鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

KINGDOMの規模と豊かさ

2005年02月06日 | KINGDOM原理からの聖書解読
 聖書は、天の創主のKINGDOMにおけるロイヤルファミリー(王室家族)になるためのノウハウを記した本 、と前述しました。

 今回は、その王国のすさまじい豊かさ、豪華さを聖書に見ておきましょう。
「黙示録」の22章に、天の王国におけるエルサレムの有様が記されています。天使がそれをヨハネに見せた、ということになっています。

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 それによりますと、天のエルサレムは、立方体になっています。縦、横、高さの長さがみな同じ。

 で、その一辺の長さも記されています。それがほぼ、日本列島の北の端から南の端、沖縄までの距離です。この長さの立方体が、天のエルサレムの大きさです。

 まあ、縦、横も大変なものですが、その高さがすごいですね。日本列島の端から端までの長さを上方に立てた状態です。

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 我々の住む地上の、イスラエルにあるエルサレムと同じく、天の王国のエルサレムも城郭都市です。高さが日本列島の長さと同じ城壁で、四面が囲まれています。その 城壁が、みな碧玉(Jasper:濃緑色の宝石) で出来ている、といいます。

 城壁の土台は、様々な宝石で飾られています。碧玉、サファイヤ、めのう、緑玉、縞(しま)めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉石、ひすい、青玉、紫水晶がそれという。
 
 まだあります。四面の城壁には、各々、三つの門があります。ぜんぶで12の門。それらがまた、各々一個の真珠で造られている、という。すさまじい巨大さ。真ん中を馬蹄形にくりぬいているんでしょうか。あるいはそういう形をした巨大な真珠なんでしょうか。

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 極めつけは、城郭都市の内部です。すきとおったガラスのような純金で出来ております。大通りもそれで造られている、という。絢爛豪華、目がくらみそう。

 いま、地上では、猫の目ほどの宝石を、猫目石(ねこめいし)とかいって珍重していますよね。これは何億円とか何十億円とかいってもう大変・・・。だけど、天の都の大通りは、みな透き通った純金ですよ。長さも少なくとも青森から福岡までくらいはあるでしょう。そこでは 猫目石など、道ばたの砂利 です。住民は蹴っ飛ばして歩いております。

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 豪華さもさることながら、天の王国は、規模においても凄いですね。地上のエルサレムは、城壁の一辺の端から端まで、観光客が散歩できる距離です。これが王国では、日本列島の長さとなる。これから推して、天の王国は、この地上世界の何倍になるか。想像してみて下さい。

 城壁の高さも日本列島の長さというんですから、もうそびえ立っているなんてもんじゃない。上方は雲のそのまた上の上。雲があればの話ですけどね。霞んで見えないなんてもんじゃないですよね。

 それだけじゃないですよ。エルサレムがあればパリだってニューヨークだってロスアンゼルスだって、さらには東京だってあるんじゃないかな。天の東京にもお寿司屋さんだってたくさんあるかも知れない。上トロ、中トロなんでもあり。この地上は創主王国の模型という思想が聖書にはありますからね。エルサレムだけではないでしょう。

 それらが全部ある超・超巨大空間が天の王国です。その国を完全統治しているのが、創造主です。

 またそこでは 死も、別れもありません 。心が傷つくことも、ハートブレーキングも鬱もない。愛と希望と喜びに満ちています。

 その王国で、王の家族、天国のロイヤルファミリーになるノウハウを聖書は示している、ということになります。創主の子、イエスを信じるものは、創主の子になれる、というのですから。創主の子というのは、一般国民、市民でなく、家族なのですから。

 聖書を読むときは、こういうKINGDOMとその原理を知ることに、焦点を置くべし。イエスは、それを知らせに来たのです。

 この世の人間の弱さとか、みにくさとかいうのに関する学びは、まあ、それもいいでしょうけど、聖書学習の最終的なゴールではありません。
 
  焦点をKINGDOMに当てます。聖書学習が真のスケール感と喜びに直結するのも、この時 です。人生も、これを眺めながら送れたらいいですね。

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地で拘束するものは天でも

2005年01月12日 | KINGDOM原理からの聖書解読
聖書には「天の王国にはこの地上と対応する場所がある」という奥義があるのではないか、の続きです。もう一つ、聖句をあげて考えておきます。ここは、とても大事なところに思うからです。

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 マタイ伝の16章に、イエスの次のような言葉があります。弟子のペテロに語ったものです。

 「私はあなたに天の王国の鍵を与えます。あなたが地上で拘束するものは、天でも拘束されます。そして、あなたが地上で解放するものは、天でも解放されます」(マタイ伝、16章19節)

 意味のわかりにくい聖句ですね。これなど、「天の王国に地上に対応する場所がある」と考えたときのみ、かろうじて事態が明確にイメージできるようになるのではないでしょうか。

 「拘束(bind)する、解放(loose)する」というのは具体的に何を拘束し、何を解放するのか、難しいですね。これがはっきりわかったら誠に有り難いです。しかし、それが漠然としたままでも意味が解せそうです。

 (当面、春平太の意識に来るのは、「闇の権(悪魔、悪霊の力)を縛る、拘束して働けないようにする」と「その闇の権から人を解いて解放する」です。しかし、ここは急がないようにいたします)

 そこはとにかく、「何かを拘束する、解放する」にしておきます。でもそこに地上のことと天の一部とは対応している、という思想があるならば、一つの解読を考えていくことが出来ます。

 つまり、イエスはこういっていると解するわけですーーー「ペテロよ、あなたが地上で何かを拘束すれば、その行為は天の王国でも実現されるように、あなたが望めばそうなるようにしましょう。何かを解放すれば、あなたが望めば天の王国でもその行為が実現しているようにしましょう」と。

<天の王国でもそれを実現させる鍵> 

 これは特別なことでしょうか。そうだと思われます。天の王国で実現するのは、創主の「御心にかなったものだけ」です。前回示しました「主の祈り」の、「御心が天になるごとく・・・」はそのことを示しています。

 創主の御心にかなっていないことは、地で行っても天では同じことが実現されることはないわけです。そして、地だけで実現しているものは、みな、消滅していく。お釈迦様の説かれる諸行無常の法則に従っていくわけですね。

 だから、地上で実現することがすべて、天の王国でも対応して実現することはありません。この世での多くの行為はそうでしょう。「だが、ペテロが束縛したり、解放したりする行為は、あなたが望むものにはすべてそうするよ」ーーーこういう風に上記のイエスの言葉を解読することが出来ます。

 そして、そういう特権を与えることを、「天の王国の鍵を与える」とイエスは言っていると解するわけです。天の王国(の、地上に対応した場所)を開いて、地上で実現したことを天にも実現させることの出来る特権ですね。

<地上での束縛、解放が持続力を増す>

 天にも束縛や解放を実現させると、何かいいことはあるのか。あるでしょうね。地上で実現したことは、時とともに消滅していきます。だが、天にも実現しているとなると、地上でのそれは持続力を持つことになるでしょう。

 天で実現されたものは、反復上演され、持続するものだからです。地上で実現されたものが、消滅していっても、また祈りでもって、天から“降ろせば”再現する。そういう資格を持ったことになる、と考えられます。すると、地上でのそれは同時に力の強いものにもなるでしょう。

 ペテロの地上での拘束と解放には、そういう特性が与えられた、という道理になります。解読が妥当かどうかは、おのおの考えてみて下さい。
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天の王国には地上に対応する場所がある?

2005年01月10日 | KINGDOM原理からの聖書解読
 KINGDOMとその原理を自覚しつつ聖書を読んでいくと、新しい疑問がわいてきます。
それは“創主のKINGDOMには、この地上に対応した場所があるのではないか?”というものです。

 それは無数の劇場のあるような空間かも知れませんが、とにかくそういうものがあるのではないか、と感じる。
春平太は、聖書を見れば見るほど、そういう奥義があるのではないか、という思いに駆られます。

                    

<イザヤが預言したこと>

 たとえば、今や有名な「イザヤ書53章」の預言をみてみましょう。

 「私たちの聞いたことを、誰が信じたか。
  主の御腕は、誰に現れたのか。
  彼は主の前に若枝のように芽生え、
  砂漠の地から出る根のように育った。
  彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
  輝きもなく、
  私たちが慕うような見ばえもない。
  彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
  悲しみの人で病を知っていた。
  人が顔を背けるほどにさげすまれ、
  私たちも彼を尊ばなかった。

  まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、創主に打たれ、苦しめられたのだと。

  しかし、彼は、
  私たちの背きの罪のために刺し通され、
  私たちの咎(とが)のために砕かれた。
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちは癒された。
  私たちはみな、羊のようにさまよい、
  おのおの、自分かってな道に向かって行った。
  しかし、主は、私たちの全ての咎を
  彼に負わせた。」

 これは預言者イザヤに示されたイエスのことだ、と現在されていまして、ほとんど定説になっています。
後にイエスが出現して、これはこのイエスのことを言っているに違いない、とみんな同意したわけです。

                    

<それは王国で実現し、反復上映されている>

 だけど、考えてみましょう。イザヤはイエスが出現する550年ほども前の人です。
その彼に、550年も先だって見せられた幻とは一体なんでしょうか?

 従来、それは文字通り幻だとされてきています。
天使が見せたかどうかは別にして、それは“将来こういうことが起きるよ”という幻だ、と考える。

 ところが、それだけではない、というもう一つの解釈の筋が春平太には出来そうに思えてなりません。
どういうことかというと、天の王国には、この地上世界と対応する空間があって、
地上に起きることの大部分は、王国の一部でも実際に起きているのではないか、というわけです。

 たとえば、上記のイザヤ書53章に描かれていることは、この時すでに天で実現しているのではないか。
そして、天の王国では、これは一回起きたら終わりではないのではないか。
ちょうどビデオやDVDが繰り返し上映されているように、
この件は以後実現され続けているのではないか、と解したくなるのです。

 すると、550年後にイエスが地上で行ったことは、天で上演され続けている事態を地にも降ろしたことになります。
そして、この物質世界では、事件は一回終わりまで起きたら、それでおしまいです。
だが、天の王国では、それはその後も持続的に上演中だというイメージです。

                    

<「主の祈り」の不明点も明確化する>

 「もう、ついていかれない、春平太さんには・・・」と言われる方もおいででしょうね。
しかし、物質世界と、天の創主王国という霊界とでは、これくらいの違いはあるかもしない、
とイメージしてみたらどうでしょうね。

 物質界は「終わりのある世界」、霊界は「終わりのない世界」です。
 ものごとが「終わる」というのは、物質界だけの特徴かも知れませんよ。

 ともあれ、こう解することによって、従来漠然としていた聖書のなかの聖句が、
イメージくっきりになることもあります。

 たとえば、“主の祈り”。
 イエスが、弟子たちに「どう祈ったらいいか?」とたずねられたとき、
「こう祈りなさい」と教えているところです。

   「天にいます私たちの父よ。
    御名があがめられますように。
    あなたの王国が来ますように。
    あなたのみ旨が天で行われているように
    地でも行われますように。

    私たちの日ごとの糧を、きょうもお与え下さい。
    私たちの負い目をお許し下さい。
    私たちも、負い目のある人たちを許しました。
    
    私たちを試みに会わせないで、悪から救い出して下さい。
    王国と、力と、栄光とは永遠にあなた様のものだからです。
    アーメン」(マタイ伝、6章9~13節)

 このなかの、たとえば「み旨が天で行われているように、地でも行われますように」は、
何を言っているか、漠然としたままで受けてきた人は多いのではないでしょうか。

 この部分を、原典(ギリシャ語)に忠実に英訳した文は、こうなっています。
 
  "Yours will be done on earth
as it is in heaven"  

 ここで、時制を見ますと、「創主のみ旨がこの地上でなされる」という部分は、
未来形になっています。
 他方、「天の王国でなっている」というのは、現在形です。
現在形とは、すでに、実現していることを示しますよね。
さらに、それは過去も未来も含めて、永続していることを示すことも出来ます。イエスが

 「アブラハムが生まれる前から私はすでにいたのだ」というときも(ヨハネ伝)、
" Before Ablaham was boen, I am" 
            と現在形で示されています。

 ともあれ、「天の王国でなされている」は、「すでになっている」というニュアンスです。
そして「この地上でなされる」は、未来に起きることのニュアンスです。
これからすると、天の王国で事態が先に実現していることになります。

 そして、それが反復上映、上演されていると解すると、
ここでイエスが教えていることがとてもはっきりしてきます。
彼は、「天ですでに実現しているものが、地上にも降りて実現されますように」と祈れ、
といっていることになるわけです。
そうでないと、なにいってるのか、漠然としたままにならざるを得ない聖句箇所ですね。


                    

<「黙示録」での過去記述>

理屈っぽい話が続きますが、もう一つ見ておきましょう。
ここは、聖書解読のあり方を分ける、大きなポイントなのですから。

聖書の最後の最後の書物は『黙示録』です。
これはイエスの愛弟子ヨハネが与えられた、延々と続く幻を記録したもの、とされています。
幻を与えたのは天使です。それが、

 「私(ヨハネ)が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれたみ使いの足もとに、
ひれ伏して拝もうとした」(黙示録、22章8節)

            ーーの聖句でわかります。

 さて、これも天使が描いて見せた単なる幻か、
あるいは、天の王国の一部ですでに実現している事態なのか、と考えることが出来ます。

 そういう問題意識をもって読み返してみると、12章で次の聖句にぶつかります。

   「また、巨大なしるしが天に現れた。一人の女が太陽を着て、月を足の下に踏み、
頭には、十二の☆の冠をかぶっていた。

    この女は、身ごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声を上げた。

    また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。
七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。

    その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。
また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。
彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。

    女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。
その子は創主のみもと、その御座に引き上げられた。」
  (黙示録、12章1~5節)


 黙示録には、解読困難な聖句が多いのですが、ここはマリアがイエスを生む場面に対応している、
というのがおおかたの見方です。竜はサタンです。

 ここで、注目してください。この事態は、ヨハネが黙示を与えられる時点では、
この地上ですでに実現したことですよね。つまり、過去のことだ。

 天使はここで、過去にヨハネが直接体験した事件を、わざわざ幻を作って示しているのでしょうか。
何か、しっくりこないですね。そもそもそんな必要があるでしょうか。

 ところが、天ではすでに実現したことが、永続的に反復上映・上演されている、
ということになりますと、これは素直に理解できます。
天使は、それをヨハネに見せた、というわけです。

 まだあります。

      @      @      @
 
  「自分の宝は、天(の王国)に蓄えなさい」
(マタイ伝、6章20節)

   ーーーというイエスの教えもそうです。
 これは、この世で富を、この地上でのためでなく、創主が喜ばれるように用いると、
天の王国ではそれに対応して、その行為が連続上演されるようになる、という解読になります。

 この場合は、先に地上で起きたことに対して天で対応がなされるケースですね。
いずれにせよ、両者はこのように対応しているというイメージです。

 すると黙示録に出てくる「いのちの書」もこう解読されます。

 つまり、地上に対応して天で連続上演されているものが、個人個人に関してあるわけです。
ある人に関して上演されているすべてのデータが、その人の「いのちの書」の実体であるーーーと。

 今回は、これくらいにしておきましょう。


                    



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「罪」も簡単、律法とイエスの関係も簡単

2004年12月04日 | KINGDOM原理からの聖書解読
<「罪」ってなに?>

 聖書に触れ始めた人から、
「“罪”というのが何言ってるかよくわからんのですよね」という声をよく聞きます。

 これは、学び始めた人だけでなく、実は、「わかっていると思っている」クリスチャンも、わかってない言葉です。
罪とは「的はずれ」だと考えると、わかりやすくなりま~す、という人もいる。
ところが多くの場合、これでますますわからなくなります。

 これは、世の中で言う犯罪の罪とは違います。
両者の間には意味に重なったところもあり、重ならないところもあります。
だから、わかりにくいのです。

 英語では、言葉を分けています。
聖書で言う罪にはSINを、世の中の犯罪にはCRIMEなどを当てています。

 日本でも、翻訳するときに思案されたことでしょう。
しかし、結局いいものが見つからなかったと思われます。犯罪と同じ「罪」という語を訳語にしました。


<KINGDOMの法に沿わないこと>

 ところがこれも、KINGDOM原理から解読すると、簡単明瞭になってきます。
創主の王国であるKINGODOMには、創主が発した法がある、秩序がある、と前回書きました。

 また、この世(宇宙)には、この世の法がある、と書きましたね。
それらの間には、ずれがあるのです。同じ内容ではない。
そして罪とは、KINGDOMの法の方に沿わないことを言うのです。簡単なことです。

 そんなことが人間にあり得るか。大ありです。
人間には、KINGDOMの法が見えません。感知できません。
正確に言うと、アダムがエデンの園で創主の命令に従わなかったときから出来なくなった、
ということに聖書ではなっています。

 が、とにかく、現状として天の王国の法は感知できないのですから、従いようがないわけです。
それで、人間は、少なくとも当面この世の法に従って生きるしかありません。
あったりまえでしょう。

 罪とは、人間のその状況を言っているだけの言葉なのです。
また、聖書では「人間はみな罪人(sinner)だ」といいます。
これもあったりまえ。
みんな天の王国の法は認知できないんですから、そうしかならないでしょ。

ああ、かんたんだなあ~。


<律法ってなに?>

 次に律法です。
 これはこういうことです。人間は基本的に創造主の王国(天国)の法を認知できない。
そうしたなかでも、それが部分的に人間に知らされることがあるのです。
それが律法です。旧約聖書では、それがモーセに伝えられた、となっています。
伝えたのは創主の使い、天の王国の使い、天使です。

 天使は「KINGDOMの法はこうだよ」「これに沿わないのが罪だよ」と示したわけですね、命令として。
これは広い意味では、旧約聖書に書かれている全ての命令です。
狭い意味では、モーセがシナイ山という山で与えられた10個の命令です。

 通常は後者をさして言います。

 こうやって創主は、徐々に人間にKINGODOMの法を知らせていこうとされる、という話なんですね。
その第一弾が、律法というわけです。英語ではLAW。
こちらは、「この世」で造られる法律と同じくLAWという語で示されています。

 ところが、こちらについては、日本語は使い分けています。
この世の法が法律です。
そして、天の王国の法には、漢字をひっくり返して律法という語を造った。日本語は便利だなあ。

 今言いましたように、この世の「法律」と天の王国の「律法」とのあいだには
重なるところもありますが、重ならないところもあります。
だから、天の法である律法に従って生きようとすれば、この世の法で罰せられることもあり、
となりますよね。あったりまえでしょ。


<預言者って何?>

 聖書には預言者というのも出てきます。
これは霊感にとりわけ恵まれた人です。
彼はその霊感で「天の王国の法を、優れてよくキャッチする」んですね。

 霊感でしっかりと受信されたものは、深い確信になります。
預言者にとっては、天の王国の律法は、「これこそ本物、世界の本体」ということになります。
かれには最もリアリティ感のある真理となるわけです。

 だから、預言者は天の王国の法に従って生きようとします。
するとこの世では罰せられることになる。実際、彼らは、厳しく罰せられてきました。
イザヤという預言者などは、生きたまま身体をのこぎりで切り裂かれた、
そうして殺された、と伝えられています。

 旧約聖書は、この預言者(天の王国からの信号を霊感で受信し、それを言葉として預かる者)
の言葉が記録されたものです。
たとえば「イザヤ書」、というのは、イザヤの言葉を集めたものですね。

 だから、聖書は、「天の王国の法こそが永続する方で、真の法だ」という立場に立った本となります。
そこで、預言者にこの世で与えられる罰を、罰と言わないで「迫害」といっています。

 こういう言葉使いは、預言者の方の立場に立っているから出てくるものです。
預言者に好意的だ。
だから聖書では、KINGDOMの法を第一にして生きる人については、
「罰を受けた」といわないで「迫害」を受けた、というわけです。簡単だなあ~。



<罪・律法とイエスとの関係は?>

 では、新約聖書で登場するイエスは、これらとどういうつながりにあるか。
こう考えたらわかります。

 子供というのは、親の期待通りにはなかなか育ってくれないものですね。
でも親は、出来る限りイメージ通りに育って欲しいと思います。
その場合、二つの方法があります。

1.律法の方法

 第一は、期待に添うように、行動を規制する方法です。
「あれをしてはいけないよ、これをしてはいけないよ」、と戒め、注意を与えます。
そうやって行動を枠付けしてあげる。これが律法の方法です。

 戒めを守りつつ生きてくれれば、子供は、親の期待通りの人間に近づいていきます。

 だけど、これを守っていくのは子供には楽ではありません。
彼の性質、気質がそうなっていないのですから。
行動が、自分の気質から出る自然な結果だったら苦痛はない。
だけど、そうではないですから、親の与える規律は。

 だから、戒めは意志の力でまもらねばならない。それには苦痛が伴います。
首相の小泉さん流に言えば、「痛みが伴う」ですね。だから子供は、しばしば、守り損ないます。

 また、親の気持ちからしたら、もっともっと戒めを与えて、いっそうよくなって欲しいと思います。
そういう戒めは本来、考えていけば無数にでるものです。

 けれども、この全てを戒め・規律として「・・・してはいけない」と与えて守らせることは出来ません。
与えたって、人間の記憶には留まりません。

 だから、律法というのは、実際にはそのうちの限られた一部にしかなり得ません。
そういう不完全なもので人を変えていくという方法は、やはり限界があります。


<出来る体質の人に同化したらいい>

2.イエスの方法

 この限界を打ち破ったのが、イエスの教えた方法です。これが第二の方法です。
 それは、いうなれば親の期待通りに行動できる人、そういう性格・人格を持っている人に
「同化してしまう」という方法です。
そういう師匠を見つけ出して、子供に与えたらいい。

 天の王国の法、律法を守ると言うことからしますと、その師匠はイエスその人です。
彼は自ら、「私がその師匠である。私に同化するのが、律法を守るための完全な方法だ」
と宣言し、教えたのです。


      @      @      @

 ここで春平太が「同化」というのは、精神的な同一化です。
人はその肉体を誰かと同化させる(同じにする)ことは出来ません。
だが、イメージでは、精神的には同化できるのです。一例をあげます。

 一般に、母親というものは幼い我が子に対しては、一定の精神的同化をおこなっているものです。

 たとえば、我が子が、病気で太い注射針を腕に刺されるとします。子供は激しく泣きます。
そのとき、母親も自分の腕のその部分にちくりと痛みを感じることがあるそうです。

 どうしてそんなことが起きるか。彼女は我が子と精神的には同一化しているのです。
人間の精神は、そういうことができるように出来ているのですね。

 もう一つの例。人類が歴史的に行ってきた徒弟制度です。
ここで、弟子が師匠の技を学ぶのも、その「同化」という方法です。
ここでは弟子は、入門したら師匠の全てをまねます。仕事上の技術だけでない。
食べ物・着物の趣味も、たばこの銘柄も、喋るときの口調、冗談の言い方までまねます。

 すると、弟子は師匠に似ていきます。似ていく、すなわち、人格も性格も同化していくのです。
するとそのなかで、技術も吸収されていくのですね。
これが師匠の技を習得する、もっとも効率のいい方法、完全な方法です。
だから、人類は、歴史的に多くの国でこの制度を出現させてきたのです。

 この習得制度が実現するためには、徒弟期間中、弟子は決して自我を出してはいけません。
自己の個性を働かせてはいけない。

 自分をむなしくして、ただただ、師匠に惚れ込んで丸ごと同化していきます。
これが師匠の技を身につける最良・完全な方法です。
「身につける」というのは「自分の身に複写させる」ということですから。

 なお、自己の個性を押さえて出さない期間をすごしても、自分の個性は死にません。
人間の個性というのは、しぶといもの、簡単には死なないものです。
師匠に似て、習得を卒業すると、しばらくしてその上に出現してきます。
これが独自性、創造性です。


      @      @      @

 「天の王国の法に沿う人格・性格をつくる技術に関しては、わたしがその唯一の師匠だ」、
イエスは、自らそう宣言しました。
KINGDOM原理に沿わないところは何一つ無いのが私だ、
私は「父のKINGDOMから下って来たのだ」その「私に同化しなさい」、
これがイエスの持ってきた福音(よきしらせ)の大事な一部です。

 もし、同化できたら、その人は天の王国の王様(創造主)が希望するイメージに完全に沿った人になる道理ですね。
だから、イエスの示した方法は、完全な方法なのです。
これから改めて振り返ってみると、律法の方法は、全く効力がないわけではありませんが、
不完全でした。だからイエスは言ったのですね

 「私は、律法を完全化しにきたのだ」(マタイ伝、15章7節)

               ~~と。

<信仰でなくて信頼>

 同化する方法を、もうすこし具体的に考えましょう。
それにはまず、その対象、相手を信頼することです。
信頼してなかったら、自分の個性から批判したくなります。
批判するとは、相手を自分からつきはなして、距離を置いて観察することです。

 これでは同化は出来ません。
同化するというのは、相手を自分の意識の中に無批判で受け入れて、
自分の心身に染み込んでくるのを待つという作業ですから。

 だから必要なのは、創造主への信頼、イエスへの信頼です。
日本ではこれを信仰といっている。これはまずいですね。
そもそも信仰と訳している言葉の英語はfaithです。
beliefということもありますが、ほとんどの場合フェイスです。

 faithは、素直に訳したら、「信頼」でしょう。信じて頼ることです。これでなければいけない。
信仰となると、余計なものがくっついてきます。信じて「仰ぐ」んですから。

 「仰ぐ」というのは、やはり距離を置いて見上げている状態ですね。
人は、対象に距離を置いて対すると、同化しにくくなります。これは今述べましたね。

 さらに、仰いでいると、その対象に関して「恐れ」の感情も介入してくる危険があります。
こうなったら、もう同化は不可能です。


      @      @      @
 
 映画俳優を昔、スターといいました。今でも言いますかね。
 これは星のように高いところ、手の届かないところにあって、仰ぎ見る存在、という意味ですよね。

 そうやって仰いでいても、多少は同化できるかも知れませんが、やはり、限界があります。
だって、この状況では、「この人は私と違う」という意識が色濃く入ってきていますから。
そして、時とともに、若干のおそれの気持ちが介入してくる。

 スター作り、というのは、そういうイメージを作って大衆に植え付ける仕事です。
プロダクションや担当マネジャーは、裏でこれを懸命にやっているわけです。
その実体を見たら、人は興ざめでしょう。見ないが華。


      @      @      @

 ともあれだから、英語では、創造主、イエスへの思いをfaithといいます。
信じて頼れば、その対象に精神的に同化する度合いは、急上昇いたします。

<愛が究極の同化動因>

 さらに、同化作用を高めるのは、信頼した上で、愛する、ことです。
愛という心理作用は、自分と相手を同化させる、同化作用そのものです。
つまり、先生を信頼し愛することが、同化の決め手なのですね。

 だから、「旧約聖書の律法で、もっとも大切なことは?」と尋ねられたとき、イエスは

 「創造主(具体的にはイエス)を心から、全エネルギーをかけて愛すること」

 という主旨の答えを与えています。これが律法の目的を、完全に達成する奥義だったのですね。

      @      @      @

 要約します。
 律法に沿おうとすることによって、人は罪を犯さないようにある程度なることができます。
ところが、それは人間の心理構造からすると完全な方法ではない。
完全な方法は、イエスに同化することだ、こういう論理です。

 ああ、わかりやすい。簡単だなあ~。


<おまけ:言葉を心に留める>

 だからイエスはこうも言っています。

 「私が真理である」(ヨハネ伝、14章6節)

 では、そんなに決め手になる、イエスとの同化は、只、愛してればいいのかな。
ちょっと漠然としてるなあ。もう少し具体的にガイドしてほしいのだけど・・。

 それもイエスは教えています。

 「私の言葉が諸君の意識の中に留まること」(ヨハネ伝、15章7節)

         ーーーが、それです。
そうです。聖書に記録されているイエスの言葉が、心の内に留まっていく度合いが、
実際には、その人がイエスと同化していく度合いになるのです。

 要するに、日々、イエスの言葉を心に蓄積していけばいい。
信頼者(信仰者)のなすべきことの核心は、これです。


ーーーああ~、簡単だ。
 KINGDOM原理から解読すると、聖書の論理はなんと、簡単明瞭なることか・・・。

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天の王国には法と秩序と正義がある

2004年11月30日 | KINGDOM原理からの聖書解読
<民主国は最高か?>

 天のKINGDOM(王国:いわゆる天国)とは、創造主が王として統治する王国です。民主主義が最高、と小学校の時から学んできた我々は、それは独裁国で、いけないもの、と一瞬思ってしまうかも知れません。

 しかし、「民主主義がいい」というのは、知力にも、良心力にも限られている人間だけで、ある一つの世界(国家など)を統治している状況でいえることです。「どんぐりのせいくらべ」の状況では、その内の独りが裁量で思うままに統治したら、これはみんなで統治するよりまずいことが多いでしょう。

 ある世界の中での独りの人間の知力、情報力はちいさなものです。だから、情報がない、わからないが故での失敗は多々あるでしょう。人民の幸福を思う人間愛の力も、個々の人間には限界があります。多数のためよりも、「自分のため、自分の一族のため」でやってしまうことも、現実には多くなります。

<KINGDOMの統治者像>

 ところが、聖書がKINGDOMを統治していると教える創造主は、全知全能の存在です。また、創主は文字通り人民も造った方です。自分が造ったものに関しては、出発点から本性的に愛情を持っています。人間が子供を産むと、本能的に愛の意識がこみ上げてくるのと似ています。

 肉体を持つ人間が産んだ子に対して抱く親の愛は、創主の抱く被造物への愛のミニチュア版、模型、と言っていいでしょう。それも聖書の奥義思想です。

 ところが、創造主の愛は、人間の親が子供に抱く愛とは桁違いです。それはまず、全知全能を背景にしています。だから「あ、知らなかった、ごめんね」ということがありません。全てをわかった上で愛情を注ぎます。

 さらに、聖書が教える創主は、「豊かそのもの、幸福そのもの」、自らにおいては足りないところのない存在です。だから、自分の不足を埋めるために、子供より自分を優先させてしまった、ということが全くない。奪うことが無く、ただ、与えるだけ。創主の愛はそういう愛です。

 そういう何ともありがたい方が、天の王国は統治しておられる、そういう方が存在するのだよ、というメッセージを書いた本、これが聖書です。

      @      @      @

 だったら、そういう方が王として独りで統治してくれた方が、人民は幸福になるでしょう。その幸福は、限りある人間が集まって利害調整している民主政府が与える幸福とは桁違いに深く、広く、大きいです。この世では、そういう方がいないので、セカンドベストとして民主主義でやっているだけの話です。

<極楽に法はあるか?>

 天国というと、仏教文化圏で育った我々は、「ああ、極楽のことだ。キリスト教ではこれを天国と言っているんだ」と思います。だが、少し違います。

 極楽というとは、文字通り、「楽で楽しいところ、楽の極地が実現しているところ」というイメージです。食べたい放題、飲みたい放題、遊びたい放題、したい放題の、放蕩楽園のイメージ。

      @      @      @

 昔、1965年頃、「帰ってきたヨッパライ」というフォークソングが大ヒットしました。フォーククルセダーズという学生の音楽グループがつくったアマチュア曲で、彼らはこの一曲で一気に有名スターになりました。

 ヨッパライが交通事故にあって、天国に行き、地上にもどってくるという唄です。その一節に

 ♪ 天国よいとこ、一度はおいで
    酒はうまいし、ネエちゃんはきれいだ
     ウハ、ウハ、ウハ、ハ~ ♪

                   というのがありました。

 これを作詞した松山猛と、作曲した加藤和彦とは、昔、ある自動車会社のコマーシャルに一緒に出演したことが春平太にはありました。撮影の間の待ち時間が長いので、よく雑談しました。それでわかったこと、「こいつらは天国と極楽のコンセプトの違いが全然わかってな~い」。

 こいつらだけでなく、それが200万枚の大ヒットになるということは、大半の日本人もみなわかってない、ということであります。

      @      @      @

 天国は、正しくは「天における創主の王国」です。万物を創った創造主が「統治している」領国です。そこには、統治者の法があるのです。人民は、それに従って生きることが求められているのです。

 だが、この法は、全知全能者が人民の幸福だけをねらって発布している法です。だから、人民(天使、人間)が、それに沿えば幸福になるというガイドラインでもあります。沿わなければ幸福になれないので、沿った方がいいよ、というものです。

 そういうことを全知者は完全にわかるのです。また、それが全部わかる存在は、なにも、法を創るに他者を集めて会議する必要がありません。議論、検討、反省する必要もない。だだ、自らの知恵を口から発すればいいのです。

 以前、春平太は、「王国では王から出た言葉がそのまま法になる」と申しました。その理由は、今述べたようなことです。天の王様はいい加減なことをしているのではないわけです。

<法があれば秩序があり、正義がある>

 天の王国に法があるということは、それによって形成される秩序(order)がある、ということです。天の民は、王が出してくれる法を信頼し、それに従います。するとその領国には秩序が出来ます。

 こうして、法があり、秩序があると、それに沿うことが正義となります。天の王国における正義を、「天の義」と称します。義は英語でライチアウスネス(righteousness)です。

 前にも引用しましたイエスの教え

 「まず、創主の王国のとその義を求めなさい」(マタイ伝、6章33節)

 という聖句の「義」は、そういう意味を持っています。

 ~~KINGDOM原理からみると、聖書の論理はかくも簡単明瞭になります。
 
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聖書の空間理念

2004年11月20日 | KINGDOM原理からの聖書解読
<写真は「聖書の空間理念の図」(『聖書の事がよくわかる本』中経出版、より)クリックすると拡大します>
 
 聖書の論理をKINGDOM原理から解読していこう、というのがこのカテゴリーです。キングダムというのは、正確にはKingdom of Godというべきで、それは文字通り「創主の王国」です。王国ですから、そこは民主国や共和国のように、人民が統治している国ではなく、王が統治しているく国です。そこでは、王から出た言葉がその国の法になる。これは前回のべましたね。

 そして、天の王国での王は、万物の創造主、イエスが「父なる神」と呼んでいる存在です。それがあるというのが聖書の思想です。では、それはどこにあり、どうなっているか、我々の住んでいる地上の世界とどういうつながりをもつか? これが今回のテーマです。

 それをまず図で示したのが上記の写真です。見えにくいかも知れませんが、円が三つ描いてある事はわかるでしょう。これらの円は、球体を表しています。

 一番外側の大きな円(球体)これが「天の王国」Kingdom of Heavenです。その中に描かれている二番目の円が、我々の存在する宇宙です。そして、その中に、小さな点のように描かれているのが、我々が住んでいる地球です。

 聖書を解読していくとその空間理念は、どうもこういう風になっていそうです。実際の解読過程については『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)をご参照下さい。

      @      @      @

 さて、聖書ではこの天の王国の法と、宇宙でなされている法とは違う、という思想です。そして、宇宙はいずれ火でもって焼かれ、消滅する“うたかた”の存在となっています。だから、そこでの法も、かりそめのものであって、真の法は天の王国の法、真の正義は天のキングダムの正義、と教えます。これはもう、聖書論理の大黒柱です。

 加えて、天の王国は宇宙やその中の一点にすぎない地球上などとは、比較にならない豊かな国です。これはもう、何千倍、何万倍、何億倍という豊かさです。(そのすさまじい豊かさは、たとえば『黙示録』21~2章に、示されています)

 そして、人間は、天の王国の法に沿って生きたら、この豊かさや幸せを受けて暮らせる、(のみならず、死後もその霊が永遠に幸福に生きられる)という思想です。人間はそういう風に造られてるよ、という、これがKINGDOM原理です。

 後に、イエスの口から出るーーー

 「まず創主の王国とその義(法)を求めなさい。そうすればこれらのもの(物的な富)は(必要の何倍もが)添えて与えられます」
   (マタイ伝、6章33節)

 ーーーという言葉も、そういう背景・意味をもっています。

      @      @      @

 ところが人間は、地球上、すなわち宇宙の中に住んでいますから、天の王国の法など認知できません。宇宙の中の法が、法のすべてだと思って暮らしています。だから、本来の幸福が得られないで、暮らすことになるしかない。自然にそうなります。

 その結果、チンケなところで、グチャグチャやっている。この地球上に富豪といわれる人もいますけれど、そんな富は天の王国で与えられる富に比べたら、塵も同然、チンケもいいとこ、という思想です。

 そんなこと言っても、人間、宇宙の中で生活してるから、どうしょうもないじゃないの・・・。ところが、「必ずしもそうではないよ」、とも聖書は言っています。

 イエスが天の王国の法を持って、この地上に天の王国からやってくる。そして、王国の法を教え、それが支配する王国を、小さいながら、この地上に造っていく(つまり、天の王国と同質の空間をこの宇宙の中に作っていく)ーーーこれがKINGDOM原理からみた聖書の論理です。

 聖書には、バプテスマのヨハネという預言者が出てきます。イエスがこの世で王国の法を教える活動を開始するのを、その直前に預言した預言者ということになっています。彼は、人々に

 「悔い改めよ、天の王国は近づいた」(マタイ伝、3章2節)

 と、宣言しています。

 また、イエス自身も、教えを開始するに当たって、

 「時が来た。創主の王国が近づいた! 悔い改めて、よき知らせ(福音)を信じよ」
             (マルコ伝、1章15節)

と、宣言したと、聖書にあるのもそういうことです。
 聖書の内容は、深淵広大にして膨大です。しかしKINGDOM原理から解読していくと、かくも簡単明瞭になるのです。
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KINGDOM原理とは?

2004年11月13日 | KINGDOM原理からの聖書解読

 このカテゴリーでは、聖書の論理を、新しい視点から捉えてみようと思います。具体的には、「天の王国」の論理から理解しようとします。

 聖書は、こういう王国世界が、我々の住む宇宙を超えたところに、存在するという大前提で出来ている本なのです。聖書が、我々人間に希望を与え、楽しくさせてくれる源がここにあります。

 聖書は自らを、そういう王国の王である創造主、ゴッドからのメッセージであるとしています。

      @      @      @

 邦訳聖書で「天国」とか「御国」と訳されている場合の、英語は通常“kingdom of heaven"です。これは直訳すると、「天の王国」です。

 kingは王、domは領域、領地です。天国とは、正確にいえば、「王の統治する領国」なのです。

 そこでの「王(King)」は、創造主ゴッド(GOD)です。(その王国の相続権を与えられているのが、創主の独り子、イエス、というのが聖書の大原則です)

      @      @      @

 民主国、共和国に生まれすむ我々にとって、王国は独特の存在です。

 民主国における領地の所有者は、国民です。対して、王国では王です。

 民主国での法は、人民が話し合い、利害を調整しあって造ります。対して、王国では「王から出た言葉」が法になります。

 王は一方的・独裁的に政治を行います。だが、その目的は人民の幸福にあり、その幸福の大きいことが王の栄誉になります。

      @      @      @

 天の王国の王である創造主は、全知全能です。だから民の幸福を完全に実現できている存在です。

 人民に当たるのは、当初は天使でした。天使は、その幸福を願う「全知の王」の言葉(法)に従って生きるのが、最良の幸福の道でした。

 後に、創主は我々の今住む地上に、人間を造ります。地上も本質的には天の王国の一部であります。だからここでも、天の王国の法に沿って生きるのが、最大の幸福の道となります。

<KINGDOM原理を人間に知らせようとする本が聖書>

 これが、KINGDOM原理です。それから見ると、聖書というのは、この原理を人間に知らせよう、とする本といえます。

 そして「知らされて従ったものには、王(創主)の子になる資格を与えよう」という意図もとに送られたメッセージを記録した本、見ることも出来ます。 

 ですから、聖書は、「天の王国のロイヤルファミリー(王室家族)になるためのノウハウ」を記した本ということも出来ます。

 このカテゴリーでは、その観点から聖書の論理を、考えていきましょう。
 
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