ヨハネ伝解読を続けましょうね。
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本日は16章23節からです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「その日(復活のイエスをみる)には諸君はもうわたしには何も尋ねないよ。
まことのことをいうよ。
諸君が父に求めるものは何でも、父は、わたしの名によって諸君にお与えになるよ」
(16章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前節でイエスは「自分は死んで復活する」といいましたよね。
だが、この言葉だけでは、今まで見たことも聞いたこともないことを、
信じ切ることは人間には出来ません。
実際に「死んで復活したイエスに出会って」はじめてこういうことかと理解し、
信じることが出来るのが人間なのです。
「(復活した)その日には諸君はもうわたしに質問しない」
とイエスが弟子にいうのはそれを意味しています。

復活したイエスに会えばイエスの言葉を深く信じられる。
その信頼心が、祈りに応じられる必要条件の一つであることをもここでは示唆している。
相手は人間ではない。自分以外の全てを創造した全能の創造主です。
それを信頼しないで祈り求めても、全能主は働けないのです。

そしてここではもう一つ条件もあげられています。
「イエスの名」を提示して求めるというのがそれです。
「わたしの名によって与えられる」はそれをいっているのです。
イエスはそれを次の節で明確に繰り返しています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君はこれまでは何もわたしの名によって求めたことないよね。
その日からは求めなさい。
そうすれば受けられるよ」(16章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「名」というものはなぜ条件になるのでしょうか。
結論から言いますと、それは認知対象を認識する際の中核になるものだからです。
(もう一つの理由は次の17章に出てきます)
たとえばある人を認知する手がかりは何かというと、我々は通常その人の顔や姿を思い浮かべます。
けれどもその人の「名」を認知してないときには、
その印象はまとまった群を形成しがたくなり、短期間に薄れていきます。
だが、「名」が意識にありますと、顔や姿のイメージはそれと繋がって連想関係に入ります。
名を中核にしてイメージはまとまりを持ち、長期持続します。
まさに、名はその人の諸属性のイメージとつながって、
それらをまとめ上げる中核的認知要素です。
これを掲げて、イエスを明瞭に意識に描いて祈ることが肝心と、
いうことだと思われます。

~以上をまとめて言うと、祈りに応えられるには
①イエスの言葉に深い信頼を置くこと
②その名を掲げて創造主に祈り求めること、
~が必要となります。
そして①は復活のイエスに出会うことによってオートマチックに成就する。
あとは②のイエスの名を掲げて祈ること、
~それを忘れるな、とイエスは遺言しているわけです。

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本日は16章23節からです。

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=聖句=
「その日(復活のイエスをみる)には諸君はもうわたしには何も尋ねないよ。
まことのことをいうよ。
諸君が父に求めるものは何でも、父は、わたしの名によって諸君にお与えになるよ」
(16章23節)
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前節でイエスは「自分は死んで復活する」といいましたよね。
だが、この言葉だけでは、今まで見たことも聞いたこともないことを、
信じ切ることは人間には出来ません。
実際に「死んで復活したイエスに出会って」はじめてこういうことかと理解し、
信じることが出来るのが人間なのです。
「(復活した)その日には諸君はもうわたしに質問しない」
とイエスが弟子にいうのはそれを意味しています。

復活したイエスに会えばイエスの言葉を深く信じられる。
その信頼心が、祈りに応じられる必要条件の一つであることをもここでは示唆している。
相手は人間ではない。自分以外の全てを創造した全能の創造主です。
それを信頼しないで祈り求めても、全能主は働けないのです。

そしてここではもう一つ条件もあげられています。
「イエスの名」を提示して求めるというのがそれです。
「わたしの名によって与えられる」はそれをいっているのです。
イエスはそれを次の節で明確に繰り返しています。

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=聖句=
「諸君はこれまでは何もわたしの名によって求めたことないよね。
その日からは求めなさい。
そうすれば受けられるよ」(16章24節)
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「名」というものはなぜ条件になるのでしょうか。
結論から言いますと、それは認知対象を認識する際の中核になるものだからです。
(もう一つの理由は次の17章に出てきます)
たとえばある人を認知する手がかりは何かというと、我々は通常その人の顔や姿を思い浮かべます。
けれどもその人の「名」を認知してないときには、
その印象はまとまった群を形成しがたくなり、短期間に薄れていきます。
だが、「名」が意識にありますと、顔や姿のイメージはそれと繋がって連想関係に入ります。
名を中核にしてイメージはまとまりを持ち、長期持続します。
まさに、名はその人の諸属性のイメージとつながって、
それらをまとめ上げる中核的認知要素です。
これを掲げて、イエスを明瞭に意識に描いて祈ることが肝心と、
いうことだと思われます。

~以上をまとめて言うと、祈りに応えられるには
①イエスの言葉に深い信頼を置くこと
②その名を掲げて創造主に祈り求めること、
~が必要となります。
そして①は復活のイエスに出会うことによってオートマチックに成就する。
あとは②のイエスの名を掲げて祈ること、
~それを忘れるな、とイエスは遺言しているわけです。
