鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.319 『全弟子に力が現れ、一体を実感する』(17章22節)

2011年01月27日 | ヨハネ伝解読

 

 相変わらずヨハネ伝解読です。17章が終わるまではこのまま進みます。
今回は17章22節です。
  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
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  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。」
(17章22節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

また「栄光」という難しい言葉が出てきました。

栄光(glory)には三つの意味があると鹿嶋は考えています。
一つは、創造の光です。この世で我々が見ている光(light)は光子という素粒子でして、
それは一秒間に地球を七周半走る速度を持っています。約30万キロメートルですかね。

対して、栄光の光は、無限の速度を持っていて、たとえば天の創主王国からこの地上まで一瞬にして到達すると考えられます。

 

                   

 

第二はエネルギーです。栄光の光を発する実体は、いのちエネルギーです。
ですからそのエネルギーそのものを栄光が指す場合があります。この場合はエネルギーまたは「力」ですね。

第三は、栄誉です。
被造物は深く強い光を見たり、力の成果をみたりすると、それを讃える性質を持っています。
そこから栄光は栄誉という意味が派生します。

                    

   本日の聖句での栄光は、二番目の力の意味で用いられているとおもわれます。
「父なる創造主はイエスにいのちというエネルギーの力をくださった」とイエスは言っています。
それによって、イエスは病の癒しをはじめとする様々な奇蹟を地上で実現しました。
それが「創造主とイエスが一体であること」のあかしでした。
創造主にしかできない奇蹟を行うことによって、イエスは自分が父なる創造主と一つなのだと証明してきました。

「その力を弟子たちにも与えた」とイエスはここで創造主に伝えています。
それによって弟子たちに奇蹟の力が現れます。力はみんなに現れます。
すると弟子たちは、おのおのイエスに繋がっていることを実感します。
そしてそれを通して、自分たちはイエスに繋がって一つなのだと確信します。
それが「彼らも一つである」の意味だとおもわれます。

 

                    

 

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Vol.318 『新参者も天の生き方で一体になれば』(17章21節)

2011年01月24日 | ヨハネ伝解読


ヨハネ伝解読、今回は17章21節の後半です。
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  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=
  「また、彼らもわたしたちの内にいるようになるためです。
そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを世の人々が信じるためです」
(17章、21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    

21節の前半では新しい信徒も世から聖別して「一つにして下さい」とイエスは祈りましたね。

後半ではまず、新しい信徒たちを聖別していただくのは、彼らもまた「創造主とイエスの内にいるためだ」といいます。
聖別されたらそうなりますよね、論理的にも。イエスはそれを確認するようにきちんと口に出しています。

                    

 そして「新参者たちがそうなると、天の創造主がイエスを遣わされたことを世の人々が信じる」のはなぜでしょうか。

新参加者たちが天の創造主の側に立って一つになっている姿を見ると、人々はこう思うでしょう。

「彼らはどうして一体になって我々と違う生き方、聖なる生き方が出来るんだ」
「どうもみんなイエスを信じて一体化しているからのようだ」
「ならばそのイエスは天から遣わされた天の性格を持った存在と言うことになるなぁ」

~こういう風に、世の人々から信じる人が出るでしょう。
そうなるためにも、彼ら新参加者も聖別してください、とイエスは父なる創主に願い求めていると解せます。

                    

 

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Vol.317 『信じて加わる人も含めて一つにして下さい』(17章20~21節)

2011年01月21日 | ヨハネ伝解読


  ヨハネ伝解読、20~21節に進みます。

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 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  =聖句=

 「わたしは、それをただこの人々のためだけでなく、
彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにもお願いします。(20節)
 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、
彼らがみな一つになるためです。(21節)」
 (ヨハネによる福音書、17章20~21節)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                     

  21節では、イエスは祈り願う対象を弟子から、弟子の伝道する言葉を信じる人々にも広げています。
新しい信徒のためにも祈っている。

祈りの中身は前回では「弟子たちを真理によって(世と)聖め分かつこと」でした。
ここでは「弟子たち」だけでなく「弟子の伝道で信じる人々」をも真理で聖め分かって下さいといっている。

                    

ここで真理というのは、天の創主王国からの言葉、すなわち、イエスの言葉です。
これを心に抱く人は、それによって必然的に「世」と分かたれるのですね。

ですから、新たな信徒も必然的に聖別されるのです。
そうすれば、弟子も新たな信徒も一つにまとまらざるを得ない。自然にそうなるのですね。

                    

でもイエスはそのことを、改めて口に出して祈っています。
弟子と新しい信徒がみな一つになるために、聖別して下さい、と確認するように祈っている。

ここでも、いわずもがなのことを改めて口に出していることが、注目されます。

祈りでは、このようにひとつひとつを確認することも必要なようですね。

     
                    

 

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Vol.316 『弟子のため改めて自分を聖め世と分かつ』(17章18~19節)

2011年01月08日 | ヨハネ伝解読


みなさん、すみません。 
「ヨハネ伝解読」更新できないままに、年を越してしまいました。

「聖句主義クラブ」の順調な滑り出しのために、忙殺されていました。
ようやっと安定しつつあります。自分は聖句主義で行くと決意された方は、どうぞ参加希望を出して下さい。
会が安定するにつれて、入会条件は緩やかになります。

さて、本日の聖句はこれです。

                    

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
      「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。(18節)
わたしは彼らのために、わたし自身を聖め分かちます。彼ら自身も真理によって聖めわかたれるためです。(19節)」
          (ヨハネによる福音書、17章18~19節)
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<弟子は本来天にいるべき存在>

まず18節です。
イエスは「自分が創造主によってこの世(宇宙)に遣わされた」ということを
確認するように父なる創造主に明言しています。
そして、そのようにして父が自分になされたと同じように「自分も弟子たちをこの世に遣わす」といっています。

弟子たちはすでにこの世にいるのですから、「世に遣わす」というのも変な感じですけれど、
ここは「天に召すのではなく、世で働かせる」ということをそういう形で言っているのでしょう。
あるいは、「弟子たちは本来天に召されているべき存在なのだ」という認識を持っていて、
「その天から遣わすのだ」という感覚でそういっているのかも知れません。

                    

<創主の子が敢えて「自分を聖め世から分かつ」というのは>


19節です。
ここは読み流しやすいところですが、注意深く見ると驚かされます。
イエスは創造主の子ですよね。羊の子が羊であるように、創造主の子は創造主です。
そして創造主はもともと聖いのであって、世とは分かたれているべきものですよね。

ところがイエスはその自分をも「聖め分かつ」とわざわざ言っています。
ならば、イエスは聖いのではなかったのか、と思いたくなります。

ここは、「父はわたしより偉大」といったイエスの言葉を思い出すべきでしょう。
イエスは聖いですよ。この世の人間に比べたら。
だけど肉体を持ってこの世で生きている自分は、やはり世に接して聖さを減少させている面もあると自覚しているのでしょうか。
時には怒ったこともあったしね。
その意味で「父ほど聖くはない」と思っているのではないでしょうか。

それで、あたらめてもういちど、その「聖さ」を増すように努める。
そう意識して「わたし自身を聖める」と創造主に語りかけているのではないでしょうか。


それは何のためか。自分を「世とあたらめて聖め分かつ」ことによって、
自分と一つになる弟子たちも、現状より一層「世と聖め分かたれる」ためだ、とイエスは言っています。

                    

自分はこれから世にいなくなる。
いなくなった後に、弟子たちに自分の言葉を世に伝道さす。
これが確実になされるために、イエスはものすごく入念に下地を整えている。

ことを成功さすには、あまねくこうした行為がいるのではないでしょうか。
ここはそういう場面だろうとおもわれます。

                    

 

 

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