聖書という書物にわれわれ人間が取り組む際には、ふたつの姿勢があります。
一つは、これでもって心の平安を得ようとする姿勢です。
これは、現時点で悩みがあって、苦しむと、この姿勢をとりやすいです。
この場合には、たとえばイエスの次の言葉が心にしみます。
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「すべて,疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしからまなびなさい。
そうすれば、たましいに安らぎがきます。
わたしのくぎきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
(マタイによる福音書、11章28-9節)
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苦しいときには、このことばが実際に心の平安を与えてくれます。
すると人は、これに繋がる聖句をさらに味わっていきます。
<全存在界を知りたいという姿勢>
第二は、、見える世界(物質界),見えない世界(霊界)をも含む、存在界全体を知ろうとする姿勢です。
こちらは比較的知的な姿勢です。
物質世界を認識する際に用いられるのが五感覚(五感・・・視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)です。
この人はそれに、霊感をも積極的に加えます。
この両者でもって認識世界を霊界にも拡大して、世界の全体的認識を得ようというのです。
<姿勢はアプローチとも言われる>
ちなみに、この「姿勢」のことを英語ではアプローチと言います。
アプローチは接近という意味ですが、この場合は対象に接近していく姿勢、といったニュアンスで用いられます。
<豊かな思想内容>
第二のアプローチは、聖書という教典でこそとれる、ともいうべき、独特の姿勢です。
もちろん、他の宗教経典にも探求さるべき内容は皆無ではありません。
けれども、教典は日常語に訳されていないと、内容の探索はむずかしく、当面、本格的に訳されている教典は聖書のみです。
また、探求する毎にその豊かさが感銘を与える世界を、聖書メッセージは持っています。
<在物神信仰に混ざっていく可能性>
これに対して、第一のアプローチは、それだけを続けていると、在物神信仰と混じり合う可能性を持ってきます。
在物神は、鹿嶋の造語で、「物的な存在物の中に染み込んでいるとイメージされる神」です。
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石や木材や金属でつくった像に祈る人は、そのなかに神様が染み込んでいるとイメージして拝んでいます。
つくられた建物のなかにいるとイメージされる神様もいます。
さらに、空や川や海や山にも神様の内在がイメージされることもあります。
奈良の三輪神社のご神体は、三輪山という山です。
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なお、神とは「見えない影響者」と理解しておいていいでしょう。
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ところが聖書の神は、それらのもの全てを創った創造神なのです。
この神のイメージを在物神イメージと混同していったら、聖書メッセージの核心と外れることになってしまいます。
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けれどもわれわれ人間は、在物神にとにかく願い、求め、すがるという心理を持っています。
そして、日本では在物神信仰がとても盛んなのです。
そこで、日本人は特に、在物神的なイメージを抱いて,聖書の神に祈り求め易くなります。
しかし、中には、第一のアプローチを採っていて、そのうちに第二の道にも入っていく人もでます。
そうすると、その人の願いは知的にも霊的にも豊かなものになっていきます。
<アプローチには二つがあることをまずとにかく知る>
鳥瞰してみると、これら二つの取り組み姿勢(アプローチ)は、基本的にはどちらをとってもいいものです。
ではありますが、まずは我々は、こういう二つのアプローチを聖書という書物は許容するものだということを、自覚することが大切だと思います。