前回、エホバには、人間の罪を許す権限は委任されていない、と述べました。
今回は、その理由に思いをはせてみましょう。
<「赦し」は軍人には出来ない>
創造主が、その権限を与えなかったのは、全く恣意的に(気ままに)だったのでしょうか。そうではなかろうと思われます。
エホバが天使ならばの話ですが、その場合おそらく一つの理由は、そういう資質がないから、でしょう。
前述しましたように、天使は全て軍人です。エホバ天使は、その中の最高位の軍人なのですね。
天使というのは、軍隊の規律の中で生きる被造霊なのですね。命令ー服従、従わなければ厳罰、という規律です。天使は全員そういうビシッとした組織の中で生き、行動しています。そういう体質の存在として創られています。
エホバも同じです。なおかつ彼は、その組織集団の長です。命令に服従しなかったものを赦していたら、軍としての規律が保てません。基本的にそういう存在なのですね。
そういう存在には、罪を許す権限を与える(委任する)ことは出来ないのではないでしょうか。軍人は、罪を犯すものは、厳しく罰するのみです。なのに、(これこれの場合には)人間の罪を許せ、と命じられたら、エホバ天使はもう混乱してしまうんではないでしょうか。
<拝される権限は委任するが筋>
その一方で、人間に拝される権限は委任されているのではないでしょうか。同じく「出エジプト記」の20章、エホバがモーセに十戒を与える場面でこう記されています。
「・・・それら(偶像)を拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、エホバであるわたしは、ねたむ神・・・」(出エジプト記、20章2節)
ここでエホバは、「私を拝め」とはあからさまに言ってはいませんが、「偶像を拝むな」という一方で、自分を「ねたむ神」といっていることからして、「私だけを拝め」と命じていると読むことが出来ます。
そしてこの「拝される」という役割は、彼の資質に適合していることでもあるんですよね。軍人は下位のものから常に敬礼されていますから。ましてやその最高位の軍人は、もう、敬礼されっぱなし。天使にぴったりの権限です。
もちろん、天使は基本的には拝まれるべき存在ではありませんよ。「創造主だけが拝される方」というのは聖書の大原則です。
しかし、それは一般論としてそうであるんですね。創造主がその拝される権限を、必要によって特任を果たす天使に委任するというのは、ありうるでしょう。一般論は、表義(表面に現れた意味)ですが、これは奥義です。
拝されるべきは万物の創造主お一人です。しかし、その権威を持つ方が、職務遂行のために拝される権威を与えた。その場合は、与えられた被造物は、拝されていい、ということです。
それでもしっくり来ない人はこう考えたらいいでしょう。まず、エホバ天使に「人間(ユダヤ人)に、創主として臨め」という特命が下されました。エホバはその任務を忠実に遂行しているわけです。で、人間に対してそう臨んでいながら、人間が彼を拝もうとしたらあわくって~~、
「やめてくれ! 創造主だけを拝んでくれ!」
~~といったらどうなりますか?
天使だということが、ばれてしまうのではありませんか。それではエホバは特任を果たせません。だから、創造主は彼に、「拝される権限」は委任する。これは筋の通ったこと、創主が理の神でもあることと矛盾しないことであります。