鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.19 「人間と比較しつつ天使を(15)~~「拝される」権限は与えられている~~」

2006年11月26日 | “エホバ”の奥義
                                   
     
 前回、エホバには、人間の罪を許す権限は委任されていない、と述べました。
今回は、その理由に思いをはせてみましょう。

                    

<「赦し」は軍人には出来ない>

 創造主が、その権限を与えなかったのは、全く恣意的に(気ままに)だったのでしょうか。そうではなかろうと思われます。
エホバが天使ならばの話ですが、その場合おそらく一つの理由は、そういう資質がないから、でしょう。
前述しましたように、天使は全て軍人です。エホバ天使は、その中の最高位の軍人なのですね。

 天使というのは、軍隊の規律の中で生きる被造霊なのですね。命令ー服従、従わなければ厳罰、という規律です。天使は全員そういうビシッとした組織の中で生き、行動しています。そういう体質の存在として創られています。

 エホバも同じです。なおかつ彼は、その組織集団の長です。命令に服従しなかったものを赦していたら、軍としての規律が保てません。基本的にそういう存在なのですね。


 そういう存在には、罪を許す権限を与える(委任する)ことは出来ないのではないでしょうか。軍人は、罪を犯すものは、厳しく罰するのみです。なのに、(これこれの場合には)人間の罪を許せ、と命じられたら、エホバ天使はもう混乱してしまうんではないでしょうか。

                    

<拝される権限は委任するが筋>

 その一方で、人間に拝される権限は委任されているのではないでしょうか。同じく「出エジプト記」の20章、エホバがモーセに十戒を与える場面でこう記されています。

 「・・・それら(偶像)を拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、エホバであるわたしは、ねたむ神・・・」(出エジプト記、20章2節)

 ここでエホバは、「私を拝め」とはあからさまに言ってはいませんが、「偶像を拝むな」という一方で、自分を「ねたむ神」といっていることからして、「私だけを拝め」と命じていると読むことが出来ます。

 そしてこの「拝される」という役割は、彼の資質に適合していることでもあるんですよね。軍人は下位のものから常に敬礼されていますから。ましてやその最高位の軍人は、もう、敬礼されっぱなし。天使にぴったりの権限です。

                    

 もちろん、天使は基本的には拝まれるべき存在ではありませんよ。「創造主だけが拝される方」というのは聖書の大原則です。

 しかし、それは一般論としてそうであるんですね。創造主がその拝される権限を、必要によって特任を果たす天使に委任するというのは、ありうるでしょう。一般論は、表義(表面に現れた意味)ですが、これは奥義です。

 拝されるべきは万物の創造主お一人です。しかし、その権威を持つ方が、職務遂行のために拝される権威を与えた。その場合は、与えられた被造物は、拝されていい、ということです。

 それでもしっくり来ない人はこう考えたらいいでしょう。まず、エホバ天使に「人間(ユダヤ人)に、創主として臨め」という特命が下されました。エホバはその任務を忠実に遂行しているわけです。で、人間に対してそう臨んでいながら、人間が彼を拝もうとしたらあわくって~~、

「やめてくれ! 創造主だけを拝んでくれ!」

  ~~といったらどうなりますか? 

 天使だということが、ばれてしまうのではありませんか。それではエホバは特任を果たせません。だから、創造主は彼に、「拝される権限」は委任する。これは筋の通ったこと、創主が理の神でもあることと矛盾しないことであります。

                    



コメント (7)
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Vol.18 「人間と比較しつつ天使を(14)~~「特命」全権大使~~」

2006年11月25日 | “エホバ”の奥義
                    

前回、エホバは、創主の権限を委任された位の高い天使ではなかろうか、と申しました。
今回は、そうはいっても、全ての権限を委任されていたのだろうか、ということについてを考えます。

                    

 全ての権限は委任されていなかったのではないでしょうか。

重光全権大使は、正確には特命全権大使でした。
「特」というのは「特定の」という意味です。
「命」は「任務」です。だから特任全権大使といってもいい。
その特定の任務が、「(天皇に代わって)降伏文書に調印すること」でした。

重光全権大使も、憲法を改訂したり、国会の開会を宣言したりする権限まで委任されていたのではありません。
ましてや、調印する前に思い直して「やっぱりもう少し日本は戦う、世界に大和魂を記憶させるために」
とかいって軍隊を動かしたりするような権限は委任されていないのです。

                    


 エホバにも、委任されていない権限があったと考えられます。
その代表は、「(人間の)罪を許す権限」ではないでしょうか。

旧訳聖書に、エホバが人間(ユダヤ人)の罪を許した、という記述は見あたりません。
彼は、赦すのでなく、罰を与えると自ら宣言しています。
「出エジプト記」の20章に、エホバがモーセ(ユダヤ人)に有名な十戒を与える場面が記されています。
ここでエホバは、自分が与えるこの戒め(律法)を守らないものには~~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「父の咎(とが)を子に報い、三代、四代にまで及ぼし・・・」(20章5節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~~と述べています。

                    

対して、イエスはどうでしょうか。
彼は地上にいる間に「あなたの罪は許された」と人間に宣言しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・イエスは彼らの信仰(信頼心:鹿嶋の解釈)を見て、中風の人に
『子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は許された』といわれた」
(マタイによる福音書、9章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ~~ということはもちろん、父なる創造主もまた、人間の罪を許す権威を持っている方だということです。
イエスにはその権威が委任されているのです。

ところが、エホバには委任されておりません。
エホバ神というのは、そういう限定的な神だということを悟ると、
聖書の構造とりわけ旧訳聖書のそれは俄然見えてくるのではないでしょうか。


                    




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Vol.17 「人間と比較しつつ天使を(13)~~全権大使~~」

2006年11月20日 | “エホバ”の奥義
                    

では、エホバとは何か、を考えましょう。

Vol.2に示しましたように、創造主ではありえません。

、新約聖書の「ヨハネ伝」1章にこうありますからね。

「創造主を見たものはまだひとりもいない。ただ父のわきにおられるひとり子の神が、創造主をあらわしたのである」(1章18節)

だがアブラハムはエホバを目の前で見ています。
だから、創造主ではない道理になります。

                    

 でも、エホバは霊的存在です。
霊的存在であって、創主でないとしたら、もう残るは、天使か人間しかありません。
御子イエスでも、聖霊でもあり得ませんからね。

でも肉体を着ている人間の霊が、エホバであることなどあり得ないでしょう。
だとすれば、残るは天使しかいない。問題は、どういう天使かということだけです。

結論から言って、それは「人間(正確には、ユダヤ人)に対して、創造主の代わりに創造主として臨む天使」ということになるでしょう。
そんなことありうるのか?

                    

人間社会で考えましょう。
終戦後の日本に、重光全権大使という方がおられました。
1945年9月2日に、ポツダム宣言を受諾して敗戦した日本国の全権大使として、降伏調印をした人です。
東京湾から20マイルの沖合に停泊していた米国の戦艦ミズーリに行って連合軍に対して調印をました。

このとき、まだ、戦後の日本国新憲法は出来ておりませんでしたので、国家の主権は天皇にありました。
重光氏はその天皇に代わって、調印をしました。
全権大使として。

彼は国家が降伏したことを確証する権限を天皇より委任され、調印したわけです。
そうなったら重光氏の調印は、天皇の調印と同じ効力を持ちます。
これが全権大使です。

エホバはその重光氏のような地位の天使だったのではないでしょうか。
その際、天皇にあたるのはもちろん創造主です。
創造主を代行して、人間に対しては創造主として行動する。
そういう権限を委任されて行動した、そういう天使だったのではないでしょうか。

                    

もちろん、そんなことは聖書に明記されてはいません。
春平太の知る限りでは、聖書の中に名前を持って出てくる天使は、ミカエルとガブリエルです。
二人はともに天使長なようです。
ミカエルは戦いの天使長と解読できる。
ガブリエルは創主の御言葉を運ぶ天使の長と解釈できます。

二人は軍隊の中でも相当地位が高いんでしょうね。
長だから。
だけど、エホバはもっと地位が高い。
おそらく天使の中で最高の地位にいるのではないでしょうか。
なにせ、創造主の権限を委任されて代行するんだから。

                    

 また、聖書には明記されておりませんが、この天使はイエスがこの世を創造するときにも、付き従っていたのではないでしょうか。
 創世記の始めのところに、創主(イエス)が人間を創るところがあります。
このとき、イエスは「われわれに似せて人を創ろう」といいますよね。
この「我々」は、イエスと彼に付き従っていたエホバ天使ではないでしょうか。
(それほど地位の高い天使)

そんな推測もしたくなります。

(続きます)

                    



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Vol.16 「人間と比較しつつ天使を(12)~~軍人の裁きは別枠~~」

2006年11月19日 | “エホバ”の奥義
                    

 天使に悔い改めと赦しがない理由は、もう一つ推測されます。
春平太は、このシリーズで、天使は軍団で統率されるように創られたことになる、と申しました。
もっと明確にいうと、最初から「軍団として創られた」です。
天使はみな軍人なのです。

                    

人間社会でも、軍人は、一般社会人とは別のルールで統治されています。
その必要があるのです。

軍隊は戦になったら勝つことが必須目的です。

一般社会では、人間尊重・個人の人権も大事な正義です。
基本的には軍隊でも同じでしょう。

でもそれは平時でのことです。
軍隊では戦になって負けたら、正義もなにもなくなるのです。
自分たちの法が施行されていた、その社会・国家すら破壊されてしまう。
そして相手の設定した法で統治され、裁かれてしまいます。

自分たちの平時の正義を守るためにも、とにかく戦には勝たねばなりません。

                    

<命令系統で動く組織>

戦では、組織行動の迅速さ、スピーディであることが求められます。
ぐずぐずしてたら、勝てるものでもやられてしまうのです。
だから、組織は100%命令でもって動かすようになります。
人は命令には絶対服従で行動するようにします。
個人の人権、個人の発言権が大事だ、といって議論させていたら統率の弱い、のろい軍隊になってしまいます。

                     

<軍法会議>

裁きもまたそうです。
軍団は、一般社会とは別枠の裁きの場を持ちます。
軍法会議(軍事裁判所)がそれです。

ここでは一般社会の裁判所のように、何年もかけて入念に裁くことは通常しません。
軍法という、別枠の法律で裁きます。
そこでは即決裁判も少なくありません。

 軍人には敵前逃亡という罪があります。
戦に出されて、いざ敵を前にすると、恐怖でふるえることがよくあるそうです。
とくに、初年兵はそうなりやすい。
それで、逃げ出してしまう。

 これについてはその時の精神状態がどうのこうの、とか、情状酌量の余地はあるかどうか、などを
いちいち確かめたりすることはほとんどありません。
即決裁判で処刑です。

軍隊世界には、「赦し」がないのですね。
赦しがないですから、「悔い改め」も効力がありません。
悔い改めたって、赦されないんですからね。

天使もそういう世界にいる存在と推定できます。
彼等は赦しのない社会、赦しのないルールのなかで生きているのです。


                    

<強大な権能と認識能力>

 可哀想に・・・。
そんな厳しい世界の中で暮らすように、創ってあげなくてもいいのに・・・。

でも、その必要があったのではないかなあ。
天使には、強大な権能が持たせてあります。
火になり、風にもなり、人間の身体細胞を霊的に変化させて、癒すことも出来ます。
おまけに霊界が見える認知能力も持っている。

霊だから、羽根などなくても、天の創主王国と宇宙、地球上をも行き来できる。
霊だから、病で苦しめられるという恐怖がない。
霊だから、死の恐怖もない。

~~大変なもんです。

                    

これで、ロボットではない。
自由意志をもって、自ら考え行動できる被造物として創っています。

こういう被造物を、自分の生活を楽しむ存在として創ったのではありません。
創造主に仕える使命を持った存在として、そういう使命をきちんと守っていく存在として創るのです。
これはやはり、厳格な命令ー服従の組織の中に置くしかないのではないでしょうか。
それだって、ある天使長とその配下は、使命を外れて創主に反逆したのですから。

                    

 これが天使です。
聖書では、この天使が常時多くの場所で働いていることになっているのです。
(そういう状況をイメージしながら読まなければなりません)

最後の審判だってそうですよ。
イエスが裁く、となっていても、実際に(イエスの下で)裁きを実行するのは天使たちですよ。
きっとその裁きは、厳しいものになるでしょう。
細かいところ、曖昧なところなどはバサッと処理してしまう。
明快で、男性的な裁きです。

そういう裁きしかできないんですね。
そういう体質なんですから、天使は。

~~さあ、以上を良く踏まえて、エホバとは何か、を考えましょう。

(続きます)

                    

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Vol.15 「人間と比較しつつ天使を(11)~~天使はわかっててやっている~~」

2006年11月18日 | “エホバ”の奥義
前回の続きです。
どうして人間だけが、罪の赦しを得られるか?
不公平でないのか?
~~について。

                    


天使も人間と同じく被造物です。
被造霊です。
どちらも罪を犯す可能性を持っています。
ロボットとしてでなく、自由に動く意志を持ったものとして創られていますから。
罪を犯さないにしてもそれは、その自由意志を用いて、罪を犯さないようにした結果です。
罪を犯す場合も、自由意志をそういう風に働かすことによって犯してしまうわけです。

                    


 その点は同じですが、罪を犯した後が違います。

 人間は、悔い改めて、考え方を戻すと、赦される可能性を与えられています。
そして、イエスがこの世に人の姿で現れることによって、それが実現する道が開かれます。
十字架で人類の罪を一身に担い、血を流すことによって、それによる赦しを真理だと受け入れた人間には救いが実現するようになる。
これが福音ですよね。

 ところが聖書では、天使には福音がないんだよね。
罪を犯して、サタンと天の諸々の悪霊になった天使たち、この方々には、悔い改めて、罪赦される、という場面はありません。
で、そのまま、最後の審判まで行ってしまう。
ということは、悔い改めて赦される道はない、ということに事実上なりますよね。

                    


<霊になると霊界が見える?>

 となると天使に対しては、とても厳しいですね。
どうしてそんな差があるんでしょうか。

 その観点から眺めてみますと、天使と人間には色んな違いがあることが浮かび上がってきます。
まず、天使は霊界のことが始めから見えている、ということです。

人間はどうか?
今、我々は霊界が見えませんよね。
見えるという人もいますけれど、大多数は見えません。

だけど、死んで肉体を抜け出ると、霊界が見えるようなんですね。
前回の「金持ちと貧乏人ラザロ」のところを想い出しましょう。

 ここで金持ちは、遠く離れたパラダイスでアブラハムの懐に抱かれたラザロを観ています。
もちろん、アブラハムも観ています。
どちらも死後の霊になった人ですから、これは霊界の話です。

それを、元金持ちは、観て話しかけているんですね。
どうも、霊だけになると、霊界が見えるようです。

                    


<天使は見えていてやっている>

 ならば、天使も霊界が見えていることになりますね。
全身、霊ですから。

 罪というのは、創造主から出たルールに反することです。
ルールは霊界のものです。
霊界が見えているというのは、そのルールもよくわかっていると言うことですね。

 サタンになった天使も、それに従った配下の天使たちも、そういうのがよく見えていた。
それでもって、ルールを踏み破ったわけです。

                    


<人間は霊界が見えないでやっている>

では、人間はどうでしょうか?
アダムもイブも、エデンの園にいたときには、その霊は肉体を着ています。
だから霊界は見えなかったんですね。

 もちろん、アダムは創主のみむねに従って暮らしていました。
それは霊感でもって創主と交信できていたからでしょう。
 だけど、その認識は霊界が目に見えているような、はっきりしたものではなかったでしょう。
霊感はしょせん、霊感ですからね。

 おまけに、彼は自らイニシャティブを取って創主のみむねに反したのではありませんでしたよね。
愛する妻、イブが反してしまった。
 それを知って、自分も知恵の実を食べてしまいました。

 イブを深く愛し、精神的に一身同体になっていたからでしょう。
自分だけが食べなかったら、自分はエデンの園に残れますけれど、イブは出されます。
イブは一人で苦難の世界で暮らすことになるのです。
アダムは、そんなことさせられなかったのでしょう。

同情の余地、ありますよね。

                    

 では、イブはどうだったか?
 サタンに動かされた蛇の言葉を、「そうなの?」と簡単に受け入れてしまいますね。
これから察するところ、彼女は霊感もあまり強くなくって、創主との交信も薄いものだったのでしょう。
アダムが行動するように、行動していたといったところではないでしょうか。

 おまけに彼女は悪を知りません。
 嘘、偽り、欺しをする存在がいることを経験認識しておりません。
それをサタンが誘導する。
 欺すのは赤子の手をひねるようなものだったのではないでしょうか?

(それもあって、春平太は、これも創造主・イエスの計画の中にあったと解読すべき、とこのブログで書いたのでした。
二人が罪を犯すのも、イエスの計画の一環だったのでは?、と論じましたよね)

                    

 こういう風ですからね、人間の罪は。
 見えないでやっている。
だから、それを悟って悔い改める、ということもあり得ることになります。
対照的に天使は、最初からみんな見えているわけですから。
後から悟るも、悔い改めるも、そういう状況が成り立たないんですね、そもそも。

~~これが、天使には悔い改めと赦しが与えられていない、ことの主要な理由の推測です。
皆さん、どう思われますか?

(続きます)

                    

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Vol.14 「人間と比較しつつ天使を(10)~~悔い改めと赦しが出てこない~~」

2006年11月14日 | “エホバ”の奥義
                    

これまでは天使の、喜ばしい(人間にとって)ところがたくさん出てきました。
今回は、すこし色合いが違います。

 悔い改めと赦しに焦点を当ててみます。
 この二つは、福音の核心ですよね。これがなかったら、福音は成立しません。

 アダムの後の人間は、生まれながらに罪人となっています。
だから、罪を犯します。
けれども、それを悟って悔い改めて、イエスの十字架死と血による救いを真理だと受容したら、罪は許される。
そういういい知らせが福音でした。

                    

 ところが人間のことばかりを勝手に考えていないで、目を天使に転じてみると、なにか違った風景が見えてきます。聖書に天使が悔い改めた場面、悔い改めて許された場面は、見あたりませせん。

 天使の場合は、罪を犯した存在は明確に限定されて出てきます。通常出てくる天使は、創造主に仕えて働いたり、人間を助けたりする天使ですよね。これは罪を犯しておりません。いつも、その意識は創造主のみむねを受容する姿勢で創主に向かっています。

 罪を犯した天使は、サタンと「天の諸々の悪霊」と記されている存在たちです。
サタンは、もとは天使だったということになっています。これはもう聖書を読む者たちは誰も承知のことですよね。

 創造主を讃美する天使軍団の長でした。それがある時、自分も創主のように讃美される立場に立ちたいと望んでしまう。そこで天の創造主の王国の一角に、自分の王国を造ろうとする。配下の天使たちにそこで自分を讃美させようとする。彼らもそれに従います。こうしてサタンと「天の諸々の悪霊」に変質した。聖書ではそういうことになっています。

 ここで天使は自分の与えられた職務に従わなくなっています。創造主のみむねに反しています。だから罪なんですね。天使の犯した罪はこういう風に明確に限定されています。

 だけど、彼らだって、人間と同じ被造物(被造霊)です。
 罪を犯しても、それを悟って悔い改め、イエスを信じたら赦しが得られそうなものです。
だけど、聖書にはそういう記述はありません。

                    

 悔い改めたという記述がないだけではありません。
彼らは、そのままで、最後の審判の時には、火の湖に投げ込まれ、「熱い、熱い」と永遠に苦しむことになっています。
 すると、彼らには、悔い改めも赦しもできないようになっているのではないでしょうか。
そういう存在として、そもそも、創られているのではないでしょうか。
そして、もしそうなら、これはとっても不公平なことではないでしょうか?
人間と比べてですよ。
このあたりは、どうなっているのだろうか。
次回に、考えてみましょう。

(続きます)

                    


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Vol.13 「人間と比較しつつ天使を(9)~~死後、人の霊をパラダイスに連れて行く~~」

2006年11月09日 | “エホバ”の奥義
                    


天使は、いわゆる「救いを受ける者」がこの世の人生を送っている間に助けるだけではないようです。
少なくとも、死後、その霊がパラダイスに行くのをも助けるようです。

ルカ伝にある聖書の次の話をご覧ください。

~~ある金持ちが、毎日贅沢に遊び暮らしていました。
その地に、ラザロという貧乏人がいました。
ラザロは全身、できもので覆われていました。
(当時は今のように医療が普及していないので、
貧しい者は薬を塗ることも出来なかったのでしょう)

ラザロは、金持ちの玄関の前に座って、その食卓から落ちるもの
(しもべが掃き集めてゴミとして捨てるのでしょう)で飢えをしのぎたいと願いました。
犬が来て彼のできものをなめていました。

その後、貧乏人ラザロは死にました。
すると、天使が彼(の霊)をアブラハム(信仰の父と言われる、信頼深かった人。ユダヤ民族の祖先とされている)
のふところに連れて行きました。こうして彼は、死後に慰められることになったのです。

 聖句はこうなっています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「さて、この貧乏人は死んで、天使たちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。」
(ルカによる福音書、22節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                     

 この話はまだ続きますが、とにかくイエスのこのメッセージは、たとえ話ではありません。
聖書ではイエスは霊界が見える存在となっています。
しかも、人類が出来る以前から存在していた創造主の子となっています。
かつてあった話を民衆にしているのです。

 で、ここで「天使たちが貧乏人だったラザロの霊を、アブラハムのもとに連れて行った」というのも、
霊界で起きた事実だと解していいでしょう。

 ついでに言いますと、このアブラハムのふところというのは、天国ではありません。
天の創造主の王国は、「最後の審判」の後にならないと、人の霊が入ることはありません。
これはそのず~と前の話ですから、天国ではないのです。

 ではどこか、と言うことになりますが、春平太はパラダイスと解していいだろうと思っています。
これは天国ではなく、この宇宙の中の何処かにある、空間だと思われます。
そこは、イエスを信頼した人の霊(深く信頼すると「世」では不適応症になりがちですので、
世では苦しむことが多きなります)が、休むところだと思われます。

 とにかく本来そうであるころに、天使たちは、ラザロの霊をも連れて行っているわけです。
彼は信仰者だったのでしょうか。あるいは、哀れな生涯に対して「哀れみ」を受けたのでしょうか。
そこはわかりませんが、ともかく、天使が連れて行っていると、間違いなく記されています。

                    
 
 イエス信頼者についてそんなこと、現実にあるのか?
それらしい話を、春平太は一度ならず聞いたことがあります。
信頼心の深い人が、臨終を迎えるとき、「ああ、天使がそこにきている・・・」
といった、という出来事を親族の方が語るのを何回か聞いた。
 
 そうしたことから人間の霊は、肉体を着ている間は霊界の認知が容易ではないのですが、
肉体を抜けると、結構霊界がよく見えるようになるのではないか、と思います。

                    

 このラザロの話の続きも、それを示唆しています。
 
 ~~さて、ラザロだけでなく、金持ちも死にました。
彼は黄泉(くらいところ、という意味)で、炎に焼かれて苦しんでいました。
彼は言いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「父、アブラハムよ(我が民族の祖先、アブラハムよ、という意味)、私を哀れんでください。
あなたの懐にいるラザロの指先を水で濡らし、こちらに送って私の下を冷やさせてください」
(ルカによる福音書、16章24節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 なお、ここは聖書に出てくるハデス(火のあるところ。これも宇宙の中に何処かにあると解読できる)
ではないかと思われますが、とにかくそれに対してアブラハムはこう言います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「子よ(ユダヤ民族の子孫よ)、あなたは「世」で良いものを受け、ラザロは悪いものを受けました。
そして今、彼は慰められ、あなたはそこで苦しんでいるのです。」(「ルカ」16章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~~また言いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私たちとあなたの間には、大きな淵(河などの水がよどんで深いところ)があるのです。
お互いにそれを超えて行き来することは出来ません」(ルカ、16章26節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すると金持ちは、せめて自分の5人の兄弟だけでも救おうと~~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ではせめて、ラザロを私の兄弟たちのところに送って、悔い改めるようにしてください」
(ルカ、16章27~28節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   ~~と頼みます。


ここで元金持ちは、大きな淵をこえた向こう側にいるアブラハムが見えているんですね。
アブラハムもまた元金持ちを見てメッセージを送っています。
霊になるとこんなにも霊界が見えるんですね。
 
 だったら、肉体がすっかり弱って、霊がそこを抜けようとしている臨終の人の霊に、
近くに来た天使たちが見えることは、あるのではないか、と思わます。

 話は余談に入りましたが、とにかく、この様にして天使たちは、
イエス信頼者の死後の霊を、パラダイスに連れて行く仕事もするように推察されます。

(続きます)


                    

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Vol.12 「人間と比較しつつ天使を(8)~~「救いを受ける者」を助ける~~」

2006年11月07日 | “エホバ”の奥義
                    

 天使は、創造主に仕える霊でしたね。
 でも、聖書をよく見ると、それだけではないようです。
彼らは人間に仕えることもあるという論理にもなっています。
つぎの聖句をご覧下さい~~


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「御使いたちはみな仕える霊であって、
救いを相続する人々に仕えるために遣わされたのではありませんか」
(ヘブル人への手紙、1章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~~ここで、「救いを相続(受け継ぐ)人々」というのは、
イエスの言葉を信頼して、いわゆる「救い」を受ける人々です。
信頼者(信仰者)ですね。
 で、天使は「この人たちに仕えるために遣わされた」とも、
言ってるんですね、この聖句は。

 驚いた・・・。
 人間にですよ、あの権能ある天使が・・。

                    


 ただし、「仕える」といっても、人間は天使が見えませんので、
これに具体的に命令する、ということは実際上はすくないでしょうね。
 この場合の働きは、天使の方が能動的にならざるを得ません。
人間は受動的に「仕えられる」ことになります。
ということは、実際には「助けられる」ということですね。

 天使が助けるのです。
 
そういうことってありますか?
 そうですね、天使は見えませんので、確実に「天使が助けてくれた」と事態がもしあったとしても、
それを目で確かめられるケースは少ないでしょう。
 でも、人間には、ある程度の霊感というのもあります。
第六感「ピーンと来る」という奴ですね。
「ああ、これはなにか見えない力が働いたのではないか・・」と。

                    


 そういう証言事例は、結構多いようです。
たとえば、ならずものが気がむしゃくしゃして、誰でもいいから傷つけてやろう、
あるいは、お金を喝(かつ)あげてやろうと、イエス信頼者に目を付けたとします。
そうして、接近はしたけれど、急に何故か「やる気」がフ~と失せてしまった、
とかいう事態です。
で「今日は止めとくか・・・」となってしまう。
そういう事象はあるようです。

あるいは、こんなケース。
 対向2車線で、中央分離帯がない車道が日本には多いですよね。
もちろん、アメリカにも田舎にあります。
この場合、人は実は対向車の運転手にいのちを預けているようなところがあります。

 次々にすれ違っていくクルマの内の、ある一台がセンターラインを超えてきたら、おしまいです。
これはもう、自分の努力ではどうにも出来ません。

 しかし、天使はこう言うときにも助けに入りうる、と考えられます。
 ある対向車がイエス信頼者のクルマに正面衝突するような可能性で、
たとえば眠気に襲われながら運転してきたとします。
天使はそういうのを前もって知ることが出来ます。

 すると、その前に、当の対向車の運転手がぱっとわれに返るようにします。
あるいは、信頼者が急にスピードを緩めたくなるようにして、
対向車がセンターラインを超えた地点に一致しないようにする。
 そういうこともあるかも知れません。

                    


 「使徒行伝」12章には、そういう「助け」が信頼者にはっきりわかる形で、
天使によってなされた事態が記されています。
使徒ペテロが、福音を伝えた廉(かど)で、ユダヤの王様ヘロデ王に、
二本の鎖で繋がれて牢屋に入れられます。
「四人一組の兵士、四組に引き渡して監視させた」(使徒行伝、12章4節)

~~とありますから、厳重な監視体制下に置かれました。

 ところが、夜中に天使が来てペテロの脇腹をたたいて起こします。
鎖がパラリとペテロの手から落ちます。
「上着を着て、私(天使)にいついてきなさい」といわれて外に向かってついて行くと、
町に通じる鉄の門も独りでに開いてしまいます。
こうしてペテロは救い出された、と聖書は記録しています。

 ついて行ったんだから、天使は見えていたのでしょうね、この場合は。

                    

 こういう事態は、同じ「使徒行伝」5章にも記されています。

 イエスの使徒たちが、エルサレムの宮殿の中の「ソロモンの廊」というところで、
やってきた町の人々の病気を全部癒してしまいます。悪霊も追い出してあげます。
 で、それをねたんだユダヤ教の大祭司たちに、留置場に入れられてしまいます。
 ところがここでも~~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「夜、主の使い(天使)が牢の戸を開き、彼らを連れ出し、
『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい』
と言った」(使徒行伝、5章19~20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
~~とあります。

                    

 上記の場合は、天使は、使徒たちの目に見える状態で、助けています。
 この世に教会が立ち上げられていく時には、こんなダイナミックな形で、
天使は助けたのでしょうか。
 あるいは、使徒たちの信頼心が、現代の信頼者をはるか凌駕した深いものだったからでしょうか。

 それはわかりませんが、現代においても、霊感で感知できる働きは、たくさんあるようです。
 また、南米に宣教に行った宣教師の家族が、天使によって命を守られたという話を、
アラバマにいたとき聞きました。
この場合は、襲おうとした強盗たちに、天使がはっきり見えたということでした。
捕らえられた彼らの告白で、それが明らかになったとのことでした。

夢のある話やね。
長くなるので、このへんで。


(続きます)

                    


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臨時版:中高生「いじめ」自殺の構造

2006年11月03日 | “エホバ”の奥義
                    


中高生が、相次いで「いじめ」で自殺するようになりました。
根底原因は、自分の存在価値を強く感じられないところにあります。
無常感の強い我が国では、「どうせ死んでおしまい」という気持が心の底にあって、それが自分の存在価値感を常時針で刺しているのです。

(どうせ死んでおしまいでしょ、存在価値なんてないよ・・・と)

それは真理であって、どう変えることも出来ないと思っている。
これには対抗する言葉が必要です。
しかもよほど強くないと、歴史的に染みついた無常感に打ち勝てません。

で、日本の中高生は、自己価値感の欠乏にあえいでいます。
日本人全体がそうです。
大人も年間3万人を超える人が自殺している世界で異例の自殺大国です。
が、中高生はナイーブですから無常感にまともに襲われています。

そこに「うざい」「汚い」「不潔」とかいう言葉を学校生活の場で投げ続けられたらどうなりますか。
自己価値感、自価意識に極度に欠乏していきます。
自分の存在価値がないという意識に追い込まれたら、「存在を絶とうかなあ・・」という意識が芽生えます。
芽生えるとそれが当人を引き込みます。

                    

<自己防衛のために>

日本人のほとんどに言えることですが、中高生も自価意識(自分が存在価値ある、という意識)希薄症候群から逃れる方法を、一つしか知りません。
それは「他者を自分より価値のないものと思う」という方法です。
そういう比較によって手っ取り早く、自価感希薄症から心理的に逃れようとするのです。

で、誰かそう思いやすい対象を探す。自分より劣っている奴を探します。それを「ダメな奴、ダメだ、ダメだ」という言葉を投げかけていじめます。そうやって自分の存在価値感を守ろうとしている。心理構造は透けて見えるものです。


最初は軽い気持で仲間に加わっても、やり始めると、どんどんのめり込んでいくことになります。
いじめている方も、自己価値感を得ようとして必死なのですからね。
で、始めると、どんどん何者かに背中を押されていきます。
そしてこれが同時に他者の最も弱いところを針で刺し、苦しめるものとなっているんです。
恐ろしいことですね。

                    


<表層的な対処策>

他者と比較する方法は、表層的な対処法であって、最も効果の少ないものです。
こういう対処療法では、自らの希薄症の打開は出来ないのです。
他者を生け贄にして、逃げ回っているだけ。

最近、教師が2時間ほど説教したら、簡単に自殺した野球部員の中学生が出ましたよね。
クラスメートに、簡単な遺書など見せて、「俺は死ぬからな」と軽く言っていたといいます。

こういう風に、自殺が波及していきます。
彼の状態にまででいかないにせよ、そのすぐ近い心理水準のところに多数の中高生がいるのです。そして彼等は、簡単に自殺を図るか、あるいは、「虐め屋になるか」どちらかの予備軍です。

ともあれこういう事例が出たいま、ほとんどの学校も教師も、子供に「腫れ物に触るよう」に接することになるでしょう。死なれたんじゃたまらないもんね。
もともと教師にある「事なかれ主義」がそういう行動を取らせるでしょう。

                    


<「わがまま、横暴」気質は恐ろしいもの>

そしてこのことは、すごい勢いで子供をダメにしていくでしょう。
その仕組みは、「天使が軍団として作られた理由(Vol.10)」のところで述べました。

多くの中高生は、これによって、わがままで、横暴に育てられるでしょう。
そして、一旦なった状態で成人したら、もう、大きな病気で肉体を苦しめられるしか、矯正の道はない。
このことも「Vol.10」のところで述べました。

いま日本でこれが始まりました。
これ、このままでは、国を滅ぼしますよ。

                    

若い娘を、監禁して、自分を王様、ご主人様と呼ばせ、隷従させていた金持ちの「甘やかされ息子」がニュースになりましたよね。
 これも自己が価値ある存在という感覚を、必死になって得ようとしている姿でありまして、「いじめ」と共通しています。
「どうせ死んでおしまい」という根底意識がなかったら、こんなことしないのです。

大人の、家庭での幼い子供への虐待も、ほとんどがそれを根底動機にしています。
「この子供はダメだから、教育してやらねば」、という気持の底には、そうして自分が価値あるという感覚を懸命に保とうとしている姿があるのです。
そういう動機ですから、すぐにエスカレートしていきます。

このままでは、こういう大人、子供の予備軍が膨大な数、出現するでしょう。
文部行政などでは対処できなくなるでしょう。
おそろしいことです。

                    

この問題に根底から対処する力を持つものは、「人間死んでおしまいでない、永続する」と確信を持っていう言葉だけです。そして、それを積極的に、強く伝えられているのは聖書しかありません。

キリスト教ではありません。キリスト教には色々ありますからね。
宗教ではない。
聖書という本です。
他にもその種の本はありますけれども、みんな強い提示が出来てないです。
「人間は永続する」という言葉を確信強く言えるための壮大な論理体系がないから。

聖書のこの「よき」側面を、どうやって知らせようか。
これは緊急事態に思えてなりません。
春平太は日本人として速くそれを知らせる義務のようなものを感じています。
実際に出来るかわかりませんが、場合によっては、このブログの更新が少なくなっていくかも知れません。

                      
コメント (9)
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