「稲盛『哲学』と聖書の思想」第23回です。
稲盛哲学の中核は、ほぼ、前回までですが、付録のようなものもあります。
それは人間の「運命」に関するものです。
「人間に運命はあるか?」というのは誰もが考えることでしょう。
稲盛さんも、それを考えるのです。
でも運命という語は漠然としたところをもった言葉です。
われわれが通常込めている意味は「当人の意志を超えて予め定まっている
人生の大枠」といったものでしょうね。宿命に近い意味です。
稲盛さんも、そういう意味でまずは運命を捕らえておられるように見えます。
それは、このテーマに関して稲盛さんが引用される中国の古典にある話から
推察できます。
~~代々医術を家業とする家の息子のところに、ある老人の易学者がやってきた。老人は、その息子は
「将来医者にならず、科挙の試験に受かり立派な役人になり、
若くして地方長官になる。結婚するが子どもはできず、
53才でなくなる運命である」
と予言した。
・・・稲盛さんは科学に通じておられるので、
こういうのは相手にしないだろうと思われがちですが、そうではありません。
そういうことを頭から否定はしないで、「そういう定まったコースというのは
人間にあって、かつ易学者などの他者がそれを言い当てることもあり得るのだ」
と考えておられます。
このことからして、運命は「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」
とイメージされていることが推察できるわけでもあります。
ところが、そう簡単ではないんです、稲盛さんの「運命」は。
引用された古典では、こう話が続いております。
~~その息子が人生送っていると、途中までその通りになっていきます。
だから、彼はもう自分の人生はもう予言通りになるのであって、
それが自分の運命(宿命)だと思っていた。
そうしたあるとき、息子は禅宗の老師に会う。老師は彼の話を聞いて
「運命は変えられないものではない。善きことを行いなさい、そうすれば、
あなたの人生は好転していきます」とすすめます。
そこで息子は善きことをすべく努めます。そうしたら、出来ないといわれた子供
にも恵まれ、53才でなく73才過ぎてもまだ生きていた~~と。
・・・で稲盛さんは、最終的には、この話に同意するんですね。
つまり稲盛さんは、運命はどうにもならない宿命ではない、と考えていくのです。
どうしてそんなことがいえるか?
稲盛さんは、人間には運命に影響を与える要因もある、という。
そしてそれは「因果応報の法則」だと考えるのです。
では因果応報の法則とはなにか?
それは「現世における思いや行動によって作られる業(ごう:カルマ)がなす
現象」だという。
そして、人生というのは実は「運命」とこの「業」とがDNAの二重螺旋(らせん)構造のように、
縒(よ)り合って作られていくものだとみるんですね、稲盛さんは。
<因果応報の法則の方が強い>
更に稲盛さんは、この二つの影響要因についてこう言っています。
「因果応報の法則」のほうが「運命」より若干強い~~と。
だから、良きことを思い、良きことを行うことによって、運命の流れを
良き方向に変えていくことが出来る、こうして人生は好転していく~~と。
この考えを中国の古典では「立命」というそうです。
そういわれれば日本の関西にある立命館大学の名前も、そうした中国の思想を
踏まえて作られているのかも知れませんね。いやきっとそうでしょう。
では、稲盛さんは結局「当人の意志を超えて予め定まっている人生の大枠」
という意味での運命の存在を否定しているのか?
そうであるようでもあり、またないようでもあり、微妙ですね。
少なくともこういうことはいえます。
稲盛さんの「運命」は人生を決定する鉄の外枠ではなく、そういう外枠を作ろう
とする「力」のようなものだ、と。
それは見えないけれど働いている一つの力なんですね。
そして因果応報の法則も、一つの力を形成する法則です。
だから「こちらが少し強い」とか「弱い」とかいえるんですね。
要するに二つの力がより合わさって人生は決定されていくんだ、
といわれるんですね。
な~んだ。だったら運命なんて言葉を使うなよ、といいたいところでもあります。
でもそれで稲盛さんの運命の定義「人が持って生まれた脳細胞、体力、人的環境
など、自分の意志や遺伝子の力が及ばない範疇に属するものからくるもの」
の解釈もできてきます。
「遺伝子の力が及ばない」というところが紛らわしいのですが、
とにかく稲盛さんの「運命」は、つまるところは、生まれたとき与えられている、
自己の素質も含めた環境条件程度のものでありました。
<「立命」の経営哲学>
そこで、思想はこういうことになってきます。
~~われわれが善き意識を持ったとき、宇宙に充満する「すべての」
生きとし生きるものよ、よかれかし」という創造主の意識とそれが合致する。
すると、宇宙の意識と波長が合い、すべてがうまく行き、物事が成功、
発展へと導かれていく、と。
また、
~~会社倒産などの没落や衰亡が起こるのは、うまく行っていたときに
宇宙の意識に反することをした報いとして起こるのだ、と。
具体的には、うまく行っていたときに「善きことをしなかった」
「世のため人のためになることをしなかった」
「その後、真面目に働かなかった」などによる。
それは宇宙の意識に反することである~~と。
<長期では法則通り>
~~そして、「短い期間にはそのとおりにはなっていないことが多いが、
20年、30年というスパンで見れば、必ずそうなっている」という。
つまり、持って生まれた素質を含めた環境条件が人生を決める力は大きく
無視できないが、それでも、因果応報の法則でもってそれを変えることが出来る。
だから、がんばれ、ということですね。
=補足=
稲盛さんの「創造主の意識」は思想枠としては聖書のそれと同じです。
聖書における創造主は「自ら幸福そのものな方で、その幸福を人間に与えよう与えようとされる方」です。
そしてその波長と同じ意識を持てば人間は福を受ける。ここも同じです。
どこか違いはあるか? あります。
聖書ではその創造主とはどういう方かを問うていくと、どんどん明確になってきます。
稲盛思想にはそれはない。あとは感性で感じてください、で終わります。
理念的に問うていくと、どんどん漠然としていきます。
これは本体と、本体のアイデアを援用した思想とに共通してみられる違いです。
稲盛さんは、若い頃「成長の家」の文書を学び影響を受けたといいます。
その成長の家は、聖書の理論枠を上手く抜き出したものです。
本体ではないから、内容を問うていくとどんどん漠然としていくのです。
仏教の浄土教も同じです。
稲盛さんが聖書そのものを読まれたら、凄い開眼をなされると思います。