歴史というものは、統治権力者の動向を巡って書かれるものだ。権力者の行動は、国民の生活に日々大きな影響を与えるので、全人民の最大関心事になるからだ。
それは権力者の有能無能を問わない。無能であってもそれはまた悲劇の源として、そして時には滑稽の素材として政権者は歴史記述の素材になる。
他方、聖句主義者は聖句吟味の自由を求め、政治権力からひたすら「遠ざかろう」としてきた。
権力の方は彼らに「接近」したが、それはただ捕らえ処刑するためであった。
聖句主義者は一貫して「忌み嫌うべき無政府主義者」とみなされてきた。
忌み嫌うべきものは「不快な存在」であり、こういうものが公式歴史に書かれることはない。
だから彼らは膨大な数になっても、公式の歴史記述のなかにいっせつ編み込まれないできた。
だが実のところ、アメリカはバイブリシスト主導で造られていく。
鹿嶋の論考はそれを明かすものだが、なにぶん、聖句主義者のことは歴史教科書から(専門書からも!)
情報が全く与えられていないので、読者は言ってることがわかりづらい。これはもう自然なことだ。
けれども、まずは既成の歴史知識からの先入観を脱ぎ捨てて素直に読み進んでみよう。
さすれば、徐々にイメージは描けていくと思う。
<三種類の植民地>
アメリカ社会は出発点からヨーロッパと同質の社会だった。植民地は欧州の支配者が経営し、その社会は欧州の本国と同じ思想、同じシステムで運営された。
植民地はまず大西洋岸の地域につくられた。今のアメリカ合衆国の東海岸地域とその周辺である。
そこでは当初スペイン、フランス、オランダ、英国の植民地が混在していた。この時代には王権神授思想が優勢で、植民地の究極の所有者もまた本国と同様に各国の国王とされていた。
統治責任も権限も本国政府にあった。だがしばらくするとこれらの土地のほとんどは、植民地での戦争に勝った英国の国王のものとなった。
植民地には~
領主植民地(植民地運営を志す英国貴族が英国王から勅許状をいただいて経営する植民地)、
王領植民地(国王の直轄領地であって、国王が直接に総督と参議会議員を任命する植民地)、
自治植民地(植民地住民が総督と議会議員の選出に参加できる植民地)
~の3種類があった。
それらはみな総督(ガバナー)と議会を持つ統治体である。そこでは法定教会が設立され、移民たちはみないずれかの教会に登録されて所属せねばならず、聖句主義者が勝手に教会を造ることは許されなかった。
だが、彼らはそういう地に、最初の大量移民として移り住んだ。
<最初の大量移住者は聖句主義者>
植民地では農地を耕す農民や日常品を生産する手工業者が必要だった。これが本国で募集された。応募して認められ当該領有地に運ばれるというのが、一般人の主要な移住方法だった。
この最初の大量移住者が聖句主義者だった。彼らは母国よりも規制のはるかに緩いはずの新大陸に積極的に移住した。17世紀のことである。
<英国近代バプテストは南部に>
早期に移住した聖句主義者集団の一つは、英国近代バプテストだった。
彼らは南の領地を選び移民していった。その子孫たちは今もサザンバプテストと呼ばれている。
一般に南寄りの地域は冬が過ごしやすいのだが、彼らがこの地に集中したにはもう一つ理由があった。
この地域にはニューイングランドが含まれていて、この大西洋沿岸地域は、初期の政治活動の中心地だった。
アメリカ植民地に信仰自由の社会を造る夢を抱いていた英国近代バプテストは、この地を選んでいった。
信教自由社会が成るには、大枠として三つのステップが必要だった。
第一に、アメリカ植民地を独立国家にすること。
第二に、その国に憲法を制定して法治国家にすること。
そして第三に、憲法の中に信教自由の条項を確定すること
~この三つだった。
各々がみな夢のような話だ。だが彼らは深い理念の人だった。理念の人が心から欲すると、遠い先の夢でも詳細で具体的になるのである。
彼らの子孫が独立のために本格的に働き始めるのは百年以上も先になるのだが、その夢がなければ彼らは早期に移住することはなかった。
彼らはバプテストと気づかれないようにして渡航したという。数が多いと気付かれやすいので、少数に別れて移民登録し、他の渡航者に紛れ込んで乗船した。
聖句主義者は相変わらず危険な無政府主義者とみられていたのであった。
<メノナイトは米加国境地帯に>
もう一つの聖句主義者集団、メノナイトは今の合衆国北部のカナダとの国境あたりに多数住みついた。
それも西寄りの、現在のアメリカとカナダの国境の両側あたりに集中的に移住した。
今ではアメリカ側に住む人の数が多く、ノースダコタ州、アイダホ州、ワシントン州、オレゴン州などにメノナイトの教会がたくさんある。
こういう辺地では移住者はほとんど自由に住み着き開拓することが出来ただろう。
メノナイト派の人々は北欧地域にたくさんいた。
彼らはデンマークからノルウェー、スウェーデン、フィンランドへと東回りに居住地を移していた。ロシアに移るものも少なくなかった。
彼らは北の凍てついた土地を掘り起こしてジャガイモを栽培する技術にも長けていた。現在も上記諸州は合衆国のジャガイモをほとんど一手に生産している。
彼らは「汝殺す無かれ」という聖句を大切にして、戦争にかり出されないことを重視した。
「汚物処理など人のしたがらない仕事をすることを条件に徴兵しない」という約束を国王からとりつけながら生活を続けた。
ノンポリ聖句主義者の彼らには国家社会変革への情熱は少なく、為政者の手が及びにくいのが貴重だった。
彼らは同じ北部でも、政治中心地の東海岸からより遠く離れた太平洋側の地域に重点的に移住した。
新大陸での自由国家作りの主導者は、ほとんどもっぱらバプテスト聖句主義者であった。
<植民地での聖句吟味活動>
バプテスト聖句主義者は法定教会の礼拝に出席する一方で、ひそかに聖句吟味のスモールグループ活動を行った。
植民地の領地は広大で、教会側も詳細な監視と規制ができず、少なくとも当初彼らは比較的自由に集会をもっていた。
だが時がたつと発見される集会も出て、居住地を追放された者も出た。横になって眠れないほど全身を鞭で打たれるというケースもあった。
欧州で数限りなく行われた、広場での公開火刑は新大陸ではみられなかったが、新大陸に信教自由の国を建設するという夢は遠い先の幻だった。
<月光仮面現れ、ロードアイランドに信教自由社会>
ところがそこに月光仮面が現れた。イギリス国教会のロジャー・ウィリアムズ(1603~1683)というスーパーマン聖職者が、この地にきて一気に事態を進展させた。
彼は英国ケンブリッジ大学にて神学を修め、抜群の成績で卒業した。弁舌力にも優れ卒業前から就任依頼を出していた複数のハイクラスな英国教会の教区教会の一つに卒業と同時に就職した。
だが、思想的には分離派ピューリタンであって、説教で強烈に国教会批判をした。
そのため、英国におられなくなって米大陸植民地に向かい、1631年2月にボストンに上陸した。
ピルグリム・ファーザーズが郊外のプリモスに上陸した11年後のことである。
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植民地でも彼の才能は知れ渡っていて、ボストンの英国教会は大歓迎で聖職に迎え入れた。ところがここでも説教で国教会の腐敗を糾弾し、追放される。
すると今度は辺地セイラムの教会の司祭を引き受け仕事をしている間に、その地のインディアン酋長と仲良くなった。
そしていまのロードアイランド州の一部に当たる細長い森林地を売ってもらい、そこにプロビデンス(神意という意味)という名をつけて理想の町を建設し始めた。
街の建設目的を彼はこううたっている。「この町が(信仰的)良心の故に苦しめられている人々の避難所になることを私は望んだ。
水面下で苦しむ同胞をみて、私は愛する友たちにこの町を贈ったのである・・・」と。プロビデンスは信教自由主義者の「駆け込み寺」となった。
ボストンを始めとするマサチューセッツ植民地の都市では清教徒(ピューリタン)が圧倒的多数派だった。
これらの町々から迫害された人々、反逆者、不平分子として追放された人たちが多数逃げ込んできた。
彼はそこに人民の権利と意志のみをベースにして運営される自由政府を創設した。政府と教会を完全に分離させ、政治的自由、宗教的自由の諸理念を実施に移した。
<植民地勅許状を手に入れる>
ロジャー・ウィリアムズはさらに、その地を含む一帯を、誰にも踏み込まれない植民地とすべく、勅許状を本国から得ようとする。
プロビデンスに逃れてきた一人に、ジョン・クラークという医師がいた。プロビデンス政府は彼を英国に派遣した。
任務はこのロードアイランドという地に対する植民地設立認可状を、国王から得てくることだった。1651年のことである。
クラークは実に12年間奮闘し続け、ついに1663年勅許状を取得するに至った。
許可を出した新国王、チャールズ2世は気がいい人で、勅許状には~、
この地では「当人が市民社会の平安を乱さない限りにおいて、如何なる方法をもってしても、人を宗教上の見解の相違によって苦しめたり、
罰を与えたり、脅して心の平安を乱したり、喚問したりしてはならない」と記した宣言も付せられていたという。
この理念は実質的に聖句主義原理と重なるものである。こうして現在ロードアイランド州となっている地に、初の聖句主義共和国ができた。
この人類史上、画期的なことが、アメリカ植民地が独立する100年以上も前の1663年に実現していたのである。
<人類初の「信教自由」植民地憲法>
彼と仲間たちはこのロードアイランドの地に、信仰自由をうたった憲法を造った。
この憲法は聖句主義活動以外を認めないのではなく、いかなる宗教活動も制限しないというものだった。
英国教会と、カトリック、長老派、組合派、メソディスト派その他いかなる教派活動も禁じなかった。
これは聖句主義の神髄である。真の信教自由とはそういうものである。
後に信教自由の原則をうたうことになるアメリカ合衆国憲法修正条項(権利章典)の内容は、ほぼこれに重なっている。
合衆国の国家憲法の一世紀半も前に、それと同質の憲法がアメリカ植民地の一つに作られていたのである。
<マサチューセッツ植民地に突入>
紀元後426年以降1200年間、文字通りの「三界に家なし」で迫害され続けた聖句主義者はついに安住の地を得た。
だが彼らはそこを安住地とすることなく、言論自由国家の建設に向けて突き進んだ。
まず、この安全地帯を拠点にして他の植民地域に聖句主義教会を造り始めた。
隣接するマサチューセッツ植民地の中心都市ボストン、さらにニューヨーク、ペンシルバニア、フィラデルフィアなどの諸都市に聖句主義教会を造っていった。
そして彼らは政治の先進地バージニア植民地に大挙して突入していった。
<バージニア、聖句主義者容認へ>
バージニアは王領植民地として始まった地であって、聖公会(英国国教会: のちに日本では立教大学を創設している)の教会員が大勢を占めていた。
国教会は体制派である。マサチューセッツの分離派ピューリタンのような反体制的なかたくなさは概してなく、気質的におおらかなところがあった。
だがその聖公会の教会員も、聖句主義者の集いを襲撃した。司法当局も動いた。
バイブリシストを逮捕し、投獄し、広場でむち打ちの刑に処した。
多数のバプテスト聖句主義者が法廷に引き出された。
けれども聖句主義者の不屈な精神と一貫した行動は、バージニア植民地の人々の姿勢を軟化させていった。
聖句主義者への同情と容認の空気が醸し出されてバージニアでも彼らは容認されていった。
<独立革命の種を仕込む>
ボストンやバージニア植民地でなされたような聖句主義阻止運動は、他の植民地でも起きた。
だが、いずれの地でも聖句主義者は迫害に耐え続け、教会を増やしていった。
こうしてバプテスト聖句主義教会は全植民地的にも無視できない勢力になった。
事態は植民当初からしたら様変わりとなり、時は満ちた。彼らは次の大目標、植民地の本国からの独立革命(American Revolution)に向けて足を踏み出した。
本国が素直に植民地の独立を認めるなど夢にもおきないから、戦によって勝ち取るほか無い。彼らは独立戦争(Wae of Independence)の種を仕込んでいった。
独立運動では、まず人民に独立の思想を普及させねばならない。それには本国の監視をくぐっての思想宣伝が必要だ。
機運が熟せば全植民地の連合政府を結成させ、武器を集めて軍隊を結成し、戦をするのである。
「アメリカ革命」の語には、こうした諸活動を総合的に見る視野がある。
<植民地も王家劇場国家の一部>
まず植民地の人民に独立の理念を普及させる・・・これは並大抵の仕事ではなかった。
英国の王室はエリザベス女王からビクトリア女王の治世を通じて、卓越した国家アイデンティティ(イメージ)政策身につけるに至っていた。
国全体を王家をスターヒーローとする劇場のようにしたてあげ、人民に王家情報を散布してテレビドラマを見るかのように一喜一憂させていた。
アングロサクソン民族の人心は王権への信頼と讃美の一色になっていた。
アメリカ大陸植民地も同様な劇場化がなされていた。
各地の広場や公共施設の前には、国王の銅像が建てられ、教会におかれた祈祷書には、「国王にゴッド(創造神)の祝福がありますように」とのフレーズが組み込んであった。
人民は日曜礼拝ごとにそれをとなえるという仕掛けなのだ。
植民地人民もまた王家イメージを好感し、王家の人々の恩恵で自分たちは生活が出来ているとの気分で暮らしていた。
植民地でのこうした心理の浸透ぶりは、後の独立戦争における英国軍兵士数にも現れている。
英本国から来た兵士数が12,000名だったのに、植民地住民でありながら英国側に属して戦った兵士は50,000名もいた。
彼らはトーリーとかロイヤリスト(王党派)という名で呼ばれた。
<劇場国家の中で独立思想を注入>
こうした劇場国家のなかに入れられながら、本国からの独立意識を強く持てる植民地人民は王家ドラマ以上に深い世界観・人間観を詳細に抱く人々しかいない。そしてそれは聖句主義者をおいてほかになかった。
それだけでも独立革命の主導者が彼らであることは明らかだが、それに加えて聖句主義者は独立思想を広める能力ももっていた。
1200年の間、彼らが活用し続けてきていた草の根ネットワーク交信技術がそれである。
植民地で本国からの独立をもくろむ情報活動をするのは国家反逆罪である。本国政府は諜報員も常駐させている。
だが彼らの交信技術は、そのような統制下ででも全植民地空間に思想を普及さす力を持っていた。
配布する思想宣伝物を作成するための書技術もすぐれていた。
彼らはそのノウハウをアンダーグラウンドでの聖句吟味活動を通して培ってきていたのだ。
それらは、後の独立戦争において植民地軍兵士を25万名集めるに貢献している。
彼らはまた、1764年にロードアイランド植民地で植民地連絡委員会(Committee of Coresspondence)が開催にこぎ着けられるに際しても働いている。
ロードアイランドが聖句主義者の共和国であることは前述した。
委員会では「自由の精神を高めること」と、「その諸手段を統合し一体化すること」との目的が掲げられた。バイブリシストならではのものである。
<印紙条例廃止の実現を跳躍台に>
そして翌1765年に印紙条例問題が起きた。
英本国が北アメリカの13植民地に出した法令で、証書・新聞・暦からトランプにいたるまで,印刷物に印紙をはらせて税収を得ようというものである。
植民地側は「本国議会に代表を出してないのに課税はおかしい」と主張し、廃止に追い込んだ。
本国政府の権威は急低下し、革命運動家はこれを独立気風加速の好機とした。
以後独立戦争が勃発するまでの10年間に、独立思想を訴求するビラやパンフレットが爆発的に増えている。
それらの文書は政治論争も誘発した。論争は創造的で活気に充ち、代議制政治や植民地同盟を論じた新聞論説もや小冊子も出た。
独立政府創出案を論じた文書は何百と発行された。これらが一般人民の政治意識を急速に変化させていった。
アメリカの植民地独立革命は、公の書物には民衆の間に漠然と沸き上がったかのようにしか説明されてきていない。おかしなことだ。
近代の社会革命運動が人民全般から自然発生することなどありえない。革命は一定の人々がアンダーグラウンドで仕掛けてなるものなのだ。
<聖句主義者、大陸会議承認声明を即座に出す>
印紙条例事件9年後の1774年、植民地側はフィラデルフィアで初の(第一次)大陸会議(First Continental Congress)を開いた(9月5日)。
会議は一ヶ月半、10月26日まで延々と続いた。北米13植民地中の12議会から送られた56名の代表が議論を重ねた。
主要議題は、本国が課してきている「耐え難い法律(Intolerable Acts)」への対策だった。
代表者は英国製品ボイコットなどを決議し、第二次大陸会議を1775年5月10日から開くことを決めた。
これは後の連邦政府の前身となる。
バプテスト聖句主義者も動く。この会議開始の8日後、バプテスト教会ウォーレン連合会はこれを承認する声明を出した。
連合会はそこで、「大陸会議を植民地最高裁判所のようなものと理解する」との旨を宣言し、他のバプテスト連盟も速やかにこれに続いた。
米国では伝統的に教会連合会の声明は、少なくとも第二次世界大戦時までは強大な影響力を持ってきている。
大戦中にラジオを通してなされる連合会牧師の主張には、大統領演説に匹敵する指導力があったと生存者は述懐している。
<植民地政府、戦争を開始し独立を宣言する>
1775年4月19日、植民地民兵隊と英本国軍との戦いが勃発した。
「レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)」といわれる。これらの地は、ボストンの北西方向にある。
公式の独立戦争開始はもう少し後で、6月14日に第二次大陸会議において正規軍(大陸軍)の設立が承認された時とされている。
だが実質上この戦でアメリカ独立戦争の火ぶたは切られていた。
第二次大陸会議は1775年5月10日に開始され、1781年3月1日までの期間中開催状態が維持された。
会議は、開戦の翌年の1776年7月4日に植民地の英本国からの独立を宣言した。
バージニア州のトーマス・ジェファソン(後の第三代大統領)が宣言書を起草した。
大陸軍の総司令官はジョージ・ワシントン(後の初代大統領)で、彼もまたバージニア州の人だった。
戦場はボストン、ニューヨーク、ニュージャージー、サラトガ、ヨークタウンへと展開し1783年まで続いた。
だが1781年10月17日、ヨークタウンの戦いで英国軍がアメリカ軍に降伏したとき勝敗は事実上決していたといわれる。
植民地軍は勝利したのだ。