鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

=聖句自游吟味という宝物=

2017年05月31日 | 随想

 



先回、鹿嶋はこう述べました。

~日本の人間思想、人生観の土壌は伝統的に非常に浅かった。
その伝統の故に、聖書の持つ深い(霊的な)思想要素をくみ取ることが出来なかった、~と。

+++

でも、短所を分析して指摘するだけでは、認識は不十分で不親切だ。
前にも述べた命題が、ここにも当てはまります。

鹿嶋は、この問題に責任を持って打開策を考えておきます。

 

<結論から>

これは結論から先に提示した方がいいです。
言葉としては、答えは簡単です。
聖句(聖書の中の言葉)の自由吟味活動を我々人民が広くすること、~これです。

+++

その理由は、今年中に発刊される予定の、鹿嶋の20年ぶりの小冊子本に詳しく述べられますが、ここで一部をかいつまんで言うとこういうことです。

聖書という書物は、広大な論及内容を持っています。
それは、無限大の空間と、無限大の時間とのなかで展開されます。

そして、その内容は、目に見える物質界から霊界に至るまでに及んでいます。

こんな広大で深遠な認識対象、存在論内容を持った書物は他にないです。

 

<自由吟味と小グループの原則>

これを、個々人が解釈自由の原則に立って、自由に吟味します。
そして、小グループを任意に作って、そこに持ち込み、相互に吟味し合います。

すると、人の人生観も、ごく自然に深いものになっていくのです。


+++

もう少し追論しましょう。

聖書が述べる存在界は、たんなる「世界」ではなく、それを創造した創造神にまで広がっています。
こういう広大な世界を述べた聖句を吟味すると、人間の視野は極限にまで広大化します。

人の意識視野は「等身大を超えた領域」にまで、広げます。
その結果、政治見識も形成される。
この見識が、人民の政治能力も広く形成していくのです。

+++


またその存在内容が、霊的領域にまで至っていることによって、それを吟味する人の認識力をこの上なく深めもします。
それが人民の知性レベルを深めていくのです。


<何故解釈を個人の自由にするか>

解釈を個人の自由とする原則は、聖書のような書物を吟味・理解していくのに必須条件になります。
それは、論及範囲が「霊界」にまで至っていることと関係しています。

霊界事象の理解には五感を超えた直感能力が必要になります。
甚だ真面目な意味での、「霊感」が必要となる。

<霊感はIQとは別>

そして、人間は霊感というものを、さほど深く持って生まれては来ていません。
せいぜい、「第六感」とか、「ぴ~んと来る」とかいった認識能力だけを持って生まれている。

そうしたなかでも、素質としては霊感には差があります。
だから、霊感に比較的恵まれた人は、聖句の霊的領域の解読が深くなります。
比較的恵まれない人は、浅くなります。

これは、物質領域の認識能力、いわゆるIQではかられるような能力とは別になります。
いわゆる「頭のいい人」が霊感が豊かとは限らないのです。

 

<自由に置くのが決め手>

聖句解読は、当人の霊感の豊かさの度合い左右されます。
それをそのままの放置するのです。
すると、個々人の霊感認識は、フルに発揮されます。
そうすれば、個々人は、自分の解読力も、霊感も、効率よく育成することが出来るのです。

さらに、それを自分の属する小グループに持ち込んで、相互に披露しあい、相互吟味する。

すると、人の知性も霊感も、もっとも効率的に成長します。

残念ながら、日本には、この方式がほとんど導入されておりません。
だが、それは一日も早く実現すべき方式なのです。

+++

これに関しては、まだまだ、あります。
とりいそぎ、今回はここまでを述べておきましょう。

 

 

 

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=人間思想の簡素な土壌=

2017年05月29日 | 随想

 

 

この二回ほど、ニッポンキリスト教の特質について考えました。
聖書の「いのち」が「肉体のいのち」だけで考えられて、「霊のいのち」に思いが至らない。
律法から倫理道徳論をとりだして、そこに留まっている。
「愛」もなすべき行為として律法的に考えてしまう。

~こんな特質をあげました。
今回はそれらをもたらす原因について、考えてみたいと思います。

 

 

<歴史の短さ>

まず直感的に思い至るのは、聖書を用いたキリスト教活動の時間が浅いことでしょう。
西欧では、紀元後30年過ぎにすでに、聖書に収納される諸文献が読める形になっていました。

初代教会ではその解読、吟味が驚異的に深くなされました。
このキリスト教活動からカトリック教団が生まれました。
この教団は、紀元後395には正典聖書を編集しました。

ところがその解釈を巡って宗教改革が発生しました。
さらに様々な教派が出現しました。


以後、その解釈を巡ってさらに論争も多く行われ、新たな活動方式を掲げる教派も生まれています。
それらの勢力の間で戦争もなされてきています。

こうして今日まで、2000年たっています。

+++

他方、日本では聖書に接せられるようになってからの期間が短いです。
ヘボン式ローマ字で有名なヘボン先生が、邦訳聖書を完成されたのが、やっと1887年(明治20年)ですから、今日までの時間はまだ130年程度です。

この活動時間の短さの故に、聖書の記述を霊的な領域にまで考えてこられなかった。
「いのち」も、律法も、愛も「行動関連のもの」を超えて考える時間が無かった。
つまり、肉体のいのちと、「倫理道徳」と行いとしての「愛」に留まらざるを得なかった。
~そういう理屈も考えられます。

+++

けれども、この論拠は韓国を持ち出すと、反証されてしまいます。
韓国語訳の聖書は米国長老派の宣教師たちが中国で翻訳して、1900年代に持ち込みました。
それ以来なされてきた聖書を用いてのキリスト教活動の期間は日本と大差ありません。

なのに韓国ではその聖書解読は大いに霊的な領域にまで及んでいて、いわゆるリバイバルも起きています。
人口に占めるキリスト教信仰者の比率も、日本が0.5%であるのに対し、韓国では25%に達しています。

 

 

<人生観の土壌>

 

やはり日本ではその精神的土壌が大きな原因になっているように思われます。
具体的には、聖書が日本に入る前の、日本における人間思想、人生思想はとても浅かった。

中国・朝鮮から入った浄土仏教が形成した人生観は、無常観の上に立った「人間死んだら極楽にいける」といった感慨のようなものでした。

我が国で人民に行き渡った積極的な人生観は、武士道でしょう。
武士道の人生思想は簡明で、「藩主のために死ぬのがベストな人生」というものでした。

これが戦国時代から江戸時代に武士階級の人々に、積極的な人生思想の形をとりました。

武士は人口の1割しか占めていない支配階級です。
庶民は取り立てて言えるような人生思想など持つゆとりなどありません。
だが、彼らもなんとなく間接的に武士道的雰囲気に影響されて暮らしてきました。

+++

聖書は他に類のない深さを持った世界存在論と人間思想を持っています。

そこからまた、深い人生観が出てきます。
だが、それをくみ取るだけの人生思想の土壌は、武士道だけのものだった。

聖書の思想を深くくみ取るだけの土壌は日本には育ってきていなかったのでしょう。

 

<列強は国民国家を実現>

この状態で、日本は幕末を迎えました。
この時、西欧列強がアジア諸国の侵略、植民地化に競ってのりだしてきました。

これらの国では、人民の意識は国家や皇帝に価値を置く状態になっていました。
彼らは「自分は国家の一員である」という意識を強くもっていた。

つまりいわゆる「国民国家」を形成していました。
西欧列強は、国家としての一体性を持って侵略行動をかけてきていたのです。

 

<日本は藩の連合国家>

幕末のこの時期には、日本はまだ「藩の集合国家」でした。
武士たちは自藩に最高の価値を認め、そのために死ぬのが最高の人生、と思っておりました。
庶民はその思想に間接的に影響を受けておりました。

+++

明治新政府の指導者たちは、この藩集合国家を国民国家に変える必要を悟りました。
西欧列強のように人民全部が国民国家の意識を強く持って一丸とならないと侵略されてしまう。
そのことを、インドや中国など他のアジア諸国の有様で確認しました。

 

<版籍奉還と廃藩置県を強行>

そこで、各藩主に版籍奉還をさせ、さらに、これらの藩を廃して、県にするという廃藩置県を急ぎ行いました。
西郷隆盛が主導しての荒療治でした。

こうして国民国家を急遽形成するには、武士道の人生観が非常に役立ちました。
武士道は「藩主のために死ぬのがベスト」という人生観です。
その藩主に変えて国家の元首をもってくれば、そのまま国民国家の人生思想が出来るのです。


これに天皇が待ち受けていたかのように役立ちました。
「国家」というだけでは抽象的で「そのために死ぬ」対象としは、訴求力が今ひとつです。

藩主は人格を持った人間でしたので、具体性が高く人民はイメージがしやすかった。
やはりここでも、人格を持った具体的な存在が欲しい。

それには、昔から京都に存続してきた天皇がうってつけだったのです。
こうして明治国家という国民国家が出来ました。

 

<清国に勝ち、帝政ロシアに辛勝>

この体制を素速くとることによって、明治日本国は中国(清国)に戦勝し、さらには、西欧列強の一つであった帝政ロシア国にも辛勝しました。
この時は、昭和40年代にやっと完済できたほどの巨額な借金を国際金融屋からしての、アクロバット的戦いだったのですが、ともかくかろうじて戦勝しました。


<国家武士道だけで驀進>

それでも植民地にされる恐怖はなくなりません。
日本はそのまま、国家武士道で驀進するしかなくなりました。

つまり、その人生観は「天皇(国家)のために死ぬのがベスト」という簡明なもののままで、それを宣伝補強しつつつき進んだ。

もう、人民の人生観が深まる機会は、なくなりました。

以後も、第一次大戦で戦勝国側に入り、漁夫の利を得て戦時好況もエンジョイしました。
戦後不況がやってくると、また戦争によっての景気回復に頼ります。
その結果、中国に侵略をかけ、さらには、米国にも宣戦しました。

これは、国家武士道しかない人生観国家がたどる自然な帰結でもありました。

民族の共有する人生思想は、かくも強固な影響を集団の進路にもたらすのです。
そしてこの驀進は、米国からに巨大な爆弾を二発食らって、やっと終息しました。

 

<戦後も惰性で進む>

敗戦後、戦前の国家武士道は一億総懺悔の対象になりました。
そうして、全面的に否定されるに至った。

かといって、それに代わる人生思想の資産は日本にはありません。

戦後日本は「もう思想はゴメン、無思想でいく」という社会として出発しました。
そのなかで、日本のキリスト教指導者は、従来の惰性で、「倫理道徳と愛の行為」を説く活動を続けている。

これがニッポンキリスト教の光景です。

 

 

 

 

 

 

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=聖書はまず存在論として読むべき本=

2017年05月24日 | 随想

 

 

このところまた、ニッポンキリスト教について書いています。
日本の聖職者たちがキリスト教を道徳教にしてしまう。
今回は、そういうことになってしまう原因について考えましょう。

最も直接的な原因は、聖書に対峙するスタンスにあると思われます。
日本の人々は、聖書を倫理道徳論の本という暗黙の前提でもって読みはじめるのです。
このスタンスで始めると、結局は、道徳教のドツボにはまってしまいます。

+++

その事情を理解するためには、聖書へのもう一つの対峙の仕方を考える必要があります。
その仕方は、何よりもまず、存在論の本、世界がどうなっているかを示す本として対面するものです。
こちらから考えていきましょう。

 

<存在論とは?>

存在論といっても、それがなんたるかのイメージが湧かなかったら思考は進みません。
そこでまず、しばらく存在論について放談します。
長い余談になりますけどしかたありません。

 

<古代ギリシャのヒマ人>

存在論は哲学用語です。
哲学はBC6~5世紀ころの古代ギリシャに発生しました。
古代ギリシャには知的探索を好むヒマ人がたくさん出ました。
彼等は「この世界はどうなっているのか」を根底から知ろうとしました。
その思考が、存在論の出発となりました。

+++

また、この暇人哲学者たちは、同時に、人間の認識構造をも原理的に吟味しました。

「存在の本質は世界の事柄の認知を踏まえて考えることになる。自分たちのするその認識や思考はどの程度確かなのか」をも反省的に検討したのです。

これが認識論という領域を開くことになりました。

かくしてギリシャ哲学は存在論と認識論という二本のレールの上を進行したのです。
以後の西欧の哲学も、この路線の上を進むことになりました。

 


<アトム論>

ヒマ人哲学者たちは、存在するものの根源とは何か、を問うていきました。
そしてそれに関する考えは、唯物論と観念論に集約していきました。

唯物論とは、存在するものは、結局物質によって出来ているだろう、という考えです。
その代表が、なにか一種類のつぶつぶのモノ(粒子)が組み合わさってできている、という考えでした。
その組み合わせ方で、存在は土になったり、水になったり、火になったりしていると考えた。

このつぶつぶの粒子を彼らはアトム(原子)と呼びました。
だから、この考えはアトム論とも呼ばれます。
唯物論はほぼアトム論、原子論と考えていいでしょう。

 


<イデア論>

他方、別の考えをするグループも出ました。
彼らは、存在するものは、つぶつぶの粒子とかの物質ではなく、なにか人の精神、霊のようなもので出来ていると考えました。

この精神のようなものを彼らはイデアと呼びました。
英語のアイデア(idea)はこれから来ています。
日本ではこれをアイデアなどと言っていますが、もともとは、なかなか深い意味を持った言葉なんですね。

また日本ではこのイデアを「観念」と訳しました。
だからこちらは、イデア論、日本語では観念論となりました。

 

<物理学、化学を生む>

存在論のうち、アトム論のその後を追ってみます。
この思考は、後に物理学の仮説となって、この学問の出発点を作りました。
存在するものは、つぶつぶの粒子が組み合わさって出来ているという考えは、物理学の仮説になった。

そして、その仮説で調べていったら、なんと実際にそういう粒子があったのです。

かくして、物理学が出発しました。

+++

18世紀末頃までには、物理学者はその粒子に原子という語をそのままあてました。
そしてこれこそが究極の、もう分解できない基礎物質であると確信していました。
ところが19世紀後半になると、その粒子は一種類ではないことがわかってきた。

そこで発見された色んな種類のものを元素とし、多種類の元素が表(周期表)に整理されました。
するとこれがまた、化学の出発点になっていきました。

+++

このように、存在の本質を問うた哲学の知識は、予想を超えた知的産物を人類世界に産み落としてくれたわけです。

 

<聖書も存在論として読めば>

聖書も、まずギリシャ哲学者と同じく、その存在観をさぐるという姿勢でもって、読んでいったら、大きな実りがえられるでしょう。

たとえばイエスの教えた「主の祈り」における「天にまします我らの父よ」という聖句も吟味するのです。


天とはどういう空間か?
イエスはそこに居られる創造神を「父」と呼んでいるのだが、父なる創造神と天とはどういう関係にあるのか?
創造神は「天」がなければ存在しない方か?
あるいは「天」がなくても存在する方か?

両者は同時に存在し始めたのか?

これらを、多の聖句と関連付けながら考えていく。
そういう吟味は、聖書の世界存在観を浮上させていくでしょう。

 

 

<吟味素材の対比>

哲学の存在論探究と、聖書での存在論探究とには相違点もあります。

哲学で吟味の手がかりに直接なるのは、現実実在そのものです。
他方、聖書の存在論を追うとき、手がかりに直接なるのは聖句群という「言葉」の群れです。

その言葉は、旧約聖書部分では、古代イスラエルにおける預言者と呼ばれる超霊感者による、創造神と自称する方からの幻メッセージの受信記録です。

新約聖書では、聖霊の感動を受けたイエスの使徒たちが、やはり書いた言葉です。
これは今の時代の情報論で言うと「二次情報」ですね。

この二次情報の中に、世界存在の構造論理を見出していくというのが、聖句探究の中身になります。


+++

こういう対照もありますが、実際には似た面もあります。

いまや、物理学の分野でも分業が進んでいます。
実験物理学者が実験して現実実在から一次情報を得ます。
それを手がかりにして理論物理学者が論理体系作りをする。

このとき理論科学者が踏まえる情報は、実験物理学者が獲得した情報です。
それは二次情報にあたりますよね。

その意味で、理論物理学者は、聖書の存在論探求者と似た状況にもあるわけです。


<情報範囲は格段に違う>

吟味に用いる情報の範囲は、両者の間で格段の差があります。
物理科学が踏まえる情報は、五感がカバーする領域のものです。

他方、聖句が含む情報は、霊的世界に及びます。
両者の範囲の差は圧倒的です。

+++

実際、聖書はその中に、予想を超えて豊富な存在論理を秘めています。
聖句の中に埋め込まれている存在論を吟味していくと、驚くべき知識が浮上してくるのです。
この世の事象も、霊的領域の情報がないと浅薄な認識しか出来ないものが多いです。

また、聖書に埋め込まれた存在論は、とてつもなくスケールの大きな論理体系を持っています。
それを追うことはまた、吟味者の「知」を驚異的に育成してくれます。

 

<倫理道徳論と前提で読むと>

話を戻します。
日本の信仰者の大半は、自覚、無自覚を問わず、聖書を倫理道徳論の本として読んでいます。
そこから人生訓や、とりわけ正しい道徳を見出そうとして読んでいく。

ところがそうすると、聖書の場合はすぐれて、律法が浮上してくるのです。
律法とはモーセの「十戒」に代表されるもので、「・・・するなかれ」という戒めです。
これが神様から与えられた命令となっている。

そして、その律法は人間に完全には守りきれないものなのです。
その本当の姿をイエスは明かすのですが、とにかく完全な意味でとらえると守り切れない。

こういう道徳が次々に意識に浮上してくると、人間は神様からの罰が怖くなっていきます。
恐怖が湧き、増大します。
だって、守り切れないものを自分に突きつけることになるのですから・・・。

恐怖が湧けば、精神は萎縮します。
するとそこから脱出する跳躍力も弱ってしまうのです。

そうして中で、聖書のキーワードである「愛」もまた、律法的にとらえられていきます。

ニッポンキリスト教では愛の反対語が「自己中心的」となっています。
教会では牧師先生が「自己中心的!」と責めてくるし、
「自分はあのとき自己中心的でなかったか」といったよう自責の声も聞こえてくるし・・・。

こうしてますます萎縮するのです。

精神が萎縮すれば、「知」も萎縮します。
もう、惨憺たるものです。

+++

最後に、律法倫理の恐怖がもたらす、もう一つの帰結も述べておきましょう。
信仰者がますます聖句を探究しなくなること、~がそれです。

倫理道徳の本として読んでいけば、守り切れない律法がどんどん浮上してきます。
すると、それに直面する怖さで、聖書を読むのが苦しくなり、ついには読まなくなるのです。

日本の聖職者が聖句を探究・吟味しない大きな原因の一つもここにあります。

この状態から脱するために、とにかくスタンスを180度変えることです。
一念発起して、まずその世界存在観を浮上させようとして聖書に対峙するのです。

律法も、その全体観の中に位置づければ、その性格も真意も解読できていくでしょう。
そうすることで、倫理道徳論の側面への妥当な対処も可能になるのです。

物理学が量子力学にまで発達した今、その存在論探究が生む「知」の豊かさは、ますますすごいものになってきています。

 

 

 

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=ミッション学園での「霊」概念導入=

2017年05月23日 | 随想

 

 
鹿嶋は前回、僭越ながらこう述べました~。
 
ニッポンのキリスト教での「いのち」は「肉体のいのち」だけを述べている。
大半は、「霊のいのち」を述べていない。
それはミッション学園において特に著しい。
~と。
 
だが、問題を指摘し批判するだけでは建設的ではありません。
この問題は、「いのち」に限ることなく、「霊」という概念を、ミッション学園において生徒に導入することの難しさに、端を発しています。
 
聖書の論理の必須要素である「霊」の概念。
これを日本のミッション学園のキリスト教教育において、導入する方法を考えてみようと思います。
 
 
 
<幼稚園、小学生には「肉体のいのち」でいい>
 
ミッションスクールが対象にする生徒の年代は、幼稚園から大学まであります。
ここでは幼稚園から高校までをもつ学園を想定して考えてみることにします。
 
まず幼稚園児童と小学生には霊という概念の理解はあまりに難しい。
彼らには「肉体のいのち」だけでいっていいと思います。
 
だが中学、高校生になると知力も成長しています。
「霊」の概念は彼らには理解可能と思われます。
 
 
 
<知性の思い、霊の思い>
 
ではこれをどうやって導入するか?
鹿嶋には、聖書における「人間の意識構造観」を示す~という案が思い浮かびます。
 
新約聖書の『コリント人への手紙』14章15節に次のような聖句があります。
 
・・・・・・・・・・
「私は霊においても祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」
・・・・・・・・・・
 
この聖句を入り口にしたらどうでしょうか。
ここには、人の思いは知性と霊の二つから由来するという思想が明示されています。
「知性の思い」「霊の思い」といってもいいでしょう。
これを入り口にして、こう語ります~。
 
 
 
「知性の思い」は、人間の「頭脳が形成する思い」です。
我々は、これを自覚することが出来ます。
 
「霊の思い」は心の底にある「霊という意識体」から生じる思いです。
これは本人が自覚できません。
 
けれどもそれは、「知性の思い」に無自覚のうちに、影響を与えています~と。
 
+++
 
この理屈は中高生には理解できるのではないでしょうか。
それを通して、霊という概念を導入することは可能ではないでしょうか。
 
聖書は、そういう意識構造が人間にあると、ハッキリ教えているよ。
霊は見えないけれども、理屈として理解しておこう~と。
 
 
 
<フロイトの心理構造論>
 
そしてこれに関連して、フロイトの心理構造論を紹介します。
彼は、人の心理は「顕在意識」と「潜在意識」とからなっている、という旨の理論を述べています。
 
顕在意識は、当人が自覚できる意識です。
潜在意識は、自覚できない意識です。
そして潜在意識は、顕在意識のあり方に常時影響を与えている、とフロイトは考えています。
 
いうまでもなく、顕在意識は聖書の「知性の思い」に対応しています。
潜在意識は「霊の思い」に対応しています。
 
 
このようにほとんど同じような理屈ですが、心理学理論は学問科学の領域のものです。
現代日本には「聖書は宗教で当てにならないものを含んでいる」という通念があります。
ミッション学園生にもその意識はあるでしょう。
 
フロイト理論は、この日本的意識を相殺してくれると思われます。
 
 
 
 
<「霊のいのち」への援用>
 
余裕があれば、聖書の「いのち」の概念の理解に上記の思考を援用したらどうでしょうか~。
 
・・・・・
 
みんな「肉体のいのち」はわかるよね。
 
だが聖書では、知性が活力を持つには、霊に「いのち」というエネルギーが吸収されることが必要、という思想をも持っています。
そこには「霊はいのちエネルギーを充電する、充電式乾電池」のようなものだという思想が明確にあります~と。
 
・・・・・
 
生徒にこれが理解できたら、この充電されたいのちエネルギーが「霊のいのち」だと教えることが出来るでしょう。
 
 
 
<「霊感」概念も導入できる>
 
さらに余裕があれば、霊の意識を認識する能力についても触れてあげます~。
 
・・・・・・・・・・・・ 
諸君は「なにかピーンとくる」という気持ちになったことがあるでしょう。
これを「なにか第六感にピーンとくる」ということもあるだろう。
 
この第六感は、五感を超えた認知能力を意味した言葉です。
見えない対象を感知する能力です。
これを霊感と言うこともあります。
 
 
 
人間はこの能力もかすかに備わって生まれてきています。
そして、それはある程度育成することも出来ます。
学園ではそれに深く立ち入ることは致しませんが、霊感の概念も頭の片隅に収納しておいていいでしょう。
 
・・・・・・・・・・
 
~中高生には、こんな風にして「霊」という概念を導入することが出来るのではないかと鹿嶋は思います。
もしこれができたら、生徒たちは卒業後も「自分はミッション学園に学んだ」というアイデンティティ意識を明確に持つことが出来るようになるでしょう。
 
 
 
 
 
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=ニッポンキリスト教の「いのち」=

2017年05月20日 | 随想

 

 
「いのち」というと我々は通常「肉体のいのち」を連想します。
だが、聖書ではもう一つ、「霊のいのち」をも示しています。

そして聖書の論理ではこちらが基盤になっています。

つまり、聖書では霊は「いのち」というエネルギー波動に共鳴してそれを充電蓄積する「充電式乾電池」のような思想になっているのです。

そしてこの充電度が、人の幸せを根底的に決めていく、ということ、こちらに教えの本質があるのです。



けれどもこれまでのところ、日本の教職者、つまり、牧師さんや神学者さんは、「肉体のいのち」だけを考えて思考し、教示活動をしています。

これには複雑な事情もあります。

「肉体のいのち」からも、聖書を用いて一定の「教え」を述べることができるのです。

たとえば、旧約聖書の「十戒」における十の戒めの中に、「殺すな」「盗むな」という命令があります。

その「殺すな」はそっくりそのまま、「人を殺してはいかんよ」という「この世」の道徳に対応していますよね。
それを「神様からの命令」として神聖な感じをくっつけて、キリスト教のありがたい教えとします。

そしてそれは「肉体のいのち」の大切さの教えだ、というように解釈を展開する。
さらに自分の「肉体のいのち」も神様からいただいた大切なものと展開します。

それを用いて「自殺はそのいただいたいのちを殺すことです。自殺してはいけませんよ」という教えを造ることも出来るのです。
 
 
<ミッションスクールではとりわけ>
 
こういう解釈は、日本でのミッションスクール(キリスト教系の資金で設立されている学校)などには、とりわけ有用性が高いです。

「肉体のいのち」でいくと無難なのです。

それを超えて、「霊」という「見えないもの」を述べたらどうなるか。

日本では「霊」というと、生徒も親も色んなものごとを連想しますよ。

カルトだ!
宗教は「見えないもの」をもってきて人をだます!
おどろおどろしい!
理性的でない! 

  ~などなどの連想をする。

そこで、ミッション系の学園付きの牧師さんたちは、ますます、聖書の「いのち」は「肉体のいのち」のことだと考える状態にとどまりがちになります。



ところが、日本では学校という機関は、教会という施設より「世的な」地位が高いのです。

そこで学園付牧師は教会牧師よりも「世的な」尊敬を高く受けます。

さらに学園牧師には、学園運営者の地位への道も開けています。
キリスト教系の学園では、牧師の免状を得ている人だけがトップ経営者になれるようにもなっていることが多い。
 
そこまでいかなくても牧師としての給与の安定性も、学園の方が高いです。

だから、学園牧師のキリスト教解釈が、他の模範にされやすいのです。

つまり、道徳キリスト教(ニッポンキリスト教)であることが、牧師の模範となる。
 
その結果、日本の牧師さんは時として、「霊のいのち」などという人を、「異端!」と攻撃して、自らの身分証明を同業者に披露したりもします。


+++

日本のキリスト教は、いままでのところ、この状態にあります。

その結果、日本の教会は、「魅力の乏しい」施設のままです。
端的に言えば多くの大人たちには「見向きする気も起きない」建物となっているのです。
 
 
 
 
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随想17.量子論による『ヨハネ伝』創造論の新解釈

2017年05月01日 | 随想

 

 

しばらく投稿が途絶えました。


『神とゴッドはどう違うか』(新潮選書)以来20年ちかく、キリスト教関係書物を出してきませんでした。

ひさしぶりの次作の原稿の仕上げに追われていました。

『(仮)バプテスト自由吟味者』という題名の、小さな冊子本です。


やっとできあがり、出版者に送っていま「組み版」の制作をしてもらっています。

 

+++


その後、戦後70年の時の流れのなかで増大する危険を察知して、「三島事件論」をフェースブックの方に数回連載しました。

やっと余裕ができましたので、量子物理学と聖書論理の話を続けます。

 

 

<福音理解への量子論の貢献>

量子論は鹿嶋が聖書を把握するのに、画期的な貢献をしてくれています。

従来、聖書に記録されている奇跡~「しるし」といわれます~は、そのまま「神秘的な事象」と受け入れるしかないことがらでした。

つまり「物理(科学)的な根拠が示せない」ことがらでした。

その結果、キリスト教でも奇跡をただ「信じなさい」というしかありませんでした。

そういうことなら、聖書は他の宗教の教典と同じようなもの、 となるのは道理です。

だから「宗教はみな同じですね」といわれても反論できなかったのです。

+++

ところが、量子力学は聖書に記録された奇跡が物理学的に説明可能であることを、示してくれつつあるのです。

従来の「しるしと不思議」の「不思議」は「意味深い物理学的事象」として理解可能になってきているのです。



 
 
<ピリポの「量子テレポーテーション」>


前回鹿嶋は~、

 ピリポがある地点から消えて他の地点に現れた、という記述を量子力学の、量子テレポーテーション理論を用いて理解しました。

つまり~、

ピリポの身体はその型枠情報に量子波動が注入されていることによって成立している。

その型枠が、別の場所に移動すると、そこに注入されていた量子波動は粒子を構成しなくなって、ピリポの身体も見えなくなってしまう。

だが同時に、型枠が移動した場所ではそこに量子波動は注入され粒子化する。

こうして、ピリポの身体は出現する。

~そういう量子テレポーテーション的な理解をしたのでした。







<ヨハネの「創造論」にも>

その理論は、『ヨハネによる福音書』の冒頭でヨハネが述べている創造論理の理解にも援用できます。

今回は、それを示してみます。

ヨハネはそこで、全ての被造物が創造される様を次のように記しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「はじめにことばがあった。 ことばは創造神と共にあった。 ことばは創造神であった。
この方は初めに創造神とともにおられた」(「ヨハネによる福音書」1章1~2節)
・・・・・・・・・・・・

続いて~

・・・・・・・・・・・・・・
「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、
この方によらずにできたものは一つもない」(1章3節)
・・・・・・・・・・・・・・

~といっています。

これが量子テレポーテーション理論を援用して理解出来ると思うのです。



 
<「ことば」の原語は「ロゴス」>

ここでのことば英語ではWordで、邦訳聖書ではそれを訳して「ことば」としています。

「ことば」の原語はロゴスで、ギリシャ語です。

(新約聖書はギリシャ語で書かれている)

ローマ字で示すと、logosですが、それは理法、すじみち、論理といった意味を持っています。



 
<ロゴスは量子テレポーテーション理論の「枠組」情報>

このロゴスは量子テレポーテーション理論の型枠に対応させることができます。

型枠とは、「型枠の情報」で、その情報は、被造物の設計図、青写真のようなものとイメージできます。

実在としての被造物は、多様性に満ち、かつ動態的でたものです。
 
だが設計図は筋道だてて論理的に構成されている。

それがロゴスに対応しているのです。




<量子波動を充填するのは創造神>

次に、型枠(設計図)が被造物を出現さすには、そこに量子波動が注入されねばなりません。
 
そこで、その型枠を作るのが御子イエスであり、波動の注入者を創造神であると考えたらどうか。

+++

すると、全ての被造物を創造するにつけて、御子イエスは父なる創造神と協働している~というイメージになります。

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まとめますと~
 
まず、御子が父なる創造神の意図をくんで、被造物の型枠をつくる。

すると父なる創造神はそこに量子を充填する。

こうして被造物は造られた

  ~となります。

量子テレポーテーションの考えを援用すると、そういう理解が成り立つと言うことですね。



  
 
 

<聖書的表現>
 
残るは表現法の問題です。
 
 
上記の聖句では、ヨハネは御子イエスを「ロゴス」といっています。
 
ロゴスが型枠(設計図)であれば、御子はその設計図の作り手でしたよね。
 
「ロゴス造り」は論理上は「御子の働きの一つ」となる。
 
だが、それをずばり、御子を「ロゴスだ」という。
 
これは聖書によくある言い方です。
 

+++
 
イエスの「私は道だ」というのもそうです。
 
その前の聖句でイエスは「私の行く道はあなた方も知っています」と弟子に言います。
 
「道ってどんな?」と弟子が問うと、イエスはすぐにこれを「私が道だ」といいます。
 
ずばり端的にいうのですが、こう言う表現を、著者ヨハネもここで用いているとみていいでしょう。
 
+++
 
同じく上記聖句(1章3節)でのヨハネの~
 
「すべてのものは、この方によって造られた」
 
~もそうでしょう。

実際には父なる創造神と二人で造っているのに、「この方(御子)によって造られた」という。

ヨハネは、二人で造ったのは重々承知です。
 
その上で御子に焦点を当てて、端的に述べているのでしょう。
 
 
 
今回はここまでにしましょう。





 
コメント
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