鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<臨時版>3「“ネクストステップ”が知的躍動の鍵」

2008年11月30日 | スモールグループが世界を救う
小グループ・メソッドともいうべき仕組みについて、今少し考えましょう。


                    

<知性躍動欲求>

人間は、自己の知性が躍動状態になることを、心の底で渇望しています。
そして、それがなるには鍵があります。

人は自分の知性の現レベルをワンステップ向上させたいと願うことがあります。
自分の心が心底から発する疑問、問題意識とはその「思い」のことです。

そのとき、そのネクストステップの知識をタイミングを外さず獲得できたらどうなるでしょうか?
人は、今まで味わったことのない快感を体験します。
この時だけに、人間は、真の「わかった!」を体感します。

そしてそのときだけに、人の知性は真の躍動をするのです。
ついでにいえば、そういう知識だけが、人生を生きていく中で「真に役立つ実用的な」知識となるのです。


                    


この原体験の快適さは、忘れられないものとして、人の意識の底に残ります。
それがまた、新たな知的渇望を発生させます。
かくして人は、向上したレベルの「さらにネクストステップの知識」を、従来以上に強く渇望するようになるのです。
そして、それが得られると、また、従来以上に増した知性の躍動を体感するのです。

                    


<小グループで吟味していると・・・>

こうしたネクストステップの知識を、臨機応変に仲間が与えてくれる仕掛けが数人のスモールグループです。
これが最高に効率的な仕組みなのです。

スモールグループにおける探索状況がそれを実現するのです。
実に小グループでの検討会は、人間が知的躍動を体感する最良の仕組みなのです。



                    

<個々人の「自由」は必須の仕組み>

ただし、そこでは個々人の思索、解釈の自由を守り、保証してあげることが必須になります。
小グループでも、それが「ある正しい解釈があって、それに至る為の方法」
という色彩を少しでも帯びると、その集団の知性躍動機能はいっぺんにゼロになります。
だから聖句の場合には、「聖書解釈の自由」は必須にして不可欠の柱になるのです。

そして、この仕組みは、聖句以外を対象としても、基本的には機能します。
聖句が、素材として一番有効なものらしい、というだけのことだと春平太は感じています。



                    


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<臨時版>2 映画「怒れる12人の男」とスモールグループの効用

2008年11月22日 | スモールグループが世界を救う
                    

スモールグループというのは、形式的には、数人の小さなグループであるにすぎません。
そんなものが、なにか、特別のコミュニケーション効果を発揮するのか、
という疑問がでても、不思議はありません。

だが、ここで物事を吟味するというのは、聖句を対象にしない場合にも、
特別の効果を持つのです。

映画「怒れる12人の男」は小グループ制の卓越した効用をよく示しています。
これはアメリカの陪審員が犯罪を吟味する物語です。
白黒(ヘンリーフォンダ主演)と、カラー(ジャック・レモン主演)との
二つの作品が造られていますが、白黒をDVDで買うことが出来ます。


                    


<陪審員制度と裁判員制度>

アメリカは、犯罪の最終的判断を、陪審員という一般市民で構成された
12人のグループに行わせます。

今話題になっている日本の裁判員制度は、この性質を日本の裁判にも
取り入れようとするものです。

この映画では、一人の卓越したリーダー(ヘンリ・フォンダ演じる建築家)がいます。
他は、凡庸な知性状態の人々ですが、
持って生まれて、知的素質が低いのではありません。

日常的に、そんなに知性を働かせない方がいい仕事が世の中にはたくさんあります。
多くの人は、そういう状態にあるので、知的素養が劣化した状態になっているのです。
映画は、アメリカでもそうであることを示しています。


                     


そうした彼らの知性を、事実上のリーダーである建築家が討議の中で
徐々に上昇させていく状況が、この物語には如実に描かれています。

スモールグループの討議の中でそれを行いますと、他のメンバーには、
「教えられている」、という感覚が生じません。
自ら主体的に考えているという意識になって進みます。
実際彼らは、その感覚で知識を取り入れて前進するのです。


                    


<個々各々のレベルから出発させる>

それは自分たちの出発点の知性レベルを、当然のこととして受け入れられているからです。
そのレベルが許されているので、萎縮することなく、
かつ情念をもって討議を進めていくことが出来ます。

それでいて、いつのまにか結果的には、リーダーの行動に刺激されて、
自らの知的レベルを上昇させていきます。
陪審員としてのあるべき思考をも学んでいってしまいます。

こういうことは、自由な思考・発言がゆるされたスモールグループだからこそ
可能になるのです。
一方的に知識を供給される、講義形式では決して出来ません。


                    

この陪審員たちの小グループ討議では、リーダーの建築家は、
議論が紛糾してしまった状態の時、立ち上がって
「自分の印象をいわせてもらうと・・・」という形でさりげなく
ティーチインをしたりもします。
こうして事件と証言の見方を他者に教えていくのです。


                    


<彼も教えられる>

彼は、最初からこの事件の全貌に関する一定の見解をもっています。
だが、彼自身も見逃している詳細な事実を、メンバーの発言によって教えられていきます。
そのように詳細は見逃しているところもありますが、概略の全体感はもっています。
ですからみんなを一定の方向にリードしていかれます。

これは、他のメンバーより高い水準をもったリーダーのいる小グループの形態を描いています。

その効用を、如実に示しています。
ごらんになると、スモールグループがいかに特別な効果を持つかを、
悟ることが出来ると思います。


                    





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<臨時版> 1 「ヨハネ伝解読の目的」

2008年11月18日 | スモールグループが世界を救う
                    


ヨハネ伝解読を続けている内に、その意図を見失いがちになります。
ここで確認しておこうと思います。

春平太は、数人前後のスモールグループでの聖句吟味活動が、
日本での福音普及だけでなく、日本人の知力を底上げする鍵だと思っています。

吟味活動は、聖書解釈自由の原則で行うべきものです。
その活動にこの「ヨハネ伝解読」が役立てばと思って書いています。


                    


正しい解釈を示そうとして書いているのではありません。
それなら、教理の作成になります。
そうではなくみんなで吟味するとき、一つの参考になればいいと思って
やっています。

春平太自身、同じ聖句でも、以前と今とことなる解読になることがよくあります。
聖句はあまりに深く多様であり、これが絶対的解釈といえるものに、
人間が至ることはなさそうだと、いつも感じてやっています。


始めて聖書を読む人々のグループでは、
納得する解読になかなか至りがたいことがあるでしょう。
そんな時、一つの解読事例として利用していただけたらと思っています。


                    

それにしても、日本の人々が小グループの聖書吟味会を愛好するようになる
可能性はあるでしょうか?

読者の皆様が、コメント欄で議論してくだされば、ありがたいです。

それは私の参考にもなります。

よろしくお願いいたします。


                    





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Vol.246『私につながっているんだよ』(15章1~5節)

2008年11月09日 | ヨハネ伝解読




 「ヨハネ伝」も新しく第15章に入ります。
本日の聖句はこれです。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしはまことのブドウの木、私の父は農夫です。
私につながっている枝で、実を結ばないものは、父がすべて取り除きます。
実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、余分な枝を刈り込まれます。
(15章1~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                                        

第1節の「私は葡萄の木、父は農夫」は有名ですね。

もちろん、たとえです。
まず「私(イエス)につながっている枝」から。
結論から言うと、これはイエスの周りに集まる人々を意味しています。


「実をむすぶ」とは、「福音伝道をして新たな弟子を作る」ということです。
「実を結ばないもの」とはそういう「実を結ぶような伝導をしない人」を言っています。

そしてそういう人々は、父なる創造主はイエスの周囲から取り除いていく、というのです。
それが「刈り込み」です。

弟子はびっくりしたでしょう。
自分も刈り込まれるのではないか、と。
だが、彼らは別格です。それは次の聖句が示しています。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君は私が語った言葉によって既にきよくされています。」(15章3節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


ここで「きよい(clean)」とは何を意味するでしょうか。

「諸君(弟子たち)は私(イエス)が語った言葉によって」というのは、
「イエスのその言葉を意識に抱くことによって」という意味も含んでいると思われます。

                    


イエスの言葉は父なる創造主から与えられた「天」の言葉です。
この世の言葉ではありません。

そしてこの言葉を意識に抱くと、意識が「世的」でなく「天的」になっていく、
すなわち、聖(holy)になるというのが聖書の論理です。
ですからこの「きよい」は天的、聖ということだろうと考えられます。


                    


よけいな「世的なもの」が少ない。
そして、この最後の晩餐にともにいる弟子たちは、既に、イエスの言葉を与えられているから、
聖になっているのだ、ということだと考えられます。


1~2節は、イエスの周囲に来る人々一般に関する一般論。
3節は、いまこの最後の晩餐を共にしている弟子たちに限ってのこと、となります。


                    





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