鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.285『世を造っておいてわざをなす』(17章2節)

2010年07月24日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝解読、本日は17章の第二回です。
(右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    
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=聖句=
 「それは(創造主がイエスの栄光を現すのは)子が、
あなたからいただいたすべの者に、永遠のいのち与えるため、
あなたは、全ての人間を支配する権威を子にお与えになったからです」(17章2節)
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第一節でイエスは父なる創造主に「時が来たので、子(イエス)の栄光を現して下さい」と祈りました。
今回はその続きです。

まず前半の「それは子が、あなたからいただいたすべの者に、永遠のいのち与えるため」から。

子はイエスです。
「あなたからいただいた者」は、弟子を始めとするイエスを信じる人々です。
信じた人間を創造主はイエスのものとする。
それが「あなたからいただいた全て者」です。

そしてイエスは自分のものにしてもらった信徒に、永遠にその霊に留まる「いのちエネルギー」を与えます。
「~に永遠のいのちを与える」はそういう意味になります。

                    

人間がイエスを信じるのは、自由意志によります。ここがポイントだ。
創造主は自由意志で信じた人をイエスのものとするのです。

ここを「創造主が特定の人間を選んで、イエスを信じる者とする」と解読すると、
予定説になってしまいます。
「選ばれない者は、信じない者となり、いのちを与えられないもの」
という論理になってしまうからです。



                    
後半の~
「あなたは、全ての人間を支配する権威を子にお与えになった」
~はどうか。

まず「全ての人間を支配する」

~これは「世を意図した状態に保持する」ということです。
全ての人間を支配できれば、世を自分が意図した状態に保つことが出来るでしょう。

ではその状態はなにかというと、
一つには「人間が本当に信じるのは、自由意志によるしかない」という状態です。

これは当たり前のようですが、実はとても特徴的なことですよ。
ロボットのように、ある環境条件が出来ると自動的に信じるようになる、
という状態にイエスは人を造ることも出来ますから。

本日の聖句の前半部分には、その状態を前提にした、もう一つの状態が述べられている。

つまり「(自由意志で)イエスを信じる者がイエスのものなり、
その人がイエスによって永遠のいのちを与えられる」という法則が貫徹する世の状態です。

これも特徴的なことですよ。
「全ての人間を支配する権威を与えられたら」イエスは他の状態に世をすることもできるんですね。
「信じる信じないに拘わらず、全ての人間に永遠のいのちが与えられる(救われる)」ようにすることも出来る。
自由自在です。

そのなかでイエスは、上記の法則が貫徹するような状態に世を造り保持した、というわけです。
そう造った上で、彼は様々なわざをしているという風景になる。
これも一つの奥義です。
その奥義がイエスのこの祈りによって人間にわかるようになった。聖書の論理は深いですね。

                    





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Vol.284『栄光とは何か』(17章1節)

2010年07月20日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝解読、ついに17章に入りました。たどり着いた、といった方がいいかな。
この章は、全文、死を前にした「イエスの祈りの言葉」です。
とにかく、早速第一節を。
(右上に、文字サイズ変更クリックがあります)

                    
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=聖句=

「イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて言われた。
『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現して下さい』」
(ヨハネによる福音書、17章1節)
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 この聖句だけでなく、17章では「栄光」という言葉が、イエスの祈りの言葉を理解する鍵(キーワード)になります。

鹿嶋の推察では、、聖書における「栄光」は三つの意味合いをもっています。

①一つは原義で、これは創造主から放射されるエネルギーをさしています。

これは聖書では「いのち」という言葉で示されることもあります。
そこで鹿嶋は、「いのちエネルギー」と呼んだりもしています。

「エネルギーは物質に転化する」・・・これは近代物理学の発見です。
アインシュタインはそれだけでなく、そのエネルギーと転化して出来た物質との量的関係まで見出しました。
(これによって原子爆弾も出来た)

がとにかく、この発見によって、聖書の冒頭にでてくる創造主の創造のわざが、
空想物語でなく、科学的にも根拠のあるわざであることがわかった。
だが、人間はそれを「発見」しただけでして、そういう事実は発見する前にある。
聖書はなんと、それをすらりと記していた。驚きを感じられませんか?

②第二は、派生的な意味で、創造エネルギーが発する光をさしています。

それはこのエネルギーから発する輝きです。
この輝きは、創世記で創造主から「光よあれ!」という言葉がでることによって出現した光とは違います。
これは光子という素粒子(つまり物質)が形成する光(英語ではlight)です。
栄光の光は、英語ではグローリー(glory)という創造エネルギーの輝きの光です。

③第三も、派生的な意味で、「栄誉」をさしています。

天使や人間といった被造物は、輝くものを崇め讃える性質を持っています。
そこで、栄光の光をみるとこれを発する存在を崇める。
このように崇められることが「栄誉」です。


                    

さて、本日の聖句です。
「あなたの子があなたの栄光を現す」の栄光は、原義の創造主からのエネルギーです。
エネルギーは力であり、力そのものは見えません。
そのエネルギーはイエスが完遂する「拷問に耐えて十字架死を貫徹する」という、
人間にはとても出来ない行為によって被造物の目に見えるようにして現れます。
これが「現す」です。



「子の栄光を現して下さい」の「栄光」も同じです。
イエスには創造主から流れ込んだエネルギーがあります。
そのエネルギー(力)がイエスの上記のわざによって見える形で現れる、ということです。

それで聖句は~
「私(イエス)に流入しているエネルギーが、私の(上記の)わざになって目に見えるようになるのを助けて下さい。
それはあなたのエネルギーを目に見える形にして現すことでもあるのです」
~という。そして「そういうことをする時が今来ました」と言っています。


                    

 この話は、初めて聞く人には、奇想天外でしょう。だが、これは人間に関わる奇想天外な話でもあります。
ということは~その真偽は別にしても~これは、人間の(罪と許しに関する)「新しい側面のイメージ」でもある。
聖書はそのようにして「人生に新しいイメージ、新しい意味合い」を与えてくれる書物なのです。

この新しいイメージを楽しめばいいでしょう。「オモロイなぁ~」と。
そしてもしそれが心の中でリアルな味わいをもつことがおきれば、そのとき人は至高体験(至福感)を味わうことになる。
コリン・ウィルソンという英国の哲学者は、
マズローという心理学者の欲求学説を吟味することを通して、そういう心理法則を見出しています。

至福感とは最高の歓び(至高体験)です。おそらくそれは恍惚する歓びでもあるでしょう。
聖書はそういう心理を体験させる素材を、次々に供給する書物でもあるのです。


                    






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Vol.283『私はすでに世(悪魔)に打ち勝っているのだよ』(16章33節)

2010年07月16日 | ヨハネ伝解読
(図はクリックすると拡大します)
(右上に、文字拡大クリックがあります)

みなさん、更新が遅れに遅れてごめんなさい。

ヨハネ伝解読、今回は16章の最後の聖句です。
次回からは17章に入っていきます。
そこにはイエスの父なる創主への祈りが、延々と記されていますが、
とにかく本日はこれです。

                    
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=聖句=
 「諸君にこれらのことを話したのは、諸君が私の中で平安をもつためだ。
諸君は世にいる間は艱難に遭う。だが、勇気を出せ。
わたしはすでに世に勝っているのだから」(ヨハネによる福音書、16章33節)
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この聖句では「この世」の「世」が何を指すかがポイントです。

イエスは弟子たちに、これから起きる信じがたい出来事を、喩えを出したりして話してきました。

 そんな奇想天外なことは、実際に起きて体験しないことには、人間にはわからない。
なのにイエスがそれを口に出す理由が、本日の聖句ではまず最初に出てきます。

 それが起きた時に、弟子たちが仰天して途方に暮れないためだ。
イエスが先行して語った言葉に照らし合わせて「ああ、これはあのことだったんだ」と悟れるためです。
 すると彼らは心に平安を得ることが出来る。理解は人間にとって、平安の薬なのです。

~でも、このことは前にもイエスは語っていましたね。


                    

<「世」の君主は悪魔>

 本日の33節では、「世」がポイントです。
 弟子たちは「世にいる間は」艱難に遭う、とイエスは断定します。

~これはまあ、ある程度わかった気持ちになれる。けれども次いでイエスは~

「だが、私は『世に勝っている』」と言っています。

「突然何をおっしゃいますか、イエス先生!」とでも言いたいところです。

+++

 でも、ここは「世の支配者は悪魔」「世は悪魔のもの」という、
聖書が世界に対して持っている鳥瞰図を思い出すと理解できます。

 鹿嶋は、聖書の空間理念の図をこれまで何度も提示してきましたね。
あれです。

 悪魔は創造主に対抗することによって、宇宙という暗闇に追い落とされた。
そこは、悪魔が創造主に対して根底的に敵意をもつことを、証拠づけられるまでは、
容疑者たる悪魔を収監しておく牢屋でしたね。
 そして、その牢屋が「世」であって、悪魔はそこの牢名主。
創造主はなんとそこに人間を創って生活させてしまうのでしたね。

そしてイエスが人の姿をとって、そこにやってくる。
いまが、そのやってきている時です。


                    

<人間が創造主に意識を向けないように>


悪魔は、人間が創造主に本格的に意識を向けないように、「世の力」を使って働きかけ、成功しています。
 そこにイエスがやってきて、強力に人々の意識を創造主に向けていく。
悪魔は、あらゆる世の力を使って、イエスの仕事を妨害します。

そして、イエスの仕事のクライマックスが、
悪魔が彼を殺すに任せ、それによって悪魔の創造主への敵意を立証することです。
 だから、イエスはここは苦しくても、拷問に耐え、殺されねばならないのです。


                    

けれども、これは筆舌に尽くしがたい苦しみです。
イエスは、人間と同じに苦痛を感じることの出来る身体をとってこの世に来ています。
その身体でもって、これからすさまじい拷問を受けることになっています。
むち打たれ、皮膚、肉が破れ、身体の内外で大量の出血をする。
そして傷だらけの身体で息絶えるまで十字架につるされます。これは未曾有の苦痛です。

人間は肉体に拷問を受け続けると、気持ちがぼお~としていきます。
気が遠くなって意志も薄れていく。そして激しい一鞭を受けると「
わかったもうあなた方(世)の言うとおりにする・・・」と口走る傾向をもちます。

悪魔はそういう肉体に対して、
「肉体を大事にしなさいよ。苦しむことなんかないよ。身体の安楽が第一だよ」と働きかけます。
イエスに対してもそうです。


                    

<マタイ伝、「ゲッセマネの祈り」>

だが、父なる創造主の命令は「ここで拷問を受け続けて死ね」です。
人間と同じに苦痛を感じることの出来る身体をとってこの世に来ているイエスです。以前に決心しているとはいえ、それが現実化する直前になって予想される激痛などを思えば、
やはりその心は揺れたのでしょう。

「マタイによる福音書」26章には、イエスはオリーブ山のゲッセマネというところに来て、
ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3弟子を連れて行った場面が記されています。

その26章37節には

「イエスは悲しみもだえ始められた」

とあります。
続いて弟子にこう言っている。

「私は悲しみのあまり死ぬほどだ。ここを離れないで、私と一緒に目をさましていてくれ」(38節)

そして一人離れたところに行って~

「出来ることでしたら、この杯を私から過ぎ去らせて下さい。」

と祈っています。
これは「悪魔の本性を立証するという仕事」までを止めさせて下さい、
と言っているのではないでしょう。
 その仕事はイエスがこの世に来た最大目的だから、やります。
だが、それを遂行するに
「もう少し苦しみの少ない、別の方法はないのですか。もしあるのならそれにしてください」
と祈っているのです。


                    

<「御心のままに」と三度祈る>

だがそれはない。イエスはその後~
「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」
~と 創主に語りかけています。(39節)

「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞ御心のままになさって下さい」
~と祈っています。(42節)

マタイ伝はこういう「祈りを繰り返して三度された」と記しています。(44節)

こうしてイエスは、「世(の声)」に打ち勝ったのです。
これが本日の聖句で言う「わたしはすでに世に勝った」の意味でしょう。

こうして、ヨハネ伝は、イエスの長い祈り(17章)に入っていきます。


                    


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