

 
 
<「御名の中に保ち守る」がわかる>

まず、この理解によって、従来わかり辛かったイエスの次の言葉の意味が初めてわかってくる。

・・・・・・・・・・・・・
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。
聖なる父、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。・・・(中略)・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしにくださっている御名のなかに、彼らを保ち、守りました」
  (ヨハネによる福音書、17章11~12)
・・・・・・・・・・・・・・・・・

これはイエスが十字架刑死を直前にして、父なる創造神に、弟子たちのことを祈る大切な場面だ。けれども「御名(イエスの名)の中に弟子たちを保ち守る」という祈りの言葉の意味がわからない。
それが「イエスの名」が波動体だとなると、わかってくるのである。

つまり、その意味は~

「自分は、イエスの名の波動体のなかに彼らを住まわせて守ってきた」
そして、自分はまもなく天に上っていなくなるが、この世にイエスの名を遺していくので、その波動体の中に彼らを保ち守ってください」
 ~という風に理解できるようになる。

 
 
<イエスは天国を持って地上に来た>

ついでにイエスのこの祈りの背景を、今少し詳細に考察するとこうなる~。

聖書では被造界の大枠は、天の創造神王国(天国)とその中の「宇宙」で構成されている。





天国は、罪のない世界、創造神の義の世界だ。
対して宇宙は罪に満ちた不義の世界だ。そこは黄泉(暗いところ)であり、いわゆる「世」だ。


その宇宙に「人の子」の姿をとったイエスは~天から~やってきた。
そしてそこに、いのち、救い、希望、能力、グレースの愛、慈愛(あわれみをもった慈しみの愛)等などを実現した。

これらは全て天国(天の創造神王国)に満ち満ちた要素である。
つまりイエスは「天国(の属性をもった空間)を伴ってこの世に来た」のだ。

それ故にイエスは「回心(repent)せよ。天国は近づいた」といった。イエスの近くにいた人間には「天国は近くに来ている」ことになるからである。
 
 
+++

言い換えると、御子は天国の波動空間をもって、「世」に下って来たのだ。
そして世を切り裂き、その中にイエスの名がもつ天国の波動空間を貫き建てたのだ。

+++

天国は宇宙より絶対的上位にある。そこに住む者は、その天の権威を行使できる。

この空間が併存するようになって、宇宙は悪魔の一円知行の空間ではなくなった。
天国という波動空間が併存する、そういう二元的波動空間になったのである。
 
 
 
<「世」の空間では悪魔の権は存続>

だから、従来の「世」の属性を持ったままの空間では、あいかわらず悪魔が空中の権を握って主導しているのだ。
 
昨今「イエスが十字架で殺されても復活したから、もう悪魔は打ち負かされ、空中の権も取り上げられた」と説明する指導者が多いのだが、事態はそうではない。

イエスの復活後も、「世」の空間では依然として悪魔が支配している風景になるのだ。
 
 
 
<「殺意」の証拠はあがったけれど>

たしかに悪魔は、創造神の御子をユダヤ人たちに殺させた。
それによって、創造神に対して抱いている殺意の証拠があがってしまった。
それで悪魔には有罪判決が下り、裁きは完成した。

+++

だが、刑の執行までにはまだ期間がある。
その間も悪魔は「世」の波動空間では支配者であり続けるのだ。

悪魔はその本性に従って行動することしかできない。
だから一人でも多くの人間を自分の(「世」の)側に取り込もうと働くのだ。
悪アガキと言われようがどうだろうが、そうしかできないのだ。
 
 
 
<バプテスマとは何か?>

こうした二元的空間の中でこそ、「信じる者には次のしるしが伴います・・・」という、今筆者が問題としている聖句の、すぐ前の聖句の正確な意味と位置もわかってくる。

その聖句は~
・・・・・・・・・・・・・・・
「信じてバプテスマを受ける者は救われます。信じない者は罪に定められます」
(マルコによる福音書、16章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・
~だった。

ここでイエスは「信じる」だけでなく「信じてバプテスマを受ける者には・・・」と言い残している。

なぜバプテスマまで持ち出すのか。
一体バプテスマとは何なのだ? 


それはまず、①人を水に沈めるが、これは~
 
~従来「世」の空間でその不義の波動のなかで生まれ育ち、義のない人間が、その旧来の自分を~イエスの名を信じて~水に沈めて葬る行為だ。


②次いで人は水から浮上する。
これは「世」の空間にいて義のない自分を葬った後、新たに生まれて「天国の(義の)波動空間」に入る行為だ。

+++

このように、イエスが来てからのバプテスマは、自分の霊の居所を切り替える行為である。
これを「新しく生まれる」という。

そしてそれは、この宇宙に「天と世」という、2つの相対立する波動空間が併存していてこそ成り立つことである。

+++
 
バプテスマは「信じたことを公に表明する儀式」と教える指導者も多い。
たしかにこれは一見儀式のように見える。だがそうではない。

これは「信じた者にはバプテスマを施せ」という、「主の命令に従う」行為である。
その命令に従うことによって、人はイエスの名の波動空間の方に、その霊の居所を変えるのである。

    
 
<「救い」は霊の住む波動体を変えることで>
 
天国の波動ゾーンに入って、人は初めて義と認められる。
世において善良で正直に生きた人でも、そのまま「世」のゾーンに留まっていれば、その霊は不義とされる。
最後の審判では有罪の裁きを受け、永遠に「火の池」にはいる。

創造神は人間のうわべをみない(第一サムエル記、16章7節)で、「霊」をみるからである。

+++
 
逆に「世」において悪行を重ねた人でも天国(イエスの名)ゾーンに入るならば、その霊は義と認められる。

彼は世の法で審判され、刑罰は受ける。
だが霊は義とされ、最後の審判でも天国に迎え入れられる。

+++

これが「救い(salvetion)」の実体である。
救いとは霊の居所を変えることで得られるものなのだ。

それにバプテスマが決定的な役割を果たす。
だからイエスは、信じて「バプテスマを受ける者」は救われる、といったのだ。

 
<バプテスマの神秘>

話は長くなるが、この機にのべておく。
 
量子力学の知識は、バプテスマのその効果を、物理学的に理解させてくれるだろうと、筆者は思っている。
だが、いま筆者・鹿嶋にはその論理を見出す余力がない。

そこで当面それは「バプテスマの神秘」として認識している。

福音の認識では、神秘主義は避けねばならない。
それはわかっているが、ここはかの創造神の御子、イエスの事例でほぼ納得している。
ヨハネからバプテスマを受けることで、一気にその姿を変えたイエスの事例がそれだ。
 
 
聖句をみよう。「マタイ伝」3章である。

イエスはヨハネからバプテスマを受けようとする。
だがヨハネは「私こそあなたからバプテスマを受けるべきなのに・・・」と辞退する。(14節)

けれどもイエスは言う。
「今はそうさせてもらいたい。このようにして、全ての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(15節)

そこでヨハネはバプテスマを授ける。
すると「イエスが水から上がられると天が開けて聖霊が鳩のように下って、自分の肩に留まられる」のをイエスはご覧になった。(16節)

また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは私の愛する子、私はこれを喜ぶ」(17節)
 

<突然母マリアを「女の方」と呼ぶ>
 
これを契機に、イエスのマリアの生んだ息子であり「大工の子」の側面は後退する。
代わって人間の姿をとって現れた創造神である「人の子」の側面が前面に出る。

なんとすぐに彼は、自分を産み育てたマリアを「女の方」と呼ぶのだ。
その時彼はすでに「人の子」としての公生涯を開始しているのだ。

その転換点に、バプテスマが位置している。
~これら一連の衝撃的な出来事が、当面バプテスマの力を筆者に理屈抜きで納得させてくれている。
 

<救われてもしるしが伴わないのは>

さてこれで、16節の、「信じてバプテスマを受けるものは」の「信じる」と、17節の「信じる者にはつぎのしるしが・・・」の「信じる」との関係も明らかに出来るようになった。

結論から言うと、16節での「信じる」は、イエスの「夢の約束」(ヨハネ伝、15:7)の第(II)ステージに相当する。
だから、これにはしるしは伴わないのが道理だ。

+++

現在、「俺、信じてバプテスマ受けたけど、しるしは現れないよ。あの彼も、この彼女もそうだよ。マルコ伝のこの聖句の言葉はオーバーだよ」といった感慨を抱くクリスチャンは多い。

だが、その状態は当然の帰結なのだ。
この「信じる」は、次の17節での「信じる者には・・・」の「信じる」とは違うからだ。

+++

つまり、それに続く17節の「信じる者には次のしるしが伴います」の「信じる」は第(III)ステージの状態だ。
イエスを全身全霊込めて愛し、同化し、分身となったレベルの「信じる」なのだ。

これにはしるしが伴う。
イエスの波動体空間の中に住まって、天国の「義」を与えられ、第(III)ステージに達すれば、天の「力」をうけるのが道理だ。
だから、その人からは、当然、しるしと力が現れることになるのだ。

+++
 
 
「イエスの名の中で」は、以上のような豊富な論理体系に繋がっている。
 
~今回はこれまでにしよう。


                 


 
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39.「イエスの名の中で」とは?

2019年02月22日 | 鬱を打破する聖書の論理

さて今回は~

・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章17-8節)
・・・・・・・・・・・・・・

~の③「私の名によって」だ。

②「次のようなしるし」は、それ以後に述べられるようなしるしだから、③以下の解読で自然に浮上するからとばす。
 
 
 
<わたしの名によって>
 
この③「私の名によって」には、そもそもを考えたらおかしなことがある。

その英語は(in My name)だ。それは素直に訳せば「私(イエス)の名のなかで」となる

なのに、こういう邦訳は見たことがない。ほとんどが「によって」だ。

だけど「によって」なら英語は(by)だよ。
どうして(in)が(by)に化けてしまうのか?

+++

先に結論を言ってしまうと、「のなかで」では、日本語として何を言っているか解らないからだろう。
意味がわからないので、邦訳書では「によって」としてしまっている。
理由も示さないで。
 
お祈りの場面では「イエスの名を通して」という人もいるよ。
みんな各々暗中模索してるわけだ。
 
 
だが、このままではいけない。
こういうモヤモヤは「イエスを知る」のに障害になるのだ。

そしてその状態は「御子イエスを心霊込めて愛する」障害ともなるのだ。
 
+++

そこでこの障害の打破を試みよう。

おそらく本邦初の試みになるだろう。
(また「異端!」の声が上がるかな。ニッポンキリスト業界には、異端と叫ぶのが好きな先生方が沢山おられるからな・・・)
 
 
 
<ソシュールの記号論>
 
”in My neme”(=in the name of  jesus) の妥当な意味を追うには、記号論知識の援用が必要だ。

+++
 
記号論では、たとえば金という「名」は、「キ・ン」という音や文字による信号でできているだけでない、とする。
 
それには「鉱物の中に在って黄色く光り輝く物質」といったような「意味」も併存している、と認識する。

この両者を「金という名」は最初からセットとしてもっている、と認知するのだ。

+++
 
そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールだ。
 
彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をも(はじめから)セットでもちあわせている実体」であることを、明らかにした。
 
この認識論を、日本では記号論と呼ぶようになっている。
彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされている。


     

<「シニファン」と「シニフィエ」>
 
 彼はフランス人で、信号を「シニファン」とフランス語で
いい、意味を「シニフィエ」と、いっている。
 
シニファンは、能動態で「(記号が)さし示すもの」といった感じだ。つまり信号の側面を言っている。
シニフィエは、受動態で「(記号で)指し示されるもの」との感覚のことばだ。これはつまり、意味の側面を言っていることになる。
 
 
 
 
<イエスとは「イエスの名」>
 
これを援用してイエスという名を考えると、こうなる。

イエスの名も、「イ・エ・ス」という音や文字によって示される信号(シニファン)だけでなっているのではない。
その信号は特有の意味(シニフィエ)もはじめから伴っている。

たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」「癒やす方」といった意味が初めから伴走している。
 
従来のギリシャ哲学での概念論では、そのあたりが明確でなかった。
だがイエスという名には初めから(人の心に)その両者がセットで含まれているという法則を、天才ソシュールは明かしたのだ。
 
 
 
 
<量子論では「名」もまた波動体>
 
さて、ここでもう一つ、これまで何度も援用してきた量子力学の思想を思い起こそう。
 
物理学における最新の理論である量子力学(量子論)は、中性子や電子や光子といった素粒子の根源は、量子という波動体であることを明かした。
 
波動というのは運動体であり、自らも波動を発している。
 
+++
 
その思想を記号論に組み合わせると、こうなる。
 
すなわち「名」(という記号)もまた波動(量子)でできている。
名はその「信号(波動)」によって、人の知覚に影響を与え続けている。

たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号波動を放射し続けている。
そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けている。

+++
 
ところが同時に名は、その「意味の波動」も発している。その波動が、受信者の意識に意味の波動を形成し、イメージさせる。
名は、そういう精神エネルギーを要求する仕事を受信者に誘発する。そういう働きをもし続けている。
 
~要するに「名」はそういう影響力をもっている実体であり、このような波動を放射しているのだ。
 
 
 
<私の名のなかで>
 
イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その波動(力)を発揮し続けている。
 
言い換えれば、その名を信じる(拒絶しないで受容する)人の中で、量子的な力を放射し続けるのだ。
 
~だから ③「私の名のなかで」は、「そういうわたし(イエス)の波動体のなかに住まっていて」という意味になる。

+++

これはなんと、イエスの夢の約束の言葉(ヨハネ8:32)の「ステージ(II)]に対応している。
「イン・ザ・ネーム・オブ・ジーザス」はまさに、これをいっていたのだ。

だから、これは「イエスの名によって」ではピント外れになってしまっているのだ。

だったら、どういったらいいだろう。

「イエスの名の持つ波動体の中で」という邦訳が当面筆者の心には浮上している。
筆者は当面それを用いてきている。

(これは深い意味をもっているが、次回に示すことにする)
 
 

<ステージ(III)をも含めて?>
 
また、この聖句が意味する「ステージ(II)」は「ステージ(III)」をも含意しているように、筆者には解せられる。

つまり「イエスの名の持つ波動体の中に」住まっていてその波動を受け続けると、イエスへの愛は深まる。
するとそれは「ステージ(III)」の事態にも」繋がる。

その意味で、マルコ伝のこの聖句「③私の名のなかで」(=「そういうわたし(イエス)の波動体のなかに住まっていて」)は、なんとイエスの夢の約束(ヨハネによる福音書、15章7節)全体と重なっているのだ、と。

筆者はそう解している。




<量子論あってこその理解>

余談を一つ。

イエスが語った~
「父よ、あなたが私のうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」(ヨハネ17:21)
~のような聖句も、量子論の援用でわれわれは物理学的に理解できる。

「父なる創造神も御子イエスも波動体」であるとすれば、父が御子の内にいて、かつ、御子が父の内にいる」という事態もイメージ可能になる。
波動体は弾力的だろうと思えるからだ。

全ての存在を粒子の結合体だとすると、「AはBの内にいて、同時にBがAのうちにいる」という事態はイメージしがたい。

ちなみに、筆者は創造神も波動体であるとの理解に当面いたっている。
被造物との違いは、「創造神はいのちエネルギーを放射・供給できることにある」と認識している。

+++

今回は学問的な話で退屈だったかも知れない。
だが、理解は詳細であるほど「イエスを知る」度合いは高まり、それはまた「イエスを愛する」度合いをも高める。

「知ること」は「愛すること」を深めるのである。






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38.「夢の約束」の具体論述がマルコ16章の約束

2019年02月17日 | 鬱を打破する聖書の論理

鬱を打破する聖書の論理を追ってきた。
ヨハネ8:32の解読にいきついた。
「イエスの言葉が内に住まうように(ステージIIIに)なれば、求めるものは何でも与えられる」という。

その(内に住まう)方法がわかったのだから、あとはそれに沿って、鬱の打破も求めたらいい。
自分でなく、うつ病の人を救う際にも、「この鬱の霊(波動体)を追放してください」と願いもとめてあげたらいい。

あるいは、~理由は後述するが~「鬱の霊よ、この人から出ていけ!」命じてもいい。


 
<具体例で埋めると>

これで本筋は解決したが、この8章3節の聖句は非常に一般的で広い(ありがたいことでもあるが)。
これをもう少し具体的な形で例示している聖句がある。

これを吟味することで、イエスの夢の聖句をもう少し具体例で埋めてみよう。
それはマルコによる福音書16章の聖句である。



復活したイエスは、天に上る前にこう述べている。

・・・・・・・・・・・・・
「全世界に出て行き、全ての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。
信じてバプテスマを受けるものは、救われます。信じない者は罪に定められます。
信じる人々のは次のようなしるしが伴います。
すなわち、私の名によって 
悪霊を追い出し、
新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、
たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章15~18節)
・・・・・・・・・・・・・・

 
この聖句を吟味しておくのは、イエスの夢の約束を、多様な現実の中で活かして行くのに役立つように思えるのだ。
そのために、各フレーズに番号を打とう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・
「①信じる人々には②次のようなしるしが伴います。
すなわち、③私の名によって 
④悪霊を追い出し、
⑤ 新しいことばを語り、
⑥ 蛇をもつかみ、
⑦たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、
⑧病人に手を置けば病人はいやされます」
  (マルコによる福音書、16章15節)
・・・・・・・・・・・・・・




<「信じる」を再考>
 
 さて①「信じる人々」の「信じる」から~。

これまでにもみてきたが、「信じる」という語は、広い意味を持った言葉である。
イエスの言葉についてみると、まず、

①その言葉を拒否しない、
 ~という状態もその一つだ。

自由意志を与えられている被造物(天使と人間)では、ケースは「排除する」と「受容する」二つだから、拒否しないというのは受容することだ。
「わたしは拒否はしてませんよ~」というのも「信じる」に入るのだ。

+++

②はイエスの言葉の中に住まう状態である。
前述の「夢の約束」に対するステージ(II)だ。

+++

③は「夢の約束」の(III)だ。

 イエスを全身全霊込めて愛し、イエスに同一化し、分身となる。
イエスと同じに「父なる創造神の言葉(=イエスの言葉)」が内に住まっている状態になる。

実は この状態に達して、はじめて、このマルコ16章の約束も実現される。
ヨハネ15:7に重ね合わせてみると、ここでいうイエスの「信じる」はその意味であることがわかるのだ。

 
<クリスチャンが「パス」するのは>

ところが「信じる」の語は、その全てを含んでいるから、そのままでは、理解は混沌としてしまう。
その状態だと、マルコ16章の言葉は全然実現しない。
そこで、多くの信徒も牧師さんも、この聖句は「パス」となっている。
これについてはニッポンキリスト教だけに限らないよ。

+++

繰り返すが、ここでイエスの言っている「信じる人々」とは、
ステージ(III)のイエスを同一化するほどに愛し、その分身になっている人だ。
その結果、(イエス)の意識波動体(言葉)が自分の意識波動体の内に住まっている人々」だ。

そして「そういう波動状態になっている人には、②次のようなしるしが伴う」といっている。
しるしの中身は後にして、③にすすみたいが、長くなるので、次回にしよう。

 
 
 
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37.「死に至る罪」「死に至らない罪」

2019年02月08日 | 鬱を打破する聖書の論理

 



福音における「罪の真理」は込み入っている。

「律法を守れ」、といいながらも、それを守れないのは、「究極の罪にはならない」、という。

では、究極の罪とは何かというと、「それはイエスを信じないこと」で「その真理には聖霊が導き入れてくれる」という。

この論理が複雑で、明確に理解できない。
良心の働きも複雑さを加重する。・・・これが人間の実情である。

理解できないから、今も日本の教会では「これこれの罪を犯しました」「御旨に従いませんでした」と“告白ごっこ”が盛んである。

 
<ヨハネの素晴らしい命名>

そこでこの二つに明確な名前を与えて、わかりやすく示そうとしたのが「ヨハネ伝」の著者ヨハネである。

彼は「死に至る罪」「死に至らない罪」という名前を考案した。

 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たら、創造神に(いのちを)求めなさい。
そうすれば創造神はその(求めた)人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。
死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。不正はみな罪ですが、死に至らない罪があります」
   (ヨハネによる第一の手紙、5章16-17節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
「死に至らない罪」とは、「律法を守りきれない罪」だ。
良心うずきの罪、いわゆる罪咎(つみとが)の罪はこちらだ。

これはイエスの血を信じることによって、そのいのちでもって相殺され、消し去られる。
だからこの罪で死に至ることはない。

+++

「死に至る罪」とは、「イエス(の血の効用)を信じない罪」である。

すべての罪を消し去る「イエスの血の効力」を受け入れなかったらもうゆるし(消去)の道はない。
これすなわち「死に至る罪」となる。


<『ヨハネ伝』には神学がある>

ヨハネは教えられた言葉の言葉面の下にある奥義を熟考して、福音を示した人であった。
同じ伝記でも「ヨハネ伝には神学がある」と言われるゆえんである。

その代表例は~
 イエスは創造神から出たロゴス(ことば)であり、「人の子」イエスは、そのロゴスが肉体となった方、という認識である。

こういう解説(教え)は、イエス自身もされていない。
だが、ヨハネはイエスの十字架上の身体が槍で刺されたとき、「血と水」が出たのをみて衝撃を受けた。

この記憶を晩年まで疑問として心に抱き、ついに、「この方の身体は人間の身体とは違っていた」のだ、という洞察にヨハネは達した。

「創造神から出たロゴスが肉体となった方」との本質的な理解に達したのだ。

これがないとイエスの伝記である「ヨハネ伝」にもよくわからないところが読者の心に残る。

ヨハネはそこで「人の子」イエスは「ロゴスが肉体化した存在」と伝記の冒頭に書いたのだ。



    

<大切な「恐れ」からの解放>

ともあれ、この明確な罪認識があってこそ、人は「恐れ」なくして律法に対面することが出来る。
「恐れから解放されて」律法を守るよう努められる。

これはイエスを心置きなく愛し、同一化の努力をするために必須なのだ。
 
+++
 
まず聖霊によって罪の真理を悟らされ、
それから、イエスとの同一化に、全身全霊を尽くす。

これによって、ステージ(III)への道は開かれるのだ。
 
~今回は、ここまでにしておこう~




 
 
 
 
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36. 「エデンの誘惑」は長期を見据えた罠だった

2019年01月23日 | 鬱を打破する聖書の論理


前回、聖霊が究極の真理に導く前の罪認識は、暫定的で不完全だと述べた。

だが日本の教会は、その罪理論に則って活動している。
日曜礼拝で、「過ぎたこの一週間にこれこれの罪を犯しました」と信徒が順番に悔い改めの祈りをしている風景は、それを示している。

今回は、その罪認識のもう一つの側面を示す。
それは暫定的で不完全なだけでなく、巧妙な罠に誘い込まれた結果であることを示す。

 
<十の戒め>

律法に示された罪は創造神からモーセを通して与えられた「戒め(命令)」に反することだ。
旧約聖書に記されたその戒めは超大量だが、モーセにはそれを代表的に示す十の戒め(「十戒」)も、与えられている。
それは次のようになっている~

・・・・・・・・・・・・
1.創造神以外の神を拝んではならない。
    (俺以外の存在を神として拝むな)
2.偶像を造ってはならない。
    (オレを像に刻むな)
3.創造神の名をみだりに唱えてはならない。
    (この段階では、創造神の名は「エホバ」となっている)
4.安息日を守れ。
    (週の中の一日はいかなる仕事もせずに、俺を思い拝する日とせよ)   
5.父母を敬え。
6.殺すな。
7.姦淫するな。
8.盗むな。
9.偽証をするな。
10.隣人のものを欲しがるな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
 
 
<対神的戒めと対人的戒め>
 
~このうち前半の四つは、創造神にどう対すべきかの戒め(命令)である。
対・創造神への戒めで、いわば対神的戒め。
後半の六つは、人間が人間に対するとき守るべき戒め(命令)である。
対・人間への戒めで、いわば対人的戒めだ。
 
+++

我々はここで、人間が自力でその違反を感触できるものを考えておくことが必要だ。
それは良心が働く対象だけである。
つまり後者の6つの「戒め」に反する罪、対人的な罪だ。


前者の4つの対神的罪は、人は自力では実感出来ない。
良心がうずいて実感させてくれることはないからだ。

 
 
 
<対人罪認識に集中し対神罪を放念>
 
もう一つ重要なこと~
 もし人間が罪認識を自力ですべき状態に置かれたらどうなるかも考えておこう。
 
この状態だと人の罪認識は、時と共に後者の六つの戒め、すなわち対人的戒めに集中していくだろう。
それらは実感(良心の)を手がかりに認識できるからだ。

+++

対して、前の四つの対神的罪は実感認識できない。
その結果、人はまもなく後者の戒めを、放念していく。
さらにすすんで関心を払わなくなり、実質的に無視するようになるだろう。


<最重要は対神的戒め>

だが、十の戒めの中で第一に大切なのは、この対神的戒めの方だ。
人間は被造物である。
創った側の創造神の方が、絶対的に上位の存在価値を持っている。

なのに、その創造神に対する罪を考慮に入れないような罪認識は、実質上ほとんど空虚である。
 
 
 
<「エデンの誘惑」の奥義>

そこには聖書の全体像のなかでの深い奥義が秘められているのだ。
人類はいつからそうした罪認識を持ち始めたか。
聖書の歴史物語の中に尋ねていくと、それは浮上してくる。
なんとそれは、今の人類の始祖アダム(とイブ)にもうすでに始まっているのだ。

+++
 
エデンの楽園において、イブが悪魔に誘惑されたのは、有名な話だ。
悪魔は蛇を通して語りかける。
「この木の実を食べると賢くなって、善悪判断を自分で出来るようになるよ」と。
     (『創世記』3章5節)


<善悪判断は罪認識の別名>
 
ここでもうひとつ考えておくべきことがある。
善悪判断とはなにか、についてだ。

それは罪の語を用いて言い換えれば「罪で有るか無いかの判断」なのだ。
「罪(戒め違反)でなければ善であり、違反であり罪であれば悪」だからだ。
つまり、善悪認識とは、後にモーセの律法にでてくる「罪認識」と実質的に同じものなのだ。


<善悪判断を自分ですれば>
 
だからアダム(とイブ)がその善悪認識を自力でやれば、それすなわち罪認識を自力でやることになる。
さすればその罪認識はいま見た通り、時とともに対人罪に集中していく。
対神的罪は無視されていくのだ。

+++

このことは通常見逃されてきている。
だが、聖書は『創世記』の冒頭からすでに、罪に関して、一貫した体系の一端を構成している。
聖書は、驚くべき、論理体系の書でもあるのだ。
 

+++
 
ともあれ、「良心の咎め」ベースの罪認識は、被造界をあらしめ、それを統治しておられる創造神へのほとんど冒涜でもある。
いまはそれに立ち入らないことにしても、とにかく空虚だ。
だから、それをベースにした罪の告白、悔い改めの祈りも、また、空虚で創造神を喜ばせるものにならない。
 
なのに日本の教会の礼拝では「自分の罪を言い表すという」という信徒の「悔い改めの祈り」~牧師のリードによる~が盛んだ。だが、これでは創造神と親しく相まみえる礼拝にならないのだ。

この種の悔い改めの祈りは、ほとんど空振りなのだ。
 ニッポンキリスト教会では毎日曜日、(野球の)空振り練習のようなことやっているのだ。


 
 
<罪意識の奴隷に陥れられる>
 
それだけではなく、もう一つ重要なことがある。

・・・これによって人間は、「良心がもたらす罪責感によって永遠に自分を責めたてる生涯を送る」ことになってしまっているのだ。
良心がうずく事柄は、過去を思い出せばいくらでも出てくるよ。
またそれは生きていく間にも尽きない。

人は良心が生み出す罪責感につきまとわれて生きているのだ。
イエスはこれを「諸君(人間達)は罪の奴隷なのだ」といっている。
 
 
 
 
<イエスとの同一化をブロックするもの>

これまで見てきたように、それではイエスとの同一化は可能にならない。
罪責観がイエスへの恐れと、後ずさりを産む。
それはイエスと人間との間に割り込んで、同一化をブロッキングし続けるのだ。
 
+++
 
今見たようにその罪認識(善悪認識)の仕組みは、人類の始祖の心に、悪魔によって挿入されている。
そして聖書では、人間の霊的資質は男親(アダム)を通して遺伝していくという思想だから、この罪意識は今の全人類にも浸透していることになる。

驚くべきことだ。
悪魔は巧みな悪知恵によって、人類を長期にわたる罪意識の奴隷に陥れるのに成功しているのだ。
これを無垢なイブに向けて、軽いタッチでやっている。
 
 なんと深い読みか!
これは(悪)知恵の極致といっていい。
 

 
 
<イエスはこの世でも人間を救出する>

以後、イエスが出現するまでの4000年間、人間の罪意識の奴隷状態につけいって、悪魔は人類に不幸の仕掛けを仕掛け続ける。人類をいびりつづける。
 
そして、4000年後に御子イエスが「人の子」として地上に現れるのだ。
イエスは、地上を去るに際して、罪の究極の真理を導入する。
そのため、最後の晩餐で葡萄酒を杯に注ぎ、自分がこれから流す血こそが、真の罪消去特効薬でであると宣言する。

イエスは罪意識の大転回(回心)を仕掛けているのだ。
だが、この宣言をしている時点では、イエスはまだ血を注ぎだしていない。
 
 
そこでその認識に導き入れることを、聖霊に委ねる。
この罪認識が究極の真理であることを、聖霊を送って悟らせるようにしておく。
いま聖霊は、従来の罪認識は、究極の知識でないことを悟らせるべく働いているのだ。

 
 
 
<「救い主」とは?>

クリスチャンは「イエスは救い主」と言うが、それはおもに死後の救いを言っている。
その内容だってバクゼンとしている。
よく「救うのは十字架」だとイメージしたりする。
だが、十字架は極刑の道具だよ。
呪いの木だよ。
これがどうして救いなんだよ。

+++

イエスの十字架死、というのはもう少し具体的だが、それだって漠然を含んでいるよ。
その死が、どうやって人類の罪を許すんだよ。

+++

あのひげを生やしたハンサムな人の絵を連想する人もすくなくない。
だけど、聖書にはイエスの容貌描写は一言も記されていないよ。
あれは後世の絵描きが勝手に描いた想像図だよ。

 
 
 
<奴隷状態から運び出す>

救いとは、デリバランス(deliverance:運び出すこと)であって、それは死後にだけでなく、地上においてもなされる。
罪のもたらす「死からの運び出し、救い出し」だ。

+++

それは「いのちエネルギー」でもって、死のエネルギーを相殺、消滅さすことによってもたらされる。
そのエネルギーの凝集体が、イエスの血だ。
救いの中核は、この血であり、救い主とはそれを流しておかれる方だ。
イエスを信じるとは、この血を流しておかれた御子を信じることなのだ。

+++

死ぬのは、窒息でも死ねる。
 
だがイエスは血を流す。
そして血を流す際に、イエスはむち打たれて、肌も肉も裂ける。
地獄の責め苦を受けるのだ

これをしておいてくださったことを知ると、われわれのイエスへの感謝と愛はつきなくなる。
その愛がイエスとの同一化を可能にしていくのだ。

今回はここまでにしておこう。






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