鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

我が子への対応と被造物への対応は別範疇

2017年07月27日 | 随想





ゲラを校正して、出版社に送りました。

「随想」を続けます。

+++

前回、創造神の創世前からの意志は、天国を創り御子をその王座に据えることにある~と述べました。

これを聞いて、拍子抜けした気持ちになられた読者は少なくないと思います。

あれ? 人間には救われる機会は前もって決められていないの?~と。

+++

パウロは「決められている」と言っています。

『エペソ書』の1章では、その企画は「全被造界の基の据えられる前から」存在していた、と言っていました。
もう一度示しましょう。

・・・・・・・・・・・・
「創造神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・

ではありますけど、創造神が我が子に対応するのと、被造物である人間に対応するのとはレベルというか範疇が別です。






<親子の心情は『創世記』で示唆されている>

創造神は御子に対しては、自分の一部(分身)として愛し、精神的に同一化しています。

このことを我々人間は、聖句を手がかりに推察することが出来ます。

「創世記」で創造神が人間を創る際の聖句はこうなっています。




・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創造神はおおせられた。『さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて』」
    (創世記、1章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・



この「われわれに似せて」は単なる外形デザインだけでなく、その人格的属性も含めて「似せて」である~と鹿嶋は解します。
だとすれば、われわれは自分たち人間の心理属性から、創造神の心理属性を「似たもの」として推察してよさそう~となります。

+++

そこで、人間の親の我が子に対する心理をみますと、人間の親は、なぜか自分の子と精神的に同一化しています。

子どもが病気になり苦しむと、自分も苦しくなり、何とか治そうとします。
他人の子どもにも心配はしますが、それほどにはなりません。

人間心理には「親がわが子を他人の子以上に愛する」という属性も含まれているのです。




そして、そのことから創造神の父子(親子)の間の心情を推察するとこうなるでしょう~。

創造神も、我が子である御子に同一化し、自分の一部として愛しているのです。

御子は創造神の一部であり、分身なのです。





だけど、被造物である人間に対してはそういう心理はありませんよ。

そのことも、人間の心理から類推しましょう。

人間とテレビの例に照らして言えば、テレビは人間にとって自分の子ではなく、「オレが造った」被造物です。

テレビを間違って傷つけても、自ら苦しむことはない。

せいぜい部品を取り替えようかと思う程度です。

+++

自分の子だったら、自ら苦しみ、お医者さんに連れて行こうとするのに・・・。

自分が造った被造物であるテレビに対してはそういう心理は湧かないのです。


創造神にとっての人間は、基本的にそういう位置づけです。

「人間を救う」としても、その基盤の上での行為です。


+++

だから、創造神と被造物である人間との関係と、創造神と御子と関係のことを同じ範疇の事件として扱うべきではない。

鹿嶋はそう考えて、敢えて前回には示しませんでした。




<主目的と副次目的>


くどいようですが大事なことですので、繰り返しを含めて述べますと~

前回に述べた企画は、創造神が自分と同等に愛する存在、御子に関するものでした。

御子がこの宇宙に「人の子」として遣わ され、悪魔のうちにある創造神への敵意の物証を挙げる。

そして天の王座に就く~という物語はそういう性格のものです。

父なる神にも御子にもこの技が主目的であった。

だから十字架上で息と引き取るときイエスは「完了した!」と言ったのです。

人間の救いに関しては、まだまだやることがあるのにそういったのです。

+++

御子は復活して現れた後にも、弟子に追加レッスンをします。

天に昇って王座に就いたら、聖霊を送ります。

そういうことがまだ残っているのに「完了した」と言ったのは、この仕事が御子の主目的であったからです。

人間への救いの仕事は言ってみれば、副次目的だったからなのです。





<肉体にはそれ自体の「死」がある>


この主目的の仕事の中では、人間の創造は、御子がこの世に来るための手段(道といってもいい)の創造という位置にあります。

人間は肉体をもつように創造神は創っています。

肉体にはそれ自体の死があります。

だから、他者(悪魔に動機づけられたユダヤ教高僧たち)が殺すことも可能だ。

殺されて悪魔の敵意の証拠を挙げるために、肉体を持つ存在としての人間が必要だった。

その「人の子」としてこの世に来ることが必要だった。


+++

マリアのおなかに入って「人の子」として生まれるのが必要だった。

それらは創造神が御子に対してあらかじめ意図した主目的の企てのために必要な手段だったのです。

だから人間を造るという企ては、創世の前から企画されていた手段なのです。






<テレビ受像機は人間に文句を言わない>


そして、被造物である人間が創造神に対する位置は、テレビが人間に対する位置と基本は同じです。

テレビを人間は好きなように用いて処分しますよね。

創造神も、人間を好きなように用いて処分できる立場に、基本的にはあるのです。

創造神の被造物に対する絶対優位性(dominance)~これは造る側と造られる側との間に定められた鉄則です。

+++

だってテレビが人間に「少しはオレにもいい思いさせてくれ」といわないでしょう。

人間は、用を足して疲弊したらリサイクルして「はい、サヨナラ」するでしょう。

それをごく当然のこととして人間はやっている。

なのに、自分の創り主である創造神に対して「オレにも一寸はいい思いをさせろ」なんて言える義理には、人間はないのです。

(パウロはそのことを旧約聖書を解読してよくわかっていたのです)






<どうして人間だけに!!>


『エペソ書』1章に戻ります。

だから、パウロは驚愕の思いで、のべています~。

・・・なのに、人間に対しては、御子の統治傘下に入ったら、御子と同じく自分の子とする。

子として、天国の所有権にもあずからせてくれる。

~そういう企てが、被造物創造の前から、創造神の意志にあった。

+++


パウロにはこれは驚くべきことだったのです。

あまたある被造物の中で「どうして人間だけに」そんな企画をあらかじめしてくださっていたのか。

その理由はわからん。どうしてもわからん。


人間に対するこのような意志は、もう一方的な「恵み」と受け取るしかない。

そう認識したパウロの胸には、もう感謝、感謝、大感謝があふれ出しました。

ジョイ(歓喜)があふれだした。



     


<これは「恵み」としか言い様がない!」>


そのことが『エペソ書』でパウロが披露した心情です。

そのことが、1章全体にわたって、表現されています。

とくに後半ではパウロは、「恵み」、「恵み」と繰り返しています。


+++

そしてこの創世前からの企画を、創造神は人間に聖霊を送ることでもって確信させてくださった。

人間に対しては、救いの道を備えていることを、確証させてくださった。

なんという「恵み」か・・・。 理解できないよ!

パウロはこのことを、驚愕と感謝と歓喜でもって受け入れているのです。


+++

でも、この奥義は聖書を読むものにも、特に日本人にはなかなか識別できにくい状態にあります。


その大きな原因が言葉にあります。

用語「恵み」にありますす。

この平凡な言葉では、パウロが洞察した福音のエッセンスがなかなかわかりにくいのです。


次回には、この問題を吟味してみましょう。


(我が子への対応と被造物への対応は別範疇・・・完)








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校正作業中です

2017年07月22日 | 随想

 

 

 

二十年ぶりに出す本のゲラが来ました。

いま校正しています。

このシリーズ記事もこれから重要なところに入るのですが、

読者の皆様、今しばらくお待ちください。

 

 

 

 

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=宇宙に人間を創り、御子をその姿で出現させる=

2017年07月17日 | 随想

 

 
 
さていよいよ宇宙の中での創造です。
 
ここからに話の内容は格段と豊富になりますが、まず、短く概略のみを述べます。
 
 
 
 
創造神は、次のことも創世前に決定しています~。
 
まず、地球上に、霊と肉体を持った人間を創る。
 
御子イエスをその人間の姿で地上に出現させる。
 
御子は天国の性質を持った空間を地上(宇宙)に作っていく。
 
悪魔は自分の世界(宇宙)に天国を増大させるのを許せず、創造神への敵意はイエスへの殺意になる。
 
悪魔は人間(ユダヤ教僧侶たち)に、イエスを殺そうという思いを与え、御子の肉体を十字架刑で殺させる。
 
 
 
 
だが、それは創造神に対して抱いていた敵意を現実での証拠として現すことにもなっている。
 
それまでは悪魔は容疑者だったが、これで証拠が挙がってしまう。
 
これで悪魔に有罪の裁きが決まり、あとは、刑の執行を待つのみとなる。
 
こうして御子は懸案の悪魔(敵対天使)の問題を解決し、現場訓練(オンザジョブトレーニング)のすべてを終える
 
(イエスが十字架上で「完了した!(It is finished)」というのはそのためである)
 
 
 
 
創造神は御子を復活させ、御子が「罪なき存在」であると、証明する。
 
御子は天国に昇って、王座に就く。
 
~以上の展開もまた、創世前に創造神は決定している、との啓示をパウロは受けていたとみられます。
 
今回は短いのですが、これで。
 
=宇宙に人間を創り、御子をその姿で出現させる=・・・完)





 
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=天使に自由意志を持たせたがために=

2017年07月15日 | 随想

 

 
 
 前回のストーリーは、大半の日本の方々とっては「目がクラクラするような」話だったのではないでしょうか。
 
鹿嶋のよき相談役読者、こずえ姐さんもフェースブックで「 悪いので悪いのを抑えるという感じですね、あはは・・」とコメントされてました。

+++

でも、そもそもなんでこんなことまで前もって設計しなければならないのでしょうね。

御子のためなら、天に王国空間を作り、神の名を置き、王座を置けばそれで完了ではないの?



<自由意志を持った人民が要る>

いやいや、そう簡単ではないんですよね。

王様一人では天国という「国」は成立しませんからね。

人民がいる。 それが天使なのです。

(あ、天使と言えばエンジェルで、丸々太って背中に羽がついた赤ん坊だ、なんて考えないでね。
あれはローマ神話のキューピッドをもってきてしまったものです。
森永のミルクキャラメルがその誤解を普及させてしまった。「森永のエンゼルマーク」とかいっちゃってね。
聖書の天使は、「火にもなり、風にも変身できる、強力な霊的存在~「ヘブル書」~です。
もちろん背中に羽根などない。霊ですからそのまま空中を移動できるのです。
普段の姿は、人間のような姿と考えていいでしょう)

 
そして、天使をロボットのようなものとして創ったら、統治(統御)が砂を噛むような仕事になる。

そこで、自由意志を持たせようと、父は決めたのです。




<被造物が自由意志を持てば>

そして、被造物が自由意志を持てば、それをもちいて王に従いもしますが、無視、反抗もしうるでしょう。

だって、自由意志をもらったのですから。

御子は、それを統御する知恵を持たねば、王としての統治を楽しむことなど出来ないのです。


そのため、父なる創造神は、王座に就く前に行うオンザジョブトレイニングをあらかじめ決めておくのです。

前回は、そのトレーニング装置の一部をあらかじめ設計しておく話なのです。



<天国はすべて厳密な法に沿って統治>

まだ述べてはいませんが、天国という霊界では全面的に法でもって統治がなされます。

その多くはバイブルに示されますが、天国にはジャスティス(正義)があり法廷もあり、

実際に裁判がなされ、すべての構成員はそれにしたがって行動します。

人間も、悪魔もそこに提訴できます。

そしてその裁定は、地上(宇宙)でも優越します。

聖書をよく見ていくと、そうなっているという奥義思想がわかってきます。



<パウロ「エペソ書」の啓示を踏まえていくと>

ともあれ、自由意志を持った被造物である御使い(天使)を正しく統御できるように、

創造神は御子の訓練装置をあらかじめ決めるのです。

パウロの受けた啓示を踏まえると、そういう道理になるのですね。

次回も、さらなる装置の話が続きます。

宇宙の中に、地上も人間も造ると父なる創造神はあらかじめ決定します。


(=天使に自由意志を持たせたがために= ・・・完)   





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=天使と宇宙の出現も事前に決まっていた?=

2017年07月14日 | 随想

 

前回の続きです。
 
「エペソ書」1章の聖句をもう一度掲示しましょう。
 
・・・・・・・・・・・・
「創造神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・・
 
これが、パウロが受けた啓示によるもので、その啓示が正しいならば、どうなるか。
 
それに繋がる事柄もまた、創世前に決められていたはずだ~となるでしょう。
 
+++
 
前回は、その観点から次のことも決まっていたと述べました~
 
すなわち、創造神が愛する御子が王として統治する被造空間・天国(天の創造神王国)をつくること、
 
そこに自らの名を置くこと、とその右に御子のための王座を置くこと
 
~これらも前もって決まっていたことになろう、と。
 
 
 
<天国空間に無数の天使を>
 
今回はその他に決まっていたであろうことを、追加します。
 
その一つが天国空間の中に、無数の天使を創ることです。
天使は御子に仕えるための霊的存在で、同時に、神の名を誉め讃えるという職務も与えられます。
 
 
 
<私も神のように賛美されたい・・・>
 
そして、その天使の中から、創造神に対抗して自分も賛美されるようになりたい、として
職務に反する行動をとるものが出る。
 
~これもあらかじめ決まっております。
 
 
 
 
<天使の自由意志の中で>
 
ただし、具体的にどの天使が敵対するかは決まっていない。
 
天使には後に造られる人間と同じく、自由意志が与えられていることと、それは繋がっています。
 
その自由意志を用いて誰かが敵対することは、決まっていくということですね。
 
そうなってしまう天使は気の毒なような気もしますが、それは自由意志を用いた行動の結果です。
 
 
 
 
<暗やみの空間も事前に>
 
さらに、敵対することになる天使と追従者を、戦いの天使ミカエルが
傘下の天使と共に暗やみに落とし込むことも決まっています。
 
追い落とすことが決まっているならば、暗やみの空間もそのために前もって創られることも、
~あらかじめ決まっているはずです。
 
ちなみに、この暗やみ空間が、今で言う「宇宙」ということになります。
 
宇宙は言ってみれば、敵対天使たち閉じ込める収監するための牢屋なのです。
そして敵対天使の長はそこの牢名主となって、他の追従天使たちに君臨します。
 
聖書では後に、この空間を「世(world)」とも表現します。
我々が今住むこの「世」という意味です。
 
それが、悪魔を「世の君(君主)」という、イエスの言葉と繋がっています。
 
 
 
 
 
ともあれ、宇宙がそういう空間となること、これも、創世前から決まっています。
 
以上のことから、我々は一つの空間のイメージ図を描くことが出来ます。
 
それが鹿嶋がこれまで何度も示してきた「聖書の空間理念」の図でした。
 
これが絶対に正しいというのでなく、こういうものをイメージすると、
バイブルが示していく歴史展開を理解するのに助けになりますよ、ということでした。
 
+++
 
今回はそれにもう一つの意味が加わったことになりますね。
 
つまり、こういう空間構成も「あらかじめ決められていた」もの、というのがそれです。
創造神が歴史展開の舞台として、被造物を創る前から決めていた、というのがその意味です。
  
「エペソ書」に含意されているパウロの受けた啓示、~これからすると「事前に決まっていた」らしいことは、さらにありそうです。
 
この話は続けましょう。
 
 
=天使と宇宙の出現も事前に決まっていた?=・・・完)




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=「歴史展開」大枠理解に必須な第一歩=

2017年07月13日 | 随想

 

 
歴史展開の大枠が事前に決定されているならば、どういうものになるだろうか、鹿嶋の解読を述べましょう。
 
途中で「異端!」なんて叫ばないでくださいね。
 
鹿嶋は自由吟味主義者です。
「個人の聖句解釈自由の原則」に立って、思うままをのびのびと考えるのを楽しむ主義ですので、楽しませてください。
 
その際、鹿嶋は量子物理学(力学)の概念を援用します。
 (その概略は前の記事に述べています)
 
最新の物理理論として出現してくれた量子論は、まさに「聖句と物理事象をつなぐブリッジ」なのです。
 
 
 
 
<TVを創る側>
 
さてまず、「歴史展開を」決定をする主体を確認しましょう。
それは創造神、創る側です。
このことをきちんと確認するのが第一歩です。
 
そのために、我々被造物の世界での、TVシステムについて、あらかじめ考えておきましょう。
 
+++
 
TVを作る場合、人間はまずそのコンセプトを想い描きます。
 
家にいながら音付の動画が見られる箱のようなものがあるといいなあ、とまずイメージする。
 
そしてつれづれなるがままに、それを具体的に設計図にブレイクダウンして描いていきます。
 
次いで、それに沿って、部品を作り、組み立てて、テレビ受像機を出現させます。
 
(テレビ局側の設備は、話を簡明にするために、もう出来ているとしましょう)
 
+++
 
この時、人間は「創る側」です。 TVセットは「創られる側」です。
 
人間は、自分の意志のままに、設計し、部品を造り、組み立てます。
 
そのとき部品さんもなされるがままです。
 
「あんた、ここんところを、もうちょっとこんな風にできない?」なんていいません。
 
創る側の人間に対しては、被造物はそういうことは言わないし、言えない。
 
創る側にすべてを決める権威があるのです。
 
 
 
 
 
 
<創造神と被造物に於いても>
 
創造神と被造物の関係も同じです。
 
創造神の側がすべてを決めるのです。
 
歴史展開を事前に決めるのも、創造神が100%行うのです。
 
+++
 
その際、創造神はどのように決定し造るか?
 
聖書のなかの言葉は、それを知る手がかりを我々に提供してくれています。
  
そしてその重要な手がかりは、「創造神はどんな方か」のイメージです。
 
 
 
<「いのち」(量子)波動の源>
 
聖書の全体がまず醸し出すのは「創造神はいのちという量子波動を常時全空間に放射している」というイメージです。
 
創造神は「いのち」という量子波動の源なのです。
 
いのち波動は建設志向の波動です。
(後に「死の波動~破壊志向の波動~」が出てくると、その意味がハッキリします)
 
創造神は「いのち波動」に満ちた源であって、全身喜びに満ち、幸せに満ち、自己への愛と他者への愛にも満ちています。
 
自らは、すべてが満ち足りた方です。
 
だから、自分自身に対して新たになすべきことは一つもありません。
 
 
 
<最愛の存在は御子>
 
その創造神が最も愛する他者は、ひとり子である御子イエスです。
 
創造神は、後に創造する被造物・人間も愛していきますが、その愛は、御子への愛に勝ることはありません。
 
(後に創造神と御子は「我々に似せて人を創ろう」としますが、それには「自分たちの愛情関係に似せて」というのも含まれています。だから人間は「わが子を最も愛すようにできている」というのが、聖書の論理です)
 
それは、次の聖句にも現れています~
 
・・・・・・・・・・・・・・
「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
(マタイによる福音書、3章17節)
・・・・・・・・・・・・・・
 
 
これは、イエスがバプテスマを受けたとき、天から下った声の記録です。
もう一つあげましょう。
 
・・・・・・・・・・・・
「これはわたしの愛する子。(モーセ、エリアでなく)彼の言葉に従え・・・」
(マルコによる福音書、9章7節)
・・・・・・・・・・・・
 
これはイエスが高い山に、三人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをつれて登ったときに、天から下った声の記録です。
 
このときイエスの衣は純白に変容し、そこに預言者として死んだモーセとエリアが現れました。これをみたペテロが、「この山のここに(記念に)幕屋を三つ創りましょう」といった。
上記聖句はそのとき天から下った声の記録です。
 
ここでペテロは、三人を不思議が現れた存在として同等に拝するようにしようとした。
これにたいして、天からの声は、「イエスの優越」を伝えているのです。
 
+++
 
だから、創造神が被造界を創造するのは、なによりも最も愛する御子のためなのです。
 
天国という被造空間を創るのも、何よりもまず、御子のためです。
 
御子がそこに住み、王として統治する空間(被造空間)を造るためです。
 
それが天国(天の創造神王国)です。
 
天国は被造空間であり、その大きさは有限です。
 
これは一つの巨大な球体をイメージしたらいいでしょう。
 
 
 
 
 
<御子の王座を創る>
 
創造神は次にその天国の一角に、自分の名を置きます。
 
そしてその右(最も大切な場所、の意味)に、将来御子が王として座す王座を造ります。
 
+++
 
・・・事前に決めて造られていく被造物は、まだまだありますが、今回はこれくらいにしておきましょう。
 
新しい考えを導入するときには、一度に沢山示すと、身につきがたくなりますから。
 
 
 
 
 
<創造神の身になって聖句を見る>
 
ただし今回は、次のことを把握しておきましょう。
 
聖書の世界イメージを適切に得るには、「創る側である創造神の立場に立ちきって」すべてを認識しなければならないこと~これです。
 
これは「あ、そうですか」で済ますべきことではありませんよ。
 
「創る側の立場に全面的に立つ」というのは、創造神に同一化してこの方を追体験理解することです。
 
被造物である我々には、これが想像以上に難しいのです。
 
+++
 
一つには我々は、生まれてこの方、神様とイメージするもの(在物神)に、仰ぎ見る意識でもって対してきているからです。
 
これが聖書の記述を追う場合にも、なかなか抜けきらない。
 
+++
 
だがこれは、在物神に対するときの姿勢であり、感覚です。
 
聖書の神は、万物を創造した創造神です。
 
「下から仰ぎみる在物神感覚」が混入してきたら、聖句認識は出発点からゆがんでしまいます。
 
創造神の立場に100%立ってものごとをイメージするのは、聖書の論理を正しく理解する必須条件です。
 
それは鹿嶋にももちろん、簡単に保てる姿勢ではありません。
 
テレビセットを持ち出したのは、鹿嶋自身が、創る側の立場にたつ練習を繰り返すためでもありました。
 
この話は続けましょう。
 
 
=「歴史展開」大枠理解に必須な第一歩= ・・・完)
 
 
 
 
 
 
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=歴史展開の「その都度論」と「事前決定論」=

2017年07月06日 | 随想

 

 

歴史展開に関する思想は、大別すると二つになるように見えます。
 
まず、通常のタイプです。
 
それはたとえば牧師さんのこんな礼拝メッセージに現れています。
 
日本のクリスチャンの方々には、教会でこんな説教を聞いた人は多いんじゃないかな~。
 
 
 
<人間が罪を犯してしまったので御子を送った>
 
エデンの園で、エバとアダムが悪魔(へび)に誘惑され、罪を犯してしまった。
 
ふたりはそのままでは地獄に行かざるを得ない。
 
創造神はそれを哀れに思い、御子イエスを地上に送った。
 
「それでは自分の子を地球に行かせて、代わりに死なせて罪の代償手段を創ろう」と。
 
だが、御子はその時ひどい拷問を受けました。
 
罵倒され、むち打たれ、肉は裂け、槍で脇腹を突き刺され、大量の血が流れました。
 
父なる神様はどんなに悲しかったことでしょう・・・。
 
(ここで「ううっ」とむせび泣きの声が入ることもあり)
 
そこに人間への神の深い愛があります・・・と。
 
+++
 
ある意味、これは感動的ですが、ここでは神様は、地上で人間がやらかす行為をみて、考えて対応しています。
 
これですと、次の状況では創造神はまた考えて対応されることになるでしょう。
 
これが通常の歴史展開思想で、「その都度論」と名付けることも出来そうなものです。
 
 
 
 
 
 
<パウロ神学は「事前決定論」>
 
他方「エペソ書」に現れているパウロ神学は、大筋・大枠はすべて創世の前から決まっていた、という、いわば「事前決定論」の歴史思想です。
 
~アダムとイブが罪を犯すのも、御子イエスがその罪の代償を創るべく十字架上で殺されるのも、創世前から決まっていた。
 
復活して、弟子たちに宣教命令を与え、天の御国に昇るのも、昇って父なる創造神の右の座につくのも、あらかじめ決まっていた。
 
被造物を出現させる前から、決まっていた。
 
そういう歴史思想です。
 
 
 
<「その都度論」の神は在物神に似てくる>
 
そんなことどうでもいいじゃない? という声も聞かれそうですが、そうではないですよ。
 
どちらも創造神は全能者と認識していますが、前者の全体世界観では、神様は事態をその都度評価し、行動しています。
 
すると、次にどう行動されるかは人間には基本的にわかりません。
 
御子を犠牲にしてくださるほどの愛のある方であるとは思いますが、その次の状況ではどう出てこられるかわからない。
 
こうなると、神様は怖い方ともなるわけです。
 
人間の心は平安にはなりません。
 
+++
 
またそういう神様には、何かを求めるときにも、人はただ天上を見上げて乞い願うのみです。
 
どう対応してくださるかわからないという気持ちで願い求めているからです。
 
よくみると、これは在物神に対する場合と似ていることがわかります。
 
(在物神:物の中に染み込んでいるとイメージされる神。日本にはこの神イメージが多い)
 
 
 
 
<「事前決定論」は平安をもたらす>
 
他方、後者では歴史展開の大筋はみな決まっています。
 
そして人は、聖書を通して創造神の行動原理を知ることができます。
 
 
その状況ではどう生きるべきかもわかってきます。
 
創造神は被造物より絶対的に上位な方です。
 
被造物はその上位者の御旨と原理に沿って生きればいいことになるわけです。
 
すると心も平安になります。
 
また何かを求めるにしても、その法則に沿って願えばなるはず、となります。
 
当初ならなくても、聖書にその原因を探究する。
 
そして、障害要因を取り除きつつ繰り返し求めていけばいい。
さすれば徐々に応えられていくだろう、ということになります。
 
かくして祈りにも信頼と忍耐が加えられるでしょう。
 
+++
 
この思考の先には、何か大きな鉱脈が埋まっている予感もします。
 
この話題はもう少し続けましょう。
 
  
 
(=エペソ書の全体世界像=  続きます)
 
 
 
=歴史展開の「その都度論」と「事前決定論」=・・・完)

 

 

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=歴史展開は予想外に多く決められている?=

2017年07月05日 | 随想

 

 
 
・・・・・・・・・・・・
「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・
 
この聖句の話を続けます。
 
この文章は「イエスを主とする統治権に入って救われる人は、創世前からあらかじめ選ばれている」という第一の解釈を生みます。
 
けれどもそれでは、イエスが「地の果てまでのベ伝えよ」と命じた福音伝道が意味をなさなくなってしまう。
パウロがそんなことを言うはずがない。
 
そこで、この「私たち」は人類全体であると解する。
すると、筋の通った第二の解釈がなる。
 
~そういう解読を前回までにしてきました。
 
 
 
<カルバンの予定説>
 
ところが、宗教改革の立役者カルバン(John Calvin:1509-64) が、第一の解釈をとったことから、事態はややこしくなりました。
 
カルバン はスイスのジュネーブ教会に本拠を置いて改革運動を強烈に指導した人物です。
その働きが知れ渡った有名人であり、信用もありました。
 
その彼の解釈となれば、世間もそれは無視できなくなるのですね。
神学者をはじめ多くの人々が、その論拠を勉強した。
 
その結果、彼の解釈は「予定説」という名までついて後世まで尊重されることになりました。
 
「イエスを信じて救われるものは、あらかじめ予定されている」との彼の説には,
Calvinismという英語の名ができているくらいです。
 
 
 
<アルミニウスの全救済説>
 
カルバンの死後何十年か後に、オランダ改革派の神学者、アルミニウス(Jacob Arminius,1560-1609)というのがカルビニズムに異を唱えました。
 
「キリストの死はすべての人のためのもので、あらけじめ選ばれた人たちだけのものではない」と彼は主張した。
鹿嶋が前述したところの第二の解釈です。
 
大スター・カルバンを向こうに回すなんて、度胸がいったでしょうね。
当時は、「異端!」と烙印されると、人が簡単に処刑される時代でしたしね。
 
だが言ってしまえば、相応の栄冠が世では与えられます。
彼の説にはArminianismとの名がつけられました。
 
カルバンの予定説に対して日本語で名付けると、「全人救済可能説」略して「全救済説」ということになりますかね。
 
ともあれ、予定説と全救済説は相並んで併存する、という事態が出来上がりました。
 
その状態で今日まで来ています。
 
 
 
<パウロの広大な視野>
 
だけどこの事態には、鹿嶋は不満があります。
それは人々の目を論争に釘付けしてしまいがちだ。
そしてパウロの上記聖句が含む重要な視野を看過させてしまうのです。
 
パウロの重要な視野とは、「聖書の歴史物語の大半は、被造物が造られる前から、(創造神の意志で)定められている」という視野です。
 
+++
 
それはたとえばこう考えたらわかってきます。
 
つまり~「人間がイエスの主権統治下に入れば救済されることがあらかじめ決められているならば、そのことに繋がっている事柄もすべてあらかじめ決まっているのが道理」ではないか、と。
 
+++
 
いま鹿嶋が思いつくままを述べてみますね。
 
たとえば人間がイエスによって「救い」を受けるには、その前段階として罪を犯して罪人になっていなければならないでしょう。
 
そして、そのためには人に罪を犯させる悪魔も存在せねばならないでしょう。
 
その悪魔が存在するためには、創造神に対抗して悪魔に変身する天使もいなければならないでしょう。
 
天使がいるためには、それが創られる場である天の御国(天国)もなければならないでしょう。
 
結構沢山のことが、被造物が全く創られていない段階で、もう決まっていたのが道理となりませんか?
 
 
 
 
 
<自由意志との関係は?>
 
鹿嶋は間違っているのかなぁ・・・。
 
でも、間違ってないとすると、鹿嶋が前述した「人間や天使には自由意志を与えている」という鉄則はどうなるのかという疑問も生じますね。
 
これは~自由意志による選択の、その「結果のルールは定められている」と解したらいいでしょう。
 
+++ 
 
たとえば「御子イエスの言葉をアクセプトすると救いが得られ」「しなければ滅びにいたる」というルールは、創世前からあらかじめ定められていた、と。
 
律法の例でいえば「理法を守れば福(祝福の福)が与えられ、守らなければ呪いが与えられる」というのもルールとして決まっていた、と。
 
イエスの言葉をアクセプトするかどうか、律法を守るかどうか、は人間の自由意志に委ねられている。
 
だけどその自由選択の結果は、ルール通りに処理されますよ~というわけです。
 
+++
 
こんなこと、クリスチャンのほとんどは具体的に考えたことないのでは、と思います。
 
このあたりは、漠然としてやってきている。
 
でも言われてみると、なんか意外な感じがするなあ~というところでしょう。
 
だけど、これはとても大事な問題を含めているように、鹿嶋には思えてなりません。
 
次回にも、もう少し考えましょう。
 
 
(=エペソ書の全体世界像=  続きます)
 
 
=歴史展開は予想外に多く決められている?= ・・・完)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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=天使と人間には自由意志を与えている=

2017年07月03日 | 随想

 

 

 
・・・・・・・・・・・・
「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
・・・・・・・・・・・
 
前回までに、この聖句には二つの解釈が出うることを示しました。
 
+++
 
一つは、この「私たち」を「エペソの教会員(信徒)とパウロたち、およびイエス(の言葉)をアクセプトした他の人たち」とする解釈です。
 
これですと「救いを受ける人間は、被造物を造る前から、すでに選ばれている」となります。
 
+++
 
もう一つは、これを「人類」とする解釈です。
 
すると上記聖句は「イエス主権の統治下に(in Him)『入れば』救われうる存在だと、(天使などと違って)人間はあらかじめ『選ばれていた』」~となります。
 
 
 
<聖句吟味の方法>
 
聖書を読んでいると、複数の解読が出来ることがよくあります。
 
そういうときにはどうするか。
 
一つには、他の聖句との整合性を吟味します。
 
もう一つは、それらを総合して貫徹する鉄則(これも全体像の一つです)と照らし合わせることです。
 
 
 
<自由意志を持たせる>
 
ここでは後者が効いてきます。
 
決定的な鉄則があるのです。
 
創造神は天使と人間を「自由意志を持つようにして」創造している、というのがそれです。
 
それをそのまま直裁的に述べた聖句はありません。
だが、聖書全体にその鉄則が貫徹しているのです。
 
また、これにはもう一つの鉄則も付随しています。
 
創造神は、一旦「自由意志を持つように」創った以上、そこには絶対に手を突っ込まないのです。
 
それもそのままの言葉で述べた聖句はありません。
 
だけど聖書には、創造神が天使や人間の思いに手を突っ込んで動かした、という記述は皆無です。
 
 
 
<創造神の「全能」の意味>
 
聖書では、全能者でも自ら決めたことに反することは出来ない。
 
一般に創造神は全知全能といいますが、聖書では全能者といえども、出来ないこともあるのです。
 
他にもありますよ。たとえば、創造神は「偽ること、ウソをつくこと」は出来ません。
 
また「あなたの罪を忘れる」といったら、もう思い出さない、思い出せない。
 
全能者はみずから「思い出せなくする力」もあるのです。
 
それが創造神の「全能」です。
 
+++
 
御子イエスの言葉を「アクセプトする、しない」もその一つです。
 
それは人間に与えた自由意志でもって人間がなすことで、創造神はその領域には手を出せません。
 
 
 
 <ルールは定めている>
 
この鉄則を援用すると、パウロの上記聖句ではこういうことになります。
 
つまり、創造神はルールはあらかじめ定めているはずだと。
 
「アクセプトすれば創造神の子とする(いわゆる救いを与える)」
 
「アクセプトしなければ救いには入れられない」
 
具体的には~
 
アクセプトしなければ、悪魔の領域に留まって、最後には悪魔と共に「火の池」に入れられる(これを滅びとも言います)。
 
~そういうルールは創世前から定まっている~と。
 
(それを人間に伝えるのが「福音伝道」ということになります)
 
 
+++
 
こうなるとあらためて、「イエス主権の統治下に入る人も、前もって選ばれて決まっているのなら」
 
人間がロボットのようになってしまうことがわかってきます。
 
二割方以下の解釈の方が、実は、正解だったのです。
 
+++
 
パウロは、そういう全体世界像の啓示を受けていた~と鹿嶋は解します。
 
これだって強烈な世界観ですよ。
 
(=「エペソ書」の全体世界像= ・・・続きます)
 
  
(完)
 
 
 
 
 
 
 
 
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=「選ばれているのは人類」との解読=

2017年07月02日 | 随想

 

 
さて今回は残り二割方の鹿嶋解釈です。
 
それは聖句の「私たち」を人間たち、すなわち「人類]と解するものです。
 
聖句をもう一度あげましょうね。
 
・・・・・・・・・・・・
 「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、
御前で聖く傷のないものにしようとされました」(エペソ人への手紙:1章4節)
 ・・・・・・・・・・・
 
この私たちを「人類」と解する案です。
  
すると聖句は「被造物創造の前から、人類を御子イエスの統治下に入れば救いを受ける(聖く傷のないものにされる)と、あらかじめ選び定めて創造された」となります。
 
またそうなれば次に続く聖句(節)も、それ流に解されていきます。
 
・・・・・・・・・・・・・
「創造神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておらえたのです」((エペソ人への手紙:1章5節)
・・・・・・・・・・・・・
 
 
人類については、御子イエスの統治下に入ったら自分の子にしようと、全被造物を創造する前から、創造神はあらかじめ定めていた~というわけです。
 
 
 
  
<天使を含めた広大な視野>
 
「選ぶ」というですから、他のものもパウロのイメージにあるはずですよね。
 
それは天使だと鹿嶋は解します。
 
パウロ先生は元々広大な視野で世界を見ている人です。
 
例えば、「ヘブル人への手紙」を見てみましょう。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・
「御使い(天使)はみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために遣わされたのではありませんか」(1章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 
ここで「救いの相続者」というのは、イエス主権の統治下に入って、救いを受けた人々です。
 
天使は「救われた人間」に仕える存在・・・というのがパウロの受けた啓示です。
 
天使は創造神の子になるように選ばれてはいないのですね。
 
 
 
<現代版はルーク唐沢?>
 
「相続」というのは実際には「受ける」ということですが、ここでも「相続者」なんて凝った表現してますね。
 
まあ、パウロ先生はギリシャに生まれ、そこで高度な教育を受けて育った教養あるユダヤ人ですからね。
 
(今で言えば、Dr.ルーク唐沢といったところか・・・)
 
ともあれ天使は創造神の子になれるようには造られていない、というのが聖書の論理です。
 
パウロはそれを頭の一方に起きながら、上記の聖句を書いている・・・これが二割方の解読です。
 
 
(=「エペソ書」の全体世界像= ・・・続きます)
 
 
(=「選ばれているのは人類」との解読=・・・・ 完)
 
 
 
 
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=主権ゾーンの中で=

2017年07月01日 | 随想
 
 
前回、エペソの信徒に向けたパウロの手紙の言葉~
 
「創造神は私たちを世界の基の置かれる間からキリストのうちに選び、御前で聖く傷のないものにしようとされました」(1章4節)
~を考えました。
 
これを言葉通りにとると、「誰が御子イエスを信じる(信じて救われる)のは、被造界が造られる前からもう決まっている」~という解釈になる。
 
だが、それではイエスが弟子たちに命じた福音伝道という働きが、意味をなさなくなってしまう。
 
パウロはここでは、「・・・とも言えるくらい」という言い回しをしているんだろう~と述べました。
 
 
 
<二割方を追うために>
 
けれどもそのとき同時に鹿嶋は「言葉をストレートに追うと、八割方そういう解釈になるだろう」ともいいました。
 
今回はその残りの「二割方の解釈」について考えたいのですが、そのために前もってすべきことがあります。
 
それは「キリスト(御子イエス)のうちに」という語句を吟味することです。
 
 
 
<「イン ヒム」とは>
 
「御子イエスのうちに」という語句は、鹿嶋が見てきた英訳聖書ではほとんどみな "in Him"となっています。
 
このHimは、無論イエスです。
 
では「イン ヒム」とはどういうことか。
 
結論から言うと「イエスが主権を持って行う統治が貫徹するゾーンの中に於いて」という意味です。
 
 
 
<in the name of Jesus も>
 
新約聖書に頻繁に出てくるin the name of Jesus もそうですよ。
 
教会の礼拝でも、祈りをするときに毎週出てきますよね。
 
これは「イエスの主権(統治)領域にはイエスの名が掲げられている」ことを踏まえています。
 
その上に立って「その名のあるゾーンの中で」といっているのです。
 
+++
 
ちなみに天国(天の創造神王国)は、全空間がこのイエスの名を掲げた空間です。
 
だがこの世(宇宙)は違います。
 
ここは基本的に悪魔の支配が一時的に認められている空間です。
 
それが聖書の基本思想でして、だからイエスは悪魔を「世の君(君主)」といっています。
 
人間はその空間の中に造られ、暮らしているという風景です。
 
 
 
 
 
 
<天の御国が近づいた!>
 
そして定められた時、新約聖書の時代に、御子イエスが「人の子」として現れます。
 
そこに自らの空間(天国の性質を持った)を造っていく~、というのが聖書の構図です。
 
 
 
 
<御言葉を覆って臨在>
 
天の御国の性質を持った空間とは、イエス(創造神)の言葉がある空間です。
 
それはイエスの言葉をアクセプトした人々の意識(霊)の中にあります。
 
するとその言葉が心に留まった彼らを覆うようにして、御国の空間が臨在するのです。
 
 
<比較的適切な日本語なら>
 
イエスは行く先々で父なる創造神の言葉を伝えて、御国空間を点在させていきます。
 
「その空間ゾーンに入って、その中で」というのが「イエスの名において」の意味です。
 
日本ではその意味がなかなかとれないので、「イエスの名によって」とか「イエスの名を通して」とかいっています。
 
だけど、ちょっとずれてるんですね。
 
日本語はこういう思想を表現するようにつくられていないので難しいのですが、「イエスの主権ゾーンの中で」という方が適切でしょうね。
 
 
(=「エペソ書」の全体世界像= ・・・続きます)
 
(完)
 
 
 
 
 
 
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