鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.278『「名」を掲げて祈るんだよ』(16章23~24節)

2010年03月28日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝解読を続けましょうね。

ページの右側上部に、文字サイズを変更できる機能を入れました。
「大」をクリックすると、文字が大きくなります。

本日は16章23節からです。

                     
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「その日(復活のイエスをみる)には諸君はもうわたしには何も尋ねないよ。
まことのことをいうよ。
諸君が父に求めるものは何でも、父は、わたしの名によって諸君にお与えになるよ」
(16章23節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


前節でイエスは「自分は死んで復活する」といいましたよね。
だが、この言葉だけでは、今まで見たことも聞いたこともないことを、
信じ切ることは人間には出来ません。
実際に「死んで復活したイエスに出会って」はじめてこういうことかと理解し、
信じることが出来るのが人間なのです。

「(復活した)その日には諸君はもうわたしに質問しない」
とイエスが弟子にいうのはそれを意味しています。


                    

復活したイエスに会えばイエスの言葉を深く信じられる。
その信頼心が、祈りに応じられる必要条件の一つであることをもここでは示唆している。

相手は人間ではない。自分以外の全てを創造した全能の創造主です。
それを信頼しないで祈り求めても、全能主は働けないのです。


                    


そしてここではもう一つ条件もあげられています。
「イエスの名」を提示して求めるというのがそれです。

「わたしの名によって与えられる」はそれをいっているのです。

イエスはそれを次の節で明確に繰り返しています。

                          
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君はこれまでは何もわたしの名によって求めたことないよね。
その日からは求めなさい。
そうすれば受けられるよ」(16章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


「名」というものはなぜ条件になるのでしょうか。
結論から言いますと、それは認知対象を認識する際の中核になるものだからです。

(もう一つの理由は次の17章に出てきます)

たとえばある人を認知する手がかりは何かというと、我々は通常その人の顔や姿を思い浮かべます。
けれどもその人の「名」を認知してないときには、
その印象はまとまった群を形成しがたくなり、短期間に薄れていきます。

だが、「名」が意識にありますと、顔や姿のイメージはそれと繋がって連想関係に入ります。
名を中核にしてイメージはまとまりを持ち、長期持続します。

まさに、名はその人の諸属性のイメージとつながって、
それらをまとめ上げる中核的認知要素です。

これを掲げて、イエスを明瞭に意識に描いて祈ることが肝心と、
いうことだと思われます。


                    

~以上をまとめて言うと、祈りに応えられるには

①イエスの言葉に深い信頼を置くこと

②その名を掲げて創造主に祈り求めること、

~が必要となります。

そして①は復活のイエスに出会うことによってオートマチックに成就する。
あとは②のイエスの名を掲げて祈ること、

~それを忘れるな、とイエスは遺言しているわけです。


                    



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.277『復活は諸君の心にジョイを形成するよ』(16章16~22節)

2010年03月12日 | ヨハネ伝解読
ヨハネ伝解読続きます。
16節から22節までは、
イエスが復活とそれが弟子たちの心に永続するjoy(歓喜)をもたらすことを約束するところです。

ページの右側上部に、文字サイズを変更できる機能を入れました。
「大」をクリックすると、文字が大きくなります。

16節はこうなっています。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「しばらくすると諸君はもはやわたしを見なくなるよ。
だがしばらくするとまたわたしを見るんだ」(16章16節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 これが死んで復活することをいっているのは、今の我々には明らかですね。
でも、この時点の弟子たちには何言ってるかわかりません。

で、彼らは「先生は一体何を言ってるんだ」と互いに質問し合います(17~8節)。

イエスはそれを聞きつけて(19節)復活という事態の説明をするかと思いきや、そうではない。
それがもたらす状況の説明に入ります。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君に真実を告げよう。諸君は(わたしがいなくなると)嘆き悲しむが、世は喜ぶよ。
だけど諸君の悲しみは歓喜に変わるよ」(16章20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 弟子たちはイエスが(死んで)いなくなって悲しむが、その歓びはジョイに変わるというのです。
弟子たちはそれでも以前としてイエスが死んで復活するなどとは、思い至りません。
イエスはかまわず悲しみが歓びに転ずる様を、喩えで話します。


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「女が子を産む時には苦しむだろ。
だけど、生まれるとその子が世に生まれた歓喜で、今さっきまでの苦しみを忘れてしまう。
それと似たようなことが(諸君の心に)起きるよ」(16章21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


これで弟子たちは、なにか凄いことが起きて、悲しみが突然歓喜に変わるんだな~、
ということを雰囲気として感知します。

イエスはいい重ねます。

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「諸君は(わたしがいなくなると聞いて)今は悲しんでいるけど、わたしはもう一度諸君に会うよ。
すると諸君の心はジョイに充たされる。そしてその歓喜を諸君から奪い取るものは誰もいないよ」(16章22節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 自分がいなくなって、もう一度現れると、弟子たちの心が歓喜で満たされるという。
そしてその歓喜はもう永続するんだ、と。
 
 イエスはここで自分が復活したのを知った時に、弟子たちの心に起きることを預言しています。
復活を目にするという体験は、弟子たちの心にまず、
「不死」「永続」ということがあるんだ、という確信を形成します。
弟子たちはこれを通して、自分の不死、永続にも確信を抱く。

これはものすごいことです。すごい歓喜を人間の心にもたらすのです。
それまで人間は、「人間というのは死んだら消滅しておしまいだろう」という感覚を
7割以上持っているのですから。
「そうだ! 俺たちも死ぬことがないんだ!」となるのですから。

だから、強烈な歓喜がやってくる。歓喜もそれほど強烈になると、
これまで心に蓄積されてきた悲しみの記憶など吹き飛ばしてしまう。
心の全ての空間が歓喜で満たされる。

そういうものです。


                    

<歓喜は霊的実体>

イエスは人間の思いを一つの実体として教えています。
平安というのもそうで、彼が「諸君に平安を遺します」というときは、
それを一つの実体として示しています。

思いが実体だという。どういうことか。
それは思いを一つの霊として捉えていると言うことです。
イエスの言う平安は平安という霊なのです。
その霊が弟子たちの心に残される。

ここでのジョイも同じです。
ジョイという霊的実体が弟子たちの意識を満たすというのです。
そして、その霊は誰も奪えない。ということは弟子たちの心に永続する、ということです。
つまり、弟子たちの心には以後、歓喜が存在し続けることになるのです。

人間は不死であって、肉体が死んでも必ず復活する。だから自分も不死である。
~この確信が心に出来上がる時、人間はどんなに嬉しいか。
復活の確信は、そういうものすごい果実を実らせる。
イエスは、それらのことが、自分が復活して見せたら、必ず実現すると約束しているのです。




                    





コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Vol.276『父なる創造主を見逃してはいけないよ』(16章15節)

2010年03月03日 | ヨハネ伝解読
今日もヨハネ伝を楽しみましょう。
ページの右側上部に、文字サイズを変更できる機能を入れました。
「大」をクリックすると、文字が大きくなります。

                                                            
+++++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
「父がもっておられるものは、みな私のものだよ。
だから私は、御霊が私のものを受けて、諸君に知らせると言ったんだよ」
(16章15節)
+++++++++++++++++++++++++++++++

                    


今回の聖句は、前回の聖句の内の「御霊は私(イエス)のものを受けて、諸君に知らせる」
という主旨部分の理由説明に当たります。

その理由をイエスは、「父がもっておられるものは、みな私のもの」とのべている。
「父のものはみな私のもの」とはどういうことでしょうか?


                    

イエスは創造主のひとり子だからでしょう。
ひとり子は、父のもつ全てを受け継ぎ相続する。
天の創主王国も、イエスが受け継いだものです。

でもこのことは、「御霊が私(イエス)のものを受けて、諸君に知らせる」ということとは
直接にはつながっていませんね。

そこにはもう少し言葉を加えることが必要です。
加えて解きほぐす。
その一つの糸口は、同じヨハネ伝の14章10節の聖句にあります。
ここでイエスは~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私が諸君に語る言葉は、私が自分から話しているのではないよ。
私の内におられる父が、御自分のわざをしておられるんだ」ヨハネによる福音書、14章10節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~といっている。

これにくらべると本日の聖句でイエスのいう「父がもっておられるもの」の意味は広いですね。
だから、「父のもっておられるもの」は言葉だけではありませんが、ここでイエスが意味している中核はやはり言葉でしょう。


言葉だから、「聖霊が私のものを“受けて”、諸君に“知らせる”」となるのですから。

ではどうしてそんなことを言うかといえば、それは次のことを再確認させるためでしょう。

それは~

「御霊が私のもの(言葉)を受けて諸君に知らせる」と言っても、
「聖霊が受けるそれは究極的には父なる創造主からでているものだよ」

~です。

イエスは、それを弟子たちに再確認させているのでしょう。

「私や聖霊が様々なことをするけれど、それらは父から出ていることを、見逃してはいけないよ」と。



                    



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする