鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

随想6.聖書に対する二つの姿勢

2016年10月31日 | 随想






聖書という書物にわれわれ人間が取り組む際には、ふたつの姿勢があります。




一つは、これでもって心の平安を得ようとする姿勢です。

これは、現時点で悩みがあって、苦しむと、この姿勢をとりやすいです。

この場合には、たとえばイエスの次の言葉が心にしみます。




・・・・・・・・・・・・・・・・・

「すべて,疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしからまなびなさい。

そうすれば、たましいに安らぎがきます。

わたしのくぎきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」

(マタイによる福音書、11章28-9節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・





苦しいときには、このことばが実際に心の平安を与えてくれます。

すると人は、これに繋がる聖句をさらに味わっていきます。





<全存在界を知りたいという姿勢>


第二は、、見える世界(物質界),見えない世界(霊界)をも含む、存在界全体を知ろうとする姿勢です。

こちらは比較的知的な姿勢です。

物質世界を認識する際に用いられるのが五感覚(五感・・・視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)です。

この人はそれに、霊感をも積極的に加えます。

この両者でもって認識世界を霊界にも拡大して、世界の全体的認識を得ようというのです。





<姿勢はアプローチとも言われる>

ちなみに、この「姿勢」のことを英語ではアプローチと言います。

アプローチは接近という意味ですが、この場合は対象に接近していく姿勢、といったニュアンスで用いられます。




<豊かな思想内容>

第二のアプローチは、聖書という教典でこそとれる、ともいうべき、独特の姿勢です。

もちろん、他の宗教経典にも探求さるべき内容は皆無ではありません。

けれども、教典は日常語に訳されていないと、内容の探索はむずかしく、当面、本格的に訳されている教典は聖書のみです。

また、探求する毎にその豊かさが感銘を与える世界を、聖書メッセージは持っています。





<在物神信仰に混ざっていく可能性>

これに対して、第一のアプローチは、それだけを続けていると、在物神信仰と混じり合う可能性を持ってきます。

在物神は、鹿嶋の造語で、「物的な存在物の中に染み込んでいるとイメージされる神」です。

---

石や木材や金属でつくった像に祈る人は、そのなかに神様が染み込んでいるとイメージして拝んでいます。

つくられた建物のなかにいるとイメージされる神様もいます。

さらに、空や川や海や山にも神様の内在がイメージされることもあります。

奈良の三輪神社のご神体は、三輪山という山です。

---

なお、神とは「見えない影響者」と理解しておいていいでしょう。

---

ところが聖書の神は、それらのもの全てを創った創造神なのです。

この神のイメージを在物神イメージと混同していったら、聖書メッセージの核心と外れることになってしまいます。


---

けれどもわれわれ人間は、在物神にとにかく願い、求め、すがるという心理を持っています。

そして、日本では在物神信仰がとても盛んなのです。

そこで、日本人は特に、在物神的なイメージを抱いて,聖書の神に祈り求め易くなります。




しかし、中には、第一のアプローチを採っていて、そのうちに第二の道にも入っていく人もでます。

そうすると、その人の願いは知的にも霊的にも豊かなものになっていきます。




<アプローチには二つがあることをまずとにかく知る>


鳥瞰してみると、これら二つの取り組み姿勢(アプローチ)は、基本的にはどちらをとってもいいものです。

ではありますが、まずは我々は、こういう二つのアプローチを聖書という書物は許容するものだということを、自覚することが大切だと思います。






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随想5.セルフバリュー意識と自己神欲

2016年10月24日 | 随想





少し理屈っぽい話をしましょう。




<自価感覚と自価理念>

セルフバリュー(自価)感覚の「感覚」とは感性の中に出来るものです。

他方、人間には理性という、物事に筋道を与える認識能力も与えられています。

人はそれでもって、多様で混沌として漠然としている感覚に筋道を与えて、イメージを加工し整理します。

すると、理念が形成されます。






<セルフバリュー(自価)意識は広い概念>

この二つを合わせて、私は「セルフバリュー意識」と読んでいます。

「意識」は感覚も理念も含めた広い言葉(概念)でして、これを使うわけです。

---

感覚は感情となって(理念よりも)心を波立たせる力が大きいです。

だからこちらの心理の方が自覚しやすいです。

そこでそれが、セルフバリュー意識理解の近道と考えて、「感覚」の方から話を始めてきたのです。






<「自己神欲」との関係>

さて自価(セルフバリュー)意識に、かねがね私が用いてきたもう一つの心理用語「自己神欲」を、関係づけてみましょう。

自己神欲とは、「自分を絶対上位の存在にしたい」という欲求心理です。

---

これは聖書的には、アダムとイブが悪魔にそそのかされて「自分も創造神のようになりたい」と思い、行動したことに由来する心理となります。

以来、人間にはこの心理が多かれ少なかれ根付いてしまっている、~というが聖書が示唆する人間認識です。

---

が、ともあれ事実として、人間の心の底にはこの自己神欲心理が、多かれ少なかれ根付いている。

その欲求が肥大してしまっている人の悲劇と対策を、私は、アマゾンのKindle電子ブックで先行的に論じました。

『自己神欲が諸悪を産む』Kindle、がそれです。

---

けれどもお読みくださった方には、何かもう一つハッキリしないところがあったと思います。

ここで、もう一つの心理「自価意識」と比較してみましょう。

そうすると,自己神欲の心理も、もう少し明確に浮上してきます。





<自価意識は大きいほどいい>

二つは一見似たようなものに見えます。

だが、その実、似て非なるものです。

セルフバリュー意識は、自分の存在が価値あるという意識です。

これは、あればあるほどいい。どんどん求めていい心理です。


この心理はたとえば、知識を得る際にも、大きいほど精神を活性化し、知識獲得にプラスに働きます。





<自己神欲は小さいほどいい>

対して、自己神欲は、出来ればない方がいいものです。

この心理は肥大しているほどに、知識の習得に害を与えます。

他者からものを学ぶ、という行動を、この欲求がブロックするのです。





<三枚目になれない>

なぜなら、他者からものを学ぶ場面では、教える側がかっこいい二枚目です。

教えられる側は、相対的に、ひょうきんな三枚目となります。

自己神欲が肥大した人は、自分を三枚目にすることがどうしても出来ないのです。

そうなるのは、「自分を神のようにしたい」という欲求に逆らうからです。


端的にいえば、この人は「三枚目になるのが死ぬより辛い」のです。


---

余談です。

鹿嶋は教育の現場で40年働いてきて、自己神欲が強くなってしまっている学生をしばしば観察してきました。

中には数は多くはありませんが、こういう端的な例もありました。


大学には、ゼミという、一人の教師を選んでその研究室で彼の学問を集中的に学ぶ制度があります。

そのことを知ってゼミに入ってきながらも、自己神欲肥大の学生は、私からも、何も学びませんでした。

学んでいるというジャスチャーはしますよ。

だけど、心が三枚目になれないので、「まず素直に受け入れてみる」ということができないのです。


結局、教師の学問をなにも取得しないで卒業していく、という人もいました。

特別なケースですけどね。


---


こういう人は、卒業後も知的に成長していませんでした。

会社に入っても、やはり、上司から虚心坦懐に学ぶと言うことが出来ないのでしょう。

その結果、普通の人なら他者から当然学んで持っているべき知識、・・・これのない大人になります。

知識が幼稚なままで、身体だけ大きくなったという観の大人です。




<ゴロニャンと可愛くなれるか>

鹿嶋は、人が知的に成長を続けるには、教えてくれそうな人の前で、瞬間的に三枚目になれる能力が必須に思っています。

端的に言えば、相手の懐に飛び込んで「ゴロニャンと可愛くなる」・・・これが出来るかどうかは、人生を左右すると思っています。




<自己神欲は誘惑多き劇薬>


話を戻します。

セルフバリュー意識と自己神欲との関係には微妙な面があります。

自己神欲の充足は、セルフバリュー増幅の一手段の位置も占めているのです。

つまり、人は自己神欲を充足すると、一時的ながら、セルフバリューが高まった気分になるのですね。

---

ところが、これは長期的には邪道なのです。

自己神欲を満たしたとき、人は、他者の上位に自分を意識しています。

その意識は他者を下位に見下す香りを発しています。

時がたつと、人はそれを感じて不快感を抱きます。

---

こうして結局長期的には他者に嫌われることになるのです。

そういうことは当事者も結局認識することになります。

そしてその認識は彼のセルフバリューを著しく損ないます。

---

自己神欲の充足は、セルフバリュー増大を志向する人間には一つの誘惑になります。

だが、それは長期的には、自価意識を損なう劇薬になるのです。






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随想4. ”いじめ”もセルフバリュー欠乏から

2016年10月23日 | 随想




いま、特に日本で悲劇をもたらしつつある「いじめ」・・・この究極原因もいじめる側のセルフバリュー感欠如にあります。


前回、鹿嶋は書きました。



・・・・・・・・・・・・・・
(実に人間は、自価感覚を求める生きものです。
   その感覚が、根底的に欠乏状態にあるからです)
・・・・・・・・・・・・・・



日本では多くの若者が、自価感覚の欠如にさいなまれて生きているのです。





<「いじめ」の心理構造>

「いじめ」るグループの生徒は、とりわけ、自分自身がこの感覚に苦しんで学校生活を送っています。

その一つの原因は、世間の常識、学校での常識的価値観にあります。


世間の主要価値基準は、生徒の偏差値的知的水準に照準をあてています。

彼らは、その価値基準では自らを低く評価せざるを得ない状況に苦しんでいるのです。


---

たとえば、通っている学校が偏差値が低いとみられていたりします。

すると生徒は学校名を隠したりする状況の中で生活します。


あるいは知的イメージの高い学校にいながらも、勉強がついて行かれなくて実質、授業中ボーとしているしかない生徒もいます。


こうした若者の心の内では、自分が劣等であるという認識が形成されます。


その劣等感が、彼らのセルフバリューを傷つけ続ける。

彼らは、自分の劣等感で自分の自価感覚を、自ら傷つける日々を送っているのです。





<養子回し>


幼年時代に、あちこちの親類に養子として、いわば「養子回し」をされた人間も、セルフバリュー希薄感にさいなまれていることが多いです。

これに無感覚な大人の多い地域がある。

とりわけ東北にはそれが多く、当たり前のごとくに「養子回し」が慣習化している傾向さえみられます。



・・・これは悪しき風習ですよ。

ホントに悪いくせだ。




NHKTVに「ファミリーヒストリー」という番組は、有名人の親族の歴史を掘り出し紹介していきます。

そこで斉藤由貴さん(女優)が取り上げられたときにもそれが現れていました。

彼女の親族には、簡単に「養子回し」をされている人が複数いました。


+++

養子回しをされると、その都度当人のセルフバリューは削がれます。

子供心にも、「自分はいらない子なんだ」と実感せざるを得ないのですから。


親に簡単に親類に養子回しされた時の子供の苦しみはトラウマとなって残ります。






大人になって、その自価意識欠如感に苦しむ人と筆者は接したこともありました。

福島出身の人でした。

クリスチャンになっても、平安が得られず、教会に加わっても他のクリスチャンの平安を乱しに行く行為が見られました。

ルターが宗教改革で主張した「信じるだけで救われる」という教えに安住できず、「働きがないと救われない」と思ってしまう。

するといわゆる「信仰義認」による平安が得られず、不安の中に入ることになります。

だが幼少時のトラウマが残る意識波動には、その方が合うのです。

+++


すると聖書もよく読み、信仰行動も激しさを増しますが、その激しさでもって、出向いた教会で他者の信仰にも切り込んでいく。

その説得を受けて、「信仰義認」を捨てるに至り、長年働いた教会から信徒の投票で放逐された牧師さえ出ました。

+++

このように、自価意識、セルフバリュー感は人間が生きる上で、巨大な働きをするのです。




<自己神欲も肥大させる>


なお付言すれば~

 幼年時代に自価意識をそがれた子供には、反動として、自己神欲が肥大することも多いです。

「自己神欲」とは「自分を神のようにしたいという欲望」をいいます。

これも大きな問題です。

鹿嶋のキンドルブック『自己神欲が諸悪を産む』をご参照ください。


+++

話を、いじめる側の生徒に戻します。





---

彼らは、そういう自分を距離を置いて眺める知性を持つには至っていません。

だから結果的に、そういう自分を自覚することが出来ない。

---






<痛めつけて、「自分より劣等!」と言い聞かせる>


するとどうするか。

彼らは、自分よりも劣等と思える生徒を見つけ、これを痛めつけようとします。

そうすることによって、自分より劣等な人間がいるのだ、と自分に言い聞かせられるのです。


痛めつけることによって、「こいつは(自分より)劣等だ,劣等だ」と自分に言い聞かせているのです。


その行為によって、自分の劣等意識を一時的に放念できるのです。


もちろんこれは一時的な方法、安易な方法です。

だが、彼らはその行為に走らざるを得ないほど、自ら苦しんでいるのです。


「いじめ」の行為は、自分のセルフバリュー欠如のつかの間の忘却を求める、はかない願望の表れなのです。





<自価感覚破壊が自殺を生む>


だけど、いじめられている子供はもっと悲劇だよ。


彼らは、元々希薄な自価感覚を、「お前は駄目なヤツだ」とさらに破壊されます。

こうしていじめられる生徒は、ごく自然に生きる意欲を失い、自然に死に向かっていくのです。



繰り返しますが、セルフバリューがなくなると、人は生きられなくなるのです。





<平成元禄田舎芝居>


ところが日本の大人にこの洞察が全然ありません。


テレビのコメンテーターは、知識人顔してしゃべっています。

流行の心理理論を当てはめて、したり顔で浅薄な高説を述べている。


司会者も、「フン、フン」と感心顔でうなずいている。


~これは


---

「平成元禄田舎芝居」

---



~だね!!・・・。





<分析から前に進めない>


こんなお粗末な認識をしていたら、いつまでたっても、打開策は出ないよ。

したり顔の「分析」しかできない。


特に、文科省の人々、TVディレクターは自価意識の概念をすぐにでも知るべきです。

そしていまの自然なままの社会状態のなかでは、セルフバリューを殺がれ、苦しんでいる若者がたくさんいること。

~これを認識することです。



---

まずとにかく、自価感覚という心理に目覚めること。

鹿嶋もこのキーワードに、もう少し砥石をあてて、エッジの効いたものにするべき努力をする所存です。







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随想3.愛されると嬉しいのもセルフバリュー増による

2016年10月22日 | 随想





愛を受けると気持ちがいいという心理も、セルフバリュー(自価)感覚が説明してくれます。

愛とは、相手を大切に思う思いです。

思いは波動(エネルギー)であり、その波動は相手を包みます。

---

このように愛されると「あなたは大切な存在ですよ」という波動を受けるのです。

すると、セルフバリューが増します。

だから、気持ちよく、うれしいのです。

(実に人間は、セルフバリューを求める生きものです。
   その感覚が、根底的に欠乏状態にあるからでもあります。
    理由は、後に機会あれば述べましょう)





<創造神を愛し、人を愛しなさい>

イエスは人間に大切なこととして、次の二つを教えました。


① まず第一に創造神を全身全霊をこめて愛せよ。

② 第二に、隣人を自分と同じように愛しなさい。

(マルコによる福音書、12章33節)


---

創造神は人間を、第一義的には、「御子イエスが死を味わうための道」として、創りました。

だけど、単に道具として創っただけでなかった。

これをあわれみ、慈しみ、愛しました。

その深さは、人間が人間を愛するよりも遙かに深い。

自らのいのちを与えるほどに深い、驚異的なのもでした。


---

創造神は創った側で、被造物よりも、絶対的に上位な存在です。

道具として使ったまま、放って置くことも出来るのです。

テレビを作った人間も、テレビ受像器を好きなように使って、古くなったら廃棄するでしょう。


~基本的にその状態であるのに、創造神は人間という被造物を愛しました。

そしてその愛の能力は、人間よりはるか巨大なものでした。

驚異的だった。


この愛を察知したら、セルフバリュー欠乏は一気に解決します。






だからイエスは言うのです。


~この方に、心魂をつくし「あなたは大切な方です」という波動を発しなさいよ。

それを受けたら、創造神は気分がいいよ。


創造神のセルフバリュー感は、自ら充足している。

だが、被造物から「あなたは大切です」という思いの波動を受けたら、やはり、気分はいいよ。


そうすれば、人間の何百倍、何千倍という愛の能力で「あなたも大切だ」という意識波動を発してくださるよ。


だからまず第一に、そういう愛の能力がダントツな創造神に愛の波動を発しなさい。

イエスはそう教えたのですね。





<第二に人間を>


そして、次に人間です。

人間も、「あなたは大切な存在です」という波動を受けると気持ちいい。

すると、自分にも「あなたも大切」という思いを発してくれるよ。


それが諸君のセルフバリュー感覚を増すよ。

すると生きる意欲が増し、やる気も増大するよ。


だから、第二に隣人をも愛しなさい。

自分を愛すると同じ程度に愛しなさい。

これも隣人のセルフバリューを増すよ。

相手もそれに応えてくれるよ。



~イエスは、そう教えたのです。





<人間を超えた認識能力>

余談です。

こんな意識エネルギー波動の法則は、人間の目には見えません。

人間の天才にも、漠然とは感じられるかも知れないが、確信に満ちて語れる知識として認識することは出来ません。


そのことからだけでもイエスが人間を超えた存在であると推察することが出来ます。

「ただものでない」どころではないのです。

---

マタイによる福音書は、次のような天からの声があった、と記しています。


「これは私の愛する子、・・・彼の言うことを聞きなさい」
(17章5節)

---



では、また。







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随想2.セルフバリューは最後の砦

2016年10月21日 | 随想




邦訳作業後の気分転換に、もう少し随想的なことを記させてください。




@@@@@


「自価(じか)感覚」とでも言うべき言葉によって、従来見えなかった人間問題がかなり見えるようになるなぁ。

~かねがね鹿嶋はそう感じ、ものを書きもしてきました。

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自価感覚とは、「自分は存在価値あるという感覚」です。

人は通常、この感覚を漠然と感性に抱いて生きています。

---

(ちなみに、この概念を友人に話したら、「“自価”の“価”って何だ? ああ、価格の価か。

わかりにくいなあ。 英語で言うとセルフバリューだな。これならわかりやすい」

~というコメントをくれました。

友とはありがたいものです。 

以後、自価感覚、自価意識についての話には、このセルフバリューを挿入するように、修正することにしました。

正確にはセルフバリュー感覚、となるかもしれませんが、感覚なんて語はなくても意味は通じる。

そして、簡素であることは、わかりやすさの鍵でもありますので、セルフバリューとも表現することにしました)

---







実はこのセルフバリューは、生きるために決定的に重要な感覚です。

人間これがなくなったら三日と生きられなくなる、といってもいい。

人は食物が無くても、水と自価感覚があれば40日くらいは生きられます。

食物があれば、何十年も生きます。

だが、その間でもあるとき、セルフバリュー感覚がなくなると、突然短期間で死にます。

自価感覚は、まさに、生きるための「最後の砦」なのです。






<人の意識はエネルギーをもつ実体>

量子物理学は、人の意識が波動(エネルギー)であることを示しました。


その波動は人の意識に影響を与えますが、自分の精神にも働きかけます。

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「自分は存在価値がない」という思い、感覚は、ブーメランのように自分の精神にも影響を及ぼします。

すると、自分の精神はその影響を受けて、セルフバリューをなくしていきます。

存続する価値を相殺されると、生きようという意志を根底で相殺されす。

こうして、生きる意欲をなくしていくのです。





その結果、気分は爽快さを失い、もの凄く重い鬱状態になります。

その苦しさに耐えらるのは、せいぜい三日くらいではないでしょうか。

だから人は、セルフバリューが希薄化すると死ぬのです。




@@@@@@@@@@@@


<セルフバリューの供給源は他者の「求め」>


セルフバリュー感の、この世での代表的な供給源は「他者からの”あなたは必要な人”という求め」です。

その代表の一つが、会社からの「働きの要求」です。

定年退職は、それがなくなることでもあります。





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人は年をとると、職場から引退します。

これは、従来職場社会から「自分に求められていたもの」を消滅させます。

するとセルフバリューは、突如急減します。

だから、定年直後に、程度の差こそあれ、人は呆けます。

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さらに、家庭で年金生活をしていて、身体や知能が老化したらどうか。

家族がその人に「求めてくれるもの」がさらになくなります。

この時期、引退亭主がとつぜん大学時代の角帽かぶった若き自分の写真を周囲に配り始めたという事例もあります。

妻は妻で、自分が有名人の知人であることを、やはり、周囲に突然吹聴し始める、という事例もあります。

これもまたセルフバリュー低下への抵抗であります。

老後も食べら続けられるようになった社会での老人問題の核は、このようにセルフバリューの低下という、精神的な事柄にあることが多いです。

---

この話は、また続けましょう。







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随想1.神本主義の世界観

2016年10月13日 | 随想





邦訳書の連載が終わりました。

ここで、鹿嶋の普段思うところを述べさせてください。

------

聖書は神本主義の本だ、というと、一般の人も敢えて否定はしません。

クリスチャンの場合は教会で、そのように教わっています。
  
----

つまり~

創造神は被造物より絶対的に上位にあるという存在観が聖書の存在観だ。

  創造神が上位に立って、被造物を統治している、という世界観だ

~といいます。

聖書の思想は人本主義(人間本位の人間中心主義)ではないよ、といいます。

---

そこまでは漠然とイメージしています。

だが、それが世界の歴史展開にどうつながっているか。

多くの場合、イメージはそこまで繋がってはいません。





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では、創造神が展開する世界史の骨子を述べてみましょう。

聖書の創造神は、父、子、聖霊の三者です。

その創造神が、被造物より上位に立って展開する世界の歴史とはどういうものかを見ましょう。




-------------

創造神の意志は、自らの懐にいる愛する御子イエスのために王国を創り、王座に就かせて統治を続ける状態にすることです。

そういう王国を御子に与えることです。

人間の親が、わが子を他の子よりも愛するように、創造神も御子が一番可愛いのです。



---

その王国が、人々の言う天国です。

正確には、天の創造神王国です。

御子がそこの王座に就き、天国を統治していくようにするのが父なる創造神の意志です。

歴史はそれに向かって展開され、意志が完遂したら、骨子は終わりです。





-------------

そのために、御子にさせるべきことがあります。

・その第一が、悪魔の心にある創造神への殺意の証拠を挙げることです。

    創造神は、その時々にやりたい放題をする神ではありません。

     契約(ルール)に則ってことをなしていく「義の神」です。

     裁きは、証拠が挙がらなければ、行えません。

      その証拠を挙げるために、御子を、人間(人の子)としてこの地上に来させます。
 
    人間は「死のある」存在です。

     御子は「人の子」として、この地上に来て、悪魔に用いられた人間に殺されねばなりません。



---

・第二は、御子が死を体験して、死を知ることです。

    御子は創造神の子であって、永続者であり、死ぬことの無い存在です。

      だから、そのままの状態では、死を体験によって味わって知ることがありません。

     けれども、御子は天国では天使などの被造物を統治せねばなりません。

        被造物には、死があります。

         その死とはどういうものか?

     それは霊が肉体を抜け出ると起きることですが、御子はそれを味わって、体験的にも知る必要があります。

         それによって、被造物をより完全に統治出来るのです。

    そしてこれも死のある「人の子」として地上に来て、悪魔に操作された人間によって、殺されることで成し遂げられます。

----

このようにして、死を味わって知ったら、必要条件は満たされます。

その上で御子は、復活して天に昇って王座に就き、王として天国を完璧に統治するのです。



    

---

さらに、もう一つの仕事をプラスアルファとして創造神は御子に課します。

それは人間に対することです。

そもそも、創造神は人間を、御子がこの世に来る道として創っています。

端的には、自分(と御子)の都合で創っています。

しかも人間を、悪魔の支配するこの世に創っています。

だから、人間はだまされ、罪を犯して、悲惨な人生を送っています。

------

創造神と御子は、この人間を、あわれみ、深く深く愛します。

そこで、人間が天国に来られるためのチャンスを創ります。

いわゆる「救い」を受けるチャンスです。

これが第三といえば第三の、御子の課題です。




------

そのため御子は、悪魔にだまされて人間が抱いてしまっている罪を取り除く手段を創ります。

それは罪の代償として自ら死に、大量の血を死の際に流すことです。

 そして、イエスの死とこの血が罪の代償になると、肯定的に認識した(信じた)ものには、そのようになると定めます。




------------

この第三の課題の内容は微妙です。

  イエスは十字架刑で殺されて救いの機会を創り、復活してこの方法を弟子に「地の果てまでのベ伝えよ」と命じます。

そして命じて、自分はさっさと天国に昇ってしまいます。

あとは「聖霊が助けるよ」といっていなくなってしまうのです。

つまり、そこまでが、御子が天の王座につくための義務なのです。

---

弟子の伝えるところを聞いて、個々の人間がそれを肯定的に受け入れるかどうかは、個々人の自由意志にゆだねられているのです。

人類の全員がこの知らせを信じるようにするのは、御子の義務ではない。

ほとんどの人類が信じなくても、復活した御子は天に入って王座に就くことができるのです。




---

これはどういうことでしょうか。

この救いの機会は、創造神からの人間への「プレゼント」だということです。

プレゼントは、受けることも出来るし、受け取らないことも出来るものです。

これが「救い」の実態です。

創造神が御子に命じて与える「救い」(プレゼント)はそこまでです。





---

「冷たいではないの!」

「勝手じゃないの、勝手に創っておいて・・・」

「どうして全員救わないのよ!」


人間は最初そう感じがちです。

だが、そのとき、人間は、自分本位に、つまり、人本主義的になって考えているのです。

御子が十字架死するのは、ひとえに人間のためであったと思ってしまう。

するとそれは御子の義務であった・・・と考えてしまいます。


すると「だったら全員救うのが当然でしょ!」と、思っていきます。


だがそうすると、実は、信仰も、純粋なものにならないのです。

賛美も、「ワンランク上の方にしている」という意識でのものにならないのです。

不思議ですけど・・・。





---

神本主義では、基本は、人間に何もしないで天国に昇って王座に就くのも、創造神の自由となります。

テレビを作った人間は、テレビ受像器を自由に使って、旧くなったら処分してしまいます。

このようように、「創った側」は「創られた側」より、絶対的に上位にあります。

愛着を持つも持たないも、人間の側の自由です。

創造神はその「創った側」なのです。

そこから出発すると、純化した感謝が湧いてきます。




---

本来創造神は自由に出来る。

なのに人間をあわれみ、深く愛して、救いのチャンスを創った。

御子が、拷問を受け、鞭で身を割かれて大量に血を流し、救いの道を作った。

死ぬのは血を流さなくても、窒息死でも、殴られての即死でも、死ぬことが出来るのです。

なのに、御子は血を流した。

そうやって、プレゼントを創った。

天に昇るために必要ではないのに・・・。

それは感謝なことではないか。

・・・こうなってきます。

----

そして、そのように神本主義的に認識したときに、実は、信仰も純化し、

創造神賛美も、純化した心で出来るのです。




----

御子が王座に就くための必要課題は、厳密に言うと上記の内の第一と第二だけです。

第三の仕事は、人間をあわれみ、深く愛するが故の、プレゼント造りだったのです。

そして、聖書の個々の聖句、個々の出来事、物語は、この骨組みの枠の中に位置づけると、突然明確に理解できてきます。

これが聖書メッセージの神髄に沿った枠組み(骨子)なのですから。


(神本主義の歴史観    完)










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Vol.18   訳者あとがき

2016年10月03日 | バプテスト自由吟味者の道






 本書は、Frank.S.Mead(1954), "The Baptest", Broadman Press, Nashville, Tenesseeの邦訳に訳者解説をつけたものです。

 著者、フランク.S.ミード(1898~1982)は、アメリカに生まれたクリスチャン・ジャーナリストです。

この人は「クリスチャン・ヘラルド誌」の編集長を務めつつ、「クリスチャン・センチュリー」「クリスチャン・へラルド」「リーダーズ.ダイジェスト」等の各誌に、福音関係の論考を執筆する生涯を送っています。

 1951年には、その豊富な情報知識を用いて『合衆国キリスト教派便覧』(第十版はHandobook of Denomination in the United States, Abington Press, Nashville)を出版しています。

 この本は米国に数多くあるキリスト教派を入念かつ客観的に説明した名著で、現在も十版以上の増刷を重ねる、代表的な教派解説書となっています。





 本訳書の原著書の方は、戦前の1934年に初版が上梓された旧い小冊子です。

 こちらは、近代英国に発生しアメリカ国家の基礎構造を築いた、近代バプテストの活動史をコンパクトに描いています。

これもまた名著で、現在も復刻版が販売されているようです。






 けれどもこの小さな本には、一般読者の理解を阻むものが含まれています。

 聖句自由吟味活動は、迫害され続けた運動でした。

権力者は、活動者の群れを周期的に襲い、逮捕、処刑し、その文書を焼き捨てました。

現在残っている歴史資料は、焚書される中でかろうじて流出・残存した少量で、ミードはそれを用いて本書を書いています。

そういう資料に記されている事柄の意味を、後の時代の人間が理解するのは容易ではないのです。

なにせ、理解に必要な背景情報が、権力者によってあらかた覆い隠されてきているのですから。

資料だけでも何回なのに、それを踏まえて書かれる本はそれ以上に、一般読者には理解が困難です。

けれども、本を作る人間は基本的に、一般読者にもわかって欲しいという期待を否定しきれません。

ミードは、多くの場面を「ここは理解できるだろうか・・・」と身もだえながら書いていたのではないでしょうか。

それでもミードは冷静で客観的な叙述に努めてきています。

けれども、最終章でついに、抑制し続けてきた心情が爆発しました!

 これで彼自身がバプテスト自由吟味主義者であることが露呈してしまった。

 もどかしさに耐えきれなくなったからだろうと、訳者は思っています。




  原著書がそういう本ですから、邦訳書もまた、日本の一般読者にはその神髄がわかりにくいでしょう。

さすがの良書も、そのままでは言っていることがわからない。

 理解のためには、最低限、聖句自由吟味活動に関する知識が必要です。

訳者は、その知識を冒頭の解説でもって補充しました。

+++

 訳文も、聖書を開いたこともない一般読者にも違和感の少ないものにしたい、という夢を抱きました。

そこで、一本の連続した巻物のようになっている原文を、あえて区切って章付けしました。




 そういう邦訳書ですが、訳者はこの本に複数の期待を抱いています。

その期待は層をなしています。

第一の期待層は、キリスト教活動の正しい全体像を認識するのに役立ってくれることです。

 第二に願うのは、アメリカという国と、それに主導されている現代世界を理解する手がかりになることです。




 第三の層は、もう一つ奥義的な認識への期待です。

明治維新での開国後、我々は、西欧社会の一端を知りました。

それは従来経験したことのない快適な生活を実現するノウハウを含んでいました。

我々はまず、それは西欧人一般が造ったものと思ってきました。


+++

 ところが第二次大戦での敗戦後、その多くは西欧の中でも、欧州ではなく米国で出来たものだと、漠然と察知するようになりました。




けれども、それを創ったのはアメリカ人一般ではなく、一部の特定の人々だった。

初代教会以来、聖句の自由吟味活動を継承してきている、バプテストとかメノナイトとか呼ばれる人々だった。

彼らのリーダーシップによって、言論自由社会も出来ている。

本書はそのことを知らせてくれています。

読者の認識がここにまで進むのが、期待の第三層です。





そしてもう一つ、最後の究極的な期待層があります。

 自由な快適社会を構築する能力は、肌の色に左右されるものではないという認識に,読者を導くのがそれです。

この資質は、聖句自由吟味を続ける人間全ての内に、芽生え育っていくものなのです。

 そういう、真の意味での、人間の知的・精神的原動力の源の認識に、本訳書が役立ってくれたら最大の喜びです。


2016年10月3日未明、愛知県内の仕事場にて
鹿嶋 春平太














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