鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

自由な聖書解釈に価値をおく人の輪を広げたい

2006年04月23日 | この教会の基本理念
 トラックバックというものが、歳のせいかむずかしく、これまで出来ないで来ました。これでいいかどうか・・・。
 とにかく「聖書に真理有り」と信頼し、それを「自由に解釈することに価値をおく」方々と、出来る限り交流したいです。
 雄作さん、東京バプティスト教会の皆さん、期待していますよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエス最大のプレゼントは永続確信

2005年02月08日 | この教会の基本理念
 


『鹿嶋春平太チャーチ』にようこそ。 

 個々の教会には、それぞれの基本理念というものがあります。

 キリスト教会が教典としている聖書は、深淵広大にして膨大なメッセージ内容を含めています。

 対して、人間の能力にはそれをカバーするに限界があります。

 その結果、各々の教会が自分の持ち味をもってやることになる。

 自分のところはそうではない、普遍的だ、と主張する教会もあります。
だが、実際の話、相応の持ち場を担当してやっています。



      @      @      @

 
 『鹿嶋春平太チャーチ』も例外ではありません。

 そこで、ご訪問下さった皆様に、当初に、当教会の「基本理念」とでも言うべきものを
表示しておこうと思います。

当面、代表的なポイントは次の2つです。

      
1.イエス最大の贈り物は、「永続確信」。

2.「 」は永続確信から咲く華。


ーーー理由は、稿を改めて書く予定です。

 (話が7回ほど続きますので、それが上から順に連続していくようにしてあります。
この稿が一番最初です)


コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信1・「肉体と霊体」

2005年02月07日 | この教会の基本理念
 イエスは、我々に多くのものをプレゼントしてくれました。
そのうち、どれを中核的、あるいは基盤的と見るかによって、教会の特色は分かれてきます。

 前回、基本理念に書きましたように、当チャーチでは、
イエスが与えてくれた最大にして中核的なプレゼントは「永続確信」である、
という見解をとります。永続確信とは「 人間死んでおしまいでない という確信」です。

 (その背景には、永遠に存続する世界、天の創主の王国、KINGDOMのイメージがあります。
「KINGDOM原理からの聖書解読」のカテゴリーもぜひご参照下さい)

 人の身体は、100年もすれば壊れます。死んで腐って崩壊して消滅します。
身体だけ見ていたら、人間は「死んでおしまい」です。
永続なんてするわけがありません。

 しかし、イエスは、人間には霊(霊体)もあり、それは永続する 、と教えました。
のみならず、その教えに確固としたリアリティ(本当らしさ)感を与えていきました。


<しるし(奇跡)は理論にリアリティを与える>

 イエスは、霊的にして論理的・体系的な教えを与え、
かつ、それに組み合わせて様々な奇跡を見せました。
病人をいやし、死人をよみがえらせました。

 「いやし」などの奇跡は、それを受けたものだけでなく、
その状況を観察するものの心にも、教えに対するリアリティを強烈に与えます。
現在、米国でベニーヒンという説教者たちを通してそれが現れています。

 テレビで放映されている彼の「癒しの聖会」の番組を見ていますと、
癒された当人だけでなく、その証言を見る観客たちも、歓喜しています。
ベニーヒン自身も、喜び感動しています。
自分たちが心に受け入れている 教えに対するリアリティが増す から、嬉しいのです。

 イエスは、その力を、弟子たちにも現れるようにしていった、と聖書に記されています。
そして、実際そうなった様が『使徒行伝』という書物などに数多く記録されています。


<教えの深さ・体系性もリアリティの源>

 イエスの教えの、霊的な深さ、論理的・体系的であること、も教えにリアリティを与える強力な要素でした。
現代では、奇跡はそうあちこちに見られはしません。
だが、聖書の言葉を深く探求・解読していくと、そのリアリティ感は深まっていきます。

 教えに対するリアリティ感は、実は、信仰心といわれるものの中身でもあります。
思想・理論へのリアリティが心の中で増すと、その教えへの信頼感が増します。
 信仰心というのは、教えへの信頼心 のことなのです。

 また、そうして信仰心が増していってある線を越えるときがある。
するとその人に、事後的にしるし(奇跡)の力が現れるという例もあります。

 がともかく、イエスも、その弟子たちも、その又弟子の弟子たちも、
こうして、「人間死んで終わりでない」という確信、永続確信を
楽に抱かせていくことが出来ました。

 『鹿嶋春平太チャーチ』では、それをイエスが与えてくれた最大にして基底的なプレゼントと見るわけです。
その見解に立ってメッセージを蓄積します。どうしてか? 
次回にそれを考えましょう。


                       



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信2・「自価意識の基」

2005年02月06日 | この教会の基本理念
 永続確信は何故基底的なのか。それは人の内にある「自分という存在は価値があるんだ」という意識の基盤だからです。

<「自価意識」は自己存在への価値意識>

 この意識を春平太は短く「 自価意識 」と名付けています。「地価」が土地の価値を現しますので、自分の価値を「自価」と呼んでもまあおかしくないでしょう。

 人が生きていくのに、自価意識は非常に大事です。 自価意識がなくなった状態が虚無状態 です。そうすると、人は何もする気がなくなってしまいます。甚だしい場合には、食欲すら失せて、食べられなくなります。

<自価意識は永続確信に支えられている>

 これではいけない、とにかく生きていきたい、と一般の人は考えます。そこで、それぞれに何らかの自価意識を抱いて生きています。

 でも、自分にどんな価値を意識していても、自分という存在それ自体に永続確信が薄かったらどうでしょうか。「死んでおしまい」としか思えないならその価値意識も時とともに減退していくはずです。

 我々の意識の中では、価値とか意義とか言われる意識は、その主体である「存在」の意識に付与されているものです。その状態で、自分という存在が死んでおしまい、ということを知性が自覚したら、どうなるでしょうか。それに付加させていた価値観も、くっついている場所・足場がなくなってしまいます。

 その結果、ちょっとした風が吹くと、どこかに流れていってしまいます。そしておそらく、溶けていくのです。

 でも、また、何か価値意識を作ってくっつける。永続確信が薄い場合、人間は、それを繰り返しながら、なんとか、寿命がくるまで生きようとするしかありません。

 (これが出来なくなった人が、「 とじこもり 」になったり、途中で自らの命を絶ったりします。今、日本では自殺者は、年間、3万人を超えています)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信3・「感動!」と「ひきこもり」

2005年02月05日 | この教会の基本理念
 前回、 永続確信が薄いと、自価意識も溶けていく 、ということがわかりました。ではこれが濃くならない場合にはどうしたらいいか。

<でも小細工はある!>

 小細工はあります。通常人は、「自分は死んでおしまいであるという意識」(これを無常感ともいいます)に、自己の知性をまともに向き合わせないようにします。そうしながら、まあ、何とか当面の自価意識を守って生きているわけです。

 不安定な状態ですね。だけど小細工というのは、そういうものです。「死んでおしまい」という知性認識を打破できなかったら、そうするしかないのです。

 高度成長が達成された後、日本に「感動 」という言葉が叫ばれるようになって久しいですよね。あちこちでキャッチフレーズとして、これが周期的に出てくる。

 どうしてか。人は感動すると、自己存在の無常感を陶酔の中に放念することが出来るのです。そうして、「死んでおしまい」の意識から解放されて、つかの間の歓喜を得ようとするのです。

<小細工が効かない人が「ひきこもり」になる>

 でも、そういう小細工で世に処して行くことはできない人もいます。「ひきこもり 」と称されている人々がそれです。 そうなる原因は自価意識が希薄になったことにあります。

 どうしてか。詳しくは別の機会に考えたいのですが、人間、食べることへの安心感が増大すると、自分が「何のために生きているのか」「どうせ死んだらおしまいなのに」といった意識が頭をもたげてきます。

 この「死んでおしまい」という意識は、自分の存在に付与させていた価値意識を減退させます。だから、人間、経済的に豊かになると、続いてその次に「自価意識」希薄化症状が必ずやってくるのです。

 これに対処出来ないと、自価意識という風船は針で刺され放題になります。その結果、物事全てに意欲が抱けなくなります。

 すると人はなんと、小さなことでも胸に刺さって心が傷つきやすくなります。逆に、意欲が強いと大抵のことでは傷つかなくなりますが、その反対の状態になるわけです。

      @      @      @


 傷つかないためには、外界、他者(親、兄弟も含めて)と接触する機会をなくすしかありませんね。で、ごく自然に「ひきこもり」になります。

 日本における「ひきこもり」の数のこの膨大さは、世界でも特殊な現象だそうです。現在、日本には100万人以上いるといわれています。1990年代に入って、40万人と推定され、推定値が60万、80万、100万と上昇した。

 もう、120万人くらいいるのではないでしょうか。増大の一途。自殺者 も前述したように、年間3万2千人。これは国を滅ぼしますよ。

<正面から粉砕する正攻法>

 どうしてそうか。戦後我が国では、当然やってくる自価意識の希薄化症候群に対して、何も手を打たないで、経済の豊かさと安定だけを求めた。食の保障だけを追求した。それがもたらしたつけです。

 では、もう国は滅びに向かって進むしかないのか。そうではありません。強力にして決定的な要塞があります。それがイエスの言葉・イエスの教えなのです。

 これは、「感動活動」のような、代償的・補償的なものではありませんよ。「死んでおしまい」の意識そのものに正面から対決します。そして、粉砕してしまう のです。

 こういうと、キリスト教会に飛んでいく人も出るのではないでしょうか。でも、我が国ではおおかたは肩すかしに合います。永続確信の教えがあると思って教会に行きます。ところが、多くの場合出会えないのです。

 どうしてか。そこではほとんどの場合、「愛」「愛・・」とやっているからです。次回はそのことについて考えましょう。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信4・「世の愛」と「天の愛」

2005年02月04日 | この教会の基本理念
 永続確信の教えがあると思って教会に行きます。ところが、日本ではそれに出会うことはめったにない。むしろ、そこではほとんどの場合、「愛」「愛・・」とやっている。

 ーーー前回、そう申しました。今回はそれを考えましょう。

      @      @      @

 「キリスト教は愛の宗教」という言葉を、耳にされた方もすくなくないでしょう。 たしかに、「愛」はキリスト教に必須な、そして大きな要素です。しかし、いきなりそれをもちだすと、いろいろ無理がでてくるのです。

 日本の教会では、伝統的に、99%あるいは、それ以上が「イエスの教えの中核は愛」としているようにみえます。ところがそれは、知的にも、霊的にも雑なとらえ方なのです。

      @      @      @



 聖書の論理では、愛には二種類のものが明確に含まれています。

 第一は、この地上の世の感覚から出る「世的な愛 」です。
これは、我々が持って生まれたもの、そのままで自然に出る感情であり情熱です。

 第二は、創造主の霊である聖霊から出る「聖なる愛」とでも言う愛です。
 聖霊から出る愛は天の王国における愛でもありますから「天的な(heavenly)愛 」といってもいいでしょう。

 第一の、「世的な愛」は、今述べたように我々が持って生まれた自然な愛情感覚を指します。我々は人を愛しますが、その愛の裏面には、愛する相手の主体を縛りたい、独占したい、自分の思うようにしたい、奪いたい、という感情が伴っているのが普通です。

 「愛は惜しみなく奪う」という言葉もありますが、そのことを指しています。この世の愛は「惜しみなく与えるだけではないよ」といっているわけです。実際我々は、人を愛し、独占できないと嫉妬もします。

<「天の創主王国」の愛>

 第二の「天的な愛」は、文字通り、天の王国(Kingdom of Heaven)に存在する愛です。これは、裏面の「相手に代償を求める」という感情のない愛です。ただ、一方的に与えるだけ。

 聖書では、これをグレース(grace)といっています。これをギリシャ語を使って「アガペの愛」ということもあります。がともあれ、日本では、これを邦訳するのに困ったのではないかと思われます。結局「恵み」という言葉を当てています。苦しいですね。

 ともあれ、何も代償を欲しないで愛することなんて出来るか? できません。この地上の人間には出来ません。だから「天的な愛」なのです。

 そして、聖書ではイエスがこれを天の王国から持ってきた、という思想なのです。それで彼は、人間の救いのために、一方的に十字架死していのちをあたえた、と解されています。

 ここも、そう単純ではないのですが、まあ、そうしておきましょう。ともあれ、ですから日本の教会で「愛、愛・・・」と言っている愛は、そういう グレースの愛 ・アガペの愛です。これを心に抱き、実践することを理想として言っているのです。

 イエスが示してくれたこの愛を、心に抱こう。行おう。イエスに似る努力を重ね、それを行おう!と。

 ところが、それがそう簡単ではないのです。次回にそれを考えましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信5・「思い」は霊の産物

2005年02月03日 | この教会の基本理念
 前回、こういうところで終わりました。
 
ーーー教会で「愛、愛・・・」と言っている愛は、無償の愛である。これを心に抱き、実践することを理想として言っている。イエスに似る努力を重ね、それを行おう!とやっている。ところが、それがそう簡単ではないーーーというところで。

 今回はそれを考えましょう。

<意識の本体は霊:潜在意識、顕在意識>

まず、大切なのは、聖書では「人の意識は、基本的に霊の発する信号」という思想、であることです。聖書では霊は意識の本体なのです。意識は霊から出てくる。発信される。だから、霊の状態が、意識のあり方を基本的に決めるのです。

 潜在意識、顕在意識ということがよくいわれますね。

 顕在意識 は人の意識の中でその人の知性が「自覚することのできる意識」です。“ああ、俺は今、奴を憎んでいるな”、というような自覚ができる意識。

 潜在意識 は、知性では自覚できない意識です。意識のそこでは憎んでいても、「憎しみの意識がある」と自覚できない。つまり、潜在しています。

 霊の意識の大半は、この後者の潜在意識になっているのです。そして、そこから意識の大半は出てきます。だから、霊の状態が変わらないと、人の意識は表面的にしか変えられないのです。

<「世の霊」と「天の霊」>

 「意識は霊のあり方で決まる」というこのことが、前述した愛のあり方も決めることになっています。

 「独占したい、相手の主体を思うように支配したい」、という思いをも含める愛、つまりこの地上の人間に自然に生じる愛は、人の意識にある「世の霊」の産物と言うことになります。

 では、そういう欲望が裏にない愛、グレースの愛は、どうか。これは「天の王国」にある愛でしたね。すると、それはこの「世の霊」ではない、「天の霊」から生じることになります。

<聖霊が働くときのみに>

 この天の霊を「聖霊」といいます。それは万物の創造主(ゴッド)から「出た」創主の霊です。イエスがそういう愛を注げたのは、自らの内に聖霊があったからーーーこういう道理になります。

 そこから、人間にもこういう希望が出てきます。つまり、人の内にも創主の霊である聖霊が入れば、グレースの愛が生じる可能性が出る。 無償の愛 、「くさくない愛」といったらいいかな、そういう愛が出うる。 

 教会で「愛、愛」といって期待し求めている愛ですね。

 ところが、それはそう簡単にはでません。聖霊が人の内に入って働くというのには、一定のプロセスが必要なのです。次回はそれを考えましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信6・「永続」があって「救い」がある

2005年02月02日 | この教会の基本理念
 前回、ここまで考えました。

 ーーー教会で理想としている愛は、グレースの愛である。だが、その愛が心から出るには、創主の霊である 聖霊 が人の内に入って働かねばならない。そして、聖霊が人の内に入るには、一定のプロセスがあるーーーと。
 
 今回は、そのプロセスを考えましょう。

<天の思いが内に留まること>

 結論から言いますと、それには、人の内に「天の思い(意識)」を持った言葉が一定量、留まらねばなりません。天の思い(意識)を持った言葉とは、イエスの言葉、というのが聖書の論理です。

 イエスは天の創主王国からその思いをもって、やってきた。人の姿をとってこの地上にきて、人の言葉でそれを語った、ということになっていますから。

 イエスの言葉は、聖書に記録されています。記録はされていますけれど、それは沢山あります。ですから、ここでも、それらの言葉の組み合わせ、文脈を見つけ出し、教えのエッセンス、中核を見出さねばなりません。

 こういう作業を神学といいます。幸いなことに、この神学が根気よくなされた結果、現代では、その中核は「救い」の教え、その約束だという点で、解読はほぼ一致しています。

 これは、「愛、愛」と叫びたてている人も否定しません。

<「救い」とは幸福な「永続」>

「 救い」とは、英語のサルベーション(salvetion)の訳です。それは「人(の霊)が幸福な状態で(創造主の王国で)永続するようにされること」を意味しています。そういう風にして、霊が救われる、というわけですね。

 イエスの言葉は、これを中核にして体系化されねばならない。そういう形で、心に留まることが必要です。

 すると、人の心の内には、天の意識、聖なる意識の部分ができはじめるのです。そしてこの領域が一定の大きさ、深さになると、あるとき、天の聖なる霊である「聖霊」がその人の内に入るーーーそういうことになっています。

 聖書では「聖(Holy)」というのは、「天の創主王国」に特有の属性であります。そして、聖霊は、文字通り、聖なる霊ですが、もう一つ、特性がある。それは、聖でないところには留まらない、ということです。

 だから、聖霊に入ってもらうには、内に、一定の聖なる部分を意図的に造らねばならないわけです。ここは、人間の側に重点のある仕事なんですね。

 低開発国に井戸を掘ってあげようという援助運動があります。そこでは井戸の水を、手動のポンプでくみ上げます。日本ではガッチャンポンプと呼ばれることもあります。手でガッチャン、ガッチャンと動かして汲むわけですからね。

 ポンプが完成すると、水をくみ上げてくれるには、当初、ポンプに一定の水を上から入れてやることが必要です。上から注ぎながら動かしてみる。これを「迎え水」といいます。

 イエスの言葉を一定量、心に留めるというのも、これに似ていますね。


<人の心理では、まず永続確信、それから幸福>

ともあれ、今見たように「救い」は、永続だけでなく、「幸福な」永続ということになっています。では、不幸な永続はあるか、というと、これが聖書ではあることになっております。

 イエスの教えでは、人の霊(意識体)はどのみち永続するのです。その上で、それが幸福になる道と、不幸になる道とが説かれている。

 じゃあ、その道が分岐するあたりの教えの方が、大事じゃないか、と思えそうですね。ところが、実際はそうじゃない。人がイエスの教えに対して信頼心(信仰心)を抱いていく心理プロセスはそうなってはいません。

   人はまず、「自分が永続する」という教えに確信を抱く  のです。そして、この確信を抱くことが、イエスの教えに信頼感を抱くのに最も困難なステップのです。

 どうしてか? 人間には、霊(霊界)というものがもしあったとしても、それは見えない。肉体(物質)だけが見えるからです。

 肉体は、誰の身体を見ても100年もすれば壊れて消滅しますよね。人は、幼いときから、見えるものを基盤にものを考えます。だから、人間は消滅するもの、という確信が心に出来ています。それがあったり前だとする。

 その結果、人間は「永続する」という方に確信を抱くのがとても難しい状態になっているのですね。本質的には人間はみなそうでありますが、日本は世界でも、飛び抜けて無常感の深い国です。伝統的にそうできあがっているので、いっそう難しいのです。

 永続の教えに確信が持てたら、次の、「幸、不幸分岐理論」は、割合スゥ~と心に入ってきます。だから、永続確信は「救い」の論理への信頼を抱くための実際上の基盤 なのです。

<しばらくは吐き出すが>      @      @      @

 また、この永続確信を基盤にした「救い」の教え・イエスの言葉は、当初、心に入ってもすぐに忘れます。心に留まりません。人の心に生来ある「世の霊(意識体)」が、新参者をキックアウトします。

 蹴っ飛ばして放り出してしまうわけですね。こうして、言葉を吐き出します。

 だが、それを根気よく繰り返しやっていると、ある時、徐々に心の内に留まり始める。蓄積が開始される。

 すると、ある時、そこに聖霊が入ります。それが聖書の道理です。そして、聖霊が入れば、そこから、グレースの愛、イエスの愛も発生 するわけです。

 このプロセスをたどらないと、いわゆる「無償の愛」の意識は心に生じないのです。ところが、人々はそれを省いていきなり理想の愛を求めがちなのです。聖書をよく解読しないで。

 そうするとどうなるか。ここらあたりを、次回に考えましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

永続確信7・最終回「永続確信を固める教会」

2005年02月01日 | この教会の基本理念
 前回、次のようなことが明らかになりました。
 
 永続確信が起点となって、救いの論理への信頼感が生まれ、それを中核としたイエスの言葉が心に留まるようになる。その状態が続いて深化していくと、あるとき聖霊が心の内に入ります。すると、それがグレースの愛を心に生じさせてくれます。

 このプロセスを飛び越えて、いきなり、グレースの愛、無償の愛を求めるとどうなるか。今回はそれを考えます。


                      



<代わりに「世の愛」が出てくる>

 永続確信も深まっていないのに、いきなりイエスに似よう、無償の愛を実践しようとしても、できません。聖霊の働きがないと、そうならないのです。これは、決意や意志によって、出来る問題ではない。もっと構造的、科学的な問題です。

 にもかかわらず、強引にそれをやろうとしていきますと、どうなるか。グレース(天の愛)の  代わりに「世の愛」が 出てきます。

そして、始末の悪いことに、多くの場合当人は、そのことに気づかないのです。で、それがグレースの愛だと思っている。

 もちろん、どんな人にも霊感というのが多少はあります。だから、途中でかすかながら「何か変だな」という自覚をもつことはあるようです。でも、それを契機に、本来のプロセスを志すと言うことは通常ありません。

 そのままで、もっとがんばってしまう んですね。努力によって理想の愛は出来ると思っているから。教会全体が、そうなっているケースが、日本に非常に多いです。もう「愛、愛、愛・・・」の一本槍。牧師さんも含めて・・・。

 これは、うまくいかないのです。そうするとまた、その自分を責めたりもするんですね。反省教会。祈りのほとんどが、自己反省の弁と「神様、すみません、すみません」に終始する教会。これ日本にとても多いです。

 あるいは、他者を叱咤激励したりもする。「自己中心性は罪です!」と叫んだりしてね。これは、英語のself-centerednessを日本語にしたものですけどね。そういって信徒をしかってる先生もいる。もう大変・・・。

<道徳教の場では、一般人は来ない>

 このように愛(世の愛)を意志の力で実践しようとするのは、もう道徳運動ですよね。この道を進むと、 教会は「道徳教の場」に なっていきます。今、日本の教会の99%は、その色彩を持っているのではないでしょうか。

 そこへ、一般社会からの訪問者が教会に来たらどうなるでしょう。わざわざ教会をのぞきに来るというのは、それなりに、一般の世とは何か違うもの、「聖なるなにか」を期待してくるのでしょう。

 ところが、そこでは「愛!、愛!」と叫んでいる。でも、そこで実現しているのは、「世の愛」です。それを見たら、教会って自分たちの生活している世界とあんまり変わりないなあ、と思うほかありません。外部者はそういうことを、直感できるんですね。

 応対の物腰は柔らかいんですけどね。何とか、形から整えようと長いことしていますと、牧師さんはじめ人々の、物腰や顔つきは柔らかくなるのです。でも、中身は訪問者が生活している一般社会と変わらない。それでいて、形を整えようとするのは、精神的にとても窮屈な状態です。

 (なんか、奥の方で心がひきつってるなぁ~)

 「 自由がない・・・ 」ーーそういうことも感知できるんですね。そこへ持ってきて「自己中心性!」なんて、指摘されているの見たら、もうダメ。そんなところに通う気はなくなりますよね。

 わざわざ萎縮しに行く必要などないですから。日本のクリスチャン人口が、全体の1%にも満たない、というのは、自然なことなんですね。


<正統な教会が必要>

 どこがいけないか。いきなり理想の「愛」の実践に走るところがいけないのです。どうしたらいいか。まず、永続確信をしっかり固めるところから開始すればいいのです。

 『鹿嶋春平太チャーチ』が、イエスからの最大のプレゼントを永続確信とするのは、そういう理由です。そういうオーソドックスな教会が、日本人に必要だとこれまで痛感してきたからであります。

人間は永遠に存続します。

      あなたも、永続しますよ!



              (「イエス最大の贈り物は永続確信」完)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする