鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

次回から「ヨハネ伝」に

2007年12月31日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
「鹿嶋春平太チャーチ」をご訪問くださいまして、ありがとうございます。

今年も終わります。
次回から、「ヨハネ伝解読」にもどります。

いいお年をお迎えください。
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Vol.27 補論:イエスという名

2007年12月26日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想



                    



 『稲盛「哲学」と聖書の思想』は、前回で一旦のおしまいですが、ひとつ補論をしておいたほうがいいことに気づきました。

 これまでの話から、稲盛さんは聖書の思想にかなり近い思想をお持ちであることがわかってきました。
だが、これは稲盛哲学の側から寄せていった場合の印象です。

 逆に、聖書の立場から考えを進めてみると、次のことが浮上するように思います。


                    



<「救い」には「名」がいる>

それは聖書の教えの究極のテーマである「救い」と稲盛思想との関係です。
「救い」とは、最後の審判の時、人の霊がもつ「罪」が無いものと見なされて(許されて)、
天の創主王国に入れる資格を得ることをいいます。

 この資格を得るという意味での「救い」を受ける条件として、
聖書には次の聖句があります。

 「この方以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、わたしがちが救われるべき名としては、
どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒行伝、4章12節)

 この御名とはイエスという「名」のことです。
 思想・哲学として、論理として、聖書に近いものを抱いていても、
イエスという「名」のもつ力への信頼がないと、詰まるところは「救い」は
得られないよ~~と、この聖句はいっています。


                    


<多くの信徒は聖句への「信頼」によって>

聖書のメッセージには、イエスの「名」とその力に関する深い論理が
込められています。
それを知るには「そもそも「名」とはいかなるものか」から認識論的に
理解していかねばなりません。

そういう理解に至っているクリスチャンは、決して多くはありません。
だが、多くの人はそこはもう聖句を「信頼」しよう、ということで
イエスの名を抱きます。
それで救いは得られるのです。

 稲盛哲学には、創造主が存在するという確信はあります。
稲盛さんのいわれる「神様」は、いわゆる八百万の神々ではなく、宇宙万物を創った創造主です。
しかも、その神様に毎朝語りかけておられます。

朝起きて鏡の前に立つと、昨日一日神様の道(天の道)に反したことがないか、と振り返られるそうです。
傲慢な思いや行為はなかったか、利他の心を失うときはなかったか、などと。
そして、思い当たると「神様ごめんなさい」と口にされるという。

 この少年のような素直さにも驚嘆しますが、このようにして毎朝創造主を意識に昇らせることについてみれば、
並のクリスチャン以上、と思うほかありません。

 そのような稲盛さんですが、イエスの「名」にかんする認識はといえば、それはありません。
 ですから聖書における「救い」というゴールに至っておられるかどうか、ということになれば、
“聖書の論理では”到達してはおられないということになるでしょう。

 

                    


<反発心があるからではない>

 けれども、それは稲盛さんの意識に、聖書思想に対する反発心がある
からではないと鹿嶋は思います。
逆に、この思想を無理なく受け入れられる精神状態をお持ちだと、
鹿嶋は確信しています。

 現状の理由は次のところにあるだけ、と思います。
すなわち、稲盛さんは若い日から経営の現場で多くの問題を解決せねば
ならない立場にたち続けられたこと。そしていまも、後進の指導を含めてそれに集中しておられることが一つです。

もう一つは、イエスの名を含む聖書の論理を、忙しい中でも読んで
理解できる簡明な解説書がないことでしょう。
そうした壁が取り払われたならば、稲盛さんは、他の有名人たちと違って、
聖書の思想をスムースに受容されると思います。
そして、それは現状の稲盛哲学と組み合わさって、さらに広大なスケールの
経営実践の知恵にも結実していくと確信しています。


                    



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Vol.26 稲盛世界観と聖書の世界観

2007年12月25日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
メリークリスマス!


                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第26回です。
今回で、いったん切り上げとして、「ヨハネ伝解読」に戻ろうと思っています。
最後ですから、そこはかとなく思うところを語り流します。

                    


<稲盛哲学のスタンス>

稲盛哲学の方法は「五感で認知できるところから思索を始め、天文学、心霊科学など
科学知識を取り入れて世界を考えていく」というものです。
その思索は、広大な世界に及んでいますけれど、そこにはやはり限界があります。
思想は、宇宙にまで及んでいますけれど、その外側の「天の創主王国」にまでは及びません。
さらにその外側の無限界にも及んではいません。
人間の経験感覚から思考を出発させる以上、これはもう仕方ないでしょう。



                    


<聖書のスタンス>

他方、聖書は「その言葉は万物を造った創造主が送るメッセージである」というものです。
創造主はすべてがわかっています。なにせ、自分がすべてを創ったのですから。
メッセージはそこから発せられるものだといいます。

~~その理論体系はなんと美しいことか。
ここでは数学の無限大の思想もきれいに入っています。
創造主は自らが、時間空間的無限者ですから。

また、人間が五感発で考えていくと、もやもやせざるを得ないところが残ります。
人間はなぜ存在するのか、とか。
これを、聖書の理論体系は一気に解消してしまいます。
万物の創造主がいるから、その方が創ったのだから君は存在するのだ、と。

では、何のために存在するのか、何を求めて生きたらいいのか?
創造主はそれを聖書に収めている。聖書を探求しなさい。そうすればわかるよ、と。

                    


<稲盛哲学の焦点>

 稲盛さんは、そうした聖書の思想を否定しないでしょう。
それを知れば、自分の思想にうまく取り入れられるでしょう。

まだそれをされていないのは、一つには聖書の思想が膨大で、自らそれを探訪する余裕がないからでしょう。
またそれをわかりやすく解説している論述に出会っておられないからでしょう。

だが、もう一つの理由が重要でしょう。
それは、稲盛さんの哲学は、この世での経営実践を正しく方向付けることに焦点を当てているからです。
経営には多くの知恵が必要です。

たとえば、創業して成功した企業の後継者をどうするか?といった問題。
これはその後の企業の命運を決します。

ともに危険を担い、苦労をともにした功労者を後継者に指名すべきか?
あるいは、外部からスカウトする人も含めて、他の人にバトンタッチすべきか。

~~ここで、稲盛さんは西郷南州(隆盛)翁の遺訓に学びます。
功労者には報酬をもって応じよ。
後継者は人徳でもって選べ。
~~と。

                    


稲盛さんは、これを第二電電(いまのKDDI)において実践しています。
稲盛さんは、京セラの他に、この会社も創業しているのです。

創業に際しては、NTTから移ってくれた優秀な技術者が十数人いました。
彼らは、その才を十二分に発揮して、会社を軌道に乗せてくれました。
だが、後継社長には、当初あまり目立たなかった人物を選びました。
目立たないこの人は、社内の人々から信頼される「徳」を備えていました。
会社のトップには、才能きらめく人よりも、むしろこういう人を据えるべきと判断したのです。


では、有能な功労者たちはどうしたか?
これには上場前に会社の株をもってもらい、金銭的に十分に報いました。
(上場すると膨大な株価になり、財産になります)。

これも社員の精神に必要なことです。
十分に待遇しないと、「この会社は、使えるときには働かせまくって、使い捨てにする」という印象を与えるのです。
これは、社員のやる気に大きく影響します。

これを稲盛さんは、西郷隆盛の「功あるものには俸禄を以て賞し、これを愛(めで)し置くものぞ」なる遺訓から学んでいます。


                    


<聖書には>

こういうことは、聖書には直接書かれてはいません。
聖書思想には、そこから演繹して具体化するとこういう現世での実践的知恵も得られる、という深さがあります。
だけど、引き出すのは精神作業がたくさんいりますからね。
こういう知恵には適していないです。

その代わり、人の霊が永遠の幸福を得るための方策は、直接教えてくれます。
そういう本なのですね。


                    


 でも、稲盛思想には、聖書に共通する考えも含まれています。
その代表が、創造主の存在を認める点でしょう。

 稲盛さんは、この宇宙は創造主の意志で動いていること、
人間はそれに沿うように生きると幸福になれるように創られていること、
などを当然のように語られます。       

社是に「敬天愛人」を掲げられているのも、それと関連しています。
この言葉は、西郷南州翁の発したものですが、「敬天」とは天を敬うこと、ですから、聖書に通じるところがあるわけです。
また稲盛さんによれば、天とは「天道」であり、「人間として正しい道」ということです。
さらに、「愛人」とは「人を愛すること」~~愛人関係の愛人じゃないよ~~でして、
具体的には「おのれの欲や私心を無くし、人を思いやる『利他』の心を持つこと」だといいますから、
これはもう聖書の「なんじの隣人を愛せよ」と重なるところ大きいですよね。


                    


<当面吸収容易なのは?>

 では、最後に、いまの日本人には、どちらが吸収しやすいか?
鹿嶋は稲盛思想だと思います。

聖書の真理観が、日本人の歴史感情と遠いところにあるからです。
真理に関する日本人の歴史感情は、「ものの内奥にあるもの」です。
自然の山、木々、川などの奥に真理(神様)が宿っているとして、
それをどんどん探求していきます。
あるいは、人の心の内奥に人間の真理は宿っている、としてどんどん内省をしていきます。

これはもう、あまりにも当然なこととして、日本人の心情にあります。

ところが、聖書の真理は、天の創主王国(キングダム・オブ・ヘブン:いわゆる天国)にある。
それはもちろん、自然の事物や人心の「外に」あるものですよね。
これを霊感で感知しようと、創主王国に向かって賛美し、祈り、
応答を得ようというのが、聖書のスタンスです。

これは日本人の歴史感情には、ありませんよね。

もし、これを伝道しようとしたら、まず、こうした認識方法論から紹介しないと、
聞く方はまもなく間違った方向に行ってしまうでしょうね。
たとえば、道徳教とか人生訓とか実践哲学とか、そういう方向に。

稲盛哲学は、日本人感情に適合した内奥探求主義の姿勢を持っています。
それでいて、同時に、創造主とか天道とかいった方向にも視野を開いています。
日本での聖書伝道に、様々なヒントを与えてくれます。

『稲盛「哲学」と聖書の思想』~~まずはこの辺で・・。

                    (ひとまずの完)


                     




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Vol.25  聖書の運命観~「宿命」も否定せず~~

2007年12月07日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    

 

「稲盛『哲学』と聖書の思想」第25回です。
このテーマでの話も、終わりに近づいてきました。

前回、稲盛さんの運命観を考察しました。
今回は聖書の運命観をみる番です。

通常、世界が将来どうなるかは、聖書の言葉に記されている。
だから、人生を決定しているものを人間は知ることができるのだ、と考えられています。

すると、「それを知って相応に対処すれば、人生のことはある程度変えられるのだ」
という考えになります。

あるいは、所与の力が、人間の努力では対処できないものだとしても、
それがどういうものかは、聖書という書物のおかげで、知ることができるのだ、と。


                    


<隠された「創主の意図」もある!>


 ところが、聖書を詳細に見ていくと、どうもそうとばかりはいえないようです。
聖書そのものの中に、創造主が知らせない創主の意図もある、といっているところがあるのです。
次の聖句をご覧ください。

                    


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「隠されていることは、私たちの神、エホバのものである。
しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、
私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである」(申命記、29章29節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 ここで「現されたこと」とは、聖書(旧約聖書)に言葉として記録されたことでしょう。
これは「私たちが、その教えの言葉のすべてを行うためのもの」となっています。
いわゆる「みことばに従順する」というのはこれですね。

 ところが、それ以外の事柄もあると、聖書はいっているのです。
それが「隠されていること」なのですね。そしてそれは「エホバのものだ」といっています。


                    



<御子イエスにさえも・・>

「聖書で知らされてはいない事柄もある」、という趣旨の聖句は春平太にはちょっとショックでした。

でもそれは人間に対してだけではないのですね。
創主の御子とされているイエスに対しても、父なる創造主は知らせないことがある、という。
たとえば7年間の大艱難が始まる時期がそれです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「その日、その時は、誰も知りません。天の御使いたちも、また子も知りません。
ただ父だけが知っておられます」(マタイによる福音書、24章36節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 これはいわゆる7年間の大艱難が起きることをイエスが知らせた場面での、彼の言葉です。
イエスは将来それが起きることは知っています。だから起きると言うことは、弟子たちに教えています。

 だがなんと、「それがいつ起きるかは、自分も知らない」、というのです。

 こうなると少しは気も休まります。ましてや人間においておや、ということでですね。

                    


<どう対応したらいい?>

 では我々は「聖書でも知らされていないこと」に対してどう対応していったらいいでしょうか。

まずとにかく「隠されていること」に関しては、われわれはそれを理解することもできませんよね。
認知できませんから、それに対して祈ることもできません。
 大変だ。これは人間の祈りの対象にもなっていないのですから。どう考えたらいいでしょうか。

 まず知るべきは「これは人間が祈ろうと祈らなかろうと、主の意志としてなされること」
だということではないでしょうか。

あるいは、「ある時がきたらそれは明かされるかもしれない」と思いましょうか。
死ぬときとか、死んだときとか、あるいは天の創主王国にたったときとには、明かされるかもしれない、と。
・・だが、そうでないかもしれません。

では、人間はどうしたらいいでしょうか?

答えはただ一つ、「トラスト・ゴッド!(創造主を信頼せよ)」ではないでしょうか。

知らされないけれども、聖書に現された範囲のことに沿って生きれば、父なる創造主はよきに計らってくださる
~~どうも、こう信頼するのが聖書信仰の核心のようです。

                


<残るは「創主を信頼する」のみ!>

で、つまるところ聖書の運命観はどうか、となると、それは次のようになるのではないかな?

~~「聖書にも記されていない神秘がある」、となれば、
人間個々人の人生はその領域からあらかじめ計画されているのかもしれない、ことになりましょう。

そしてその可能性がある限り、人には「宿命」という意味での運命があるかもしれない。

~これが聖書の運命観になると思われます。う~ん・・・。

でも「トラスト・ゴッド!」
創造主を信頼しよう!

答えはこれになってしまいますね。


                    


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Vol. 24 稲盛思想と中国思想での人生決定要素

2007年11月19日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
 
「稲盛『哲学』と聖書の思想」第24回です。
 稲盛さんの「哲学」には仏教から学んだ知識がもっとも多く取り入れられて
います。
だが、前回の運命理論のように、中国の古典からの知恵もあります。日常的
な智慧や直感だけからでなく、多方面な先人の知恵に学んで自らの「哲学」をつく
っていくというのが稲盛さんの基本姿勢です。だから、そうなるわけです。

                    


稲盛さんの運命観はつまるところは、パソコンの初期設定のようなものと
イメージできそうなものです。なにもしなければ、設定通りに人生は運行していく。
だが、途中で、宇宙の意識に沿ったよきことを行えば「因果応報の法則」が初期
設定に働いて、運行の航路はよき方向に変更されていく。宇宙の意識に反した(悪
しき)ことをおこなえば悪しき方向に変更されていく。そういうイメージのものです。

                   

 
 中国の古典が参照されましたので、ここで若干脇道に入って、中国におい
ては「人生決定要素」はそもそもどういう思想になっているかを見ておきましょ
う。

結論的にはそれは重要なものから順に「命→運→風水→家庭」となっている
ようです。

                    

<命(めい)>

 一番決定力の大きいのは「命(めい)」です。
 命とは「生命力」といった意味です。聖書で「いのち」というのはエネル
ギーの様な意味の概念ですが、それにちかいですね。人間が成功する人生を送れる
には、何よりもまず、当人が持って生まれた生命力が大きいことが必要という思想
です。

                    


<運(うん)>

 第二の「運(うん)」は、巡り合わせです。
 運は運行の「うん」ですね。人生を送っているとき、各人がおのおの空間
を運行します。その過程で、別のある人と航跡が交わると出会いになるわけです。
これが命に次いで大事だという。
 どういう人とどういうときに出会うか、これが実際人生の正否に大きく影
響するんですよね。ある程度人生を送って振り返ってみると、経験的に感じます。
 これには、生命力の大きい人と出会って、そのエネルギーをもらうという
ことも、入っているのでしょうね。

                    

<風水(ふうすい)>

 第三は風水。これはとても中国的です。
 風水というと、我々は方角などに関する易や占いなど、迷信を連想しがち
ですが、それは風水がいつの間にか易学の理論体系に取り入れられて論じられるこ
とが多くなったがためです。

 だが風水は、本来、とても科学的な知識です。それは「この地上での、エ
ネルギーの流れ」を重視する知識です。人生の正否は、よいエネルギーが強く流れ
るところに身を置くかどうかで大きく影響するという思想です。
 この立場から経験科学的に集めた知識の体系です。住居をどこに立地し、
どういう設計でもって建てるかというのもその一つです。

 これはおそらく第一番目の「命(めい)」をさらに補強したり強化するこ
とと関連しているのでしょう。

                    


<家庭>

 そして第四が家庭です。
具体的には与えられた家庭環境ですね。知恵のある両親のもとに生まれる
か、学業をする場合に経済的に支えてくれるかどうか、なども人生の正否に影響す
るところ大きいでしょう。

 だが、それが四番目であることがおもしろいですね。
 精神的にも知的にも、また経済的にも恵まれた家庭に生まれ育つことは、
大きな助けになるのですが、やはり、当人の与えられた生命力が弱いと、それもう
まく生かせないのでしょうか。

 また、劣悪な家庭環境に生まれても、生命力の強い子供が、それをはねの
けて成長していく姿を我々は見ることができます。どういう訳かいじけたり、卑屈
になったりしない。これも生命力の強さの故でしょうか。

 そして社会でのよき出会いのチャンスを作っていってしまう。できた人間
関係を生かしてよき仕事を得ていく。よき空間、よき住居にに身を置いていく。
 家庭環境の影響力は、これら「命」「出会い」「風水」に比べれば、小さ
いと見るのでしょうか。特に生命エネルギーがとても重視されている人間観に思えます。

                    


<命運つきた>

 この思想は日本語にも影響を与えているように思えます。ある人について
もうダメだという時にいう「命運つきた」といいますよね。これって、中国の成功
の人生哲学からきているのではないでしょうか。(このあたりは、サビアさんがお
詳しいでしょうが・・)

 また、運命というのはこの「命運」をひっくり返した言葉ですよね。日本
では「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」を中国よりも濃く意識す
るようになって、それでこの言葉を作ったのではないでしょうか。


                    


 考えてみれば、命も運もその人が生まれ落ちるときに与えられるところの
大きいものともみられます。あるいは、風水にも家庭環境にもそういう側面が少な
からずあるでしょう。だが中国では、それが与えられる際に、人間の認識を超えた
大きな力が働いている、という意識は少ないように思えます。少なくともそういう
存在を、明確には意識していません。

 それだけ人間的なのでしょう。その分、「おのおのがた、がんばろう!」
という意識が強くなりやすいです。
日本では、大きな力への意識がもう少し強いです。その分、意識は宗教的に
なったり、また、状況への「あきらめ」の意識が強くなるのでしょうか。演歌歌謡
曲の歌詞にも、それが現れているように思います。

 では、聖書の運命観はどうか?
次回に考えてみましょう。

                   



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Vol.23 稲盛さんの「運命と立命」

2007年11月18日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
          

「稲盛『哲学』と聖書の思想」第23回です。
稲盛哲学の中核は、ほぼ、前回までですが、付録のようなものもあります。
それは人間の「運命」に関するものです。
「人間に運命はあるか?」というのは誰もが考えることでしょう。
稲盛さんも、それを考えるのです。


                    



 でも運命という語は漠然としたところをもった言葉です。
われわれが通常込めている意味は「当人の意志を超えて予め定まっている
人生の大枠」といったものでしょうね。宿命に近い意味です。

 稲盛さんも、そういう意味でまずは運命を捕らえておられるように見えます。
それは、このテーマに関して稲盛さんが引用される中国の古典にある話から
推察できます。

                     


~~代々医術を家業とする家の息子のところに、ある老人の易学者がやってきた。老人は、その息子は
「将来医者にならず、科挙の試験に受かり立派な役人になり、
若くして地方長官になる。結婚するが子どもはできず、
53才でなくなる運命である」
  と予言した。


                    
                    

 ・・・稲盛さんは科学に通じておられるので、
こういうのは相手にしないだろうと思われがちですが、そうではありません。
 そういうことを頭から否定はしないで、「そういう定まったコースというのは
人間にあって、かつ易学者などの他者がそれを言い当てることもあり得るのだ」
と考えておられます。
 このことからして、運命は「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」
とイメージされていることが推察できるわけでもあります。

 ところが、そう簡単ではないんです、稲盛さんの「運命」は。
引用された古典では、こう話が続いております。


                    


~~その息子が人生送っていると、途中までその通りになっていきます。
だから、彼はもう自分の人生はもう予言通りになるのであって、
それが自分の運命(宿命)だと思っていた。
 そうしたあるとき、息子は禅宗の老師に会う。老師は彼の話を聞いて
「運命は変えられないものではない。善きことを行いなさい、そうすれば、
あなたの人生は好転していきます」とすすめます。
そこで息子は善きことをすべく努めます。そうしたら、出来ないといわれた子供
にも恵まれ、53才でなく73才過ぎてもまだ生きていた~~と。

                     


 ・・・で稲盛さんは、最終的には、この話に同意するんですね。
 つまり稲盛さんは、運命はどうにもならない宿命ではない、と考えていくのです。

どうしてそんなことがいえるか?
稲盛さんは、人間には運命に影響を与える要因もある、という。
そしてそれは「因果応報の法則」だと考えるのです。

                    


では因果応報の法則とはなにか? 
それは「現世における思いや行動によって作られる業(ごう:カルマ)がなす
現象」だという。
そして、人生というのは実は「運命」とこの「業」とがDNAの二重螺旋(らせん)構造のように、
縒(よ)り合って作られていくものだとみるんですね、稲盛さんは。

                    


<因果応報の法則の方が強い>

更に稲盛さんは、この二つの影響要因についてこう言っています。
「因果応報の法則」のほうが「運命」より若干強い~~と。

だから、良きことを思い、良きことを行うことによって、運命の流れを
良き方向に変えていくことが出来る、こうして人生は好転していく~~と。

この考えを中国の古典では「立命」というそうです。
そういわれれば日本の関西にある立命館大学の名前も、そうした中国の思想を
踏まえて作られているのかも知れませんね。いやきっとそうでしょう。

                    


 では、稲盛さんは結局「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」
という意味での運命の存在を否定しているのか?
そうであるようでもあり、またないようでもあり、微妙ですね。
少なくともこういうことはいえます。
稲盛さんの「運命」は人生を決定する鉄の外枠ではなく、そういう外枠を作ろう
とする「力」のようなものだ、と。
それは見えないけれど働いている一つの力なんですね。

そして因果応報の法則も、一つの力を形成する法則です。
だから「こちらが少し強い」とか「弱い」とかいえるんですね。
要するに二つの力がより合わさって人生は決定されていくんだ、
といわれるんですね。

 な~んだ。だったら運命なんて言葉を使うなよ、といいたいところでもあります。
でもそれで稲盛さんの運命の定義「人が持って生まれた脳細胞、体力、人的環境
など、自分の意志や遺伝子の力が及ばない範疇に属するものからくるもの」
の解釈もできてきます。
「遺伝子の力が及ばない」というところが紛らわしいのですが、
とにかく稲盛さんの「運命」は、つまるところは、生まれたとき与えられている、
自己の素質も含めた環境条件程度のものでありました。


                    


<「立命」の経営哲学>

そこで、思想はこういうことになってきます。
~~われわれが善き意識を持ったとき、宇宙に充満する「すべての」
生きとし生きるものよ、よかれかし」という創造主の意識とそれが合致する。
すると、宇宙の意識と波長が合い、すべてがうまく行き、物事が成功、
発展へと導かれていく、と。



また、
~~会社倒産などの没落や衰亡が起こるのは、うまく行っていたときに
宇宙の意識に反することをした報いとして起こるのだ、と。
具体的には、うまく行っていたときに「善きことをしなかった」
「世のため人のためになることをしなかった」
「その後、真面目に働かなかった」などによる。
それは宇宙の意識に反することである~~と。


                    


<長期では法則通り>

 ~~そして、「短い期間にはそのとおりにはなっていないことが多いが、
20年、30年というスパンで見れば、必ずそうなっている」という。
つまり、持って生まれた素質を含めた環境条件が人生を決める力は大きく
無視できないが、それでも、因果応報の法則でもってそれを変えることが出来る。
だから、がんばれ、ということですね。


                    


=補足=

 稲盛さんの「創造主の意識」は思想枠としては聖書のそれと同じです。
聖書における創造主は「自ら幸福そのものな方で、その幸福を人間に与えよう与えようとされる方」です。
そしてその波長と同じ意識を持てば人間は福を受ける。ここも同じです。

 どこか違いはあるか? あります。
聖書ではその創造主とはどういう方かを問うていくと、どんどん明確になってきます。
稲盛思想にはそれはない。あとは感性で感じてください、で終わります。
理念的に問うていくと、どんどん漠然としていきます。
これは本体と、本体のアイデアを援用した思想とに共通してみられる違いです。

稲盛さんは、若い頃「成長の家」の文書を学び影響を受けたといいます。
その成長の家は、聖書の理論枠を上手く抜き出したものです。
本体ではないから、内容を問うていくとどんどん漠然としていくのです。
仏教の浄土教も同じです。

稲盛さんが聖書そのものを読まれたら、凄い開眼をなされると思います。


                    


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Vol.22稲盛さんの輪廻思想

2007年10月14日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第22回です。

<死後の世界はあるか>

稲盛さんの、「現世の人生目的は、精神のレベルを高めることにある」
という哲学を紹介してきました。
では、死後はどうなるか?
この問題になると、稲盛さんはシャカよりもむしろ聖書の思想に近くなります。

すなわち、人間は肉体と意識体とからなっている、と考える。
意識体とは、聖書でいったら霊です。
死とは肉体が崩壊することにすぎない。意識体(霊)は肉体を抜け出て
あの世に行く、と稲盛さんは考えます。


                    


<あの世でも修行をする>

ではあの世で意識体は何をするのか。
稲盛さんは、そこでも魂のレベル(精神レベル)をたかるための
修行をするだろう、と考えます。

                    


<輪廻(生まれ変わり)で再びこの世にくる>

では、その先どうなるか?
ここでは稲盛さんは心霊科学の成果を取り入れます。
意識体はまた生まれ変わってこの世に来る、と考えるのです。

で、この世ではまた意識体はいずれ肉体から抜け出て
「あの世」にいきますから、稲盛さんは、
「輪廻転生(生まれ変わり)はある」と考えていることになります。


                    


<心霊科学も勉強している>

日本には輪廻転生の考えをもっている人もある程度
いるのではないかと思います。
でもその多くは直感的、フィーリング的な感慨です。
「生まれ変わりがあるか」というと「あると思う」とか
「思わない」とかを簡単にいうだけのものですね。

稲盛さんの場合は、そうではありません。心霊科学の成果を
しっかり勉強してそういう事実判断に至っておられます。
「シルバーバーチの霊訓」も読んでおられるようです。

19世紀の半ばに始まった心霊科学では、前世の記憶らしきものを
持っている子供の言動例(だいたい、5歳くらいを過ぎると
それが心に現れなくなるようです)を、万を数えるほどに記録保存しきています。
それらを検証し踏まえたうえでの結論です。
稲盛さんは、それらの情報を踏まえて、生まれ変わりはありそうだと
判断されているわけですね。


                    


以上をまとめて言うと、

~~人の魂(意識体)は、現世において心を高めるために
色んな修行をして、やがて死んでいく。
そして、あの世に行っても、同じように修行をしている。

そうした後、また誰かの身体を借りて現世に戻ってくる。
そしてまた修行をしてあの世に行く、と。

~~人間はこれを繰り返す存在、というのが稲盛さんの「哲学」の一部です。

                    


<悟りの境地で卒業>

一部、というのは、まだ続きがあるからです。
稲盛さんは「人間はこの世でもあの世でも心を高める修行を繰り返す存在」
だとは考えていません。
それだったら「永久に修行を続行するモルモット」みたいで、
なんだか苦労がつきず、希望がありませんよね。

稲盛さんは、そこを次のように考えています。
曰く。
~~人は修行をして精神レベルを高めていく。
そして心が釈迦のように悟りの境地まで高まってくると、
輪廻転生の輪が切れる。
もう、現世に帰ってこなくてもいいようになる。
満ち足りた悟りの世界で永遠に暮らすようになる~~と。

あるレベルに達したら「よくやった」という賞がもらえるんですね。
ならばそうなるところまで、がんぼろう(魂のレベルを上げていこう)
~~となります。

稲盛哲学には救済も含まれているのですね。


                    


<科学と哲学>

最後に一言、「そんなことが科学的にどうやってわかるのか?
稲盛哲学はいい加減なことも含んでいるんだな・・・」と感じてしまう人に
付言しましょう。

たしかに、人間が来世でどうこうするという知識は
少なくとも現段階では科学的検証済みの知識にはなっていません。

けれども、科学的に検証されていないからといって、
そこを空白にしておいたら、「今この世でよき人生を送るための考え方」は
できあがりません。これが大切なところです。

 稲盛さんは、よき人生を送るという本来の目的を果たすために、
その世界についても大胆に考えるのです。
それを科学ではなく哲学思想として人生観に組み入れていく。

だから稲盛「哲学」なのですね。


                    



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Vol.21 稲盛さんの「成功も試練」

2007年10月05日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第21回です。
稲盛哲学の中心的なところは、前回までに述べたと思います。
今回より、付加的なところを若干のべてみます。

その一つは、稲盛さんの成功に関する考え方です。
まず、人生には浮き沈みがあります。これに関して稲盛さんは次のように捉えておられます。

~~人生では幸運に恵まれることも、災難に遭うこともある。
だがこれは共に、創造主が与えてくれる試練である。
これらに如何に対処するかによって、人生は更に大きく変化していく。
対処のしようによって、よい方にも悪い方にも変化する~~と。


                     


<成功という試練への対応>

幸運に恵まれると人は成功します。
これも試練だとはどういうことでしょうか。
稲盛さんは、こう考えます。

~~成功は、物欲を肥大させ、人を「欲のかたまりのままもがく」ようにもさせうる、と。
こう言うとお気づきでしょうが、これは「欲望は自然なままでは膨張する本性をもつ」という、仏教でいう煩悩の知識が背景になっていますよね。


                    



<成功を当然と思う>

だが、稲盛さんはさらに、成功には次のような危険もあると述べています。

~~成功は、自分が努力して得たものだから当然と思う。
すると、もっと幸運であってもよいはずだ、もっと成功してもよいはずだ、と欲望が肥大していく。

すると、謙虚さを忘れ、傲慢になっていく。
地味な努力を怠っていく。

しかし、成功をもたらしたのは、その人の謙虚さと地味な努力でだったのである。これをしないと、すべてによかれという宇宙の意識と同調しなくなってしまう。
その結果自然に衰退、没落する~と。


                    



<思わぬ成功と感謝する>

没落しないで、成功を持続していう方法についても、述べられています。

~~ 成功を思わぬ成功として心から感謝する。
周囲の人たちの助けに感謝し、成果を独り占めしないで人々と分かち合う。
そして謙虚な心を忘れず、更に努力を続けていく。

すると、更なる幸運と成功を手中に収め、長く保持できていく~~と。

+++

 これに関して、稲盛さんは、『書経』(中国の古典)の、次の言葉を引用しています。
   「慢は損を招き、謙は益を受く」


                    





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Vol.20 聖書との比較④

2007年09月26日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    



「稲盛『哲学』と聖書の思想」第20回です。
ここで聖書との比較をしておきましょう。

                    


その前に、六代煩悩を音で暗記しておきましょう。
「トン・ジン・チ・マン・ギ・ケン」
意味は、Vol.11に記しましたよね。

                    


今回は、人の食欲を貧(トン)にまで至らしめないための智慧をめぐって、仏教と聖書の教えを比較してみます。

<貧(トン)への知恵は仏教も聖書も持っている>

この知恵は、仏教も聖書ももっています。

仏教の方法は修行です。
聖書の方法は、「汝の隣人を愛せよ」という創造主の命令を守ることです。
方法は違えども、どちらも「実践すれば貧という煩悩に到らない」ように自らを治める効果を持っています。

だが、仏教では治める方法を「修行」として、手取り足取り教えてくれます。
出家すれば、更に縛って導いてくれます。

ところが聖書は命令を与えて修行は無しです。

こういう命令を守るには、精神的な力がいりますよね。
なのに修行スケジュールで縛ってくれない。

代わりに聖書では、命令を守る力は究極的には創り主によって与えられるものだ。
それを与えられなさい、と教えます。
創り主とは、現代ではイエスが昇天して送ってくれた聖霊です。
その力とは聖霊の命令で働く天使です。
これに働いてもらいなさい、という。

だけど、こういうものって一般人の目には見えないよね。
「聖霊が、天使が働いてくれた!」というのも霊感によって感触するものだよね。
だから、具体的に「布施をしなさい」と導いてくれる仏教よりも、遙か難しいのです。


                    


<聖書がねらう賞は大きい>

しかし、聖書特有の利点もあります。
それは成功した場合の賞が大きいと言うことです。

単に、「この世を煩悩少なく送れる」だけでなく、死んだ後のある時(最後の審判の時)に、天の創主王国に入れられる、という。この幸福は永遠の幸福です。聖書では賞がそういう大がかりなものなのです。

これを得るには、創主の力への信頼と、それをベースにした根強い聖句(みことばといいます)の探求および祈りが必要、となります。



                    

<聖書にも「修行」の要素あり>

祈りも、全霊を込めた、かつ、持続的なものでなければなりません。
我々は祈りというと、どこか神聖なところで、手を合わせて「ウ~ン」と念じるものだと思いがちです。
「風邪を引いたときに飲む風邪薬」みたいにしか考えない。

だが聖書を解読すると、どうもそうではないようです。
つまり、祈りには(創主の助けも必要だが)修行的意識の要素も大きいのです。
聖句探求だってそうです。
聖句はとても多義的だからです。
その一つの意味をさっとつかんで、わかったといっているんでは足りません。

だが、聖書はそういう誤解にも、とても入りやすいように出来ているんですね。


                    

<仏教は具体的でわかり易い>

仏教の方は、そういう危険が少ないです。
創造主とか聖霊とか天使とか言った、五感で認知できないものの働きを理屈に入れない。
ただ、自力の修行だけで考えるから、認識・理解しやすい。

稲盛さんは、自らのために、そして企業という現実の中で従業員と共に修行をするために、限定的でわかりやすい仏教を援用されているのですね。



                    



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Vol.19 社員の精神レベルは経営の要諦

2007年09月25日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想

                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第19回です。

六代煩悩を思い出しましょう。
仏教の深い人間洞察の成果です。

「トン・ジン・チ・マン・ギ・ケン」でしたね。
その意味は前述しましたが、リズムを付けて、音で暗記しておきましょう。

稲盛「哲学」はそのうちで、
「自然なままに放置すれば貧(トン)にまでいく」食欲を中心とする欲望を治めることを重視しています。
氏が「精神ベルを高める」といわれる際、重心はここに置かれています。

 これに関連して稲盛さんは次のようなことも言っておられます。

 
                   


<精神レベルが上がらねば会社も衰退>


~~個人も会社も、精神のレベルが上がっていかなかったら、いずれ衰退します。
精神レベルが低いがゆえに、成功しても衰退するケースは多いのです。

これは一つには次のように理解できます。

会社が成功して社員の給料が上げられても、社員の欲望はそれ以上に肥大しやすいものです
(貧に向かって膨張していく)。
すると、もっと収入が欲しいという欲望が以前に増して強くなってしまいます。

 けれども、会社はいつも高度成長していることは出来ません。
では成長が鈍るとどうなりやすいでしょうか。

社員は「自分だけでも」もっと収入が得られる方法を探す傾向をもつでしょう。


                    


<派閥も精神レベルの低さから>

そのよくあるひとつが、誰か有力者に特別扱いしてもらおうという思いです。
社員の多くがそういうことを志向すると、社内には自然に派閥ができていきます。

あるグループに入らないと、超過収入などおいしい目を見られないようになる。
入るのに遅れた人は、また別の有力者に特別扱いしてもらおうと、甘えるでしょう。

すると、もうひとつ、派閥ができます。
これが進むと、もう、何処かの派閥に入らないと、仕事もできなくなってしまいます。
鹿嶋はかつてその例を、勤務地の近くにある研究所で生々しく観察しました。


                    


さてこうなると各々の視野が派閥の中に閉じこもって狭くなってしまいます。
もう、全社的な視野や情熱を持つ人の動きや意見が会社経営に反映されなくなってしまいます。
すると、その会社は衰退に向かう要素をどんどん蓄積していくことになります。
派閥心というのは、人間組織のガンなのです。

 ところが程度の差こそあれこれは、日本の大半の会社に起きてきた状況です。
会社だけでなく、学校も、政府機関でもそうでした。


                    


<稲盛企業と佐吉企業>

だが稲盛さん創業の京セラや第二電電(今のAU)には、派閥的な動きはまったくないようです。
それが社員の闊達とした精神や行動を産み、
両企業から革新的なアイデアが次々に出ていることの背景になっています。

トヨタも派閥はまったくない会社です。
トヨタ生産方式を作り上げてきた様々な試行錯誤も、こうした土壌があってのことでしょう。
派閥があると、試行錯誤の錯誤をした時点で、他の派閥がそれを責め上げて、
継続不能にしてしまいます。

 だが、これらの企業は、本当に例外的存在です。
特に日本人には民族気質と思いたくなるほどに、党派心をもった人間が多いです。
そういうのは、隙さえあれば派閥をつくろうとする。
で、四六時中そんなことばかりねらっていますから、大体成功します。
 ゴーンさんがくる以前の日産など、派閥だらけでした。


                    


こういう差が生じるコンポン原因を、稲盛哲学は開示しているのです。

放置しておけば貪欲にまで至る欲望を治めることができるように、
社員がなるかならないかがその分かれ道だとして。
京セラではそれを治められるように、社員個々人の精神レベルが高められている。
それが答えだったのですね。

 トヨタでも同じです。
創業者豊田佐吉の驚嘆するような高い志をもった生き様が、
それを知った社員の精神レベルを高めています。
だから、全員学びます。
入社すると例外なく、静岡県湖西市にある「豊田佐吉記念館」を訪問し、佐吉を深く知ります。
以後も折ある毎に、佐吉思想は伝道され、社員は学び続けます。


                    




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Vol.18 「布施」で「欲望」を治める

2007年09月23日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想








                    



「稲盛『哲学』と聖書の思想」第18回です。

「自然なままに放置すれば貧(トン)にまでいく」食欲という欲望を治めるための修行が、布施をすることだ、というのが仏教の教えでしたね。
稲盛さんはそのまま自らの智慧とし、それをかみ砕いて実践されています。


                    

布施とは、「人を助けてあげること」をしてなす修行でしたね。
人を助けるには、「我がもの」を他者に与えることもしなければなりません。
これを「修行」として繰り返すことによって、貪(とん:貧欲)の心を治めることが出来るようになる、と稲盛さんは考えるのです。

+++

 鹿嶋はこれに関連した質問を稲盛さんにしたことがありました。答えは概略次のようなものでした。

                    


<稲盛さんへの質問>

 鹿嶋がした質問はこういうものでした。

~~稲盛さんの自伝でこういう話を読みました。
28才で京セラを始め、まもなくして、社員に一定の寄付金を出させ、会社からも同額の金を付け加えて、それを福祉施設などにもっていった。以後これが続いた、と。

~~それをした動機は「社員の精神を活性化すること」にありましたか?


                    


稲盛さんは例のソフトで、若干とぼけたような表情で答えられました。

~~給料からお金を出させたのではありません。
創業の苦しい時を経て、ようやく社員にボーナスを払えるときが来た。

そのとき、社員にこう語りました。

~~「我々はボーナスが入ってうれしい。
だけど世の中には、盆正月にもボーナス収入が得られない貧しい人もいる。
このボーナスの中からいくらでもいいから出して、そういう人と喜びを共にしないか。他の人に我々の喜びを広げないか」と。

~~そうしたら、各々思い思いのお金を出しました。
その合計と同じ額を、会社からも出して、合わせて福祉施設に持って行きました。

~~以後、それが続くようになりましたが、これは、会社の外の人々ともこの喜びを分かち合おう、と願っただけです。
これによって社員の士気をどうしようとかは、全く考えませんでした。

自分が食べられて、さらに上手いものを食べたときの喜びは、そんなに深い喜びではありません。
その分他者に食べさせて、喜んでいるのを見る方が、人間の喜びはもっと深いです。
私はそれを、仏教の勉強をしていて学びました。

その喜びをみんなで味わおうぜ、という単純な動機でした。


                    


<波羅蜜の実践だった!>

なんとこれには仏教の「布施」という智慧の実践だったのですね!
稲盛さんはこの頃既に、仏教を勉強して「貧(とん)にいたろうとする欲望」を治める方法を心に抱いておられた。
その方法は「布施」を繰り返すことだという実践思想をすでにお持ちだった。

そこで社員へのこういう呼びかけになったのですね。
ここで稲盛さんの望んでいたのは、自分も含めた社員たちの「精神のレベルを高める」ことでした。

それに比べたら、経営学教科書に書いてある、社員の「士気を高める」とか「精神を活性化する」というのはなんと薄っぺらな観念なのでしょうか。



                    


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Vol.17  「2代目はケチ」なのは

2007年09月22日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第17回です。
もう一つ「貧(トン:すべてを我がものにしたいという妄念)」の事例を考えましょう。

 経済界には「二代目はケチ」という通念というか常識があります。
経営者には自分で会社を創業したオウナー経営者というのがおります。
この跡取り息子を二代目といっています。正確には「二代目オウナー経営者」ですね。

これが概してケチだという。
いわれてみればその様にみえましたが、鹿嶋はその理由が長いことわかりませんでした。

                    


<設備投資を渋る>

 
オウナー経営者の場合、ケチといわれる代表的な行為は、会社運営にお金を出さないということです。より具体的には、「新規設備投資をしないで儲けを社内に蓄積していく」という行動に見られます。社員の出す設備投資案を承認するのを渋るんですね。

 会社の社内留保金というのは、オウナーにとっては実質的に自分のお金なのです。株主は会社の所有者で、会社の資産が自分のものなのですから。そこで設備投資に資金を投下するというのは、自分のポケットからお金を出すのと同じになるんですね。

 設備投資にはリスクが伴います。それをしない。技術革新が進んでいるのに研究開発投資をせず、古い設備のまま節約して、社員に稼いでもらおうとします。で社内留保がとても多い。こういう例は多いです。

                    


<過去の損失に過大にこだわる>

 他にも、サラリーマン重役や管理者が失敗したプロジェクトで損失した資金を、長く憶えこだわるというのもあります。のみならず、それを取り戻すという意識が後の経営思考に影響し続けます。

 あれで何十億の損をした、取り戻さないとなぁ、と次のプロジェクトを考える際にも、それが意識の中で過大に絡んできます。

 
                    


<長男の総取りにする>

 創業者は長男にほとんどすべてを継がせることが多いです。
次男、三男にも平等に株などを継がせると、権力争いになることが多いんですね。また、代々の相続がなされる過程で株が予想外な範囲に分散するという可能性もあります。で、会社に関しては一括相続をさせるケースが大半です。

それで、子供の頃から「跡取りはお兄ちゃん」と言い聞かせながら育てます。
すると、長男は幼い頃から、「あの広大な敷地も工場も本社ビルもみんなオレのもの」、という意識を持って育ちます。

稲盛哲学によれば、これが食欲を貧(トン)にストレートの成長させる条件になるのでしょうね。
これでは「分かち合う」という修行はゼロです。
だから、「すべてを我がものにしたい」となり、「少しのお金も出し惜しみする」性質が育ち、結果的にケチと見られるようになるのですね。


                    

<一人っ子の二代目となると!>

前回、一人っ子は独占欲が強くなる、ことをみました。
独占欲は「すべてを我がものにしたい」という欲望に通じています。また、これは「なるべくお金を出さないようにする」というケチに通じています。

 この一人っ子が、二代目オウナーになる場合はどうか。もう貧(トン)に到る環境がダブルで重なってきます。

 こういう例があります。
 膨大な資産家の御曹司なのに、学生時代において庶民育ちの学生よりもケチなのです。
親の跡をとってオウナー社長となっても、その性格はかわりませんでした。


                    

<鶴のように一本脚で>

 この種の経験で、鹿嶋には忘れがたい一場面があります。
もう時効でしょうから書きますと~~
一人っ子ではありませんが、長男の二代目経営者の会社で働くサラリーマン重役がいました。

鹿嶋はある夜、その重役と食事を共にして東京の繁華街を経営の話などしながら歩いておりました。で、どういう話のいきさつだったかは忘れましたが、ある時鹿嶋の口からこんな質問が出ました。

「新しい社長はどうですか?」

すると、重役は突然足を止めて、鹿嶋の後方に立ち止まりました。
鹿嶋に向かって身体を横にして静止しました。
そして半身の構えで吐き出すように一言だけいいました。

「ケチだね!・・・」

その様子が鶴が一本脚で立っているのに似ていましたので、今でも印象に残っています。
こうした経験は鹿嶋の内で蓄積してきてはいましたが、その原因の理解が漠然とした状態でした。
稲盛哲学を読んで、それが明確化したような気がしています。


                    




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Vol.16  「『一人っ子』の独占欲が強いのは

2007年09月18日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想

                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第16回です。

「肉体を守ろうとする食欲は、自然なままでは貧(トン)に向けて成長していく」
ということを推測させる事例を考えてみましょう。


                    

<一人っ子は「独り占め」気質>

身近な例の一つに一人っ子の性格があります。
 「一人っ子は独占欲が強い」といわれてきました。
鹿嶋も、そういう事例を沢山みてきました。

だが、どうしてそうなるのかがはっきりしませんでした。
「一人っ子は何でも自分だけのものになる環境で成長してくるから」というのは、
明確なようで実は漠然としたところを含んだ理由です。

なぜなら、それですと「その人の中で独占欲という欲望が新しく出現して育ってくるのか」
あるいは「人間すべてにある欲望が独占欲という姿になるのか」が明確でないからです。

                    


<稲盛哲学では>

 稲盛さんの人間心理把握は、後者であるという立場に明確に立っています。

~~まず、みんな、肉体を維持するために食欲という欲望を与えられている。
それは放置していくとストレートに成長して貧(トン:すべてを我がものにしたいという妄念)に到る。
しかし、兄弟姉妹の多い中で育つと、幼い頃から「分かち合う」という必要に立たされそれを実践する。
その結果、食欲がストレートに貧(トン)に到ることがなくなる。

 ・・・そういうことになります。
つまり、兄弟姉妹の多い人は、幼いときからそういう「修行」をすることによって、
食欲があるレベルから「人と分かち合う」という性質の精神に進化していくわけですね。

~~逆に一人っ子は、そういう「修行」をするチャンスに恵まれない幼少を送る、と理解できるのです。
鹿嶋にはこの説明でもって、「一人っ子の独占欲」が現実感(リアリティ)の高いものとして認識できました。


                    

 従来、何故そうなるのか、漠然としていました。
仏教というのは、人間心理の深奥にどんどん入っていく哲学(心理学でもある)なんですね。
聖書の世界にはない特性です。


                     



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Vol. 15 稲盛さんの「欲望の肥大本性」

2007年09月14日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
 
                    
                   

「「稲盛『哲学』と聖書の思想」第15回です。

稲盛さんが援用する仏教の、六大煩悩(ぼんのう)と六波羅蜜(ろくはらみつ)を紹介しました。

ところでこの六波羅蜜というのは、日本史に出てくる六波羅探題という言葉の源でしょうね。
仏教の言葉は、日本人の日常生活に沢山入っているのですね。
「縁があれば・・・」という場合の「縁」等はその代表でしょうが・・。

+++

さて六大煩悩のうち、始めの3つが三毒でしたね。
「トン・ジン・チ」がそれでした。

                     


<「癡(チ)」はかなり解決されている>

少し先走っていいますと、三番目の「癡(チ:無常である世の中を『変わらない』と考え、
不平不満を鳴らす妄念)」は、稲盛さんの場合、かなり解決済みなところがあります。

というのは、稲盛さんはこの点では聖書に近い考え方を取り入れていますから。
つまり「人間は肉体と意識体とで出来ていて、意識体は永続する」と考えます。
そして「意識体の方が人間の本体」だと考えます。

これ聖書の思想そのままですよね。
シャカはどうかというと、人間の死後のことについては、ノーコメントですからね。

ともあれここは稲盛さんは聖書的な考えで行きますから、目に見える肉体だけで
人間の存在を考えることはありません。
シャカで行くよりも、はるかに無常ということに苛まれなくてすむようになっています。

                    


<瞋(ジン)も対応できていそう>

二番目の「瞋(ジン:自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念)」も、稲盛さんにおいては,
あまり悩ましいものとはならないように鹿嶋には思えます。

氏の持って生まれた人柄が、思索的で穏やかなものだったように思うのです。

「怒り」への対策は持戒(戒めを心に保持する)でしたよね。
稲盛さんにおいては「怒ってはならない」という戒めを放念しないように努めれば、
なんとかなることだと思います。


                    


<貧(トン)への対処が最大課題>


稲盛さんが、経営者として最も御しがたいと認識しておられるのは、
一番目の「貧(トン:何でも我がものにしようとする貧欲な妄念)」のようです。

この貧という煩悩と波羅蜜(智慧)との対応関係を「貧」と「布施」を取りあげて
もう少し具体的に考えていきましょう。
まずは、「肉体を保存しようという欲望は肥大本性をもつ」ということから。

                    


<「欲望」は自然成長すれば「貧」に到る>

「貧(とん)」は煩悩の第一番目のもので、「何でも我がものにしようとする貧欲な心」でしたね。

 稲盛さんは、これは「肉体を守ろうとする欲望」に発するものだと把握されます。
人間が与えられている肉体というものを維持するのに、
必要だとして与えられている心理だととらえるのです。

だが、この欲望は放置しておけば、自然に肥大化する性質のものだ、
と稲盛さんは考えられています。


                    

 もう少し具体的に言いますと~~

 肉体を守るために与えられている欲望の代表は食欲ですよね。
これはまず、「今食べよう、今日食べよう」という意欲として出現します。

 だがその欲望は今日食べると、明日も、明後日も食べられるように・・・、とどんどん展開し、
放置すればついには死ぬまで安心して食べられるようにしたい、と肥大していきます。

 世の中、先のことになるほど不確実性が高くなります。
それでもなるべく確実に食べられるようにしておきたいとなりますと、
「できる限りの富を手中に収めておこう」ということになります。

 このように食べたいという欲望は、放置すれば自然に
「なにもかも我がものにしたいという心」に成長していく可能性を持っているんですね。

 この様に、肉体を守るための欲望は、本性的には肥大して貪欲(どんよく)に到るのだ、
と稲盛さんは認識するのです。
次回には、これをわれわれの経験的な認識と結びつけてみましょう。


                    



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Vol.14 稲盛さんの「修行の道」

2007年09月11日 | 稲盛「哲学」と聖書の思想
                    


「稲盛『哲学』と聖書の思想」第14回です。

 第11回に、「煩悩(ぼんのう)」という考え方が出ました。
 これは、その煩悩を治める為の「修行の道」とセットにして理解しておくのがいいようです。
もちろん修行も仏教の思想です。
稲盛さんは、それを援用するのです。

                    


修行の道は6つあって、仏教では六波羅蜜といっています。
波羅密というのは、智慧という意味だそうです。
六つの知恵ですね。

六つの波羅蜜は、前述した六つの煩悩に対応しています。
具体的には、その智慧(波羅蜜)を作り上げる修行をいっています。


                   


<六波羅蜜>

六波羅蜜とは次の如しです~~

1.布施(ふせ)=他人を助けてあげる修行。
        煩悩のなかの「貧(とん:何でも我がものにしようとする貧欲な妄念)」に対応しています。

2.持戒(じかい)=戒めを心に保持する修行。
        煩悩の「瞋(じん:自分の勝手な振る舞いで怒るような浅ましい妄念)」に対応しています。


3.忍辱(にんにく)=無常な世の変化を堪え忍ぶ修行。
       煩悩の「癡(ち:無常である世の中を「変わらない」と考え、不平不満を鳴らす妄念)に主に対応しています。

4.精進(しょうじん)=一生懸命働く修行。
           煩悩のうちの「慢(まん:傲岸不遜な妄念)」に主に対応しています。

5。禅定(ぜんじょう)=座禅を組んで心を鎮める修行。
       煩悩のうちの「疑(ぎ:シャカの説く真理を疑う妄念)」に主に対応しています。


6.智慧(ちえ)=宇宙の真理の悟りに到る修行。
         煩悩のうちの「見(けん:物事を悪い方に、悪い方にと見ていく妄念)」に対応しています。


                    


 6番目の「智慧」は最後のゴールでしょうね。それ以前の5つはみな、このゴールに明確に向けられたものでしょうから。
 智慧とは、そのゴールを直接目指した修行、と理解したらどうでしょうか。

                    

 稲盛さんは、智慧の悟りにまで到らなくても、死ぬまでに少しずつでも心が綺麗になっていくことに価値がある、と考えます。

例えば、「貧乏でも、病気でも心を鎮め、高めていくことは出来る」という。
貧乏だと普通心がすさむが、「貧乏でもいいではないか、三度三度の飯が何とか食べられるのだから」と思えば(知足:足を知ること)、人生観はいっぺんに変わる。生きる勇気が湧いてくる、といいます。

また、こうも言っておられます~~

恵まれた環境にありながら、(布施もしないで)自分の財産が減ることを何よりも恐れている人がいる。
そういう人生には値打ちも魅力もない。
本当の意味での人生の目的から遠のいて行くだけだ~~と断言しておられます。

                    


コメント (2)
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